1)阪神大震災に関する石原氏の批判
都知事選は個人的には希望していなかった結果(笑)となってしまいましたが、これとは関係なく考えてみたいと思います。
先日の「石原発言」に対して兵庫県側が反発しているようですけれども、石原氏の言い分がそれほど的外れとも思われないのです。当時の県知事なんかが反論するというのも、違和感が拭えないのですね。
報道では、次のように出ていました。
阪神大震災「首長判断遅く2千人犠牲」 石原氏が発言朝日新聞 - goo ニュース
(記事より一部引用)
震災時の兵庫県知事、貝原俊民氏(73)は「石原さんの誤解。たしかに危機管理面で反省はあるが、要請が遅れたから死者が増えたのではない。犠牲者の8割以上が、発生直後に圧死していた」と反論する。震災後に同県の初代防災監を務めた斎藤富雄副知事(62)は「全く根拠のない発言で、誠に遺憾。将来の備えのためにも、過去の災害を適切に分析してほしい」。神戸市に次ぐ被害を受けた同県西宮市の震災時の市長、馬場順三氏(81)は「震災を実際に体験していないから言える発言ではないか」と語った。
「2千人余計に亡くなった」とする石原氏の指摘に対して、兵庫県側の反論(当時の知事の貝原氏)としては、「8割以上が発生直後に圧死しており、要請の遅れと死者数は無関係(死者数の増加をもたらした訳でない)」という言い分なのであろうと思います。「過去の災害を適切に分析して欲しい」と初代防災監を務めた斎藤富雄副知事は語っておられます。
2)能登地震における行政側の対応
参考:
災害救助活動の検討1
災害救助活動の検討2
災害救助活動の検討3
新潟中越地震の時の出動要請は、3時間後でやや遅かったのですね。この前の時点で陸自のヘリなどが情報収集に向かっており、自衛隊側は要請がない段階であっても、要請が入り次第直ぐに動けるように準備していたということだと思います。
最近では能登の地震がありましたので、そちらも見てみます。
asahicom:山間集落、また孤立 能登地震 - 社会
(記事より一部引用)
多くの職員が発生から約1時間半で集まったという。荒井次長は「重ねてきた参集訓練と大差なく集まれた」。
谷本正憲知事は午前10時半ごろ登庁。同11時8分、陸上自衛隊に派遣要請をした。午後0時半には災害対策本部を設置。NTTと北陸電力からは出席者がなく、「被害状況を聴かなければいけない」と呼ぶよう指示した。双方とも本部に集まることにはなっておらず、「今後考える必要がある」と環境安全部。 総務省消防庁によると、「緊急消防援助隊」として隣接の富山、福井など7都府県から87隊、348人が石川県へ。 滋賀県は午前10時23分、同庁から派遣可能人数などの問い合わせがあり、22分後に正式な指令を受けた。すぐに8消防本部に出動を指示し、124人を派遣した。県地震対策室は「消防庁や各消防本部との連携はスムーズだった」と話す。
一方、政府は同9時45分、首相官邸内に野田健内閣危機管理監をトップとする官邸対策室を設置した。安倍首相は「被害状況と住民の安全確保に万全を期するように」と指示。溝手防災担当相を団長とする政府調査団を派遣し、輪島市役所に現地対策連絡室を設けた。
能登沖地震 「余震、いつまで続く」避難所眠れぬ夜 情報交差点-いしかわ 経済・情報 北陸発 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
こちらの記事では、『この会議では、電気と電話の状況確認の際、詳しい情報がなかったため、谷本知事が「北陸電力はなぜここにいないのか」と声を荒らげる場面もあった。』と書かれていたりしますが、まあしょうがないですな。知事が来るのが大体にして遅いんですから(笑)。
時間経過毎に大雑把にまとめてみます。
□県庁
10時30分頃 谷本知事登庁、10時45分 災害対策本部員会議、
11時8分 陸自派遣要請、0時30分頃 災害対策本部設置
□県警
9時45分 県警本部長 総合警備本部設置
□政府
9時45分 危機管理監 官邸対策室
□七尾市
10時 市長 災害対策本部設置
□輪島市
10時10分 災害対策本部設置
