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ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

駅の掲示板のハングル表示の問題

2014-06-16 05:17:09 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 7日(土)夜、ハングルサークルの勉強を終えた帰途の京浜急行横浜駅。ホームの行先掲示板に目が留まりました。


【こんなに遅い時間まで勉強をしていた・・・のではなく、2次会で盛り上がっていたといういつものパターン。】

 以前からハングルの表示が増えてきたなとは感じていたので、そのこと自体ではなくて、私ヌルボが気になったのは上大岡の表記についてです。
 「가미오오카」と、「오(お)」が2つしかないではないですか。
 日本人にとってはいうまでもないことですが、「大岡」の部分のかな表記は「おおおか」で、元横浜ベイスターズ(現アメリカ独立リーグ)の大家(おおか)投手や、岡(おか)とは表記も発音も違います。もっとも、実際の発音は「おー・おか」、あるいは「おーか」の「ー」を長めに発音していて、「お・お・おか」と区切っているわけではないので、このハングル表記でもいいのかなーとも思いますが・・・。

 韓国語学習者の皆さんは承知していることですが、韓国人はこの母音の長短の区別が苦手で、たとえば「おばさん」と「おばあさん」、「井田さん」と「飯田さん」等の違いを聞き分けるのがむずかしいといわれます。
 したがって、ハングルできまった長音表記法がないのも当然で、それで日本語の長音をどのように表記するかはむずかしいところです。

 「東京」の場合、ハングルでは도쿄と書くのがふつうですが、これをそのまま発音すると「トーキョー」ではなく「トキョ」になってしまいます。「도-쿄-」とか「도ː쿄ː」にしてくれと言っても、そんな表記は韓国の立場では不必要だし・・・。日本人にしてみれば「なんだかなー」ですが、しかたないですね。

 ところで、この京急のハングル表示で別に1つ気になったのは長い駅名の場合どうしているのかなということ。上の場合は金沢文庫も6文字に収まっていますが・・・。
 そこで「京浜急行 ハングル」で画像検索してみたら、また別の問題があることを知ってビックリ。

 どういうことかというと、「京急の駅はハングルに侵食されている」(!)という非難が一昨年あたりからけっこう出ているんですね。
 大半はいつもの(?)2ちゃんねる系というか嫌韓系というか・・・。

 その中でとくに問題とされているのが京急品川駅の表示。


 先の横浜駅の表示と違って漢字の表示がありません

 ある非難記事によると「急いでいる時に、こんなわけのわからない文字が30秒も変わらないで表示されていた」とのこと。(つい先月の記事です。)
 ※その書き方が、どうも以前→コチラで書いた四国の遍路道のハングルによる案内シール非難と共通するニュアンスが漂っているようです。

 そこでヌルボ、昨日(15日)たまたま京急で川崎まで行ったついでに品川駅まで足を伸ばして確認してきました。
 あ、京急川崎駅の表示はハングルはありませんでした。駅によってまちまちなんですね。
 そして品川駅で自分で撮った写真がこれ。


 なるほど、漢字表記はこの画面の時にはありません。たしかに、この表示が30秒も続くとすると日本人は当然困りますね。しかし、ヌルボが確認したところでは5秒続くかどうか程度の短い間でした。(同駅のいくつかの掲示板で確認しました。)
 通常の日本語表示と英語表示は約10秒です。
 むしろ、一番上の快速「나리타 공항」(成田空港)の後の(  )内に小さく書かれている「나리타 스카이 액세스 선 경유」(成田スカイアクセス線経由)という字がこの短い時間内では読めないだろうと思いました。(日本語を読み取るのもむずかしいかも。)

 ちなみに中国語(簡体字)も韓国語同様約5秒表示されています。


 コチラは日本語と見た目あまり変わらないからクレームはつかないでしょう。

 ちょっと調べてみると、駅などでの外国語サービスのあり方について「『おもてなし』の観点から英語以外の外国語でも情報提供を行うことがさらに望ましい」という主旨のガイドラインを国交省が示したのが2006年。
 その後鉄道各社が対応を進める中で、JR東海は「国際的共通語の英語をできるだけ大きな字で記すのが基本」と主張して、中国語や韓国語の表示はしていないとのこと。2009年の業務監査でも「来訪外国人の約7割がアジア圏からで、外国人を意識した表記について検討が必要」と指摘されても、「日本語や英語の表記がキュークツになる」等とし、看板に絵文字を併記する等の策で対応しつづけているそうで、嫌韓・嫌中の人たちから支持を得ているようです。

 <ガジェット通信>の関連記事(→コチラ)によると、外国人入国者中韓国は27%で、中国語圏(中国・香港・台湾)は計38%英語圏は計18%
 したがって「これだけで全入国者の83%を占める。つまり案内板を韓国語、中国語、英語で表記すれば、ほとんどの外国人観光客に対応できることになる。合理的な判断である。」とその記事は結論づけています。
 私ヌルボもそう考えるのが妥当だと思います。

 「わけがわからないハングルを目にすると頭がクラクラする」「気持ちが悪くなる」と書いている皆さんは、アラビア文字とかビルマ文字とか、その他世界のいろんな文字を見て目とアタマを慣らすといいでしょう。
コメント (21)
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例の「中山美穂、辻仁成と離婚準備中」のニュースを朝鮮日報でも大きく報道 そのポイントは・・・・

2014-04-16 14:28:29 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 元々あまりTVを見ず、最近は週刊誌もあまり読まず、電車に乗る機会も減ったため中吊り広告も目にしなくなりました。
 その結果、新聞やネットで韓国のニュースを通じて日本の情報に初めて接することもちょくちょくあります。

 横浜市立図書館の新聞閲覧台で4月12日「朝鮮日報」を見ていたら、こんな見出しが目に入りました。

    <남편 中性化에・・・ 悲劇이 된 '러브레터'>
    (夫の中性化に・・・ 悲劇となった「Love Letter」)\t

        

 つまりは、中山美穂&辻仁成夫妻の離婚をめぐるゴシップ記事なんですけどね。これも私ヌルボ、この記事を読んで初めて知りましたよ。あ、まだご存知ない方は→コチラの記事(日本語)で概容を把握できます。

 さて、この見出し中にある '러브레터'(「Love Letter」)とは、あの岩井俊二監督の映画のこと。
 1995年制作のこの映画の韓国公開は1999年です。なぜ4年遅れたのかというと、1995年当時は韓国で日本映画の上映は認められていなかったからです。

 金大中政権下、条件付きながら日本映画が開放されたのが1998年10月。最初の上映作は98年12月公開の北野武監督「HANA-BI」で、その観客動員数は6万人でした。(ソウル封切り館のみの暫定数値。)
 翌1999年9月、規制がさらに緩和され、「キスシーンはあってもトロント国際映画祭で観客賞(1995年)を受賞したからOK」となり、99年11月に公開されたのがこの「Love Letter」でした。
 この映画は日本でもヒットし、日本アカデミー賞等も受賞しましたが、韓国では日本以上の大きな反響をよび、「HANA-BI」をはるかに上回る115万の観客を動員する興行を記録しました。30万枚の裏ビデオが流通したというのは、そんな日本文化解禁の前後という時代によるものでしょうか。(※日本映画の全面解禁は2004年。)
 主演した中山美穂が叫ぶ"오겡키데스카"(「お元気ですか?」)というセリフは日本語のままで流行語になり、また舞台となった小樽には多くの韓国人観客が訪れるようになりました。
 最近でも、昨年(2013年)2月と11月に再公開され、今年1月にはSBSテレビで放映されました。
 ※SBSテレビの放映(吹替)では、「お元気ですか?! 私は元気です!」のセリフだけは吹替ではなくオリジナルの中山美穂の声が流されたとのことです。
 ※この映画について、上記のウンチク等は韓国のオタク系サイト<エンハウィキ・ミラー>の「Love Leter」の項目(→コチラ)に詳述されていて、本記事も相当部分依拠しています。

         
   【記事中の写真も、中山美穂の方は「お元気ですか~!」と叫んでいる場面を用いています。】

 長々と映画の説明をしてしまいました。新聞記事に戻ります。

 副見出しの文言は次の通りです。

     <日 여배우 나카야마 미호, 유명 작가와 이혼 준비 중>
     (日本の女優中山美穂、有名作家と離婚準備中)
     <男性 여성화, 女性 남성화・・・ 일본 사회문제로 떠올라男性 여성화, 女性 남성화… 일본 사회문제로 떠올라>
     (男性の女性化、女性の男性化...日本の社会問題に浮上)


 「Love Letter」で一気に人気女優となった中山美穂に対して、夫の辻仁成の名前は見出しにはありませんが、彼も韓国の文学ファンの間でそれなに知られている作家です。韓国語の訳本も、「クラウディ」1997年以来20作品近く(?)刊行されています。とくに江國香織との共作「冷静と情熱のあいだ」や、韓国の人気作家・孔枝泳(コン・ジヨン)との共作「愛のあとにくるもの」は注目されました。
 そういえば、2010年彼の原作の映画「サヨナライツカ」がイ・ジェハン監督(「私の頭の中の消しゴム」「戦火の中へ」等)により映画化されましたが、その主演も中山美穂(&西島秀俊)でしたね。

 ・・・というわけで、東京特派員が書いた上記の新聞記事が大きく取り扱われた背景(その1)がわかると思います。

 本文記事(→コチラ参照)を見ると、最近の辻仁成の「中性化」についてかなり具体的に書いています。「15㎏の減量に化粧を楽しんで髪は肩まで伸ばした。あげくの果てに、2011年には女装の男性を素材にした「ぼくから遠く離れて」という小説を出した」等々。
 そして中山美穂がドラマ撮影のためパリから羽田に戻ってきた時の記者たちとのやりとりも。ただ、彼女が記者たちを皮肉った「この国は平和だにゃ~@(・●・)@」(4月10日「日刊スポーツ」等→コチラ)というツイッターの呟きのニュアンスまでは韓国語で表現されてなかったのがザンネンですが。

 概して、韓国のメディアは最近では四国の遍路道での「差別貼り紙」事件(→過去記事)のように、嫌韓や歴史認識関係の話題は即座に反応する(ように思える)感じで、記事にも怨念や揶揄が籠っているような感じ(??)ですが、この記事についてはふつうにすんなり書かれています。
 ただ、記事の末尾に「中性化」について次のような説明がつけられているのは、疑問に思う日本読者もけっこういるのではないでしょうか?

☞中性化
 男女の性的•社会的役割が曖昧になり、男性が女性的に変化したり、女性が男性的に変化する現象である。特に日本では、男性性を失い、恋愛や結婚生活を放棄する「草食系男子(草食男•草食動物のように従順な男性)」が増え、社会問題となっている。 このような男性の多くは、ファッション・ビューティーに関心が高く、濃い化粧を楽しむ。


 しかし、日本で「草食系男子」が話題になると、ほどなくして韓国でも「초식남(草食男)」と訳され、そのまま新語として定着したことからもわかるように、韓国でもそんな男性をわりとふつうに見かけるようになっています。したがって韓国の読者もこの記事をすんなりと読んで、「韓国でもあり得る話だなー」と思うのではないでしょうか?
 ・・・という点がこの記事が大きく取り扱われた背景その2です。

 こんな芸能人の私事をことさらに大きく取り扱うというのも、たしかに「この国は平和だにゃ~@(・●・)@」ということなんでしょうね。(ヌルボも含めて。)
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韓国でも知られつつある四国八十八箇所霊場巡り・・・・と書き始めるはずだったのに。

2014-04-11 22:50:05 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
           

 「갑신년의 세 친구(甲申年の3人の友)」を読み終えた後、次は何を読むかな、とツンドクになったままの韓国書の中から選んだのが「남자한테 차여서 시코쿠라니(男にふられて四国って)」という本です。

 ・・・と、この本の紹介文を書き始めたのが1ヵ月ほど前。ま、早い話が30歳ちょっとの韓国人女性キム・ジヨン(김지영)さんの四国八十八箇所巡礼記録なんですが・・・。

 ところが一昨日、その記事を仕上げようと再度取りかかったところ、たまたま<お遍路に外国人排斥の紙 徳島 霊場会「差別許されない」>という見出しのニュース記事が同日(4月9日)「東京新聞」に掲載されました。(→コチラ)。
 「日刊スポーツ」(→コチラ)、「産経新聞」(→コチラ)でもほぼ同内容の記事が載りました。(つまり、共同通信の配信。)

 チェ・サンヒ(崔象喜.최상희)さんという韓国人女性がハングルの案内シール(4000枚)を遍路道の道沿いに貼ったことを念頭において、次のような文面の貼り紙が徳島県の休憩所に貼られていたというものです。
 「大切な遍路道」を朝鮮人の手から守りましょう。最近、礼儀しらずな朝鮮人達が、気持ち悪いシールを、四国中に貼り回っています。「日本の遍路道」を守る為、見つけ次第、はがしましょう (日本の遍路道を守ろう会)
 続報では、その後香川・愛媛両県でも見つかったとのことです。

