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東京第五検察審査会を狙え~まとめ

2010年11月02日 21時52分15秒 | 法関係
この国における司法とは、腐ったゴミ同然の制度のことを言うのだろうか。
最高裁とは、言い換えると、ゴミの総元締めのことなのだろうか?
この国の法曹は、恥を知らない。最高検しかり、最高裁しかり、彼らが結託してどんな悪事をも可能にするということである。
この国に、「司法」なる分野なんぞ存在しないということだろう。

参考:

異様な抽出?~検察審査会の疑惑

続・異様な抽出~愚か者の悪巧み?

続々・異様な抽出?~検察審査会の度重なる訂正

検察審査会の有する問題点について~1

検察審査会の有する問題点について~2

検察審査会の有する問題点について~3・検察審査会は違憲?

東京第五検察審査会を狙え(追記あり)

東京第五検察審査会を狙え~2

東京第五検察審査会を狙え~3

捏造事件で隠そうとする検察審査会の闇


最高裁よ、よく聞け。恥知らずな司法の親玉に、再び問う。

東京第五検察審査会の実態を明らかにせよ。全国の検察審査会を含めて、出鱈目の制度とお手盛り運用を清算せよ。何が、三権分立だ。司法なんじゃなく、ただの行政機関の出先の一つ、ってだけだろ?


1)検察審査会の会議録を明らかにせよ

▼検察審査会法 第二十八条  
検察審査会議の議事については、会議録を作らなければならない。
○2  会議録は、検察審査会事務官が、これを作る。


実際に審査会事務局の現地に行った方々がおられたそうですが、議事録はない、とか断ったそうじゃないですか(笑)。そりゃ、出鱈目の証拠なんじゃないですか?きちんと会議は開かれた、というのなら、公開できるでしょうが。伏せる所だけ黒塗りでもすればいいだけだろ。

▼検察審査会法施行令 第二十七条  
法第二条第一項第一号 に規定する事項に関する会議録は、事件ごとに作らなければならない。
2  前項の会議録には、次に掲げる事項及び会議の経過を記載し、検察審査会
長が検察審査会事務官とともに署名押印しなければならない。
 一  会議をした検察審査会及び年月日
 二  検察審査会長又は臨時にその職務を行う者、検察審査員、臨時に検察審査員の職務を行う者、会議を傍聴した補充員、審査補助員及び検察審査会事務官の職名及び氏名
 三  審査申立人及び被疑者の氏名並びに不起訴処分をした検察官の氏名及び官職。ただし、被疑者の氏名又は検察官の官職が明らかでないときは、被疑者を特定するに足りる事項又は検察官の所属検察庁の名称
 四  検察官の意見並びに審査申立人、証人及び専門的助言を徴された者の供述又はその要旨
 五  議決をしたこと及び議決の趣旨
 六  検察審査会長が特に記載を命じた事項


事務官の署名があるはずだ。会議の開催日もあるに決まってるよな?


2)検察審査会事務局の実態を明らかにせよ

事務局長以下、事務官を明かすことは何ら問題ないはずだ。現に、第一検察審査会の事務局長は、名乗り出てるじゃないの。
更には、総務課長は手嶋課長ということは判ったが、審査課というのがあるはずだ。その審査課長を明らかにすべし。できないはずない。

▼検察審査会法施行令 第二十九条  
最高裁判所の指定する検察審査会の事務局に、総務課及び審査課を置く。
2  総務課においては、左の事務をつかさどる。
 一  検察審査会の庶務に関する事項
 二  検察審査会制度の普及宣伝に関する事項
 三  審査課に属しない事項
3  審査課においては、左の事務をつかさどる。
 一  審査事件の処理に関する事項
 二  検察審査会の招集手続及び会議録の作成保管に関する事項
 三  審査事件に関する資料の保管に関する事項
4  各課に課長を置く。課長は、検察審査会事務官の中から、最高裁判所が命ずる。
5  課長は、上司の命を受けて、課務をつかさどる。