こうして見ると、石川県庁での対応は、政府や県警から既に1時間も遅れているわけです。七尾市や輪島市に比べても、対策本部設置が済んでいる時間に、知事は登庁していませんからね。仕方がない場合もあるのですが、今は谷本知事の対応を問題にしている訳ではありませんので、おいておきます。で、災害発生から約1時間25分経過後に、陸自派遣要請が出されています。対応が遅いと言いつつも、新潟地震の時よりは早かったということです。災害の発生した時間帯に影響されるという可能性も考えられますが、派遣要請を出すというのは、知事の決断さえあれば早めることが可能であるということです。
<ちょっと寄り道:
北朝鮮のミサイル発射騒動の時に、都道府県に来る情報が遅いとか何とか知事会で文句を言っていたが、本物が飛来するのは約7分程度らしいので、石川県知事みたいなチンタラした対応では到底間に合わない訳です。どこで聞いたとしても、即指示を出さねば間に合いませんよ。せいぜい5分くらいの猶予しかないでしょう。そういう発想に立って、普段から体制を作らない限り無理だ。知事がクソをしていて居場所が捕まらない場合には、連絡が付き次第副知事であろうとも即指示を出さないと間に合わない。災害であろうと、知事が登庁してなくても即座に指示だけは出しておかないとダメだろう。派遣要請は口頭でもいいので、それをやってから登庁してもいいはずです。地震災害時にノロノロとやっていては、他の突発的事態が生じても同じくノロノロとしか動けないんですよ。ミサイル情報に文句を言う前に、知事としてやるべきことをまず最速でやって見せるべきでしょう→知事会どの>
3)北海道南西沖地震での派遣要請
もう少し古い記録を見てみると、北海道南西沖地震というのがありました(平成5年)。
災害派遣(地震)
これによれば、地震発生から2~3分後に津波第1波が襲ってきた為、対応のしようがなかったようです。死亡者の殆どがこの津波被害によるものであったようです。時間経過で見ていきますと、
22時17分 地震発生
22時22分 気象台津波警報発令
?分 道庁、奥尻町にそれぞれ災害対策本部設置
22時35分 航空自衛隊に派遣要請
00時18分 陸上自衛隊に派遣要請
04時47分 海上自衛隊に派遣要請
となっております。
地震発生から、空自要請まで18分、陸自要請まで約2時間、ということで、自衛隊要請から初動が早く、捜索救援活動開始が速やかに行われたことは、評価するべきであると思います。
(一部引用)
陸上自衛隊は、北部方面隊及び第11師団が未明から早朝にかけ先遣部隊を進出させ、約7時間後には奥尻島において救援活動や患者の空輸を開始した。また、自衛隊札幌病院の医官と看護婦で医療チームを編成して奥尻島に進出させ、負傷者等の救護や治療に当たるとともに、渡島半島の被災地において給水支援を実施した。撤収要請があった7月31日までの災害派遣活動期間中、人員延べ1万9,709名、車両延べ961両、航空機延べ558機を投入し、発見・収容した遺体47体、治療した住民476名、給水量約300トンであった。
航空自衛隊は、震源地に最も近い奥尻分屯基地(約200名)が、13日0000過ぎ、桧山支庁長の要請で隊員約70名を近くの倒壊したホテルに派遣、建物の下敷きになった20名の捜索と救助に当たった。また、未明から早朝にかけてE-2C早期警戒機による情報収集を始め、救難捜索機による天候・状況偵察、ヘリコプターによる医療チーム・物資の輸送等の救援活動を実施した。撤収要請があった8月12日までの間、人員延べ5,282名、車両延べ658両、航空機延べ52機を派遣し、15名を救出、34体の遺体を発見・収容した。
このように、空自の奥尻分屯基地があったことから、『隊員約70名を近くの倒壊したホテルに派遣、建物の下敷きになった20名の捜索と救助に当たった。』ということで、倒壊建築物からの救出が早期(地震発生から約1時間半後)に行われたことは大変重要な活動であったと推測されます(空自が常に「空での任務」にしか役立たないとかそういうことはなく、地上でだって国民の為に救出活動を行ってくれるのです)。更に自衛隊病院の医療チーム投入が早くから行われたことも評価できると思います。
