ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

中高生の校外学習のような(?)3泊4日のソウル旅行③ 2日目(前半)=市庁の地下にある遺跡→九老工団生活体験館

2016-12-14 23:41:11 | 韓国旅行の記録
 →<中高生の校外学習のような(?)3泊4日のソウル旅行① 1日目(前半)=閑散としていた朴正熙記念図書館>
 →<中高生の校外学習のような(?)3泊4日のソウル旅行② 1日目(後半)=安倍首相とのかすかな接点(??)>

○11月26日(土) 前半

 ベッドで寝たままボケッと眺めるTV画面。ニュースで注目は、今夕の朴槿恵退陣要求集会に参加するため地方の農協組織がトラクターを大挙動員してソウルに向かってるというもの。映像を見ると取り締まりの警察も難儀しているようす。どうなるのかな?

 天気は重たい曇り空で、予報では雪が降りそう。・・・と伝えるKBSニュース広場(6:00~7:50)のお天気おねーさんカン・アランさん。(右画像) もしかしてと検索すると、やっぱり。イ・ジュンギとの仲良しショットが今春報じられてましたね。(→コチラ。) 2014の<全国春香選抜大会>でミス春香に選ばれて注目された彼女、今は<お天気女神(날씨여신)>とか<骨盤美女(골반미녀)>とか言われて国営放送の気象キャスターとしては異例の人気、・・・のようですね。ついでに彼女のFACEBOOKは→コチラ。イ・ジュンギとのその後の展開はわからず。

 カン・アランについ深入りしちゃいましたが(笑)、土曜朝のKBS1の番組といえばニュース広場に続く「南北の窓(남북의 창)」(7:50~8:20)を見なくては! 1989年から続く北朝鮮情報いろいろの番組です。
今回のクローズアップは、今年8月29日~9月2日咸鏡北道地域を襲った台風10号による洪水被害とその復興のようす。
    
 右は11月16日の北朝鮮・朝鮮中央TVの「水害復旧祝賀放送」の画面。アナウンサー2人の笑顔がいかにも北朝鮮的ですね(笑)。
    
 多数の家屋が損壊しましたが(左)、その後復旧が進みます(中)。右の映像のバックには北朝鮮の歌「조선은 결심하면 한다(朝鮮は決心すればやる)」(→YouTube)が流されています。
     
 そして新しく造られた住宅を背に、インタビューに答える女性は「うれし涙で目も見えないわ。・・・朝鮮労働党万歳! 社会主義万歳!」と喜び一杯。人々は皆笑顔で踊りを踊っています(左)。一方、本番組の単独入手映像(右)は入居できなかった人たち。「戻って暮らせと言われてもどうすりゃ暮らせるんだ? 腹ペコで死にそうなのに食い物もないし・・・」と訴えています(右)。
 ※日韓の報道によると、川の堤防が決壊等のため約30万人(?)が被災し、死者・行方不明者は計約540人、住居を失った人は約7万人とされています。
 ※脱北者で北朝鮮の食文化研究者李愛蘭(イ・エラン)さんは<北朝鮮大洪水に隠れた真実>と題された記事(→コチラ)の中で「今回の洪水は、金正恩政権が招いた人災中の人災である」という中見出しに続けて「洪水の原因も核実験の揺れで弱くなったダムの決壊を避けるために予告もなく水門を開けて放水したため」と理由づけています。
 ・・・うーむ、このネタだけでも独立した記事になりそうだな。「南北の窓」ではこの水害関係以外にもハナ院での健康管理や北朝鮮でのビタミンブーム等について伝えていましたが委細は省略。

 9時過ぎにホテルを出て乙支路4街→乙支路入口の2駅だけ地下鉄で移動し、朝食はほぼ定番の武橋洞プゴククチプへ。2001年以来(?)6、7回目くらいか? しかし客が満杯で数人が並んでいるというのは初めて。以前はガイドブック・韓国グルメ本等には載ってませんでしたが、辛くも赤くもないのがヌルボのような日本人の好みにあってクチコミで人気店になっていったということかな?
     
 畏友Y氏の口にも合ったようで、ごちそうさまと店を出て、そのまま歩いてソウル市庁へ。

 市庁のお目当ては、地下にあるという遺跡展示室。ところが庁舎内はガラ~ンとしたいかにも休日っぽい雰囲気。そこの人に用件を問われたので話すと、「ああ、それならいったん外に出て、階段(下左)を下って市民廰へ」とのこと。
    
 上右がその軍器寺遺跡展示室(군기시 유적 전시실)の入口。朝鮮王朝時代武器の製造を行っていた部署ですが、私ヌルボが疑問に思ったのはなんで「司」でなく「寺」の字を用いているのか?ということ。寺でもないのに。また読みが「사(サ)」でなく「시(シ)」になっているのも疑問。後で朝鮮王朝の行政機関の表(→コチラ)を見ると「司」と「寺」がごちゃまぜになっていて、どう区別されているのか全然わからず。検索すると韓国サイトでも「軍器司(군기사)」と表記している記事があるし(→コチラ等)、私ヌルボ、確実な資料見るまで信じないからねっ!(とムキになることもでもないか。)
    
 けっこう広い展示室。透明な床越しに見られるようにもなっています。600年以上続いている都の中心地だから掘れば何かしら出てくるのでしょうね。

 次の目的地に向かうべく市庁駅へ。
 すると、地下道に<군기시 유적 전시실(軍器寺遺跡展示室)>と記されたけっこう大きな案内板があるではないですか(左)。このあたりは何度も来ているはずなのに初めて見ました。最近貼られたのか、それても単にヌルボが鈍感なだけなのか?

 市庁駅から加山デジタル団地駅へ。次の目的地というのは九老工団労働者生活体験館です。このいかにもマイナーそうな施設を何で知ったのかというと・・・忘れました。あ、「コンスニ」(女性労働者)等について→コチラの記事を書いた時か。

 駅の表通り(東)を北に少し歩くと案内板が見えました(下左)。
  

 迷うことなく到着(上中)。今ここから出てきたとおぼしき子供たちの団体が目に入りました。

 建物に隣接して再現された昔の商店があります(上右)。と、ここで気になったのがその商店に貼られていた昔の映画のポスター(右)。

 下の段の「馬鹿たちの行進(바보들의 행진)」(1975)は3回ばかり観たな。
 上左の「離れの客とお母さん(사란방 선님과 어머니)」もおなじみ、と思ったらレレレのレ、申相玉監督作品(1961)と違うではないの。これは1978年の趙文真(チョ・ムンジン)監督作品・・・って知らなかったワー。
 右上の李星究(イ・ソング)監督の「春香伝(춘향전)」(1971)も、上中の「夢の木(꿈나무)」(1978)も同様。どれもこの地域がカツラや衣料品関係等の工場地帯生活だった70年代の映画で、当時青年だった人たちにとっては懐かしい作品だったのかも。(・・・って映画を観るような時間とお金があった??)

 生活体験館の中に入ると、往時の写真がいろいろ展示されています(左)。
 館員の若い女性に日本から来たことを告げると、提示室を暗くして日本語字幕付きの映画を映写してくれました。

    
 1日前、朴正熙大統領記念館で見た60~70年代の産業の発展・輸出の大幅な伸びの「偉業」称揚と、同じ時代の表と裏というか光と影というか、まさに両面といったところですね。
    
 女性労働者の内緒話(左)。青い管に耳を近づけると、その声が聞こえるということは後になって知りました。右は「蜂の巣(벌집)」とよばれた2、3坪ほどの狭い部屋。
 生活体験館の地下には、そんな部屋が並んでいます。
  
 貼ってあるポスター、置かれている本やギター等々によってその部屋の住人の人となりがうかがわれます。
 この生活体験館を出る時、ポラロイド写真を撮ってくれました。我々に1枚ずつくれて、1枚は館内に貼られます。
 またハンディな本を1冊無料でいただきました(左)。衿川(クムチョン)区が発行した「G밸리시간사전99(Gバレー時間事典99)」で、目を通してみると九老工団やこの地域に関する99のキーワードを説明したなかなか良い内容です。Gバレーとは九老(Guro)のGとシリコンバレーのバレーを合成したもので、近年のゲーム産業等デジタル団地化推進を象徴する言葉になっているようです。九老デジタル団地近くに九老Gバレーモールもあるし・・・。また九老工団駅が2004年九老デジタル団地駅となり、その翌年には加里峰駅が加山デジタル団地駅に改称されたのもこのような変化を物語っていますね。

 ・・・というわけで、現地でいろんなことを知り、また新たな興味をかきたてられた1日でした。・・・じゃない! まだ半日残ってるよ~!
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中高生の校外学習のような(?)3泊4日のソウル旅行② 1日目(後半)=安倍首相とのかすかな接点(??)

2016-12-09 23:14:46 | 韓国旅行の記録

 私ヌルボのこれまでの韓国旅行と比べると、今回の旅は泊まった所といい食べたモノといい、ちょいと、いや、かなりゼイタクでしたねー。時にはこういうこともあっていいでしょう。いつもだとそれが当たり前になって感動が薄れるし、何よりも先立つものの問題もあるので・・・。今回のタイトルの「安倍首相云々」は、こう書くと少し訪問者が増えるかな?という魂胆でつけたもので、さほど大した意味はありません。乞御期待の反対。

○11月25日(金) 後半

 昼食も食べず午後3時近くまでデジタルメディアシティ辺りを歩き回った私ヌルボと畏友Y氏の2人。あまり腹が減っていないということで機内食がブランチだったと後付けで解釈し、そのままホテルへ。
        

 今回3連泊したホテルは乙支路4街(ウルチロサガ)のベストウェスタンプレミアホテル国都(ククト)という長い名前。しかし行ってみると表示はホテル国都だけでした。(上左) ここは以前は国都劇場という映画館(1999年閉館.上中)で、建物の横(南側)にある碑石(上右)には「1936年黄金座として開館した」とありました。  チェックインの時、「国都劇場の頃のものが何か残ってませんか?」と尋ねたら「残ってません」とのこと。ちょっと何か残しておいてほしかったなー。

 ・・・と、ここまで書いてボンヤリと思い出したのが初めての韓国旅行の時のこと。1992年8月です。
 で、その時持って行ったのが左の本。中野茂樹「植民地朝鮮の残影を撮る」(岩波ブックレット.1990)でした。この本に昔からの映画館の写真(右)があり、それを頼りに現地まで歩いて行って正面から写真を撮りました。映画館の人(?)だかに「何をしてるのか?」と問われましたが、そのページを見せてわけを話すと穏やかな表情になって何やら説明してくれました。今図書館でその本を確認すると「旧・黄金座 現・国都劇場」とあり、まさにここ。つまり24年前にも来ていたというわけです。しかし、その時の写真ははたしてわが家のどこに埋もれているのか?(笑)



 閑話休題。部屋で少し休んで午後4時30分頃再び外出。小さな電飾関係の店が集まっている大林商街を抜けて清渓川まで北に約5分。そして川に沿って西にどんどん歩いて行きます。


      
 振り返ると、何やら高く尖ったモノが見えます(上左)。→コチラの記事(韓国語)によると、2008年(?)に世運橋の上に建てられた<ソッテ>というモニュメントなのだそうですが、私ヌルボは今回初めて気づきました。三一橋近辺はこの頃何度も来た所。上右はベルリンの壁です。(→コチラの過去記事参照。この写真もその時(2015年4月)撮影。)

 当面の目的地は清渓川の起点のすぐ横、世宗大路に面した新聞博物Presseum
 私ヌルボ、10年以上前に1度来た時には東亜日報の社屋内にありましたが、今見るとビル自体が立て替えられていて全然様変わり。上右はいい写真が撮れなかったのでNAVER地図をチャッカリ加工したもの。中央の大きな東亜日報のビルの左の方に系列のTV局チャネルAがあり、その左手の古い建物が以前の東亜日報社屋=現イルミン美術館で、その5・6Fが新聞博物館になっています。(後で→ソウルナビの記事を見ると2012年にイルミン美術館に移転したとのこと。) なんとか入口は見つけ、何やら催し物があって若い人たちが群れている中、博物館があるフロアへ。ソウルナビには午後6時までとなっているのに、受付のおねーさんに確認すると5時30分。ということはあと10分! アララ、ということで早足で回りながら写真撮りまくり。まあたぶんこれからも何度も来そうな所なので、いずれゆっくり見ることにしませう。とりあえず展示のごく一部を紹介しておきます。
     
 韓国の近代的新聞の歴史(上左)の展示。1883年10月30日の「漢城旬報」から始まっています。そのちょっと後に10月の修学能力試験の「韓国史」の出題ミスでニュースのネタになった「皇城新聞」「大韓毎日申報」(上右)も展示されていました。時間があったら記事も読めたのに・・・。
          
 新聞に載った第事件あるいは新聞自体の事件。上左は1936年ベルリン五輪のマラソン優勝者・孫基禎選手の胸の日章旗抹消事件「東亜日報」が無期停刊を受けたことは(一部の?)日本の高校教科書にも載っていますが、「朝鮮中央日報」も日章旗を抹消した写真を掲載したのですね。(→参考記事。) 上左は1979年の朴正熙大統領逝去を伝える記事。逝去だけでなく、映画のタイトルにも使われた「有故(ユゴ)」という言葉が見出しに用いられています。上右は1986年の「金日成死亡」という大誤報事件。画像は11月17日付の「ソウル新聞」ですが、→コチラの「ハンギョレ」の記事によると16日付の「朝鮮日報」をはじめ各紙が国防部報道官の発表のままに一斉に報じたとのことです。日本でも17日夕刊で「金日成主席 死亡説流れる」から18日夕刊の「金日成主席 姿見せる」まで大きく報道されましたが、事実として報道された韓国紙とは違って距離を置いた書き方でした。(・・・が、どれだけ今の日本人の記憶に残っているのかな?) 誤報の原因とその背景等、今も興味深いネタですが、私ヌルボはそこまで深入りしてません。

 外に出るともう夕闇というかほとんど夜。次の目的地は畏友Y氏が見てみたいという日本大使館前の慰安婦少女像
      
 少女像はニットの帽子にマフラーとすっかり冬の装い。横のビニールテントは、昨年12月28日の日韓慰安婦合意の2日後(30日)から「合意廃棄、少女像撤去反対」を叫んで籠城を続けている学生たちのテント。暗くて適当な写真が撮れなかったので、その学生組織のFACEBOOK(→コチラ)から1週間ほど前の画像を拝借しました。掲示物(右画像)を見るとこの日で籠城332日目。彼らに話しかけたい気持ちを抑えて(??)そのまま次へ。

 ・・・と鍾閣駅の方向に向かいます。目指すは中央地図。各種地図の販売と、制作もしている地図の専門店です。3月に一緒に旅行した歴史研究者N氏に教わった店ですが、その時は入らずじまいで気になっていました。すでに6時を過ぎていましたが開いていました。
      