条文にある通り、最高裁が命じてるんだろが。『最高裁』が、だ。
ひょっとして、東京の第一~第六検察審査会の事務局は、凄く少ないんですか?
だって、兼務できるよ、という規定がありますからね。
報道でも、実名の人物でも、現実に登場しているのは、長瀬第一検察審査会事務局長と手嶋総務課長の2名だけで、他はめぼしい人がいないですもんね。

▼検察審査会法施行令 第十五条の二  
最高裁判所の指定する検察審査会の検察審査会事務局長は、同一の地方裁判所の管轄区域内にある他の検察審査会であつて、最高裁判所の指定するものの検察審査会事務官に、法第九条 、第十一条から第十二条の四まで、第十二条の六から第十三条まで及び第十八条の二並びに第二条、第八条の三、第八条の四、第九条及び第十一条に規定する事務であつて、最高裁判所の指定するものを補助させることができる。

というふうに、例えば第一の事務官は第五の事務を補助していい、みたいになっているなら、それは可能だよね、という話だ。そうであれば、オールスターキャストがこれっぽち、ということで(笑)、あまり人がいませんね、ということも理解できるわな。
いずれにせよ、最高裁が仕切っているんだよ、事務局は。それに違いはない。


3)審査補助員となった弁護士への委嘱書を公開せよ

これも既に明らかになってるから、公開できるでしょ?

▼検察審査会法施行令 第二十六条の二  
審査補助員を委嘱したときは、検察審査会は委嘱書を作成し、これを本人に交付するものとする。
2  審査補助員を解嘱したときは、検察審査会は解嘱書を作成し、これを本人に交付するものとする。


公開は何も問題ないはずだ。


4)検察審査会開催の招集状の記録を出せ

これも、相手の名前とか住所を伏せれば出せるよね?
送達だそうだから、送達記録も残ってるはずだ。ない、ということになると、それは大変なことになるね。郵便不正事件なんかと一緒で、何故か裁判所の送達が郵便局から消えてなくなるとかの事件でも起こるのか?(笑)

▼検察審査会法施行令 第十六条  
検察審査員及び補充員に対する招集状は、送達する。ただし、招集状の送達を受けた者に対するその後の招集状は、検察審査会長が相当と認める方法によつて発することができる。

1回目は送達だ。2回目以降は、他の方法でもよい、ということだな。だから、1回目の記録は必ずあるはず。
それから、開催日なんだけど、規定があるんだよ。

▼検察審査会法施行令 第十七条  
検察審査員及び補充員に対する招集状の送達の日又は前条第一項ただし書の規定により検察審査員及び補充員に対し招集状を発した日から五日を経過した日と検察審査会議期日との間には、少なくとも五日の猶予期間をおかなければならない。ただし、急速を要する場合は、この限りでない。

条文通りに読めば、
「招集を発した日から5日後」と「検察審査会議期日」とは、5日間の猶予を置け
ということだな。

たとえば、11月1日に招集を発する(送達、2回目以降であれば電話で呼ぶ等)と、この5日後は「11月6日」ということになる。この日と開催日を5日間空けろ、ということであれば、11日以降の開催じゃないとダメってことだよね?
つまり、大体10日くらいは予定の余裕を持って期日を決めろ、ってなことであり、法律通りの運用をするはずであろう公務員が、条文とは違う開催日を設定したりするものなのか、ということだ。

どうしてかって?
ほら、例の読売新聞記事のお陰ですわ。「毎週火曜日」開催って書かれていたでしょう?
定例の開催日が「毎週火曜日」なわけがないんですよ。だって、10日の猶予期間を置け、ということなら、次の火曜日開催には間に合わないから、だ。
あるとすれば、ずっと初期の頃に予め期日を決めてしまうような場合、ということになる。そんなに先の予定まで決められるのかな?全員参加じゃないと開催できないのだし。それとも、開催日が1日しかない、とかであれば、送達だけで終わるから楽勝で開催できるけど。
ま、最悪の場合、ただし書き部分で急速を要する場合にはこの限りではない、ということらしいから、別に毎週だろうが毎日だろうがいいんだろうけどさ。

おかしいのは、吉田弁護士を9月7日に委嘱したとして、招集日が14日に決まっていたということだ。
何故なら、吉田弁護士に委嘱する前の時点で招集日が14日に決まっていた、ということになるわけだろう?
どうして、吉田弁護士の予定を知ることができたのか?

