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プロと素人をつなぐもの~2

2007年05月22日 14時28分48秒 | 社会全般
この前もうちょっと書いておこうと思ったのですけれども、書きそびれてしまったので、追加しておきたいと思います。


現代社会というのはとても複雑になっており、それぞれが高度に専門化・分化した状況になっている分野は少なくありません。こういう場合に、特定の専門分野についてしか判ら(知ら)ないということが起こってしまったり、専門外の人々には大変理解し難い、ということがあるのではないかと思えます。それ故、仲介者と言いますか、代理人的な人の存在が必要となったりします。

金融・保険―FP
財務・会計―会計士や税理士
医療・薬剤―医師や薬剤師
建築・住宅―建築士や不動産鑑定士

例に挙げたのは、適当に思いついたもの(これまで記事で触れてきたものでもあるか)ですけれども、他にもたくさんあるでしょう。こういう人々は、ある分野について十分知らない人々に成り代わって業務を行ってくれる人でしょう。大抵の職業はそうした役割を担っているでありましょう。分業体制になっている方が、社会全体としては効率がいいからですね。基本的には、「プロは(同じように上手くできない)素人の代わりに業務を行う人」ということがあるかと思います(中には「玄人はだし」というような人はいますけど)。

で、問題となってくるのは、特定分野の専門的知識を有する人々がそれぞれに存在していると、異分野に対する理解が困難になっていくことでしょう。ある分野の専門家であっても、他の分野については他の人々と同じく「素人」であるということは普通です。

言語が違えば、理解は困難になると思う(追記後)

このような場合ばかりではなくて、行政に関するものであるとか、企業会計に関するものであるとか、色々な場面があるのです。似たようなことは学問的な分野でも見られるでしょう。非常に狭い範囲の「専門家」であっても、隣接分野・関連分野については「素人」同然というような場合、ということです。

isologue - by 磯崎哲也事務所の中で述べられている「ポリバレント」ということにも関連しているかな、と思いました。

ある分野の専門家であることは必要なのですが、場合によってはもう少し広い範囲の役割を理解しこなせる人というのが求められる、ということかと思います。野球で言うと、例えば「内野もできるし、外野もできる」「キャッチャーもできるし、サードもできる」みたいなものでありましょう。いくつかの分野について、総合的な知識や能力を求められる場面がある、ということでしょう。


単品性能ばかりが重要ではない

この記事にも書いたのですが、「チーム」全体を考える時、「組み合わせ」というのは重要な意味があるのです。ボードゲームとかシミュレーションゲームの駒のような例で考えてみましょう。駒の合計戦力が15である時、次の2つの場合を考えてみます。

ア)「戦力3」の駒が5個
イ)「戦力1」~「戦力5」の駒が1個ずつ

ア)においては平均戦力が3で、均質な駒ばかりです。イ)は戦力の弱い駒(1とか2とか)もあるけれども強い駒もあって、平均ではア)と同じですね。チーム全体で考えてみると、状況に応じた運用が行いやすいのはイ)の方で、弾力的な運用が可能です。人間を駒に置き換えることなど許されない、という意見は出るでしょうけれども、敢えてそれを想定してみます。仕事の場面というのは、色々な状況が考えられるし、規模がある程度大きくなって行けば行くほど仕事の中身(質)も異なったものがあると思います。そうなると、均質な戦力を集めるよりも、バラバラである方がいい場合も多いと思いますし(戦力に応じて割り当てればよい)、「組み合わせの妙」みたいなものがあるので、戦力5の人が1人混じるだけで周囲の人間の戦力がアップする場合もあります(ひょっとして逆もあるのかもしれませんが、それは少ないのではないかと思っています―my 経験則、笑)。

「戦力1と2の組み合わせで2人」と「戦力3の人が1人」というのが同じコストである時、前者の方がいい場合もある、ということです。
参考>公務員制度改革1

先のポリバレントに戻りますけれども、戦力5のキャッチャーがいるとして、この人のサードとしての能力は戦力ゼロであると、総合戦力は5ということになります。別な人はキャッチャーとして戦力4、サードとして戦力3であると、総合戦力は7となって上回ることがある、ということです。ただ、キャッチャーとして戦力5にはなれないのは確かです。なので、「チームとしての編成」ということを考えると、前者もいれば後者もいる、というようなそれこそ「多様性」というものが必要かも、ということです。全員がポリバレントなプレイヤーである必要は勿論ないのです。逆に、全部がそうであったりすると、弱いチームになってしまうと思います。何の為に分業体制が取られているかといえば、その方が強いからであり、ピッチャーはピッチャーに特化して他の能力はどうでもいいので、最強ピッチャーが存在すれば強いチームであることに変わりはありません。みんな機能・役割が違うということの方が、チームとしては強くなれると思います。『シュート!』という漫画の説明と同じですね(笑、尾道の進学高と対戦する時の話だったと思うが忘れた)。アメフトのプレイヤー編成のイメージも似ているかもしれません。


今後、サービス分野において発展が必要になっていくので、「仲介者・媒介者」のような役割の人たちが増加していくことが求められていると思います。これにも書いたのですが、高度に専門化・分化して行く程、そこから距離のある人々には理解し難いものが増えていきます。人間の能力には限りがあるので、そこに介在して「理解できる形で提供する」という人たちがいなければ、自分一人でありとあらゆる情報を集め分析・判断を行うということになり、これは極めて効率が悪いのです。分野と分野を結ぶ「つなぎ手」の役割は、さまざまな分野で求められていくでしょうし、活躍の場も広がっているはずです。

ある特定分野の「最先端を歩いている人たち」は、かなり特化した能力というか専門性の高い能力が必要なので、他の能力の有無については「おまけ」みたいなものであってもいいと思います(勿論、個々の個性を見れば多様性を有しているかもしれないですが)。そういう「これしかできない」という人もいて、その特化された能力には届かないが異分野の知識・理解能力を有することでこれを媒介できる人たちがいて、判りやすい形で情報提供できる人たちもいて、ということが必要なのだろうな、と思います(医療崩壊問題にも通じると思います―「つなぎ手」の不在:医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その5)。



本当に血尿だったのか~4

2007年05月21日 18時15分11秒 | 法と医療
僻地外科医先生からコメントを頂戴しまして、長くなるので記事にしました。

続々・本当に血尿であったのか


コメント頂き有難うございます。僻地外科医先生のご指摘は勉強になります。
ただ、若干の疑問点がございます。

①透析用Wルーメンカテーテルについて:

先生の想定では、血液吸着の為に挿入されたであろうWルーメンの存在を前提とされておられるのであろうと思います。これは事実なのでございましょうか?先生の仰る説明を総合しますと、右大腿静脈(?)に挿入されていた透析用Wルーメンの「カテ先で血管壁を穿通しピンホール大の損傷があった」ということかと思います(同側同部位でなければ、CT像の血腫形成の説明にならないと思いますので)。
仮定として、血液吸着前に挿入されたとされる透析用カテの穿刺を「穿刺1」とし、判決文にもあった午後4時45分頃の中心静脈カテ挿入の為の穿刺を「穿刺2」とします。

a)判決文には穿刺1のことについて一度も記述がない
b)鑑定の記述(「右橈骨静脈にルート確保」の記述は見られた)からも判決で触れられてない
c)穿刺1でブラッドアクセスがあったなら、同側同一血管にCVを入れる意味とは何か(想定し難いのでは)
d)穿刺2の血管損傷の有無について検討され、判決や鑑定で穿刺1を全く問題としないのは疑問
e)ピンホール大の穴が痙攣発作で形成され、10ml/分程度の出血が継続すれば、CT像で約1000ml程度分の血腫が確認できうるのでは
f)判決文(P16)で「カテーテル留置後血尿ないし血腫が生じるまでの間に、痙攣が起きたことを認めるに足りる証拠もない」として被告側主張を退けていることから、もし穿刺1の留置があったのであれば被告側主張は検討され判決中で述べられるはずでは

これら疑問点があるので否定的なのではないかと思えましたが、透析用カテが入っていたという別な情報があるのであれば、判決しか読んでないので私には判りません。少なくとも血管穿刺について、穿刺1の「ミスがあったのか、なかったのか」ということを一度も述べないというのは不自然です。そもそも最初の穿刺時に問題があれば、穿刺2のみで問題の有無を検討したとして「過失がなかった」という結論が出ても、本来的に過失検討の意味がないからです。もし穿刺1が行われていたとすれば、必ずその検討はなされなければならずであり、それが判決文中に一度も記述がない、などということはないのではないかと思えます。


②CT像の血腫について:

これは先生のご指摘のように、若干ながら見られていました。判決文にあったのを見落としておりました。判決文中のP14のH意見書(H医師によるもの)から、次のように書かれておりました。
『膀胱周囲の後腹膜付近に新しい出血に一致する血管外の造影剤の溜まりがあることからすれば、出血部位は上記部位であったと考えられること』

カテ周囲の血腫様の像については解釈が分かれるものの、仮に穿刺2での血管損傷があったにせよ(試験穿刺を行っているなら確実にピンホールより大きな穴(22Gくらい?)が開くのではないかと思います…)、そこからの出血よりも後腹膜の出血の方が主原因であるということを主張するのは可能であるように思われます。


③テオフィリンのPDE阻害作用について:

この記述は誤りを含むものでした。PDE阻害作用は、非特異的作用であるようです。またPDEのタイプは11種発見されていた、ということのようです。

Q4-2 PhosphodiesterasePDE阻害作用とAdenosine拮抗作用

FPJ : Vol. 126 (2005) , No. 2 121-127

論点としては有り得ると思いますが、ペーパー上でのことですので、どう評価されるかは判りません。
アデノシン拮抗作用がどう捉えられるか、というのも、何とも言えないです(血中濃度が高くでも凝集抑制作用はさほどでもないのでは、と言われる可能性はあるかもしれません)。


④現象の説明として

後腹膜血腫については
・外傷がなくても原因不明に起こること
・出血源は不明である場合が多いこと
・出血傾向ではなくても起こること
以上から、カテ挿入に伴う血管損傷の有無には無関係に(後腹膜腔に)「出血し得る」でしょう(H医師の意見書とも整合的です)。
即ち、剖検時の血腫の存在はこれで説明可能(CT像でカテ周囲の血腫は血管損傷であったかもしれませんが)、
というのが私の立場です。
これに、凝固異常の存在(活性炭の影響、テオフィリン中毒?…等々)があれば(ヘパリンも5時10分頃に5000Uをbolusで入れるようですし)、「なお一層止血困難な後腹膜出血」となるのは不思議ではない、ということです。出血を助長する要因が存在したので、大量出血となったのであろうな、と。それがなければ、途中で出血の勢いは弱まっていた可能性はあったのではないかな、と。

