ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

安宇植さんのこと

2011-01-24 16:14:34 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 暮れの12月22日に安宇植さんが亡くなりました。享年78歳、です。
 私ヌルボは直接親交があったというわけではありませんが「金史良」(岩波新書)等の著作や、尹興吉・李文烈・申京淑等々の韓国人作家の翻訳が多数あって、ずっと以前から目になじんできた名前でした。
 1990年代末、月刊誌「翻訳の世界」(バベルプレス)で<韓国語翻訳コンテスト>というのをやっていて、その出題者・選考委員が安宇植先生でした。ヌルボも数回応募しましたが、その出題文に提示された李文烈の「若き日の肖像」の冒頭部分などは強く印象に残っています。(「翻訳の世界」は2000年に残念ながら廃刊してしまいましたが・・・。)
 昨年、韓国文化院主催:韓国文学読書感想文コンテストの審査委員長ということで、応募して入賞したら直接会って話できるかも、と思ったのですが、コンテストの開催を知ったのがすでに締め切り直前で、課題図書は読んだものの結局時間切れ。表彰式&講演会の日も所用で行かれませんでした。それで次回にはぜひ、と心に期していたのに・・・。
 もしかして、一昨年の申京淑の大ベストセラーの名作「オンマをお願い」も安宇植さんの訳で近いうちに出るのかなとも期待していたのですが・・・。(「離れ部屋」のように<オムマ>ですか?)

 昨日1月23日付「毎日新聞」の<悼む>欄に、川村湊さんによる追悼文が載っていました。
 安宇植さんの訳業がしばしば目にふれるようになってきたのが80年代以降で、それ以前のことはヌルボは知らなかったのですが、1970年代以前は朝鮮大学校の教員だったんですね。主に北朝鮮文学の翻訳に携わり、黄健(ファンゴン)「ケマ高原」が代表作とのことです。
 川村湊さんによると、安宇植さんが80年代以降韓国文学の翻訳に仕事の中心を移したことを彼の「転向」と見る人もいるそうです。つまり<北>から<南>、<社会主義>から<資本主義>への。「安氏は釈明も弁明もしなかったが、在日の文学世界では、やや孤立的だったことは否定できない」と川村さんは記しています。
 川村さんが、そのことと、「彼が、金史良文学の中に己を見」たことを重ね合わせて見ている点はなるほどと思いました。金史良の作品は<北>では「粛清」され、<南>でも長らく「北系作家」とされて、「彼の名を出すのさえ忌避されていた」のだそうです。
 今も<北>と<南>の間には政治的な壁だけではなく、文学の面でも過去&現代の作家や文学作品の評価や作品の公開等をめぐって高い壁があります。
 そうした対立・矛盾が続いているこの時代の中で、日本にいたからこそ成し得た彼の業績はとても大きなものがあったのではないでしょうか。

※川村さんは<北>の文学状況について次のように記しています。
 70年代以降、北では父子独裁体制の文芸政策が功を奏し、まともな文学は消滅した。安氏が、それを痛切な思いで見ていたことは疑えない。人間の営みの上に文学があり、それを大切に思えば思うほど、人々の生活の困難と文学の衰退とは、無念でないはずはない。
 ・・・川村さんも安さんも、文学に携わる人として至極真っ当で、共感を覚えます。

孔枝泳さん、2011年の李箱文学賞受賞 & 一昨年のベストセラー「るつぼ」映画化

2011-01-22 23:55:39 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 韓国の大型書店・教保文庫と、最大のネット書店YES24からはウルサイほど頻繁にメルマガが届くので、ヘッドラインだけ見てそのまま削除してしまうことが多いのですが、昨日の教保文庫のメルマガは、「2011年李箱文学賞作品集」発行のお知らせ。

 そういえば、もう李箱文学賞受賞作が発表されていたんだ、と気がつきました。李箱文学賞昨年3月8日の記事でふれたように、日本でいえば芥川賞に相当する純文学の権威ある賞で、昨年はパク・ミンギュ(박민규.朴玟奎)「朝の門(아침의 문)」が受賞しました。(私ヌルボ、「感想等は別の記事にします」と書いたのに<別の記事>をupしてなかったですね、ははは(汗)。)

 さて、今回は誰のどんな作品が受賞したのかなと、教保文庫のサイトでその本の表紙を見たら<공지영(孔枝泳(コン・ジヨン)'맨발로 글목을 돌다'(「はだしで文章の道を回る」)と記されているではないですか。

      

 あれ、なーんだ、彼女はまだ受賞していなかったのか、という感じですね。
 すでに人気作家としていくつもの話題作、ベストセラーをものしている作家で、日本でもカン・ドンウォン&イ・ナヨンの主演で映画化された「私たちの幸福な時間」の原作者です。
 そんな彼女が受賞するということは、芥川賞とは少し性格が違うのかな?

 今回の受賞作「맨발로 글목을 돌다」の<글목>は辞書にない語で、<글(文)>と<길목(道)>をかけた彼女自身の造語だそうです。
 <ファイナンシャル・ニュース>の記事によると、「作家の内面と慰安婦とアウシュビッツ収容所等の歴史的暴力に対する逸話が重ねあわされて、人間に対する暴力とそれによる個人の苦痛が対比される」という、彼女らしい社会的なテーマの作品のようです。

 直接教保文庫に注文するか、職安通りのコリアプラザに入荷するのを待つか、いずれにしろ読んでみようと思います。

     
        【孔枝泳さん

 孔枝泳といえば、私ヌルボが原書で読破したした数少ない小説中のひとつが彼女の一昨年のヒット作「るつぼ(도가니)」。(本ブログにupした感想は→コチラコチラ)。この小説が、最近の<Innolife>の記事によると、コン・ユとチョン・ユミの主演で映画化されるとのことです。今秋封切りなんですと。チョン・ユミ、着実に階段を上がってきてますね。

 ついでにもうひとつ。この孔枝泳さんが、ヌルボもときおり(録画で)見ているTV番組「黄金漁場」の<ヒザ打ち導師>に出るということで、すでに録画撮りを終えた、という記事が<韓国経済>のサイトにありました。放映は2月中旬だそうです。「作家としての生活、作品世界に対する話等を虚心坦懐に打ち明けた」そうで、これは覚えておいて録画DVDを買わなくっちゃ・・・。

[韓国文学用語]ジャンヌ小説? いえ、ジャンル小説なんですけど、その意味は・・・・

2010-12-15 21:33:37 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 韓国には、<ジャンル小説>、あるいは<ジャンル文学>という文学ジャンルを示す言葉がふつうに用いられています。

 私ヌルボがこの言葉を知ったのは、蓮池薫さんの「半島へ、ふたたび」(新潮社)という本。厳密には、その元となった新潮社のサイト内の彼のブログ中のエッセイですが・・・・。(今はその箇所を見ることはできません。)

 「半島へ、ふたたび」は、北朝鮮の内実を知りたくて読んだ人には期待外れでしょうが、良い本です。(その後、第8回新潮ドキュメント賞を受賞したのもうなずけます。)
 その中に、彼が訳した「私たちの幸せな時間」の作家・孔枝泳(コン・ジヨン)との会見記が載っているのですが、そこで蓮池さんは「孔枝泳さんが発した<ジャンヌ小説>という言葉がわからなかった」と記しつつ、それが<장르小説>、つまり<ジャンル小説>のことだった、と明かしています。
 たしかに韓国語では表記は<ジャンル>でも発音は<ジャンル>。聞き取りが難しいですね。

 意味が取りにくかった理由その2は、蓮池さんは書いていなかった点ですが、日本では<ジャンル小説>という言葉自体が一般化していないということもあったでしょう。
 私ヌルボも、わりといろんな小説や文学評論等は読んできましたが、<ジャンル小説>という言葉には耳になじみがありませんでした。

[翌日の注記(赤字部分のみ)]
 この記事をupした後、「半島へ、ふたたび」を確認のため再読したところ、大きな勘違いをしていたことに気づきました。孔枝泳さんは「小説を映画化する」という意味で「장느이전(ジャンヌイジョンルジャンル移転)」と言ったのを、蓮池さんが意味がとれなかったということでした。ジャンル小説のことではありません。考え直してみると、私ヌルボがジャンル小説という言葉を知ったのは、末尾に記したラジオ番組からだったようです。・・・ということで、この記事全体をいずれ書き直します。

 韓国ウィキの「장르 소설(ジャンル小説)」の項目では次のように説明されています。

 「特定のジャンルの読者の関心を引くために、そのジャンルに対応する素材、主題、様式などの特徴に合わせて使われる長編や短編小説を意味する。」
 さらに、以下のようにジャンル小説を分類しています。
 「推理小説・スリラー小説・ホラー小説・空想科学小説・ファンタジー小説・武侠小説・ロマンス小説」。

 ・・・最初からそう言ってくれればわかるのに、という感じですね。日本のウィキには「ジャンル小説」はありませんが、はてなキーワードには簡単な説明がありました。

 ※中華世界の英雄・豪傑たちの武術対決やロマン等を描いた武侠小説は日本での人気は今ひとつですが、その代表作家・金庸の小説などすごくおもしろいですよ! 「秘曲笑傲江湖」等々、徳間文庫で刊行。

 この<ジャンル小説>という分類、教保文庫・YES24等々の書店のサイトでもふつうに用いられています。たとえばYES24でホラー小説を検索したければ、
①左上方の「국내도서(国内図書)」中の「문학(文学)」をクリック 
②「역사/장느문학(歴史/ジャンル文学)」をクリック
③「공포(恐怖)」をクリック

