2.1 金持ちの住む町と貧乏人の住む町
極端な言い方になってしまうが、ご容赦願いたい。
金持ちというのは、奥さんが仕事をしているケースというのは多いのだろうか?多分、専業主婦であっても不思議ではないだろう。何故なら、働く必要性がないからである。もしあるとしても、自分の趣味みたいなもので、生活費を稼ごうと思ってやっている仕事などではなく、「自分が好き」でやっているだけでそれなりに稼げてしまう、みたいなものではないか。金持ちの道楽みたいなものだ。実際、それでも普通の人より多額の稼ぎを得ている人は、それなりにいてしまうのも現実なのではあるが。
しかし、金持ちの家では、家族みんなが働く必要性がない。お父さんがガッポリ稼いできてくれるからである。時には、お母さんかもしれないが。なので、金持ちの家が立ち並ぶ町では、一軒の家で働いている人は大体1人くらいしかいなくて、世帯数と労働者数が同じくらい、というようなことである。
では、今度は貧乏人の町ではどうなっているだろうか?
多くの場合には、父ちゃんの稼ぎが少なすぎて一家全員が食べていけない。なので、母ちゃんも働かねばならないのだ。けれども、大して稼げるような難しい仕事ができるわけでもないので、父ちゃんも母ちゃんも低賃金の労働に従事したり、日雇い仕事なんかから日銭を稼いでいかねばならないのである。恐ろしいことに、それだけでは足りない。一家が生き延びる為には、兄ちゃんも学校になんか行かずに靴磨きなどのストリートで稼ぐとか、姉ちゃんもマッチ売りをして稼ぐとか、そうやって家計を支えねばならないのだ。つまり、一軒の家の家族は殆どが総出で働かないと食べていけないのである。隣の家も、その隣も、みんなそうやって必死に働いているのである。これが貧乏人の住む町だ。
労働者の数で見れば、同じ家計の数であろうとも、金持ちの町では「労働者数が少なく」、貧乏人の町では「労働者数が多い」ということになっているわけである。どっちが豊かな暮らしなのであろうか?仕事に従事する人数の多い町か?(笑)
賃金の高い金持ちの住む町では、女子供が必死に働く必要性はない、ということである。習い事をしたり、学校に行ったりして過してよい、ということである。
一方、貧乏人の住む町では、働ける年齢の家族が全部仕事を求めて働くよりない、ということである。1人当たりの賃金は貧乏人の町では低く、金持ちの町では高いのである。
2.2 「賃金が上がれば失業率が上がる」のウソ
金持ちの町では、賃金が高いが失業率が高いということにはならない。貧乏人しか住んでいない町では、賃金が安いにも関わらず失業が多いのである。なぜかといえば、賃金が低すぎるので父ちゃんの稼ぎだけでは食べていけず、家族全員で仕事を探すことになってしまうからである。家族全員で仕事を探すなら、金持ちの住む町であっても「仕事に就けない人」の数は多くなるだろう。それを「失業者と呼ぶ」ということでカウントしてしまうと、確かに貧乏人の町よりも従事していない数は多いかもしれない。
しかし、金持ちは働くべき必然性がないので、「働かない」とか「就業を希望しない」というのが当然の選択肢として存在する。金持ちが働きたいというのは、所詮趣味の世界みたいなものである。こういう人を「失業者」とは呼ばないのである。
一方、貧乏人の町ではどうであるかといえば、常に「稼ぎたい」と仕事を狙っていなければならないので、少しの稼ぎにしかならない仕事であっても、「ないよりはマシ」ということで飛びついてしまうのだ。そうすると、低賃金なのに希望する人が後を絶たないので給料は上がらず、仕事にあぶれた人たちは失業したままになってしまうのである。
金持ちの町と同じく、父ちゃん一人の稼ぎで家族全員が食べていけるなら、貧乏人の町でも就業を希望する数は減少するので、失業者が増えるということにはならないわけである。息子や娘はストリートに出て働かなくともよくなるようになるのだ。就業(希望)人口からは除外される、ということになるのだ。失業という呪いからは解放されるようになる。
2.3 日本が辿ったのは、貧乏人の住む町への転落
その1で述べたように、日本の労働者数は増加した。これはあたかも、一家に一人の稼ぎで生活していた世界から、家族総出で働きに出ることにした世界へと無理矢理に転換したようなものだったのだ。父ちゃんの稼ぎを少なくすることによって、以前は金持ちの住む町と同じだったものを、母ちゃんも兄ちゃんも姉ちゃんもみんな働きに出る世界へと変えられたということだ。
金持ちの家の娘や息子を働きに出すことを、流動化などというわけがない。そんなのはウソである。
金持ちの住む町では、お手伝いさんや運転手や家庭教師などを雇っていたりすることがあるが、こうした仕事の賃金さえも、貧乏人の住む町の住人より稼ぎが良かったりするのだ。
2.4 家事の不均衡