血尿については、中心静脈穿刺や腹腔内出血の存在とは無関係に、ミオグロビン尿で説明できます。たとえ横紋筋融解症ではなかったとしても、痙攣後ですので有り得なくはないのでは、と。血管損傷で漏れた血液が”膀胱内に戻って”尿中に出る、という想定よりも説得的です。実際、痙攣を起こすまでは「血尿」は認められていませんでした。
原因薬物はテオフィリンか他薬剤なのかは不明ですが、テオフィリン中毒による痙攣に備えて多分ジアゼパムを痙攣発作前から入れていたと思われます。判決文中P4の争点2において、原告側主張(カテ挿入前に薬を入れておけ)に対して被告側は『挿入以前に相当量の抗痙攣薬が投与されていた』と述べており、午後4時20分より前までに使用されていたのであろうと思われます。そしてP11では、『午後7時頃から全身性の痙攣が見られたが、セルシンの投与により改善した。』と述べられているので、多分、この時以前にもセルシン(ジアゼパム)を使っていたのではないかな、と推測しています(ミダゾラムのような別なベンゾジアゼピン系かもしれませんが)。これも横紋筋融解症(それとも悪性症候群?)のリスクとなっているのであれば、原因薬物を特定できないにせよ、現象の説明としては採用可能であると思います。



プロと素人をつなぐもの

2007年05月20日 23時22分21秒 | 社会全般
今日の読売新聞朝刊の「地球を読む」は、先頃中教審の会長に就任された山崎正和氏の「プロを敬う社会に」と題された記事であった。深く共感を覚えた。

その一部を引用してみる。

 だが現代社会の素人優位、専門性軽視の風潮異常に根が深いように思われる。教師と同じく「先生」と呼ばれる医師についても、権威は地に堕ちないまでも、微妙に揺らぎかけている形跡がある。先進国で医療訴訟があいつぎ、病院不祥事の報道が氾濫するなかで、明らかに医師の士気と使命感は低下しているといわれる。きわどい症例の治療にあたって、冒険的な処置を試みるよりも、事なかれ主義に傾く医師が増えたと聞いた。
 現代医療を象徴する「インフォームド・コンセント」(情報を受けた上で同意すること)にしても、ごく一部だが、医師の自己防衛に使われているのを感じることがある。治療法の予後と予想を伝えるのは親切だが、複数の治療法を示して、素人の患者に選ばせるような場合があるからである。どうやら医学界の全体が謙虚になったのはよいが、代わりに必要な権威と責任感を放棄し始めているという印象を覚える。その証拠に、病院の掲示板に「患者さま」という敬称がめだつと思うのは、素人のひがみだろうか。



最近取り上げてきた医療関連の話であるが、教師の窮状と同じく戦意喪失に陥るのは時間の問題なのではないかと思う。いや、既に陥っている面があるのだろう。それが医療崩壊の根本的な問題なのであるのだから。


更に記事から引用してみる。

 そういえばかねて日本には「官僚バッシング」の風潮が顕著で、とくにプロらしい官僚が憎まれる傾向が強い。主婦の一群が官庁に抗議に赴き、官僚が正確なデータを示して対応すると、「素人に数字を並べるとは何ごとか」と怒号があがったとの逸話もある。政治家もプロらしさは嫌われるらしく、大嶽秀夫氏の近著『小泉純一郎ポピュリズムの研究』によると、前首相は言動の素人らしさ、素人らしさの演出によって人気を集めたという。
 だがどう考えても社会の倫理性を自然に高めるためには、人が職業人の誇りを抱き、結果として「恥を知ること」が第一である。そのさい、「高貴なる者の責任」は本人がまず自覚するのは当然だが、この自覚はその高貴さを社会が敬うことで支えられている。しかも現代のプロフェッショナルはその9割以上が、じつは誠実に任務に貢献していると考えられる。ここはひとつマスコミも含めて、社会をあげて彼らの実像を讃え、一層の使命感へとおだてあげる道はないものだろうか。



このことは、これまでの記事で似たようなことを取り上げたことがある。岡崎氏の述べていた「完全主義の文化」ということと共通するものである。

エリート教育は国際競争力を高めるか

仕事の経験と教育

私の「こころ」は有限世界なのか?~その5

どのような分野であっても、「職人(プロフェッショナル)」の人たちがいい仕事をすることが社会全体の役に立つのであり、それを評価してあげることは必要なのだ、ということを多くの人々に考えてもらえればいいのだが、一度失われたものを取り戻すことは新たに獲得するよりももっと困難を伴うものであろう。



続々・本当に血尿であったのか

2007年05月19日 18時36分55秒 | 法と医療
続・本当に血尿だったのかの記事にコメントを頂戴いたしましたので、記事に書いてみました。


僻地外科医先生

わざわざご回答下さり有難うございます。
いくつか確認させて頂ければと思いますが、ご無理なさらずともよろしいです。


>「血液凝固障害がある場合」にはわずかな静脈損傷から大量出血をきたすことがあります。例えば、ワーファリン(血液凝固阻害剤)内服中に、ごく軽い腹部打撲から巨大な後腹膜血腫をきたした事例が報告されています。

私の記事中には、外傷・出血傾向等の出血をきたす積極的な要因がないものであっても「後腹膜血腫」を生じるという症例の報告を挙げております。何もなくても生じるのであれば、(軽度であっても)外傷があること、ワーファリンを服用していること、という要因があれば尚更血腫を生じるリスクは高まると考えるのは自然です。ご指摘の血腫を生じた症例では、出血はどうなったのでしょうか?やはり止血せずに、開腹手術を行って血管縫合等を行ったのでございましょうか?それとも、出血に気付くことなく、血腫は短時間で増大して出血性ショックで死亡に至ったのでありましょうか?ワーファリンを服用していたのであれば、休薬して日数が少し経過しないと下手に開腹もできなでしょうから、血管損傷部を見つけ出して止血するのは難しいようにも思えます。そうであれば、出るのが自然に収まる(弱まる)のを待つしかなさそうにも思えます。

血管壁破綻(本件争点の損傷も含め)によって出血があること、出血傾向であれば自然止血困難で血腫を生じる可能性はあること、それは当然でありましょうが、非常に短時間の間に出血量が2000以上も出るということは想定し難い、ということを申し上げています。血腫が増大していくに従い、圧迫効果は出てくる可能性はあるので、ジワジワ出るのはあっても「ジャージャー」出るというのはどうなのかな、ということです。

午後6時過ぎに撮影されたCT像に、それほどの大きな血腫が映っていたのでしょうか?もしそうであれば、「出血」として気付けたはずであると思うのですがいかがでしょうか。その僅か40分後には血圧降下が起こっており、この40分程度の間にそれこそ大量に出血したことになるのではないでしょうか?



>>そうであるなら、裁判所が考えた「血管損傷→腹腔内出血→膀胱に入る→血尿」というおよそ非現実的な想定は採用できないでしょう。
 判決文のどこにも上のような想定は書かれていないと思いますが・・・。

これはご指摘のように書いておりませんでした。失礼致しました。
後腹膜腔の出血(カテ挿入で血管損傷させたからだ、というのが裁判所のご意見)とは別な出血原因がないのであれば「後腹膜腔に血液が溜まる→腹腔・膀胱内に見られた出血→尿と一緒に出た」ということを間接的に認めるものだと解釈致しました。判決文中「P19のオ」の辺りに書いてある内容を考えておりました。ただ、裁判所は膀胱内等の出血原因が”他にあったとしても”、「少なくとも後腹膜腔に生じた出血は血管損傷によるものであったと認められる」としていて、他の出血については「余り問題にはしない」ということなのかもしれません。

両側血腫についてはご教示の通りかもしれませんが、やや疑問は残っております(笑)。鑑定ではCT画像について、カテ留置のことでどのように見えるとか色々と判決に出ておりますが、そこで「大きな血腫形成」が問題に上がってきていないことを考えると、恐らく「殆ど映っていなかった」としか思えないのです。正中を越えて左側にも大量に貯留する程、突っついた(?)血管壁から出血があったというのは、どうなんでしょうか、と疑問に思う所以です。ただ、本格的な凝固異常の状態というのがどんなことになるのか、想像もできませんので…



3)の後段というのが、何処なのかちょっとよく判らなかったのですが、被告側がDICを否定していたことでしょうか?判決文のP7の争点5の部分で、被告(病院)側主張でDICではなかった旨述べていたと思います。
その前となれば、テオフィリンのPDE阻害作用は薬理学的にはほぼ肯定的と思いましたが…



後腹膜腔の大量出血についてですが、確かに剖検での所見でもここに血液貯留が見られたことは確かであり、この出血原因が「血管損傷であったか否か」ということで、僻地外科医先生も「血管損傷」については肯定、ただし「痙攣時にカテ先で損傷」という判決とは別な原因を想定しておられる、ということですよね(被告側も同じような主張をしています)。
ここが、やや疑問なのです。挿入したカテ先で、若年男性の割と太い血管が破れるものなのでしょうか?DM持ちの年寄りのようなボロボロの血管とかでもないのに、というのが引っ掛かります。カテは体動があっても長期間留置に耐えられるように加工されているでしょうし、それほど簡単に血管壁を突き抜けるのであれば、痙攣だけではなくて、似たような状況―例えばバッキングとか―では毎回危ない、ってことになりませんでしょうか?
6時過ぎのCT像で右側骨盤内に血腫の存在を認めているのであれば、4時45分過ぎ~CT撮影時までに痙攣発作がはっきりと生じている必要がありますが、それは認められません(裁判所認定のごとく、留置したカテ先が血管壁を破るという可能性は少ないのではないかな、と)。もしも特別な血管病変を持たない若年者において、中心静脈留置のカテーテルが血管壁を突き破り出血を生じた例というものがあるのであれば、それは製品としてよほどの欠陥品であるとかの問題になるのではないでしょうか?そういう報告例は複数見られているのでしょうか?