 ・・・・これでOK。

 以下はこの<ジャンル小説>をめぐってヌルボが考えたこと。
 1990年代に入り、韓国では民主化と経済的な発展に伴って読書をエンタテインメントとして楽しむ都市市民や若い世代の人たちが増えてきました。
 ところが、80年代までの韓国文学は政治・社会に対する問題意識をテーマにした作品・作家が本流。あとは大衆的な読み物といった小説類でしょうか。
 それが90年代以降の急速な社会の変化の中で、韓国内では未発達だった推理・SF・ホラー・ファンタジー等のオモシロ本が外国からどっと流入したんですね。
 それらはたしかに娯楽性が高いので純文学とは別種のものという受けとめ方もありました。(今もあるでしょう。) そんな中で、2006年にエーコの「薔薇の名前(장미의 이름)」が訳され話題をよんだ頃から純文学とジャンル文学との境界が論議されるようになったようです。
 つまり、単に技法・素材等の差異くらいしかないのでは、ということです。
 ・・・このあたりは、日本で40年くらい前にあった小松左京や筒井康隆等のSF作品の文学賞をめぐる議論が思い出されます。
 ただ、日本では半世紀くらいの間に蓄積されてきた推理や歴史の作品群(海外作品も含む)が、韓国の場合はこの20年たらずの間に、ほとんどが海外から大量に入ってきたわけですから、韓国内の純文学の側などはそれらを強く意識せざるをえません。とくに韓国の純文学は、主人公が現実の作者自身とほぼ重なっているような作品が多かったから、読者にとってジャンル文学が斬新な印象を与えたでしょうし、一方純文学作家はいろんな意味でタイヘンだと思われます。
 ・・・といったところが今の韓国の状況ではないでしょうか。


★ヌルボが愛聴しているKBS1ラジオ毎日22:10~22:58の<シン・ソンウォンの文化を読む(신성원의 문화 읽기)>については、今年1月11日の記事等でも紹介してきました。
 その番組で、2008年ジャンル文学をとりあげ、またウェブサイトにも「ジャンル文学の名作推薦図書」のリストを載せています。これは今でも→コチラで見ることができます。
 具体的な書名がたくさんリストアップされていて、日本の同様のものと比較すると興味深いですが、おおよそは似通った作品があげられています。
以下、部分的に訳してみました。

【科学小説】
①宇宙戦争(ウェルズ) ②素晴らしき新世界(ハックスリー) ③1984年(オーウェル) ④風の十二方位(ル・グイン) ⑤あなたの人生の物語(チャン) ⑥2001年宇宙の旅(クラーク) ⑦宇宙の戦士(ハインライン) ⑧銀河ヒッチハイクガイド(ダグラス・アダムス) ⑨コンタクト(セーガン) ⑩マイノリティ・リポート

 ※ハインラインなら、なぜ「夏への扉」じゃないのか、訝る人もいるかも。しかしこれが「여름으로 가는 문」と題されて刊行されたのはやっと昨年(2009年)9月なんですね。ルグインは「風の十二方位」が2004年、「ゲド戦記」(韓国では「アースシーの魔法使い(어스시의 마법사)」は2006年に第1巻が出ましたが、最終の6巻は昨2009年刊行なので、この番組放送時には完結していませんでした。日本では長年親しまれてきた定番の作品が、韓国では21世紀になってドカッと出てきたことがわかります。
 また、テッド・チャンを入れるなら、当然グレッグ・イーガンを落とすわけにいかないだろうと思って調べたら、まだ「宇宙消失」「万物理論」等は未訳で、2008年刊行のSF短編集に短編がわずか1編入っているだけでした。

 以下、【<ジャンル文学の巨匠>スティーブン・キング】、【ファンタジー小説】、【推理/スリラー小説】、【ジャンル文学総合編】のリストがあり、なかなか興味深いですが、もうずいぶん字数が多くなってしまったので、ここまでにしておきます。

越南作家・李浩哲の小説2作を読む 「板門店」と「南のひと北のひと

2010-12-09 16:07:00 | 韓国の小説・詩・エッセイ
      

 李浩哲の小説「南のひと北のひと」(新潮社)「板門店」(作品社)の2冊を続けて読みました。もちろん日本語訳です。

 李浩哲(1932~)は78歳の今も新作を出している作家です。咸鏡南道元山(ウォンサン.現・北朝鮮)の出身で、1950年元山高級中学校3年の時に朝鮮戦争勃発。同年7月人民軍に強制動員されたが、12月国連軍の捕虜となり、その後釈放されて以来韓国で労務者生活等を経て1955年文壇にデビューした<越南作家>です。

※「板門店」の川村湊先生の解説によると、同い年の作家・後藤明生(1932~99)は生まれは永興(ヨンフン)だが中学は元山中学校で李浩哲と同窓。しかし同校に通ったのは1945年春から終戦までの数ヵ月で、後藤は李浩哲のことはよく覚えていない、と語ったそうです。同じことを川村先生が李浩哲に聞くと、彼の方は後藤をよく覚えていたとのことです。
 後藤明生と朝鮮のことは、いずれ記事にします。
※3歳年長の詩人・金時鐘(1929~)も元山生まれですが、中学校は光州の教員養成の学校でした。

 先に読んだ「板門店」の方は、朝鮮戦争そのものというより、当時の混乱の中で行き別れとなってしまった親子のその後とか、戦争中に軍令に反したかどで危うく処刑されかけた男がその後も持ち続けた偽りの証言者たちへの怨み等々、戦争にまつわるさまざまな人間模様を描いた6編の連作集です。

 もう一方の「南のひと北のひと」は、朝鮮戦争勃発の前から戦争中に捕虜となった時までの李浩哲自身の体験をベースにした、5編からなる自伝的要素の強い連作です。

 私ヌルボとしては、「南のひと北のひと」の方を興味深く読みました。
この小説について、あるサイトでは「とにかく面白くない」等々かなり手厳しく批判しています。
 たしかに、主人公の周囲のさまざまな人間像はいろいろ描写されていますが、激動する状況下、多感な若者に当然あったはずの内心の葛藤などがほとんど書き込まれていなくて、小説的な感興は今ひとつ食い足りない感は否めません。
 しかし、終戦後の38度線の北の社会や、学校内の雰囲気の変化等の記述は興味深いものがあります。
 たとえば、スターリンの肖像画の洪水の中で、地主から没収した土地をが小作人たちに分け与えられていくようす、熱に浮かされたように教条主義的な弁舌を長々とたれる「熱誠分子」の学生、いろんなタイプの教師たち等々。

また、本書では、越南者を時期によって3つに分けています。

 第1期は、1946年1月の信託統治の賛否をめぐる騒動の頃。当時の雰囲気は次のように描かれています。

 その四ヵ月間のわが中学内の雰囲気を振り返ってみると、何やら透明なガラス水槽の中か、童話の世界の中のように浮かび上がってくるものがある。それはようやく根を張りはじめた北の体制とは関係ない、大正や昭和初頭の日本とその後に彼らが経験した南の世相を適当にかき混ぜたビビムパプみたいな雰囲気だった。事実、教師たちの大半がこの学校の先輩たちで、日本の高等学校や大学の出身であり、中には欧米の水に浸かったひととたちもいたからだ。

 上記のような教師たちはこの時期に越南し、その後南で大學教授や高級官吏などになります。
 彼らの越南後に共産主義者たちが羽振りをきかせはじめます。越南した最初の校長は「今日はよいお天気です。みなさんの顔も今朝はとても晴ればれとしています」と朝礼で話していましたが、その後に赴任した校長は次のような二時間もの長広舌。「長い桎梏の歴史であった過去三十六年間、・・・いま日帝の鎖と軛(くびき)のもとから解放されて・・・、学生トンムたち! スターリン大元帥領導下の偉大なるソ連軍の・・・全世界の被抑圧階級の解放に足並みをそろえ・・・」。
 作者は「第一期で越南したひとたちはどこか、私たちとは人種が異なるひとたちではなかったかと思う」と記しています。また次のようにも記しています。
 「変化は何も信託統治の賛否をめぐる騒動の最中に、ある日とつぜん押し寄せてきたのではなかった。それは最後の駄目押しの一撃にすぎず、いつからかひそかにじわじわと迫っていたのだった。」

 越南の第2期は、38度線が凍てついた後の48年前後。
 そして第3期は朝鮮戦争中の1951年1月の中国軍参戦で国軍がソウルを撤退した時に避難民が大量に越南した時、ということです。

 上記の他にも、今では軍隊や学校での代表的体罰の名称になってしまっている<元山爆撃>の現場の状況なども描かれています。

 戦後の長い軍政下、全的な言論の自由がなかった時代の作家として、とくに朝鮮戦争や北朝鮮についてはいろいろ制約があったと思われます。先にヌルボも厳しい感想も記しましたが、その点は念頭において読むべきでしょうね。

※李浩哲さんは小説の取材等でときおり日本に来ているようです。<ブログかわやん>中にに分けてその時の記事がありました。また、その時の飲み屋での写真入りの記事もありました。金時鐘さんも一緒に写っています。

日本統治時代の小説・廉想渉「万歳前」は全然おもしろくない、が・・・・

2010-11-12 23:31:22 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 私ヌルボが考えるに、おもしろくない小説はおよそ次の3つに分けられます。

①淡々とした展開で、盛り上がりに欠け、タイクツきわまりない。 
②主人公がイヤな奴で(たぶん作者も)、たいていは性格がひねくれていて、全然共感がもてない。
③言葉や文章が難解で、全然意味がとれない。


 あ、それから④あほらしい内容で、語るに及ばず、というのもあるのですが、これは論外。(比率的には大きな部分を占めるが・・・。)

 さて、ここで大切なことは、おもしろくないからといって、必ずしも読むに値しない、ということではない、ということ。逆におもしろくても薄っぺらで、読んだことを後悔するような小説もたくさんあります。

 上記①に属する小説では、何といっても長塚節「土」のつまらなさは圧倒的でした。ずっと以前の話ですが、そのつまらなさを後輩に語ったら、後日彼が「読みました! 本当につまらなかったです!」と目を輝かせて報告したその表情を今も覚えています。
 翻訳物ではカフカの「審判」なんか、小説の展開もさることながら、なんでこんな小説を苦労して読まないかんのか(←方言)、読んでる自分自身に不条理を感じたものです。
 ②のタイプでは、たとえば島崎藤村の「春」とか「桜の実の熟する時」。一体主人公は何をぐちゃぐちゃ悩んでいるんだろ? 悩む前にせなならんことがいろいろあるんちゃうか?(←方言)と菅直人でなくてもイライラしっぱなしでした。
 ③は、蓮見重彦先生とか何人かの名前は浮かんできますが、小説家では思いつきません。翻訳物では、高3の時授業中に読破したサルトル「嘔吐」! これを読み切った数10年昔の自分をほめてやりたいです。今はたぶん10ページも読めないでしょう。