 チェ・サンヒさんについては、これまでも何度か新聞に取り上げられてきました。
 2013年5月9日「毎日新聞」地方版の<お遍路:日韓の橋渡し 崔さん「大窪寺」到着、4度目の結願果たす 韓国人初の「先達」へ>、2013年5月16日「徳島新聞」の<「お遍路」韓国に広がれ 崔さん、道沿いに案内シール>、2013年12月17日「四国新聞」の<外国人女性初の「先達」/韓国の崔象喜さん公認>等です。
 ※チェ・サンヒさんが開設したホームページは→コチラです。

 これらのチェさんへの好意的な記事に対して、早くから疑問を呈していたのは2013年5月の→コチラのブログ記事。<無許可で遍路道にハングル自作ステッカーを貼る韓国人の愚行と、美談として報じるNHK・毎日新聞・読売新聞>という見出しです。
 韓国に対する批判記事が多いブログですが、感情露わな嫌韓ブログではなさそうです。
 批判の主旨は「もっと韓国人に知ってほしい、来てほしい、というチェさんの気持ちはありがたいですが、そこまでお遍路に惚れ込んでいるのなら、ハングルで案内をあちこちに貼るという発想がどれほど短絡的で傲慢なことかも考えてほしかった」というものです。また、「ちゃんと許可を得て貼っていたかどうか?」も気にかかっているようです。
 私ヌルボとしては、「ふうん、そういうふうに考える人もいるのか」ということと、「ステッカーがハングルではなく英語だったらどういう反応を示すのだろうか?」ということを思いました。「許可の有無」については、多くの日本人が気にするのでは? NHK徳島が「許可を得てからステッカーを貼っていました」と報じたというのも、当然その点が引っかかったからでしょう。

 ところが、今回の<日本の遍路道を守ろう会>による貼り紙は、浦和レッズのサポーターの「差別横断幕」事件同様、日本を愛していると思っている人のオウンゴールのようですね。
 (はたして、この貼り紙は許可を得て貼ったのかな?) 

 先に引用したブログ主さんも、4月9日のニュース報道直後に<遍路休憩所に朝鮮人批判の紙 良くない行為なのは確かだが差別の一言で片付けずその背景と対策も考えるべき>(→コチラ)という記事で、その貼り紙自体について否定的に見ています。

 一方、この報道をめぐる2ちゃんねるの<「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」お遍路休憩所に貼り紙>というスレ(→コチラ)はシッチャカメッチャカ。ステッカーを剥がす行為を「除染」とよんだり、まあいろいろ。中には「同じ日本同胞として世界からレイシストと誤解されて恥ずかしい」というのもありますが・・・。
 レッテルの貼り合いというのは実に不毛です。
 この件でも私ヌルボが思うのは、いわゆる「嫌韓」日本人はいわゆる「反日」韓国人とよく似ているなー、ということ。
 たとえば、次のようなカキコミ。

 逆のケースを考えてみれば良い。もし日本人の旅行者が韓国のハイキングコースなどに勝手に日本語で書いたシールを貼って、それを朝鮮人が新聞で取り上げて「日本人が勝手に我が国の自然を汚すのを止めさせよう」と言ったとする。おそらく誰もこの朝鮮人を非難しないどころかシールを貼った日本人に批判が殺到することだろう。

 この文章中の「日本」を「韓国」に、「韓国」を「日本」におきかえると、そのまま同じことを今一部の日本人がやっているということ。「韓国人が日本人に嫌われても当然のことをしているなら、日本人が韓国人に嫌われても当然のことをしてもいい」と思ってしまうと、結局は「お互い仲間同士」ということになりますが、そう思わないのかなー?

 先の「徳島新聞」の記事によると、チェさんは「四国に来てお遍路をすれば、日本に対するイメージは大きく変わる。国と国との問題も、人と人との交流で変えられるはず」と言ってたのに、今回のことが韓国で報じられて、「日本のイメージは変わらない」ということになっちゃうとはねー。
 チェ・サンヒさんのステッカー貼りについて批判的な意見を持つのはいいとしても(←ヌルボがそれに賛同しているわけでもないが)、先の読みが全然ない短絡的・感情的な方法を取ってしまったことで、かえって日本のイメージを損なってしまったのは非常に残念なことです。
 四国八十八箇所巡礼の国際化は、地元関係者だけでなく多くの人が望んでいることなのに、思わぬところでミソをつけてしまったという感じです。(多くの日本人を困らせ、一部の韓国人(?)を喜ばせてどーする?)
 ※4月6日「朝日新聞」の記事<ハロー「日本の巡礼路」 お遍路歩く外国人客>は→コチラ

 それにしても、どこのどういう人がこういう貼り紙をしたり、ハングルの案内ステッカーを剥がしていったのかわかりませんが、なんともすごい情熱だなあと思います。その人は、このような事態になることをどこまで想定していたのでしょうか?
 ヌルボ思うに、「レイシスト!」とか「バカウヨ!」とかの言葉を投げつけても意味はないので、立場を問わず、たとえば上久保誠人立命館大学教授の<浦和レッズ問題と保守派の言動から垣間見える、日本人の「経験不足」>という論考(→コチラ)でも読んでいろいろ考えてみましょう。

 ・・・「明らかな差別貼り紙なのに、ヌルボはずいぶん手ぬるい書き方だな」と思われるだろうな・・・。

 あ、冒頭に掲げた本のことを全然書いてなかった!
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佐倉の歴博にある朝鮮関係の展示物のこと等(3)

2013-10-21 18:37:14 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 今日は10月21日、と聞いて<10.21国際反戦デー闘争(1969年)>(→ウィキペディア)、<新宿騒乱>(→ウィキペディア)と、当時の自分自身を思い浮かべる団塊の世代を中心とする人々は今どれほどいるでしょうか? (私ヌルボも当時学生で東京にいました、・・・とだけ記しておきます。)

 今朝の「毎日新聞」に、ちょうど70年前(1943年)の10月21日、明治神宮外苑競技場で開かれた学徒出陣の壮行会で学生代表として「生還を期せず」と答辞を読んだ江橋慎四郎さん(93)の記事が載っていました。記事によると、当時東京帝大文学部の学生だった江橋さんは、その後陸軍に入隊しましたが、整備兵として国内の基地等を転々とし、結局戦地には送られませんでした。戦後は文部省に入り、50年に東大に戻って社会体育を専攻。鹿児島県の鹿屋体育大学の初代学長に就任したとか。
 鹿屋といえばかつては海軍航空隊の基地が置かれ、特攻隊の出撃基地となった所。多くの同世代の若者を死地に送った地の大学に赴任した彼の心情については記事ではふれられていませんが、おそらく複雑なものがあったのではないでしょうか。

 私ヌルボ、これまで各地の戦争博物館・資料館は約20ヵ所ほど見学してきました。鹿屋(航空基地史料館等)に行ったことはありませんが、数年前に知覧特攻平和会館には行きました。

 ここらへんからじわっと本論に入っていきます。

 戦争資料館、あるいは近現代史関係の博物館の企画・展示のむずかしい点は、「資料が多すぎる」ということです。
 数多くの資料・遺品・遺物等の中から何を選ぶか、またどのような説明をつけるか、ということは「歴史をどう見るか?」というまさに現在の立ち位置(=思想性、政治的立場等)を如実に表すものとなります。

 したがって、とくに国・都道府県・市などによる資料館については、その展示内容をめぐってしばしば左右からの抗議の対象になったりもしてきました。

 たしか国立昭和館の開館(1999年)に際してもそのようなことがあったように記憶しています。
 その結果、昭和館の肝心の戦争関連の展示はなんともナサケナイものになってしまいました。具体的には次のようなことです。

①戦争の核心である、殺し殺され、の現場に迫る展示がほとんど皆無である。原爆犠牲者の写真はよく目にするが、戦争の最前線についての展示物が見られないのは致命的だと思う。
②戦地の実態がわかる展示もきわめて少ない。中国・東南アジア・太平洋の島々等々。とくに現地の人々のようす。また彼らの視点からはどんな戦争だったのか?
③戦時中の日本人の苦しさはわかっても、どのような歴史的経緯でそのような状況になってしまったのかがわからない。答えはむずかしいだろうが、考える材料さえない。したがって、戦争も台風や地震のような災害と同じような印象のものとなってしまっている。
④上記のことに続いて、ではだれがどのように戦争について責任があるのか、ほとんど考えられていない。また国民もどのように当時を省みるべきかが全然問われていない。ということは、平和のためにはわれわれは今どのように考え、行動すべきか、という現代の自分や国のあり方を見つめなおすものとなっていない。戦争資料館が、戦争を繰り返してはならない、ということをめざすのなら、このような肝心なことが欠落していては何にもならない。


 こうした弱点は、昭和館に限らず、むしろザラにあるといった方がよさそうです。
 そんな中で、私ヌルボがいいなと思った代表例は立命館大学国際平和ミュージアム(→公式サイト)。展示内容も、それを生かした実践的企画等においても、コンセプトが明確に示されています。
※そこで観た戦前(1929~30)の反戦アニメ「煙突屋ペロー」がY0uTubeにもアップされているはうれしい。ぜひ見てみてください。(→前編・→後編。)

 まあしかし、実物資料や体験者の記録・証言等の資料が充実していれば、博物館・資料館として十分見る価値はあるのですけどね。

 あ、また本題から離れそう。
 で、この歴博の場合ですが、近代に入ってからの1世紀半といっても原始~現代までの長い歴史の一部で、さらに朝鮮・韓国関係はその一部。ということで、限られた展示スペースにおける物は非常に限定されています。
 その点は当方も承知しているとはいっても、やはり上記の昭和館と同様の印象を持たざるをえませんでした。

 たとえば、当時は「日本の一部」だった植民地台湾や朝鮮現地のようす、日本「内地」での朝鮮人の実態、台湾人や朝鮮人から見た日本等々。

 たしかに、以下に載せた写真にもあるようなめずらしい展示資料もありましたが、全体的に見て食い足りない印象はぬぐえず。

 ま、一応こんな展示物があった、ということで写真をアップしておきます。

[近現代]

      
            【日韓併合記念絵葉書】

      
            【東拓事業概況】

      
            【朝鮮米の宣伝パンフレット】

      
            【「朝鮮語読本」】

      
            【三一運動と五四運動、柳宗悦と浅川巧】

      
         【柳宗悦「朝鮮人を想う」の朝鮮語訳】

      
            【朝鮮の名所絵葉書】

      
            【朝鮮視察の栞】

      
            【内鮮協和会絵葉書】

      
            【「大東亜建設と朝鮮」】

      
            【朝鮮→日本の渡航証明書】

      
            【舞踊家・崔承喜のパンフレット】

      
            【在日朝鮮人と朝鮮戦争】

      
            【在日義勇兵の募集】

      
            【在日本朝鮮民主戦線のメーデーのポスター】
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佐倉の歴博にある朝鮮関係の展示物のこと等(2)

2013-10-16 17:18:40 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 昔学校で習った日本史の知識で歴博を見学すると、「教わったことと違う!」ということがたくさんあります。

 大きな時代区分では、平安時代が古代ではなく中世とされていたり・・・。
 原始~古代の年代も、ずいぶん違います。全体的に、「○年前」という数字がどんどんさかのぼっています。
・人類の誕生は今の教科書では500万年、かな? 以前は200万年とか、もっと前は120万年とか。しかし歴博の説明文では700万年前。
・縄文時代の始まりは約1万5千年前、弥生時代の始まりは約3千年前(紀元前1000年)。
※弥生時代の開始年代を「約3000年前」とするのは歴博の見解。2007年の企画展示で注目されました。詳細は→コチラ
・古墳時代の始まりは、以前は3世紀末だったのが半世紀ほどさかのぼり、3世紀半ばに。したがって、「卑弥呼の時代はまだ弥生時代で彼女の墓は古墳ではない」等々と以前言っていたような言説は常識ではなくなてきている。

 前の記事に続いて、今回は[近世]以降です。

[近世]
 日本史教科書ではふつう近世の最初に置かれている安土桃山時代は歴博の区分ではなぜか中世。
 で、江戸時代から近世です。

 昔の日本史教育では常識だった江戸時代=鎖国時代というイメージは、かなり前から大きく変わっています。

 すなわち、長崎口・対馬口・薩摩口・松前口という「4 つの窓」を通じて、それぞれオランダ&中国、朝鮮、琉球、蝦夷との間に交流が行われていた、というものです。

 歴博の展示も、そのような大枠にしたがって4つのコーナーが設けられていました。
 その1つの日朝関係のコーナーの全体像がコレ。(下写真)

          

 狭くはないが、十分なスペースとも言い難い広さ。どういう展示物を並べるか、担当者としては思案のしどころだったと思います。

 メインは正面に配された2つの絵図。

       