<ちょっと追加なんですが、空自の出動がとても早かったのですが、これは恐らく空自側から救出に「出ます」という申し出か何かがあったのではないかと推測しています。現地ではかなり混乱していたでしょうが、空自隊員たちがいたおかげである程度の連絡体制が取れたのではないかな、と。一般人では不安や恐怖で頭が回らないけど、自衛隊であれば上官などに連絡する手順とか決まっているだろうし、情報もきちんと伝えられますからね。そういう自衛隊での訓練が活かされたということなのではないかと。>
海自の活動は正式な出動要請の前から開始されており、派遣出動準備が行われていたようです。
(一部引用)
■災害発生直後の対応
大監は、各地の震度の大きさと、震源地が北海道西方近海であることを勘案し、津波に備えて大湊・函館・余市の隷下の可動艦艇を港外に避泊させた。大湊・函館で10数cm、余市で20cm程度の潮位の変化が認められたものの横付け中の小舟艇等への危険は認められなかった。しかし、テレビ情報等から奥尻島での深刻な災害の発生が予想されたため、13日0141隷下部隊に対して「災害派遣準備」を下令、0144出動態勢が整った23護隊(「ゆうぐも」)を、災害派遣要請に先立ち状況偵察のため奥尻島に向かわせた。刻々入る被災情報から、津波による被害がかなり大きいと判断されたため、0352「あおくも」を「ゆうぐも」の支援のため出動させた。
大空は天候不良のためヘリコプターを待機させていたが、回復の兆しが見えた0313及び0326にそれぞれ1機、状況偵察のため現地に向かわせた。渡島半島以西の天候は不良であったが、低いシーリングを縫って薄明時に現場空域に到達し、島の南部青苗地区の状況偵察及び写真撮影に成功した。
2空群(八戸)は地震発生後情報収集に努めていたが、災害は大きいと判断し状況偵察の必要性を空団司令部に伝え、13日0152に4空のP-3Cを現場に派遣した。同機は悪天候下0230現場上空に到着し、被害の状況をビデオ及び写真に撮影し持ち帰った。それらの情報は最も早く報道機関が入手した映像情報となり、当日朝のマスコミ各社の第一報に使用された。
■初動時の捜索救援活動
13日0447北海道知事から大総監に対し「災害派遣要請」(要請内容:①人員、物資の輸送及び警戒、②行方不明者の海上捜索)があり、これを受けて大地隊は訓練・業務の計画を変更し、災害派遣の初動に全力を投入することとした。
輸送艦「ねむろ」は年次検査のための準備を開始していたが、災害派遣での物資輸送の要請が予測されることから同検査を延期し、災害救助用物資(非常用糧食、毛布、被服及び衛生資材)を搭載、大湊衛生隊(以下「大衛生隊」という。各衛生隊については同様の略語を用いる。)の医官1名を乗艦させ、13日0446奥尻島に向かった。23護隊(「ゆうぐも」)は、13日0715に奥尻港外に到着、情報収集を開始した。また、「あおくも」は奥尻島に向かう途次、災害対策本部からの要請に基づき、日本赤十字社及び渡島支庁の救援物資、2,000名分の毛布、日用品及び非常用糧食を函館港で搭載し、奥尻島へ輸送した。「ねむろ」は1517奥尻港沖に到着、直ちに搭載の上陸用舟艇で災害救助用物資を揚陸した。
夜間の22時過ぎに地震発生で、翌朝7時には「ゆうぐも」が沖合いに到着、同15時過ぎには「ねむろ」が物資を積んで到着しています。港が使える状態でなかったことから、上陸用舟艇で揚陸しているというのも凄いですね。自衛隊ならでは、と言えるでしょう。
4)派遣要請と石原発言の当否
要するに「初動」が最も重要で、可及的速やかに「人員」「能力」「物資」等の集中投入が必要なのが「非常事態」なのですよね。自衛隊は正式要請が入ってきていなくとも、「派遣要請に備えて」準備を始めており、偵察活動も行っています。
根本的に、自衛隊と地方自治体の能力を比較すれば、「情報収集能力」「指揮命令能力」「運搬・救出能力」など災害救出活動に必要な全ての面で自衛隊の方が上回っており、「派遣要請」を躊躇う理由というのはあまりないように思われます。自衛隊の派遣要請をできるだけ後に延ばした時のメリットというのは、これといって思いつきません。せいぜい「災害規模が思ったよりも小さく、自衛隊が出動するほどでもなかった」というような、「無駄足に終わった」みたいなものくらいしかないのではないでしょうか。派遣要請をすれば、後は陸自なり空自・海自なりで「どのような活動が可能か」「どの程度の部隊投入をするか」などということを自衛隊側で判断してくれるので、「大規模な部隊投入を行ったみたが、大して必要な活動はなかった」というような心配を、知事がする必要はないのです。例えば陸自では、ヘリを出したり先遣隊を出して情報収集を行っているので、どの程度の部隊投入が必要かの判断は陸自で行えるのです。なので、ある程度規模が大きいと判断される場合であれば、「何はなくとも、まず派遣要請」ということでいいのではないかと思えます。