この「カテ先で血管壁を突き破った」という前提を支持する限り、裁判所の言い分の方が有利に思えます。記事の参考文献の記載にもありましたように、後腹膜腔への出血(後腹膜血腫)は外傷や顕著な血管損傷等出血源が明らかではなくとも、そもそも起こってしまうもの、と考えられるのですから、カテの挿入の有無には無関係に生じうるものである、ということは言うことができると思います。

本来無関係な出来事が偶然にも同じ時期に起こってしまうと、それらは何かの関連性を有しているかのようにも見えるのですが、そうとも限らないことは多々あるでしょう。変な喩えですが、町田の立て籠もり事件と長久手町の事件は近い時期に起こっていますけれども、両者には関連性は全くないにも関わらず、例えば「町田で警官射殺に失敗したので、その仇討ちの為に長久手の犯人が犯行に及んだ」「町田の犯人が長久手の犯人に銃を横流ししていた」などというストーリーを考えてしまう、ということです。

本当にカテ挿入で損傷した血管からジャージャー出ていたのであれば、解剖した時の肉眼的所見からも「比較的大きな血管に破綻(損傷)部分があって、そこからの大量出血があった」ということを確認できそうに思えます。ところが、そうではなかった。原因不明に起こる後腹膜血腫のできる様と、とてもよく似ているように思えるのです。もしそうであれば、出血源をマクロ的に確認・同定することは困難である、という特徴も一致しているので、現象として理解でき得るのです。左側にまで広範囲に広がるほどの出血点だったのであれば、かなりの勢いで出続けることになり、そうであるなら肉眼的にもかなりハッキリした血管壁の損傷があるはずではないか、と。


何れにせよ、私のような専門外の人間では限界がございます(笑)。申し上げたいのは、反論する(病院)側の主張が裁判所の考え方を覆せるに足る論拠を持つことが必要なのではないかと思います。
ご面倒にも関わらず細かく教えて頂き、有難うございました。




SAT隊員死亡事件の補記・訂正など

2007年05月19日 15時29分26秒 | 社会全般
昨日書いた記事(SAT隊員死亡事件と業務上過失致死)はかなり間違っておりました。お詫び致します。コメントでも教えて頂きましたが、撃たれた隊員は金属製の盾の輪の中ではなく、更に後方に構えていたということでした。いずれにしても、犯人の闇雲に撃った弾丸が丁度隊員の防弾チョッキ以外の部分に命中するなどという確率は、「極めて少ない」としか言えないでありましょう(加古川事件のような判決に従えば、「99%以上の確率で銃弾を防げた、故に死亡することなどなかったはず」であり、死亡に至ったのは過失があったから、ということに変わりはないわけですが)。

防弾チョッキの性能に問題があった、とか何とかの意見もあるようですが、それが本質的な問題などではないでしょう。事実、防弾チョッキなど何もしてなかった息子や娘は、それぞれ大腿部と腹部にもっと近距離から銃撃されたにも関わらず、生命は助かっていたのですから。首と胴体部のつなぎ目のような「問題の箇所」に命中する可能性など微々たるものに過ぎないのですし、防弾チョッキの性能が完璧ではないとしても、それが事件の本質的なことではないでしょう。付けてなくても助かる場合は助かるし、有り得ないような場所に銃弾を受けてしまえば死亡することが有り得る、ということは分ったのではないでしょうか。それよりも、作戦上の問題の方が影響が大きかったのではないかと思えます。


はてなブックマーク - My Diary 2007年4月26日木  「町田市立てこもり事件」のヤバい内幕

一部には、こういう情報が流れているようですが、どこまでの信憑性があるのかは疑問に思っています。
仮に防弾チョッキの設計・納入等の部分が本当であるとしても、町田の事件の記述には疑問点があります。

①実は、男女各1名の人質が存在していた
②大量の覚醒剤を使用していたので、自殺を図った後でも右手を動かすことができた

①が本当であるなら、警察発表で何故言わなかったのでしょう?「人質がいたからだ」とか普通に答えていいと思えます。人質2名が無事救出できたことを公表する方が警察に対する評価が上がる可能性は高いと思うので、警察にとっての利益が大きいはずです。

②についても、ちょっとよく分らないですね。マカロフで頭部を撃ち抜いた後で、右手を動かせるということは、左半球の運動野は障害をあまり受けていない、ということです。これを書いている人の考えているような、覚醒剤や麻薬などを大量に使用していて「無痛人間」になっていたとしても、右手を支配する領域の脳細胞が殆ど死んでしまえば動かせなくなってしまうことに変わりないでしょう。「ターミネーター」みたいな、撃たれても撃たれても立ち上がってくるような状況というのは、腕や足や腹などに銃弾を食らっても直ぐに動けなくなるわけでもなく、失血するまでに時間がかかることもあるので、「痛みを感じない状態」であれば多分ある程度は動けるだろうということです。しかし、脳みそを吹っ飛ばされたら(『バイオハザード』か!)、麻薬で無痛であったとしても動かないのは同じですよ。拳銃自殺で脳幹部を撃ち抜いていたら、痛みを感じる感じないには無関係に死ぬに決まっています。生命維持の基本システムが破壊されるので、呼吸も当然できなくなってしまうでしょう。

報道に見られたように、右こめかみ付近に銃口を当て、左眼窩から弾が射出されたというのが本当であったとしましょう。時計の文字盤を思い浮かべて、頭を真上から見たとすれば、12時が真正面、3時が右、9時が左ということになります。弾が頭蓋内を通過したものと考えるならば、文字盤の4方向から入って、10の方向に抜けていった、というような感じでしょうか。こめかみというよりも耳に寄った辺りから撃たないとダメですね(結構撃ち難いかも)。そうすると、顔面の左半分はかなりダメージを受けていても不思議ではなく、眼窩からは脳みその一部が噴出したのではないでしょうかね(想像です)。でも、左半球は生きていた、と。

自殺を図ってから「血が乾く」ほどの時間が経過して、ほぼ止血された状況であった、と。
頭蓋内からは脳脊髄液も血液も、弾丸が通過した穴からモレモレ(詐欺じゃないよ)になっていたのに、脳細胞は「普通に生きていた」というのだろうか?
脳みそも一緒にぶちまけたのに、その数時間(?)経過後であっても、意外にも脳細胞は元気に生きていた、と?
脳みそは一部が吹き飛ばされたのですから、時間経過が長ければ、直接損傷を受けなかった部分であっても虚血が起こる(大量に脳脊髄液が漏れたり…)とか、腫れてくることによる圧迫とか、そういう別な障害を招くのではないかと思えます(骨が一緒に吹き飛ばされていたなら、減圧みたいになっていたのかもしれんが)。なので、呼びかけに反応したり、右手を振るなどということは疑問なのです。信じ難いのですよ。

ですので、頭蓋内を弾丸が通過していないとか、損傷部分が前頭葉の一部分に限局しているとか、右目のすぐ脇の辺りに銃口を当てて撃ったら両眼球部分を真横に弾が通過した、というようなことでもなければ、自殺を図った時間帯がずーっと以前で、尚且つ搬出される時に手を振ったり呼びかけに反応するなどということは起こらないように思うのです。午前3時頃の催涙弾を入れるちょっと前に聞えた銃声(2発の後に1発)が自殺の1発であったなら、搬出時点で動ける可能性はあるとは思いますけど。



SAT隊員死亡事件と業務上過失致死

2007年05月18日 12時47分33秒 | 法関係
大変優秀な隊員であったそうで、警察学校を首席で卒業され、23歳という若さでSAT入隊となったエリート警察官の方だったようです。まことに残念な結果です。まだ1歳にも届かないお子様をお持ちであったとのことで、無念でありましょう。御悔み申し上げます。


Yahooニュース - 毎日新聞 - <愛知立てこもり>防弾チョッキかすめ胸に被弾 林巡査部長

(記事より一部引用)

最初に銃撃を受けた長久手交番の木本明史巡査部長(54)を救出しようと、ジュラルミンの盾を持った完全武装の警察官約20人が立てこもっている大林久人容疑者(50)の自宅の敷地内に突入したのは午後9時23分ごろ。
 撃たれて倒れたままの状態で、同6時ごろまで無線機を通じて伝わっていた木本巡査部長のあえぎ声はもう聞こえない。その瞬間、銃声が響き、民家から7、8メートル離れた路上で警戒にあたっていた特殊部隊(SAT)の林一歩巡査部長(23)の左胸を弾丸が貫き、林巡査部長は約3時間後に死亡した。
 警察庁によると、銃弾は死亡した林一歩巡査部長の防弾チョッキと首の部分の境目付近に命中していたという。同庁幹部は「倒れている警察官は一刻も早く救出が必要だった。どうして撃たれるような事態になったか検証が必要だ」と話した。




現実の結果とは、極めて稀な確率でしか起こりえないことが本当に起こってしまうのです。詳しい状況は判りませんが、記事から判る範囲でSATの救出作戦で起こった悲劇の要因について考えてみます。


①相手(犯人)側要因:
暗闇で視界が不明瞭であったにもかかわらず、救出に向かったSATの方に向けて発砲

②救出部隊側要因:
a)人数は約20人
b)金属製の盾
c)全員防弾チョッキを着用
d)死亡した隊員の体の動き

死亡した隊員は、やや前かがみになった姿勢で肩口付近から体内に入った弾丸が心臓まで到達して死亡したのではないかと推測する。犯人が発射した弾丸と隊員の肩~胸の角度が、まさしく「その一直線上」以外有り得ない、というほどの稀な一致を見せた為致死的となったのだろうと思われる。犯人がその瞬間に発射しなければ、別な角度で当たって肩付近を撃たれたとしても死亡には至らなかった可能性はある。
つまり、犯人が引き金を引いた時間、発射した方向、撃たれた隊員の体の角度、これが「その瞬間」に全て揃わなければ起こらなかった可能性が高い。その他、
・②-a:隊員の誰かが撃たれる可能性は約20分の1なのに、死亡した隊員だけが被弾した
・②-b:のように、盾で取り囲んでいて殆ど隠れていたのに、極々僅かに生じた隙間が「あの1発弾丸」の軌道を残した
・②-c:防弾チョッキに被覆される主要部分以外に被弾する可能性はごく僅かで、入射方向が心臓方向になるのは極めて稀


これまでいくつか書いてきたように(参考記事1)、全ての事象を予測することなどできないのである。今回の隊員死亡となった件を、司法権力側の論理に基づいて、「業務上過失致死罪」を適用することができることを述べてみる。警察諸君には申し訳ないが、本件の作戦指揮者及び本部長は覚悟しておくべきであろう。

1)犯人発砲に伴う危険性の予見可能性について
・犯人はいつ発砲するか判らない
・犯人が「弾丸は100発はある」と豪語しており、これは周知であった
・倒れていた警官と犯人との距離は近く、暗闇であったとしても発砲すれば命中の危険性がある

2)SAT側の予見可能性について
・金属の盾は個々に分割されており、隙間があることは事実
・防弾チョッキには被覆されない部分が広範に存在することは事実
・これら被覆部分以外に被弾する可能性を考慮することは困難でない

上記1)及び2)については、常識的に考えれば専門家ではなくても、誰でも考えられる程度の危険性に対する認識である。即ち、全て予見可能であったと言わざるを得ない。
つまり、犯人発砲に伴う危険性を防ぐ為の義務があったのであるから、SATの指揮者及びその作戦を承認した本部長には作戦の中止・変更などの命令を出すべきであったにも関わらず、不十分な対策しか行わせないまま作戦を遂行したのである。犯人が発砲すれば、金属製の盾の間隙を縫って弾丸が到達し得ること、到達した弾丸は防弾チョッキで被覆されていない部分に着弾する可能性があること、これら予見可能な危険性に対して取りえる対策を実行させる注意義務があったことは明白であり、これを行っていなかったことは過失があったと言わざるを得ない。

起こった出来事が稀な事象であり止むを得なかったとの主張はあるものの、金属製の盾を持つ隊員の編成を変え、間隙を生じることなきように輪を2重に組むなどの対処は可能であった。万が一犯人が発砲したとしても、少なくとも隊員たちに直接被弾する射線を封じる対策は取り得たのであるから、この命令を出さなかったことは過失を免れ得ない。事実、これまでのSATの歴史の中においても、隊員が被弾死亡した事例は皆無なのであって、常に隊員死亡への対策が講じられていたということを推認することは容易である。