 左は「東莱府使接倭使図」(韓国国立中央博物館蔵)、右は「朝鮮通信使歓待図屏風」(京都泉涌寺蔵)です。
 教科書等でよく見る「朝鮮通信使来朝図」(羽川藤永筆)(→コチラ)等ではなく、朝鮮側の視点からも対比させて展示している点がミソでしょうか。

      
 上のような説明のほかにも、展示台の手前に下の写真のような解読の手引きが置かれていていました。

      

      

 具体的な説明が書かれていて興味がもたれます。時間があればじっくり読むところですが、かけ足見学のためパスせざるを得なかったのは残念。

 最初は上・下2回のつもりだった記事ですが、予定変更。[近代]以降は(3)に回します。
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佐倉の歴博にある朝鮮関係の展示物のこと等(1)

2013-10-15 18:32:38 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 1つ前の記事で、つくば市の第一印象を「シムシティの、初期の発展段階で停まったまま何十年も経ったような街」と書きました。

 その翌日地元の方と顔を合わせた時、そのように言うと失礼になるかなとも思って、「こういう雰囲気の街は初めてです」とボンヤリとした言い方をしたら、彼ご自身の口から「シムシティのような街ですよ」という言葉が出たのには思わず笑ってしまいました。

 せっかくつくば市に来たからにはと、13日(日)所用を済ませた後筑波大学からすぐ、国土地理院地図と測量の科学館に行ってみたところ、12・13日は館内施設の点検のため臨時休館! 6月聞慶(ムンギョン)セジェ道立公園に行った時も古道博物館(옛길 박물관)は臨時休館だったし、このところついてないです。

 そこで、横浜にまっすぐ帰るのもアホらしいと思い、道草することに決めました。一応目的地は佐倉の国立歴史民俗博物館(歴博)。まだ行ったことがなかったので・・・。ずっーっと前に地理・歴史巡検で千葉県各地を貸切バスで見学したことはあったのですが、それは歴博の開館(1983年)以前だったので・・・。それどころか、成田空港の開港(1978年)の前年だったのか? まだ完成してない建物に入って見学した記憶がうっすらと・・・。

 成田にネット検索でお得なホテルが成田にあったので即予約して直行。
 つくば市街をスタートした時の道路の表示板がコレです。

         
   【「49㎞」という数字を見て、「遠い!」と思うのがフツーの感覚でしょうね。】

 日常生活で「徒歩30分」というと「遠いなー」とウンザリしますが、山歩きをしていると、目的地まで「あと2時間」とか書かれている案内板を見ると「もうすぐだ」と思って元気が出ます。状況によって距離や時間についての感覚は変わります。
 私ヌルボ、バイク(原付)走行の場合「48㎞」という距離はもちろん近くはないものの、遠いというレベルでもありません。

 ただ、地図を見て「アレレ?」と思ったのが成田はつくばよりも東に位置するのですね。佐倉も少し東。
 東京→千葉→茨城という順番に並んでいるという先入観があるのが間違いの元でした。横浜に帰る途中に千葉県で道草をするつもりが、これでは距離的にほとんど変わらない移動です。まあ、茨城県取手市と千葉県銚子の位置関係を思い浮かべればすぐ気がつく誤解ではありますが・・・。
 (そういえば、韓国の地理でも江原道束草が北朝鮮の開城より北にあることは知っていましたが、江原道原州がソウルより南にあることはこの6月に初めて知りました。)

 そんなこんなで、往路(10日)は横浜→牛久約100㎞牛久→つくば約20㎞走行。
そして復路(13日)はつくば→成田約50㎞、(14日)成田→佐倉約20㎞佐倉→横浜約80㎞走行。
 合計250㎞か。違うルートで帰ってきたため、千葉県は10の市と1つの町、茨城県は5つの市と1つの町を走りました。今まで漠然としか頭に入っていなかったそれらの位置関係がわかったのは収穫。実は名前も知らなかった所も複数あったんですけどね。

 道で印象に残っているのは、国道408号つくば~牛久間の並木。(下写真) モミジバフウという名の巨木がずっと続く道で、非現実的な光景の中を走っている感覚に捉われました。(→参考。)

       

 延々と続くといえば、八千代市内での国道296号(成田街道)の渋滞。3連休の最後というわけではなく、初めて通ったヌルボにも原因はすぐわかる。つまり道幅の狭さと、交差する県道等の多さ。ネット検索するとやっぱり渋滞で有名な道。
 国道といっても実にさまざま。牛久→稲敷の小野川沿いは農村地帯で、季節柄稲わらを焼く匂いが漂っていました。なぜか懐かしさを感じる、好きな匂いなんですよ。(という人はけっこう多いみたい。)

 あ、タイトルと関係ないことばかりで1500字も書いてしまった!
 で、歴博に着く・・・直前に佐倉高校の前を通ったのですよ。あの国民栄誉賞長嶋さんの母校。その歴史的風格を感じさせる佇まいと、「1792年創立の佐倉藩学問所時代より蓄積・系使用された和漢洋の書籍・歴史資料」を所蔵・展示している鹿山文庫が土日祝日無料公開、との看板があったので入って見てみました。これは正解! 「ハルマ和解」等の書籍その他の歴史資料が意外なほどたくさん展示されていて、佐倉の学問教育の風土にはからずも目を開かされました。西村茂樹もここの出身なんですね。もちろん長嶋選手関係の展示物(バットや昔の写真等)もあり、また別の建物で「梅ちゃん先生」のロケ地にもなったという明治時代の洋風建築の旧本館(国の登録有形文化財)もありで、ホントにうらやましいなー、という学校でした。

 さてと、やっと本題だぞ。(笑)
 10時30分頃入館して閉館まで6時間。原始・古代から現代まで、ふつうに観て回ったらとても時間が足りません。つとめて先を急ぐようにして、なんとか一通り眺めてきました。朝鮮・韓国に関係する展示はやや念入りに説明を読んだり写真を撮ったりしましたが・・・。

 とりあえず、朝鮮関係の主な展示物の写真を紹介します。(館内はストロボを使用しなければ撮影OKです。)

[原始・古代]
 骨格模型による「縄文人・弥生人と朝鮮半島無土器時代人との比較」については写真省略。要は弥生人は縄文人より背が高く、朝鮮半島無土器時代人との共通性がみられる。つまり朝鮮半島から渡来した人々が縄文人と混ざり合って九州~本州の弥生人が形成されたと推定されるとのこと。

         
 この展示物のタイトルは「木の鳥」とあるだけですが、いわゆる「鳥竿(とりざお)」、韓国語では「솟대(ソッテ)」ですね。これについては、過去記事<韓国オタクの佐賀紀行① 吉野ケ里遺跡の鳥竿(ソッテ)>で書きました。

        
 上は漢王朝と周辺諸国との間の関係を示した地図の一部。「漢倭奴國王」の金印は有名ですが、同じ頃漢周辺の諸勢力も同じような印を賜っていました。平壌で発掘されたのが「楽浪太守掾王光之印(낙랑태수연왕광지인)」です。
 写真のピントが合っていないので、ネット検索で拾ったのが下の画像です。
          

[中世]
        
 上は主に15世紀の「李氏朝鮮からの経典・朝鮮鐘の輸入」のグラフ過去記事でも紹介した金文京「漢文と東アジア」(岩波新書)に、中世は日本の僧侶が大量に中国との間を行き来したということが書かれていました。当時の仏教文化の盛んな交流がうかがわれるグラフです。(例の対馬の寺から盗まれた仏像の件も、こうした歴史をふまえて考察してほしいものです。)

 [近世]~[現代]については(2)に続くということにします。
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「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(下)

2013-09-25 19:14:24 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 →「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(上)
 →「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(中)

 9月5日の記事<「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(中)>に記したように、韓国では8月20日付でこの日記が「日本軍慰安所管理人日記」との書名で安秉直(アン・ビョンシク)教授の解題つきで刊行されました。(下の画像)

         

 私ヌルボ、「その「読まれ方」については(下)に続くということにします」と書いたものの、20日も間が空いてしまいました。

 この日記発見については、先の記事でも書いたように、日韓両国の新聞等で大きく取り上げられました。
 そして書籍刊行にあたっても<聯合ニュース>が新刊紹介にこの本を取り上げ、また<オーマイニュース>にもこの本の紹介記事がありました。

 しかし、<聯合ニュース>の記事は「朝鮮日報」等の記事をちょっとつまみ食いしたようなもので実際この本を読んだのかさえ疑問な内容です。
 <オーマイニュースの記事>も、第4次慰安団の説明と、「日本軍にる組織的動員と慰安所運営の直接的主導を証明するもの」という本書の「意義」に重点を置いたもので、日記の内容に即した部分はわずかしかありません。

 一方、<ヘラルド経済>の記事は「韓国人らしい先入観」を保留しつつ、日記の内容を具体的に紹介しています。
 シンガポールに移住した後、筆者はタクシー部の事務を担当してから再度シンガポールの菊水クラブで帳場の仕事を再開する。他国で男女が畑仕事をする姿を見て農村生活を懐かしんだり、十五夜の月を見て、いつ故郷の空で月を見ることができるか感傷に浸ったりする一方、行先のわからない人生に対する漠とした不安を表した部分もある。朝鮮植民地支配を正当化するための戦闘映画で知られる「望楼の決死隊」、陸軍将校の未亡人に対する献身を扱った軍人の映画「無法松の一生」などの映画観覧、興南宝くじ8等(50円)に当選した話等の余暇生活もうかがうことができる。
 末端ながらも植民地の知識人グループにあった筆者の歴史意識がうかがわれるくだりは、当時の朝鮮知識人の風景と言っても間違いではないようだ。
 筆者は1943年早々に書いた日記で、「大東亜聖戦2周年の1943年新春を迎え、1億民草はひれ伏し謹んで陛下の万寿無疆であられることと皇室の一層の繁栄されることを奉祝するものである」とし、東に向かって礼をする。また、8月1日ビルマの独立宣言日には「日本 - ビルマ同盟条約を締結し、英米に宣戦布告をした。今後永遠にわが国を盟主としてビルマ国の隆盛することを祝う」と書いた。


 ・・・このように、「現在の」韓国人が、「当時の」朝鮮人の意識や生活を、まずはあるがままに読み取ろうという姿勢はいいことだと思います。(ここから、彼を「民族の裏切り者!」と(現在の韓国人の立場から)非難したり、当時の日本の植民地支配や軍国主義を(現在の日本人の立場から)肯定することは、どちらも「短絡的思考」というものです。)

 さて、この本を読んだ人たちの感想は?
 ・・・と思って<教保文庫><YES21><アラディン>等の大手ネット書店の読者レビューを見てみました。
 ・・・が、アレレ!? ほとんどないのです! (<教保文庫>には全然ナシ。)

 ま、「!」をつけるほど意外なことでもなくて、実は「想定内」だったんですけどね。、
  ①淡々とした内容でおもしろくない。
  ②日本軍のひどい行為が書かれていない。
  ③慰安婦たちの貯金・送金とか、映画鑑賞とか、抱いていた慰安婦のイメージと全然違う。
 ・・・ということが当然予測されましたから。

 一応、その数少ない韓国人読者の感想を見てみます。全3件。これがすべてです。

 まず<YES21>は次の1件だけ。

 ★★★ とても簡単なことだとも言えるが、初めの完全な解題以外は一次資料であるだけで誰かの日記にすぎない。
 日本軍性奴隷にされた女性の思いやりなどを感じる人間の日記ではないので、真剣に状況を想像しながら読むとだんだん気持ちが悪くなる本である。
 必要でないのなら、お金のムダになる可能性が高い本であることを留意しなければならない。


 ・・・この読者は自分の慰安婦像に何ら変更する考えはないみたいです。

 次に<アラディン>

  翻訳者がニューライトの先鋒で、慰安婦を否定した人ですが、どのような意図で翻訳をしたのか分からないですね。本当に、心が不快です。

 ・・・韓国の輿論、学者間の対立、自身の学問的誠実さ等々、安秉直教授にもたしかにいろいろ葛藤はあるかもしれませんね。しかし、安直なレッテル貼りは自分の目を曇らせていまうことになるんだけどな。