 上左の画像はDAUM地図から加工。パンのチェーン店トゥレジュールの横の階段を上って2F。階段の両側に大きな地図が何枚も貼ってあります。入ってみると、オフィスの一角に店があるという感じ。なるほど、山岳地図その他いろんな地図があります。歴史的なものでは金正浩(キム・ジョンホ)作と伝えられる朝鮮時代の漢城地図「首善全図」、これは中央地図刊行で1万5千ウォン(だったかな?)。この店の紹介記事(→コチラ)には午後6時30分までとありましたが、訊いてみると午後9時までとのことでした。
 中央地図から出て、20mほど東に行くと、交差点の角に人だかり。信号待ちの人だけでなく、行列のできる店があるのです。
      
 看板に「공평동꼼장어(公平洞コムジャンオ)」とあります。コムジャンオとはヌタウナギのこと。日本ではあまりなじみがありませんが、ふつうのウナギとはかなり違っていて→ウィキペディアには「厳密な意味での魚類ではない」と書かれています。目もないみたいだし(皮膚に埋もれている)、ちょっと以上にオゾマシイ姿。しかし→ソウルナビコチラの記事でも→コネストの記事でも口コミは至極好評。店の前で下焼きしていた店員さんに「今日は時間がないけど今度きっと来るから」と言って写真を撮らせてもらいました。(上右) ホントに今度行ってみようと思います。あ、コムジャンオのオゾマシイ画像は次の次くらいの記事で載せます。

 さあ、いよいよこの日のメインイベントだぞっ!・・・と向かったのはコムジャンオの店から近いセンターマークホテル地下の高級焼肉店・景福宮 寛勲店
 あ、気が急いて外観の写真を撮り忘れちゃった!(笑) 畏友Y氏の職場の後輩(ソウル勤務)という方との会食です。
      

 まず刺身が出てきて、次に焼肉。サルチサル(살치살)というのかな? つまり霜降りロース。気がついたら大方食べてしまった後で、写真(上右)は撮ったもののこれじゃよくわかりませんね。なお、ここでKloudビールというビールを初めて飲みました。最近人気とのことですが、たしかにこれまでの韓国ビールにはないコクがあります。後で→コチラの記事を見ると2014年4月ロッテ酒類から発売されて以来人気沸騰でその年のヒット商品にランクインしたとか。なんで今まで知らなかったんだろ? 盲点は数限りなくあるということです。
 このいつになくゴーセイなディナーをいただいた(ワリカン)のはけっこうなことでしたが、反省点としてはちょっと話にのめり込みすぎて料理をゆったりと味わう余裕を欠いていたことです。

 あ、ここで本記事の見出し「安倍首相云々」を思い出しました。つまり、1年前の11月2日安倍首相が来韓した折にここで別所大使等と昼食を共にしたということ。帰り際に店の人にそのことを話すと、その席に案内してくれました。
     
 日本語で「安倍首相の部屋」とあるのは、(ヌルボみたいな)日本人客を見込んでのこと? 上のリンク先の記事を見ると座椅子の背もたれにも「安倍首相の椅子」という金色のプレートが貼られているんですね。(笑)
 午後10時前に店を出て、長かった1日もあとはホテルに戻って寝るだけ。酔い覚ましに歩いて帰る途中、屋台の玉子パンに関心を示した畏友Y氏、1個買って食べ、発した「美味いよ!」の声に触発されてヌルボも1個購入。たしかに! 高級焼肉のお値段の数十分の1の1000ウォンの玉子パン1個でも十分シアワセになれるという真実を実感した次第であります。
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中高生の校外学習のような(?)3泊4日のソウル旅行① 1日目(前半)=閑散としていた朴正熙記念図書館

2016-12-06 18:08:35 | 韓国旅行の記録
 11月25日(金)~28日(月)、今年3度目の韓国旅行。
 最初の3月25日~4月1日(7泊8日)は元同僚の韓国史研究者氏等の3人組で初めて蔚山へ。それもクジラ博物館等観光ポイントも行きましたが、メインは研究者氏の現地調査・史跡踏査のお供。(旅行の記録記事(→1回目)は蔚山の前で止まったまま・・・。)
 次は6月14~18日(4泊5日)でいつものサークル仲間5人組で全州方面へ。以前から行きたかった馬耳山(マイサン)に行ったり、ソウルでは初めてドラゴンヒルスパに行ったりカルメギ肉を食べたり。酒浸りはいつも通り。(旅行記録は全然書いてないです・・・。)

 そして今回の旅は、ガラッと趣きを変えて・・・。なんというか、韓国の中高生の社会見学か、日本の大学ゼミのフィールドワークといったところかな? ともかくマイナーな資料館をいろいろ回ってきました。

 コトの初めは半年ばかり前に学生時代のクラスメート、畏友Y氏からの電話。(※「畏友」は枕詞のようなもの。1度こういう言葉を使ってみたかったので・・・。) つまり「一緒に韓国に行こうよ」との誘いだったのですが、どうもアルコールが入っているようにも聞こえた(?)のでホンキ度にやや疑念もなきにしもあらず。いや、年賀状にも韓国に行こうと書かれてたな。その後日程や行先等を詰める段になって、むしろ彼のホンキに私ヌルボが背中を押されることになり、おかげで3泊4日ソウル限定の旅でしたが、この数年行きたいと思ってきた懸案の所を何ヵ所も回ることができました。
 なお、施設見学以外にも、たまたまあの26日(土)夜の大規模デモも真っ只中で体験(観察?取材? 体感?)することができ、また美味しいものもいろいろ食べたりもしてきました。

 以下、4日間を各日前・後半に分けて全8回の記事にまとめる予定です。

○11月25日(金) 前半

 「アシアナ機はマッコリが飲めるよ」との情報提供をしっかり覚えていた畏友Y氏。さっそくククスンダンの缶マッコリを注文。私ヌルボは前夜ほとんど寝てないのでボーっとしたまま金浦に到着。
 まだ滑走中の機内から外を見ると、(西方)はるか向こうに小高い山が・・・。あの上からの景色は良さそうだなと思い、あとで調べると桂陽山(ケヤンサン)という山。高さ394mで、仁川市の最高峰とか。→コチラのブログ記事は日本人オンマと息子さん&娘さんのほほえましい登山記録。写真を見るとたしかに良い眺め。私ヌルボも登ってみたくなりました。(これも思うだけで終わりか・・・?)
 ※→コチラの記事によると、初期百済山城で石塁が残っているとか。
 金浦空港から空港鉄道に乗り、最初の停車駅デジタルメディアシティで下車。タクシーで、ちょっとソウル日本人学校に寄って・・・、あれ? 今回も人気無し。受付にいた警備員氏に何かパンフのようなものはと訊くと何もないとのこと。訪問者は事前予約制とも。まあそうでしょう。移転前の2004年には暴漢の襲撃事件(→コチラ参照)も起こっているしなー。

 そしてこの日午前の第一目的地・朴正熙大統領記念図書館到着。大きくキレイで、リッパな建物です。

 展示館の入口まで階段を上っていきますが、その前に置かれている車2台。 
    
 各地に視察等で出かける時に乗ったジープと、1968~79年平素または行事の際に用いていたメルセデス・ベンツ600。

 展示館の中に入ると、1961~79年の年譜に始まり、写真や映像資料、模型等々が一杯。
     

 展示の基本的なコンセプトは、朴正熙時代の産業の発展、国民生活の向上を称揚するというもの。
      
 カツラの製造(左)や縫製工場(右)で働く女性労働者たち。奥の壁には「輸出だけが生きる道だ」とか「世界1等になろう」といったスローガンが掲げられています。

     
 京釜高速道路が開通し(左)、蟾津江(ソムジンガン)ダム昭陽江(ソヤンガン)ダム等々多くのダムが造られ(右)、インフラも整備されていきました。
 壁面に大きく、100億ドル輸出(1977)、1人当たりGNP1000ドル(1978)、平均経済成長率8.9%等といった数字で当時の韓国の発展を示しています。53.0%という大きな数字は中産層の比率(1977)です。

 さて、ここでこの朴正熙大統領記念図書館の開設の経緯と現況について。
 私ヌルボがちょっと知っていたのは、進歩系の朴元淳(パク・ウォンスン)市長が就任してほどなくこの施設をめぐって論議が起こっていたこと。で、それ以前のことからちょっと調べてみました。
 元はと言えば、この施設の発端は1999年にさかのぼります。金大中大統領が「歴史和解」を掲げて朴正煕記念館建設支援の意思を明らかにした中、朴正煕大統領記念事業会(朴正煕記念財団の前身)がソウル市に敷地サポートを求め、当時の高建(コ・ゴン)市長がこれに応えて開発計画が進められていた上岩洞の敷地提供を決定しました。しかし建設に反対する進歩系の民間団体や市民も多く、「朴正煕記念館反対国民連帯」を結成して反対運動が展開され、結局朴正煕記念財団がソウル市から無償で提供された市有地にこの記念図書館を開設したのが2011年11月。しかし、ソウル市と財団間の協約では展示館だけでなく公共図書館も併設するとなっていたのに財団側は市側が図書館運営費をサポートしていないという理由で図書館のスペースを閉鎖したままで展示館だけ開館しました。
 ちょうどその頃朴元淳氏が進歩勢力の期待を受けて市長になったこともあってこの施設の運営等について論議が起こり、とくに「独裁者の記念館より公共図書館を優先すべきだ」との声が高まりました。ところが、そこでソウル市が取った措置は、無償で提供してきた市有地の財団への売却というもの。まあ市としては独裁者賛美施設の支援はしないということでしょうが、公共図書館開設を要求していた進歩陣営からは批判の声も上がったようです。
 私ヌルボ、この2日後に聞いた話では、記念館側は宣伝はしないとか、学校は校外学習等の団体見学はしないとかの取り決め(?)はあるそうですが・・・。

 一方、「自分たち国民の生活を向上させてくれた」と感謝している人たちも大勢いるわけです。元毎日新聞記者の下川正晴さんも1975年慶州の仏国寺で日本語のできるおじいさんから「この大統領のおかげで大韓民国は飯が食えるようになったんだ」という話を聞いた思い出を「私のコリア報道」で記しています。あ、ヌルボたち2人が来る時に乗ったタクシーの運転手さんもそんなことを言ってたなー。

 ・・・ということで、ここで70年代に入って展開されたセマウル運動関係の展示を見てみると・・・。
 

 セマウル運動によって大きく変わった農家のようすを5項目取り上げて、セマウル運動の前後を比較しています。
 
 左はセマウル以前、右が以後です。
 
 一番上は<電気>


 次は<住宅>
 藁葺きから瓦葺きに代わりました。

 3番目は<台所>
 水道があります。朴婉緒の自伝小説「あのスイバは誰が食べつくしたのか」(翻訳書「新女性を生きる」)には、1930年代京城の峴底洞(ヒョンジョドン.西大門方面)には水道がなく、天秤棒で水桶を担いだ水売りから買うか、下の平地まで階段を下って共同水道の水を汲んでくるがしたとあります。社稷洞(サジクドン)の親戚の家には水道があったので、京城市内でも所によるということでしょうか。

 その下は<食卓>
 おかずが多彩になってきて、魚や肉を食べる回数も増えてきました。

 一番下はトイレ。屋外の、地面に穴を掘ってむしろで囲っただけのおよそ前近代的だったものが、見た目にも清潔な個室になりました。


 セマウル運動は、その後都市や工場にも拡大されましたが、それらについては省略。
 ※セマウル運動が北朝鮮の千里馬運動を意識したものであろうことは推定されるところです。また、→ウィキペディアによると源流は1930年代に朝鮮総督府の宇垣一成総督が進めた農村振興運動とのことです。

 右はベトナムに派兵された白馬部隊の歓送式の光景ですが、これらベトナム派兵や、映画「国際市場で逢いましょう」等で描かれたドイツへの鉱山労働者・看護婦の派遣の展示については省略。
 
 教育についても興味が持たれるところですが、展示室内ではなく、出口に近いあたりに掲げられていた国民教育憲章の写真だけ貼っておきます。これをテーマに記事を書こうと以前から思いつつ、書かないまま今に至っています。この日本語訳は→コチラのブログ記事参照。


 最後に、朴正熙大統領の遺品、そして家族写真が展示されていました。
         
 ユンノリ(韓国の双六)を楽しんだりしてます(左)。アラ、朴正熙はピアノを弾けたのか?

 以上、12時30分から1時間あまりかけて見て回り、別棟の記念品売り場へ。それにしても、なかなかリッパな施設にしては客が少なかったなー。10人も見かけなかったような気がします。
 そこで買ったのがこのストラップ(2000ウォン)。あ、これ2つではなくて同じものの裏表で、片面が朴正熙、反対側が朴槿恵の肖像になってます。
 ※このストラップのことは11月10日の毎日新聞夕刊掲載・鈴木琢磨記者の「拝啓 朴槿恵大統領 韓国よ、どこへ」という記事(→コチラ)で知りました。朴正煕大統領記念図書館については「立派な施設で、父上の栄光の足跡をたどるテーマパークのようです」と書かれています。
 ※朴正熙記念図書館の公式サイト(韓国語)は→コチラ。ソウルナビにも紹介記事があります。→コチラ

 記念品売り場でナツメ茶を飲んで、外に出たのが午後2時過ぎ。
 ここの前の道の西の方、つまり漢江の方角の少し離れた所に平べったい形の小高い丘が見えます(右画像)。
 以前この近くのワールドカップ競技場に来たことがあるという畏友Y氏の話では「あれはゴミの山」とのこと。競技場の地はそもそも蘭芝島(ナンジド)ゴミ埋立地があった所で、1970年代からソウル中のゴミが集積され埋め立てられた所ですから、あれだけの高い山ができたというのもうなずける話です。

 記念品売り場のアジュマの「駅まで歩いて10分くらい」という言葉は間違いだったことが後でわかりましたが、歩いたことでまた新たな発見があったのは収穫でした。
 
         
 上左はCJ E&Mセンター(→ソウルナビ)。韓国映画ファンにはおなじみの大手配給会社CJエンターテインメントの施設で、Mnetの音楽番組「☆M countdown」の収録スタジオがあるそうです。同じく歩いていて目に留まったのがプレスセンターの新築工事現場。これについての情報は未確認。上左は、過去2回行ったことがある韓国映像資料院。現在の特別展は「追憶の洋画チャップリン、ジョーズ、タイタニック」。そして映画館(シネマテクKOFA)では11月23日朝日ホールで観たばかりの「私たち」が上映されていました(上右)。

 もうひとつ初めて知ったのがMBCの新社屋とMBCホールの間の道(下左)。
          
 ここの舗道に、韓流スターたちの手形が押されたプレートが10枚以上はめ込められています。上中の画像はチェ・ジウ、右はスジですが、その他イ・ホンギ(FTISLAND)・エリック(神話)・等々。
 私ヌルボ、帰国後知ったのですが、MBCの社屋内には2015年9月オープンしたMBC WORLDという韓流テーマパークがあって、コネストの紹介記事(→コチラ)によると「韓流ファン必見のポイント」なのだそうです。元々韓国ドラマにはあまり詳しくなく、このところKPOPからも遠ざかっていることもあって全然知りませんでしたねー。

 というわけでデジタルメディアシティ駅に戻り、ホテルに直行。以下は②に続きます。
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韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録⑦ 5日目(後編)=とことん過酷な博物館巡り(涙)

2016-05-02 20:47:25 | 韓国旅行の記録
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録① 1~2日目=国立外交院、徳寿宮周辺等
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録② 3日目=「あの」島と、仁寺洞の有名なマッコリ酒場
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録③ 4日目(前半)=ソウル大学校を散策(?)
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録④ 4日目(後半)=広大なソウル顕忠院を散策(??)
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録⑤ 5日目(前編)=釜山の40階段がこんなに短い階段だったとは!
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録⑥ 5日目(中編)=偶然目にした韓国独自の球技の名は?