 ここにあげた数例の作品は、おもしろくなくてもリッパに読むに値する本でした。
 以上が例によって長~い前セツ。

 以下、一昨日イッキ読みした廉想渉(염상섭.ヨム・サンソプ)「万歳前」(勉誠出版.日本語)について。

    

 1924年に京城で刊行された本の翻訳です。
 はっきりいって、この小説はおもしろくないです。分類すると上記②に分類されます。「主人公の性根がひねくれていて、全然共感できない」というヤツです。

 物語の時代背景は、題名の示すように1919年3月1日に始まる万歳事件(三一独立運動)の前年1918年の秋。
 主人公はW大に通う朝鮮人留学生・李寅華(イ・インファ)。彼は数えで23歳くらいですが、京城に残してきた妻が産後の肥立ちが悪く、危篤との電報を受け取ります。
 ※当時の朝鮮では男は15歳前後で早婚するのがふつうだった。この小説では寅華が13歳、妻が15歳の時とある。

 それで、寅華は期末試験途中で一時帰国することになるのですが、神保町方面で旅行用品を買った後もぐずぐずしてて、髪が伸びてもないのに散髪屋に行ったり東京堂書店をのぞいたり、そしてカフェに行ってなじみのカフェガール静子やP子と酒を飲んだり・・・。大分経ってから「実はうちのかみさんが病みついているらしいんだ。危篤で苦しい息をしているというんで・・・」と言うとP子は当然「それじゃ早く帰ってあげなきゃ、・・・」と言うわねー、すると寅華、 「死ぬ者は死ぬようになっているのさ。どうするって、どうしようもないよ」 。
 ・・・とまあ、こんな調子!

 一応夜汽車で出立したものの、汽車の旅に疲れた寅華は神戸で途中下車。そして知り合いの朝鮮女子留学生の乙羅の寄宿舎を訪ねる。・・・って、一体何やってるんだ!(と、すでに怒りが込みあがってくる私ヌルボ・・・。) 引き留める乙羅に別れを告げて寅華はようやく下関に着き、連絡船の待合室へ。ここで刑事の訊問を受け、その後も官憲にはずっとつきまとわれます。

 釜山に着いた寅華、ふらりとうどん屋に立ち寄り(「立ち寄るなっ!」とヌルボは叫ぶ)、2階で女給たちの身の上話を聞いたり、<タバコ節(담바귀타령)>という唄を聴いたりします。やっと汽車に乗った彼、途中兄が迎えに来ていた金泉駅で下車して兄の家に寄ります。普通学校の訓導の兄は妻がいるのに男の子がいないという口実で若い女を同居させたりしています。やれやれ。
 また乗車した寅華、午前零時過ぎ大田で30分ほどの停車の間、釜山等と同様日本人家屋の増えた街を歩き、車内に戻って「共同墓地だ!」とか「すべてがウジ虫だ!」などとつぶやきます。(「アンタ自身がそうなんだよっ」と言ってやりたくなります。)

 やっと、ホントにやっと京城の家に着くと妻は力なく寝ています。しかし寅華はあいかわらずで、乙羅が帰国してるはずだと考え、彼女と怪しい関係(?)の従兄炳華の家を訪ねたりします。
 妻はついに臨終を迎えます。寅華は皆の反対を押し切って簡単に三日葬で済ませ、すぐ日本に戻ることにします。

 乙羅とのモヤモヤも吹っ切り、彼に思いを寄せつつ同志社で学ぶことに決めた静子からの手紙での誘いも拒んで、彼は「我々は何よりも新たな生命が躍動する歓喜を得る時まで、我々の生活を光明と正道へと導いてゆきましょう」と静子への返信で決意をしたためます。(これだけ読者に不信の念を増幅させておいて、最後の最後になって今さら「めざめた」とか「回心」とかゆうても誰が信じますかいな!)

 ウィキペディアによると、廉想渉「朝鮮の自然主義文学の祖となった」とあります。
 私ヌルボ、この主人公の性根のひねくれ具合は島崎藤村等の自然主義作家と通じるものがあるなーと思ったら案の定でしたね。またこの小説を訳した白川豊先生は、「廉想渉によって朝鮮文壇に初めて真のリアリズム文学が定着したのである」と記しています。
 やっぱり、二葉亭四迷「浮雲」の内海文三以来、いわゆる近代的自我なるものはいわばイヤな性格とほとんど同義なんでしょうね。

 その点、読み物としてのおもしろさでいうと、やっぱり尾崎紅葉「金色夜叉」とか小杉天外「魔風恋風」のような前近代的要素が残っている小説の方がずぅっとおもしろかったのと同様、朝鮮人作家の作品では李光洙「有情」(1933)とか蔡萬植「濁流」(1937)の方がなんぼかおもしろかったです。

 以上かなりボロクソに感想を書きつらねましたが、それでもなお読んでよかった本です。(「よっく言うよ」って?)

<金素雲・藤間生大の論争>再考④ 民族主義的な韓国文学史の叙述について

2010-11-08 23:49:14 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 1つ前の記事<金素雲・藤間生大の論争>再考③の最後に「日本統治期の文学の見方について、韓国では近年変化が見えはじめているように思いますが、それについては次回。(・・・って、またいつになることか?)」と記しましたが、一気に続けて書くことにしました。

 先に、韓国では李陸史の「青葡萄」のような一見抒情詩ととれ、それで正しいかもしれない作品についても祖国独立を希求した詩とする見方が強いということを書きました。そればかりか、金素月の詩までもそのように解釈する人さえいます。

 韓国を多少なりとも知る日本人なら、韓国人による歴史叙述のほとんどが民族主義の色濃いレイヤー(色眼鏡といってもいいが・・・)を通して書かれていることを承知していることでしょう。
 10月28日の記事で紹介した富川の漫画ミュージアムの展示も、非常に大きいと思われる日本漫画の影響等は完全に除外されているし、最近目を通したキム・ミヒョン編「韓国映画史」(キネマ旬報社)も、読んで得るところの多い本ですが、日本統治期に上映されたであろう多くの外国(日本・欧米)映画や、その影響等の記述はほとんどありません。戦後についても基調は同じです。

 本論の文学史に戻りますが、以前からなるほど、と思いつつ読んだのが「ハングル工房 綾瀬 - 僕の朝鮮文学ノート 9811」というサイト内の「金素月の「七五調」問題と「比較文学」」と題された記事。
 それによると、学問の分野の常識では(たぶん)驚くべきことですが、北朝鮮・韓国には<比較文学という学問がありえない(orありえなかった>ということです。
 つまり、日本統治下での朝鮮文学に対する日本あるいは西欧文学の影響を論ずること自体が、「韓国の作品は西洋や日本を模倣したというのか。それはわが民族の主体性・独自性を否定するものだ」というように非難される状況が続いてきたそうで、そのような中で「研究者の世界も商売」だから、「あえて反発の予想される論文」は書こうとしなかった、ということです。
 したがって、具体的に金素月の作品について記された論考をみても、彼の七五調の韻律を(そのようなものがなかったにもかかわらず)<伝統的な七五調>に拠っている、と解したりしているそうです。(20年の間で例外的に金允植「韓国文学史」(1973)だけが<日本の七五調>の影響と記しているとか・・・。)

 現在も韓国で最も愛されている詩人金素月は私ヌルボも好きですが、彼の作品の魅力その1の韻律に親しみを覚えるのはやはり日本の七五調と共通したものが感じられるからで、魅力その2のやや退行的なやるせない詩情も、彼が日本にいた当時(1923年)に流行っていた「船頭小唄」(詞・野口雨情)等々、当時の日本詩人の作品にあいつうじるものではないかと思ってきました。
 ※1つ前の記事で紹介した学習書「中学生が必ず読むべき詩」にも金素月の「オンマヤ ヌナヤ」が載っていますが、その説明には「民謡調の3音の伝統的韻律をもっている」とあります。

 「ハングル工房 綾瀬」の記事は次のように結ばれていますが、これこそ私ヌルボの言いたかったことをよくぞ言ってくれました、って感じで、ちゃっかりコピペさせていただきました。

 1920年代、衝撃的であり(現代の感覚でいえば)少女趣味の素月の一連の詩が、新鮮なものとして歓迎された事情は、理解しよう。いや、理解すべきだ。素月の衝撃、それは 1920年代の朝鮮には、あまりにも大きな衝撃だった。 
 そしてそれが「日本の」七五調の「影響」下にあることは、朝鮮文学の恥部ではない。1920年代の青年にとって、それが大きな発見であり、それを自分自身のリズムに取り込んで行く過程こそが、彼の文学的成果ではなかったか。
 もし それが「日本の影響」下にあるから文学的価値がないというなら、植民地下における「ほとんどすべての」文学的努力は価値がない。それは北であれ南であれ、その論理でいくなら、朝鮮人はみずから「ほとんどすべての」文学的価値を否定することになるだけだ。


 さて、冒頭に「韓国では近年変化が見えはじめているように思います」と記しましたので、その根拠を若干あげます。
 ネット上で探すと、日本に来ている(or来ていた)韓国人研究者によって「韓国人留学生文学青年たちの日本近代詩理解および西欧詩との接触」、「朝鮮人詩人への日本近代詩の影響」と題されたまさに比較文学の観点からの論文が書かれています。(後者ではやはり金素月の詩の韻律を「韓国伝統の三・四・五調(七・五調ともいわれる)」としていますが。)

 また、学校での国語教育について、この5月「朝鮮日報」連載の<萬物相>で「文学を殺す国語教育」(日本語版)と題された一文が載せられていました。
 この記事は契約してないと見られないので要点を記します。

 詩や小説のテスト問題は、当の作者自身も答えられないような出題もある。文壇では「国語の教科書が文学を殺している」という批判もある。「詩で『夜』といえば、当然のように時代の闇につながり、『星』が出てくれば理想世界に対する憧れとして解釈される」という指摘が代表的だ。退屈な国語の時間が、楽しいはずの文学を型にはまった知識に塗り替え、未来の読者を追い出している、というのが文壇の意見だ。
 これに対して、直後に高3の女生徒シン・インシルさんの投稿がありました。
 それによると学校では生徒が「自分が感じたように、詩の意味を拡大解釈するのは禁物」で、「真理は、ひたすら文学の参考書解説書のみにある」とのことです。
 シンさんは「文学を愛する学生として、私は学校の文学の授業が、もう少し作品の解釈の自由を可能にしてほしい」とも記しています。「正解だという解釈も一つの視点に過ぎないから作品の内容の意味を問う設問は無意味」、「感想は、文字通りの鑑賞で、作品を感じて自分の人生に照らして、いくつかの考えを交わすことができる授業になってほしい」が、「現在、我が国の教育条件上、期待するの大変なのかもしれない」と結んでいます。

 しかし、「朝鮮日報」にこのような記事が載ること自体、状況が変化してきているのかなと思うのですが、いかがなものでしょうか?