 3つ目は同じく<アラディン>より。
 「日本統治期を生きた一般市民の淡々とした記録」と題された長文の感想です。

 ★★★★ この本は、シンガポール、ミャンマー等で「事業」を展開した一朝鮮人の日記を現代語に再構成したものである。 
 著者は創氏改名をして、日本帝国の一市民として生きてきた人だ。
 彼は日本の勝利のニュースに拍手をし、日本の敗北には残念さを感じる「同化された」朝鮮人だ。
 日本に対する反感や、抵抗感はほとんど見られず、ただ時代に順応して生きる人に見える。
彼はビルマで慰安所を経営する。
 慰安所の具体的な風景と日常についての描写はあまり入っていない。
 ただ、今日営業を何時にした、官公署に行ってきた、誰が訪ねてきた程度の単純な記録が大部分だ。
 しかし、その中でも、我々が想像しにくい姿もたまに見られる。
 慰安婦たちに代わって故郷に送金をしてあげたりもし、著者自身も朝鮮にいる家族のために送金をする。
 慰安婦たちの中には仕事をやめて朝鮮に帰る人もいて、帰ったら無事到着したと著者に葉書を送ったりもしている。
 そして、著者は自分の業所で働いていた慰安婦たちと会って別れる時おたがいに涙を流したりもしている。
 虐待や告発の記録を期待した人なら失望するかもしれない。
 反対の立場で日本擁護論を主張する人々も失望するかもしれない。
 極端な両方の立場と想像とは少し違う、ちょっと気が抜けた平凡な日々の記録であるからだ。
 しかし、この淡々と感じられる小市民の記録が、おそらくその時に住んでいた「普通の人」の軌跡であったかもしれないという気がする。
 内容自体は衝撃的な内容もなく、感動的な話もなく、文学的でもない。
 しかし、慰安所を運営していた人の記録だったものが価値として認められると思う。
 一日一日何を食べ、どんな人々に会い、どんなニュースを聞いて、どんな事実に一喜一憂しているかを知ることができるという点で、当時のようすを垣間見ることができるという点は重要であるといえるだろう。
 ただ、歴史や、慰安婦問題に関心がない人なら、(書籍の価格を考慮すると)退屈して、地味に感じられるかも知れない。


 ・・・いやー、私ヌルボ、このborntorun7さんのレビューは大きな共感をもって読みましたねー。
 こういう読者が韓国にもいることを心強く思います。

 ところで、この日記の日本語版はいつ出るのかな?
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「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(中)

2013-09-05 23:55:34 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 9月2日の記事の続きです。

 「慰安所管理人の日記」についての報道内容が日韓で大きく異なるため、当然それぞれの読者の反応も違います。いや、「同じ」と言った方が合っているかも。どちらも日記の発見を「喜んでいる」声がほとんどなので・・・。

 日本では「慰安婦たちは映画を見に行ったり、貯金をしたり送金したり、旅行証明をもらって旅行したり」で、これで「性奴隷」はないだろう!としてやったりという反応。
 日記には、管理人氏がシンガポール在住時の44年10月25日、元慰安婦が結婚したので「知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われた」という記述もありましたね。

 一方「朝鮮日報」の読者の反応は、1面の記事(→コチラ.要会員登録)と6面の記事(→コチラ)のそれぞれに<100자평(100字評)>というタブが付いていて、そこに読者評が寄せられています。
 1面の方の読者のコメントは2つだけ。
・「日本のヤツラが<かっとなって死ぬ旗>を持ってのさばっているが、それが自分たちを亡ぼす<かっとなって死ぬ旗>なので馬鹿みたいな倭奴(ウェノム)たちだ、ハハハ」  
・「大地震で日本はいつかその天罰を受けるだろう。韓国は水1ビンもやるな[賛成2人]

 ・・・この2件だけですが、こんな明瞭なヘイトスピーチを「韓国の代表紙」を自任する「朝鮮日報」がそのまま載せてしまっているのは「恥!」と思わないのかな?
 6面の方は46もコメントが寄せられています。
・「1日も早く南北統一が鳴って日本に対抗する力を育てなければならない。必ず倭狗(ウェグ)たちを地上から絶滅させて受けた侮辱の10倍100倍1000倍にして返さなければならない。(以下略)」[賛成1] 
・「静かな外交だという日本の非違に合わせないで、人権に対する世界基準に合わせて政策を施行せよ。ビルマ・シンガポール等慰安所が設置された場所に記念館を造って日本軍と日本政府がどんなことをして、韓国等各国の少女たちがどんなに蹂躙されたか知らせなければならない。そうでなければ大阪市長のような者が続けて捏造宣伝とかをしゃべり散らす。日本の青少年たちが海外でも歴史を知らねばならない。[賛成2]

 ・・・やっぱり、こんなコメントがふつうか。
 [賛成47:反対0]という圧倒的な共感を得たコメントを見てみましょう。
・「倭狗の蛮行を年代別にくわしく記録した歴史付録を作って後世に代々教えなければならない」
 次のが「賛成10:反対0」。
・「こんな資料でなくても日本の政治指導者たちで朝鮮人慰安婦が強制動員されたことを知らない者はない。日本政府の記録保管所に行けば何でもある。ただ蛮行を認めたくないだけだ。ドイツのように自ら反省して補償するそんな民族ではない。(以下略)」
 ・・・近頃、韓国からしきりに「日本と比べドイツは・・・」という声が聞こえてきます。これに関連して、最近黒田勝弘氏が書いた<〝壮大な誤解〟韓国こそ「ドイツに学べ」>と言う記事(→コチラ)は「おもしろかった」です。「韓国のテレビインタビューで「日本人としてメルケル首相の写真をどう思うか?」と質問されたので「立派な姿です」と答え、「ところで韓国ではしきりに日本に対し『ドイツに学べ』というが、では歴史的に韓国はナチス・ドイツ時代のどこに相当するのか。フランス? ポーランド? チェコ? それともユダヤ人…」と反問したところ、相手は絶句していた」というもの。続けて「あえて韓国に相当するような国を探せばオーストリアかもしれない」として、そのナチス・ドイツとの過去の関係を国際社会に謝罪したオーストリアのように「韓国は日本との過去を謝罪、反省しなければならないことになる」とも。
 新聞記事の内容で、ちょっと驚いたというようすなのが次の人。
・「慰安婦たちが金を受け取ったというのは事実なんだなあ・・・当時の数百円はちょっと大きな金額なんだが?」
 ・・・強制連行のイメージとの食い違いに引っかかったということでしょう。これに対しては「慰安婦がそんな役目をすることを知っていて前借金を受け取ったのだろうか? ふつうに労働するのかと思ったのだろう。考える脳がないということを公開するんだな」とのコメントが寄せられています。
 ほとんどワンパターンのコメントはここらへんにして、[反対]の多かった少数意見の方を見てみましょう。
・「東南アジア性観光とアメリカ、オーストラリア、カナダ等に娼婦を最も多く輸出している国で、はたして日本を悪く言うことができるか? 北韓が中国に女性を売る現実はどうだと? 国が弱ければいつでもそんな目にあうものなので、強くなった国を打ち破る左派たちがいるかぎり外勢にやられる悲しい歴史は反復される」[賛成2:反対7]
 ・・・これに対しては「いや、この御仁は一体全体基本的な知識もない人か? アメリカ、オーストラリア、カナダ等は、自発的かさもなくば本人がやむなく選択したものだが、記事内容は(日本軍の)強制・(本人の)受動的意味を持っているではないか!!! (中略) 北韓が中国に女性を売っているとは誰がそう言うのか? どこでウソ情報を流し回っているんだ?!!! 気をつけなさい!!!」「こんなことも教えてやらなければならんのか? 記事は日本政府が出て公権力をもって仕出かしたというのが核心だろ。もちろん性輸出はどの国もやっていることは誰もが知ってることだが・・・」という反論があります。
 たしかに、国が関わっているというのは大きな問題点で、(公娼制の歴史は世界的にあるとしても)弁護するのは道義的にも「戦術的」にもよいことではありません。。
 しかし、この「朝鮮日報」の記事を読んだ人は強制連行を、いわゆる「狭義の」それと捉えているようです。今、国や軍隊の「広義の」関わりを否定している日本人はまずいないと思うのですが・・・。

 このような多くの韓国での読者の反応に対して「アタマにくる」「ウンザリ」という日本人が大半だと思います。ただ、今日発売の「週刊文春」9月12日号の記事「韓国の妄言に“10倍返し”だ!」で、あの呉善花氏は、韓国社会の世論と新聞記者たちのエリート意識には断絶がある、と語っています。「一般民衆の反日への関心が薄くなっている中、新聞だけが過激化しており、特に先頭に立って先導しているのが朝鮮日報です」とのことです。
 たしかに、韓国民全体を反日の一枚岩と見るのは早計に過ぎるかもしれません。
※日本でも新聞・テレビ等のニュースに即座に反応して韓国に怒りをぶつける人はたくさんしますが、たとえば→コチラのブログ主さんのようにいろいろ調べたり考えたりしなから情報に接している人も少なからずいます。しかし、韓国サイトの中ではなかなか見連れるのがむずかしくて・・・。(「いない」とは言いません。「未発見」です。)

 ところで、この日記発見の報道に対して、上記のような反応を示した韓国の皆さん、実際にこの日記を読んだら肩すかしをくらうのでは?と私ヌルボ思ったのですが・・・。
 また、今「国際化」した慰安婦問題は、「狭義or広義の」強制云々よりも、「慰安所における慰安婦の状況が奴隷的なものであったかどうか」が論議の焦点になってきたということですが、どうもそういうことになると、この日記は挺対協をはじめとする運動体にとっても「不利」に働く要素が多いのでは、とも思われます。

 ここで蛇足ですが、誤解のないように、ということで書いておきます。
 私ヌルボ、この記事で韓国の新聞や世論の「反日」に凝り固まった固定観念は否定し、またその慰安婦の「強制連行」の固定的なイメージもなんとかしてほしいと思っている1人ですが、慰安所の実態が「淡々とした」もので、慰安婦たちが映画に行ったり貯金したり、という事実があったたにしろ、慰安所を肯定的に捉える視点から反駁してはダメだと考えています(これまた道義的にも「戦術的」にも)。いくら近代化による恩恵があったとしても(←実際にあった)植民地支配を是認してはいけないのと同様です。

 というところで、この日記が『日本軍慰安所管理人日記』との書名で8月20日付で安秉直(アン・ビョンシク)教授の解題つきで刊行されました。(下の画像)
 
         

※山口県立大・浅羽祐樹准教授の16日のツイートによると、「教保文庫の新刊書コーナーに7冊平積みされていました」とのことでした。
 その「読まれ方」については(下)に続くということにします。

 →「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(下)
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「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(上)

2013-09-02 23:37:36 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 記事のまとめ方に手間取っている間に、もう26日経ってしまいました。
 8月7日の毎日新聞(&朝鮮日報)で報道された「慰安婦:慰安所管理人の日記発見」についてです。

 当初はその記事について書くつもりでしたが、その後その本の韓国語版「위안소 관리인 일기(慰安所管理人の日記)」が発見者の安秉直(アン・ビョンジク)ソウル大名誉教授の解題つきで8月20日付で刊行されました。
 慰安婦関係では、朴裕河世宗大教授の「帝国の慰安婦(제국의 위안부)」(韓国語)も8月12日に発行されています。
 それらの内容や、報道のされ方、一般読者の反応等々、いろいろ材料を集めたりしているうちにどんどん記事の完成が遅れてしまったというわけです。

 さて、このニュースについて意見を述べる前にまず言っておきたいことは、日韓の報道のしかたに大きな違いがあるということです。

 まず8月7日の「毎日新聞」と「朝鮮日報」の紙面を比較してみます。
 この「慰安所管理人の日記発見」のニュースは、両紙とも1面でトップではないものの、要旨を大きな紙面を割いて載せています。
 また、中の面(どちらも6面)で、その詳細を紙面の半分以上を充てて記しています。

 まず両紙の1面全体を比べてみましょう。
 

  

  

 【「毎日新聞」は左上の流し記事、「朝鮮日報」は中央下の写真入り囲み記事で、かなり大きく扱っています。】

 それぞれの記事の見出しを比べてみると・・・。
    
赤線の大きな見出しは<‘日本軍が慰安婦組織的動員’日記出てきた>緑枠の小見出しは<ビルマ・シンガポールの日本軍慰安所管理人が書いた日記/“1942年7月10日朝鮮人の娘数百名‘4次慰安団’/日本軍用船に乗って釜山港出発、8月20日ビルマに到着/20名ほどずつに分けて日本軍駐屯地に配置された”> 


 上掲の「毎日新聞」1面の記事は→コチラで(今のところ)読むことができます。(コピペするなら今のうち、です。)
 「朝鮮日報」1面の記事は→コチラ。(会員登録(無料)が必要。) (日本語版は→コチラ)です。(これは有料。)

 いろいろなことが書かれていると思われる日記の中から、「毎日新聞」は慰安婦たちが映画見物したことを最初に見出しとして掲げています。記事本文では、慰安婦に頼まれて本人の貯金から引き出したお金を送金したことも書かれていますが、これらは「朝鮮日報」では見出し・本文とも記述されていません。
 「朝鮮日報」の方は<‘日本軍が慰安婦組織的動員’日記出てきた>と、日本軍の直接的・強制的関与を思わせるような文言です。日本語版の見出しは<慰安婦:慰安所管理人の日記発見、性的奴隷の実態明らかに>と、さらに「直接的で強い言葉」を用いています。