 行く先々での見落とし・見過ごし・見逃しが何度あったことか。すべて後の祭り。今回の記事もまた同様です。やれやれ。

○3月29日(火) 午後1時30分~

 昼食をはさんで、臨時首都記念館の次にY氏と私ヌルボが向かったのは朝鮮通信使歴史館。地下鉄でトソン(土城)駅からチャチョン(佐川)駅へ。と、ここからしてすでに間違い。朝鮮通信使歴史館については、→公式サイト(日本語)をはじめ、→プサンナビや→トラベルJPといった懇切な記事がありますが、どれも最寄駅はポミル(凡一)駅となっています。佐川駅からは直線距離は同じようなものの、線路を跨ぐ道路(子城路.チャソンノ)に上がったり、歩道橋を渡ったりしなければなりません。その間違いのモトはN氏が持参していた「地球の歩き方」。佐川駅周辺と凡一駅周辺の地図が別々になっていて、朝鮮通信使歴史館は前者にしか載っていないのです。またその間違いに気づかないまま「地元の人はどうしてるんかな?」とチラとは考えたものの、帰途も同じ佐川駅に行ってしまったのが間違いその2でした。凡一駅だったら階段を上り下りすることはなかったし、凡一駅方面の市場や店等も見られたのに・・・

     
  自らの間違いにも気づかないままたどりついた釜山鎮支城(子城台.チャソンデ)西門(左)と、釜山鎮支城の案内図(右)。
 間違いその3は、案内図右下の=西門から右上の=朝鮮通信使歴史館まで最短距離を歩き、帰りはまた同じ道を戻ったこと。つまり子城台公園の内部は行かなかった!のです。私ヌルボ、1992年に1度来たことはありますが、当時は歴史館はなく、現在は当然ようすが変わっているはずなのですが・・・。
 子城台は、文禄の役(壬辰倭乱)で日本軍が釜山鎮を陥落させた後の1593年に、毛利輝元がその東南側に支城として築いた城です。[問1] この地の戦いで指揮を執った武将の名は? 加藤清正と先鋒を争い、平壌まで攻略したキリシタン大名で、ジュリアおたあを連れ帰った人物でもあります。 [答]→小西行長
 ※たまたま最近読んだ卞宰洙(ピョン・ジェス)「朝鮮半島と日本の詩人たち」(スぺース伽耶)という本に鈴木比佐雄という詩人の「子城台の春」という詩が載っていました。その全文は→コチラ参照。

     
 西門から歴史館に行く途中に展示されていた1905年の子城台の写真。説明文によると、「1895年の乙未改革以降釜山鎮城は機能を失い、崩れ落ちた建物に代わって民家が城内に入ってきた姿が見られる」とのこと。民家の藁屋根の重なりが異様な感じです。ただ、→コチラの記事(日本語)には大勢の人々の姿が写っていて、「釜山鎮市場の賑わいが分かります」という説明がついています。当時の城の領域は現在よりずっと広く、現在の子城台公園はこの写真の奥の丘のあたりだけになっているので、手前の民家が密集している所は公園のずっと西側の釜山鎮市場一帯ということなのですね。
 画像上右は1876年当時の海岸線と子城台周辺の歴史遺跡地図。とくに注目は子城台の北の広大な黄土色の部分。1917~19年凡一洞一帯に建設が進められ、21年に操業を開始した朝鮮紡織の4万8千坪(約16万㎡)にも及ぶ敷地です。朝鮮内での木綿栽培・綿糸の生産と販売を行っていた三井系の大会社です。数千人もの女性労働者が働き、昭和前期には労働争議も起こったりしましたが、日本の敗戦後は韓国に引き継がれました。
 ※朝鮮紡織については→コチラの記事参照。
        
 1968年朝鮮紡織はなくなりました。しかし今も<朝紡路(조방로.チョバンノ)>という道路名が残っています。上左の画像の地図中赤い線で示した道がその朝紡路で、昔の朝鮮紡織の敷地を斜めに貫いています。(緑のは子城台公園。) 「ああ、それで」と後でナットクしたのが、この近辺(釜山鎮市場一帯)で衣料関係の店がたくさん目についたこと。上中の画像は衣料関係の露店。上右は、チマチョゴリの色合いが気に入ったので撮った結婚式用の貸衣装店のショーウィンドウです。
 ※釜山名物の1つナクチポックム(タコ炒め)の伝統店の店名にも「チョバン(조방)」の字が用いられたりしています。「元祖」の店も凡一洞にありす。(→コチラ参照。)

 うわ、まだ歴史館に到達していないのに、もう書き過ぎ! 後は駆け足で・・・。
     
 朝鮮通信使歴史館(上左)。こじんまりとした建物ですが、興味深い展示物がいろいろ。しかし、研究者N氏の言の通り江戸時代の通信使に限定されていること。15世紀前半(世宗の時)に始まる前史の部分は抜けているのはたしかに問題。日本で朝鮮通信使のことは知っている人でも、その多くは「江戸時代の・・・」と思っているのではないでしょうか?
 上右は、朝鮮内の通信使の経路。漢陽→忠州→( X )→安東→永川→密陽→釜山[問2] ( X )に入る地名は? 鳥嶺(새재.セジェ)という険しい峠がある要害の地で、ソウルと釜山を結ぶ直線のほぼ真ん中(少しソウル寄り?)に位置する都市です。 [答]→聞慶(ムンギョン) →コチラの記事参照。私ヌルボも3年前に行ったことがあります。
 次に日本に着いてからの通信使一行を描いた絵を2つ。
 「朝鮮通信使御座根船図屏風」。大坂に着いた通信使一行は、幕府が用意した川御座船に乗り換えて淀川を上ります。
 朝鮮人街道を行く朝鮮通信使一行。将軍専用の道とされ、参勤交代での大名の使用も認められていなかった道でしたが、将軍以外では朝鮮通信使だけが通行を認められていたため、「朝鮮人街道」と通称されるようになった道です。[問3] この朝鮮人街道は何県にある? [答]→滋賀県 この絵図は円山応雲が描いた琵琶湖図」(1824)。場所は現在の大津市石場付近とのことです。

     
 朝鮮通信使の一行の中で、日本人たちの間でとくに人気があったのが馬上で逆立ちをしたり横になったまま早駆けしたりといった曲乗りをする( Y )で、それを行う人を( Y )人といいました。上左はそれを描いた絵で、右は金属製の像です。[問4] ( Y )にあてはまる言葉は? ヒント:「馬上〇」。〇は漢字1文字です。 [答]→馬上才 そういえば、以前紹介した辻原登「韃靼の馬」(→コチラ参照)にも出てきましたね。

 朝鮮通信使歴史館の次は、・・・え、また博物館だって!?
     
 釜山博物館は、地下鉄テヨン(大淵)駅から歩いて10数分。着いた時刻が午後4時10分前。もう十分に疲れています。
 展示は先史時代から現代まで。その他民俗関係等々の展示室もあります。おおよその紹介は→プサンナビに任せます。

     
 展示物の中でちょっと気になったのが上画像のタル(仮面)タルチュム(仮面舞)で用いられるものですが、この顔に斑点のあるものはムンドゥンイの面。右の画像にあるようにハンセン病者です。彼らを芸能の中で取り上げる問題については→過去記事で書いたことがありますが、韓国では現在でもとくに問題とはされないのでしょうか?(こうした展示も含めて。)

     
 近代に入ると、私ヌルボの興味・関心を引く展示物がいっぱい! 「日帝強占期の教科書」(左)は、上左の「帝国讀本」等々読んでみたい・・・って、あ、「日本教科書大系」に入ってますね。(と、今ちょっと読んでみました。(at 図書館。内容はいずれ。) 上右は「사정한 조선어 표준말 모음(査定した朝鮮語標準語集)」というハングルの正書法のテキストです。右画像は1920年代の釜山駅の模型です。 

        
 なんといっても、ヌルボの大きな関心事は映画関係。上右の国境」(1939)崔寅奎(チェ・インギュ)監督の監督デビュー作。左のソンファンダン」(1939)と右の巨鯨伝」(1944)という方漢駿監督の2作品については、今→ウィキペディアて初めて見ました。
     
 左は李銘牛監督「洪吉童伝」(1936)洪吐無監督薔花紅蓮伝」(1936)のポスター。右は「洪吉童伝」の撮影風景です。
 [問5] 「薔花紅蓮伝」の原作は薔花(チャンファ)と紅蓮(ホンニョン)の姉妹と継母の間の葛藤を描いた朝鮮の伝承物語です。これを現代に翻案してイム・スジョンムン・グニョンが姉妹を演じた2003年公開の韓国映画のタイトルは? [答]→「箪笥」 オタクっぽい問題だなー。
    
 左は1930年代初めの映画「守一(スイル)と順愛(スネ)」の一場面。右は映画ではなくて、有名な舞踊家崔承喜(チェ・スンヒ)の公演のポスターです。
 [問6] 「守一と順愛」は、大変有名な日本の演劇を翻案したもので、韓国でも韓国併合直後の頃から現代まで演劇・映画で親しまれてきました。では元になった日本の演劇作品のタイルは? [答]→「金色夜叉」 →コチラの過去記事参照。これまたオタクっぽい問題です。

 この日も重いバッグを持ってあちこち歩き回り、疲れました。ところが翌日も翌々日も朝早く起きてスケジュールぎっしりの1日になるのです。しかも、その2日間が今回の旅行のメインとは・・・。ここまでの5日間だけでも十分すぎるほど過酷だっのに・・・。

 ふー、やっと3月29日の分がおしまい。今回の記事を仕上げるのもけっこう過酷でした。(涙笑)
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韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録⑥ 5日目(中編)=偶然目にした韓国独自の球技の名は?

2016-04-22 23:58:48 | 韓国旅行の記録
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録① 1~2日目=国立外交院、徳寿宮周辺等
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録② 3日目=「あの」島と、仁寺洞の有名なマッコリ酒場
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録③ 4日目(前半)=ソウル大学校を散策(?)
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録④ 4日目(後半)=広大なソウル顕忠院を散策(??)
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録⑤ 5日目(前編)=釜山の40階段がこんなに短い階段だったとは!

 このシリーズ。①では2日分を書き、②では1日分を書きました。③からは1日を2回に分けて書き、今回もそのつもりでしたが、写真をたくさん入れることにしたため、1日を3回に分けることにしました。どんどん進行が遅くなっています。しまいには1時間刻み? いや、そんなことはナイジェリア(笑)。

○3月29日(火) 午前11時~午後1時30分

 この日の移動は地下鉄以外タクシーにもバスにも乗らず。坂道の多い釜山の街を歩き回りました。
    
 総選挙の投票日(4月13日)間近とあって、ビル側面にも大きなポスターが。(左) 青色は野党=共に民主党のシンボルカラーです。右の赤色の横断幕は与党=セヌリ党。 [問1] 左の大きなポスターでという数字は何を意味していますか? [答]→比例代表での、各政党に割り当てられた数字。 韓国の投票方式について書いた→コチラの過去記事を参照のこと。

    
 たくさんの本を抱えた青年像は若き日の私ヌルボの姿そのもの。(←ウソです。) 宝水洞(ポストン)の古本屋街(右)はそこからすぐです。ここに来たのは2度目ですが、今回は素通りしただけです。

     
 富民(プミン)サゴリ(十字路)の角地にある東亜大学校富民キャンパス。電車が置かれていますが、1968年まで釜山市内を運行していた路面電車の車両。→韓国ウィキペディアによると営業開始は1916年とのことてす。なお、この展示車両については→コチラのブログ記事に詳しく記されています。
 この東亜大学校富民キャンパスについては、(あの「嫌韓流」の)山野車輪「韓国のなかの日本」に少し書かれていました。

 あ、晋州のの字がになっちゃってるゾ。[問2] 現在の慶尚南道庁舎がある都市は? [答]→昌原(チャンウォン)
 帰って来てから知りましたが、→コチラの記事によるとさんは6年半前にこの大学の博物館に行ってるのですね。ヌルボたち2人は残念ながら素通りしてしまいました。それにしてもさんはソウル大学校・顕忠院等々、今回ヌルボが初めて行った所(&今後行きたいと思っている所)はほとんどすべて行かれているようですね。

     
 東亜大学校の南側の道路(臨時首都記念路)にも、昔の釜山を偲ばせる壁画や造形物が点在しています。[問3] 上右の画像の少年は何をしているのですか? ヒント:前に置かれた円筒形の物は煉炭コンロです。 [答]→カルメ焼きを作っている。

 最初べっこう飴かと思いましたが、重曹を入れているので・・・。日本でも(昔の?)子供たちにとっては懐かしさを感じる縁日の必須アイテム(・・・かな?)ですが、韓国の年輩の人たちも同様のようで、→コチラのブログに右のような画像がありました。
 韓国語では「달고나(タルゴナ)」と言いますが、どの韓日辞典にも載っていません。※釜山では쪽자(チョクチャ)というそうです。また「똥과자(トンクァジャ)」=糞菓子(!)という呼称もあるとか。→コチラの記事(韓国語)の筆者はタルゴナという言葉は最近まで知らず、昔から用いていたのはトンクァジャだったとのことです。
 湯島天神のプロが(ガスコンロで)作っているのを撮った動画は→コチラ。なお、韓国では画像検索してみると(→コチラ)抜き型で☆や♡等の形にすることが多いようです。

 上のネタに深入りしすぎました。東亜大学校からほどなくして本来の目的地に到達。
     
 臨時首都記念館です。この日も暖かい陽気で、サクラは一気に満開近くまで花開いていました。この建物は1926年竣工後ずっと慶尚南道知事宿舎でした。朝鮮戦争中臨時首都だった時期の1950年8月18日~53年8月15日の1023日間、慶尚南道庁舎(現・東亜大学校)が臨時政府庁舎になり、ここが李承晩大統領の官邸になりました。右の人形は彼のエラソーな雰囲気までよく表現していると思います。
     