李陸史の「青葡萄」は祖国独立を希求した詩か? <金素雲・藤間生大の論争>再考③

2010-11-07 20:29:15 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 本ブログでは、完結していないシリーズがいくつもあります。当然ながら、書きにくい所にさしかかるとつい先延ばしにしてしまうためで、中には何ヵ月もほったらかしになっているものも・・・。今回もその1つなんですが、ハラを決めて書き始めます。

 発端は6月21日の記事で紹介した文芸誌「朝鮮文学」(1970~74)。
 その第2号所収の梶井陟「金素雲・藤間生大の朝鮮詩論争」について、次の2回にわたって取り上げました。

 ・7月10日<金素雲・藤間生大の論争>再考①日帝時代の朝鮮詩から、祖国喪失の哀しみと憤りを読みとれるか? 
 ・7月12日<金素雲・藤間生大の論争>再考②えっ、金素月の「つつじの花」も抵抗詩!? 

 今回は、日本統治期の抵抗詩人・李陸史(1904~44)の代表詩「青葡萄」(1939発表)の解釈がテーマです。

 論点は、これが純粋な抒情詩か、それとも祖国独立を希求するという寓意が込められた抵抗詩なのか、という問題です。

 まずはその詩を見てみましょう。

 青葡萄    李陸史 (金素雲訳) 

내 고장 칠월은        わがふるさとの七月は
청포도가 익어가는 시절  たわゝの房の青葡萄。

이 마을 전설이 주절이 주절이 열리고   ふるさとの古き伝説(つたへ)は垂れ鎮み
먼데 하늘이 알알이 꿈꾸며 들어와 박혀  円(つぶ)ら実に ゆめみ映らふ遠き空。

하늘 밑 푸른 바다가 가슴을 열고  海原のひらける胸に
흰 돛단배가 곱게 밀려서 오면    白き帆の影よどむころ、

내가 바라는 손님은 고달픈 몸으로  船旅にやつれたまひて
청포를 입고 찾아온다고 했으니    青袍(あをごろも)まとへるひとの訪るゝなり。

내 그를 맞아 이 포도를 따먹으면  かのひとと葡萄を摘まば
두손을 함뿍 적셔도 좋으련      しとゞに手も濡るゝならむ、

아이야 우리 식탁엔 은쟁반에     小童よ われらが卓に銀の皿
하이얀 모시 수건을 마련해 두렴   いや白き 苧(あさ)の手ふきや備へてむ。

 一読して、この詩のどこが抵抗詩なのか、疑問に思う人がほとんどではないでしょうか?
 7月4日の記事でもふれた林容澤「金素雲『朝鮮詩集』の世界」(中公新書)は、次のような文学評論家・金トクハン氏の所説を紹介しています。

・李陸史の故郷は安東で、そこは内陸で海はない。つまりこの故郷とは、民族全体の郷土=祖国をさす。
・「白き帆舟」はやがて到来すべき「明るい未来」を暗示している。
・「青袍まとへるひと」、原文では「내가 바라는 손님(わが待ちし客)」とは、祖国独立を象徴する語。
・最後の2連は、わが待ちし客(=独立)を迎えての饗宴と、それを待つ憧れの表現。


 この解釈は、まったくの空想の産物でもなく、李陸史が南京にいた時に所持していた翡翠の印章に刻まれていた「詩経」中の詩と、それについての陸史自身の随想等と関連づけられています。
 その説得力が、0%とも100%とも思えないところが問題で、私ヌルボ、正直なところよくわかりません。

 日本の統治期の朝鮮人詩人の作品について、7月12日の記事で分類した次の3つに分けて考えてみると・・・

(A)植民地支配に対する抵抗の意志を持ち、その思いを明確に書いた抵抗詩。 
(B)抵抗の意志はあったが、厳しい状況の中で、直接的な弾圧を避けるため、隠喩等を駆使して書いた作品。
(C)自覚的な抵抗の意志はなく書かれた抒情詩等。


 ・・・この(B)に該当する作品は、まさに(A)の明確な抵抗詩とはとられないように作者が苦心しているわけで、そのようにも解釈できるということが作品の眼目といえるでしょう。

 しかし、この「青葡萄」を抵抗詩とみる解釈が、自然石を旧石器と見誤るのとは違うと言い切れるかどうか?

 ところで、「金素雲・藤間生大の朝鮮詩論争」の中で梶井陟先生は次のように記しています。

 「青ぶどう」「ふるさとの古き伝説」、そして「海原のひらける胸」や「かの人」に、この詩人がどのような想いをこめたものか、わたしにはこうと断定することができない。この詩を「若干のペーソス」「いささかのノスタルヂア」と理解することもできるだろうし、また朝鮮の詩なるがゆえに「日本帝国主義」に結びつける立場も当然あるだろう。
 しかし、ここに一つの仮定を持ちだそう。
 それは、この詩に何の注釈もつけずにこの詩を紹介したばあいと、陸史の「文学を通しての抗日運動」(宋敏鎬)という経歴を、できるかぎり詳細に知らせたのちに読ませたばあいの、読者の受けとめ方のちがいはどうかということなのだ。
 おそらくは十人のうち九人までが、知る以前と以後の反応に大きな差が出てくるにちがいない。それがあたりまえなのだろう。
 これは詩の理解力などというもので律しきれるような性格のものではないと思うのだ。


 この一文が書かれたのが1971年。私ヌルボとしては、以後の40年の時の流れを痛感するばかりです。今、李陸史の抗日の経歴を読み、作品に込められている(かもしれない)寓意を知って、深く感動する人は十人のうち何人くらいいるでしょうか?

 「金素雲『朝鮮詩集』の世界」によると、韓国では以前から上述のような「祖国独立の念願を込めた郷土愛を芸術的に詩化させたものと見る向きが多い」とのことです。

 韓国のサイトをいくつか見てみると、たしかにそのような見方が多いようですが、ほとんどそのような解釈ということでもなさそうです。

 ヌルボが持っている「중학생이 꼭 읽어야할 시(中学生が必ず読むべき詩)」(2003)という学習書にもこの詩が載っているのですが、それには<主題>として<祖国光復に対する熱望(または豊かで平和な現実への渇望)>とカッコつきながら併記されています。さらに<討論する>の項目に、「抵抗詩とみる解釈と、純粋な抒情詩としてみる解釈について、各自の考えを述べなさい」というテーマが掲げられています。

    
【「中学生が必ず読むべき詩」。韓国の中学生レベルの<文学常識>を知るには便利な本。】

 この「青葡萄」の問題にかぎらず、日本統治期の文学の見方について、韓国では近年変化が見えはじめているように思いますが、それについては次回。(・・・って、またいつになることか?)

 →<金素雲・藤間生大の論争>再考④ 民族主義的な韓国文学史の叙述について

小説家・李文烈の父親のこと、そして彼の今日この頃・・・・

2010-10-02 23:09:01 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 一昨日の記事に関連して、小説家李文烈について調べたことと考えたことです。

 経歴をみると、彼の父親李元喆(イ・ウォンチョル)は社会主義者で、パルチザンとして北朝鮮に行ってしまった人です。朝鮮戦争当時ソウル人民軍治下にあった時、水原農大の学長として3ヵ月間在職していましたが、妻と子ども5人を残して越北したのです。
 残された家族の生活は苦労の連続で、先の記事に付した年譜を見ればわかるように、各地を転々としています。
 少年時代の李文烈も生活面・精神面ともに不安定だったようで、中学・高校・大学とも中退しています。

 とくに父親が<パルゲンイ(赤)>だったということは、80年代まで存続した連座制のため子どもの進路にまで影響を及ぼします。
 ※ドラマ「砂時計」の主人公テスも、そのために陸軍士官学校への進学の夢を絶たれる。

 李文烈の小説にも、そんな越北した父と残された家族の物語が取り上げられています。
「若き日の肖像」では、第1部「河口」。兄の仕事を手伝いながら受験勉強をしている「私」が遠くから来た友人と飲み屋で飲んでいると、友人は酒に酔って左翼活動中に山中で死んだ父親への恨みごとを語り始めます。士官学校を志願しても、連座制のため認められなかったのです。
 ところが、こちらの席に向ってきて、半ば狂乱状態の友人の頬を力一杯ぶん殴ったのが地元の大学生ドンホの父のソ老人です。
 「よく聞け、若造。人は死んだらそれまでだ。共産党(パルゲンイ[赤])が悪かったとかなんとか言ったところで、死んでしまったらそいつもやっぱり犠牲者ってことよ。罪は、わしらに力がなくて貧しかったことだけよ。」
 ・・・その後、このソ老人自身かつては<パルゲンイ>で、20年前に街の警察署を襲撃する事件を起こし、家族を打ち捨てて逃亡。過去を隠して江盡に隠れ住み、新しい所帯をもつこととなる、・・・という過去も明らかにされます。

 越北者あるいは<パルゲンイ>の残された家族の問題は、「若き日の肖像」の他、「英雄時代」「兄弟との出会い(아우와의 만남)」「辺境」でもに写実的に取り上げられています。