 このようなニュアンス以上の差異は、6面の記事内容にも如実に表れています。

 まず「毎日新聞」。
       

 この記事は→コチラで読むことができます。上の画像では切れてしまっている、下段の日記抜粋部分も含まれています。
 しかし、<慰安婦の日常 淡々とですからねー。日記抜粋部分もとくに衝撃的な記述はなく、まさに「淡々と」綴られています。

 次に「朝鮮日報」の6面。
   
 この記事は→コチラで見られます。(日本語版は→コチラ。)
 上の大きな横見出しは<日本軍慰安所ビルマ25ヵ所・シンガポール10ヵ所・・・軍の命令により移動>です。
 (日本語版の方は<慰安婦:安秉直名誉教授、日本軍による組織的動員を立証>という見出し!)
 また、この紙面の右端には旭日旗の写真入りで<‘旭日昇天旗 使用 問題ない’日本 公式化推進>という記事、紙面下段には<日本政府、慰安婦強制動員の文書はないと“関与しなかった”と否認するが・・・>という「関連記事」を載せている点も目を引きます。
 記事の最初の方の写真の女性たちは、戦争末期にビルマと中国の国境地帯で発見され、連合軍の保護を受けている朝鮮人慰安婦とのことです。
 この記事には、「毎日新聞」のような日記の「淡々とした」記述を多くの行を費やして載せた部分はなく、紙面上部中央の日記の写真の下に「ポイントとその説明」という形で載せています。日本語訳は次の通りです。

     

 どちらの新聞もニュースソースは同じなのですが、なんと違うことか。

 また、この日記を公表し、記者たちに説明した安秉直(アン・ビョンジク)教授の話もずいぶん違います。

 まず「毎日新聞」。

    

 この安秉直教授と、木村幹神戸大教授に対するQ&A記事は→コチラで読むことができます。

 ところが、「朝鮮日報」はと見てみると・・・。

 安名誉教授は「41年12月に太平洋戦争が始まった後、日本軍が数度にわたって慰安婦を連れていったといううわさが出回ったが、今回公開された日記でその実態が判明した。日本軍慰安所の運営実態を示すこの日記によって、慰安所が軍の組織編制の末端部に編入されており、従軍慰安婦が『性的奴隷』状態にあったことを再確認できる」と語った。
 ・・・この一文は「毎日新聞」とほぼ共通です。
 安秉直名誉教授は「従軍慰安婦は、徴用・徴兵・勤労挺身隊と同じく、戦争の本格化により日本が戦時動員体制の一つとして国家的レベルで強行したこと。しかも慰安婦は、募集時に自分たちがやることをきちんと説明されず、人身売買に近い手法が利用されたという点で『広義の強制動員』と見ても差し支えない」と語った。
 ・・・このあたりは、「聞く人(読む人)」の立場で受けとめ方が違ってくるような・・・。
 なお「狭義の強制」と言われる、拉致のようなものはなかっただろう」とか、「1990年代初め、慰安婦支援団体が実施する調査活動などを手伝った。だが、「強制連行」と最初から決めつけて証言集めをするような形だったので、運動からは手を引いた」という部分はありません。

 以上のように見てみると、両国の新聞(とくに韓国紙?)とも、ニュースソースが同じでも、それぞれの「一般読者が望んでいるように記事を書いている」ように思われます。それ以前に、取材記者が情報提供者の話を「自分が聞きたいように聞き、解釈している」のかもしれません。
 ※木村幹教授が8月20日ツイッターで「そういえば例の某日記関係で、在韓国日本大使館が安先生に抗議に行った、という話があった。え~、抗議する相手違うんじゃないのぉ、と思うんですが」と呟いています。抗議するなら相手は新聞社ですよねー。

 このようなメディア報道の大きな落差。結局は、それぞれの国の読者が自分の都合のいいようにニュースを受けとめるという当然の成り行きとなります。

 続きは、その(主に韓国の)読者の反応を見てみます。

 こういうネタは、メディアリテラシー教育のいい材料になるかもなー・・・。

[補足その1] 韓国では、8月8日ソウル聯合ニュース(→コチラ)で<일본군 조직적으로 위안부 동원•관리"…자료 공개(日本軍組織的に慰安婦動員管理・・・資料公開)>というニュースが伝えられました。(日本語版は→コチラ。)
 高麗大学の韓国史研究所の朴漢竜(パク・ハンヨン)研究教授が日記の現物を手に記者会見して公開、というハテ面妖な!?記事。これについては→コチラ参照。
 つまり、背景として韓国内での学者間の対立の激しさがあるということ。具体的には、8月6日に資料を公開した安秉直教授は「ニューライト」の学者であり、8日の記者会見で日記の原本を提示して記者会見した朴漢竜研究教授は彼を厳しく批判(非難?)してきた左派・民族主義の側の学者です。
※この件について、後述の木村幹先生の8月6日から数日間のツイートはとてもオモシロイ(←不謹慎!)です。

[補足その2] 「毎日新聞」の記事に登場している木村幹神戸大教授は7日朝「今回の日記資料発見は、全面的に安秉直先生らの学問的功績です。自分は単に公表のお手伝いをしているだけですので、誤解のないようお願いいたします。m(_ _)m」と自身のツイッターで記しています。翌8日には「今回のケースは、韓国においても安先生みたいに、史料を忠実に読み込んでちゃんとした仕事をしてくれる信頼できる研究者と、自分たちのイデオロギー的立場を守る為には手段を選ばない連中と、2種類居る、という事を典型的に示している、と思います」とも・・・。
 また木村幹教授自身はいわゆる「反日」あるいは「嫌韓」といった政治的に鮮明な主張はせず、実証的な研究を旨としている研究者です。(というのもひとつの「政治的立場」ではありますが・・・。)
※7日(19:33頃)のツイッターでは次のようなやりとりがありました。
@matsurowanuご自身ではどうでしょうか。"性奴隷"という語を使用しますか?
@kankimura自分は運動はしませんから使わないでしょうね。
@matsurowanu "運動用語"なのですね……。応答ありがとうございました。
@kankimura何だかいろいろと自分を「試そう」としている人が増えていて面倒くさい。因みに自分は、政治的な運動はしないんですよ。

※最近木村幹教授のメディア登場が多くなっているのはそんな立ち位置からでしょう。「左派」代表=吉見義明中央大学教授や「右派」代表=秦郁彦元千葉大学教授のどちらかのコメントだけ出すとそのメディアの姿勢が問われるので、「中立」的な木村教授を起用するというもの。それでも「木村幹教授は在日か?」等々の噂がネット上に見られるのは、木村教授が紹介する韓国側の考え方を木村教授自身の主張と早トチリした人の大誤解によるものでしょう。
 木村先生、8月6日にはこんなツイートも。
@kankimura 相変わらず、ある国や人の見方を「紹介」することと、その見方を「擁護」することの区別がつかない人が多い。

 →「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(中)
 →「慰安所管理人の日記」をめぐる日韓の報道&読者の反応の無視できない大きな落差(下)
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「NHKスペシャル 知られざる脱出劇~北朝鮮・引き揚げの真実~」を見て(上)

2013-08-31 23:48:32 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 見逃してしまっていた8月14日(水)放映の「NHKスペシャル 知られざる脱出劇~北朝鮮・引き揚げの真実~」を2週間遅れでやっとNHKオンデマンドで見ました。
※実はYouTubeにもアップされています。(→コチラ。)

 番組全体は、鳥瞰図的な視点と、個別の事例という「虫瞰図」的な視点という両面で構成されています。

 私ヌルボとしては、「知られざる」とは具体的にどういうことを指しているのかに興味がありましたが、それが具体的に語られるのは、番組のちょうど中ほど、慶北大のチョン・ヒョンス(田鉉秀)教授がロシア国防省公文書館で見つけた資料について説明する辺りからです。
※この番組の内容には直接関係ありませんが、チョン・ヒョンス教授は進歩陣営の立場を表明している人で、昨年の大統領選では当初安哲秀、彼が下りてからは文在寅支持を言明していました。

 引き揚げについて、鳥瞰図としては、番組の冒頭部分で、1945年8月の敗戦当時海外に400万人近くの日本人民間人がいたことや、うち北朝鮮には20万人以上いたこと、その北朝鮮にいた人たちのほとんどが自力脱出に追い込まれ、3万5千人という多くの人が脱出できずに死亡したことが説明されます。
 そして「なぜそのような多くの命が失われたのか?」という疑問が提示されて、その「70年間近く謎とされてきた」ことが、上記の新資料によって「知られざる」裏事情が明らかになった、というわけです。

 その「70年間近く謎とされてきた」こととは、要約すれば次のようなことでした。

 [チョン・ヒョンス教授によれば・・・] 
①ソビエトは早い時期から日本人の状況悪化を把握していた。
(1945年9月に北朝鮮北部で288人の日本人が餓死したとの報告があった。また平壌周辺で毎日のように餓死者が出ていること等も。)
②1946年1月米ソが北朝鮮の日本人についてふみこんだ話し合いをしていたが、ソビエト側は日本人が食べる米の費用をアメリカに押し付けようとして拒否され、アメリカ側は釜山からの帰国船は自分たちが担当するが鉄道輸送はソビエトが担当することを求めたが、これはソビエト側が拒否して協議は決裂した。

[国文学研究資料館の加藤聖文助教が今年3月ロシアで発見した新資料によれば]
③1946年4月、ソビエト外務省の求めで海軍は23万人の日本人引揚げに必要な船の数を6千トンの船50隻と試算。しかしその1ヵ月後、船の用意は海軍ではなく国防省の管轄では、と手紙。こうしたソビエト内部でのやりとりの間、引き揚げはさらに遅延。つまりは、現場でただちに対応・解決できないというソビエトの体制に起因する問題である。

[「初めて見つかった」というアメリカ軍がソビエト軍に送った書簡](←誰がどこで見つけたのかな?)
④北から脱出してきた膨大な数の日本人の保護と輸送にかかる巨額の費用や持ち込まれる伝染病に苦慮したアメリカ軍は、ソビエト軍に38度線を厳しく封鎖することを求めた。そして6月上旬には1日4800人を超える日もあった北からの日本人ま数は6月下旬には激減し、わずか2人という日も。
 その後アメリカ軍は、ソビエト軍に「協力的な行動に感謝を表明」する手紙を送っている。


 ・・・最近明らかになったこととはいえ、ソビエトについては「さもありなん」といったところです。しかし、アメリカがソビエトに38度線封鎖の強化を求めていたというのはオドロキでしたね。
 しかし、考えてみれば「人道」とか「良識」とかを全面に掲げていたとしても、およそ国としては費用や軍事・外交等の国益が最優先であることは今も変わりはないでしょう。

 当時の日本政府も、大量の日本人が海外から引き揚げてきたら、国内の仕事や食糧や住宅等々の問題が一層深刻化するということで「北朝鮮の日本人保護に積極的に動かなかった」とのことで「現地で共存してほしい」(!)(←内務省の文書)などという方針を打ち出したとか・・・。

 北朝鮮からの引き揚げについては、本ブログでも2011年4月の記事<駒尺喜美「雑民の魂」を読む - 五木寛之の強烈な朝鮮原体験(3)>で書きました。
 そこで私ヌルボ、それがとくに苛酷だった理由を3つあげました。

①8月8日の宣戦布告以降「満州」・朝鮮北部に侵攻してきたソ連軍により多数の日本軍人が抑留され、ロシア人兵士による略奪、放火、殺人、暴行、強姦のような蛮行が甚だしかった。現地の朝鮮人に保護された日本人もいた一方、一部朝鮮人による暴行や家財略奪の事例も多い。
②南朝鮮ではアメリカ軍政による計画輸送により1946年3月にほぼ引き揚げを完了したのに対し、北朝鮮ではソ連軍が38度線を封鎖して公然の南下を許さなかった。そのため多くの日本人は命がけで38度線を越えなければならず、その過程で多くの犠牲者を出した。
③捕虜収容所に収容された日本人たちは、ふとんや衣服も不十分な中で、零下20度以下にもなる厳寒の冬を越さなければならず、また発疹チフスの大流行によっても多くの犠牲者が出た。


 これらについてもこの番組で説明されていましたが、新たに次の次の項目を追加します。

④日本人の状況を知りながらも、軍や政府の内部の問題で速やかな引き揚げを行わなかったソ連の責任は非常に大きく、また日本政府も積極的に手を差しのべることなく、アメリカ軍の対応も不十分で、大多数の日本人は自らの判断、自らの体力・精神力で帰国を試みるしかなかった。

 続きでは、「個別の事例という「虫瞰図」的な視点」について書く予定です。
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日本の高校生の何割が「金日成」を知っているか?