 展示品もいろいろありましたが書類関係はとばします。上左は、朝鮮戦争当時の避難民児童の教育の場となった屋外の教場の模型。外に出ると、内庭に実物大の「避乱学校」がありました(右)。※韓国では、戦いを避ける場合、「避難(피난)」より「避乱(피란)」という語をふつうに用いるようです。
 そう言えば、上述の東亜大学校の正門近くに次のような少年の像がありました。机に向かって勉強をしている姿です。
     

 この像の背後にレリーフがあり、判りづらいですが大勢の子供たちが勉強をしている図のようです。前の机の下には「천막학교(天幕学校)」という字が見えます。つまり、これも同じく当時の学校の記憶を留めるため設けられたものなのですね。[問4] レリーフの左右は、ある書物の一部です。その書名は? ヒント:(読み取れないでしょうが)一番右の上の4文字が「世宗御製」で、続けて書名が書かれています。 [答]→「訓民正音」

 記念館の建物の外には、朝鮮戦争とその前後の釜山のさまざまな風景写真が展示されていました。興味深い写真がたくさんある中で1枚だけ紹介します。
     
 左上、現在のコモドホテルの北西方面の山腹に広がるヨンジュ洞の「판자촌(パンジャチョン.板子村)」です。低所得者層の居住地。「달동네(タルトンネ.月の街)」という言葉もありますね。右上はその판자집(パンジャチプ.板子家)すなわちバラックを再現したもの。
 釜山のタルトンネと言えば思い出すのが昨年暮れに観た韓国映画「青春双曲線」(1956)。当時の釜山の景観が如実に映されていました。その全編は→コチラで視聴できますが日本語字幕ナシ。別に<영화 청춘쌍곡선으로 본 옛 부산(映画「青春双曲線」で見た昔の釜山>と題したニュース動画があったので貼っておきます。
 
 片開きの跳ね橋・影島大橋が上がっている場面もありますね。あ、最近(2013年)47年ぶりにまた開くようになったそうですよ。(知らなかった。)→コチラ参照。
 ※「青春双曲線」と現在の釜山については→コチラに綿密な記事があります。
 ※ヌルボが記念館で見た写真のうの相当数が→コチラコチラのブログ記事にあります。
 映像資料もありましたが、なるほどと思ったのが釜山名物のミルミョンの説明。
     
 早い話が冷麺の仲間なのですが、朝鮮戦争当時冷麺の材料のジャガイモやソバ粉が手に入りにくかったので、アメリカからの援助物資だった小麦(밀.ミル)の粉を代用としたのが始まり。詳しくは→プサンナビの記事参照。

 気がつけばもう午後1時頃。記念館を出て、どこで何を食べるか思案しつつ、また坂道を下ります。すると目に留まったのが何やら球技を楽しんでいる若者たち。
     
 見るとボールを蹴っているのでちょっと見にはサッカーと思うかもしれませんが、バレーボールのようなネットがありますよ。[問5] この球技は何ですか? [答]→足球(족구.ジョック)
 韓国で始まった球技の上、歴史も浅いので、日本ではまだまだ知る人は少ないでしょう。ヌルボはたまたま昨年足球王」(→コチラ参照)という韓国映画を観て知りました。原則1チーム4名。サッカー同様手を使ってはダメ。1バウンドで返すのはOKで、3回以内に相手側に返す。歴史等、詳しくは→コチラで。

 東亜大学校近辺で、いろんなメニューがあって安い!チェーン店キムパプ天国が目の前にあったので入りました。Y氏、記念館で映像を見てきたばかりということで「ミルミョン!」と勢い込んで注文したのですが、店の主人は何やら言って、要するにダメ。ヌルボと同じ石焼きビビンバにしたんだっけな? [問6] なんでミルミョンは注文してもダメだったのでしょう? [答]→冷麺、冷やし中華のように基本的に夏の食べ物だから、まだやっていないのです。

 この日は、さらに博物館を2ヵ所回ることになりました。(涙)
コメント (2)
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韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録⑤ 5日目(前編)=釜山の40階段がこんなに短い階段だったとは!

2016-04-19 18:41:03 | 韓国旅行の記録
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録① 1~2日目=国立外交院、徳寿宮周辺等
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録② 3日目=「あの」島と、仁寺洞の有名なマッコリ酒場
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録③ 4日目(前半)=ソウル大学校を散策(?)
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録④ 4日目(後半)=広大なソウル顕忠院を散策(??)

 複数で旅をしていると、私ヌルボの歩みは遅れがちになってしまいます。根本原因は韓国語でいうところの숏다리(ショッタリ)ということなんでしょうが、この言葉について説明している→コチラの記事には、その利点(?)を「目の前の小さいことがよく見えることでしょうか」と記しています。
 歩くのが速い人を観察すると、A地点からB地点に移動する際、B地点にいかに早く到達するかということのみ念頭においているかのように、脇目も振らず前進する人が多いように思われます。
 ヌルボの場合は、上記ショッタリに加えて、街の看板等の文字を読んだり路傍の花とかに注目したり、またそれらを常時携帯しているデジカメで撮ったりしながら歩いているので、それもまた遅れる大きな理由になっています。A地点とB地点との間のもろもろも、いろんな<発見>があるということ。それもまた旅の大きな魅力です。

○3月29日(火) 午前7~11時

 この日も朝早くから行動開始。まずソウル駅へ。
        
 まだ6時少し過ぎ。朝食は駅構内のうどん屋で。例によってゴテゴテしたメニューが多い中、分量も具も日本人向きはほとんどこれだけ(?)といった感じのユブうどんを食べました。(左) ユブ(유부)は漢字だと「油腐」油揚げのことです。
 7時発のKTXに乗り込みます。毎度思うことですが、こんなレジでくれるレシートそのまんまの乗車券でいいのか? ポケットの中の他の紙屑と一緒にゴミ箱に捨てちゃったりする日本人はいないかな? (いるとしたら自分自身ですけど。) 最近はスマートフォンのアプリでも購入でき、紙発券も不必要になっているそうです。(うーむ、時代についていけそうにない・・・。) 不安といえば、改札口がない上、車内での乗車券確認もなく、到着駅でも下車してそのまま駅の外に出るだけ。タダ乗りしようと思えばできるような気もするのですが・・・。(乗務員が回ってきたらトイレに隠れるとか・・・。)

     
 9時45分釜山駅に到着。初めてこの駅に来たのは1992年。最初の訪韓で、関釜連絡船でやって来ました。釜山には2006年にも来ましたが、その時には鉄道は利用しなかったので、駅内に入るのは今回が2度目。とは言っても、最初の時は古くてうら寂しい駅舎でした。
 [問1] 上右は、駅ビル内で見かけた東西大学校のCM画像です。この人物の名は? (ヒント:有名な映画監督です。) [答]→林権澤(イム・グォンテク)
 後で調べると、東西大学校は2008年に彼を碩座教授に任命し、彼の名を付した林権澤映画芸術大学を創設しました。そして2013年3月に海雲台の東西大学センタムキャンパス内に林権澤映画博物館が開設されたとのことです。(→参考記事。)
 駅前広場も新しい造形物等がいろいろできてずいぶんようすが変わったのも当然です。が、変わってないなというところも散見されます。たとえば・・・。
     
 上左はアリランホテル。韓国に来て最初に泊まったホテルです。交通の便が良く、低料金なのが取り柄。今回のホテルはここではありません。上右は道路を挟んで駅正面の建物。「Sex Shop성인용품(成人用品)」とか「남성수술(男性手術) 비뇨기과 피부과(泌尿器科 皮膚科)」といった文字が目に入ります。

 中央洞のホテルまで1㎞足らずの道すがら、道路沿いのビルで目についたのが次のような掲示。
            
 「임대(賃貸)」の文字があちらにもこちらにも・・・。去年だったか、清潭洞(チョンダムドン)のようなソウルの一等地でもオフィスの空室が目立つといったニュースを観ました。昨2015年9月の「中央日報」の記事<韓国のオフィス空室率13%、金融危機以降で最悪>(→コチラ)によると、釜山の空室率は15~16%台とのこと。不景気によるオフィス需要の低落は深刻なようです。

 10時頃ホテルに着き、大きな荷物だけ預けてすぐ街に出ました。釜山については事前にあまり情報を仕入れていなかったので、この日のコースはすべてY氏にまかせることにしました。もう1人のN氏は韓国人の知人と会うため東大邱でKTXを下車。夜ホテルで落ち合う予定です。

 まず向かった先は、私ヌルボの要望を容れてコチラへ。ホテルから歩いてすぐです。
 40階段文化観光テーマ通り。朝鮮戦争当時の多くの避難民にとっての思い出の場所で、今世紀になって新しい観光名所となり、約450mの通りに往時を偲ぶ造形物がいくつも設置されました。

       
 40階段。もっと長く高低差のある階段となんとなく思っていましたが、実際に見るとなんともチャチな階段。考えてみれば「たったの」40段ですからね。ところで、→コチラの記事によると、「元々は1909~1912年頃、当時釜山に住んでいた日本人が二つの山を削って交通路を確保した際作られた階段」で、現在のものは「1953年11月に起きた釜山駅前大火災の際、南へ30メートル移動したもの」なのだとか。(現地の説明板の写真を後で見たらそんなことも書かれてました。)
 この記念碑の裏面(右画像)には「慶尚道アガシ(경상도 아가씨)」の歌詞が刻まれていました。「泣いて越える朴達嶺(울고넘는 박달재)」で有名な演歌歌手パク・ジェホン(박재홍)の1951年(←朝鮮戦争中)のヒット曲です。※この歌は→コチラ(YouTube)で聴けます。

 では、40階段文化観光テーマ通りにある路上造形物をピックアップして紹介します。
     
 アコーディオンを弾くおじさんと、子連れのおかあさん。男の子は素っ裸です。
       
 休憩するお父さんと、水を運ぶ姉妹。どうも男たちと比べると母親や女の子たちが忙しく立ち働いているようです。

       
 左は下に「부산정거장 거리(釜山停車場街)」と表示されています。反対側には20~30mほど線路が延びています。[問2] 上右のおじさんは何をしているのですか? [答]→ポン菓子を作っている。 「懐かしいですねー」という日本人は何歳以上? 説明板には「뻥튀기 아저씨(ポンティギ・アジョシ)」とありました。もちろん、これも日本語同様「ポン」と大きな音がするのでこう言うのですね。ヌルボの少年時代の徳島ではパットライスと言ってました。ただ、日本ではふつう米を膨らませたのに対し、韓国ではトウモロコシだったのかも・・・。この件についは、昨年10月に観た韓国映画「許三観」の感想記事(→コチラ)で少し書きました。

 次は40階段文化館に行こうということでしたが、場所は今ひとつよくわからず。
     
 40階段を上がった所でY氏がガイドブックでその位置を確かめています。(左)
 [問3] 背後の奇妙ならせん状の構造物は何? [答]→上の道に上がるための道
 文化館(右)にはたどり着いたものの、あいにく臨時休館でした。→コチラの記事(韓国語)の画像でおよその展示内容はわかりますが・・・。

     
  上記のらせん状の道を上から見たところ。なんとオートバイが上がって行ったりしてました! 人が乗ったままです。緩やかなスロープになっているので「車椅子でもOK」とのことですが、オートバイを走らせるのは危険でしょう。

 ここだけでけっこう歩きましたが、まだ11時頃。この日もまだまだ歩き続けます。


【往事の40階段】
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韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録④ 4日目(後半)=広大なソウル顕忠院を散策(??)

2016-04-15 23:15:17 | 韓国旅行の記録
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録① 1~2日目=国立外交院、徳寿宮周辺等
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録② 3日目=「あの」島と、仁寺洞の有名なマッコリ酒場
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録③ 4日目(前半)=ソウル大学校を散策(?)

○3月28日(月) 午後3~5時

 朝から昼頃までソウル大学校内の奎章閣にいて、学食での昼食後キャンパス内を散策。といっても、143万㎡という広大なキャンパスのごく一部を歩いただけでした。といってもけつこう疲れましたが・・・。
 ところが、ソウル大を出て次に向かった所は、なんと同じ143万㎡という面積の顕忠院(현충원.ヒョンチュンウォン)。そして、そこではソウル大よりもはるかに長い距離を歩くことになってしまいました。トホホ。

 そもそも顕忠院とは何かというと、早い話が国立墓地です。
 朝鮮戦争後の1955年この地に国軍墓地として創設され、軍人・軍務員が対象だったのが、その後1965年に国立墓地と改称するとともに殉国者や愛国者・国家功労者・警察等も追加され、そして1996年に現在の国立顕忠院に改名されました。
 [問1] この地が国立墓地の場所として定められた理由は?(漢字2字で。) [答]→風水 交通の便・広い敷地の確保・近隣の環境(集落がない等)・排水関係等々の諸条件もありますが・・・。冠岳山の麓の孔雀峰を背景に、北は漢江を見渡せる、「背山臨水」の良い地形=明堂(명당.ミョンダン)>というわけです。

     
 地下鉄・銅雀(トンジャク)駅のすぐ近く。門を入ると正面に噴水と大きな群像が・・・。(上左。) 忠誠噴水台・忠魂昇天像です。そのずっと奥に顕忠門が見えますが、案内図(上右)を見ればわかるように、そこまで行っても一番奥までの4分の1くらいです。
     

 顕忠門まで到達。この建物をメインに、毎年大統領以下政府要人と、多数の遺族が参列して顕忠日追念式が開かれます。[問2] その顕忠日は何月何日? ヒント:ゾロ目の日。 [答]→6月6日 関連過去記事は→コチラヨ・ジング等も参列して朴槿恵大統領からバッジをもらったりした2014年の式典についての記事です。

 この顕忠門の右に、大きな塔がありました。何かと思って見てみると・・・。
       
 おお、肉弾十勇士顕忠碑ではないですか! 説明板を読むと、1949年5月3日未明、(当時は韓国の領域だった)開城の松岳山地域の高地を北朝鮮軍が奇襲・占領したのだが、その翌日に陸軍第1師団11連隊所属の10人の勇士がそこを奪還するため爆弾を抱いて敵陣に向かって突進し壮烈に散華した・・・ということなのだそうです。朝鮮戦争勃発(1950年6月)以前にもそういうことがあったのですね。[問3] 私ヌルボ、以前同じソウルの別の場所で「肉弾三勇士像」を見たことがあります。その場所(施設)はどこ? [答]→戦争紀念館 これについても、以前記事にしたことがあります。→コチラ(画像あり。)
 周囲を見渡すと、何か儀式を終えて顕忠門あたりで解散式(?)のようなものをやっていた数十人の団体の他は、子どもを遊ばせている母親、散歩の(?)おばさん、写真を撮ってるおじさん等数えるほどしかいません。人口密度がヒジョーに低い所です。
 さて、ここからさらに奥へ。

