「あるある」の問題は根が深いのかもしれないけれど、そういうものを求めたり受け入れてきたのは、みんな大体同じようなものであったのではないかな。戦前教育の中でだって、いい大人たちが真剣にある特定情報を流すことに加担していたようなもので、仕組み的には「情報操作」と「煽動力」と「操作される大衆」という図式みたいに見えるように思うので。
以前地震報道に関連してマスゴミ批判がネット上で起こった時、批判側のソースも曖昧な部分があったように見受けられ、マスゴミと叩かれる報道側にも問題はあったけれど、ネット住人がどれくらい検証できたかというと、これはイマイチであったと思うのですよね。便乗もなかったとは言えないだろうし。2ちゃんねるからの伝聞というのは多数あって、便乗者たちが出したニセ情報が混入していた可能性はあったわけですよね。
そういう時期を経てきて、マスメディアの情報にも「情報操作」という部分があるということは、段々と多くの人々が知るところとなってきただろう。で、たまたま見つけたこの記事は、良い記事であると思った。
OhmyNewsテレビ局のこんな取材法に疑問を感じた
新聞や雑誌などの文字系メディアがどうであったかは不明ですけれども、テレビの取材は色々と問題があるように思えます。以前であれば、こうした検証が行えなかったのですが、今はそこそこ信頼性のあるネット情報を見ることができるのです。かつてはネット情報のソースがトレース可能な場合もあったけれど、最終的に掲示板なんかに行き着いてしまうと、真偽を確かめる術がなくなってしまっていたんですよね。そういう意味では、オーマイの記事は良い記事であるな、と思えたわけです。
基本的にテレビから流される情報の多くは、「加工された」情報であり、操作の結果出されているものなのだ、という基本的な見方を持っているべきなのではないのかな、と思うのです。全部を「加工するな」と言うことはできないし、多くの人たちが「考えるのは面倒くさいから、簡単に結論だけ言ってくれ」という要望を出すのであれば、その要請に応えようとしてしまうテレビの立場も理解できないわけではないのです。しかし、報道なんかを掲げるのであれば、「加工」や「操作」を極力排除しようとしなければ、メディアは腐ると思います。誰も信用しなくなる。現在はまさしくそうした崩壊が始まっている時期であり、それにメディア自身が気付いて改めようとしない限り、「破滅への道」を突き進んでしまうと思います。
オーマイの記事が伝えたように、テレビ取材のやり方そのものにまず問題があるのであり、そうした側面を他のメディアは必ず伝えなければならないでしょうね。世の中の多くの人々がそういうことを知れば、「テレビは悪いことをやっているな」と認知されるので、やり方を変えなければならない、と思い始めるかもしれません。
以前山形氏の記事を取り上げたことがあった(
参考記事)が、その考え方と似ていて、トンデモ全部を防げない面があるので、基本的に「テレビが伝える内容・レベルとは所詮こんなもの」という用心深さみたいなものがテレビ視聴者全部が持つべきなんじゃないのかな、ということです。「テレビ以上でもなければ以下でもない」という程度に理解しておくしかない、ということです。今のテレビの力は、自然に獲得された訳ではないでしょうし、大衆がその力を与えたという面はあるでしょう。それは「テレビに全幅の信頼を寄せている」というような、加工・操作された情報をそのまま受け入れる側=大衆にも問題があった、ということです。
メディア側が自ら変えようとすること、大衆側が注意するべきこと、そういうのがバランスしていけば、今よりはマシになる可能性はあるかもしれません。
<ところで:
山形氏のトリセツは終了するらしく、とても残念だ。随分短い期間で終わってしまったが、例の論争とかが影響したのかな?スポンサーがつくとなれば、色々と難しい問題が発生するので大変なのですね。MSさんはもうちょっと太っ腹でもいいと思うんだが、どうなんだろうか?笑>