2013-04-19 23:50:48 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 私ヌルボがこのブログを始めたのが2009年8月11日。今日で1347日目になります。その間の記事が合計957件です。
 読んでくださっている皆様、ホントにありがとうございます。そして、これからもよろしく。

 皆様の中には、「ヌルボというのはどういう人なのか?」と関心を持たれた方もいらっしゃるようです。
 過去記事で書いた範囲では、「住まいは横浜で、それも市立図書館やシネマジャック&ベティに近い所」とか、「ハングルサークルに行っている」こと、「年に80回以上映画を観に行かれるようなヒマ人(?)」であること、「徳島県出身」ということ、「それなりの年配者」であることくらいだと思います。
 その程度の「個人情報」(←全然好きな言葉ではない)しか書いていないのは、シャイな性格(!)によるところがいちばんの理由です(笑)。

 しかし、本業に関わる部分でも社会的に有意と(勝手に)思うこと、後世に(!)遺すべきだと(勝手に)思うことについては、今後折に触れて書いていくことにしました。

 で、今回明かす「個人情報」は、じゃ~ん! ・・・と鳴り物を入れるほどのものではありませんが、公立高校の社会科教員ということです。数年前に定年退職しましたが、その後も少し関わりはあります。

 ただ、長くこの職を続けてきたからといって近頃の高校生をはじめとする若い人たちのことに通じているというわけではありません。最近いろんな人に話していることですが、逆に「高校生の標準」、「ふつうの高校生像」といったものが逆にわからなくなってきました。

 自分の高校時代はもちろん、20年ほど前の高校生と比べてもかなり変わってきているようだし、また地域によっても違うし・・・。
 したがって「いまどきの高校生はどうですか?」と問われても、なんとも答えようがありません。「たとえば××にある○○高校では・・・」という話し方はできないでもありませんが、同じ高校に通っていても家庭の状況によって個々の生徒の生活や考え方は相当異なると思います。
 (「日本人の家庭」にしても、今「標準型」といったものがまだあるのかどうか? サザエさん一家のような家庭は今何割あるのか・・・?)

 そしてまた知識・教養についていえば、高校ごとの「学力格差」はいうまでもなく非常に大きいものがあります。
 「近頃の若い人はものを知らん」とは教師にかぎらず昔からよく聞く言葉ですが、たしかにヌルボ自身の経験で言っても、物を知らない事例は枚挙にいとまがない状態です。
 たとえば日本の地図を見て鹿児島県の位置を知らないというレベルは全然驚くほどのものではありません。(これは平均よりかなり下のレベルの生徒ですが・・・。) また、以前ある高3の生徒と話をしていて、その生徒が「3割」というのは「30%」のことで、分数で表すと「10分の3」、小数だと「0.3」だということを知らなかったという事実を私ヌルボは知り、これには少し驚きました。(その生徒、「今初めて知りました」とか「私、数学は苦手ですから・・・」と言ってたなー。それでもコンビニでバイトが務まるのが現代のいいところ?)

 昔から「ウチの生徒はこんなことも知らんのか!?」と怒ったりする教師もいないではないですね。説明をしても「わかりません」を繰り返す生徒に「わかれ!!」と怒鳴った先生がいたとかいう話も聞いたことがあります(笑)。
 今は心の中で驚いても、静かに受けとめて説明する先生がほとんどではないでしょうか?(どーかな?) 教師の仕事というのは、そういう現実をちゃんと把握して、ていねいに教えることだから、怒ってみてもしょうがないのです。

 社会科関係の事項の場合、生徒の「無知」はある程度までは世代の違いによるものです。たとえば1990年代生まれの生徒にとっては、ロッキード事件などは生まれる20年も前のことであり、田中角栄首相も教わってor自分で本等を読んだりして初めて知る名前なので、「知らなくてもしょうがない」のです。おとなでも40歳以下だと、あの「まあその~」という田中角栄の物真似は聞いてもわからないのではないでしょうか?
 (戦後生まれの団塊の世代も、高校時代東条英機の名は知っていても近衛文麿はあまり知らなかったように思います。)
 「米ソの対立」なんて、今の生徒にとって「ソ連」自体が生まれる前に解体してしまっているので、どんなふうにアタマに入っているのか?
 「共産主義」や「共産党」についてイメージなんかも非常に大きな違いがあるだろうことは論をまたず。あ、これは研究テーマにもなりえますね。
 ヌルボの経験では、90年代授業の中で受けた質問のことは今も印象に残っています。資料中にあった「支那」という言葉について、めずらしく1生徒が挙手して質問をした内容は「先生、シナって何ですか?」というものでした。語源等を訊ねたのではなく、その言葉自体を知らないのです。

 もうひとつ、同じ日本人でも、世代により使用するボキャブラリーの違いも留意する必要があります。これも5年ほど前の高1の授業です。「これは、こうしてこしらえるんだよ」と何かについて説明していたところ)、ある生徒が「先生、「こしらえる」ってなんですか?」。内心「うーむ・・・」とたじろぎつつも、「ていねいに手を加えるなどして作り上げることだよ」と冷静に説明すると、生徒「それって「つくる」でいいんじゃないですか?」。
 40代くらいの同僚にその話をすると、「私はもちろん知ってるけど、自分ではあまり使わないわねー」とのことでした。

 ・・・えーと、ここまでが毎度のことですが長~い前置き。これから先が本論です。

 上記のように長年教職にあったにもかかわらず「高校生の標準」がわからないという私ヌルボですが、とくに全然といっていいほどわからないままだったのが学力的に「優秀」とされる生徒たちの知識・教養レベルでした。
 ところがわりと最近、さる学区内トップ校の生徒の皆さん(34人)と直接接する機会がありました。中学時代の成績通知表で、5段階評定で4だと残念がり、3だと大ショックを受けるくらいの諸君です。
 この機会を利用して、かねがね気になっていたこと、疑問に思っていたことを彼らに訊ねて、紙に書いてもらいました。その結果を世の人々、とくに同じ年かさ(団塊の世代とその前後)のご同輩を念頭におきつつ紹介します。
 (※ここまでの文中に用いた「枚挙にいとまがない」とか「論を俟たず」とか「たじろぐ」等の表現は、生徒相手に話す際は「論をまたず。言うまでもありません」のような言い方にする等の工夫が必要かも・・・。)

 以下はその結果です。

Q1.「如才ない」の意味がわかりますか?
  ○(わかる)=4人、△(聞いたことはあるが正確にはわからない)=2人、×(わからない)=28人

 ま、こんなもんでしょ。この文字だけ見たら、読み方からしてわからない生徒は間違いなく大勢います。

Q2.親の生年月日を知っていますか?
  知っている=15人、西暦or昭和の片方しかわからず=4人、生年を知らない=15人

 家庭のありようをうかがい知る1つの指標。たぶん学校格差にも関係あり。

Q3.ダンカイの世代が漢字でかけますか?
  ○(「団塊」と書ける)=17人、×(書けない)=17人

 おおよそ意味を知っているだけでも高校生としては水準以上?

Q4.「こしらえる(拵える)」の意味がわかりますか?
  ○(わかる。使うことがある)=9人、△(わかるが使わない)=23人、×(わからない)=2人

 1970年代初頭、中学校での教育実習の時、「順繰りに前に出て・・・」と言って生徒にその言葉は何かと問われました。「順々に、とか、順番に」と言うのだと教わりました。
 子どもの頃、1910年生まれの母に「おなかすいた」とおやつをねだると「そんなケッショクジドウ(欠食児童)みたいに・・・」と言われました。「ウンシャン(不美人)」なんて言葉もよく聞きましたが、あれは元はドイツ語だったんですね。
 私ヌルボ、いつの間にか「歩く死語辞典」になりつつあるような・・・。

Q5.シナ(支那) の意味がわかりますか?
  ○(わかる)=7人、△(およそわかる)=2人、×(わからない)=25人

 たとえば石原慎太郎氏が繰り返している「シナはシナでいいじゃないか」等々の発言。是非の議論以前で、今でもけっこう耳目に触れることの多い言葉のはずなのに、7割以上がわからないとは、やっぱり首を傾げざるをえません。

Q6.北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の現指導者金正恩(キム・ジョンウン)は3代目。初代は誰?
  ○=11人、×=23人

 初代は金日成(キム・イルソン)で2代目は金正日(キム・ジョンイル)。トップレベルの高校生でも3分の2は知らないのかー・・・。世界の主要国の指導者で、知ってる名前はオバマだけという大人も世の中にたくさんいて、それでもダイジョーブ(何が?)なんですけどね。おっと、英・独・仏は今誰だっけ!?

Q7.自分の高校時代を色で表すと何色?
  青[水色・空色](8人)、黄色(6人)、白(5人)、オレンジ・きみどり・緑(各2人)。あいいろ・セピア色・灰色・黒(各1人)。

 半世紀前は「灰色の」が受験生活にかかる枕詞でしたが、それは遠い過去の話になっています。たしかに、今回の生徒諸君の表情は生き生きとしていて、目も輝いているようでした。

 上の質問とは別に、ヌルボが訊いてみたところでは「村上春樹のレトリックは~」は知らない生徒多数。「修辞法」と言い換えてもわからない。(トーゼン。) 「若者の就職難の時代だが、自分自身のスペックを高めて・・・」という韓国でフツーにメディアでも使われている表現は、日本の彼らの間でもフツーに用いられているようです。(50代以上の日本人は何%くらいが「スペック」という言葉を知っているのか、これまた見当がつきません。)

 さて、上記の「調査結果」を見た方は、「やっぱり今どきの高校生は物を知らんなー」と思うかもしれません。
 しかし、先に記しましたが、この生徒たち34人の数字をもって「今どきの高校生」の標準とするのは妥当ではなく、また「知らない」という回答が多いとしても、高校進学率が約5割だった1950年代、7割だった60年代頃の高校生と単純に比較して、安易な結論づけをすることはできません。

 また、おとなの世代が今の高校生を嘆いたり非難したりすると、それはほとんどわが身に逆に返ってくるとみて間違いありません。
 久しい以前から、受験参考書は半世紀前のような分厚いものはまったくといっていいほど見かけなくなりました。「教科書には載っていないようなこともいろいろ書かれていて、学問の深奥といったものを垣間見させてくれる」本が昔の参考書のコンセプトだったとすれば、当世は「できるだけ少ない労力&時間で最大限の得点力アップを図る」ですから。
 しかし、これは受験生だけの話ではなく、それ以前に、日本社会全体がそうなってきたことの反映でしょう。およそ、そんなようなものです。

 兵法だけでなく、教育の場合も「敵(生徒)を知り、己を知る」ことがまず大切ですが、それだけでも難しい上に、そこから先がまた大変です・・・。
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俳優・三國連太郎さんの訃報に接して

2013-04-15 23:38:28 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
以前「好きな映画俳優」として、女優=山田五十鈴・久我美子・左幸子・田中裕子・大竹しのぶ。男優=木村功・三國連太郎・山崎努の名前をあげたことがありました。

 その1人、三國連太郎さんが4月14日亡くなりました。

 芸能人だけとってみても、長く活躍してきた人で最近亡くなった人がたくさんいますが、三國さんは私ヌルボにとってとくに思い入れの深い俳優のひとりでした。
 彼の出演した映画で、名作との評価が高い作品のほとんどは名画座や特集上映等で観たので、公開時に最初に観たのは「襤褸の旗」(1974)「皇帝のいない八月」(1978)あたりだったか、記憶は不確かです。
 また、俳優としての彼というより、彼の出演作品が私ヌルボの性に合っていたといった方がいいかもしれません。いくつも観ていくうちに、だんだんと俳優としての三國連太郎に興味を持つようになりました。
 その1つの契機となったのは、ずいぶん前のことですが、沖浦和光(かずてる)桃山学院大名誉教授の部落差別についての講演を聞いた時、彼についての話が出たこと。そのお二人の対談は「「芸能と差別」の深層―三国連太郎・沖浦和光対談」と題されて解放出版社から刊行され(1997)、その後ちくま文庫から再刊されています。

 また、これも20年くらい(??)前のことですが、ラジオに出演した彼が失敗に終わった徴兵逃れのこと話していました。1943年、唐津市呼子の港から朝鮮に渡ろうとしたのですが、彼からの手紙を受け取った母親の手配で船に乗る直前に官憲に捕まった、という内容です。
 ・・・ということを知っていた私ヌルボ、2010年5月に佐賀県に旅行に行った時、唐津駅前からレンタサイクルで名護屋城に向かう(しんどかった!)途中、呼子港にも立ち寄ったというわけです。(参考記事→コチラ。)

 ウィキペディアに書かれている「三國連太郎」の来歴・人物は、いったいどういう人が何に基づいて書いたものかわかりませんが、興味深いエピソード満載です。(女性遍歴がスゴイ!)

