いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

「シャンシャン総会」みたいなもの?

2006年11月15日 13時35分12秒 | おかしいぞ
タウンミーティングの問題がジワジワと燃え広がってきたようだ(笑)。しかもサクラ部隊のエキストラには「日当付き」ともなれば、これはちょっとマズかったよね。


何となく、昔の株主総会みたいなもんですかね。私は参加したことはないのですが、物語みたいなイメージでは「異議なーし!!」という感じのサクラ部隊が大量に動員されてたりするんですよね(笑)。今ではそういうこともなくなってきたのだろうけど。


開催担当側の心境を考えると、何となく理解できなくもない。総会とかタウンミーティングで、「段取り」通りに進行させることが求められるだろうし、適度に質問なんかが出るように小細工しておいたりするとか、シナリオに沿った「安定した進行」が一番安心だもんね。なので、運営・進行担当は細かく気を配り、粗相のないように細心の注意を払い、セッティングを準備してしまった、と。気持ち的には判らないでもないが、やはりマズイですよ、これは。


でもですね、一番マズイのは「特定個人」にその失当の責任を負わせるのは、ちょっと酷ではないか?犯罪行為とかならば勿論大問題なのだが、まず、組織的・システム的な問題であって、例えば株主総会の「総会屋担当総務部長」だけにその責任を押し付けるようなものなのではありませんかね。「報ステ」だったかで、その担当だったという当時の広報室長(今は内閣官房参事官)が実名で晒されていたが、これもちょっとどうなんだろう、とは思う。株主総会で「株主社員を動員指示する係りの人」とかだけに責任を負わせるか?普通。それは企業組織が問題なのであり、「総会屋」との関わりが問題であったりするわけでしょ?


所謂特ダネを取ろうと思って直接の当事者に取材する場合には、ソースを完全秘匿し、情報提供者を最後まで守り抜くことで「情報を引き出す」という取材は有り得ると思うのだが、個人そのものをいきなり晒してしまえば、やはり「徹底的にバッシング」するターゲットを「ロックオン」状態(笑)にするということにしかならないのではないかと思う。文科省もちょっと酷くないですか?何も、現段階で特定しなくてもいいんじゃないのかな。「会社」が守ってくれなくて、初めから「生贄」として捧げられる社員の身にもなってごらんなさいな。酷いよ、やっぱり。

少なくとも、現段階では「詳細を調査中です」とか、「正確な事実関係を調査中ですので、最終調査結果が出るまで関与した個人についての責任等の判断につきましては、予断を与える恐れもあることから差し控えさせて頂きます」とか、言えるように思えますがね。組織から人身御供のように切り捨てられるということなら、辛すぎるのでは。局長クラス?より上の判断では、「トカゲの尻尾切り」で終わらせようということなのかもしれないけど。


もしもこのような「仕込み」をしてないとどういう事態が想定されるでしょうか。ひょっとして、共産党員、日教組関連、人権・市民団体等の方たちが「大挙」して押しかけ、大臣を吊るし上げにするとか?(笑)もしもそういうのが本当に行われるとすれば、それはそれでちょっと見てみたい気もしますが(ゴメンナサイ、不謹慎ですか、やっぱり。悪乗りでした)。まるでNHKの「それから」シリーズものみたいな感じで(笑)、会場の参加者たちがヒートアップしていったりとか、過激な意見がバシバシ出されたりとか?ああ、そうだな積極的な賛成の立場の人たちはあんまり来ないか。「~~はんたーい」とか、「権力は悪だー、政府の横暴を許すなー」というような方々が積極的に参加しそうかも、やっぱり。ホラ、「弁護士 灰島秀樹」というドラマに出てきた「住民説明会」の会場の雰囲気みたいな。ドラマの影響を受け過ぎでしょうか(笑、現実もそうだと信じている訳ではありませんよ)。


<ちょっと寄り道:
灰島弁護士のドラマは結構気に入っていた。中々示唆に富んでいたですよ。あれも、住民集会に呼び寄せたメディアの「エキストラ」に日当を配ってたけどね。単なる偶然だろうと思いますので(笑)そんなことは別にいいですが、最終的に公共事業を住民側と行政側の双方の意見を取り入れて、「何でもダメ、全部ダメ、白黒どちらかじゃなけりゃダメ」という結論を抜け出したことが、良い終わり方だと思ったのですよね。やや大袈裟に描いていた(わざとだろう)のですけれど、象徴的に分りやすく表現されていました。できれば続編を希望したいですね。>


そういう心細さが主催側にはあるから、やっぱり「味方」をそれなりに動員していおかねばならないと考えたのかもしれないし、反対勢力を分断して、参加者の中で分散化させ、サクラ部隊で包囲網を敷いておこうということだったのかもね。

ところで、前に書いたように(肥大化する官邸?)、行政は本当に広告代理店を開けるくらいの「広報活動」を担っているんですね。文科省にも広報担当の専門部署があったようで。どうやらあちこちの広報部門にも、色々問題が隠れているのかもしれません。



「社会が悪いのさ・・・・」に行き着くのは何故?