吉田弁護士の委嘱が決まってから、14日の召集日を決めるとする場合、先の5日猶予ルールが全く無視される、ということになる。ましてや、翌日以降から連続招集などということになると、7日に委嘱状が行って、翌日から毎日のように会議が開かれただと?

どうしてわざわざ、そんな強行日程を組む必要性があったのか?


要するに、矛盾だらけなんだよ。





日本のクソ司法の元締めたる最高裁よ、これでもシラを切るつもりか?
最高検以下検察だけじゃなく、同じく最高裁までもが腐り切ってるのか?
条文に何て書いてあった?

『最高裁』って、お前らの名称が入っていたんじゃないのか。
最高裁の名前で、こいつらはやってるんだぞ。



この国は、本当に終わってるな。
政治がどうの、というような簡単な問題じゃない。
ゴミどもが、司法行政の最高頂点まで浸透しているんだわ。
その上、恥もなければ、良心もないと来ている。
これで、一般国民は何が信じられると?



日本の司法制度は完璧に崩壊しました。

司法は独立なんかじゃありません。
裁判官には良心のかけらなど、微塵もありません。
おまけに、加担していることに恥もなければ、反省も後悔もありません。

要するに、ゴミどもが肥溜めで一緒になって腐りきってる、ということですね。
素晴らしいわ。

検察、裁判所、どれもが、本物の悪党の巣窟だったとは。

絶対に、司法を信用してはならない。
人々を陥れることにかけては、天下一の悪党どもだからな。


正義はない。

これが、日本の真実だ。



さて、見出しは「何 Tuesday」となるのやら

2010年11月02日 18時24分31秒 | 外交問題
いよいよ迫った米国の中間選挙です。

結果はどうなることやら、とは思いますが、事前の評判通りならば、オバマ大統領が窮地に立たされることになるでしょう。
後は、その負け具合、ということになりますか。

超大敗なら、それ相応の見出しが付けられるのかもしれません。
地滑りか、ハリケーンか、竜巻か、原油漏れか、巨大津波か、何がもじられるか判りませんがね。何か気のきいた見出しが躍ることでしょう。

それとも、何とかギリギリで共和党の攻勢をしのぎ切り、踏み留まるかもしれません。そうすると、「~の奇跡」とかの見出しになるんでしょうか。



日本の民主党―DPJ―も本格的に沈没しているので、選挙後は傷を舐め合うことになるかもしれませんね。

と言いますか、日本の政治には幻滅ですが、オバマ政権を挽回するだけの「力量」すら備わっていないのが、今の菅政権でございますので、何とも協力のしようもございません。申し訳ないんですが。

数日後に控えるAPECの様子がどうなるのか、世界が見ていることでしょう。

手負いの米国と、ルーピー(鳩山)なき後もやっぱり頓馬の菅政権では、外交舞台の主役の席にはつけますまい。



とりあえず今できることといえば、オバマ政権が決定的ダメージを受けないことを祈ることくらいしかないでしょう。

本当にクリティカル・ダメージであった場合、菅政権はどうするつもりなんだろうかね。




金融政策とelasticity ~その2

2010年11月02日 15時44分13秒 | 経済関連
(続きです)

特に重視すべきは、失業率との関係ではないかと考えた。
代表例として、人事院勧告の給与改定率と失業率及び消費者物価指数を年度毎に見てみる。


   改定率   失業率   CPI 
95   0.90   3.2    -0.1
96   0.95   3.4    0.4
97   1.02   3.4    2.0
98   0.76   4.1    0.2
99   0.28   4.7    -0.5
00   0.12   4.7    -0.5
01   0.08   5.0    -1.0
02   -2.03   5.4    -0.6
03   -1.07   5.3    -0.2
04     0    4.7    -0.1
05   -0.36   4.4    -0.1
06     0    4.1    0.2
07   0.35   3.9    0.4
08     0    4.0    1.1
09   -0.22   5.1    -1.6
10   -1.5   5.0    -1.1