かつての専業主婦の仕事といえば、子育てであり家事や親の介護など(以下では、これらをまとめて「家事」と呼ぶことにする)であった。これらの仕事と、会社などで働くのと、どちらの価値が高いか、ということの比較をして、女性が選択することになるわけである。金持ちの町であると、たとえ奥さんが働いていても(場合によっては働いていなくとも)、奥さんの稼ぎが圧倒的に「家事」よりも稼げるということになるので、ベビーシッターを雇ったり有料介護ホームと契約したりできるわけである。奥さんの稼ぎの一部を使って、こうした費用に充当できるほどに稼げる、ということである。
しかし、現状では必ずしもそれらがうまく行っているわけではない。
昔に比べて、親世帯との同居が減ったことも影響しているかもしれない。外ではあまり稼げない女性であっても、高齢の親が同居していれば介護などの家事を担当することによって稼いでいるのと同じ効果を生むからである。これは子育ても同様。だが、同居してないとなると、家事労働から得られる稼ぎが減っているのと同じこと(その分だけ奥さんの労力を提供していないので)になってしまうからである。祖父母の同居は、奥さんが外に働きに出る時の保育費用捻出と同じような効果を持つなら、これもやはり稼ぎの減少となってしまっている(遠くの祖父母は孫の面倒をみずに遊んでいるというのと同じになるので)。
このように、離れていること、距離的に遠いということ、これらが稼ぎと労力の不均衡を生じさせる一因となっているのかもしれない。
保育や介護などの労力は、誰かが投入せざるを得ない、ということに違いはないので、どう解決を考えるかということになるわけである。
・労力を投入せず、お金を出す=保育園や介護サービス利用
・ 自らの労力を投入する=主婦が育児や介護をする、祖父母が孫の面倒をみる
つまり、稼げる人は自分の労力投入ではなく、お金を投入するべき(税、保険料、利用料負担など)ということである。これら費用以下しか稼げないのであれば、金銭的負担を減らしても自らの労力を投入してくれればいいのであるが、そうなっていないこともある。
働かずにいながらにして、親の面倒をみるどころではなく自分の子育てすらも満足に出来てない、というようなことである。逆に、稼げるわけでもないのに無理に働きに出て、社会的費用を増大させていることもあるかもしれない。
2.5 稼ぎ頭をしっかり支える
今後のことを考えると、社会全体で割り振りをしてゆくよりないと思う。肉親とかに関係なく、近くの人たちで役割を果たしてもらえるような仕組みを整えることが必要ではないか。
稼げる人たちは男女関係なく、稼ぎ頭の主力となっていただき、外で働いてもらってバンバン稼いできてもらう。この方々の賃金は安くある必要性なんかないのは当然だ。家に帰れないほどの勤務とか、そういうのは基本的にやめるべき。キチキチで余裕を持つこともできず、一ミリの隙間さえもない、みたいな状況は長続きしないので無理。100m全力疾走が一番タイムがいい、といっても、これを永続することなどできないのだから。瞬間的にその態勢が求められることがあるかもしれないが、ほんの一瞬だけにするべき。一人当たりの負担を分散し、必要な人数は確保するべき。
で、そんなに稼げない人たちは、金銭的に負担するのではなく、自分の労力をできるだけ提供してもらうようにするべき。税負担を大幅に軽減する代わりに、労力負担を多くして下さい、とか、そういうことである。稼ぎ頭のサポートをしてもらうだけで、大きな貢献となるはずである。それが上に書いた、金持ちの住む町というのと同じようなことだ。
別に、人口が増え続ける社会が、必ずしも豊かな社会というわけではない。
家族みんなが必死で働き続けないと維持されない社会というのは、昔の貧しかった時代と同じなのだ。労働可能人口が増大するけど仕事がない、という状況は、戦争、紛争や犯罪行為に繋がるといったことがあったであろう。消費人口が増えたからといって、仕事のポストや生産が乏しければやはり貧しい人々が増大するだけなので、新天地を求めて外へ出て行ったではなかったか。そういうことも考えるべきではないかな。
極端な言い方になってしまうが、ご容赦願いたい。
金持ちというのは、奥さんが仕事をしているケースというのは多いのだろうか?多分、専業主婦であっても不思議ではないだろう。何故なら、働く必要性がないからである。もしあるとしても、自分の趣味みたいなもので、生活費を稼ごうと思ってやっている仕事などではなく、「自分が好き」でやっているだけでそれなりに稼げてしまう、みたいなものではないか。金持ちの道楽みたいなものだ。実際、それでも普通の人より多額の稼ぎを得ている人は、それなりにいてしまうのも現実なのではあるが。
しかし、金持ちの家では、家族みんなが働く必要性がない。お父さんがガッポリ稼いできてくれるからである。時には、お母さんかもしれないが。なので、金持ちの家が立ち並ぶ町では、一軒の家で働いている人は大体1人くらいしかいなくて、世帯数と労働者数が同じくらい、というようなことである。
では、今度は貧乏人の町ではどうなっているだろうか?