 それを読んでヌルボが初めて知ったのは、上述の朝鮮への逃亡を企てた以前に、密航して中国や朝鮮に行った経験があったということ。それも1937年、満14歳の中学生(!)の頃です。
 ウィキには「下田港から密航を企て青島に渡り、その後釜山で弁当売りをし、帰国後は大阪でさまざまな職に就く」とあります。(青島ではダンスホールの店員をやったりしてたとか・・・。)

 その時のことは「朝鮮新報」のサイトの過去記事(1998年?)で読むことができます。
 その部分を抜粋します。
 1937年、日中戦争が勃発して軍靴の響きは高まるばかりだった。  
  その頃の釜山の駅前は、あてもなく毎日、日本人手配師の来るのを待つ朝鮮人労働者で溢れていた。「ある時でした。意味不明な怒号を耳にして立ち止まると、1人の朝鮮人を、日本人の手配師が『ナップンノム、カマニイッソ』『ヨボ、カマニイッソ』と叫びながらステッキで打ちのめしていました。その言葉は、半世紀たった今も耳にこびりついて忘れられません」。
  ※ナップンノム、カマニイッソ=悪いヤツめ、じっとしてろ。 ヨボ=おまえ

 佐野眞一「怪優伝 三國連太郎・死ぬまで演じつづけること」(講談社.2011)には、いろいろ詳しく書かれているようですが、ヌルボはファンのくせして未読なんです。(恥)

 彼の訃報を伝える新聞の見出しは「「飢餓海峡」や「釣りバカ日誌」シリーズなど、個性派俳優として活躍」あたりが一般的なようです。評価の高い名作と、多くのファンに親しまれたシリーズという「妥当な組み合わせ」ですね。

 本ブログでは、とくに韓国関係の作品として思い浮かぶ「三たびの海峡」(1995)のことについてふれておきます。
 神山征二郎監督が帚木蓬生の同名原作小説(1992)を映画化したものです。\t

 主人公河時根[ハ・シグン](三國連太郎)は、1943年17歳の時に慶尚北道の尚州の村から強制的な徴用で九州の炭坑に送り込まれます。小説にはN市となっていますが、直方のようです。(あるブログ記事には「貝島の大辻炭鉱と思われます」とありました。) これが1度目の海峡越え。終戦後、恋人(南野陽子)と共に故郷に帰ります。これが2度目。(日本人の彼女は村人たちから忌避され、置手紙をして日本に戻ります。)
 そして40数年後。河時根は「人生最後の仕事」を果たすべく、<三たびの海峡>を越える、という物語です。
 私ヌルボ、20年前のことなので細部は憶えていませんが、原作はおもしろくてイッキ読みしました。映画も観ましたが、小説の映画化作品の多くがそうであるように、原作に比べると今ひとつだったかも・・・。
 しかし、三國連太郎さんはいかにもという適役で、この作品で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞したのもむべなるかな、といったところでした。(「利休」「息子」に続き「3度目」の受賞。)

※原作小説は、韓国でも「情炎海峡(정염해협)」のタイトルで1995年翻訳書が刊行されました。

 三國さん、享年は90歳ですか・・・。知れば知るほど映画のような、「語るに足る人生」です。ご冥福を祈ります。
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本当に「生まれたらそこがふるさと」か? ・・・・カミュ・村松武司・李正子・堀内純子のこと②

2013-04-07 01:44:23 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 1つ前の記事で、李正子の短歌
  <生まれたらそこがふるさと>うつくしき語彙(ごい)にくるしみ閉じゆく絵本 (『ナグネタリョン』所収)
を紹介しました。
 そして、川村湊の在日文学論の書名にもなったこの<生まれたらそこがふるさと>という印象深いフレーズが、実は李正子が最初に発想したものではないということを最後に書きました。

 『ナグネタリョン』の「生まれたらそこがふるさと」と題されたあとがきで、李正子は児童文学作家堀内純子(すみこ)『はるかな鐘の音』のことを記しています。

 堀内純子については、以前『ソウルは快晴』(1984)という本を買って読んだことがあります。それは児童書らしい装丁ですが、内容は京城第一高女出身の彼女が、戦後初めてかつての同級生たちとソウルを訪れた時の記録です。全斗煥政権の時代で、行く先々で写真撮影禁止等治安の厳しい状況と、そんな中懐かしさに急かれて昔の家を探し歩いたり、京畿女子高校と変わった母校を訪ねて現校長に温かく迎えられ、食事を共にしたこと等が帰国後まもない、興奮さめやらぬ、といった筆致で書かれていました。
 『はるかな鐘の音』はその2年前の1982年発行で、野間児童文芸推奨作品賞を受賞した作品です。
 その物語の中で、望郷と加害の意識との葛藤に悩む京城生まれの日本人少女みゆきを解き放った言葉が「生まれたらそこがふるさと、わたしたちはふるさとのきょうだい」だった、ということです。

           
   【著者自身の思い出をふまえたと思われる感動的な物語です。】

 横浜市立図書館にあったので、さっそく読んでみました。
 入院中の小学生のみゆきたちが、ソウルから引き揚げてきた薬局の小島先生から話を聞くというのが基本設定です。小島先生の父が林業技術者というのは、作者と同じ。(あの浅川巧の同僚だたとか・・・。)
 朝鮮半島には100万人近い日本人がいて、その少なくとも半分は朝鮮生まれ。残り半分のうち3分の2は家長にしたがって移住してきた家族たち。つまり選んでやってきたのは6分の1
 ・・・ということを語った小島先生は、続けて子どもたちに自分の思いを打ち明けます。
 「でも、これがよその国をのっとるということなのよ。生まれてきたこと自体が、わたしたちの罪だったの。」  
 「いちばんつらいのは、毎日が楽しかったことだわ。・・・あの楽しかった毎日が、みんな人の不幸の上になりたっていたなんて。・・・」
 「わたしに、ふるさとはないの。あそこをふるさとだなんていってはいけないの。・・・」と語る一方で「でも、わたしのふるさとはあそこだわ。・・・」


 このような強い罪責感はもちろん作者自身のものです。彼女は別のところで、「少し考えてみればわかることを、なぜ自分は気がつかなかったのか」と強く自問しています。
 ・・・みゆきは、そんな加害者意識に苛まれる小島先生の話に聞き入り、真剣に受けとめます。
 たまたまみゆきの隣のベッドの女の子の名はミュンヒでした。もちろん韓国人。そのお母さんのヨンスギさんに小島先生から聞いた話をすると、ヨンスギさんは「その人の考え、まちがってる」と言って次のように話します。
 「わたし、韓国人です。わたしもふるさとソウルを愛しています。もしだれかがあそこで生まれたことで不幸なら、わたしのふるさとが暗くなります。あそこで生まれてよかったといってくれたら、わたしのふるさと、明るくなります。」  
 ヨンスギさんのむこうに、小島先生が立っていました。・・・
 「生まれたらふるさと。あなたのふるさとはソウル。わたしたちはふるさとのきょうだい。」


 ・・・肝心のところだけピックアップしてネタをばらしてしまいましたが、この場面、本当に感動的です。おとなが読んでも。

 あとがきによると、この「生まれたらふるさと。わたしたちはふるさとのきょうだい。」ということばは「静岡新聞」に加害者の悲しみをテーマに随想を書いた時、読者の一人の韓国人から寄せられたもの、とのことです。

 つまりは、もとをたどってみれば「生まれたらそこがふるさと」という言葉は在日の人たちに向けられた言葉ではなく、植民地朝鮮生まれの日本人に韓国人がかけた言葉だったのですね。

 しかし、「わたしたちはふるさとのきょうだい」とは、本当に心が癒される言葉です。「反韓」とか「反日」とか街で叫び合っている昨今とは全然別の世界です。

 さて、ここで私ヌルボのさらなる疑問があります。
 映画「最初の人間」に戻って、最後の母の家の場面。コルムリ(=カミュ)は母に訊ねます。
 「なぜ(アルジェリアに)留まりたいの?」。
 母は微笑みながら答えます。「フランスにはアラブ人がいない」。
 このシーンを観ながら考えたのは、「なぜ植民地朝鮮にいた日本人のほとんどは「当然のように」日本に引揚げてきたのか?」ということです。

 アルジェリアでも、コロンとよばれたフランス系入植者約100万人は、1962年アルジェリアが独立すると本国フランスに引揚げたそうです。
 前の記事に書いたように、フランスは日韓併合(1910年)よりずっと以前の1847年からアルジェリアを支配してきたので、日本の場合と共通する点もあれば異なることもあるようです。
 今になって知りましたが、昨年12月21日NHKの「World Wave Tonight」で「フランスとアルジェリア “過去”とどう向き合うのか」と題した特集を放映していたのですね。NHKのサイトの内容紹介ページ(→コチラ)を見ると、日韓間の<歴史認識>問題といろいろダブってます。
 (「日帝36年」にたいして、コチラは132年か・・・。)

 当初の予定を変更してあと1回延長し、引揚げ者のことを中心に考えてみたいと思います。

[付記]
 李正子「鳳仙花のうた」(影書房.2003)によると、李正子は堀内純子から「はるかな鐘の音」「ソウルは快晴」「なつかしのサバンナ」の3冊の本を受け取っています。
 「なつかしのサバンナ」は、サバンナを駆けていたキリンが突然捕らえられ、日本の動物園へ、という物語。
 この本について、李正子は次のように書いています。
 「人もキリンも、生まれたところをふるさととするのだろう。そうだとしたら、ここで生まれ育った私は、日本をふるさとと思っていいのだろうか。そして私の子供たちのそれも・・・・・・。そう思って近づくと、それはまだ遠い先にある。辿り着いてみても、どこかよそよそしく、やっぱり違うのか、とも。 
 <生まれたらそこがふるさと>と堀内さんは、『はるかな鐘の音』で書いておられる。それを美しいと思い、理解する一方で、日本生まれの日本育ちの韓国人には、ふるさとはどこかサバンナのにげ水のように思えるのである。キリンが駆ける、一匹、二匹・・・・・・。
 草原をにげ水ゆるるままに行くキリンの影かわが子か知らぬ
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本当に「生まれたらそこがふるさと」か? ・・・・カミュ・村松武司・李正子・堀内純子のこと①

2013-04-05 23:54:54 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 3月4日の記事金愛爛(キム・エラン)が李箱文学賞を受賞したこと等々を書き、今度は同賞受賞作家のキム・ヨンスについて書くとテキトーな予告をしてしまってからもう1ヵ月経ってしまいました。

 その間、アルベール・カミュの遺作に基づいた映画「最初の人間」を観たり、李光洙「無情」(韓国書)を読み始めたりして、私ヌルボの頭の中ではキム・ヨンスとあわせて時代の大きく異なる、またカミュの場合は場所もはるか離れたこの3人とその作品がなにかひとつの連関をもったものとして並んでイメージされています。

 時代順にみると、韓国文学史上で最初の近代小説とされている李光洙「無情」が朝鮮総督府機関誌毎日申報に連載されたのが1917年
 カミュがノーベル賞を受賞したのが1957年。(1960年に交通事故死。)

 つまり大雑把にみて李光洙が約1世紀前で、カミュが半世紀前。

 今、3人の作家について考えるに際して、とりあえずのキーワードは、「国」とか「故郷」とか「民族」とかに対するアイデンティティの問題といったことです。

 時代的には、李光洙の登場は日韓併合の前後という帝国主義の全盛期、カミュは世界史的に植民地時代の終焉の時期。(彼が世を去った1960年は独立が相次いだ「アフリカの年」でした。)

 今の韓国では代表的な「親日」作家として指弾されることの多い李光洙の人生は、両親をコレラで失った孤児の頃から朝鮮戦争中に北朝鮮に拉致された後病死するまで「国」に翻弄され続けたものでした。ナショナル・アイデンティティとは彼自身の内心の問題であっただけでなく、それ以前に外からそれをもって追及されるイシューでもありました。彼の死後現在に至るまで。私ヌルボ、他人事ながら「もういいかげんに、ほっといてくれ~!」と叫びたくたります。

 李光洙について詳しく書くのは、「無情」を読み終えてから(=ずっと先)、ということにして、今回はカミュに重点をおくことにします。(あいかわらず前置き(!)が長いな。)

          
    【映画「最初の人間」のパンフ。カミュの自伝的な小説(未完)の映画化作品。】

 カミュはアルジェリア生まれのフランス人です。
 フランスがアルジェリアの地を支配下に収めたのが1847年。日韓併合(1910年)よりずぅーっと昔です。植民地内の本国人といっても支配層だったわけではありません。カミュの父はフランスから渡ってきた農場労働者で、カミュが生まれた1913年の翌年第1次大戦で戦死。上記の映画で知りましたが、病院で掃除・洗濯等の雑役をしていた母も、祖母・叔父等の家族たちも皆読み書きができないという厳しい家庭環境で育ちました。

 植民地に生まれ育った「本国人」(かつての日本では「内地人」)にとって、ナショナル・アイデンティティの形成には、学校教育が非常に大きな役割を果たしたことはいうまでもありません。しかし、同じ授業を受けても、フランス人の彼と、アルジェリア人の生徒とは受けとめ方に違いがあります。

 映画「最初の人間」の1シーン。学校の授業で第1次大戦の戦死者の画像等をスライドで見ながら、コレムリ少年(=カミュ)は隣席の生徒にささやきます。「“祖国”って知ってる?」 「知らない」 「(力を込めて)フランスのこと」。

 同じところに生まれながらも、自分と植民地人とは周りの世界を見る見方や考え方が違うのでないかということを、カミュはその後どれほど意識し客観視していったのでしょうか?

