いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

Terror of jurisdiction ― 司法権力が医療崩壊を加速する

2007年04月19日 20時56分53秒 | 法関係
これまで以上の訴訟社会の到来に備えておくべきなのであろうか。ありとあらゆる領域に、これまで以上に厳格な法の支配が及んで行く。「jurisdiction」は膨張し続ける。そこで哂うものは一体誰なのであろうか。

がんセンターの2医師、書類送検 手術で過失致死容疑(朝日新聞) - goo ニュース

(一部引用)

国立がんセンター中央病院(東京都中央区)で02年8月、子宮摘出手術を受けた都内の主婦(当時47)が手術中に大量出血して死亡した事故で、警視庁は、当時の執刀医(65)と麻酔医(44)を業務上過失致死の疑いで書類送検した。手術中の止血が不十分だったことなどが原因と判断した。




ちょっとズレてると思うが、例を考えてみる。

あなたが優秀なSWATの狙撃チームの一員であるとしよう。
射撃訓練では、99%が命中、ターゲットから3cm以内の着弾が95%という、素晴らしい成績の持ち主である。

とある事件があって、出動を命ぜられた。犯人が人質を取って、立て籠もっているという。犯人は「大量殺戮型殺人犯」に分類される凶悪犯で、解決方法の選択は「射殺」か、「射殺」以外である時には同じタイプの凶悪犯が街中にいるので少なくとも1千人が死亡するとしよう。射殺を諦めるという選択をすれば、「1千人が死ぬ」ということが判っているのである。

そこで隊長は「犯人射殺」を選択したとしよう。賢明な判断だ。あなたのような狙撃手の腕を持ってすれば、きっと犯人を射殺できるハズだ。観測手とペアで、あなたは犯人射殺のチャンスを待った。観測手は狙撃手と全く同じく見ることのできるスコープで、狙撃手に的確な指示を与えるためにいるのである。つまり狙撃は、観測手と狙撃手の二人三脚ということである。共同作業なのである。これまであたた方は一度も外したことのないペアだった。これまであなたが発射した全ての事件では、確実に犯人を射抜いてきたのだ。それ故、あなたと観測手には信頼関係があったし、外さないという自信もあった。

人質の影に隠れていた犯人が僅かな隙を見せた。あなたはチャンス到来と思ったはずだ。犯人が油断したその瞬間に、間髪入れず観測手も指令を発した。
「今だ。撃て!」
あなたは射撃訓練の時と変わらずに、冷静に引き金をゆっくりと引いた。スコープには人質の姿が大きく映っていたものの、スコープの中心に捉えた犯人の額を外すことなどないハズだ、と確信していた。それ故、観測手の発射指令に躊躇うことなく、引き金を引いたのだ。犯人射殺以外には解決手段などないのだから。罪もない人質を救出し、同様の凶悪犯を撲滅できるのは、「射殺」という選択をする以外にはないのだから。

次の瞬間、犯人の盾にされていた人質が大きく仰け反り、スコープから姿を消した。犯人は驚いて辺りを見回した後で、周囲の人質目がけて半狂乱になりながら銃を乱射した。人質は次々と撃たれて死亡した…。作戦は完全な失敗に終わった。95%成功率を誇る腕を持つ狙撃手でありながら、犯人射殺に失敗した上に、人質を無駄に死なせてしまったのだ。

この作戦から署に帰ると、刑事課長が待っていた。
「残念だが、お前を逮捕せねばならんのだ。悪いな、これも法律で決められているからな。業務上過失致死罪ってヤツだ。狙撃手と一緒に発射指令を出した観測手も逮捕だ。」
「何だって?何故なんだ!観測手も一緒とはどういうことだ?」
「失敗することが予期できたのに、お前の射撃を止めなかったってことだよ。」
「そ、そんな…」
「お前と観測手は同罪なのさ。これも法の掟なのだから仕方あるまい。」
・・・・・・