作戦指揮に当たるものの責任の重大さに鑑みれば、これら対策を講じることが甚だ困難であったということは認められず、それを行ってさえいれば本件隊員が死亡するには至らなかったことは疑う余地はない。よって、作戦指揮者及び本部長は「業務上過失致死罪」の適用をせざるを得ない。




如何でしょうか?注意義務を怠ったのですよ、警察は。過失があったのですよ。そういう理屈が成立してしまうんですよ。

実際にこれを適用せよ、などと言いたいのではない。今回の死亡は、本当に有り得ないほどの確率で起こった。金属製の盾の隙間を狙って犯人が撃てると思うか?否である。メチャクチャに、暗闇の中の「塊」に向けて発砲したら、偶然にも金属製の盾のほんの僅かな隙間をすり抜けたのである。普通、それが隊員の防弾チョッキ以外の部分に命中するなどということがあろうか?否である。しかし、現実には命中しており、それが致死的となってしまっているのである。

参考記事にも書いたような、落雷を受けて死亡した、というものと同じく殆ど起こりえないのであるが、今回の死亡事件は「危険性」「予見可能性」だけ考えれば、誰でも思いつく程度のものである。万分の1、或いはもっと少ないだろうが、現実に起こった結果が悪ければ、逮捕、起訴、裁判、となっている医療裁判の意味が、警察諸君にも理解できるであろう。こういうことを責められるということである。

不確実な部分というのは、犯人側の行動であるとか、金属製の盾を持っていた隊員たちの動き(並び方、盾の位置、隙間の場所等)、撃たれた隊員の体の動き等々、それら現象が事件の通りに揃った時にはじめて、犯人の持っていた銃と撃たれた隊員の致命傷とを結ぶ直線が完成したのである。その直線をたった1つの弾丸が通過したということである。その瞬間にしか起こりえなかったことが、まさしく起こってしまったのである。

医療においても、生体側反応というものが不確実なのであり、そういう不確実な要因が積み重なって、たった一つの結果を生じるのである。確率の問題として「極めて稀」であろうとも、SAT隊員が死亡に至ったのと同じく、悪い結果というものが起こるということである。これを全て事前に予期などできない。被告側は「金属製の盾を用いて用心していた」「防弾チョッキを着用させ注意していた」と主張しようとも、裁判ではこれでは十分とは認められず、「もっと注意しておけば防げた、取りえる手段は(理論上)有り得たのであるから過失と認定」と言われてしまうのである。


それにしても、愛知県警の上層部は責任を感じて欲しい。作戦指揮に問題があれば、犠牲になるのは隊員たちなのである。町田の一件で「マズった」(日本の「警察力」~SAT&SIT警視庁幹部はウソが下手だね(笑))のを気にしていた?のかもしれないが、犯人射殺であっても「止むを得なかった」とは思えるが、優秀な警官が死亡することは「止むを得なかった」などとは考えられないよ、普通は。



続・本当に血尿だったのか

2007年05月17日 18時33分23秒 | 法と医療
ここのところ記事に書くよりも、コメントの方を多く書いてしまいました。

元検弁護士のつぶやき 司法と医療の相互理解とはなにか?commentscomments

続きを書こうと思いますが、また長くなりそうなので(これまでにも十分長く書いてしまっていますが)、記事にしてみます。
以前に記事(本当に血尿だったのか)に書いた時にはニュースだけしかなかったのですが、今は判決文が紹介されていることを知り、読んでみました。

平成15年(ワ)第202号 損害賠償請求事件

改めて感想を述べれば、亡くなられた患者の方はまだ若く残念であったと思われますが、これを救命するのは極めて困難であったのではないかと思います。いくつか論点を分けて述べたいと思います。


1)中心静脈カテーテルの穿刺

裁判でも争点となっていたが、私の意見では「主要な論点、原因とは思われない」というものです。前から記事に書いてたのと同じです。血管損傷があったとして、それが「生命の危機を及ぼす重大な出血」を招きえたか、といいますと、否であろうと思われるのです。静脈性の出血で、大きな外傷でもないのに相当量の出血がある、ということ自体が想定として困難です。裁判所の認定のように、仮に血管損傷があって腹腔内に出血したにせよ、それが尿中に出るという整合的な理由は見当たりません。裁判所は「否定する有力な学説等意見がないのであれば、否定しきれない」=腹腔内の出血は膀胱などを通って尿に出たんだと肯定、という態度を取っています。これを直ちに責めることはできないのかもしれませんが、現実には考え難いでありましょう。


2)剖検の結果

重要なのは剖検における所見でした。判決文にあるのは次のように書かれていました(P11)。
『小骨盤腔内並びに両側腎下極に至る後腹膜腔内出血、小骨盤腔から腹腔内への血液の波及、膀胱壁全層の彌漫性出血等を認めたが、血管壁破綻を思わす所見は認められず、Dの直接死因につき、テオフィリン中毒による急性左室不全並びに出血性ショックと推定されるが、血液凝固能低下に基づく出血とテオフィリンとの直接の因果関係については、明快な結論がえられていないなどと報告』

ここで、もう少し絞って見ていくこととします。

○所見1:血管壁の破綻についての所見は認められなかった
大量出血の原因と裁判所が認定しているのは、そもそも血管損傷があったが故に出血を来たした、ということであろう。しかしながら、解剖所見ではそういう所見がなく、従って血管損傷とそれに続発する血管壁破綻性の出血というものは解剖の上からは根拠がない。

○所見2:膀胱壁全層の彌漫性出血
この解釈は私のような個人では難しいのですが、裁判所が認めるような「血管損傷→腹腔内出血→膀胱に入る→血尿」というものは考えられないでありましょう。私の意見としては、起こりえる要因としていくつか考えられると思います。恐らく尿量を見るので尿道にはバルーンカテーテルが挿入されていて(要するにおしっこの溜まる袋が膀胱とダイレクトに繋げられているということ)、それがあったが故に「血尿」がバッグに溜まるのを目視できたのでしょう。
ですので、要因としては、尿道カテーテルが入れられていたこと、判決文で膀胱洗浄を行った旨被告側主張があること、というのが考えられるのではないでしょうか。膀胱内面の微小な出血点が多数あった、ということなのではないかと思いますので、これは上記2つの要因によっても惹起されうるのではないのかな、ということです。しかも、患者は痙攣発作を2度起こしているので、かなり強力な腹圧がかかったであろうと推測され、これも膀胱内に強圧がかけられた大きな要因なのではないかと思えるのです(きっとこれが第一番の原因なのではないかと)。
そうであるなら、裁判所が考えた「血管損傷→腹腔内出血→膀胱に入る→血尿」というおよそ非現実的な想定は採用できないでしょう。

○所見3:両側腎下極に至る後腹膜腔内出血
最大のポイントはここであろうと思いました。何が一番気になったかと言えば、「両側腎下極」という部分です。
何故「両側」であったのか?
これは、血管損傷とは必ずしも一致しない重要な所見であると思われました。
中心静脈穿刺を行ったのは右側であって、出血があるとすれば「右側」ということになります。ところが「両側」の腎臓周囲に見られているのです。判決文中にあったカテ挿入後のCT画像なのですが、撮影時間が午後6時頃ですので、その時点で血腫がどのように映っていたのか判りませんが、その時点で片側だけであったのか両側であったのかが気になります。たとえ、カテ挿入で小さな血腫が右側に形成されたにせよ、その後左側にも血腫が形成されるとなれば、右側の出血点だけではかなり困難なのではないでしょうか。
(ところで重量は測定していなかったのでしょうか?推定される出血量が書かれていないので判らないんですよね)

更に、後腹膜腔内出血についてですが、これには原因不明の出血を生じ血腫が形成されている例は複数あります。
原因不明の後腹膜血腫

これをお読み下さるようお願い致しますが、通常こうした特発性後腹膜血腫はできるのが片側です。非観血的治療法も有り得るようですので、手術適用とばかりとは限りません。出血源が不明であることも特徴的であり、手術や解剖所見でも発見できないと報告されています。また、外傷などで後腹膜血腫の形成となるような場合、タンポナーゼ様となって自然止血する例は少なくないでしょう(それ故非手術症例がある)。
事件の患者の場合には、血腫の形成は両側に及んでいるので、血管損傷(外傷などでも同じ原理です)で出血したのが原因とも言えないのではないかと考えました。それか体幹中心付近にある出血源で、出血範囲が両側方向に広がっていった、という場合でしょうか。それ以外でも、例えば両側性の特発性腎出血のような特別な状態であった、とか、腎臓周辺に見られる血腫については、カテ挿入に伴う血管損傷とは別物である可能性はあるだろうと思います。


3)テオフィリン中毒と出血

裁判ではテオフィリン中毒であったことは測定された血中濃度から認定されており(原告側主張は中毒なんかじゃない、検査数値が間違っている、という主張をしていたが、データを計測ミスと言い切るのであれば、全ての場合に通用してしまう。「はい、15キロオーバーで速度違反」とか言われたら「測定した機械のミスだ、その数字はウソだ」とか)、これはほぼ間違いないでしょう。裁判所の主な言い分としては、『テオフィリン中毒により、出血、血液凝固異常等を生じ、出血性ショックを発症し得るとの医学的知見が存在しないこと』を剖検した医師の意見を参考に採用している。

○凝固系の異常の可能性はある:
テオフィリンの薬理作用としては、普通は喘息治療薬としての効果が有名であるが、一応強心薬としての作用も有していると考えられている。この作用機序については、完全に明らかとなってはいないが、主にフォスフォジエステラーゼ(PDE)阻害作用によるものであると考えられている。シルデナフィル(商品名では有名となった「バイアグラ」)は同じくPDE阻害剤であるが、PDE-Ⅴ選択的阻害作用を有している。PDEにはサブタイプがⅠ~Ⅴまで(発見されて)あり、その5番目のタイプだけに効くのがシルデナフィルで、テオフィリンは恐らくPDE-Ⅲの阻害作用を有しているといわれる。
同じくPDE-Ⅲ阻害作用を有する強心薬にはアムリノンなどがあり、このタイプの薬剤は抗血小板凝集作用を有していると考えられる。ただし、この作用としてはそれほど強いものであるとは考えられていない(代表的なアスピリンやワーファリンなどの方が出血傾向は強いであろう)。一般的には通常量での凝固系への作用を考えたり研究されたりはしているだろうが、致死量の場合にこうした凝固系への作用の強さがどうなのかという研究はできないだろう。なので、実際に凝固系への影響がどうであったかを評価することは難しいのであるが、可能性としてはテオフィリン濃度が上昇するに従いPDE-Ⅲ阻害作用も強まる方向になる(逆はないだろう)のであり、結果としては出血傾向が助長され得ると考えられる。