 「異邦人」(1942)等で有名になったカミュがノーベル賞を受賞した1956年当時は、アルジェリア戦争が激化していった頃でした。
 生まれ故郷のアルジェリアを愛する気持ちと、リベラルなフランス人作家として彼が現地で「共存共栄」を訴えるシーンが映画でありましたが、それは曖昧な態度としてどちらの側からも批判され、沈黙を余儀なくされていきます。彼自身、もはや語りうる言葉を持てなくなったのかもしれません。
 考えてみれば、彼の代表作「異邦人( L'Étranger)」のタイトルもなにか象徴的ですね。
※「異邦人」の読み方について、イ・ヨンスク教授が書いた「アジアの植民地から読むアルベール・カミュ」と題する興味深い論考について、本ブログ2012年3月25日の記事で書きました。
 どうも、植民地における「本国人」ということについての彼の自己認識は、今のモノサシで測れば甘かったと言わざるをえないようです。
 しかし。

 私ヌルボがふと思ったのは、植民地時代に朝鮮で生まれ育った日本人のこと。彼らにとってみれば、「ごく自然なもの」として周りの自然や景物、社会や生活を受容していたようです。そして、学校で教わる日本や朝鮮のことも、朝鮮語を知らなくてもすむこと等に対しても疑問を持つことなく・・・。

 それらのことは、引き揚げ者の人たちの手記等にさまざまに記されています。
 そんな植民地日本人2世・3世たちの多くは、引揚げてから、アイデンティティの動揺に直面することになります。
 たとえば、植民者3世の村松武司は「朝鮮植民者」(1972.三省堂)で次のように記しています。

 「わたしは朝鮮で生まれてから、自分は日本人でありたいと思っていた。しかし日本に帰ったとき、はじめて自分が日本人でないことを自覚するようになった。」つまり、昔もいまも半日本人・半朝鮮人である。」

 私ヌルボ、「民族」と自身の「生まれ故郷」とのアイデンティティの相剋について考えていて、ふと浮かんだ言葉がありました。
 <生まれたらそこがふるさと>がその言葉です。 
 在日作家について川村湊が書いた文学論の書名として知ったのが最初です。日本生まれの韓国・朝鮮人に対する、肯定的・受容的なイメージの言葉と私ヌルボは受けとめながらも、本当にそうなのか?という疑問は残りました。
 この言葉の出典は、李正子(イ・チョンジャ)の短歌ということはその本で知りましたが、今あらためて確認すると第二歌集「ナグネタリョン」(1991年)所収の次の短歌です。

 <生まれたらそこがふるさと>うつくしき語彙(ごい)にくるしみ閉じゆく絵本

 やっぱり。在日2世の李正子(1947~)にとって、「朝鮮人」で暮らしていた子ども時代から差別の言葉を投げつけられたりしてきた彼女、民族に対する偏見が恋愛にも影を落としてきた彼女にとって、この言葉は決して否定的には捉えられてはいないものの、彼女の葛藤を完全に解消させてくれるに足るものではないのです。

           
  【この「ナグネタリョン」も、最初の歌集「鳳仙花のうた」も、読み応えのある歌集です。】

 さて、この<生まれたらそこがふるさと>という言葉なんですが、今日図書館で「ナグネタリョン」の「生まれたらそこがふるさと」と題されたあとがきを見ると、彼女自身が発想したものではないということなのです。

 まだ長くなりそうなので、続きは明日です。
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[軍艦島ツアーで考えたこと] 「いつ、どんな立場で見たか」で大きく異なる思い出

2013-03-30 23:48:04 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 さあ、今日こそは韓国の作家キム・ヨンスのことを書くぞ、と心を決めて取りかかるも、関連で李光洙のこととか、さらにカミュのこととかあれこれ書いていくうちに、昨2012年10月に行った長崎の軍艦島ツアーについて、昨年11月16日の記事で導入のようなことだけ書いてそのままになっていることを思い出しました。
 そこでも書いたように、軍艦島(正式には端島)に行った動機としては「かつてそこの炭鉱で多くの朝鮮人が苛酷な労働に従事していた、という程度のわずかな知識だけ」でした。
 しかし実際に行ってみて、あるいは帰宅後いろいろ本を読んだりして知ったことは、「炭鉱を中心とした歴史、そこで暮らした人々の生活、近代化産業遺産関係等々いろんな切り口があるなあ」ということで、「知れば知るほど本ブログで何をどう書くかを考えると、収拾がつかなくなってしまいそう」というわけで書けずじまいになっていたものです。

 で、とりあえず、思い切っていろいろ集めたネタは省略して、私ヌルボが感じたこと、とくに今、軍艦島の歴史をどうふり返るべきか、ということについて書きます。

 結論から書くと、まず最初に「軍艦島にかつて暮らしていた人の感想は、その人がいつ頃、どういう立場だったかによって大きく異なる」ということです。

 たとえば、島内のどの住居で暮らしていたのか。端的に言えば、「住居の位置の高さと島での地位は比例している」のです。
 中央部の一番高いところにあるのは鉱長の社宅で、島内で唯一の一戸建てです。そして職員住宅、鉱員住宅はそれぞれ1~4級の序列によって日当たりと眺めの良い上の階から下の階に割り振られていました。
 戦時中、朝鮮人の徴用労働者や、中国人の捕虜労働者は、一日中陽の差さない建物の最下階に入れられました。

     
     【高い所の部屋はオーシャンビューでよさそうですが、高層建築群の「谷底」の部屋だと最悪です。】

 時代による違いで、私ヌルボが知らなかったことは、1960年代の高度成長期はこの島に住む人の暮らしは意外にレベルが高かったということです。給与水準が高く、新しい電化製品を早くから買い込んだり、島内には映画館やパチンコ屋等もあり、ずいぶん活気があったそうです。当時の写真を見ると、TVアンテナが無数に林立しています。
 人口は最盛期の1960年に5,267人で、人口密度は当時の東京都区部の9倍以上で世界一だったそうです。そんな超過密の狭い島で、キュークツさとか不便さとか感じなかったのか、と思うのは今のフツーの日本人だからかもしれません。
 とくにその頃島にたくさんいた子どもの感覚からすれば、そこがフツーの世界ですから、そこならではの楽しさがあったようです。
 当時の写真集を見ても、建物を結ぶ階段等で遊ぶ子どもたちの生き生きとした表情が写されています。
 軍艦島クルーズのガイドさんの紹介した「軍艦島グラフィティ」という絵本は、帰ってから調べたら1966年端島で生まれた神村小雪さんさんが描いたものでした。(今は売られていません。)

        
   【今の「廃墟」とはもちろん、昔のモノクロ写真とも全然違う、いいフンイキの絵です。】

 また、「軍艦島を世界遺産にする会」(→公式サイト)の理事長の坂本道徳さんは1954年福岡筑豊生まれで、小学6年生で端島に移住、ということはやはり60年代後半です。1999年に25年ぶりの同窓会で端島へ渡航したことをきっかけに、故郷への想いから2003年NPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」を立ち上げました。以後TV出演、講演、執筆活動、軍艦島ガイド等を通じて世界遺産登録に向けて奔走しています。
※上記のサイト中にご自身の紹介ページがあります。(→コチラ。) これを見ると、実に精力的に活動されていることがうかがわれます。
 さて、上記の公式サイト中のネットショップでは関連書籍等が販売されているのですが、たとえばその1つに「軍艦島「住み方の記憶」」という、軍艦島出身者が写真とともに当時の生活を探る本があります。(→コチラ。)
 「軍艦島は人々の強い絆と暖かさで結ばれていた!」というキャッチコピーと、次のような説明文があります。
 廃墟として忘れられようとしていた端島にはこんな暮らしがあり、生き生きとしたコミュニティがあったのだという島の人にしか知りえなかったことを、この「住み方の記憶」を通して写真や当時のエピソード、建物などの解説で少しでもこの島のことを理解していただければ幸いです。
 なるほど。たしかに、60年代当時の島に暮らした人たちにとっては(若干の無意識の美化作用があるにしても)偽らざる気持ちでしょう。また、現在の軍艦島の「廃墟の異様な外貌」だけで興味を持った人たちに対して、過去のようすを知ってほしいというのもわかります。
 
 ところが、歴史をもっとさかのぼると、たとえば明治時代の高島炭坑事件という当時社会問題となり、今も日本史の史料集にも載っている事件もありますが、およそ炭鉱というものを歴史的にみると事故や労働問題がつき物であることは論を待たず、また戦前・戦中は朝鮮人・中国人労働者が過酷な労働に従事したという事実があります。

 軍艦島の場合も「軍艦島は生きている!」(長崎文献社)には、その人数は「朝鮮人500人弱、中国人80人余といわれている」とあります。また、「死亡外国人の数も確定できる資料に乏しいが、1925~45年までの20年間に、窒息、圧死などの事故死63人、島から逃亡した際の溺死など4人が明らかになっている」(長崎在日朝鮮人の人権を守る会)調査資料)とのことです。
 さらに、林えいだい「筑豊・軍艦島―朝鮮人強制連行、その後」「強制連行・強制労働 筑豊朝鮮人坑夫の記録」などの著作や、長崎在日朝鮮人の人権を守る会「軍艦島に耳を澄ませば」(社会評論社.2011年)でかつての朝鮮人労働者の証言を読むと、まったく違う過去の記憶が目にとびこんできます。
 徴用の経緯もさまざまで、中には徴用ではなく自らの意思で端島の炭鉱労働者になった人もいるので、私ヌルボは「強制連行」という誤解を生む用語は使いませんが、14歳で連れて来られた人もいたり、また異口同音に過酷な労働状況、粗末な食事、病気になっても治療が施されないばかりか労働を強要されたこと等が語られています。
 1944年に「村の労務係」の命令で端島炭鉱に連れて行かれて1日12時間石炭掘りをやらされた90歳(2011年)になる韓国人のお年寄りは、「あそこは逃げ出したくても諦めるしかない、監獄のようなところだ」と語っています。そして「世界遺産だなんて、日本人はあの島の歴史を誇れるのか」と問い返しています。
 これもまた、「あの時期」に、「そういう立場」で端島で暮らした人にとっては、当然の記憶のありようです。
※高島炭鉱、端島炭鉱の朝鮮人労働者問題については→コチラの記事参照。
※朝鮮人の徴用労働者もさることながら、中国人の捕虜労働者とはひどいことをしたものだ。ソ連による日本人のシベリア抑留も念頭におきつつ・・・。

 私ヌルボがこれまでにみた軍艦島の世界遺産をめざす地元の人々を中心とした運動では、上述のような「負の歴史」はあまり(ほとんど?)触れられていないように思われました。

 この点について思い起こしたのは、昨年11月ポレポレ東中野で観たドキュメンタリー映画「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」のことです。「闘う主体」の側に立った闘争記録的な映画かなと思ったらそうではなくて、第二組合や会社側の人の証言も映されていました。また1963年の大事故の後遺症に苦しんでいる人が今なお約130人もいることを初めて知りました。多角的な視点から描くことが観る人の理解をより深める好例というべき映画でした。驚いたのは、エンドクレジットに「企画 大牟田市・大牟田市石炭産業科学館」とあったことです。行政が関わる映画は「無難な内容」のものと相場は決まっているのに・・・。上映後の茶話会の場で、熊谷博子監督にその点をお伺いしました。すると、担当の市の職員の方が関係方面への説得・折衝等にすごく奮闘してくださったとのことでした。第二組合の人の証言も入っているのはその人の意向だったとも。三井との関係等で困難なことも多多ある中、お役人の中にも気骨のある方がいらっしゃった、ということです。

 長崎の場合はもちろん三菱です。市や県が炭鉱をはじめとする近代の歴史をなんらかの形でまとめようとすると、当然いろいろとヤバい過去のもろもろも出てきます。そのほとんどは三菱がらみ。
 市や県が、三菱に「気がね」をしてしまうことはないでしょうかねー・・・。あるいは三菱の側はどう考えるのでしょうか?
 歴史のある企業は脛に傷をいくつも持っているもので、要はそれらをなかったこととせず、同じことを繰り返さないためにもきちんと記録に残し、今後に資することです。・・・ということは、別に私ヌルボが言わずとも知れたことですよね。
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