阪神大震災で8割以上が圧死であった、災害後短時間に亡くなられた、ということであったにせよ、自衛隊の派遣要請は「直ちに行うべきであった」と言えると思います。要請によるデメリットなど考えられないからです。頭部への致死的外傷、内臓破裂、大量出血による失血死、のようなもので、即死かほぼ即死に近いような短時間で死亡に至る場合でなければ、早期に発見救助されていれば「ひょっとしたら助かっていたかもしれない」というケースはないとは言えないでしょう。もっと発見が早ければ、所謂クラッシュ・シンドロームのような病態に陥る人の数がもっと減っていたかもしれませんし、自衛隊の医療班とかを出来るだけ早く投入できていれば、助かる人の数がもう少し増えていた可能性だって有るかもしれません。実際に、ある程度時間経過後に発見・救助された方もおられたのではなかったかと思います(記憶が定かではありませんが)。
石原氏の発言にあったように、その数が2千人に達するかどうかと言えば、確かにそこまでは救えなかったかもしれないけれども、たとえ僅か数名であったにせよ、助けられる命があればその救出可能性に賭け、全力でありとあらゆる手段・方法を取るべきであったろうと思います。手続がどうの、体裁がどうの、などというのは全くどうでもいい話で、「助かるかどうか」の瀬戸際なのですから、救命だけが最重要なのです。リーダーにそういう決意、判断、能力、そういったものが欠けていなかったとは言えないでしょう。石原氏の指摘したことは、数字が大袈裟であるとしても、本質的な部分では間違っていると非難などできないのではないかと思えます。
再び斎藤富雄副知事の言葉を借りれば、「過去の災害を適切に分析して欲しい」と言っているものの、阪神大震災の僅か1年半前に起こった北海道南西沖地震の時の「災害分析」がきちんとなされていなかったからではないか、その時の自衛隊活動や自治体との協力・連携体制について総務省や知事会などで十分検討されていなかったのではないか、知事という職務にあるものの役割・権限について当人の認識が不十分だったのではないか、そういったことが心に浮かんでくるのです。本来、「本当はもっと助けられたのではないか…」そういう反省しか残らないのではないでしょうか。自分が首長の立場にあるとすれば、「何故もっと早くに要請しなかったか、できなかったか」と悔やむでしょう。県知事が要請していなくて、市町村単独であっても「直ぐに来てくれ」と頼むべきだったのではないか、そういう思いが残るのではないでしょうか。
しかし、報道にあったように、「石原氏の批判は失礼だ、震災を判ってないからだ」というような反発で、悔いが残っているという感じには見受けられないのです。反論側の意見の裏を読めば、「俺は間違っていなかった、俺の責任なんかじゃないんだ、自衛隊が来ても助からなかったんだ」という、言い逃れといいますか、責任逃れのようにしか聞えないのです。僅か2年も経っていない、ほんの少し前の「北海道南西沖地震」での教訓を活かしてさえいれば、派遣要請が遅れることなどなかったのではないか、そういう反省に立っていない、ということなのです。
自分のせいじゃないんだ、そう言いたい気持ちは判らないでもないですが、首長たるもの、何を守らねばならないかというと、「住民」ではありませんか。その立場を放棄するなら、「いや、誰が来ても助けられなかった」と言うことができるかもしれません。「打てる手が残されていたのに、それをしなかった」という後悔がある首長であるなら、石原氏の批判には反論できないのではないかと思うのですよね。それは「自分には住民を守る責任があった」という覚悟があるリーダーであればこそ、反論できないであろうな、と思うのです。