DICであったかどうかは不明ではあるが、被告側主張としては「DICではなかった」としており、これは血小板数や血中フィブリノーゲンが98であったことから否定的立場を取っている。厚生労働省の診断基準でも、DICスコアが基準には到達していたとも言えないかもしれない(全ての検査結果が揃っていた訳ではないので、一概にはいえないかもしれないが)。


4)横紋筋融解症と血尿

これも重要な論点なのですが、確認できる手段はないので、あくまで推測の域を出ません。
膀胱壁の彌慢性出血程度であるなら、多少色が付く程度ではないかと思われ、それが本当の意味での「血尿」であったとも思えないのである。裁判所はこれを「血液+尿」という考え方に立ち、出血性ショックで死亡したのであれば「どこかで血が出てないとおかしい」、即ち「出血は尿と一緒に出ていたじゃないか」というストーリーなのであろうな、と思えました。

しかし、私の意見としては、今でも血尿ではなく「ミオグロビン尿」だったのではないかな、というのは変わりません。
尿の色、代謝性アシドーシス、痙攣があったこと、使用されている薬剤、などの状況証拠からは、それが最も整合的説明となると思えるからです。テオフィリンが横紋筋融解症のトリガーとなっていたか、疑問の余地は残されているのは確かである。これまで取り上げてこなかったもので、判決文を読むと気になったがありました。

判決文によれば、午後4時20分頃と40分頃に痙攣発作が発生していた。事前に抗痙攣薬を入れていたかもしれないし、発作後から何か使用したのかもしれない。これは中身が書かれていなかったので何とも言えないが、可能性だけ述べておきます。
通常、痙攣に対しては、ジアゼパムのようなベンゾジアゼピン系薬剤とか、抗てんかん薬のような薬剤を用いるのではないかと思ったのです。こうした薬剤は横紋筋融解症ではなくても、所謂「悪性症候群」のような病態を生じることがあります(コメント欄でも教えて頂きました)。つまり、危険性のあった薬剤を考えてみると、「テオフィリン」(勿論致死量に達するほどの量だ)、「抗痙攣薬」(ベンゾジアゼピン系?)、それとも両方かもしれませんが、有り得ない話ではないのです。具体的な症例として、次のものがありました。

横紋筋融解症・肺出血症例
この中で症例2では肺出血を生じており、剖検でも死亡原因として推定されています。本件とは条件が異なるので、一概には言えないですが、有り得ない話ではないということはご理解頂けるのではないかと思います。
つまり、横紋筋融解症もしくは悪性症候群の可能性が考えられ、テオフィリンや抗痙攣薬の使用や痙攣発作の影響ではないかということです。


5)なぜ死亡に至ったのか

顕著な症状の変化は、午後6時40分頃の血圧低下でした。恐らくこの頃から、ほぼ出血が「止まらなくなっていた」という状況に陥ったのではないのかな、と。それまでは、テオフィリン中毒と凝固系の軽度異常でどうにか持ちこたえていた(血液吸着などが功を奏したのかもしれません)のですが、時間経過と伴に全身状態の条件悪化が進んでしまったのであろうな、ということです。決定的となったのは、痙攣発作が起こったことだったのではないかと思われます。これを境に「後腹膜腔への出血」原因が発現、横紋筋融解症(もしくは悪性症候群?)の明らかな発現、となっていったのではなかろうか、ということです。
この両者の発現により、いよいよ血液凝固系の異常が顕著となって、(血圧が落ちた)6時40分頃から本格的に出始めたので血圧降下に至ったのではないでしょうか。そうであれば、撮影したCTにも両側性の血腫を疑わせる像は、その時点では映っていなかった可能性はあります。
(原告側主張では6時40分の時点で出血量が2000はあったはず、と述べているのだが、この根拠が全くわからないのです。まさか血尿の量をカウントしてバッグ一杯になっていたから2000とか言ってるのかも、と勝手に推測してしまいました。これは血液の量ではなくて尿量だろうと思いますので。)
出血は初めのうちは後腹膜腔(後には肺にも出血したでしょう)で起こっているので、そこに多分貯留していったのではないのかな、と。治療を行っている側にすれば、外傷のようにドバドバ出てるのがハッキリ判ればいいのですが(原因も対処も決まっているので)、全く見えない場所に大量に出血していて、同時に元々の中毒と横紋筋融解症のような病状も同時進行で起こっているとするならば、「何が原因なのか」ということを大変見え難くしていたのではないのかな、と思えるのです。

結局の所、争点となっていた「カテーテルによる血管損傷の有無」というのは、殆ど関係がないとしか思えません。そうではなくて、後腹膜腔への出血を予測・診断できたのか、原因を特定可能であったのか、治療法の選択として他の取りえる方法があったのか、ということではないかな、と。いずれも、「困難であった」としか思えないのです。
家族などにとっては、「血液吸着」とかのワケのわからん治療をやるまでは何もしない方が生きていた、とか、余計な治療をされたから死んだんだという見方ができてしまうのは判ります(時間経過に沿って医療行為を書いていくと、あたかも医療側が何かしたので、その結果何か悪くなったように見えてしまいます)。しかし、全部の薬物が青酸カリのように「飲んだ→ううっ苦しい→目の前で死んだ」みたいにはならないのですから。割と時間が経ってから死亡する例だって少なくないでしょう。そうは言っても、遺族にそれを理解せよと求めるのも難しいのは確かでしょう。



田中幸雄は

2007年05月16日 23時01分42秒 | いいことないかな
あと1本と迫ったようだ。
2000本安打達成は間違いないだろう…だよね?…多分。
フェードアウトしてどうする。妙に自信なさそうになってるな。

ハムの弱さは、とりあえず様子見として(笑)、後は山本昌の勝ち星がどうなるかだな。完封に一年分の精力を使い果たしてしまったんじゃないか、と心配になるね。

夏場には強いはずだから、もうちょっと勝つと思うが、微妙な数字ではあるかもしれないな。

まあ、頑張れ、年寄り軍団。
というか、私も同じオッサンなんだが。



スゴ!!「セクハラ社長」は実在した

2007年05月16日 21時20分32秒 | 社会全般
こんな時代劇に出てくるような典型的「悪者ジジイ」みたいなのが本当にいるんですね。真実はやはり凄すぎる。

はてなブックマーク - EU労働法政策雑記帳 ベンチャー社長セクハラ事件

hamachan先生、有難うです。
大変勉強になりますたです(何の勉強?笑)。

恐るべし、京都…じゃないか。京都かどうかは無関係だね。
恐るべし、ベンチャー社長。強烈。

人間は地位とかじゃないんだね、やっぱり。



ケタミンと薬物規制

2007年05月15日 23時48分39秒 | 社会全般
今、乱用薬物の1つとして「ケタミン」が使われているんだそうだ。そうだったのか。都会は怖いな。

livedoor ニュース - 「ケタミン」で2億円荒稼ぎ…麻薬バー摘発

記事の脚注を見ると、次のようになっている。
◆ケタミン 麻酔薬のひとつで即効性の抗うつ作用を持つ。近年不正に密輸入され、若者の間で一種の臨死体験様作用が得られる、悪夢を引き起こすと言われる。合成麻薬MDMAなどと一緒に注射や鼻孔から摂取するのが一般。今年1月から取り締まりの対象となっている。

驚いたのは、押収されたケタミンの末端価格。億単位だそうだ。
それにしても、こんな古典的な薬物の価格がキロあたり数千万円とか1億円とか、信じられないな。ボロ儲けじゃないか。
以前偶然に記事で取り上げたことがあった。
金融政策とtarget


薬物も「規制するから闇市場になるんだから、解禁せよ」とか、経済学信奉者たちや池田式初等的経済学理論の支持者は言うかもしれんね(笑)。マフィアやヤクザの儲ける術を与えるのが良くない、とか。「ケタミンが合法的に買えない→闇市場化」というのは、確かにそうなっちゃってるし。>ですね?池田先生

こういう主張をする人は、自分の家族とか友人とかがケタミンの過量摂取で、臨死体験どころか一遍本当に逝ってもらえばいいんじゃないか?そうすれば、「規制する方がいいかどうか」が判るんだろうと思うよ。その時点でもなお、「規制しない方が正しい」って言えるなら、こういう連中の言い分を少しは信じてあげられるかもしれません。そうでもなければ、到底信じられない(笑)。

これも以前取り上げた論点で、自分の考え方は変わらんな。

「ご利用は慎重に」

薬物規制の境界線



池田信夫氏の不都合な真実~大衆を欺く方法

2007年05月14日 14時57分32秒 | 社会全般
既に出尽くした論点なのだが、個人事業主等の零細事業者が借入できなくなる、という一見もっともらしい理由を言うのは定番である。

貸金業の上限金利問題~その15

池田氏もこれと同じ。
本当は借りられる別な手段はあるし、上限引下げで借りられない対象となるのは所謂「ゾンビに追い貸し」と同じような事業者が多いだろう。それを個人事業主が困るからという「大衆の情感に訴える」戦術を取るのは、池田氏が散々酷評している「みのもんたの古い脳」と全く同じやり口なのである。感情に訴え、同情を誘おうとすることは同じなのである(大衆はこの手の戦術には弱いのだから煽動されやすいだろう)。これこそ正しくポピュリズムなのである。そのことにも無自覚であることは、大衆を欺こうとする連中がいかに「トンデモ」なのかが窺える。

このやり口は別な主張でも見られる。それは、次のようなものである。
「貸金から借金できないので、手術を受けられない」
いかにも悲惨で可哀想ってな雰囲気を漂わせる主張ですな。

彼は記事のコメント欄に次のように書いている。

池田信夫 blog みのもんたの古い脳

『高金利によって自殺する人もたしかにいるかもしれないが、他方ではサラ金で手術費を調達して命が救われる人もいるだろうし、つなぎ資金で会社が救われる人もいるでしょう。そういう「いい話」はメディアには出てこない(弁護士の飯の種にもならない)ので、サラ金は悪の権化として描かれる。』

おー、かなり情感に訴えるシチュエイションで迫ってきましたね。
とある人がいて、病院にかかったところ、多額の入院費や手術費などが想定され、収入が少ないので自力では払えない、と。こうした場合、この人は銀行もその他ノンバンクなんかも相手にしてくれないので「借りられるのは貸金だけ」であり、「そのお金が用意できないと手術を受けられない」ということになる、と。そーですか。へえ~、ですな。

池田式経済学の理屈では、「サラ金から手術費を調達して得られる利益」がどれほどのものなのか考えなくてもいいのかね?お得意のB/Cはどうした?その他大勢のメリットが大きければ、ごく限られた特殊な例を救済するべきなんてことをこれまで主張していないんじゃないのか?池田氏は(笑)。要するにあれだ、ご都合主義ってやつですか。自身がよく知りもしないのに、もっともらしい理屈を並べ立てて、よく知らない人々を誘導するというのは、ポピュリズム的であり「古い脳」そのものとしか思えんが。


貸金から借金できないので手術を受けられず困るケースが、どういったものであるか、考えてみる。
論点として、①貸金以外の資金調達方法、②払うべき費用、③医療機関の対応に分けて述べる。