(%、10年度は改定率以外途中の数字)


名目の雇用者報酬が最大となった97年以降は、改定率の前年比マイナスが続くようになり、今世紀に入って以降にはマイナス改定となるようになった。プラス改定となったのは、02年以降ではたったの「0.35%」しかないわけだ。1度きり。
これで、デフレ脱却、なんてことが期待できるかといえば、無理としか思われないわけである。

97年以降の前年の改定幅を上回った年というのは、僅かに4回しかない。
 02(-2.03%)→03(-1.07%)→04(0%)
 05(-0.36%)→06(0%)→07(0.35%)
02~04年のマイナス圏からゼロに戻っただけでは、「給料が上がった」などと思えずはずもなく、ただ単に「削られるのが減った」というだけに過ぎない。実際の数字として「給料が上がった」と言えるとすれば、07年の1度だけしかない、というのはそういうことだ。


98年以降、失業率が4%を超えてしまうようになり、03年までの超氷河期を過ぎる頃には、労働者側の交渉力はほぼ全て剥ぎ取られてしまった、ということである。自殺者が極端に多くなったのも同じ時期であり、「リストラの嵐」をどうにか生き延びた後に残るのは、「切られるよりはマシだ」という生存願望で、どのような賃金引き下げにも応じてしまう、という風潮が出来上がってしまったのである。


以前であれば、不況期においても、公務員の給料は大きく下がることがなかった。賃金改定の容易さでいえば、民間は簡単に引き下げだが、公務員はそれよりも困難であったはずだ(笑)。上がる幅も限定的だったが、下がることはほぼなかった。

抵抗勢力がどうのとか、霞が関の悪徳官僚たちが暗躍してとか、そういうことではなく(いや、そういう面がないとは言えないのかもしれないが)、社会全体としてみれば、交渉力の一様ではない労働者側にとっては一種の「アンカー」的な役割があったのではないか、ということである。割と公平な指標のようなもの、ということだ。
公務員の給料が高すぎる、とかいう批判は、この際どうなのかは触れないが、あまりに大きく上がったり下がったりがあると、「賃金をどう評価してよいのか判らない」ということになるわけで、その点でいうと公務員の安定性というのは賃金相場を示す基準値的な役割があった、とも言えるわけである。


ところが、デフレ期の最悪期に大幅な賃金引き下げを実行してしまったが為に、雇用者報酬は下落することとなり、デフレ圧力を生み出したと言ってもいいと思うのである。まず、非公務員化が推進された。これの是非は別として、公務員を削減することで賃金体系は破壊され、デフレ圧力となってしまったと思うのである。それに加えて、公務員給与の一斉引き下げ、これは、「首にならない」という立場を保護された公務員でさえもが、交渉力を大幅に失った、ということを意味しており、これが民間の労働者で簡単に首切りに遭う人々がどうやって経営側に対抗できるのか、という話である。賃金引き下げを受け入れなければ、「もう会社に来なくていいですよ」で終わり、という話なのだ。これが公務員であれば、首にはならないから、まだ若干の抵抗の余地はあるかもしれない、ということなのだ。しかし、それも失われた、ということである。


こうして、日本の労働者の賃金引き下げ計画は順調に進んだ、というわけである。それが招くのは、大幅な需要不足、という、マクロ経済の変調だった。大企業の連中が率先して招いたデフレであり、自業自得なのだ。
賃金の相場観、というのは、恐らく短期的な変動だけでは形成されないだろう。「参照賃金」の水準となるべき数字は、大銀行だろうと公務員だろうと見境なしに引き下げが容易となり、これが大企業でも同じく下げが続けば、社会全体としてデフレ圧力を生み出すに決まっているのである。条件の悪い中小企業であれば尚更、もっと引き下げが起こるかもしれない。