都知事選は個人的には希望していなかった結果(笑)となってしまいましたが、これとは関係なく考えてみたいと思います。
先日の「石原発言」に対して兵庫県側が反発しているようですけれども、石原氏の言い分がそれほど的外れとも思われないのです。当時の県知事なんかが反論するというのも、違和感が拭えないのですね。
報道では、次のように出ていました。
阪神大震災「首長判断遅く2千人犠牲」 石原氏が発言朝日新聞 - goo ニュース
(記事より一部引用)
震災時の兵庫県知事、貝原俊民氏(73)は「石原さんの誤解。たしかに危機管理面で反省はあるが、要請が遅れたから死者が増えたのではない。犠牲者の8割以上が、発生直後に圧死していた」と反論する。震災後に同県の初代防災監を務めた斎藤富雄副知事(62)は「全く根拠のない発言で、誠に遺憾。将来の備えのためにも、過去の災害を適切に分析してほしい」。神戸市に次ぐ被害を受けた同県西宮市の震災時の市長、馬場順三氏(81)は「震災を実際に体験していないから言える発言ではないか」と語った。
「2千人余計に亡くなった」とする石原氏の指摘に対して、兵庫県側の反論(当時の知事の貝原氏)としては、「8割以上が発生直後に圧死しており、要請の遅れと死者数は無関係(死者数の増加をもたらした訳でない)」という言い分なのであろうと思います。「過去の災害を適切に分析して欲しい」と初代防災監を務めた斎藤富雄副知事は語っておられます。
2)能登地震における行政側の対応
参考:
災害救助活動の検討1
災害救助活動の検討2
災害救助活動の検討3
新潟中越地震の時の出動要請は、3時間後でやや遅かったのですね。この前の時点で陸自のヘリなどが情報収集に向かっており、自衛隊側は要請がない段階であっても、要請が入り次第直ぐに動けるように準備していたということだと思います。
最近では能登の地震がありましたので、そちらも見てみます。
asahicom:山間集落、また孤立 能登地震 - 社会
(記事より一部引用)
多くの職員が発生から約1時間半で集まったという。荒井次長は「重ねてきた参集訓練と大差なく集まれた」。
谷本正憲知事は午前10時半ごろ登庁。同11時8分、陸上自衛隊に派遣要請をした。午後0時半には災害対策本部を設置。NTTと北陸電力からは出席者がなく、「被害状況を聴かなければいけない」と呼ぶよう指示した。双方とも本部に集まることにはなっておらず、「今後考える必要がある」と環境安全部。 総務省消防庁によると、「緊急消防援助隊」として隣接の富山、福井など7都府県から87隊、348人が石川県へ。 滋賀県は午前10時23分、同庁から派遣可能人数などの問い合わせがあり、22分後に正式な指令を受けた。すぐに8消防本部に出動を指示し、124人を派遣した。県地震対策室は「消防庁や各消防本部との連携はスムーズだった」と話す。
一方、政府は同9時45分、首相官邸内に野田健内閣危機管理監をトップとする官邸対策室を設置した。安倍首相は「被害状況と住民の安全確保に万全を期するように」と指示。溝手防災担当相を団長とする政府調査団を派遣し、輪島市役所に現地対策連絡室を設けた。
能登沖地震 「余震、いつまで続く」避難所眠れぬ夜 情報交差点-いしかわ 経済・情報 北陸発 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
こちらの記事では、『この会議では、電気と電話の状況確認の際、詳しい情報がなかったため、谷本知事が「北陸電力はなぜここにいないのか」と声を荒らげる場面もあった。』と書かれていたりしますが、まあしょうがないですな。知事が来るのが大体にして遅いんですから(笑)。
時間経過毎に大雑把にまとめてみます。
□県庁
10時30分頃 谷本知事登庁、10時45分 災害対策本部員会議、
11時8分 陸自派遣要請、0時30分頃 災害対策本部設置
□県警
9時45分 県警本部長 総合警備本部設置
□政府
9時45分 危機管理監 官邸対策室
□七尾市
10時 市長 災害対策本部設置
□輪島市
10時10分 災害対策本部設置