     
上左の道標には臨時政府要人墓域・愛国志士墓域・警察墓域が↑で示されていますが、とくに前の2つははるか彼方。道のずっと無効に小さく見えている塔は大韓独立軍無名勇士慰霊塔です。上右は、その少し手前の独立有功者(独立運動に命を捧げた殉国先烈・臨時政府要人等)の墓域にある忠烈碑です。
 距離が長い上に最後の方はだんだん登り坂になってきて、もう十分疲れてしまいました。あとはとりあえず当初の予定通りエライ人たちの墓を見て回ることに・・・。

     

 入口すぐ右の建物でもらったパンフに載っている案内図。左はその全体図で、その最上部が国家元首墓域です。赤い点線の〇印が元大統領の墓地です。最初この地図を見た時、上が北かと思いましたが、全然方向違い。上は南西の方角になります。
 とはいっても、誰が見てもこの広大な国立墓地の中央の一番奥、つまり最上位の場所に位置しているのがもちろん「あの」元大統領の墓です。
     
 向かって左が朴正煕元大統領、右が夫人の陸英修女史の墓です。私ヌルボが訪れた時は、1人、次は2人といったように、少し間をおきながらも墓参りの人等が来ていました。右の画像は、墓の反対方向の眺めです。

 少し下った所に、次の元大統領の墓。
     
 2009年に亡くなった金大中元大統領の中。かつての仇敵・朴正煕とこんなに近い所に墓があるとは・・・。いろんなことを考えさせられます。
 この墓の近くにあるのが金大中元大統領への献詩「당신은 우리입니다(あなたは私たちです)」の詩碑。いやー、これはさすがノーベル文学賞候補に名前が挙がる詩人だけのことはあります。[問4] この詩人の名は? [答]→高銀(コ・ウン) 詩の原文は→コチラ、日本語訳は→コチラ参照。また、この詩には曲がつけられ、葬儀の場で歌われました。YouTubeで聴くことができます。(→コチラ。) この詩人は1980年金大中等とともに国家保安法違反で逮捕・投獄されたりもし、また2000年金大中大統領が訪北した時には詩人も同行し、現地で「大同江のほとりで」と題した詩を創作して大統領と金正日総書記の前で朗読したこともあります。(その詩は→コチラ参照。) それだけ縁の深かった詩人ということです。

 また少し下って3人目の大統領の墓。
     
 李承晩の墓。1965年ハワイで世を去り、ソウルでの家族葬儀の後、ほどなくしてこの地に安葬されたようですね。右画像はチェ・ヨンオクという女性による献詩碑。2012年の報道(→コチラ.韓国語)によると李承晩の47回目の追慕式に今88歳になるこの女性も参席したとのことです。ただ、詩の内容としてはあまりにフツーすぎるというか・・・。それよりも何よりも、李承晩を称える詩といえばごく最近(4月4日)「ハンギョレ」に掲載されていた→コチラの詩(韓国語・英語)の方がケタ違いにオモシロイ!です。日本語版は→コチラ

 ここまで3人の元大統領の墓を見て、国家元首の墓めぐりはオシマイ・・・と思ったら実はそうではありませんでした。後になって気づきました。韓国オタクとしては大変ドジな話です。[問5] とばしてしまった元大統領の名は? [答]→金泳三 上掲の案内図に載ってなかったしなー。亡くなって半年も経ってないから載ってなくて当然なのですが・・・。墓は3月に完成しているようです。場所は、案内図(拡大)の右の方の、<장군제3묘역(将軍第3墓域)>とあるあたり。ソウル大学校は見落としがいろいろあるだろうことは想定内でしたが、コチラのドジの方はショックでした。しかし、国家功労者墓域に国務総理だった許政や張澤相、国歌の作曲者・安益泰の墓があること等々も後から知ったし、その他にもいろいろあるようなので、そのうちここもまた行ってみるしかないかも・・・。
 ※このソウル顕忠院はもう墓を造る余地がなくなっているので、元大統領といえども場所が容易されている大田の顕忠院に墓を設けるのが原則のようになっているそうですか、金大中・金泳三の場合は家族の強い要望を容れて特例として認められたそうです。なお元大統領では朴正煕暗殺後に大統領になった崔圭夏(2006念逝去)が大田顕忠院に埋葬されています。

     
 そにしてもたくさんの、というよりおびただしい数の墓が360度広がっています。約6~7万(?)の墓の8割は朝鮮戦争の戦死者。そしてベトナム戦争の戦死者も多数あります。右のような視点で見ると、遠くに見える生きている者たちの街に対し、この一帯は死者たちの世界といった感じがします。
 愛国心涵養のためここに連れて来られた子供たちは、こういう景色を見て高揚した気持ちになるのでしょうか?
 ※①将官・兵士の墓域はそれぞれの地位に応じて割り当てられています。また墓の大きさも国家有功者・将軍=91㎝高、将校=76㎝高、兵士=60㎝高と規定されています。つまり、墓地もまた軍隊と同じ序列社会なのです。
 ※②それぞれの墓に供えられている花は造花です。(参拝の人はもちろん本物を供えるのでしょうが・・・。)

 もう夕方になったし、ぼちぼち帰るか、という時に目に留まったのが下左の青い掲示板。
       

 「護国兄弟の墓」という文字と、その説明が記されたいます。案内板にしたがって墓を探すと、すぐ近くに上右の2つ並んだ墓が見つかりました。
     
 墓の裏面を見ると、朝鮮戦争の時、兄は1951年5月高陽(コヤン)で22歳で戦死。弟は同年9月楊口(ヤング)で19歳で戦死。私ヌルボの感想としてはなんとも無惨な話。とくに母親の悲しみは察するにあまりあります。しかし、そういった心情も国立墓地に埋葬されるということが多少なりとも癒しになるのか・・・。
 あるいは、光州民主化運動のような闘いの正しさを国に認めさせ、そして国により犠牲者の名誉回復が実現した結果、戦い合った双方の犠牲者が国立墓地に埋葬されていることを「和解」と理解してはたしていものかどうか? 常に「犠牲」を求める「国」のフトコロにそこまで抱かれ続けたいの?という疑問が、ヌルボとしてはぬぐいきれないのですけどねー・・・。

 この日の夜はまた3人が合流。ヌルボの知り合いの韓国サラムの案内で世宗文化会館の裏手あたりの北朝鮮式マンドゥの店で晩飯。→コチラの店だったかな?

 3月25日(金)からこの日までの4日間で毎日約2万5千歩、計10万歩も歩いてしまいました。ふー。翌29日はKTXに乗ってソウルを離れます。

※顕忠院について、→コチラの記事はいろいろ勉強になるなー、と思って読んでいたら、いつもツイッターを愛読している神戸大の木村幹先生のホームページでした。
※たまにコメントを下さる青さんは<顕忠院ウォッチャー>と言っても過言ではない(?)方で、→コチラや→コチラ等々いくつもの興味深いブログ記事を公開されています。私ヌルボは今回初めて現地を歩いてみて、ウォッチャーになるには体力(脚力)が不可欠であることを実感しました。
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韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録③ 4日目(前半)=ソウル大学校を散策(?)

2016-04-10 23:23:00 | 韓国旅行の記録
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録① 1~2日目=国立外交院、徳寿宮周辺等

 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録② 3日目=「あの」島と、仁寺洞の有名なマッコリ酒場

 この旅行記録、まず全体を略述し、その後テーマごとの記事にまとめるつもりだったのが、すでにしてムリだと悟りました。略述の方が詳述より簡単なわけでは決してありません。何を書かないですませるかは、何を書くかと同じようにむずかしいということを実感しています。で、今回は1日分の記録も2回に分割することになってしまいました。

 旅行前半の3月25~28日は仁寺洞の格安ホテルに連泊。出発の前日たまたま神戸大・木村幹教授のtwitterを見ていたら、この格安ホテルは木村教授の常宿とのことで、それも3月21~23日宿泊していたのですね。(→コチラ参照。) 3月22日のツイートでは「なんだかんだ言ってソウルは落ち着く。アメリカの高級ホテルはもちろん、坂東よりも落ち着くのは何故だろう。」「昨日(?)までは他人の金で優雅にシェラトンだったのだけど、実はソウルの行きつけの安ホテルの方が落ち着くかもしれない。基本的に貧乏性である。」・・・とつぶやきつつ、くつろいで豚足を召し上がったようです。木村先生のこれまで読んだ諸論考もさることながら、「ソウルの行きつけの安ホテルの方が落ち着く」云々は私ヌルボ深く共感を覚えるところです。

○3月28日(月) 朝~午後2時過ぎ

 月曜なので休館の施設も多いことを勘案してこの日の行先を決定しました。ヌルボたち3人、この日も朝早く上記の格安ホテルを出て、地下鉄でソウル大入口駅へ。おりから通勤・通学の時間帯。途中の乗り換え駅・舎堂(サドン)駅等では連絡通路を走っている人が目につきました。急ぎ足などではなく、全力で走っているのです。(韓国人、パワフル!)
 で、3人はとりあえずソウル大方面に向かうバス停を見下ろすカフェで軽く朝食。下左画像、緑色のバスはマウルバスです。この写真を撮ったのは、車体側面の映画の広告が目に入ったから。チョン・ドヨンコンユ共演の「男と女」です。
     
 このマウルバス、わりと狭い区域を周る町内バスで、私ヌルボ、今までほとんど利用したことはありませんでしたが、今回は便利さを痛感しました。(→<ソウルナビ>の記事参照。) ・・・と言いつつ、3人組はタクシーてソウル大へ。(「ソウル大入口」といっても、ソウル大学校正門までの距離は2㎞近くありそうなので要注意。)
 上右のバスはタクシーから撮影。コチラはファン・ジョンミンカン・ドンウォン出演の「検事外伝」の広告です。

 これまで見た慶煕大や弘益大のような正門らしい門が見当たらないままいつの間にか大学の敷地内。後でわかったのが車でそのまま下をくぐった巨大なアーチ状の造形物。(上画像。) それが正門だったのですね。
 さて、ここで・・・。[問1] この造形物は何を意味していますか? (ハングルがわかる人限定の問題です。)
 [答]→ウル学校の子音ㅅ・ㄱ・ㄷを組み合わせた。 言われてみればそう見えますが、いかがなもんですかねー? うーむ・・・。

 さて私ヌルボ、わざわざソウル大学校まで行って何をしたかというと、①食堂でカレーを食べた。②トイレに入った。
 ・・・いや、3人の中に実は歴史研究者のN氏がいて、彼が下左の施設で史料(マイクロフィルム)のプリントアウトをするというので、ヌルボとしてはこの機会にいろいろ見物してこようと思って同行させていただいたというわけです。
     
 その施設の名称は奎章閣(규장각.キュジャンガク)。1776年正祖の時代に昌徳宮の敷地内に設立された王立図書館です。韓国の歴史ドラマでご存知の方もいらっしゃるでしょう。「イサン」とか・・・。[問2] 上右画像の面々が登場した韓国ドラマのタイトルは?
 [答]→トキメキ☆成均館スキャンダル あ、これは奎章閣じゃなかったか。原作のチョン・ウングォルの小説は、「奎章閣閣臣たちの日々」という続編があって、ともに翻訳書が刊行されています。つまりは、彼らのその後の就職先ということ。
 その朝鮮王朝時代の奎章閣が今はソウル大学校に受け継がれ、貴重な古文書等が所蔵・管理されているというわけです。
 「マイクロフィルムリーダーの数が限られているので早めに行って確保する必要がある」というN氏の言葉にしたがって9時15分頃入館したら、数台(5台くらい?)並んだその器械の先客は1人だけ。その後N氏が操作に手間取っていたら、その学生Kくんがカタコトながらちゃんと意味のとれる日本語で助けてくれました。後で訊いてみると、東洋史、とくに中国の宋・明時代について勉強しているとのこと。私ヌルボが驚いたのは、Kくんの口から西嶋定生先生の名前が出てきたこと。何十年も前、冊封体制や、ベトナムは中国・日本・朝鮮と同じ東アジア世界云々についての深い知識と洞察に初めて接した時のことを思い出しました。往事茫茫、まさかこんな所で・・・。

 昼食時になり奎章閣を出ました。N氏の丸一日はゆうにかかりそうな作業は館員の方にお任せして帰国の日に受け取ることにしたとのこと。
     
 いきなり[問3] はるか前方に見える山の名は? ヒント:ソウル大学校の所在地の区名と同じです。ここのキャンパスも〇〇キャンパスとよばれています。
 [答]→冠岳山(관악산.クァナクサン) 
 高さ629mとさほど高い山ではありませんが、奇岩なんかもたくさんあり、多くの市民に親しまれている山のひとつで、このキャンパスも登山コースの1つになっています。→コチラの韓国ブログの写真を参照されたし。
 また、足下に目をやると「THE PATH OF DEMOCRACY」と記された表示が。これについては後述。

     
 <ソウルナビ>の記事(→コチラ)によると、ソウル大学校の食堂は15ヵ所もあるとか・・・。3人が入ったのは奎章閣から近いチャハヨン食堂。フンイキは日本の学食とあまり変わらず。って、日本の学食もそんなに知ってるわけではありませんけど。(ずっと前中央大学多摩キャンパスの学食に初めて行った時は美味いと思ったが、今→コチラのランキングでは10位。) で、カツカレー(4000ウォンだったかな?)もわりとフツーの味。サニーレタスに最初からコチュカルがかかっているのはやっぱりなー(-_-;でしたが・・・。
 食事後、ソウル大学校を出てノーマルな観光&見学コースに向かうN氏・Y氏と別れて単独行動を選択した私ヌルボ。食堂を出てすぐ近くの池あたりを散策。

     
 先の食堂の名がなぜチャハヨン食堂かといえば、この池の名が紫霞淵(자하연.チャハヨン)だから。紫霞とは、この紫霞谷の地を愛した朝鮮後期の有名な文筆家・申緯(신위.シヌィ.1769~1847)の号で、上右画像の詩文標識石は2008年に設置されたものとのことです。(除幕式の記事は→コチラ。韓国語) 彼の漢詩や墨竹画も刻まれています。

 キャンパス内を歩いていると、記念碑のようなものがいくつか目に入ります。説明文を読むと、80年代の民主化闘争の過程で亡くなった学生がほとんどです。
    
 上は「朴鍾哲(パク・ジョンチョル)追慕碑」。過去記事(→コチラ)で少し書いたように、ソウル大言語学科の学生会長だった彼は、公安当局に捕まって電気拷問、水拷問などを受けて殺され、それが同年の<6月民主抗争>の導火線ともなりました。
     