こうしたことは、日本以外であれば、社会の暴動が起こってもおかしくないくらいの大きな変化だった。ギリシャやフランスなら、間違いなく暴動であろう。賃金の下方硬直性というのは、そういう「抵抗圧力」の存在があってこそ、なのだ。日本での名目賃金の下方硬直性は、そこまで「観察されなかった」であろう(以前にもペーパーを紹介した)。


このことが、前述したような「金融政策の弾力性」を「賃金の弾力性」が上回ってしまうことを招き、結果的にデフレの長期化・固定化、物価や賃金の下落傾向を助長するようになってしまったのではないか、ということだ。

金鉱探しの山師みたいに、当てれば大きいがマイナスもかなり大きいよ、という業界・業種の方々と、公務員みたいな安定的な人々の賃金変動が同一水準じゃないとおかしい、という意見こそが、社会の変調を来たすものとなったとしか思えないわけである。たとえ微々たるものであっても、プラス改定となっていることがサービス価格の低下を防ぐことになるし、社会全体の需要を下支えすることになるのだから。更には、参照賃金のアンカーとしての役割があったものが、その一線を踏み越えることで、容易に「引き下げできる」という社会全体の風潮を生んだのだ。

犯罪者心理に似ているかもしれない。最初に違法行為に至るのは、かなりの心理的障壁となるけれども、それを一度経験して踏み越えてしまえば、その後の障壁がかなり低くなってゆく、というのと同じようなものだ、ということです。
だから、大企業側はリストラには罪悪感を感じなくなり、賃金カットも当然何らの抵抗感もなくなり、非正規労働者を使い捨てカイロみたいに利用することも「別に普通じゃん」と考えるようになってしまった、ということである。それが低迷の原動力となっているとも思わずに、だ。


従って、今後にやるべきは、賃金変動を硬直的にする部分を意図的に設ける、ということだ。金融政策の弾力性が上回るまで、他を硬直的にすることを考える、ということなのである。


公務員の肩を持ちたいわけではないが、公務員人件費の削減をいくらやっても、国のプライマリーバランスは黒字化しない。
給料引き下げは、更なる民間の給料低下を招く。
それがデフレの歯車を回し続けることになる、ということを、まず理解すべきだろう。

公務員を削減したいなら、デフレが終わってからでも、思う存分できる。
給料を下げるのではなく、民間の賃金を上げてからにせよ。




金融政策とelasticity ~その1

2010年11月02日 14時13分56秒 | 経済関連
日本のデフレというのは、何故このように根深いものとなっているのか?
この疑問に明確な答えは見つかっていないが、感覚的には思い浮かぶことがあるのだ。どうして日本では、ここまで長期間に渡り物価下落が続いてしまうのか。先日の宿題でもありますので、個人的見解を述べてみたい。


結論から書けば、「金融政策の調節能と、価格や賃金の調節能の相対的な比較において、金融政策の方が狭い、或いは小さい、ということなのではないか」、というものである。

賃金の変動、価格の変動といった変化を考えてみると、それには弾力性ないし弾性のようなものが存在しているはずだ。よく名目賃金の下方硬直性などというテーマが取り上げられるが、そういう弾力性には違いがあるでしょう、という話である。弾力性に乏しければ、一般的に言う「硬直性」ということを意味するわけだし、価格についてもメニューコスト理論なんかで紹介されるように、硬直的な面があるわけである。財やサービスでは、こうした価格の弾力性というものがあるはずだろう、ということだ。

例えば、レタスなんかだと、今年夏場の価格はかなり値上がりしていたし、価格改定の速度は結構速い。すなわち、価格弾力性が大きい、ということであろう。しかし、水道料金だとかガス料金の改定というのは、そんなに頻繁には行われない。自動車だとか、ビールなんかも、そう大きな変化はない。こうした弾力性というのがあることによって、市場の調節能が発揮される、ということになっているはずなのだ。