2006年11月15日 00時05分04秒 | 俺のそれ
ウンザリされていると思いますが、もうちょっと書いておきます。どうぞお許し下さい。

どうも、「におわせ」だけでは「読み取れない」であろうと思いますので(書き手の能力が著しく低いのが原因ですけど、スミマセン)、率直に書いていきます。


ある政策決定際しては賛成、反対と色々ある訳ですが、それには雑多な人々が判断を下し、意思表示を行い、何かのアクションを取ったり取らなかったりするのです。これに影響を与えるのは、政治家、官僚、マスメディア、世間の空気等々あると思います。どうも「論理的な議論をせねばならないんだ!」と切に願っている割には、「恨み節が多すぎなのではありませんか?」という人々が見受けられることがとても不思議なのですよ。


政治家のバカ野郎、とか、悪徳官僚や首長が癒着してやがるんだ、とか、資本家が搾取してるんだ、とか言う、一般大衆を笑うのはいいでしょう。それは単なる個人的感情表明ですからね。世間の空気に同調するマスメディアを非難するのも、それはそれで一法でしょう。そのことに特別な論理も何もありませんよね。ただの意見表明であり、言論には言論で対抗する、ということでしかないと思えます。


ところが、いかにも学問を装って、正しいとも言えないことを言うのは如何なものか、ということがまずあります。でも、複雑なこととか、まだ誰にもよく判っていないことなんかがあるわけですよね。そういう場合には、いくつか試行錯誤を繰り返しながらも、議論を積み重ねれば「何かいいアイディア、方法」が浮かんでくるかもしれない。もっと専門的な知識を持つ人々が「一生懸命」考えれば、更に別なプランが出てくるかもしれない。そう思うのは普通ではないですか?


政策決定は、一般大衆にとっては「時間との戦い」になります。それに意見表明しつつも、学術的にどうなのか、ということが「正確に判らなくても」判断を下さなければ、行政側の提示で一方的に決定されてしまいます。例えば、年金改革関連法案とか、障害者自立支援法とか、そういうことがありますよね。国民側からの「強力な意思表示」がなければ、アッサリとスルーですよ。なので、現時点で「正確に判っていなくとも」、賛否どちらかの意思表示を行うのは仕方のないことでもあるのです。これを全ての国民に「正確に理解して判断せよ」ということを求めるのは、かなり困難でしょう。それでも、行政側の決定は、常に待ってくれるとは限らないのですよ。


もしも政策決定について問題意識を持ち、正しい答えを知っているのであれば、それを認知させる努力をするべきであろうし、対立意見の論点については意見で対抗するべきでしょう。十分説得的であるなら、マスメディアの人たちだってバカではないのだし(というか、元々は凄く頭のいい優秀だとされる人たちなのですよね?)、ある一定の判断能力もあれば認識もあるので、報道の方向を変えるかもしれないし、もっと論理的な意見を取り入れてくれるかもしれない。そういう論点提示をどれくらいやれるか、ということだろうと思いますよ。記者氏には中々気付かない視点があるのであれば、判る人が代わりにその示唆をしてあげればいいのだし、その正当性についてそれこそ論理的・学術的に探求していけば済むことです。いくら罵倒し叩き続けても、物事がよくなることもないし、別な案が浮かんでくる訳でもなければ、問題解決に繋がる訳でもないでしょう。


それなのにですね、一部の人々には不可思議な行動というか現象が見られるのですよ。

弁護士たちをバカだのと責めて、彼らに何か伝わるのでしょうか?
懇談会の座長やメンバーを誹謗して、彼らは何か得られますか?
マクロ経済音痴だ、と責めることで彼らは何かの答えに近づけますか?
政治家をバカにしてみることで、政治家を説得できるのですか?
裁判官を法匪だの経済無知だのと罵って、新たな知見は出てきますか?

しまいには、メディアもアレだとか、一般大衆は感情論だ、魔女狩りだ、とか、全てを罵倒し大衆を敵視していくことが、解決の糸口であると考えているのでしょうか?


学校が悪い、教師が悪い、親が悪い、大人が悪い、社会が悪い・・・・・まるでソックリです。
同じではありませんか?
いくら、「理解できないオマエらが悪い、世間が悪い」とか言い続けても無駄なんですって。
それでは、何も変わらないんですって。


感情論を抑制するべく、深層部分をどんどん探求すればいいのではありませんか。
もっと説得的な言説を示し、わかり易く答えを教えてあげればいいではありませんか。
そういうトライを続ければいいではありませんか。

そういう中から、一つくらいは使えるものが出てくるかもしれないし、他の誰かがもっと考えてくれるようになるかもしれない。


結局、何かの言葉尻を捉えたり、揚げ足を取ったり、罵倒・誹謗に終始し、誰かの能力的問題を論い、誰かを呪い、世間の無知無能を嘆き、ひたすら恨み言ばかりを言ってるのと変わらないんですよ。それで誰を説得しようとしているのでしょう?世間?政治家?それとも、単なる不満のはけ口か、自己満足の世界ですか?