 上画像は「キム・セジン、イ・ジェホ追慕碑」。この2人のことは知りませんでした。1986年米軍の軍事基地化に反対して焼身自殺をした学生とのことです。彼らの名には、「民族解放烈士」といった称号が副えられています。これ以外にも、上掲の「THE PATH OF DEMOCRACY」の案内図を見てみるといくつも同様の追慕碑があることがわかります。下画像はその拡大図です。
 実は私ヌルボ、帰国してからコレを見てアリャリャと思いました。というのは、奎章閣からわりと近い所に「4.19公園」があるではないですか! 四月学生革命記念塔がある所。また、2014年の「東亜日報」の記事(→コチラ)によると、ソウル大にはこんなに追悼碑が多いのに、なんで数百人はいたはずの韓国戦争(朝鮮戦争)で戦死した学生たちの慰霊碑がないのか?という疑問とともに、2015年6月までにソウル大生の戦没者の記念施設が造られることになったと報じていますが、それはどうなったのかな?
 あるいは、ある韓国のオジサン(?)の→コチラを見ると、上述の4.19革命記念塔の他にもソウル大学校博物館に行ったり、アラ、奎章閣内の展示品の写真も撮ってるでないの! 私ヌルボ、「中は撮影ダメだよ」とたしか言われたような・・・。いや、展示物とかがあったのかどうかさえ知りませなんだわ。
 しかし、興味を憶えた所を見て回るだけでもゆうに丸一日かかりそうです。見落としたからこそ次の所に行けたと考えればいいかも・・・。

 ここのソウル大のキャンパスはとても広いので、ただ歩くだけでも疲れます。また奥(南)に行くとだんだん登り坂になるし・・・。慶煕大の方が勾配はずっときつかったですけどねー。

 広さの比較です。ソウル大 143万㎡ ということは・・・・・
         東京大(本郷) 54万㎡ 都内ではこれより広い私学の( X ) 62万㎡
         よりもはるかに広いのです。[問4] ( X )に入る大学名は? [答]→国際基督教大学
 なお、ソウル大より広いのが筑波大(つくば) 260万㎡、北海道大(札幌)180万㎡などです。(実はもっと上があるのですが・・・。)

 午後2時過ぎ。今度は1人なのでタクシーには乗らず(ヘヘヘのヘ)、マウルバスでソウル大を出て次の目的地に向かいました。またまたやたら広くて、疲れる所です。
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韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録② 3日目=「あの」島と、仁寺洞の有名なマッコリ酒場

2016-04-08 14:41:54 | 韓国旅行の記録
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録① 1~2日目=国立外交院、徳寿宮周辺等

 4月1日に帰国した後、体の節々の痛みがなかなか抜けず、食欲もわかないのを、旅行中の歩き疲れや(あまり好きとは言えない)韓国料理のためと思っていましたが、どうも風邪のようです。急に寒くなったのに2日は元町公園に花見に行ったり、夜は大船でも飲んだりしてたからなー。まあ薬を飲んで早寝することにしますか。明日も飲む約束があるしなー。(^_^;
 旅行の間韓国は暖かな晴天続きでしたが、帰る直前TVの天気予報で<꽃샘추위>(花冷え)が云々と言っていたので、韓国もその後寒くなったのでしょう、きっと。
 ・・・とここまで書いて翌日になっちゃいました。

○3月27日(日)

 この記事の見出し。今韓国関係で「あの」島などというと竹島(独島)を思い浮かべる人が多いかも・・・。しかし、そんな島に行けるわけはありません。ソウルから日帰りの旅だし・・・。朝8時30分、新村駅近く、CGV新村の前のバス停から3000番のバスに乗って約1時間20分。1度も下車することなく到着した目的地は・・・。
     
 上左の画像だけでわかる人はわかるはず。(←当たり前) 支石墓(コインドル)です。
 上右の画像は説明がないとまずわからないですよね。××王朝の時、朝鮮半島にモンゴルが襲来しますが、××は松都(ソンド.開城の古称)からこの地に王宮を遷して抗戦します。1270年の講和までその間39年。この画像は外奎章閣といい、1782年正祖が王室関連書籍を保管するためにこの地に設置した王立図書館です。[問1]この島の名は? 
 [答]→江華島
 [問2]××王朝とは何王朝?
 [答]→高麗
 時代は下って19世紀半ば過ぎ。日本では幕末~明治維新期、この島はまた外国との衝突事件の主舞台になりました。
   
 島の南部の東側の海に面した広城堡(カンソンボ)と、草芝鎮(チョジジン)です。
1866年にフランス軍を撃退した丙寅(へいいん)洋擾、1871年アメリカ艦隊が襲撃し砲撃戦となった辛未(シンミ)洋擾の主戦場です。また1875年「ある国」の軍艦が接近した時も、この草芝鎮から砲撃が加えられました。[問3]「ある国」とはどこの国?
 [答]→日本
 なお、これらの戦跡は1976年に復元・修復されたものとか。昔のままというのは草芝鎮の樹齢約400年という松の大木です。

 ヌルボたち3人組は、北朝鮮を臨む島の最北端の江華平和展望台から上記のような島の南部まで効率よく回るため江華バスターミナルで貸切タクシーを頼みました。1時間2万ウォンですが、いい選択でした。しかし島の西方、渡し船に乗らなければ行けない普門寺は断念。昼食時間を切りつめるためコンビニでおにぎりを買って車内で食べる等したのですが、くまなく回ってグルメも楽しむとするとここで1泊しないとムリですね。
 さて、少なくとも日本人観光客はまず行かないのでは、という所が下画像。貸切タクシーだから行けたというわけです。
       
 高麗時代の文人政治家李奎報(イ・ギュボ)の墓。右の肖像画は、私ヌルホが以前訪問した彼の子孫の方のお宅で見せていただいた驪州(ヨジュ)李氏の族譜に載っていたものです。
 その族譜の表紙と、最初のページ。
       
 第4代目に李奎報の名があります。ちなみに、その子孫の方(1961年生まれ)は29代目です。<族譜>で画像検索するとわかるように、近年ではこのような<現代風>の形式のものが一般化しているようですが、このような横書きはまだ少数派かもしれません。

 江華バスターミナルに午後5時頃帰着。タクシーの代金は1人あたり4万5千ウォンだったかな?

 暗くなって仁寺洞にある格安ホテルに帰着。1人で近辺を散策したりアラディン中古書店に入ったりした後、午後8時半頃3人で近くにあるちょっと有名なマッコリ酒場に行ってきました。“名前のない店”で看板もありませんが、ふつう瓦斯燈(와사등.ワサドゥン)と呼んでいます。
     
 上左画像のように、洗面器にいっぱいのマッコリと焼いたホッケが出てきます。ハルモニが1人で立ち働いていて、右画像のようなでかい容器からジャボッとマッコリを汲んでいます。 ※愛読している犬鍋さんのブログ記事(→コチラ)にこの酒場のことがいろいろ記されています。ただ「ホッケのようですが,イミョンスという魚」とあるので、ホッケとばかり思っていた私ヌルボ、「임연수어」という言葉を辞典で引いてみると、「ホッケ」と出ていました。むしろそれがふつうみたいです。ただ、この店のメニューでは이갈비(イカルビ)となっています。
 2年前に初めて行った時は大勢の客がいましたが、今回は他に1グループだけ。ハルモニと少し話すと、店ができたのが1962年とのこと。→コチラや→コチラは2009年の記事(韓国語)ですが、この店や、ピマッコルの再開発で移転したヨルチャチプ(열차집)のこと等いろいろ書かれています。
    
 壁には数十年前からのラクガキが一杯! 日本語のものもあります。
     
 私ヌルボ、前回は2次会の上夜だったので店の場所がうろ覚えでどの路地を入るのかよくわからず。そんな時便利なのが<DAUM地図>。「와사등 인사동(瓦斯燈 仁寺洞)」で検索し、ロードビューを操作すると、上左のような画像が現れました。まさにココ! この金網の所の入口から入るのです。夜は右のようになるのですが、上述のように看板もないので知ってる人と一緒じゃないとまずわからないですね。仁寺洞通りの南側入り口からすぐの동양한지(東洋韓国紙)と올리브영(OLIVE YOUNG)の間の路地を道なりに少し歩けばたどりつけます。
 ※わりと詳しい日本語記事は→コチラ
 ※DAUM地図のロードビューについては→コチラの過去記事参照。なお、パソコンの画面は[Fn]+[F11]で丸ごとコピーできます。それを一旦Word(またはペイント)に貼り付けてから(JPEGで)「画像として保存」し、officeで開いてトリミングすると、
さも自分が現地で撮ったかのような画像になります。

 旅行中行った所が多いので、とりあえず略述するつもりで江華平和展望台や伝燈寺のことは省きましたが、それでもまだ長いようですね。(笑)
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韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録① 1~2日目=国立外交院、徳寿宮周辺等

2016-03-29 08:25:11 | 韓国旅行の記録
 今KTXの車中。3月25日午後からソウルに来ています。約1年ぶりの韓国旅行。今回は3人連れで、ソウル4泊→釜山2泊→ソウル1泊で計7泊の、私ヌルボとしてはわりと長い旅。
 当初の心づもりでは毎日簡単にでも日々の記録をアップするはずだったのがとてもムリ。今日まで連日2万5千歩(!)前後歩いたりしていて疲れている上、同行2名がフツーの時間に寝起きする人なので、ヌルボとしてもいつものように午前2時過ぎまでパソコンいじったりはできないので・・・。
 で、とりあえず旅行全体を上中下に分けて、代表的な写真だけピックアップして時間系列で並べることにしました。帰国後にテーマごとの記事を順次載せることにします。

○3月25日(金)

     

 アシアナは安くて機内食もなかなか良くて、韓国の新聞をまとめて私物化できるのがいいところです。「スポーツソウル」を読んでいて目に留まったのが左上の記事の見出し中の「태후」[問1]この言葉の意味は? 右の「東亜日報」の方を見ればすぐわかりますが・・・。
 [答]→ドラマ「태양의 후예」(太陽の後裔)の略語。日本題は「太陽の末裔」で、6月から放映されるとか。

     

 ソウル駅前からなんとなく正面(東)を見たら、ソウル南大門警察署の建物の上にバスを持ち上げている警察官の造形物が・・・。[問2]これは何をよびかけている?
 [答]→「校内暴力をなくそう。警察も力になります」ということのようです。
 このような造形物を作るのはきっと過去記事(→コチラ)で紹介した<広告の天才>イ・ジェソクだろうと思い調べたら、やっぱり正解でした。

     


 うわ、バッテリー切れ! 続きは数時間後?になっちゃいます。・・・と書いてからようやく13時間後の29日午後9時過ぎに作業再開。その間起伏の大きい釜山のあちこちをやはり約2万5千歩開きまわりました。コース選定はすべて同行者任せ。その結果こんなに歩いてもチャガルチも南浦洞も国際市場も行ってません。とほほ。
 気を取り直して記事の続き。
 上左の写真は世宗大路にあるKT光化門支社のビルの掲示物。国家報勲処の広報で、その中に「서해수호의 날(西海守護の日)」といった耳慣れない言葉があり、またその期日が3月25日つまりまさに今日であることが目に留まりました。そして夜ホテルのテレビで見たのが右のニュース画面。朴槿恵大統領が大田(テジョン)の顕忠院で開かれたこの西海守護の日の式典で「北朝鮮の挑発を許しませぬぞ」といった辞を述べています。こういう日をいつ決めたのかと思ったら昨年12月。つまり今回が第1回。第2延坪海戦(2002年)=A天安沈没事件(2010年)=B延坪島砲撃事件(2010年)=Cの戦死者たちの合同追悼行事を一緒に行うという趣旨で、中でも犠牲者が46人と一番多かった[問3](  )の日に近い3月第4週の金曜日を指定したとのことです。[答]→(  )。

○3月26日(土)

     

 地下鉄良才(ヤンジェ)駅のすぐ近く。国立外交院というところに初めて行ってきました。そこでは韓国の外交に貢献した歴史上の人物として、まず高麗時代に遼を相手に実利と自尊心の2つの難題を同時に手に入れたという徐熙(ソ・ヒ)の銅像に続いて造られた2つ目の銅像が上左。足利義教の将軍就任に際して来日する等、43年間に40数回も日本や琉球に渡ったという人物で、この銅像を見てくるのがわれわれのこの日の第一目的でした。彼については2013年に[??] ‐最初の朝鮮通信使」というドキュメンタリー映画が作られています。[問4]この人物の名は? [答]→( 李藝(イ・エ))。 ※→関係過去記事
 次に、上右の写真は、銅像の向こうに見える外交史料館で見た独島クイズの最初の画面。私ヌルボ、もちろん全10問に挑戦。もちろん全問正解・・・ではありませんでした。正解の説明文を読み進むと、自然と「独島はウリタン(わが地)」という認識が固まるクイズになっているということがわかりました。
 うー、またピンチ! ほぼ定例の韓国内の映画の週末の興行成績の記事が大幅に遅れているので、ソチラを優先します。・・・ということでまたまた未完。 ・・・と書いた後も連日スキマなしの旅行で、結局今は4月1日。夕刻羽田に着き、やっと自宅に落ち着いて続きのとりかかります。ふー。
 良才駅から3人は明洞に向かった目的1は私ヌルボの両替のため。(あ、お得な両替についての過去記事は→コチラ。)
 それから昨年眼鏡を作った小公洞地下商街のAce眼鏡に立ち寄り、次に他の2人が行きたいというウェスティン朝鮮ホテル敷地内の圜丘壇(ファングダン)へ。私ヌルボは→コチラの記事に書いたように1年前に行ったので勝手知ったる・・・と思いきや、アラ、今工事中で見られない! しかたないなとソウル広場を経て徳寿宮前から市庁方面を見ると・・・。

     
 
 またまたアララ。1年前(上左)にはあった女の子が持っている、文字が順次変わっていくという趣向の上記イ・ジェソクさん作の掲示板(→関係記事)はなくなってました!(上左) うーむ、やっぱり費用の問題しかあったのかな? また、この日もキリスト教団体が「同性の結婚を認めるな」といったアピールをしていましたが、そういうことに用いられるという問題もあったのかも・・・。しかし、せっかく<徳寿宮近辺の見逃しがちないろいろ>シリーズを始めたのに残念! 「十年経てば江山も変わる」とは韓国のことわざですが、1年でもずいぶん変わりるものです。 
 さて、徳寿宮近辺では無料で入ったり見たりできる所や物がたくさんあって、今回もいくつか回りましたが、下の写真を撮った場所もその1つ。[問5]この撮影場所はどこ? [答]→( 貞洞(チョンドン)展望台)。 

 徳寿宮とその周辺を、高い所から一望できます。2013年開館とわりと新しい上、あまり目立った表示もなく宣伝もしてない(?)ようなので、もしかしたら徳寿宮を訪れる観光客の大半はご存知ないのでは? 詳しくは→ソウルナビ参照。 
 日も傾き始めた頃、私ヌルボは2人と別れて単独行動。市庁から地下鉄1号線で龍山へ。時間軸が前後していますが次の記事の冒頭で書いたようにCGV龍山に行きました。駅と連結しているI`PARK mall 内にある映画館です。
 観た作品は尹東柱(ユン・ドンジュ)の伝記映画「東柱)」です。 

 [問6]韓国の映画の観客が日本と違う点は? [答]→( 映画の本編が終わってエンドクレジットが現れると席を立ってゾロゾロ出てゆく。)。日本も昔はそうだったなー・・・。他にもあるかも。

 2日分だけでけっこう字数が多くなったので当初の予定を変更。ここでひとまず区切ります。

 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録② 3日目=「あの」島と、仁寺洞の有名なマッコリ酒場
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韓国プロ野球 斗山vsネクセン 観戦記録 atソウル・木洞野球場(下)

2015-07-28 02:06:00 | 韓国旅行の記録
 1つ前の記事の続きです。

 さあ、いよいよプレーボール!
 あら、こういうところにCASSビールの宣伝が・・・。日本の球場にもある?