こうして見ると、石川県庁での対応は、政府や県警から既に1時間も遅れているわけです。七尾市や輪島市に比べても、対策本部設置が済んでいる時間に、知事は登庁していませんからね。仕方がない場合もあるのですが、今は谷本知事の対応を問題にしている訳ではありませんので、おいておきます。で、災害発生から約1時間25分経過後に、陸自派遣要請が出されています。対応が遅いと言いつつも、新潟地震の時よりは早かったということです。災害の発生した時間帯に影響されるという可能性も考えられますが、派遣要請を出すというのは、知事の決断さえあれば早めることが可能であるということです。
<ちょっと寄り道:
北朝鮮のミサイル発射騒動の時に、都道府県に来る情報が遅いとか何とか知事会で文句を言っていたが、本物が飛来するのは約7分程度らしいので、石川県知事みたいなチンタラした対応では到底間に合わない訳です。どこで聞いたとしても、即指示を出さねば間に合いませんよ。せいぜい5分くらいの猶予しかないでしょう。そういう発想に立って、普段から体制を作らない限り無理だ。知事がクソをしていて居場所が捕まらない場合には、連絡が付き次第副知事であろうとも即指示を出さないと間に合わない。災害であろうと、知事が登庁してなくても即座に指示だけは出しておかないとダメだろう。派遣要請は口頭でもいいので、それをやってから登庁してもいいはずです。地震災害時にノロノロとやっていては、他の突発的事態が生じても同じくノロノロとしか動けないんですよ。ミサイル情報に文句を言う前に、知事としてやるべきことをまず最速でやって見せるべきでしょう→知事会どの>
3)北海道南西沖地震での派遣要請
もう少し古い記録を見てみると、北海道南西沖地震というのがありました(平成5年)。
災害派遣(地震)
これによれば、地震発生から2~3分後に津波第1波が襲ってきた為、対応のしようがなかったようです。死亡者の殆どがこの津波被害によるものであったようです。時間経過で見ていきますと、
22時17分 地震発生
22時22分 気象台津波警報発令
?分 道庁、奥尻町にそれぞれ災害対策本部設置
22時35分 航空自衛隊に派遣要請
00時18分 陸上自衛隊に派遣要請
04時47分 海上自衛隊に派遣要請
となっております。
地震発生から、空自要請まで18分、陸自要請まで約2時間、ということで、自衛隊要請から初動が早く、捜索救援活動開始が速やかに行われたことは、評価するべきであると思います。
(一部引用)
陸上自衛隊は、北部方面隊及び第11師団が未明から早朝にかけ先遣部隊を進出させ、約7時間後には奥尻島において救援活動や患者の空輸を開始した。また、自衛隊札幌病院の医官と看護婦で医療チームを編成して奥尻島に進出させ、負傷者等の救護や治療に当たるとともに、渡島半島の被災地において給水支援を実施した。撤収要請があった7月31日までの災害派遣活動期間中、人員延べ1万9,709名、車両延べ961両、航空機延べ558機を投入し、発見・収容した遺体47体、治療した住民476名、給水量約300トンであった。
航空自衛隊は、震源地に最も近い奥尻分屯基地(約200名)が、13日0000過ぎ、桧山支庁長の要請で隊員約70名を近くの倒壊したホテルに派遣、建物の下敷きになった20名の捜索と救助に当たった。また、未明から早朝にかけてE-2C早期警戒機による情報収集を始め、救難捜索機による天候・状況偵察、ヘリコプターによる医療チーム・物資の輸送等の救援活動を実施した。撤収要請があった8月12日までの間、人員延べ5,282名、車両延べ658両、航空機延べ52機を派遣し、15名を救出、34体の遺体を発見・収容した。
このように、空自の奥尻分屯基地があったことから、『隊員約70名を近くの倒壊したホテルに派遣、建物の下敷きになった20名の捜索と救助に当たった。』ということで、倒壊建築物からの救出が早期(地震発生から約1時間半後)に行われたことは大変重要な活動であったと推測されます(空自が常に「空での任務」にしか役立たないとかそういうことはなく、地上でだって国民の為に救出活動を行ってくれるのです)。更に自衛隊病院の医療チーム投入が早くから行われたことも評価できると思います。