①貸金以外の資金調達方法

サラ金から借りなければならない、って主張は、悪いサラ金に騙される人々と同じくらいのレベルだってことは言えるかも(笑)。本当に必要な資金であれば、公的融資制度を利用できる。そもそも貸金になんぞ、手術費用を借りよう、という時点で合理的ではないように思うな(爆)。頭の悪い経済学信奉者ならば、きっと目の前にすぐ見える貸金に飛びついてお手軽に借りるに違いないだろうが。

前に書いたので繰り返しになるが(貸金業の上限金利問題~その3)、殆どがこうした制度を知らないことがまず問題であろう。池田式経済学理論のように、まず「貸金から手術費用を調達せねばならない」と直感で考えることをとって見ても、「知られていない」という傾向が端的に現れているだろう。

この制度では、緊急小口資金も使えるし、「療養・介護資金」貸付制度も使える。なので、病院に払うべき資金が不足するならば、これら資金を使えばいいことが大半である。「療養・介護資金」貸付制度は都道府県単位とか市町村単位の貸付になるので、限度額には若干の違いがあるかもしれないが、大体170万円(1年以内)とか230万円(1年半以内)くらいまでは借入可能なようである。

参考>貸付事業

対象となる世帯の収入などにもよるが、10万円以上の「療養・介護資金」の調達は殆どが可能であろう。


②払うべき費用

これも所得水準によって若干異なる。前提として、3割自己負担、高額療養費制度、というのが一般的に考えられる。
具体例で考えてみよう。病院で1万点(=10万円)の医療費であったなら、自己負担額は3万円、ということになる。入院の場合には、食事療養費が別にかかるだろう。

払うべき資金を10万円用意(①で見た貸付制度を利用したとして)できる時、受けられる医療を考えてみよう。

a)生活保護で自己負担額が無料:
所得が少ない、ひとり親世帯、所得がない、病気の高齢者などといった場合、医療給付を受けていることは多々ある。この対象者であれば、自己負担は免除される。なので、本当に生活困窮者であるならば、払う必要がないのである。

b)3割負担の時:
33333点であると、自己負担額は10万円となるので、この点数に該当する医療を受けることは可能であろう。

c)高額療養費制度を利用する場合
割と大きな病気なのであれば、入院が必要となったりして、多額の費用がかかることは想定される。こうした場合に、利用できる制度としてこの制度がある。ある月に一定以上の自己負担額を超えると、限度額までの支払で済むことになっている。前提としては高額所得者ではないので、それ以外の限度額を見ると次のようになっている(70歳未満とそれ以上で違うが、今は70歳未満として考える)。

ア 低所得者(生活保護の被保護者や市町村民税非課税世帯などの方)
  ……35,400円
イ 上位所得者(標準報酬月額が53万円以上の被保険者及びその被扶養者)
  ……150,000円+(医療費-500,000円)×1%
ウ 一般(ア、イに該当しない方)
  ……80,100円+(医療費-267,000円)×1%

ここで、アの全額免除者ではない低所得者であれば、「35400円の定額制」であるので、10万円にもうちょっと頑張ってお金を用意すれば、3ヶ月間分くらいは医療費がまかなえる。その間に大きな手術をしようと、大量の輸血をしようと、高額な治療法を選択しようと、保健医療制度内にあるものであれば、医療を受けることができる。「106200円払えば、3ヶ月間は医療を受けることができる」ということだ。

次に、イは関係ないので、ウを考えてみよう。ウの該当者たちはアの人たちよりも所得額が多い、ということになる。で、80100円の定額部分の他に従量制の部分がある、ということですね。資金は10万円あるので、80100円を除いた残りの19900円分がこの従量制部分の支払限度ということになりましょうか。
つまり、19900=(医療費-267,000円)×1% となる医療費はいくらか、ということですね。これを求めると、医療費=2257000円となって、従量制の部分から規定される「自己負担額10万円」で受けられる医療は225700点まで、ということになります。これを超える場合には、従量制部分は1%ずつ増えるのですから、自己負担額を1万円増やせば医療費は100万円分増やせます。すなわち、自己負担額11万円ならば受けられる医療費は3257000円、12万円なら4257000円、13万円なら5257000円、ということで、大半の医療はこれで賄うことが可能であろうと思われます(但し、治療開始を月の初めとし、手術等は同月に行うように事前に交渉しておくというような工夫が必要でありましょうが)。10万円の自己負担で腹腔鏡下での腫瘍摘出術も受けることができるかもしれません(場合によるので、正確には言えないでしょう。確か王監督の場合、200万円くらいだったとか報じられていたように記憶している…)。

これは単月の場合のみですが、もう少し長期に渡る場合にはもっとお金が必要なことも考えられます。その時には、「療養・介護資金」の貸付で増額が必要になります。疾患の種類によっては、「障害認定」されることもあるので、その場合には自己負担額の減額がなされる可能性はあります。この辺りは病院で相談するか、役所の窓口で相談するのが望ましいと思われます。通常の医療であれば若年層では長期入院のような場合は少ないので(外来に長期間通わねばならない方が大変かもしれない)、「貸金から借りられず、手術を受けられない」という場面を想定することは困難な場合が多いと思われます。


③医療機関の対応

②のc)で述べた高額療養費制度を利用する場合、いくつかのケースが考えられます。一度医療機関窓口で「全額精算し、自己負担額を納める」場合と、窓口では「限度額のみ支払う」場合です。
前者の場合には、自己負担額が50万円だとすると、それを自分で支払って、支払済み領収書を役所の窓口に持っていき自分で高額療養費の払い戻し手続を行わねばなりません。この時には、「払ってくれ」と医療機関から求められることになります。この払うお金が用意できないので、手術等の治療が受けられないんだ、という主張は有り得ますが、事前に医療機関に確認することはできるので、このような病院には行かないようにすればいいのです。
後者のような「窓口では自己負担額の限度額のみ支払う」という医療機関を予め選定して、受診すれば済むことです。これで、事前に50万円を用意できなくても、10万円用意できたなら10万円のみを払えばいいのです。後は、病院がまとめて高額療養費の事務手続関係をやってくれます。自治体立などの公的病院や主だった基幹病院などの多くはこうしたシステムを採用しているだろうと思われます。患者がやるべきことは、この手続の委任状を書くことで、病院側が用意してくれているでしょう。

そもそも、「払えなければ医療(手術)を受けられない」という前提には、疑問符がつくでしょう。医療機関は患者が直ぐに「支払できない」という理由だけをもって、診療を拒否することはできません。勿論全部の医療を完璧に提供しろ、ということを求められても応じられない場合というのはありますが、放置すれば生命の危険性があるということであれば、支払能力の有無は別として生命を救う為の必要な医療は提供しなければならないでしょう(確か、過去にそういう判例があったと思います)。なので「3万円足りないから、必要な手術が受けられない」などということは現実には起こらないでしょう。アメリカならば、即刻 ICUから「出て行ってくれ~」(沢田研二か!笑)とか普通に言われるかもしれませんが、日本ではそういう社会環境ではないでしょう。

たとえ住居のない浮浪者であっても、道端で倒れていたら運ばれてくるし、その人の命を救う為に高額な医療行為(例えば輸血とか)であろうとも、全力で治療が行われるでしょう。無保険者であろうとも、「助けない」などということはほぼ無いと思います。大体、姓名不詳、保険加入状況不詳であろうと、医療は普通に行われていますからね。緊急の場合に保険証を持ってくる人の方が稀なわけで。こうした無保険者に多額の医療費がかかっても、「払えない」と言われれば泣き寝入りせざるを得ない(医療機関は取り立て屋ではありませんからね)のです。保険に加入してさえいてくれれば、高額医療費請求で殆どが支払われますし、仮に自己負担額が全額払えないとしても損失は微々たる額(全体に比べれば)ですが、無保険者の場合であると何処からも一銭も入ってこないので、医療機関が全額カブルことになるのですよ。自治体病院の多くには、こうした「払わない人々」の医療費が焦げ付き債権として残ってしまうでしょう。

低所得者において問題になるのは、「バカ高い国民健康保険の保険料すら払えない」というような場合であり(通常の会社勤務であれば健保組合か政府管掌なので労使折半になり、市町村国保に比べると保険料が安く済む)、無保険者となっているか保険料を払えない為に資格停止(保険料を納めるまでは全額自己負担、つまり10割負担)ということが一番困ることでしょう。市町村国保においては、「所得水準が低い」フリーターや自営業者なんかがエラク高い保険料を払わないと健康保険の資格を得られないが、高給取りは労使折半の安い保険料で済むという矛盾したシステムになってしまっているのです。これが大きな問題であることは間違いないでしょう。無保険者故に高額療養費制度も使えず、困っている人はいるかもしれません。でも、10万円あれば、取りあえず保険加入手続きを済ませて3万円程度保険料を納め(所得水準によって保険料が決まっているので払える分だけとりあえず払う)、保険制度の枠内に入った後に病院を受診して高額療養費制度の適用を受ける(低所得であれば、ひょっとしたら35400円の定額負担で済む可能性があるかもしれませんし)、といった対策は取り得るので、きちんとした相談窓口などに相談することが重要であろうと思われます。


こうして見れば、池田氏の主張がいかにトンデモであるかお分かり頂けるであろう。

「貸金から借金できないので、手術を受けられない」

こんなことはまず滅多には起こり得ないのが、今の日本の制度なのである。問題はこうした制度から漏れている(或いは、知らない)人たちをどうするか、ということであり、それには以前から社会保障制度を変えるべきと個人的には提案してきた。


いぜうれにせよ、同情を誘う事例を殊更強調して大衆を欺こうとするやり方は、まさしく「煽動」以外の何ものでもない。そんな程度の人間が、偉そうに大衆批判なんだそうだ。よく知りもしないくせに適当な思いつきを書いて、それを正当だと思い込ませる手法を取っているというのに。多くの人々はこうした記事やコメントを読んで本気にするだろう。借金できないと、手術もできないんだな、と。

主張者当人が自己の説を「心の底から正しい」と信じ込んでいるので、決して否定的意見を受け入れないのだ。カルトと似ているのである。それとも、「このキノコを食べたらガンが治るんですよ!!」みたいなものですか。言ってる本人が絶対的に正しいと信じているから、「本当に治るんですよ。どうです奥さん」みたいな勧誘もやけに説得力があったりするのが本当に困るのだ。そうして、何も知らない人々はまんまと騙されるのである。一見すると肩書きが立派そうで、そういうヤツが「本当に治るんです」とか力説したら、多くの人々が引っ掛かるのと同じなのである。



池田信夫氏の不都合な真実

2007年05月13日 23時47分42秒 | 社会全般
前の記事の続きです。

ポピュリズム批判を繰り返して得意になっているようだが、肝心の質問には全く回答できないのは、池田信夫氏の十八番なのであろうか。
私は池田氏を全く知らないし、特別な遺恨も抱いてはいないが、どうやら「質問されては困ること」というのがあるようだ。こちらのTBもコメントも掲載しないからね。彼は”TBが届かない”とコメントに書いていたので、コメントに前の記事の3つ質問だけを書いたのだが、それも掲載拒否だ(笑)。まあ、それは管理者が決めることであるから自由なのだからいいのですけどね。