この狙撃は条件が悪かった。訓練では300mからの射撃であったが、今回は500mと厳しい条件だった。勿論、これまで同じ距離とか、それ以上からの距離であっても狙撃は何度も成功させてきた。だから、「きっとやれる」と信じていたのだ。けれども、距離が遠くなれば僅かな誤差も命取りになりかねない。更に悪いことに、犯人は視野を遮る為にカーテンを引いており、狙撃手からはごく僅かな隙間しか狙えるポイントがなかった。もう1つ、犯人の盾となっていた人質が急に体の向きを変えてしまうとは到底予想できなかった。それまで観察していた間では、あれほど体を動かすことなどなかったからだ。これも判断ミスなのだ、と言われてしまえば、そうなのかもしれないのだが。こういういくつもの悪条件が重なり、一度も外したことのなかった弾道は、今回に限ってほんの僅かに逸れてしまい、人質の胸を貫通してしまったのだ。そうして最悪の結果を招いてしまった。

もしも、こういうケースを「狙撃しない」ということにするなら、もっとたくさんの命が奪われることになるだろう。同じようなケースにおいて、誰も引き金を引けなくなる。選択の余地はとても少ないのだ。射殺するか、他の命が奪われるのを覚悟で黙って見ているだけにするか、いずれかしかないのだ。今回、リスクを取って引き金を引いたことが、結果的には人質の死に繋がった。けれども、同じようなケースで失敗確率が5%である時、この5%を怖れて射殺を選択しないということができるのだろうか?不幸にして5%に入ってしまえば「業務上過失致死罪」となってしまう時、狙撃を実行する勇気を持つ狙撃手と観測手は現れるのであろうか?


狙撃手は執刀医、観測手は麻酔医であることはお分かり頂けるだろう。結果が悪ければ、それを過失と呼ぶ、ということである。たとえ他の数千人を助けたとしても、ただの一度も失敗は許されない、ということなのである。血管損傷や出血というのは、想定外で起こるものであって、特別な過失がなくても生じうるのである。解剖学的位置関係というのは、モデルとか標本と寸分違わぬことなど現実には有り得ない。教科書に書いてあるからそれと全部同じであると思っているのかもしれないが、いくつかの異形はあるし、その存在確率は定まっているとは限らないけれども、確実にある。執刀医の年齢からすると大ベテランであり、所謂百戦錬磨の「つわもの」であることは想像に難くない。しかも「国立がんセンター」の医師なのだ。日本でも有数の医療施設なのである。新米ドクターが震える手で「ミスった」とかいうレベルとは全く違うのである。私には判断のしようがないのであるが、何ら意味もなく、というか理由なく、大量出血が継続していたなどとは到底考えられないのである。


医師というのは毎回与えられた条件の中で最善を尽くす以外にはないのであるが、何でもかんでも「刑事事件」として捜査・取調され、送検されて、裁判にかけられていくのである。


検察官に1つ言っておきたいことがある(関白宣言か!)。
エラー確率が1%であっても、1万件の裁判のうち100件は無罪判決となるということである。この100件を担当した検察官は、「業務上~」という刑事罰を与えられることにしておく場合、検察官においては「これまで通りに」何ら変わることなく起訴できるんですよね?エラーの場合は刑務所行きですからね?それでも、今までと全く同じく起訴できるはずですね?

裁判官にも言っておきたい。
上級審で逆転判決であった場合には、刑務所行きということにしたとしましょう。罪状は何でもいいですよ。作ればいいんですから。法理論というのは、完璧であるのが当然であり、裁判官毎に結果が異なるというのは学問上本来オカシイ訳です。試験問題でも、答えは1つですよね?なので、裁判官がミスをする度に、刑事罰を与えます。それでも、これまでと何ら変わりなく裁判はできるんですよね?まさか、今まではそれほど真剣にやってこなかった、とか言うのではありませんよね?判決が変わる度に、刑務所送りにするとしても、これまで裁判というものが「ミスなく行われてきた」ということであるならば、別に構いませんよね?誰が判決を書いたとしても「結果は全て同じハズ」であり、医療裁判と同様に判決文を鑑定に回して、違った意見である時には過失を認定するとともに裁判官の判事人生を奪うものとすればいいのです。司法資格があるので、弁護士にでもなってもらえればいいですね。それでも大丈夫なのですよね?裁判に誤りなど存在していないハズですから。それとも、「裁判は誤りがある、判決にも誤りがある」ということを認めるのでしょうか?認めるならば、「間違っているかもしれないけれども、裁判の判決を書いてしまっており、その正確性については誰も担保しないし、レベルもよく判らない」と、全国民に是非とも宣言して頂ければ有り難いです。