こうした市場の調節能と中央銀行の行う金融政策の調節能との比較において、後者が劣勢であるなら、下落を止められない、ということになってしまうのではないか、というのが、私の考え方なのである。
特に、大きな役割を果たすのが、賃金の弾力性なのではないか、ということである。賃金の下方硬直性の存在によって、経済学的には様々な不都合が生じると考えられるものの、現実世界ではそれが必ずしも当てはまらないのではないか、という面があるように思われるのである。


また喩え話で申し訳ないが、薬物の効果で説明したいと思う。

血圧を上げる作用の昇圧薬Aがあるとする。これは、血圧が下がり過ぎたような場合に使うものである。標準的使用量は、仮に2~10mgとしよう。効果を見ながら量を調節する、ということである。

さて、殆どの薬物というのは有効血中濃度というのがあって、その濃度に達したない量を用いても、何らの効果も表わさない(効果が確認できない)。つまり、使う量をビビってしまうと、使わないのと同じ結果となる。腹がへった時に、一粒の米を食べても空腹は満たされない、というようなものだ。なので、ある量までは使わないと意味がない。

昇圧薬Aを用いるような場合というのは、平常状態に比べて、血圧が下がる要因というのがあるわけだ。心臓の異常がある、出血が続く、他の降圧作用のある薬物の影響、等々、何かがある。そこで、昇圧薬Aを用いるのだが、見掛け上、血圧が思うように上がって来ないことだってあるかもしれない。それは、昇圧薬Aの作用以上に、他の要因の下げる作用が大きいような場合である。大量に出血していれば、いくら昇圧薬を入れたって、血圧を維持できないということはあり得るだろう。つまり、昇圧薬Aの調節範囲を超えてしまうような、他の要因の存在というのはあり得る、ということである。

ならば量をもっと多く入れたらいいじゃないか、という意見があるかもしれない。それも、問題がないわけではないのだ。それは、昇圧という効果を得る以上に、例えば中毒症状などが発生する、というようなものがある。中毒域の濃度まで用いることは、通常できない。例えば、最初の5mgを投与すると、血圧が20だけ上がったとしよう。その後、更に投与が必要になって、追加投与を続けたとしても、最初の得られた効果よりも小さいことだってあり得る。次の2mg投与で、例えば先の投与は1mg当たりで血圧が4だけ上昇したからといって、次の2mg投与で血圧が8上昇するとは限らない、ということである。もっと小さな効果しか得られないかもしれない。その次の2mgでは、更に効果が乏しくなるかもしれない。

薬物を投与して血中濃度が次第に飽和してゆくと、それ以上増量したとしても殆ど効果が得られなくなり、逆に中毒の問題が出てくる。薬物の結合するレセプターが占拠されてしまえば、そこから更に薬物濃度を増大させても、レセプター数が増えるわけではないので、効果が生じないということである。
通常、薬物投与が継続すると、耐性を生じることがある。
それは、例えば薬物を代謝する酵素系の変化を生じ、酵素誘導が起こってしまうことによって、投与薬物の代謝速度が速まり血中濃度が下がり易くなる。効果減弱ということだ。他にも、薬物の結合するレセプター数が減少してしまい、薬物の作用発現が弱まる、といったことがある。

大雑把にまとめると、
①有効血中濃度に達しなければ効果は現れない
②初期よりも次第に効果が弱まることが多い
③耐性を生じることがある
ということである。


今度は金融政策について考えてみよう。伝統的な政策としては、金利の調節というのがある。これがまさに、上記薬物の例と似ているのではないか、ということだ。①~③を順に見てゆこう。

①有効血中濃度に達しなければ効果は現れない:

リーマン・ショック時のような、非常に大きなショックのような場合であると、金利の下げ幅が微々たるものでしかなければ効果が得られ難い、というようなものである。急激に落ち込むような場合であれば、その変動幅を補えるだけの金利調節幅を持たないと、効果は得られ難いはずだろう、ということである。
血圧が50落ちてるのに、昇圧効果が20や30しか得られないと、血圧測定という見掛け上の数字では、昇圧薬を投与したのに「血圧が下がっている」ようにしか見えない、ということになる。