 斗山ベアーズの投手は、アメリカ大リーグから2011年に韓国に移籍したニッパート投手。昨年まで4年連続2桁勝利を記録しています。

 以前見た時の蚕室野球場では応援団長が台の上に乗ってやたらと目立ってましたが、今はかなり組織化され、緻密で洗練されてきました。23年前も経てば当然でしょうけどね。
        

 右の画像で左端のおねーさんが掲げているボードはもちろん個々の選手の応援の文句。「かっとばせ、かっとばせ、かっとばせ、ヒーローズ! キム・ハソン、キム・ハソン! アンタ!アンタ!アンタ! キム・ハソン!」といったシンプルなものですが、日本人としては「アンタ(안타.安打)!」と繰り返されるとなんだか呼びつけられているような気がします。(笑) この「アンタ」は応援で実によく使われる言葉で、日本だと「かっとばせ~○○!」と叫ぶところを韓国では「○○アンタ!」と言います。中盤のチャンスでムン・ウラム(문우람)選手に打順が回ってきた時なんかは「ムヌーラマンタ!!」の大声援。(←子音が次の字の母音と自然につながるのが韓国語。) 声援に応えて彼は満塁の走者一掃の2塁打を打ちました。
 チームによって応援のスタイルや雰囲気の違いはあるようで、とくに釜山の社稷(サジク)野球場なんかはぜひ行ってみたいなー。(横浜スタジアムをモデルとして造られたとのこと。) 日本でも、最初に広島カープのスクワット応援を見た時は驚いたものです。

    

 ひいき選手のユニフォームを着込んだファンもここかしこに見受けられます。圧倒的に多いのは4番の強打者강정호(カン・ジョンホ)選手。
 スコアボードは日本とほぼ同じ・・・。

 かと思ったら、先攻のビジターチーム・斗山のオーダーが右の列になってるゾ。いや、自分が座っている3塁側もホームチームのネクセンの側ではないですか!
    

 選手の情報データ(左=ムン・ウラム、右=キム・ジス)の画面を見ると、学歴が初等学校(!)から全部書かれてます。
 場内アナウンスを聞いて気づいたのは、選手名をコールをする時の独特のイントネーション。基本的にトーンが上がっていくのです。
 たとえばチョン・スビン選手の場合。日本人が発音すると「チョン↗ス↘ビン」となりますね。ところが、これを「チョン↗ス→ビン」と発音するのです。「はげちゃびん」と同じイントネーションです。いや、「チョン↗ス↗ビン」と上がる一方だったかも・・・。


 1回の表裏が終わったところでこの表示。「파울타구 모의훈련(ファウル打球 模擬訓練)」ですと。何をやるのかと思ったら・・・。

 号令がかかるとチアガールのおねーさんたちが頭を手を覆って防御の体勢。しかし、これをやってる観客はほとんどいなかったですね。

 7時20分頃。暗くなり、観客も増えてナイターらしい雰囲気です。
 ゲームがちょうど半ばにさしかかった午後8時前。スクリーンに現れたこの表示は何?

 「キスタイム」ですと! 「キスをしてくれたカップルにはプレゼントが贈られるのだそうです。ハハハ。ところが・・・。

 カメラを向けられたこのカップル、2人とも必死で顔を隠しています。キスどころか、顔もおおっぴらにできない、もしかしてヤバい関係か? ハハハハハ。
 さてと。ちょっと腹が減ってきたので売店へ。
    

 ここも横浜スタジアムとよく似た感じ。
 おつゆが温かそうだった釜山オムク(おでん)を買って食べました。
       

 なんとなく、同じ23日の昼頃、光化門近くのビルの前で見かけたオブジェ(右画像)を思い出したので貼っておきました。
 まだ9時前で、これから終盤というところでしたが、連日歩きづめで疲れているのと、鍾路3街の宿所に戻る時間を考えて球場を後にしました。
    

 球場の前には車がぎっしり。
 この球場に来ることはもうなさそう。というのは、つい先日(7月23日)のニュース(→コチラ.韓国語)が伝えるように、当初は2013年開業などといわれていた韓国初ドーム球場のソウルドーム(高尺ドーム)がようやく最後の仕上げ工事に入っていて、来シーズンからはそちらがネクセン•ヒーローズのホーム球場となるということなので・・・。場所は梧木橋から安養川(アニャンチョン)沿いに約4㎞南下した所で、地下鉄九一駅のすぐ近くです。

 外野席がない木洞野球場よりも断然こちら! ・・・といっても、使用料も当然高いのでネクセンもかなり苦しい選択だったようです。
 梧木橋駅までの帰途は、川の土手の上の遊歩道。漢江ではなくその支流の安養川なのですが、意外に広い川幅です。
    

 眺めもよく、風も心地よく・・・。この日もとても充実した、実り多い1日でした。
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韓国プロ野球 斗山vsネクセン 観戦記録 atソウル・木洞野球場(上)

2015-07-27 07:59:50 | 韓国旅行の記録
 4月の4泊5日ソウル旅行の記録を4月24日~6月24日の2ヵ月にわたってダラダラと続けましたが、実はまだ終わっていなかったのです! (^^;;
いろいろ収穫の多かった5日間でしたが、これは良かった!と今も自己満足に浸っているのが4月23日のプロ野球観戦でした。

 思い起こせば、韓国で初めて野球を観に行ったのが1992年の最初の訪韓の時。蚕室野球場に行く途中で例の合同結婚式のチケットを拾った記憶があります。試合は斗山ベアーズvs(今はなき)太平洋ドルフィンズだったかな?
 ところがその後は気にはなっていたものの野球観戦の機会はなく、今回は23年ぶり。しかし今回はいろいろ考えて蚕室ではなく木洞野球場に行きました。
 場所は地下鉄梧木橋(オモッキョ)駅から徒歩10数分。


 試合開始(18:30)の30分ほど前に到着。まだまだ明るく、夕方という雰囲気でさえありません。
     

 この日のカードはこの球場を本拠地とするネクセン・ヒーローズvs蚕室が本拠地の斗山ベアーズの対戦。1万ウォン~4万ウォンのチケットがある(火~木曜は安い)中で、私ヌルボは当然のごとく1万ウォンの内野自由席券(←非指定席と記されている)を購入。
    
 レフト側と、ライト側。あれっ!? 外野席がないよ!・・・というのは事前学習で知っていました。

 これが平面図。ちょっと平塚球場を思い出しました。
 試合開始の10数分前、スコアボードに「국민의례」という文字、続いて太極旗(韓国の国旗)が表示されました。

 「국민의례」、すなわち「国民儀礼」です。観客の皆さんは・・・。
    

 こんな感じ。6~7割の人は起立して胸に手を当てていますね。よく見ると、スマホをいじくつている人、座ったままの人もいますが・・・。
 国民儀礼というと、最近では映画「国際市場で逢いましょう」で夫婦喧嘩を中断しても国旗&国歌に対してこの姿勢を取る場面が一部で話題になりました。また昨年9月の現代自動車の新聞広告でも「国家代表」の文字とともに選手たちの「国民儀礼」の写真が用いられていました。
     

 ちなみに、5月13日横浜スタジアムのDeNA-中日戦で試合前に君が代が流された時の観客席もついでに載せておきます。

 起立している人が6~7割くらい、かな?
 そして試合開始の少し前にはこちら韓国でもやっぱりお子様の登場場面が・・・。
        

 かなりピンボケになってしまいましたが、真ん中の画像がネクセン・ヒーローズ公式マスコットのトクトリ(턱돌이)。ちょっとブキミというか・・・。(笑) トクトリは漢字をあてれば顎乭で、文字通り長いアゴがチャームポイント(??)なんですけどね。そして右の画像に写っているもう1人のマスコットが今シーズンにデビューした女の子キャラのトングリ(동글이)。日本語だとまるみちゃんといったとこかな? イラストだとトクトリのブキミさは多少薄れます。
      

 さあ、いよいよプレーボールだっ、・・・・というところですが、とりあえずここで一区切り。

 →韓国プロ野球 斗山vsネクセン 観戦記録 atソウル・木洞野球場(下)
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グルメやショッピングとはぜ~んぜん無縁のソウル4泊5日の記録 ⑨韓国歴史博物館の音楽関係の展示

2015-06-24 23:34:34 | 韓国旅行の記録
 歌関係の展示は、映画よりも多かったと思いますが、駆け足で見たので写真を撮ってない展示物も多く、また見落としもあったと思います。
 韓国大衆歌謡の最初のヒット曲は、李エリス「荒城の跡(황성옛터)」(1932)で、白年雪「타향살이(他郷暮らし)」(1934)、そして今も愛唱されている李蘭影「木浦の涙(목포의 눈물)」(1935)等と続きます。・・・が、これらについての展示物があったかなー?
 ・・・ということで、戦後から。といっても、朝鮮戦争(1950~53)の戦後です。以下、時代順に見ていきます。
 まず、同じ所に並べて展示されていた2枚。
       
 左の「굳세어라 今順아(がんばれ、クムスン)」については、2つ前の記事<1950年代韓国のヒット歌謡「がんばれ、クムスン」と、映画「国際市場で逢いましょう」>で書きました。1953年に玄仁(ヒョン・イン)の歌で発売されたレコードです。右は1955年の「단장의 미아리고개(断腸のミアリ峠)」。歌は李海燕(イ・ヘヨン)で、これも「がんばれ、クムスン」同様朝鮮戦争に関連した歌詞です。
 この2曲は朝鮮戦争に直接関わる歌詞になっています。これら昔の韓国歌謡については<たーちゃんの韓国歌日記2>という非常に詳しいブログがあります。そこの「断腸のミアリ峠」の記事(→コチラ)に記されているように、朝鮮戦争当時ソウルの北東部のミアリ峠は軍事的にも重要な地点で、激しい戦闘があったそうです。歌詞中に「あなたは針金で両手をぎゅっと縛られたまま 後ろを振り返り振り返り 裸足で足を引きずりながら行かれた」とありますが、捕虜として北に連行されていったということでしょうか。
 補足ですが、この地は「戦後は一時ミアリテキサス村という売春街ともなっていたこともあるが・・・」とかなり昔の話のような書き方をされていますが、地下鉄吉音駅至近のこの「街」については→コチラのブログ記事によると、少なくとも2013年秋の時点ではそこに掲載の写真のような状況です。[付記.2017年12月もほぼ変わらず。清涼里588と対照的。] もっと具体的で詳しい記事もあります。興味のある人は探してみてください。) なお、上記ブログの「がんばれ、クムスン」の記事は→コチラです。

 さて、ある韓国の音楽評論家の記事を見ると、韓国の<国民歌手>といえば「50年代=玄仁(ヒョン・イン)」に続いて「60年代=李美子(イ・ミジャ)」なのだそうです。さらには「70年代=宋昌植(ソン・チャンシク)」「80年代=趙容弼(チョ・ヨンピル)」。70年代など異論はありそうですが・・・。
 ・・・ということで、次は<トロット(演歌)の女王>とか<韓国の美空ひばり>とよばれる李美子「동백아가씨(トンベクアガシ.椿娘)」(1964)あたりかなと思いましたが、ずっと後の方、70年代を中心とした所で他のいろんな歌手とまとめて展示されていました。
      
 真ん中のライトで照らされているのは「趙容弼 第1集」(1980)アルバム。趙容弼の現在の姿(下画像)を見るとずいぶん変わったなーと思います。

 で、上の趙容弼のレコードの左上。3枚並んでいるのは・・・。
 左から羅勲児(ナ・フナ)李美子南珍(ナム・ジン)です。「羅勲児と南珍、どちらが上か?」というのは映画「国際市場で逢いましょう」の中でも議論になってましたね。
 また、趙容弼のレコードの右に置かれているレコードはこれ。
 李章熙(イ・ジャンヒ)「그건 너(それはおまえ)」(1973)です。数年前から再び注目されている、フォークブームの震源地となった音楽鑑賞室<セシボン>の歌手で、TV番組「不朽の名曲」に出演したり(→コチラ参照)、23年ぶりとなる公演がMBCで放映されたりしています。(→コチラ参照)
 趙容弼のレコードの真上に並んでいるのは次の3枚です。コチラはフォーク系。 
          
 左から金敏基(キム・ミンギ)「キム・ミンギ(1集)」(1971)楊姫銀(ヤン・ヒウン)「アチミスル(朝露)」(1971)宋昌植(ソン・チャンシク)「ソン・チャンシク」(1975)。いやー、なかなかの顔ぶれ。これらのレコードの収録曲についてはあえてふれませんが、韓国の民主化運動を象徴する歌となった「朝露」をはじめとする彼らの歌の多くがその後禁止されたこと(1987年解禁)は、当時の軍事政権の文化政策の厳しさを思わざるをえません。しかしそれらが大きな影響力を持ち、歌い継がれてきたのは歌の持つ力というべきですね。
 ※楊姫銀については、以前3回続きのけっこう詳しい記事(→コチラ)を書きました。

 次の↓コチラの展示は今は懐かし、ジュークボックス。
     
 たまたまかかっていた歌が沈守峰(シム・スボン)「그 때 그 사람(その時その人)」(1978)。彼女のデビュー曲ですが、その直後の1979年10月26日朴正熙大統領の暗殺現場に居合わせていて・・・、という話は日本ではどれほど知られているのかな? 彼女の名前からして知られていない?