 1999年KBSテレビは<작가 이문열 아버지, 부르지 못한 이름(作家李文烈の父、呼べない名前)>という特別番組を組みました。
 その中で、その後の父の消息について明らかにされています。
 生死さえわからなかった李文烈が初めて父の消息に接したのは1987年。在日同胞の親戚から父の手紙を受け取り、さらにその後中国・延吉の朝鮮族を通して父の2通目の手紙を受け取ります。北で再婚して5人の子を持ち、農林省山河育種関係の専門家として暮らしていたが、引退して咸鏡北道漁郎郡に住んでいるという知らせでした。
 その時から小説家李文烈の父親探しが始まりますが、探しに行った延辺で、李文烈は父の死亡の知らせを聞くことになります。

 彼が各文学賞を受賞し注目されたのが1980年代。当時はやや衒学的な要素が当時の学生たちの支持を得たようです。
 しかし、近年の彼は保守論客の代表格として、マスコミで積極的に発言し、進歩派の批判・非難の的となってきました。
 たとえば、昨年のろうそくデモを批判したり、日韓合併を合法だと発言したり・・・。

 「若き日の肖像」の第2部「楽しからざりしわが若き日」に、大学に入った「私」と政治運動との関わりが(具体的ではないが)次のように記されています。

 「加入初期の群集心理にも似た熱情から覚めるにつれ、しだいにあらゆることが虚しくなってきた。私がそこで何か天賦の権利のように、あるいは自明の真理のように騒ぎ立てていたこてとは、突き詰めてみれば私たちが永いあいだ受けてきた国民形成教育の結果にほかならなかった。・・・それは私たちの信念体系全般に対する抽象的な懐疑であったが、当時私がしていたことに対する具体的な疑念へと急速に発展していった。・・・」

 前述のような自身の境遇、そして厳しい時代状況を生きてきた彼は<保守>といっても一筋縄ではいかない論客です。「中央日報」の2006年の記事で彼は「右派と左派」「進歩と保守」等についての考えを披歴していますが、論敵とするにはなんとも厄介な相手でしょう。

 ところが、最近安重根の生涯を描いた「不滅」という小説を発表しました。
 民族主義とは少し距離をおいているはずの彼がなぜ? ・・・と思いましたが、「韓国速報」の記事によると、昨年の講演で、李文烈は「安重根は日本帝国主義、共和主義者、民衆主義者、カトリック、革命論者、独立運動の各路線、民族主義者という7つの勢力によってそれぞれ必要な部分は浮び上がって、必要ない部分は抹殺、封印されてきた」とし、「歪曲・封印された安重根義士を生き返らせよう」と述べています。
 このあたりが彼ならではの立ち位置ということなのでしょう。

 また、今年3月に彼は、ネチズンたちと直接対話していますが、その「中央日報」の記事は私ヌルボも興味をもって読みました。
 韓国のネチズンといえば、盧武鉉前大統領の主要支持層だった進歩的・民族主義的傾向の強い若者が多く、まさにネット上で李文烈を非難してきた人たちです。
 その場で、李文烈は「過去あれこれ言っては争い、作家として失ったものも多かった。・・・。悪性の書き込みをする人であればあるほど、作品を読んでいない人が多く、このため作品に対する完全な疎通さえ難しかった」等々反省の弁を述べるとともに、
 「昨年末、村上春樹の「1Q84」を読みながら我に返りました。自分に近い年ごろの作家の作品なのに、急に彼と私の違いが何かを知らされたのです。私の作品には怒りがついているのが見えました」
 ・・・と発言。80年代までの政治や社会と格闘する小説、あるいはその中での自身の<身世>を綴った小説。そんな<重い>小説から、<軽い>小説の時代になり、エンタテインメント小説が大量に日本等から流入している中で、<軽くても深い>村上春樹の作品に李文烈は衝撃を受けた、という理解でいいのでしょうか?
 とすると、今後彼の小説はどう変わっていくのか? 注目していきたいと思います。(←手垢のついた結びだなー・・・。)

李文烈「若き日の肖像」を読む

2010-09-30 23:39:58 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 長い間ツンドクになっていた李文烈の小説「若き日の肖像(젊은 날의 초상)」を2日間でイッキ読みしました。
 もちろん日本語訳です。(柏書房「韓国の現代文学 2」所収)

 李文烈については昨年9月6日の記事でも少しふれました。
 最初に読んだ彼の小説が「皇帝のために」(講談社.1999)。こんなスケールの大きい作家が隣国にいるのか、と驚きました。(個人的に、この20年間に読んだ中で、中国の鄭義「神樹」、在日作家・金石範「火山島」有島武郎「或る女」夏目漱石「明暗」とともにベスト5に入る小説です。※順不同)

昨年8月22日の記事で書いたように、2006年の時点で彼の作品は33ヵ国で訳されていて、韓国作家中では最多でしたが、そんな作家でも日本語に訳されている作品はわずか4作品だけで、それもほとんど品切れ中です。

 その後「하늘길(天の道)」等も読んでみて、李文烈の作品は、寓意を含んだ物語にその特徴があると思いました。小説というよりも物語です。作家自身が自らの生活・経験をそのまま書いたような小説が韓国では多いようですが、李文烈は虚構の物語の中に、より普遍的な価値を追求するとともに、現実社会への風刺・批判を盛り込んでいるということです。

 ところが、この「若き日の肖像」は李文烈自身の若い頃の生活・経験をほとんどそのまま綴っていると思われるような自叙伝的小説です。
 それぞれ別個に発表された「河口」、「楽しからざりしわが若き日」、「その年の冬」の3部で構成されています。

 第1部の「河口」とは洛東江の河口。目的のないままのらりくらりとした生活を続けていた「私」は、再出発をはかって、釜山の外れの江盡(カンジン)で砂を売る商売をしていた兄の下で仕事を手伝いながら高卒の検定試験のための勉強に取り組みます。
 そこでの10ヵ月の間に知ることとなった人々との挿話、とくに「別荘」に暮らす金持ちの子女らしい若い兄妹との交遊が印象的。その兄妹も、他の主だった友人も、それぞれに<時代の影>とでもいったものを負っています。
 その後「私」は検定試験に受かり、さらに、「当初の目標よりも大学(※学部のこと)のランクを下げ、学科を変えはしたが、それなりに世間体の悪くない大学」に無事合格します。

 「大きく脱線した生の軌道はひとまずそれで正常に戻ったわけだ。釜山市内の新聞社で合格を確かめたあと、バスに乗ることも忘れて江盡までの二里を超える道のりを泣き笑いをしながら歩いたことが、今では苦笑いとともに思い出される。流謫(るたく)は終わった-少なくともそのとき、私はそう思っていた。」

 ・・・この最後の一文が暗示するように、「私」の生活上の苦労と精神的な苦悩は、大学合格後も続くのです。

 第2部「楽しからざりしわが若き日」がその大学入学後の物語。
 李文烈の年譜をみると、1968年大学入学。この小説では、大学名も書かれてなく、当時の政治・社会についても具体的な記述はありません。
 しかし、1970年には朴正煕がセマウル運動を始めます。そんな状況下で「私」も多くの級友たちとともに集会に参加するようになりますが、自分と同じ「思弁的気質」の2人の友人たちとの交友が深まるにつれ政治的なサークルから離れてゆきます。
 その後、彼の小説に興味をもつ裕福な家庭の女子学生との交際が始まりますが、つきあいが進むにつれ溝が深まり、破綻してしまいます。(「お日さまをとってきてくださる?」という彼女のいたずらっぽい要求に対する返答として、「私」は(本書で)20ページにも及ぶ大部の寓話を創ります。これだけでまとまった物語になっています。)
 結局、授業を欠席し、金もないのに友人と酒場に頻繁に出入りする日々が続き、大学を中退してソウルを離れます。

 第3部は、都会を去ってこれといったあてもなく、地方に向った「私」の物語です。まず行ったところが江原道の炭鉱。次に東海岸の漁村を経て、落ち着いた先は慶尚北道の山村の酒場兼宿屋。そこでパンイ(雑役夫)をしながらしばらく過ごしますが、内部からの声が聞こえてきて再び出立します。ある村では偶然再会した親戚のお姉さんと酒を酌み交わしたりもしますが、また深い雪の中を歩き始めます。

(※今年2月19日の記事で書いた、「ソウルの人が自由を求めて向かう先は東海岸=江陵(カンヌン)方面が定番なのかな、との仮説」は正しいかも・・・。)

 このような葛藤と彷徨の末に「私」が辿りついた思いは・・・、ということで、「私」の新たな一歩が仄見えるところで小説は閉じられています。

 原著の作者後記で、李文烈は次のように記しています。
 「今後私が文学的にはこれよりもっと完璧な作品を書いたとしても、そしてまたどんな評者がどのように評したとしても、私が一番大きな愛着を感じるのはいつもこの本だろう。」

 貧しさがどこにでもあった時代。また能力はありながらも家庭環境等の事情で進学できない者がふつうにいた時代。しかし、生きてゆくこと自体多くの困難があった中で、切実に人生や社会に真実なるものを追求する「私」の姿は、そうした時代を生きてきた多くの人たちの共感するところでしょう。

 韓国サイトで書評をいくつか見たところでは、世代によって受けとめ方が違うかな、とも思いました。日本でもそうですが、数十年前と現代とでは、青春の苦悩といったものに質的な違いがあるような気がします。また、進歩的なネチズンとやり合っている保守派論客の代表ともいうべき昨今の李文烈のイメージが脳裏にちらつく人も相当数いるようです。

※翻訳で、引っかかった箇所が少しありました。
 たとえば、フランス中世の詩人ヴィヨンを<ビヨン>と表記したり、<グレチヘン>とあるのは「ファウスト」に出てくる少女グレートヘンのことでしょう。
 麻雀用語で<間八萬邊七桶>とされているのは<嵌八萬(カンパーワン)>、<辺七筒(ペンチーピン)>。
 どちらも理解して訳しているとは思えません。こういう専門用語(?)は調べればすぐわかるのに・・・。