7月終わりには、朝日新聞は坂野先生の論説を詳細に取り上げ、掲載していたのですよ。それこそ、(「ライフイヴェント」ではない方の)論文にあった、超過需要発生・GDP減少の論説は出ていたのですよ。必ずしも、一方的なものばかりでもないし、フジサンケイビジネスアイだって業界側の意見や、アナリストの意見だったか載せていたではありませんか。


池田信夫氏にしても、初めのうちは坂野論文を論拠として取り上げていたし、市場は十分「競争的」で借り手は「合理的」なのだ、と言っていたが、最終的には修正していったではありませんか。池田氏に私のようなド素人が何も言わない方が正しかったのかもしれませんが、それで良いとは思わなかったから、私は自分の意見を主張しましたけれども。最大の理由はきっと47thさんの記事とか、大竹―池尾論議だったと思いますが(コメントなんかは、そういう意図で述べていたと思う)。


もしも自分達の主張するべき意見があり、それが論を検証するのに役立つと思うのであれば、大竹先生や池尾先生などにもその意見をきちんと主張すればいいではありませんか。坂野論文や堂下論文を読み返して自論の補強をするなり、別な文献を探すなり、「プレディター」に対抗できうる論点を考えればいいではありませんか。それとも、違う解決方法を探すなりして、糸口を提示すればよいではありませんか。その有効性・効果について検討し、経済学理論に照らし合わせてみたり評価したりすればいいではありませんか(当然私には無理、能力不足だから)。


実際はどうですか?
遂には、水戸黄門を笑うところまで来てしまったわけですが(笑)、如何に水戸黄門を笑おうとも、政策決定には何ら関係ないのではありませんか?そういうところに進むのが好きなのであれば、それでいいですよ。笑えばよろしい。いつまでも、誰かを笑っていればよろしい。それが充足感を得られ、満足なのであれば。


svnseedsさんの論説には、内容的にちょっと疑問を感じていますが、それでも、ただ罵倒や批判に終始するよりは、はるかにいい。実際のデータと向き合い、そこに何かを読み取ろうとするという姿勢があるからだ。そういう作業をできる人がやればいいのだし、考える能力を有していて、知識もあるのであれば、そういうのをできる人たちがやっていけばいいじゃないですか。元々、経済学理論を知っているのでしょう?他の一般人や弁護士や判事なんかよりも。であれば、考える道筋を教えてあげれば済む事です。それを放棄しておきながら、ひたすら世間を恨んでみてもしょうがないんですよ。大衆の無知を笑ってみても、自分たちもそれと何も変わらないのですよ。これまでそういうことをやらなかったから、説得に失敗したのではないでしょうか。


借入額を年収水準の1/3だとか1/4だとか書いたのなら、その功罪を確かめたりすればいいではないですか。「ライフイヴェント」は説明要因だが、「金利」や「借入額」は説明要因ではない、と主張していたこととどのような整合性があるか、考えてみればよいではありませんか。一方では「金利はリスクを反映する」と言いながら、他方では「金利」が破綻の説明要因(貸倒リスクの違い)にならないとは、一体全体どういうことなんだろうか矛盾ではないか、とか考えてみればよいではありませんか。

そういう過程の中で何かに気付いたり知ったりしたのであれば、いかにも学問風という装いを捨てて、素直に評価してみればいいではないですか。考えられるだけの知識も能力もあるのでしょう?そんなの経済学を必ずしも利用する必要なんてないじゃないですか(勿論、利用できればそれでいいけど)。今ある、あなた方皆さんが持ってる知恵や知識を合わせれば、もっといい考えに繋がるかもしれないじゃありませんか。


学問的に結論がよく判ってない事柄なのであれば「絶対的正当性」は捨てておくべきで、いかにも学術的に正しいという錯覚を与えるようなことは初めから言わなけりゃいいんですよ。その程度のものなんではないですか?そういうレベルであるなら、どれほど頑張っても、結論を豪語することや経済学を知らない人間たちを罵倒するなんてことは起こらないでしょう。


経済学的に考えなけりゃダメなんだ、と言いたいのであれば、別に坂野論文や堂下論文を出さずとも言える訳だし、論点を積極的に提示したいのであれば、その論点に反論や問題点の指摘があるなら(絶対にない、と確信しているならしょうがないけど)言論で対抗するべきなのではありませんか?自論の問題点は無視に終始する、ということであるなら、経済学の学術的っぽいフリをするのは止めて、「よく判らないけど、ただ(権威に基づいて)信じている」と表明すべきだろう。


あたかも正しい経済学理論を匂わせ続けるのは、卑怯としか思えないのである。それそこ、「ドンデモ」と何が違うのか。

そんなに、自ら認めるということが罪悪なのですか?
ワケ知り顔で、「やれやれ、これだからバカどもは・・・・大衆は所詮・・・・」といつまで言っていても、何も得られないのではありませんか?

それは単なる能力の浪費に過ぎないのです。