いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

マスコミの断罪と法的責任は別である

2010年01月24日 14時33分47秒 | 社会全般
小沢の会見を見た印象などについて、書いておきたい。


落ち着いた感じで、静かではあった。
疲れもあったせいなのか、元気はなかった。小沢がウソを言っているようには思えなかったが、人間というのは中々複雑なものではあるので、真実がどうなのかは判らない。まあ、討たれるべき政治家である、とは思えなかった。金を欲しがるタイプの人間のようには見えない、ということもある。
小沢の主張ややり方には反対すべき部分はあるけれども、それと事件は別だ。


それ以上に、今回のような手口を使えば、いつでも政治家の首を獲れる、という手法を根絶させるには、ここで退くわけにはいかない、という思いはある。


とりあえず今後の検察の捜査や出方を静観するよりないと思う。
ただ言えることは、検察の見立てや描いている絵は、必ずしも正しいわけじゃないということ。マスコミが煽り、検察の権力行使を促すのはこれまでにもあったが、マスコミが検察官や判事の役割を演じる必要性はないはずである。なのにマスコミというのは、「恐怖の人民裁判」がお好きらしい。


少し前になるが、耐震偽装問題というのがマスコミを賑わせたことがあったはずだ。
あれも、連日マスコミに登場しない日はなかったんじゃないかというくらい、テレビ、新聞、雑誌などで徹底取材をやっていたはずだ。

そうして、証人喚問まで実現したし、関与のあった人物は軒並み逮捕されることとなった。問題の設計士は勿論だが、マンション業者の社長、設計会社、建設会社の社長と支店長、そういった人たちは逮捕された。

黒幕としてテレビなどに再三登場していたコンサルは助かった。他はみな、逮捕に至ったわけである。


例えば、検察が起訴した内容がどの程度認められたかというのは、マスコミが検証したことなどあったのか?
木村建設の社長は有罪が確定したらしいが、容疑は耐震偽装には無関係の建設業法違反だった。会社の粉飾決算が違法とされたのだ。確かに、違法ではあるのだろう。だからといって、マスコミが大々的に報道していたような事実とか容疑で有罪になったわけではなかった。むしろ、誰も指摘してなかったような、本筋とは無関係部分の犯罪認定ということであったわけである。

これこそが、「叩けばホコリは出てくる」みたいなものであって、マスコミの煽動さえあれば、逮捕させることができ、本筋じゃなくとも別件逮捕であろうと何だろうと、「制裁を加えよ」精神発揮で、マスコミが人民裁判の検事兼判事となり、社会的に葬り去ることができてしまう、ということだ。

マスコミに狙いを定められたら、終わり、ということではないか。
社会的に抹殺されてしまうのだよ。

そうして、抹殺された人間のことなど、殆どが報じないか、報じられたとしても極々小さくひっそりと報じられるだけで、そのことになど誰も関心も払わず興味も失われているのである。社会的に抹殺された人間のことになど、誰も何とも思わないのである。


どんなにマスコミが新事実だとか、新たな疑惑とかいって、色々と探し出してきて、報道合戦をやったところで、それは法的責任を負うものであるかどうかなんて、別問題なのだ。違法かどうかも判らないのだ。



司法への信頼を失わせた検察

2010年01月24日 12時50分43秒 | おかしいぞ
小沢証言の話は、また別に書くことにする。今は、検察の問題について、取り上げたい。
誠に残念なのは、検察批判を散々問題視していた人々は、何一つ答えようとしないことである。鳩山発言(「闘って下さい」等々)が行政の長として不適切である、ということだけは言うものの、問題点に正面から答えたものなど、ただ一つ見たことがない。鳩山発言が不適切であるということは、検察の正当性を立論できるものでない。

「反検察」陣営(笑、そんな陣営はないけど、便宜的にこう呼ぶこととする)を殊更取り上げている人はいた(例えばこんな話)が、自分の主張には何らの説明も立論もないままである。検察の正当性の立論には無関係の、どうでもいいネット上の釣り合戦なんかの記事を供給して、笑いを提供してはいるものの、検察批判を否定できるような説明など一切ないわけである。特定政治家と自らの関係などについても、一切コメントがない。つまりは、焦点ずらし(某氏の得意技だったか?笑、かつての木村某とのバトルの時と一緒だな)の、単なる「逃げ」だな。


検察のやり方が妥当である、法学専門家の見地からしても恣意性など存在せず正当である、といった主張というものは、法学・法曹の専門家が行うべきものであろうから、それを期待したいわけである。そういう専門家の人こそが、具体的事例に沿って取扱いが平等であるとか、法解釈論的に見て整合性が保たれている、ということを是非とも明らかにしてもらいたいわけである。だが、そんな主張や説明をしている人がどれほど存在しているのだろうか?
検察は正しい、というのなら、その主張なり説明なりをせよ。


仮に、検察リークが存在しているとしても、刑訴法47条(*1)の但書部分で違法性は回避されている、という主張をするかもしれない。そうであるとしても、検察官が国家公務員であるには違いないので、国家公務員法111条の適用を免れているかどうかは別な法解釈の問題であろう。
現に、「第二の西山事件」などと仰々しく報じられていた自衛隊の漏洩事件では、1等空佐は取材に応じただけであるはずなのに、送検された(*2)し懲戒免職となったのだから。読売新聞記者の取材方法が違法であったかどうか、違法とは言えないまでも社会的に認容せざるような手段方法であったかどうかなどということは、取調をしなければ判るはずがないにも関わらず、なきままに処分が決せられたというわけである。

(*1):刑事訴訟法 第四十七条 「訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない。但し、公益上の必要その他の事由があつて、相当と認められる場合は、この限りでない。」
(*2):起訴猶予となってしまい、不起訴に違いないので裁判は開かれていない。検察や裁判所の法的見解は不明のままである。


検察の行っているのは、まさに恣意的運用である。
整合的な説明などつけようのない、あからさまな「検察の為の運用」である。法の適用も、起訴・不起訴の使い分けも、全ては検察の都合のいいように利用されているに過ぎない。説明など不必要である、という判断なのであろう。

それが、検察の論理である。