[李文烈の経歴(作家となる以前)]
1948年ソウル市鍾路区清雲洞で生まれる。3男2女中の3男。
50年朝鮮戦争当時、共産主義者だった父は独りで北朝鮮に行ってしまう。母に連れられ慶尚北道英陽郡に帰郷。
53年安東へ転居。1955年安東中央国民学校入学。
57年ソウルへ転居。ソウル鍾岩国民学校に転校。
59年密陽へ転居。密陽国民学校に転校。
61年密陽中学校に入学するが、6ヵ月で中退。
62年慶尚北道英陽郡に帰郷。64年安東高等学校に進学するが65年中退し釜山へ。しばらくの間彷徨。
68年大学入学検定に合格し、ソウル大学校師範学部に進学。
69年師範大文学会に加入、作家となることを決心する。
70年司法試験を受けるため師範学校国語教育科を中退。しかし連座制等の理由で意志は達せられなかった。司法試験に失敗した後、73年結婚と同時に軍に入隊。

       
【現在민음사(民音社)から発行されている「若き日の肖像」】

申京淑「どこかで私をよぶ電話が鳴って」激動の時代、傷みを抱えた青春像を描く

2010-07-24 23:40:26 | 韓国の小説・詩・エッセイ
        

 申京淑がこの5月に刊行した小説「どこかで私をよぶ電話が鳴って(어디선가 나를 찾는 전화벨이 울리고)」は、期待を裏切りませんでした。
 あまりネタバレにならないよう心しつつ紹介します。

 大学の教室の外から集会の音声が聞こえてくる。授業の終わり際、窓の外を見つめていたユン教授はふり向いて学生たちに問う。「君たち、クリストフという人物の話を聞いたことがあるか?」。 
 女子学生チョン・ユンは「ジャン・クリストフ」は読んだことがあったが、教授の語ったクリストフは、キリスト教伝説中のクリストフだった。
 カナーン出身の大男クリストフは、真に仕えたいと思う人物に巡り合えぬまま、川べりに家を建て、旅人を無償で向こう岸に背負って渡すことを始めた。ある夜、一人の子どもの頼みで、その子を背負って川に足を踏み入れる。ところが、軽いはずの子どもがだんだん重みを増し、ついには異様な重さとなってクリストフは川に流されて死ぬかも知れないとまで思う。
 やっとの思いで対岸にたどり着くと子どもは消え、眼前にイエスが現れ、そして言う。  「クリストフ、おまえが今背負ったのは子どもではなく私、キリストだ。おまえが川を渡った時背負っていたのはこの世のすべてだったのだ」。
 語り終えてしばし沈黙した後、ユン教授はふたたび口を開く。
 「では、ここでひとつ質問をする今ここにいる君たちはクリストフなのか? 背に負われた子どもなのか?」

 ユン教授の原稿のタイピングを志願したチョン・ユンは、教授の研究室で男子学生イ・ミョンソと、その女友だちユン・ミルを知る。あとでわかるのだが、2人は幼なじみで、少し前までミルの姉も含め3人で同居していた・・・。
 チョン・ユンにもタニという名の気心の知れた幼なじみの男友だちがいる。

 ・・・・この4人が主な登場人物です。

 地方出身のチョン・ユンは自分の住むトンスン洞のオクタプパン(屋塔房)を起点に、ソウルの街ここかしこを日々歩いて廻る。しかしある日、集会・デモの鎮圧に巻き込まれ、鞄も靴もなくして途方に暮れていると、思いもかけず「チョン・ユン!」と呼ぶ声が・・・。


 この偶然を契機に、主人公たちのコミュニケーションが深まってゆき、また彼らの過去も徐々に明らかになっていきます。

 小説はチョン・ユンの視点から描かれていて、その中にミョンソの手記が挟まれているという体裁で、政治的・社会的背景は詳しく書き込まれてはいませんが、申京淑自身が学生だった当時、すなわち80年代の民主化闘争の時代状況が色濃く感じられます。
 その中で、青春期真っ只中の男性2人女性2人。当然恋愛の要素もありますが、それがメインというわけではありません。ある書評には「青春小説であり、成長小説であり、恋愛小説である・・・」とありました。
 物語は、彼らの大学時代だけでなく、その何年も後まで描かれているという重層的な構えになっています。

 この本の帯に記されている文芸評論家シン・ヒョンチョルの評を引用します。
 「自身の生を、同僚の死を、さらには共同体の運命を背負わなければならなかった一時代の<クリストフ>たちがここにいる。4人の青春が、ガラス瓶に入れて流された手紙が今の青年たちの心に無事に届くように。彼らのつらい時間に戻るのではなく、そのつらさを忘れることなく、ついにはつらさのない時間の方へ歩んでゆくために。」

 申京淑はこの本のあとがきでも、また「東亜日報」のインタビュー記事でも、90年代以降の韓国の若者が主に日本の小説を読んで成長してきたという現実を口惜しく思って、「青春の感受性を代弁する、品格ある韓国小説を作るため文章もできる限り韓国語の美しさを生かして、正確に書こうと念を入れた」と述べています。

 少し前、このブログで「韓国は日本の24年遅れ」という俗説(?)を開陳したところ、さる方から「韓国人の友人たち(30代)が育ってきた環境、傾向がどうも私の両親の世代(今の50代)と似ている」とのコメントをいただきました。
 たしかに、この小説を日本の全共闘世代が読むと遠い40年前のもろもろを、さまざまな感情を伴いつつ思い起こすのではないでしょうか? ただ、韓国の386世代と比べると学生時代ははるか昔だからかなり風化しているかもしれませんが・・・。

 さて、申京淑が若い世代に投じたこの小説、反響はどうでしょうか? ヌルボの感想は、なんともまあ、重い直球で勝負したなあ、ということ。日本の作家が読まれているのは、その軽さとエンタテインメント性ゆえ。それを知りつつ、20数年前の感性を霧消させることなく、その後の省察を加えてよく作品化したものです。したがって、「重い」です。先に掲げたクリストフの物語のように、当時の青年たちは時代の重さを背負わざるを得なかった、あるいは自ら背負おうとしたわけですから・・・。
 実際、YES24等のサイトで読者の感想を見ると、高評価が多い中で、「重い」の一語で★3つという評価もありました。
 ただ、決して思弁的で難解な作品ではありません。この人たちの関係はこれからどう展開するのだろう、というドラマ的興味も喚起されたり、また「えっ、そういうことだったの!?」というオドロキも何ヵ所かあって、全然退屈することなく読み通せました。

 あの闘争の時代に、たとえば命を落とした青年、あるいは当時の若かった自分自身の心情が込められた、まさに「ガラス瓶に入れて流された手紙」のような小説です。
 この小説のタイトルにある、「どこかで私をよぶ電話・・・」も、そんな過去からの声なのかもしれません。

※ユン教授の語るクリストフについては、ウィキペディアの<クリストフォロス>の項目参照。

※この小説には、主人公たちが住んでいたり、歩いたりするソウルの地名がいろいろ出てきます。3月17日の記事で紹介したDAUMの中のロードビュー(←韓国版ナンチャッテStreetView)で町のようす等を見ることができますが、20年以上前と今とではかなり変わっているはず。

※主な登場人物(?)の中にネコのエミリー・ディキンソンも入るかもしれません。<ターキッシュアンゴラ>というこの猫は左右の目の色が違うことが多く、また「青い目のある側の耳は聞こえない(右目が青ければ、右耳が聞こえない)」とか。エミリー・ディキンスンは全然聞こえない。

※申京淑の他のいくつかの作品同様、「もしあの時自分が○○していれば××だったのに・・・」という悔恨、そして深い雪の場面は、この小説にもみられます。

えっ、金素月の「つつじの花」も抵抗詩!? <金素雲・藤間生大の論争>再考②

2010-07-12 23:50:00 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 7月10日の記事で、日帝時代の朝鮮詩をめぐる<金素雲・藤間生大の論争>を紹介しました。
 私ヌルボとしては、藤間生大の唯物史観を念頭においた(?)思い込み的(独善的)解釈に半ば呆れたのですが、だからといってポイ捨てして終わりというテーマとも考えません。
 詩人がどんな詩を作り、訳者がそれをどう訳し、また人々がそれをどのように読むかは、その時代を如実に反映しています。この論争は、まさにその好例といえるでしょう。

 (うーむ。これから先、ヘタすると大学生のレポートみたいになってしまいそうで不安が心配になってきました・・・。)

 日帝時代の朝鮮詩の問題について、便宜上次の5つの時期に分けてみます。

①1920年代~40年頃 朝鮮の詩人が作品を書いた時期
②1940~43年頃 朝鮮詩集・乳色の雲」(1940)など、金素雲が訳述を行った時期
③1954~56年 岩波文庫版「朝鮮詩集」が刊行され、<金素雲・藤間生大の論争>が展開された時期
④1971年 梶井陟が「朝鮮文学」で<金素雲・藤間生大の論争>を紹介
 ⑤現代 

 まずの時期。そもそも、当の詩人が、どんな思いで詩を作ったか? 分類すると・・・
(A)植民地支配に対する抵抗の意志を持ち、その思いを明確に書いた抵抗詩。
(B)抵抗の意志はあったが、厳しい状況の中で、直接的な弾圧を避けるため、隠喩等を駆使して書いた作品。
 (C)自覚的な抵抗の意志はなく書かれた抒情詩等。

 むずかしいことは後回しにするという私ヌルボの処世法にしたがって、めんどうな(B)は次回以降にして、とりあえず(C)から。

 そもそも、金素雲は藤間生太が(C)を抵抗詩と誤解したり、「(自覚的な抵抗の意志はなくとも)日本帝国主義の圧政を自ずと表わしている」と曲解していると批判しています。

 藤間のこのような解釈は、上記の時期に主流となっていた唯物史観の影響といえるでしょう。
 ところが、そのような誤解・曲解は今もあるようです。
 (B)(C)の見分けはむずかしいですが、たとえば現在の韓国でも人気№1の詩人金素月の代表作「つつじの花(진달래꽃)」は、ふつうに考えて(C)に属する詩だと思うのですが・・・。

  진달래꽃              (金素雲訳) 岩つゝじ

 나 보기가 역겨워           どうで別れの
 가실 때에는               日が来たら
 말없이 고이 보내 드리우리다.    なんにもいはずと 送りましよ。