彼は以前に山形氏との平均賃金論争で次のように書いている

経済の各部門の限界生産性は異なり、それによって賃金も異なる。その集計として平均は算出できるが、それは因果関係を意味しない。もちろん「生産性の高い国は所得も高い」ぐらいのことはいえるだろう。こういう関係を私は前の記事で「日本の所得水準が高いぶんだけ、絶対価格は中国よりも高くなる」と(わざと曖昧に)書いた。山形氏は、見事にこれに引っかかって「じゃあ池田くんの言う『所得水準』はどうよ? 所得水準が絶対価格を決めるメカニズムはあるんだよねえ?」という。

残念でした。所得水準が価格を決めるメカニズムなんてあるわけないだろ。




私がこのように記事に引用した後で、彼は内容を書き換えた。まあ、それもいいでしょう。思い直して表現を書き換えることもあるでしょうから。だが、卑怯な感じは否めないな。

更に、

池田信夫 blog 賃金格差の拡大が必要だ

追記2:昨日の記事では、山形氏は反論もできず、「分裂勘違い君劇場」に助けを求めているが、この話は彼がデカ文字で強調した「賃金水準は、[労働者の]絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ」という命題を証明していない。だいたい平均生産性だけで賃金が決まるのなら、プログラマとウェイトレスの賃金の差は何で決まるのかね。



とも書いている。

彼は主張者が自説を「証明することを求める・反論を求める」が、自分に都合の悪い質問に対してはスルーなんだそうだ。これも彼の自由だから別にいいのだが、こちらの質問内容なんてたったの3つであり、難しい内容でも何でもないのだから簡単に答えられそうなものだ(爆)。しかし、彼には答えられないだろう。何故なら答えると、自らの主張に綻びを生じるからだ。なので、コメントやTBの表示を拒否し、都合の悪い部分は隠しておきたいと考えるのも当然の反応なのであろう。


こういう手合いというのは、いくつかの共通点が見られる。

・大衆批判
自分自身は知的水準が高いと自認しているのか、大衆の反応が愚かしく感じるようである。それ故、ポピュリズムとして批判をするのであろう。それは一部正しいこともあるが、「大衆は無知だ、古い脳だ、論理的推論ができない、1段階の論理しか持たない」などと批判する割りには、自分自身が正しく考えているかというとそうでもない。彼らが批判する”無知な”大衆とあまり違いはないか、むしろ下手に経済学の理屈などを知っている分だけ「トンデモ科学」同様に「トンデモ」な主張を繰り広げ、それを撒布しているように思われる。もっとタチが悪いのである。

・自分の主張を説明できない
大衆批判の根拠は、「自分は知っている、理解しているが、大衆は無知で愚かだから、それがわからないのだ」ということなのであろう。では、自分が主張している説の根拠を説明してごらんなさい、と求めると、できないのである。そりゃそうだわな。反論には耐えられない程度の、脆弱な根拠なのだから。例えば、「上限金利引下げる→資金供給が減る」ということが現実に観察されてるとは限らないのですから。矛盾があるじゃありませんか、と言われると、答えられないんですよ。要するに結論を先にして、それに自分の知ってる理屈を都合よく組み合わせるだけなのと変わりない。「サラ金の90%は闇金だ」とか言っておきながら、「引下げで中小業者が潰れるからだめだ」とも言う。上限引下げで大手・準大手だけ生き延びれば、他は大半が「闇金」が潰れるだけだから好都合じゃないですか(笑)。



要するに、「思いつき」か「思い込み」で言ってるのと変わりがないのである。自らが批判している大衆の感情論と何ら違いがないのである。それが「新しい脳」を持っていると過信しているのか、大衆よりも優れた判断を下せると自惚れているのか、知識人を気取っている人間の正体ということなのであろう。



池田信夫氏の「新しい脳」は正しいか

2007年05月11日 18時41分24秒 | 社会全般
池田氏は、「みのもんたの古い脳」は誤りだと説いている。

池田信夫 blog みのもんたの古い脳

記事から引用してみる。


著者が「みのもんた」の例としてあげるのが、貸金業法の改正だ。当ブログでも論じたように、上限金利を下げたら貸金業界が崩壊して消費者がかえって困ることはわかっていたのに、みのもんたは(規制強化を主導した)後藤田正純氏をゲストにまねいて、彼を正義の味方とたたえた。

当ブログで紹介してきた進化心理学の言葉を借りると、みのもんたが代表しているのは、感情をつかさどる「古い脳」である。同情は、人類の歴史の99%以上を占める小集団による狩猟社会においては、集団を維持する上できわめて重要なメカニズムだ。感情は小集団に適応しているので、「高金利をとられる人はかわいそうだ」といった少数の個人に対する同情は強いが、規制強化で市場から弾き出される数百万人の被害を感じることはできない。

これに対して「金利を無理に下げたら資金供給が減る」というのは、経済学ではきわめて初等的な理論だが、「新しい脳」に属す論理的推論を必要とし、多くの人にはそういう機能は発達していない。



続いてコメントから引用。

金利規制:
貸金業法の改正で、個人事業者から資金が引き揚げられ、倒産が倍増しています。自殺が倒産の増加関数だとすると、金利規制の強化は自殺を増やすと思いますね。

禁酒法:
借金をアルコールと比べる意見もよくありますが、今度の規制強化は、まさに1920年代のアメリカの禁酒法と同じです。これによって20%以上で貸している中小の貸金業者は壊滅し、かなりの部分が闇金融になると予想されます。他方、800万人以上の債務者が借り入れできなくなり、闇金融に流れるでしょう。禁酒法がマフィアを育てたのと同じです。

今度の改正では、闇金の規制強化も打ち出していますが、この措置が有効だと予想する向きはほとんどありません。今でも、サラ金の90%以上は闇金です。アルコールと同様、消費者ローンのように大きな市場を非合法化することは不可能なのです。

むしろ行政やマスコミがサラ金を差別することが、大手金融機関の消費者金融への進出を阻害し、サービスの質を悪化させています。これは売春、大麻などと同じ問題で、合法化して政府が管理したほうがいい。マフィアをなくす最善の対策は、彼らのビジネスへの需要をなくすことです。




池田氏が主張の根拠としているのは、彼が信じて疑わない「初等的経済学理論」のようである。何度か指摘してきたのだが、今回も過去の例に漏れず、こちらの質問には恐らく答えられないだろうが、一応書いておく。

消費者金融市場のうち、個人向け無担保融資を行っている所謂消費者金融(武富士、アコム、プロミス、アイフル等)に該当するものを「貸金業」と呼ぶことにする。銀行、ノンバンク、カード会社などは除外するものとする。


質問①:池田氏は以前「ゾンビ企業に追い貸しするのは、生産性を低下させるので良くない」という主張をしていたと思う。そうであるなら、個人事業者についても同様のことが考えられるのだが、貸金業者から追加融資を断られるような個人事業者が延命することは経済学的に望ましいと言えるか。

質問②:池田氏の過去の記事やコメントから見れば、金利規制を行うと、a)かなりの中小貸金業者は闇金になる、b)800万人が借入できなくなり闇金から借入を行う、ということを主張しているようである。

そこで、a)の根拠は何か、お尋ねする。現在存在する中小業者はかなりの人たちが将来「闇金業者になる」ということになれば、犯罪者予備軍ということであろうか。これと併せて、池田氏は「今でも、サラ金の90%以上は闇金です。」と述べているので、これについても具体的に説明できるはずである。

b)の800万人が借入できなくなる、というのは、「現在20%を超える金利で借りている人たち全部」が借入している全額(元利合計)の一括返済を迫られる、ということでしょうか?ならば、これに応じられないほぼ全員が破産等(民事再生含む)の処理を行う、ということですね?それとも、過去の債務はそのまま残り、新たな借入が停止される、ということでしょうか?




以下は、この問題について、あまり過去の記事をお読みになっていない方に向けて書いておきます。

①の補足・・・個人事業主であっても、借入先は銀行やノンバンク等、貸金業者よりも低金利業者を選択することは可能である。しかし、既に借入額が大きい、事業がうまくいっていない等何らかの理由により融資を断られることはあるだろう。そのような場合に貸金業者からの借入を行うことは有り得るが、その事業者が「ゾンビ」ではなく利益率の高い効率的な事業者であることを想定するのは困難だと考えている。複数の貸金業者から借入を行い、しかもその金利が20%以上であるなら、事業から得られるリターンは当然それを上回る水準であるはずであろうが、現実にはそうした個人事業者が多いとは思われない。もし、それほど高い利益率であるならもっと低金利の融資を受けることが可能であろう。例えば、「18%の借入を断られながら25%ならば借入可能であって、プロジェクト失敗にはならないはずの個人事業者が貸金業者から借入できない為に倒産する」、ということが圧倒的に多いということでもない限り、池田氏の主張が正当であるとは思わない。無駄な延命をするよりも、再生なり破綻処理なりを行う方がよいと思う。

そもそも個人事業者の事業成功率が極めて高く、貸倒にはならないのであれば、もっと高金利が適用できる日賦業者からの借入を行えば済む話であろう。日賦業者は事業者向け融資はできるので、短期資金を30%とか40%で貸し出せばいいだけである(上限は54.75%だったか?なのでもっと高金利でも貸せるはずである)。通常の貸金業者が25%とか29.2%で貸し出せる相手なのであれば、その審査が適正である限り、日賦業者も同じ金利で貸せるはずだろう(現実には業者のコスト率が異なるので適用金利は変わるはずだが、池田氏が主張している初等的経済学の理論によれば同一人物が借入を行う場合にはどの業者であっても全部同じ金利が適用される、と信じているのだそうだ)。


②の補足(a について)・・・酷い決め付けではないかと思いましたが、どうなんでしょうか。無登録業者であれば闇金だが、登録業者であっても9割以上が「闇金」であると?ならば、大手・準大手以下の登録業者を摘発すれば、闇金業者の多くは一網打尽にできるのではないですか?もし中小業者の多くが不良業者であると言うなら、上限金利規制によって、そういう業者が消滅したところで何も問題はなさそうに思えます。