 次は80年代。といっても音楽関係の展示ではありません。
      
 これは1987年の<6月抗争>についての展示物。
左は<朴鍾哲・李韓烈追慕祭>のビラ。官憲の拷問、そしてデモ鎮圧の催涙弾によって死亡した学生です。
 そして同じところに掲げられていた展示物が日本でも知名度が高い金芝河(キム・ジハ)の詩「타는 목마름으로(灼けつく喉の渇きに)」でした。長いですが、全文載せておきます。
          타는 목마름으로
               김지하
 신새벽 뒷골목에
 네 이름을 쓴다 민주주의여
 내 머리는 너를 잊은 지 오래
 내 발길은 너를 잊은 지 너무도 너무도 오래
 오직 한 가닥 있어
 타는 가슴 속 목마름의 기억이
 네 이름을 남몰래 쓴다 민주주의여.

 아직 동트지 않은 뒷골목의 어딘가
 발자욱 소리 호루락소리 문 두드리는 소리
 외마디 길고 긴 누군가의 비명소리
 신음소리 통곡소리 탄식소리 그 속에 내 가슴팍 속에
 깊이깊이 새겨지는 네 이름 위에
 네 이름의 외로운 눈부심 위에
 살아오는 삶의 아픔
 살아오는 저 푸르른 자유의 추억

 되살아오는 끌려가던 벗들의 피묻은 얼굴
 떨리는 손 떨리는 가슴
 떨리는 치떨리는 노여움으로 나무판자에
 백묵으로 서툰 솜씨로
 쓴다.

 숨죽여 흐느끼며
 네 이름을 남 몰래 쓴다.
 타는 목마름으로
 타는 목마름으로
 민주주의여 만세.

          灼けつく喉の渇きに
                金芝河
 夜明けの裏通りに
 お前の名を書く 民主主義よ
 わが頭がお前を忘れてから久しい
 わが足がお前を忘れてからあまりにも久しい
 ただ一筋ある
 胸を焦がして渇望した記憶が
 お前の名を人知れず書く 民主主義よ

 まだ夜も明けない裏通りのどこかで
 足音 呼び子の音 戸を叩く音
 長く長い誰かの悲鳴
 呻き声痛哭する声嘆息する声その中で私の胸の中に
 深く深く刻まれるお前の名の上に
 お前の名の寂しい眩しさの上に
 生きてきた人生の痛み
 生きてきたあの蒼い自由の追憶

 甦る引き摺られ捕らわれていく友の血にまみれた顔
 震える手震える心
 震える怒りで木板に
 白墨で不慣れな手つきで
 書く。

 息を殺してむせびながら
 お前の名を人知れず書く。
 灼けつく喉の渇きに
 灼けつく喉の渇きに
 民主主義よ 万歳

 この詩が作られたのは1970年代ですが、この表題で1982年彼の詩集が刊行され、そして曲が付けられて80年代の民主化運動の中でよく歌われました。この展示場所にも、金光石(キム・グァンソク)の歌が流れていました。(歌詞は元の詩とは少し違っています。)
 私ヌルボがこの詩と歌についてかなり詳しく書いたのは、この詩と歌が好きだから・・・ということよりも、その後の金芝河の「変節」(東学に没入し、「ウルトラ民族主義者になってる」とか、「ファシスト」と批判する人もいる)や、1996年1月のキム・グァンソクの自殺(他殺説もあるが)、さらにはこの歌を愛唱した盧武鉉大統領(YouTubeにある)の政治と自殺等々といった時代の流れをたどると実に「無惨」としかいいようのない思いに襲われるからです。あーあ・・・。

 韓国の歌謡史のその後の画期は、たぶん1992年のソテジワアイドゥルの登場あたりになると思われますが、そこらへんの展示はまだなかったのではないかな?

 この博物館の展示関係のネタはまだあることはありますが、もう2ヵ月も経っていることだし、ひと区切りつけることにします。やれやれ。
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グルメやショッピングとはぜ~んぜん無縁のソウル4泊5日の記録 ⑧韓国歴史博物館の映画関係の展示

2015-06-01 12:32:27 | 韓国旅行の記録
 世相史に重点を置いた博物館なので、映画や音楽関係の展示はたくさんあります。また、私ヌルボの雑駁な知識あれこれも交えて書くととても1つ2つの記事では収まりません。そこで戦後の、ほとんど展示物に絞って1つの記事にまとめてしまおうと考えましたが、それでも写真が多すぎるので、映画と音楽は分けることにしました。それに戦後に限定といっても、4つある展示室のうち、第1展示室(1876~1945年)以外は全部戦後なんですけどね。
 ということでまずは映画について時代順に見ていきます。
 韓瀅模(ハン・ヒョンモ)監督(1917~99)の作品「성벽을 뚫고(城壁を破って)」(1949)のポスター。この映画は知りませんでした。<DAUM映画>(→コチラ)等によると、麗水・順天事件を1つのモチーフとした反共映画なのですが、主軸は、大学の同窓で1人がもう1人の妹の夫というごく親しい関係の2人の男の物語。一方は陸軍少尉となり、その義弟の方は共産主義者となってイデオロギー上の深刻な葛藤の末に悲劇が・・・という展開で、ずいぶんヒットした作品のようです。
 鐘路3街のピカデリー劇場開館のお知らせ。1962年です。
 ピカデリーは、1907年に開館した団成社に次ぐ長い歴史を持つ映画館で、右下隅に「旧半島」、挨拶文末尾に「鍾路三街(舊半島)」とあるのは何のことかと思ったら、→コチラの記事(韓国語)によると1953年(←1958年という記事もあり)会館した半島劇場(반도극장)が前身ということのようです。
 ※団成社は2008年不渡りを出し2010年臨時休館等を経て、今年3月12日裁判所の競売で575億ウォンで落札されたそうですが、はたして再び開館するのかどうか?
 この大きな展示物に書かれた文字は「서울은 만원이다(ソウルは満員だ)」。元はといえば作家・李浩哲(イ・ホチョル)が1966年2月から「東亜日報」に連載した小説です。当時のどんどん人口が増え発展していくソウルを舞台に、地方から上京した女性が娼婦に転落して云々という内容ですが、当時の世相・社会を如実に反映した作品として読者の人気を博し、67年には映画化もされました。(文学史はもちろん、都市の発展史の上でも注目すべきこの原作本が現在<yes24>でも<教保文庫>でも品切れ中なのはなぜ?)
 いろんな映画のポスターが貼られています。1番上左の「誤発弾」(1961)、その右の「魔の階段」(1964)から始まって最下段右端の「南部軍」(1990)まで、時代順に並べられていますね。(「南部軍」の左は何のポスターなんだろ?) 下の2段はほとんど観たことがありますが、上の方はタイトルも知らなかった作品がたくさんあります。「平壌맨발(平壌裸足)」(1980)も知りませんでした。戦前の話? 観てみたいな。
 ところで、このポスターの展示よりもずーっと目立っているのがこれ。
 このどでかい絵は、もちろん「風の丘を越えて 西便制〈ソピョンジェ〉」(1993)。内容的にも興行面でも、韓国映画史上画期的な名作です。DVDが入手困難で、アマゾンでは1~2万円くらいの値段がついています。私ヌルボ、ぜひオススメ! まだ観てないという方は、3日前にコメント(→コチラ)をいただきましたが、にいがた国際映画祭で6月20日(土)オープニングとして無料上映されるのでぜひどうぞ。
 展示室で何作品かの名場面の動画が映されていましたが、そこにもこの「西便制」のあのシーンがありました。

 ※2012年12月博物館が開館した時の写真を→コチラやコネストの記事(→コチラ)で見ると、「西便制」ではなく「鯨取り」が大きく描かれていたんですね。
 そもそも、4月にソウルに行った目的の1つは、韓国映像資料院でやっていた<韓国映画100選>の展示をもう1度見ることだったのですが結局行かずじまい。今になって公開しています。この展示については→コチラの過去記事参照。

 しかし、1ヵ月以上経ったのにまだ旅行の記録が完結しないとは・・・。次が音楽編で、その後1回でなんとかしめくくらなくては・・・。
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グルメやショッピングとはぜ~んぜん無縁のソウル4泊5日の記録 ⑦韓国歴史博物館で見た往時の反共展示物

2015-05-29 20:17:18 | 韓国旅行の記録
<グルメやショッピングとはぜ~んぜん無縁のソウル4泊5日の記録 ⑥韓国歴史博物館は世相史に重点>

 「反共は韓国の国是」とは幾度となく目にした言葉ですが、これに「である」と現在形で続くようには思われない具体例は以前から多々あります。今の韓国のふつうの認識としても、これはすでに過去のものになっているということを、この博物館で確認しました。
 展示室の一角に、1960~80年頃の「反共」「防諜」プロパガンダのためのポスターや日用品等々が展示されていました。

 この画像右端に<1960~1980年代反共の社会像>という標題の説明板が掲げられています。 読んでみると・・・。
 1970年代まで‘反共’は国是にも等しかった。‘反共 防諜’の標語が街と学校のところどころに貼られ、初等学校の道徳教科の名前が‘反共 道徳’であるほどに反共教育が強調された。・・・・」
 ・・・ということで、はっきりと過去形で書かれていて、また展示自体もどこか懐古的な雰囲気が漂っています。
      
 左、「간첩 식별법(間諜識別法)」とありますが、夜とはいえカーテンもかけずこんなおおっぴらに無電を打っているスパイがホントにいたのでしょうか? 左の黄色い冊子は「이것이 북한이다(これが北韓だ)」、下に「국민윤리연구소(国民倫理研究所)」とあります。右は「불온삐라를 보면 즉시 신고합시다!(不穏ビラを見たらすぐに届けよう!)」。この絵のように街に「不穏ビラ」が散乱しているようなことがあったのでしょうか?
 要は、このようなプロパガンダを通じて「国民精神の統制を図る」のがねらいだから、実際の間諜や不穏ビラの存在はたまに(まれに?)あればいいってこと?
    
 いろんな日用品や学用品にも「반공(反共)」「방첩(防諜)」の標語が入っています。左から、ノートの表紙には「不穏拾得物はすぐ警察に届けよ」。筆箱には「초전박살(初戦搏殺)」とありますが、この言葉は昔からある四字熟語ではありません。1974~78年北朝鮮によって掘り進められた第1~3トンネルが発見されたこと等を背景に、朴正煕維新政権は国民を安保理念で武装させるため「北朝鮮が南侵すれば9日以内に北進統一することができる」と広報するとともに、この新しい標語を大々的に用いて宣伝しました。外国とのスポーツ試合実況放送の他、TVのお笑い番組でも出演タレントたちが叫んだり、国民学校ではこの標語をテーマに作文大会が開かれたり等々・・・。今でもこの言葉は辞書にこそ載っていないものの、検索するとずいぶん広く使われているようです。(→コチラの記事を参考にしました。)
 写真に戻って、深緑色の箱は万年香という商品名の線香。書かれている字は読み取れず。その右はマッチ箱。「反共」・「防諜」の文字が記されています。あ、旭日旗模様だっ!(笑) メーカーが太陽産業社だから。これを展示品にする時そんなことは考えなかったのかな?
 そして、今回ヌルボが初めて知ったのがこれです。

 まず右は往年の人気歌手で、日本では2005年の<親日宣言>騒動で話題になったりもした趙英男(チョ・ヨンナム)が歌った「防諜の歌」のレコード。これは動画検索しても見当たらず。
 そして左が反共アニメの「똘이장군(トリ将軍)」。あ、「トリ」は主人公の名前で、「鳥」や「鶏」ではありません。このアニメは「トリ将軍第3トンネル編(똘이장군 제3땅굴편)」(1978)「スパイを捕えるトリ将軍(간첩잡는 똘이장군)」(1979)の2作作られました。最初は映画として上映され、後にTVでも放映されたとのことです。(参考→コチラ。)
 そして、この2作品とも丸ごとYouTubeで視聴できるのです。
「トリ将軍第3トンネル編」の冒頭、主題歌の部分を貼っておきます。全編観てみたいという方は→コチラ。約75分です。
 一応、物語の概略は次の通りです。
 山の中で動物たちと一緒に暮らしていた森の将軍こと少年トリが、北傀に迫害されていた少女スギに会って助けてあげる。その後いろいろあって(!)、強制労働で人々にトンネルを掘らせていた獣の顔をした北傀の悪者を撃ち破り、貪欲な赤い首領まで撃破して、自由大韓への道を進みます。 ※「北傀」は「北の(ソ連の)傀儡」という意味の蔑称。
 北傀の連中の話し方が、まるで北朝鮮のラジオ・TVのよう(!)だし、少女の声もいかにも北朝鮮風です。(笑)
 ※第2作「スパイを捕えるトリ将軍」は→コチラ
 この「トリ将軍」の思い出について書かれたオーマイニュースの記事(2004年.→コチラ)に次のような一節がありました。
 オオカミの姿をした北朝鮮軍が北朝鮮の住民を搾取して、太った体に赤い服を着た赤い首領が仮面をかぶって登場する。トリ将軍の活躍で赤い首領の仮面がはがされ、彼の正体が豚だったという事実が明らかになったとき、私たちは歓呼した。子供心にも「オオカミのような奴ら、豚のような奴ら」で憎悪心が生まれたようだ。実に絶妙に「トリ将軍」は子どもたちの反共意識をかきたてるのに寄与したようだ。どう考えてもなんとも異常な時代だった。
 ・・・たしかに「異常だった」のは昔の日本の鬼畜米英も同様だし、そしてアメリカ兵を悪魔のごとく描く北朝鮮のプロパガンダも・・・。(しかし、北朝鮮では「過去」のことではなくて依然として「現在」のことか?)

 ところで私ヌルボ、1年前の記事で次のようなことを書きました。
 1992年夏。釜山の竜頭山公園で話しかけてきた韓国人といろいろ話をしていて(日本語で)、ヌルボが「実は私、去年北韓に行ってきたんですよ」と言ったら、彼は別に驚くでもなく「北韓でもふつうの人々が暮らしているということですよ」という言葉を返してきました。
 なぜか気になったその言葉の背景がわかってきたのはかなり後だったと思います。つまり、韓国では少し前までは「北韓で人々がふつうに暮らしている」ということには考えが及ばなかったということ。<パルゲンイ(アカ)>は人間ではないと教育され、そう思い込んでいたわけです。

 今、その30代後半ほど(?)の男性の育った時代や受けてきた教育を思うと彼がそう言った気持ちがわかります。北朝鮮にいるのはツノの生えた鬼でも悪辣な獣のような輩だという子ども時代に植えつけられたイメージが大きく崩れたのは、民主化闘争の高まりと北からの民族主義を基調とした主体思想の宣伝が一定程度功を奏した80年代のことでした。
 釜山でその男性と話をした1週間ほど後の8月24日、ソウルの世宗路を歩いていたら、新聞社(?)の電光掲示板で「韓国と中国との国交が樹立された」というニュース速報が流されていました。韓国と中国(と北朝鮮)という地理的観点や、韓国の「反共」をめぐる歴史的観点といった巨視的な歴史と、微視的(個人的)な歴史が重なり合って思い起こされる旅先の出来事でありました。(と、最後はヌルボも懐古調。)
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