<ちょっと追加なんですが、空自の出動がとても早かったのですが、これは恐らく空自側から救出に「出ます」という申し出か何かがあったのではないかと推測しています。現地ではかなり混乱していたでしょうが、空自隊員たちがいたおかげである程度の連絡体制が取れたのではないかな、と。一般人では不安や恐怖で頭が回らないけど、自衛隊であれば上官などに連絡する手順とか決まっているだろうし、情報もきちんと伝えられますからね。そういう自衛隊での訓練が活かされたということなのではないかと。>
海自の活動は正式な出動要請の前から開始されており、派遣出動準備が行われていたようです。
(一部引用)
■災害発生直後の対応
大監は、各地の震度の大きさと、震源地が北海道西方近海であることを勘案し、津波に備えて大湊・函館・余市の隷下の可動艦艇を港外に避泊させた。大湊・函館で10数cm、余市で20cm程度の潮位の変化が認められたものの横付け中の小舟艇等への危険は認められなかった。しかし、テレビ情報等から奥尻島での深刻な災害の発生が予想されたため、13日0141隷下部隊に対して「災害派遣準備」を下令、0144出動態勢が整った23護隊(「ゆうぐも」)を、災害派遣要請に先立ち状況偵察のため奥尻島に向かわせた。刻々入る被災情報から、津波による被害がかなり大きいと判断されたため、0352「あおくも」を「ゆうぐも」の支援のため出動させた。
大空は天候不良のためヘリコプターを待機させていたが、回復の兆しが見えた0313及び0326にそれぞれ1機、状況偵察のため現地に向かわせた。渡島半島以西の天候は不良であったが、低いシーリングを縫って薄明時に現場空域に到達し、島の南部青苗地区の状況偵察及び写真撮影に成功した。
2空群(八戸)は地震発生後情報収集に努めていたが、災害は大きいと判断し状況偵察の必要性を空団司令部に伝え、13日0152に4空のP-3Cを現場に派遣した。同機は悪天候下0230現場上空に到着し、被害の状況をビデオ及び写真に撮影し持ち帰った。それらの情報は最も早く報道機関が入手した映像情報となり、当日朝のマスコミ各社の第一報に使用された。
■初動時の捜索救援活動
13日0447北海道知事から大総監に対し「災害派遣要請」(要請内容:①人員、物資の輸送及び警戒、②行方不明者の海上捜索)があり、これを受けて大地隊は訓練・業務の計画を変更し、災害派遣の初動に全力を投入することとした。
輸送艦「ねむろ」は年次検査のための準備を開始していたが、災害派遣での物資輸送の要請が予測されることから同検査を延期し、災害救助用物資(非常用糧食、毛布、被服及び衛生資材)を搭載、大湊衛生隊(以下「大衛生隊」という。各衛生隊については同様の略語を用いる。)の医官1名を乗艦させ、13日0446奥尻島に向かった。23護隊(「ゆうぐも」)は、13日0715に奥尻港外に到着、情報収集を開始した。また、「あおくも」は奥尻島に向かう途次、災害対策本部からの要請に基づき、日本赤十字社及び渡島支庁の救援物資、2,000名分の毛布、日用品及び非常用糧食を函館港で搭載し、奥尻島へ輸送した。「ねむろ」は1517奥尻港沖に到着、直ちに搭載の上陸用舟艇で災害救助用物資を揚陸した。
夜間の22時過ぎに地震発生で、翌朝7時には「ゆうぐも」が沖合いに到着、同15時過ぎには「ねむろ」が物資を積んで到着しています。港が使える状態でなかったことから、上陸用舟艇で揚陸しているというのも凄いですね。自衛隊ならでは、と言えるでしょう。
4)派遣要請と石原発言の当否
要するに「初動」が最も重要で、可及的速やかに「人員」「能力」「物資」等の集中投入が必要なのが「非常事態」なのですよね。自衛隊は正式要請が入ってきていなくとも、「派遣要請に備えて」準備を始めており、偵察活動も行っています。
根本的に、自衛隊と地方自治体の能力を比較すれば、「情報収集能力」「指揮命令能力」「運搬・救出能力」など災害救出活動に必要な全ての面で自衛隊の方が上回っており、「派遣要請」を躊躇う理由というのはあまりないように思われます。自衛隊の派遣要請をできるだけ後に延ばした時のメリットというのは、これといって思いつきません。せいぜい「災害規模が思ったよりも小さく、自衛隊が出動するほどでもなかった」というような、「無駄足に終わった」みたいなものくらいしかないのではないでしょうか。派遣要請をすれば、後は陸自なり空自・海自なりで「どのような活動が可能か」「どの程度の部隊投入をするか」などということを自衛隊側で判断してくれるので、「大規模な部隊投入を行ったみたが、大して必要な活動はなかった」というような心配を、知事がする必要はないのです。例えば陸自では、ヘリを出したり先遣隊を出して情報収集を行っているので、どの程度の部隊投入が必要かの判断は陸自で行えるのです。なので、ある程度規模が大きいと判断される場合であれば、「何はなくとも、まず派遣要請」ということでいいのではないかと思えます。