②の補足(b について)・・・池田氏の理屈からすると、20%以上の金利を適用されていた人は、(もし収入等の条件が変わらないとすれば)決してそれ以下の金利では「借りられない人たち」ということになるでしょうから、合法の貸金業者からは借入できなくなる、ということでしょう(闇金が資金提供するとして、数兆円規模で資金供給が必要になるだろう。そんなことが可能なのか?)。貸金業界の実際の利用者数は推定が難しいのですが、実人数で800万人が排除されるとなれば、控えめに見て「貸金業者の2社以上から借入を行っている人」はほぼ全員という規模でしょうね。債務残高によっては、1社だけから借入してる人も含まれるかもしれません。大手業者の推定などでは利用者は800万人程度という数字もありますが、そうであるなら現在大手貸金業者に債務のある殆どが「借入できない」ということですね。つまり、完全にグレーゾーンが廃止されたら、全く新たな顧客か、これまでの利用者のうち「完済して現在債務のない人」を対象として貸し出すという、別な市場を作っていく、ということですか。この市場には、これまで借りてた800万人は入れない、と。もしそうなれば、圧倒的大多数の貸金業者は貸出残高を維持できなくなるでしょうね。それが判っているならば、完全にグレーゾーン金利が廃止される前に廃業した方が有利に思えます。何故即刻廃業するとか、他の事業に移るとかして、貸金業界から完全撤退してもよさそうです。

参考までに、焦げ付きが問題となった米国のサブプライム・モーゲージについての規制も、借金という点では似ている。池田氏の主張するところによれば(初等的経済学理論は日米共通なのであろう?)「同じ現象」が観察されてもよいと思うが、いかがであろうか。例えば、「HOEPAのような規制強化→資金供給が減り貸出は減少する」、ということが起こりそうなものだが、どうなのか?実際には、サブプライム・ローンの融資額は増加したようだが。この貸出が減ってない理由を、池田式の初等的経済学理論に沿って説明してもらいたいものです。池田氏の論に従えば、どうやらFRBも初等的経済学理論さえ理解できない、ということになってしまうのですけどね(笑)。

更に、池田式理論が正しいのだとすれば、「借金ができなくなる→闇金に行く」ということが、常に観察されるはずであろう。では、サブプライム・ローンの焦げ付いた債務者の大多数は闇金から借入を行っていたか?そうとは思えないのですけどね。調べてないから、判らんけど。ただ、池田式経済学理論の通りなら、米国における「禁酒法という規制強化→闇市場化」という現象が日本の借金にも適用できるのであれば、米国での借金であっても同じく「規制強化で借金ができなくなる→闇市場化(闇金から借りる)」ということになるはずであろう。もしもこれが大多数で起こってないとしたら、「借金できなくなる→闇市場化」ということが必ずしも正しいとは言えないのではないか?池田氏にとっては、「規制強化によって闇市場化するのが当然」とお考えなのだろうけど(笑)。


池田氏の説は、過去の記事から含めて、極めて疑問であると思う。


*一応TBしたし、コメント欄にもTBした旨記載した。


種はちょっと発芽してた

2007年05月10日 23時46分42秒 | 俺のそれ
この前植えた種のうち、一種類は発芽していた。
かなり小さいのだけれど、ぴょこっと出てた。

嬉しい。

やっぱり生き物ってスゴイ。

他の種は、変化がない。みんな発芽するとは限らないし。
いずれ芽が出てくるのかな、と期待しているが、どうなんだろうか。


自分は最近ちょっと死んでる。
なんだか、あんまり考えられない…。

5月病ってやつか?違うけど(笑)



裁判所は独自の医学理論を確立する機関なのか(ちょっと追加)

2007年05月09日 23時55分41秒 | 法と医療
このような判決存在自体に疑問に思うのだが、裁判所は「完璧な治療法」を予言することができるという見本である。

医学部にも色々と法学的に検討している人たち(法医学者?)もいるであろうはずなのに、何故か判決文に対する批判というのは行わず、主に「判例からわかること・言えること」というのを要約しているだけなのであろうか?何を研究しているのか、とは思う。判決文に対して「それは間違っているのではないか」という意見表明を、ハッキリと行わないからこうした判決が生み出されるのだろうか?


平成14年(ワ)第543号 損害賠償請求事件(千葉地裁判決)

是非とも原文をお読み頂きたいのですが、事件について大まかに言いますと次のようなものです。

ある患者が過去に異型狭心症と診断され、精査の結果、「冠攣縮性狭心症」(以下、VSAと略)と診断された。その後に被告医師の病院に失神発作で入院して、「ミリスロール」(一般名では、ニトログリセリンのこと)点滴等の処置を受け病状が改善したので退院となった。
更に約20日後に具合が悪くなり救急搬送されてきた。この時にはミリスロールの点滴は行わず、他の薬剤を使用した。病状が少し落ち着いてきていたと思われたその数時間後に、発作を生じて心肺停止となって死亡した。

この事件での争点としては、「ミリスロールの点滴を行わなかったこと」が過失と認定されていることである。被告側主張としては、患者がミリスロールの点滴を嫌がっていたこともあって、別な投与法にしていたということである。被告側の行った治療を見ると、次のようになっていた。

・ミリステープ(ニトログリセリンです)2枚貼付
・シグマート(硝酸誘導体で狭心症の治療薬)内服
・ヘルベッサー(カルシウム拮抗薬)内服
・発作時にはミオコールスプレー(噴霧式のニトログリセリンのこと)を2回まで使用可

この処置により午後には症状が消失し、家族が病室に来た時には「(病気・発作が)軽かったのかな」と答えている。
その数時間後の夕方トイレに行った時に発作を生じて倒れ、発見した看護師がミオコールスプレー1回使用したが改善せず、その後もう一度使用するも改善されなかった。医師が駆けつけてニトロペン(ニトログリセリンの錠剤)1錠を舌下投与したが、血圧・脈拍低下し意識消失となった。プロタノールやボスミン静注、心マッサージするも回復せず死亡した。


裁判所の判断は鑑定を見て行われているのだが、その理屈(適用の仕方?)は自己にとって都合の良い解釈の仕方であり、極めていい加減な印象を受けるのである。「ミリスロールの点滴をしていれば、発作を防ぎえた可能性が高い」とする結論を出しており、3つのうち2つの鑑定でそうとは述べられていないのに、である。裁判官にとって都合のよい部分だけを恣意的に取り出してきているかのようである。

論点として、

①冠攣縮(冠スパスム)を予防する為に、効果が高いとされるヘルベッサー(判決中では有効率90.2%となっている)が投与されていた

②ミリステープとシグマート併用でニトログリセリン及び硝酸誘導体は通常量が使われていた

③VSAがあれば心肺停止に陥る可能性があり、中にはICD(植え込み型除細動器)植え込みが行われる症例がある

というものが考えられる。


①について:

VSAの予防としては、a)ミリスロール点滴静注と、b)カルシウム拮抗薬内服との比較検討の結果、「aを選択せず、bを選択したことは誤り」か、「bを行うか否かに関わらず、aをしなかったことが誤り」ということを立証せねばならないのではないか。裁判官の理屈は「併用療法が行われていることがある」ということだけをもって、「aをしなかったことが誤り」として過失認定している。そうであるなら、「異型狭心症」に対する処置としては、「ニトログリセリン点滴静注」という絶対的治療法を確立するものではありませんか。他の薬剤を併用するか否かはほぼ無関係ということである。これが正当な判断と言えようか?
冠スパスムに対してファーストチョイスは「カルシウム拮抗薬」であり、本件患者においてもスパスム予防には適していたと考えてよいはずである。にも関わらず、この選択を上回る治療法としてaを絶対的要件にしているのである。


②について:

ニトログリセリンの使用についてであるが、点滴静注という投与方法ではなく経皮的投与法を行っていたのであるから、「ニトログリセリン」自体は確実に投与されていたのである。裁判官が大好きな「併用療法」として現実に行っていたのである。にも関わらず、「点滴静注」が絶対で、経皮的投与はダメだということを認定しているのである。そうであるなら、点滴が絶対でテープがダメなことを立証する必要があるだろう。点滴の方が調節性や投与の確実性は有利であるけれども、テープ使用によってニトログリセリンは常用量が体内に取り込まれていたことは普通に予想できるのであるから、「使用量がもっと多くなければならなかった」ということを論証するべきであろう。テープが不利な点は、貼ってから時間が経過しないと血中濃度が上がってこないことがあるが、発作時にはスプレーや舌下錠でも増量可能であるので、そういう対応がなされることは普通に見られる。点滴しておけば、これら増量が必要な時には即投与できるという利点があるので有利に違いないが、発作を防ぐことから考えるならばこれを過失といえないのではないか。更に、発作予防に関して「ニトログリセリン点滴静注」と、「テープ使用+硝酸誘導体(+カルシウム拮抗薬)」との比較で、前者をやってさえおけば防げた、ということを立証する必要がある。そんなことが果たしてできるのだろうか?無理だとしか思えないのだが。

実際に、夕方倒れた時にはニトログリセリンがスプレー2回、舌下錠1回が使用されており、タイムラグはあるものの薬剤効果はあるのであり、これが点滴によって投与されたとしても薬物としての効果自体にはあまり違いはないはずである。従って、点滴でニトログリセリンを投与したとしても、スパスムが起こることを防げなかった可能性はあるだろう。


③について:

若年者においてもVSAの発生は見られ、心肺停止状態で搬送されてくる例はいくつも存在する。心停止に至るのはスパスムの結果、致死的不整脈の発生があることが考えられるのではないか。それ故、ICDの植え込みが行われる症例がある(薬物療法のみの場合も勿論ある)のである。スパスムを完全に予防できないとか、致死的不整脈発生を防げないといったことがあるので、「ニトログリセリンの点滴静注」さえやっていれば約70%の確率で防げる、などということはないのではないかと思うが。心配停止状態で救命できるかどうかは、その時になってみなければ判らないだろう。本件の場合には、それができなかった、ということであって、ニトロさえたくさん入れておけば起こらない、というようなものではないだろう。
参考までに、原告側は「ニトログリセリンを使いすぎてる」という主旨の主張を展開してさえいたのに、これ以上点滴で入れていたならば何と言ったであろうか?

因みに、以前取り上げた裁判(裁判における検証レベル)では、通常の使用量の範囲内であったにも関わらず、「必要最小量になっていなかったのが心停止の原因」であり過失認定されているのである(笑)。別々な裁判官の判断だから、違うことを言うのは仕方のないことなのであるが、片方は「必要最小量でなかったことが過失」で、別な方は「点滴をして、もっとたくさん入れておけば防げた」というわけですね。これほど正反対のことを言うのはなぜなのか疑問である。

通常のニトロ使用量であったら、それでは足りないんだ、もっと入れていれば発作は起こらなかったんだ、と都合よく法的判断を下すわけですね。それならば、裁判官同士で教えてあげればいいのではありませんか?この人における「ニトロの必要最小量は~mg/h(それとも○○γとかかな?)であるから、それ以上使うな」とか。それを超えるならば「必要最小量にしてなかったので過失」認定ですけどね。でも発作予防には「もっと多く使え」と。裁判とは、後から理屈を考えるので、何とでもいえるのかもしれませんね。


こうして見れば、裁判所の判断というのは、全くの独自の理屈を展開しているのであって、専門的知見に基づくものとは到底言うことはできない。だが、一般人がこれをいくら非難したとしても、変えようがないのである。裁判官の判断だからである。法学関係の専門家が判決の問題点について指摘しない限り、他の人々にはどうすることもできないのである。