検察や裁判所というのは「3回チャンスがある」とか思っているのかもしれないが、医療では「一発勝負」でしかなく、全例やり直しなどはきかないので、今後全ての裁判でも同じく一発で正解を出さねばならないことにしてもらいます。時間も金も無駄にしているのは、いい加減な裁判なんですよ。医療に一発で100%の正解を求めるのであれば、司法がまずお手本を示して頂ければと思います。大体、3審制ってのは、甘いんだよ。もう一回やってみる、などという甘さがあるから判決がコロコロ入れ替わったりするのですよ。司法がやっていることというのは、そういう曖昧でいい加減なシステムを運営しているだけなのです。狙撃手にしても、チャンスは一度であり、引き金を引けば発射された弾は元には戻すことはできませんので(笑)。少ないチャンスに、確実にエラーなく仕留めなければならない、ということを医療では求められているのです。司法制度はそうでなくてもよい、という正当な理由があるなら是非とも拝聴したいものです。


もっと言うと、裁判所がはっきりと宣言を出して下されば、多くの国民に納得してもらえるのではないでしょうか。

「たとえ千人死んでもいい。凶悪犯を射殺を選択しないことの方が正しいのだ。5%のエラーが生じるのであれば、人質射殺のリスクが回避できず、100回狙撃すると5人の人質が犠牲になるからだ。だから狙撃を止めて、エラーを防げ。凶悪犯が暴れるのを黙って見ているしかない、千人殺されても狙撃手のエラーを防ぐことの方が大事なのだ。」
 
と。


続・「GRIPS」の生産性はどうなっているのか?

2007年04月19日 14時38分43秒 | 教育問題
「生産性を上げろ」という大号令の下、国の支出を減らすのと企業の人件費を削減したいという方向に合致しているのが、社会保障費抑制策である。生産性を上げるとはどういうことか、ちょっと考えてみる。この前コメントでも触れましたし。


1)製造業で考えてみる

また、簡単な例で考えることにする。
「ネジS」を作る仕事があるとする。Aさんは単位時間当たり10個、Bさんは同じく15個作れるものとする。AさんよりもBさんの方が生産性は高く、賃金としては成果に応じて払うとすればおおよそ次のようになるかな。

・同じ勤務時間であると、Aさんに10万円払うなら、Bさんに15万円払う
・同一納期まで同じ個数(120個)を作るのであれば同じ賃金とし、Aさんは12単位時間、Bさんは8単位時間勤務する

ここで、生産性向上というのは、例えば単位時間当たりAさんが15個、Bさんが20個作れるようになる、というようなことである。この場合、支払賃金を少し増やしても良いが(現実世界ではこれまであまり増やされなかっただろう)、生産個数が増加した分に応じて企業利益も増加する、ということである。こうした考え方は、昔の「工場労働者」的考え方なのではないかと思う。更に生産性向上を図る為に、AさんやBさんよりも多く生産できる全自動機械を開発し、単位時間当たり100個作れるようにする、ということである。これによって生産性は飛躍的に向上する。AさんもBさんも不要となって、リストラされ失業者となる。ネジSは生産個数が大幅に増やせるし、人件費削減ができるので利益が多くなるのだが、これも次第に行き詰まることになるのである。