阪神大震災で8割以上が圧死であった、災害後短時間に亡くなられた、ということであったにせよ、自衛隊の派遣要請は「直ちに行うべきであった」と言えると思います。要請によるデメリットなど考えられないからです。頭部への致死的外傷、内臓破裂、大量出血による失血死、のようなもので、即死かほぼ即死に近いような短時間で死亡に至る場合でなければ、早期に発見救助されていれば「ひょっとしたら助かっていたかもしれない」というケースはないとは言えないでしょう。もっと発見が早ければ、所謂クラッシュ・シンドロームのような病態に陥る人の数がもっと減っていたかもしれませんし、自衛隊の医療班とかを出来るだけ早く投入できていれば、助かる人の数がもう少し増えていた可能性だって有るかもしれません。実際に、ある程度時間経過後に発見・救助された方もおられたのではなかったかと思います(記憶が定かではありませんが)。
石原氏の発言にあったように、その数が2千人に達するかどうかと言えば、確かにそこまでは救えなかったかもしれないけれども、たとえ僅か数名であったにせよ、助けられる命があればその救出可能性に賭け、全力でありとあらゆる手段・方法を取るべきであったろうと思います。手続がどうの、体裁がどうの、などというのは全くどうでもいい話で、「助かるかどうか」の瀬戸際なのですから、救命だけが最重要なのです。リーダーにそういう決意、判断、能力、そういったものが欠けていなかったとは言えないでしょう。石原氏の指摘したことは、数字が大袈裟であるとしても、本質的な部分では間違っていると非難などできないのではないかと思えます。
再び斎藤富雄副知事の言葉を借りれば、「過去の災害を適切に分析して欲しい」と言っているものの、阪神大震災の僅か1年半前に起こった北海道南西沖地震の時の「災害分析」がきちんとなされていなかったからではないか、その時の自衛隊活動や自治体との協力・連携体制について総務省や知事会などで十分検討されていなかったのではないか、知事という職務にあるものの役割・権限について当人の認識が不十分だったのではないか、そういったことが心に浮かんでくるのです。本来、「本当はもっと助けられたのではないか…」そういう反省しか残らないのではないでしょうか。自分が首長の立場にあるとすれば、「何故もっと早くに要請しなかったか、できなかったか」と悔やむでしょう。県知事が要請していなくて、市町村単独であっても「直ぐに来てくれ」と頼むべきだったのではないか、そういう思いが残るのではないでしょうか。
しかし、報道にあったように、「石原氏の批判は失礼だ、震災を判ってないからだ」というような反発で、悔いが残っているという感じには見受けられないのです。反論側の意見の裏を読めば、「俺は間違っていなかった、俺の責任なんかじゃないんだ、自衛隊が来ても助からなかったんだ」という、言い逃れといいますか、責任逃れのようにしか聞えないのです。僅か2年も経っていない、ほんの少し前の「北海道南西沖地震」での教訓を活かしてさえいれば、派遣要請が遅れることなどなかったのではないか、そういう反省に立っていない、ということなのです。
自分のせいじゃないんだ、そう言いたい気持ちは判らないでもないですが、首長たるもの、何を守らねばならないかというと、「住民」ではありませんか。その立場を放棄するなら、「いや、誰が来ても助けられなかった」と言うことができるかもしれません。「打てる手が残されていたのに、それをしなかった」という後悔がある首長であるなら、石原氏の批判には反論できないのではないかと思うのですよね。それは「自分には住民を守る責任があった」という覚悟があるリーダーであればこそ、反論できないであろうな、と思うのです。