 寧邊에 藥山               寧邊薬山
 진달래꽃                岩つゝじ
 아름 따다 가실 길에 뿌리우리다. 摘んで お道に敷きませう。

 기시는 걸음걸음           歩み歩みに
 놓인 그 곷을              そのつゝじ
 사뿐히 즈려밟고 가시옵소서.   そつと踏まへて お行きなさい。

 나 보기가 역겨워           どうで別れの
 가실 때에는              日が来たら
 죽어도 아니 눈물 흘리우리다.  死んでも涙は見せませぬ。

  金素月の他の詩をみても、やるせない心情が、民謡風の(大正歌謡風の(?))七五調で詠われている、それが多くの人の心を捉えてきたのではないでしょうか?
  ところが、朝鮮総聯の機関紙「朝鮮新報」のサイト中の<文学散策>で、金学烈という朝鮮大学校・早稲田大学講師の方の書いている<失恋の歌か?それとも…>という一文を読んで驚きました。

  「1922年、金素月が20歳の時に作ったこの詩は、一見失恋歌の形をとっているが、実は3・1独立万歳事件(1919年)直後の、民衆への深い悲しみを暗にうたったレジスタンス(抵抗)のうたであるとういうのが通説である」とあります。えっ、<通説>だって!? 
  さらに「詩の結びに「死んでも涙は見せませぬ」とあるが、「死ぬともわが祖国を取り戻さん」という、死を決した強烈な思いが込められていると言えよう」とあります。・・・・。
  さらにさらに、ヌルボも感動した詩「招魂」についても、「表面上は失恋のうたとなっているが、うちに秘められた真意は、痛恨の亡国の情と独立への願望のうただといえる」と解説しています。(なんなんだ~!)

 他のサイトや、関連書籍を見てみたら、決して<通説>ではないようですが・・・。とくに朝鮮総聯の立場からはこのように解釈されるということなんでしょうか?

 ここまでいかなくても、金素月の詩に漂う哀しさの背景を、「祖国を失った者」という観点から理解するという分析もどこかで見ました。

  わりとわかりやすいと思われた金素月の詩の解釈からしてこんな感じですから、(B)に属する作品の場合はホントにややこしいです。

 ※上記の金素雲の訳について、林容澤は、「金素雲『朝鮮詩集』の世界」(中公新書)「原詩のアイロニーとパラドックスによる錯綜した「恨」の心理は、金素雲訳「岩つゝじ」からは読みとれない」と評し、自らの訳を別に載せています。ここらへんもビミョーですねー。


日帝時代の朝鮮詩から、祖国喪失の哀しみと憤りを読みとれるか? <金素雲・藤間生大の論争>再考①

2010-07-10 23:56:06 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 懸案のネタの1つをようやくupします。
 6月21日の記事で紹介した1970~74年発行の「朝鮮文学」の中で、とくに興味を持った朝鮮詩論争についてです。

 「朝鮮文学」(第2号.1971年3月)に、<随想>という分類で掲載されている梶井陟「金素雲・藤間生大の朝鮮詩論争」という記事でこの論争の梗概を知ったのですが、じつは以前に読んだはずの林容澤「金素雲『朝鮮詩集』の世界」(中公新書)にもこの論争について30ページ分も記されていることに少しあとになって気づきました。

 この論争のポイントを略述します。
 金素雲は、朝鮮近代詩の名訳と定評のある「朝鮮詩集」の訳者、藤間生太(とうま・せいた)は唯物史観に立脚した古代史学者で「倭の五王」(岩波新書)等の著書があります。

 まず、藤間生太が「民族の詩」(東大新書.1955年2月)で「朝鮮詩集」をテキストに、たとえば林龍喆や異河潤の詩から日本の植民地支配の厳しさを読みとっています。
 今は荒れ果てた故郷を偲んだ林龍「ふるさとを恋ひて何せむ」の冒頭、
 ふるさとを恋ひて何せむ/血縁(ちすぢ)絶え 吾家の失せて/夕鴉ひとり啼くらむ/村井戸も遷されたらむ」や、異河潤「無縁塚」の第三聯、
 「国道の/拓かれてより かの塚の/押し潰(くず)されて/後もなく、・・・」
の詩句中、<村井戸>が遷されたり<国道の拓かれ>たりしたのは、「悪逆残忍な日本帝国主義の植民地統治が行ってきた開化政策の産物」であると解釈するわけです。

 これに対し、翌1956年6月に金素雲が「憶測と独断の迷路 藤間生太氏の『民族の詩』について」という論文を「文学」に発表しました。
 それは、次のような厳しい一文で始まっています。

 「朝鮮の詩と詩人について一人の歴史家の手でなされた荒唐無稽な憶測と独断-しかもそれは朝鮮民族への悪意からなされたものでなく、善意のヴェールを纏うがゆえに、その是正と解明に一層の困難を感ずるのである。」
 さらに金素雲は「(村井戸は)「日本帝国主義」の侵略がなくとも移るべき理由があれば移るのである」等々、藤間の解釈を個々批判しつつ、「ふるさとを懐かしむ詩なら世界中のどの国にもあるが、朝鮮の詩だけが、なぜ、こうまで大問題を胎み、深刻にして悲痛なる結論と結びつかねばならないのか」と反問し、藤間氏の所論をドグマであると結論づけています。

 藤間生太は、1ヵ月後の「文学」8月号(1956年)に反論を寄せています。
 要点は、次の通りです。
・文学作品は一度できあがれば、作者の手をはなれる。
 ・抒情詩も、創作としてつくられるかぎり、本質的なものはあらわれる。民族性というものが抒情詩にはあらわれるはずはないという証拠はどこにもない。

 以上がこの論争のあらましですが、私ヌルボが数ヵ月前に「朝鮮文学」を読んで初めて知った時、ふと思い起こしたのが「徒然草」中の「丹波に出雲といふ所あり」という話です。
 神社の狛犬が外向きになっているのを見て、何かいわれがあるに違いないと涙まで流した上人が神官に由来を聞くと、実は子供のいたずらだったというもの。

 いかに的外れの誤解・曲解でも、人は自分の見たいように見てしまいがちだし、そして感動までしてしまうということです。
 ただ、「徒然草」のこの段はとても可笑しかったですが、朝鮮詩論争は笑えませんでした。

 そして、単に藤間生太のような解釈は、一笑に付してオシマイ、というものではなく、現時点でも関連する諸問題はあると思われます。それもかなり厄介な問題・・・。そして、金素雲の方にも問題がなかったともいえないようです。
 具体的には、次回に回します。

 このテーマについては、今後数回続く予定です。
 予告編として、上記の林容澤の本から引用します。
 「韓国の近代望郷詩は、望郷というテーマの抒情性と祖国喪失の寓意性が入り交じった形のものが多く、その解釈をめぐって今も議論が続いている場合が少なくない。・・・李陸史の「青葡萄」は、その好例といえる。」


チェ・スンジャの新刊詩集から 「時間がパサッ、パサッ」など

2010-06-19 00:10:06 | 韓国の小説・詩・エッセイ
       

 6月18日(水)の韓国KBS1ラジオの夜番組「シン・ソンウォンの文化読み(신성원의 문화읽기)」に関連して、「かもめ食堂」関係の記事を直前にupしましたが、実はコチラの記事の前置きとして書いてたのが長くなりすぎて別記事にしたものです。

 この番組は、毎週水曜日は「詩がある水曜日(시가 있는 수요일)」というコーナーがあって、文学評論家・慶煕大学校のキム・スイ(金壽伊)教授(女性)がさまざまな詩人の詩を朗読して紹介するというものです。

 6月18日(水)は、チェ・スンジャ(崔勝子.최승자)の詩集「쓸쓸해서 머나먼」をとりあげていました。
 チェ・スンジャといえば、つい先日の6月14日の記事で申京淑さんの新作「どこかで私を呼ぶ電話のベルが鳴って(어디선가 나를 찾는 전화벨이 울리고)」を紹介した際、その長い題はチェ・スンジャさんの詩句を少し変えてつけた、ということを書いたばかりです。

 しかし、それは後で気づいたことで、ラジオを聴いていて私ヌルボが耳をそばだてたのは、キム・スイさんの朗読する詩の韻律。ところどころ聞きとれる詩句と相俟って、引き込まれたんですよ。

 その詩のタイトルは「시간이 사각사각」。少し長い詩ですが、全文は次の通りです。ぜひ音読してみてください。

    시간이 사각사각 / 최승자
한 아름다운 결정체로서의
시간들이 있었습니다
사각사각 아름다운 설탕의 시간들
사각사각 아름다운 눈[雪]의 시간들
한 불안한 결정체로서의
시간들도 있었습니다
사각사각 바스러지는 시간들
사각사각 무너지는 시간들
사각사각 시간이 지나갑니다
시간의 마술사는 깃발을 휘두르지 않습니다
사회가 휙,
역사가 휙,
문명이 휙,
시간의 마술사가 사각사각 지나갑니다
아하 사실은
(통시성의 하늘 아래서
공시성인 인류의 집단 무의식 속에서
시간이 바스락거리는 소리입니다)
시간이 사각사각
시간이 아삭아삭
시간이 바삭바삭
아하 기실은
사회가 휙,
역사가 휙,
문명이 휙,
시간의 마술사가 사각사각 지나갑니다


 「シガニ サガサガ」(時間がカサッ、カサッ)という繰り返しが印象的です。

 後の部分では、
 「シガニ サガサガ/シガニ アサアサ/シガニ パサパサ
 (時間がカサッ、カサッ/時間がサクッ、サクッ/時間がパサッ、パサッ)
という3行もあります。

 擬音語では、「휙」も繰り返されています。
「サフェガ フィ/ヨクサガ フィ/ムンミョンイ フィ
 (社会がヒュッ/歴史がヒュッ/文明がヒュッ)