実際のビジネスでは、ネジSの生産によって利益があるのであれば、新規参入者が現れて競合してくるので、ネジSの単価が下がっていき、生産個数が増加したとしても企業利益そのものが増加するとは限らなくなる。生産性向上を実現しAさんやBさんをリストラして全自動機械で生産したとしても、競争に敗れれば撤退せざるを得なくなるのである。中国や東南アジア諸国などの工場で生産して輸入した方が安上がり、ということが起こってしまうからだ。そこで仕方なく、もっと別な特殊技術を用いた「ネジS’」を開発してその製造に特化する、というようなことを目指すしかないのである。競合企業が真似できないような製品を製造して、ネジS市場は諦めるけれども、ネジS’で利益を挙げていく、ということになる。ネジSに比べネジS’は単価も高く、利益率も高い、というようなことを達成せよ、というのが、生産性向上ということだ。ネジS’の生産能力を「これまでの100個から200個達成」みたいに、無限に努力し続けないとならないのが「製造業」なのである。生産個数が上がるように努力をしても、数が増えるので価格が徐々に下がっていき、利益が減少していったりするのが皮肉なのであるが(笑)。半導体、液晶、デジカメ、レコーダー、記憶媒体、などの製品はそういう運命から逃れられない。


2)サービスではどうなのか

これと同じような考え方をサービスに適用することについて、当然と思っている経済学者が存在しているのだろうと思うのだが、それは本当に正しいのであろうか?私自身が経済学理論を正確に知らないから、そのような疑問を抱いてしまうのかもしれないが。

ここで、宿泊業について考えてみる。
旅館Cがあって、客を最大20人宿泊させられるとする。生産性向上というのは、例えば同じ従業員数のままでありながら、部屋を改造して宿泊客を25人に増やすとか、これまで風呂が無かったけれど大浴場を設置して付加価値を高めるとか、そういうことを達成する、ということだろうか。こういった生産性向上の為の何かを続けないとすれば、旅館の料金は不変なのであろうか?最初に1泊3000円として、客室増加の数量効果があって単価が同じ3000円のままでも売上は増加し、風呂設置で料金を4000円に値上げして売上を伸ばす、ということになる。さて、その後、この旅館Cが特に部屋を増やすでもなく、風呂を新しくするでもないと、料金を上げられないのか?客が来る限り値上げすることは可能であるように思われるが、どうだろうか。古びた旅館が、かつてのままの料金で営業していることなど想定できないのだが、実際どうなのだろう。世間相場が5000円になっているのであれば、それくらい値上げしていても不思議ではないように思える。それともプライスレスの女将の「笑顔」で付加価値を高めたとか?(笑)

豪華な夕食を出すとか、何か特徴を生み出して行ったとしても、サービスの「本質」は殆ど変化などないのである。要するに「泊まる」ということであり、その生産性向上など連続で達成していくことなど難しいとしか思えないのである。ホテルや旅館の料金は上がっていっているのであり(必ずしも全部ではないし、大幅に下がっている部分もあるだろうが)、その大半は人的サービスの価格が上昇するからとしか思えないのである。ホテルのフロント係が、昔に比べて極端に生産性をアップすることなど「できない」のである(笑)。宿帳記入や会計業務などを機械化して速度をアップしたとしても、それで2倍とか3倍の価値を生み出したりはできない。しかし、ホテルマンの賃金は30年前とか50年前に比べれば確実に数倍とかに増えたであろうし、売上も当然増えているに決まっている。ホテルの提供しているサービスの基本はあまり大きく変わっていないのに、である。

歴史ある有名ホテルのDでは、過去50年間建物は同じ作りのままで、部屋数を増やしたりしてはいない。数量増加による売上増効果はない、ということである。風呂も昔から付いていたし、特別変化したサービスがこれといってあるわけではない。各種ルームサービス、マッサージなどの付加的サービスはその為の別途料金を取るし、部屋にテレビを付けたといってもそのサービス価値は極めて安いものでしかない。ラブホテル(今はこう呼ばないのでしたか?)の、ジャグジー風呂、テレビやカラオケ設備の方がサービス価値は多いくらいだ。こうした場合、有名ホテルDの宿泊料金はどうなるのだろうか?昔1万円、今5万円だとすると、数倍もの生産性向上が達成されたと言えるのであろうか?ホテルマンの生産性が、ネジ生産で見たような全自動機械で5倍の100個作れるようになったのと同じく、5倍もの「宿泊」が生産できるようなスーパーマンになったのか?これは違うとしか思えないのだが。宿泊費が1万円のままであれば、ホテルマンの賃金は値上げできないから、他の職業の賃金に比べて極端に安くなって、成り手がいなくなる。「歴史ある有名ホテル」の営業を維持できなくなる。なので、「参照賃金」が上昇してしまうとホテルマンの賃金を値上げせざるを得ず、コストが高くなるから宿泊費は値上げしていかざるを得ないのである。ホテルマンの能力が昔の何倍もの価値を生み出せるようになったということではないのだ。ネジ20個を作れる職人が、100個作れる機械になれる訳ではないのである。1泊するのに5万円も払うホテルDなどには泊まらないで、1泊8千円のラブホテルにでも泊まった方が安上がりに決まっているのである。この違いは何があるかと言えば、「歴史ある有名ホテル」というブランド価値とか、人的サービスの質などであって、製造業のようなネジを100個作れるようにせよ、とか特殊ネジを開発せよ、ということとは根本的に異なっているのである。