多くの場合には、父ちゃんの稼ぎが少なすぎて一家全員が食べていけない。なので、母ちゃんも働かねばならないのだ。けれども、大して稼げるような難しい仕事ができるわけでもないので、父ちゃんも母ちゃんも低賃金の労働に従事したり、日雇い仕事なんかから日銭を稼いでいかねばならないのである。恐ろしいことに、それだけでは足りない。一家が生き延びる為には、兄ちゃんも学校になんか行かずに靴磨きなどのストリートで稼ぐとか、姉ちゃんもマッチ売りをして稼ぐとか、そうやって家計を支えねばならないのだ。つまり、一軒の家の家族は殆どが総出で働かないと食べていけないのである。隣の家も、その隣も、みんなそうやって必死に働いているのである。これが貧乏人の住む町だ。
労働者の数で見れば、同じ家計の数であろうとも、金持ちの町では「労働者数が少なく」、貧乏人の町では「労働者数が多い」ということになっているわけである。どっちが豊かな暮らしなのであろうか?仕事に従事する人数の多い町か?(笑)
賃金の高い金持ちの住む町では、女子供が必死に働く必要性はない、ということである。習い事をしたり、学校に行ったりして過してよい、ということである。
一方、貧乏人の住む町では、働ける年齢の家族が全部仕事を求めて働くよりない、ということである。1人当たりの賃金は貧乏人の町では低く、金持ちの町では高いのである。
2.2 「賃金が上がれば失業率が上がる」のウソ
金持ちの町では、賃金が高いが失業率が高いということにはならない。貧乏人しか住んでいない町では、賃金が安いにも関わらず失業が多いのである。なぜかといえば、賃金が低すぎるので父ちゃんの稼ぎだけでは食べていけず、家族全員で仕事を探すことになってしまうからである。家族全員で仕事を探すなら、金持ちの住む町であっても「仕事に就けない人」の数は多くなるだろう。それを「失業者と呼ぶ」ということでカウントしてしまうと、確かに貧乏人の町よりも従事していない数は多いかもしれない。
しかし、金持ちは働くべき必然性がないので、「働かない」とか「就業を希望しない」というのが当然の選択肢として存在する。金持ちが働きたいというのは、所詮趣味の世界みたいなものである。こういう人を「失業者」とは呼ばないのである。
一方、貧乏人の町ではどうであるかといえば、常に「稼ぎたい」と仕事を狙っていなければならないので、少しの稼ぎにしかならない仕事であっても、「ないよりはマシ」ということで飛びついてしまうのだ。そうすると、低賃金なのに希望する人が後を絶たないので給料は上がらず、仕事にあぶれた人たちは失業したままになってしまうのである。
金持ちの町と同じく、父ちゃん一人の稼ぎで家族全員が食べていけるなら、貧乏人の町でも就業を希望する数は減少するので、失業者が増えるということにはならないわけである。息子や娘はストリートに出て働かなくともよくなるようになるのだ。就業(希望)人口からは除外される、ということになるのだ。失業という呪いからは解放されるようになる。
2.3 日本が辿ったのは、貧乏人の住む町への転落
その1で述べたように、日本の労働者数は増加した。これはあたかも、一家に一人の稼ぎで生活していた世界から、家族総出で働きに出ることにした世界へと無理矢理に転換したようなものだったのだ。父ちゃんの稼ぎを少なくすることによって、以前は金持ちの住む町と同じだったものを、母ちゃんも兄ちゃんも姉ちゃんもみんな働きに出る世界へと変えられたということだ。
金持ちの家の娘や息子を働きに出すことを、流動化などというわけがない。そんなのはウソである。
金持ちの住む町では、お手伝いさんや運転手や家庭教師などを雇っていたりすることがあるが、こうした仕事の賃金さえも、貧乏人の住む町の住人より稼ぎが良かったりするのだ。
2.4 家事の不均衡