 キム・スイさんの詩の朗読は、意味がよくわからなくても十分に魅力的です。
 「읊다」というのでしょうね。日本語だと読むのではなく、「詠ずる」・「吟ずる」。

 日本の詩人でヌルボが好きな室生犀星、堀口大學、三好達治、谷川俊太郎、近代詩人のハシリといってよさそうな蕪村の「北寿老仙を悼む」等々、詩想の違いはあっても、心に残る詩は皆韻律の魅力を共通して持っていると思います。
 韓国・朝鮮の近代詩人では(そんなに知っているわけでもないですが)、韓国人の人気№1の詩人金素月の「オンマやヌナや」や「招魂」など、音の流れひとつとっても直接心に響く感じです。

 チェ・スンジャさんの詩の韻律は、日本の浪漫派のようにそのリズムに酔っている感じではなくて、逆に冷めた目で世の中を見つめる、知的で、少し虚無的な雰囲気を感じさせます。
 (韻律が特徴的で虚無的といえば、中原中也を思い出しますが、彼の場合は少し酔ってるというか、拗ねてるというか・・・)

 以下、YES24のサイトにあった彼女の略歴をさらに抜き書きします。

 詩人チェ・スンジャは、<激動の80年代>に青春時代を送った人たちにとってひとつの熱い象徴であり、凄絶な憤怒であり、致命的な中毒だった。事物と生、時代と事件を身体の言語に置き換え、解析する彼女のはばかりない意識の根は自己否定と自己嫌悪として表出された。そして詩人としてはまれな大衆的人気を受け、パク・ノヘ、ファン・ジウ、イ・ソンボク等とともに詩の時代80年代が輩出したスター詩人とされた。2001年以降闘病生活を送り、詩作は一時中断していたが、この4月、上記の詩が収録されている詩集「쓸쓸해서 머나먼(物悲しくて、遥かに遠く)」を11年ぶりに刊行した。

 ・・・この日の番組では、他に「내 詩는 지금 이사 가고 있는 중(私の詩は今引越し中)」という、とても意味シンな詩も紹介していました。

 たまたまこのような詩人について知る機会を得て、幸運でした。
 (申京淑さんが彼女の詩から小説のタイトルを考えたのも、うなずけるような気がします。)

「オンマをお願い」の作家・申京淑の新作は青春物。 先週ベストセラー1位に!

2010-06-14 01:49:55 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 昨年韓国の「オンマ・シンドローム」のきっかけとなった大ベストセラー「オンマをお願い」の作家・申京淑さんが新作小説「どこかで私を呼ぶ電話のベルが鳴って(어디선가 나를 찾는 전화벨이 울리고)」を5月18日刊行。
 そして先週ベストセラーの1位に上がりました。

 昨年5月からインターネット書店のアラディンのサイトで約半年間連載された作品です。

 教保文庫の紹介文は、「苦痛に満ちた美しさに輝く青春の肖像!」と題して、次のように記しています。
 「悲劇的な時代状況の中で生きてゆく人々の姿を通して、愛と若さの意味を探る成長小説であり青春小説、そして恋愛小説である。・・・4人の男女が経験する愛の喜びと喪失の痛み、不安と孤独の瞬間を描いている。」

 この長い作品名は、詩人チェ・スンジャ(최승자)の詩「끊임없이 나를 찾는 전화벨이 울리고」の、<끊임없이>を<어디선가>に変えたものとのことですが、すでに各サイトでは「어.나.벨.」と略して呼んでいます。

 なお、「東亜日報」のサイトに「어느 시대든 청춘은 찬란한 열병(どんな時代であれ青春は燦爛たる熱病)」と題した申京淑さんのインタビュー記事がありました。

 私ヌルボ、昨日職安通りのコリアプラザに久しぶりに行ったら、この本があったのでさっそく買ってきました。10ページばかり読みましたが、全378ページ、読み終えるのはいつになることやら・・・。

      
  【この本も表紙の絵が印象的。19世紀イギリスの画家グリムショーの「ワーフデール」。

詩人アン・ドヒョンのエッセイ集「小さく、低く、ゆっくりと」を読む

2010-05-28 23:31:15 | 韓国の小説・詩・エッセイ
      

 横浜市立図書館で、現代韓国を代表する詩人の一人安度眩(アン・ドヒョン.안도현)のエッセイ集「小さく、低く、ゆっくりと」(書肆侃侃房.2005)を読みました。「西日本新聞」に2002年10月〜03年9月連載した随筆をまとめた本です。

 ※数ページ分読めます。→アマゾンの「クリックなか身!検索」

 韓国の詩人を一人二人でも知っている日本人は多くはないでしょう。
 それなりに知っている人は、たとえば権力に対して熱く力の籠った詩で闘ったり、民族の魂とか伝統的な恨の心を詠ったりした詩人を思い浮かべるのではないでしょうか?
 しかしアン・ドヒョンはそんな韓国の旧世代の詩人とは全然違って、平易な言葉、穏やかな表現を特徴としています。このような詩人が多くの人に受け容れられるのも、1990年代以降の時代の空気を反映しているといえるのでないでしょうか。

 このエッセイ集も、彼の詩と同様とても読みやすく、それでいて心に残るエッセイがいくつも収められています。
 その中からいくつか、読書メモのような形で紹介します。

○日本を見る目
 アン・ドヒョンの母方の祖父と祖母は日本で労働者として働いていて、解放後に帰国した人である。彼らは「倭のやつ(※ウェノム.왜놈でしょう)」と呼んでばかりで、アン・ドヒョンは一度も「日本人」と呼ぶのを聞いたことがない。しかし日本人は「とても礼儀正しく原理原則を重視する人たち」で、ときどき「解放前に日本で暮らしていたころの方が良かった」という愚痴をはきすてるように言った、という。
 ・・・「反日」「親日」等の言葉では捉えられない複雑な感情。それは祖父母の世代ばかりではないでしょう。

○母親と妻の違い
 アン・ドヒョンは1961年慶尚北道生まれ。奥さんは全羅道出身。昔から慶尚道と全羅道の対立感情はよく知られているとおり。母親は年配の親戚に奥さんを紹介する時に、「嫁の故郷はソウルで・・・」と嘘を言っていたとのことである。

○民衆と人民
 アン・ドヒョンは若い頃中学校の国語教師をしていた。その当時<左傾意識化教師>と誤解されたことがあった。授業で「松よ、青い松よ(솔아 솔아 푸르른솔아...)」という歌の歌詞を教えたため、校長室によばれたのである。(※運動圏のフォークグループ<ノチャサ>の歌) 「民衆の魂が主人になる真の世界」とは何だ、民衆とは人民のことではないのか? と校長が問いつめるのである。本来はそんな意味の言葉ではないのに・・・。(※この本では記されていませんが、yes24のサイトで彼の経歴を見ると「全教組活動で解職され、5年後復職」とあります。)

○赤いTシャツ
 ワールドカップの韓国チームは赤いユニフォームで活躍、「赤い悪魔」とよばれた。しかし、子どもの頃から反共教育を受けてきたアン・ドヒョンの世代にとって、<赤>といえば共産主義の色。「赤い悪魔」以外でも、「赤い力を集めましょう」という献血のポスターを見ても「共産主義者を集めましょう」・・・とつい思ってしまう・・・。
※これは私ヌルボも初めて「赤い悪魔」と聞いた時、同様の疑問をもちました。反共のはずの韓国が自ら「赤い~」などと称するとは! ・・・と驚いたものです。
 
○俳句と詩調
 アン・ドヒョンは俳句に関心を寄せています。同じ韓国の人気詩人リュ・シファによる俳句翻訳書「一行でも長すぎる」を手掛かりに、その魅力を記しています。芭蕉の「閑さや岩にしみ入る 蝉の声」もあげていますが、彼がとくに共感しているのが次の句。
 「この炭も 雪被さりし 梢なり 多田友」
 今は炭となっているが、以前は木の枝で、そこに雪が積もったこともあって、という炭の歴史が短い字数に凝縮されている、というわけです。
 ヌルボもなるほどと思いましたが、今まで知らなかった俳句で、作者も初耳。ネットで探してみましたがわからずじまいです。

 ほかにも、安東に暮らしている童話作家の長老・権正生(クォン・ジョンセン)を訪ねたところ、その清貧さに自ら恥ずかしさを覚えた話等々、紹介したい部分はありますが、長くなりすぎてもよくないのでここまでにしておきます。
※権正生の作品はいくつか読んだことがありますが、1937年東京の貧民街で生まれたことは初めて知りました。

付記①:本書で彼自身が記しているところによると、この時まで彼は7冊の詩集を刊行し、「合算して40万部売れた」とのことです。彼は韓国がそれだけ詩文学が広く受け入れられている国だと言っているわけですが、その中でも彼は本がよく売れる詩人です。

 ひとつだけ、よく知られた彼の短い詩を紹介します。

   너에게 묻는다
연탄재 함부로 발로 차지 마라
너는
누구에게 한번이라도 뜨거운 사람이었느냐

   おまえに尋ねる
 煉炭の灰を
 むやみに足で蹴るな
 おまえは
 だれかにとって 一度でも熱い人だったのか


付記②:本ブログ4月10日の記事で、アン・ドヒョンが「鮭」同様<大人のための童話>として「蒸気機関車 ミカ」という本を出していることを紹介しました。「鮭」は1996年刊行以来100万部に達するロングセラーで、日本では「幸せのねむる川」の題で出ていました。

付記③:たまたま昨日の「ハンギョレ新聞」のサイトで、6月2日の統一地方選挙に向けて、アン・ドヒョンが若者に投票をよびかける記事が掲載されていました。
 <左寄り>の「ハンギョレ新聞」だけでなく、<右寄り>を代表する「朝鮮日報」にも以前「アン・ドヒョンのラブレター」が200回連載されたことがありました。今も「朝鮮日報」のサイトで見ることができます。

付記④:「オー!マイニュース」のサイト中に、「アン・ドヒョンの詩は軽いか?」という見出しで彼の詩の魅力を分析した記事がありました。

付記⑤:5月13日の記事でチョウセントラについて書きましたが、この本によると「1922年、慶尚北道の大匿まで虎の雄が一頭、射殺された。野生のトラは韓国の地から完全に姿を消してしまった。したがって虎による災い、すなわち「虎患(ホファン.호환)」という言葉も韓国から次第に消えていった」とあります。