3)教育における生産性とは?

では、教授の生産性というのはどうなのであろうか。ネジ職人のような考え方をするなら、これまで学生20人しか教えることができなかった教授は、毎年教えられる学生数を増加させ100人教育できるようにする、ということである。それとも、昔は学生に九九しか教えられなかったのを、今は微積分を教えられるようになって、成果としての学生の品質を高める、ということを達成するということである。これが教授の生産性向上ということであろうか。第一の点から考えると、教授1人当たりが担当している学生数を増加させるということで売上を増やすのであり、第二の点では「品質向上」ということで「教授自身が教える中身を高度化・高付加価値化」と「学生の学力成績向上」ということが達成されねばならないであろう。学生の数的増加は判り易いので、第二の点についてもう少し考えることにする。

教授が教えた10年前の学生20人と、現在教えた20人を比較するとしよう(学生の基本的性能は同じレベルであるとする)。で、仮に同じ試験問題をやらせると、昔は平均点が60点、現在は70点、という風になっていないといけない、ということである。判りやすく言えば、「昔は~~理論を教えられなかったが、現在は教えている」ということとか、教授の教育技術が向上して同じ時間数の授業を行ったとしても「昔は習得率が4割だったが、現在は5割に上昇した」というようなことが達成されていなければならない、ということであろうか。果たしてこうした生産性向上を教育現場では達成してきたのか?諮問会議や審議会なんかに存在するばかりではなく、日本全国には相当数の経済学教授が存在していると思うが、「生産性を高めよ」と掛け声をかけている教授自身がこうした生産性向上を達成しているだろうか?学生の能力低下が云々とか言われるが、そうであるなら「教育の失敗」ということで、生産性が低下してきたせいでないと言えるだろうか?昔は「30点しか取れない学生を60点取れるようにする」だったのを、今は「20点しか取れない学生を60点取れるようにする」といった向上を達成するのは当たり前なのではないか、ということなんですよ。それか、20人しか集められなかった教授が、今は50人集められるようにする、というのが当たり前なのではありませんか、ということです。数も集められない、質も高められない、では、教育の生産性向上というのがどこで達成されたのかよく判りませんね。

中には教育よりも研究だ、という大先生もおられるかもしれない。成果の評価が難しいのだが、例で考えてみる。
昔は「レベル1」の論文を単位時間当たり1本しか生産できなかったが、
①今は3本生産可能になった(数的増加)
②今は「レベル2」を生産可能になった(質的向上)
③今は入学者や院生希望者が増えた(人的効果)
④研究成果を用いて資金調達が増えた(資金的効果)
というような感じだろうか。

①や②は教授個人の能力的向上であり、③は大学運営にとってプラスで、④は共同ベンチャーとか特許取得とか研究費獲得とか、現実世界に成果を反映させられる、というようなことだ。こうした生産性向上が達成されていないのに、教授の賃金は過去何十年かに渡って上昇してきたのであれば、それは非効率なだけなのではないか?ということだ。

前に例に挙げた政策研究大学院大学において、生産性向上を検証するのは難しい面はあるのだが、判りやすく言えば、
「昔は政策に反映された研究数はゼロだったが、今は2つの政策立案につながった」というようなことであろうか。それとも、政治・行政システムにおいて~~の変更を達成できた」とか、そういう何かの成果があってしかるべきであろう。論文もない、成果としての政策実現もない、では、政策研究の名が泣くのではありませんか、ということです。研究結果を世間に隠しておいたところで、誰も知らないままであるなら政策になど永遠に反映されないと思うのですが、どうなんでしょうか(笑)。