かつての専業主婦の仕事といえば、子育てであり家事や親の介護など(以下では、これらをまとめて「家事」と呼ぶことにする)であった。これらの仕事と、会社などで働くのと、どちらの価値が高いか、ということの比較をして、女性が選択することになるわけである。金持ちの町であると、たとえ奥さんが働いていても(場合によっては働いていなくとも)、奥さんの稼ぎが圧倒的に「家事」よりも稼げるということになるので、ベビーシッターを雇ったり有料介護ホームと契約したりできるわけである。奥さんの稼ぎの一部を使って、こうした費用に充当できるほどに稼げる、ということである。
しかし、現状では必ずしもそれらがうまく行っているわけではない。
昔に比べて、親世帯との同居が減ったことも影響しているかもしれない。外ではあまり稼げない女性であっても、高齢の親が同居していれば介護などの家事を担当することによって稼いでいるのと同じ効果を生むからである。これは子育ても同様。だが、同居してないとなると、家事労働から得られる稼ぎが減っているのと同じこと(その分だけ奥さんの労力を提供していないので)になってしまうからである。祖父母の同居は、奥さんが外に働きに出る時の保育費用捻出と同じような効果を持つなら、これもやはり稼ぎの減少となってしまっている(遠くの祖父母は孫の面倒をみずに遊んでいるというのと同じになるので)。
このように、離れていること、距離的に遠いということ、これらが稼ぎと労力の不均衡を生じさせる一因となっているのかもしれない。
保育や介護などの労力は、誰かが投入せざるを得ない、ということに違いはないので、どう解決を考えるかということになるわけである。
・労力を投入せず、お金を出す=保育園や介護サービス利用
・ 自らの労力を投入する=主婦が育児や介護をする、祖父母が孫の面倒をみる
つまり、稼げる人は自分の労力投入ではなく、お金を投入するべき(税、保険料、利用料負担など)ということである。これら費用以下しか稼げないのであれば、金銭的負担を減らしても自らの労力を投入してくれればいいのであるが、そうなっていないこともある。
働かずにいながらにして、親の面倒をみるどころではなく自分の子育てすらも満足に出来てない、というようなことである。逆に、稼げるわけでもないのに無理に働きに出て、社会的費用を増大させていることもあるかもしれない。
2.5 稼ぎ頭をしっかり支える
今後のことを考えると、社会全体で割り振りをしてゆくよりないと思う。肉親とかに関係なく、近くの人たちで役割を果たしてもらえるような仕組みを整えることが必要ではないか。
稼げる人たちは男女関係なく、稼ぎ頭の主力となっていただき、外で働いてもらってバンバン稼いできてもらう。この方々の賃金は安くある必要性なんかないのは当然だ。家に帰れないほどの勤務とか、そういうのは基本的にやめるべき。キチキチで余裕を持つこともできず、一ミリの隙間さえもない、みたいな状況は長続きしないので無理。100m全力疾走が一番タイムがいい、といっても、これを永続することなどできないのだから。瞬間的にその態勢が求められることがあるかもしれないが、ほんの一瞬だけにするべき。一人当たりの負担を分散し、必要な人数は確保するべき。
で、そんなに稼げない人たちは、金銭的に負担するのではなく、自分の労力をできるだけ提供してもらうようにするべき。税負担を大幅に軽減する代わりに、労力負担を多くして下さい、とか、そういうことである。稼ぎ頭のサポートをしてもらうだけで、大きな貢献となるはずである。それが上に書いた、金持ちの住む町というのと同じようなことだ。
別に、人口が増え続ける社会が、必ずしも豊かな社会というわけではない。
家族みんなが必死で働き続けないと維持されない社会というのは、昔の貧しかった時代と同じなのだ。労働可能人口が増大するけど仕事がない、という状況は、戦争、紛争や犯罪行為に繋がるといったことがあったであろう。消費人口が増えたからといって、仕事のポストや生産が乏しければやはり貧しい人々が増大するだけなので、新天地を求めて外へ出て行ったではなかったか。そういうことも考えるべきではないかな。