②初期よりも次第に効果が弱まることが多い:

例えば、10%だった政策金利を5%に引き下げると、かなり劇的な効果をもたらすであろう、ということは想像できる。下げのインパクトはそれなりに期待できるはずだろう。しかし、同じ50%の下げ率であっても、1%から0.5%への引き下げでは調節範囲は狭くなり、効果もそれなりに乏しいものとなってしまうのではないか、ということである。
金利が1%に落ちてくるまでの間に、政策効果が既に飽和に近付いており、1%以下の範囲であると調節能の低下が生じているのではないか、ということである。
5%→2%への引き下げであると、それなりに金融政策としての効果が得られるが、その時点までで効果の大半を使い切り、そこから先はずっと乏しい効果を得る為だけに引き下げるということになってしまうのではないか、ということである。2%→1%→0.5%、という風に下げても、かつてのような効果を得ることはできなくなる、ということだ。


③耐性を生じることがある:

喩えて言うと、「ゼロ金利」「量的緩和」などの政策効果は、初登場の時の効果に比べて、最近のような環境下になると、あまり「効かなくなっている」というようなことである。
マーケットの受け止め方としても、「またゼロ金利政策を行います」というような日銀の宣言を受けても、以前のような期待とかインパクトはなくなり、反応が薄くなっていくのではないか、ということだ。これはまさしく薬物耐性と似ており、長期に渡る「ほぼゼロ金利」のような環境が続けば、ゼロ金利なんて言われても「多分、大して効果はないね」と達観(笑)されたようになってしまう、ということだ。実際、非常に狭い範囲(例えば、ゼロ金利と0.1%金利)で行き来してみても、あまり効果に違いを見い出せないのではないか。


従って、金利政策の変化が乏しくなれば、そこから得られる効果も限定的となり、「金融(金利)政策への反応が薄くなる、乏しくなる、変化の範囲が狭くなる」といったことが生じてきたのではないか、ということである。
これこそが、金融政策の弾力性が失われた(乏しくなった)状態、ということではないのかな、と。日銀の行える政策は限定的となり、言ってみれば硬直的ということになってしまったのではないか、ということだ。だって、金利の引き下げ余地なんてなくなってしまったから、だ。
「5%の調節域」を持つ時期と、「0.5%の調節域」しか持たない時期では、どう考えたって後者の方が硬直的とならざるを得ない、ということなのだから。


こうして、金融政策の硬直性が増し、弾力性が失われていったわけである。


一方で、価格や賃金の変化はどうであったか。
本来的には、どちらかと言えば硬直的であるはずの両者の市場調節能が、段々と弾力的になったことにより、むしろ金融政策の弾力性(調節能)よりも賃金弾力性(調節能)の方が上回っているのではないか、ということだ。
そして、金利への反応性がほぼ枯渇したような状態であり、政策金利の変動(金融政策の変更)には反応しない、というような状態となってしまったのではないか、ということである。耐性が強まれば、薬を入れても全然効かない、というのと同じである。


元々は、金融政策の方が柔軟性に富み、賃金や価格はそれに比べて硬直的であるとされてきた。だからこそ、金融政策、特に金利政策が効果を発揮してきたわけである。しかし、日本の長期に渡るデフレにおいては、それが逆転したのではないか、ということだ。

・金融政策のelasticity:柔軟→硬直
・賃金のelasticity:硬直→柔軟

これが起こったのは、労働者側の交渉力の低下、持続的物価下落、名目金利の下限があること、といったものが要因として考えられる。


このような状態を解消or改善する為には、賃金の変動範囲を超えるだけの金融政策が必要になるのではないか、それとも賃金の硬直性を増すといったことを考えるべきなのではないか、ということである。相対的な関係として、

 金融政策のelasticity>賃金のelasticity

の成立を目指すべきではないか、ということである。これは、価格についても同じような考え方はでき得るのではないかと思うのである。

(続く)