4)医療の生産性向上

医療において生産性向上をというのは、これまで単位時間当たり10人診療していたのを20人にするとか、手術件数を1件だったのを2件できるようにするとか、レベル1の手技・技量だったのをレベル2に上げるとか、そういうことは各自達成されていく訳です。更に技術的進歩によって、内視鏡手術とか腹腔鏡手術みたいなイノベーションもやっているわけです。予後の向上(例えば、寿命の延長とか、ガン生存率向上とか、何かの術後5年生存率とか)という品質管理も厳しく求められるわけです。

しかし、これが売上増に繋がるかというと、有名ホテルみたいに自分たちで値上げできませんので(診療報酬として統制されているからだ)、価格は低いままで過ぎます。ラブホテルの宿泊費で有名ホテルのサービスを提供しろ、ということを、諮問会議とか経済学者たちが要求している、ということなのですよ。これ以上価格を上げることはできないので、ラブホテルと同じ料金にして、これまでとサービスを変えることなく内部的に削減努力をしなさい、かつ表向きは有名ホテルと同じようにしなさい、という要求を突きつけているのですよ。

ネジ生産ならば、機械を導入すれば価格は安くなっていくし、人員削減も達成できるが、「人的サービス」はそうはいかないのですよ。価格を抑えるならばサービスの質を落とすか、サービス水準を高くしていく(医療の進歩を反映させていくということ)ならば、価格を上げない限り維持できないに決まっているのです。


こうした根本的な部分を考えていない教授先生が多数見受けられるようですので(私の個人的印象に過ぎないけどね)、まずは「自己点検」をやってみて下さい。さぞかし生産性が高く、毎年生産性向上に努め、イノベーションの連続みたいなのが大学教授ということなんでしょうな(笑)。自分たちの給料がなぜ上がっていくのか、成果がまるで大したこともないクセに無駄に給料を取ってる教授を養い続けられるのは何故なのか、その理由を経済学的に説明してごらんなさい。

特に期待しています>政策研究大学院大学どの



2つの銃撃事件

2007年04月19日 01時38分27秒 | 社会全般
長崎で起きた射殺事件は、日本人にどのような警告を与えただろうか。タダのヤクザ者の狂気の沙汰のような、逆恨みによる犯行のように捉えられているかもしれない。それとも、民主主義への挑戦だ、という大義で語られるかもしれない。事件の背景にある政治性の有無によって、陰謀説が持ち上がったりするかもしれないし、個人の倒錯に過ぎないという解釈がなされるかもしれない。現時点では動機解明などが進んでいないので、よくは判らないが、1つ言えることはある。

それは、無条件に生命を奪われる暴力というものが現実に存在している、ということである。暴力や武力を否定し、完全なる無抵抗を主張していても、何の躊躇いもなく命が奪われることは起こるということである。現実世界には理想論が通じない相手というのが存在しているのであり、「話し合えば判る」とか「暴力はいけない」などという理屈が通用しないことがある、という現実を認識し、危機を回避するための努力をする以外にはないということである。これが外交上であっても、同じく対策を講じていくことの必要性を理解してもらいたいと思う。長崎市長の壮絶な死を悼み、心からご冥福をお祈りしたい。


もう1つの事件、米国の大学で起こった惨事であるが、韓国系学生の犯行ということで、日本にとってはある意味で「韓国人であった」ということが有利に働くことになるだろう。不謹慎な発想であると思うが(事件を喜んでいるとか、そういうことではありませんので、一応念のため)、韓国系米国人などの「従軍慰安婦問題」に関する活動が休止されることになる、というタナボタの結果をもたらしたからだ。更に失礼を承知で書けば、悪巧みや陥れというものは「そうは問屋が卸さない」といった何かのアクシデントに見舞われるものなのである、というドラマ性を感じないではいられない(私の悪いクセである)。思わず「ドブネズミと見なして、彼らに善行を施せ」という言葉(参考記事)が思い浮かんだ。


長崎の事件とは全く異なり、こちらの犯人像は極めて異常なものであるようだ。

米大学乱射:チョ容疑者、悪口・ストーキングなど異常行動 Chosun Online 朝鮮日報

(一部引用)

チョ容疑者の寄宿舎の部屋から発見されたノートには、「金持ちの奴ら」(rich kids)、「放蕩(ほうとう)」(debauchery)、「欺まん的なペテン師」(deceitful charlatans)など意味不明で批判的な言葉が並んでいたと同紙は報じた。また、「心理的に不安定な症状を見せていたチョ容疑者は、犯行前に憎悪と苦悩に満ちた言葉を残しており、死亡当時、チョ容疑者の片腕の内側には赤いインクで『Ismail Ax』と書かれていた」と報じた(Ismailはイスラム教の1派、 Axはおの・なたなど)。




何かの思想的な異常さを有しており、信念に基づいて犯行に及んでいるように見える。カルト的と言ってもいいかもしれない。例えば、犯人は「神に変わって鉄槌を下す」というような、特殊な思考を有していたのではないかと思えるのである。そうでなければ、これほど残忍かつ冷酷な犯行は実行できないであろう。

長崎の銃撃事件では、ある程度明確な目的を持って犯行に及んでいるが、犯人が持つ理路に基づいて(当然他の人々には理解され難いものである)、彼の意に反することをしているのでターゲットの「タマを取る」という行為に及んでいるのである。それは、抗争相手である組長のタマを取るのと何ら変わりがないように思われるのである。そうであれば、ターゲット以外の人間を射殺しようとも思わないし、犯人の持っているルールに基づいて行われる犯行ということであろう。

ところが、米国で起こった事件の場合には、そうした分別が既に失われていたであろう。自分以外の学生たちは全て処刑対象であり、自分が「何かの正義」を実行するのだという、非常に強固な信念のようなものが感じられるのである。特に気になったのは、「Ismail Ax」という文字である。

M Fギュレンのウェブサイト - 預言者に関する吉報

ここで述べられている記事によれば、旧約聖書の申命記第33章/2で次のような記述があるようである。

『主は千よろずの聖なる者を従えて来られる。その右の手には燃える斧がある』


「燃える斧」という表現が原文でどうなっているのか知らないのであるが、あたかも「火を噴く銃」を連想させるのである。これは単なる偶然なのかもしれないけれども。「Ismail」とは「イスマーイール」ということで、イスラム教の一派らしいが、調べてみると次のようなものらしい。

アサシン - Wikipedia

かいつまんで言うと、イスマーイール派というのはアサシンの伝説に関わりの深い一派である、ということだ。更にイスマーイール1世 - Wikipediaという記述もあり、犯人が何かの宗教的知識を持っていて、カリスマ性の高い人物や特定思想への傾倒を強めていったことが影響しているのかもしれない。


それとも、例えばこういった別な闇があるのかもしれない。

イスラーム世界の少年愛 - Wikipedia


イスマーイール1世が人間離れした美しさを持っていたということと、何か繋がりがあるのであろうか?犯人が残したという戯曲には、関連する部分が見られなくもない。

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - ヴァージニア工科大学銃撃犯が書いた戯曲


犯人が死亡しているので、真相は判るはずもないのであるが、彼には何かの浄化のようなものが必要であったのかもしれない。それは何かの教義に従って、穢れた悪の化身である人間の処刑を実行し、自らを浄化するということである。上述した旧約聖書の続きには、次のように書かれている。

旧約聖書 申命記第33章より

神はあなたの前から敵を追い散らし 「滅ぼし尽くせ」と言われた。(中略)
主はあなたを助ける盾 剣が襲うときのあなたの力。 
敵はあなたに屈し あなたは彼らの背を踏みつける。


何かに憑依されたかのような絶対正義を持つ人間が現れた時、その異常な信念に基づく行為を誰も止めることができない。ナチのような集団の場合でも、一個人による場合でも、狂信性を生じる可能性はある、ということなのかもしれない。