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ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

「週刊文春 新年号」を読む(下) 北朝鮮女生徒へのロック指導記録、池上彰による朴槿恵の経歴など

2013-01-09 23:12:07 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 <「週刊文春 新年号」を読む(上) サムスン ヒュンダイは没落(?)>の続きです。

 韓国・北朝鮮ネタその② 「今週の必読」はファンキー末吉「平壌6月9日高等中学校・軽音楽部」

      

 書評ページの最初がこの本。著者ファンキー末吉は1980~90年代に爆風スランプにドラマーとして活躍・・・って、そうだったのか。彼の名は知りませんでしたが、爆風スランプは憶えてますがな。

 で、この本は、2006年7月以来12年2月まで5度にわたって訪朝して、平壌の高等中学校の女生徒たちにロックを教えてきた記録です。昨年11月26日集英社インターナショナルから発売されましたが、出版社の公式サイトを見ると担当編集者の鬼の編集「佐藤」さんが「編集者として担当した本は、どれも愛着があるのですが、正直、今回のこの作品には魂をゆさぶられましたと記しています。
アマゾンの読者レビューも、数は少ないですが好評で、私ヌルボもこれは読んでみようと強く思った次第です。
 あ、書名中の「6月9日」は「平壌6月9日」ではなく学校の名称が「6月9日高等中学校」ということ。金日成が「6月9日に建てろ」と指導したからとか。なぜ6月9日かはちょっと探してみたもののわからず。ファンキー末吉さん(と、ここから「さん」付け)は「6と9ならロックではないか」と燃えたそうです。

 関連で、ファンキー末吉さんのブログ<ファンキー末吉BLOG ~ファンキー末吉とその仲間たちのひとりごと~>のことを知ってちょっと見てみたら、これが北朝鮮関係だけでも興味深いネタの宝庫!
 2012年2月21日の「5回目の訪朝」と題した記事(→コチラ)だけとってみても「前回の訪朝の後にすぐ金正日が死去したので、奇しくもワシは体制が変わる最後の北朝鮮を見た日本人であり、そして今回の訪朝で恐らく新体制を見た最初の日本人となるであろう」とか、アジアブーム以前から中国に入れ込んでいた自身の過去のこととか、「北朝鮮はご存知の通り貧しい国である。しかし前回の渡航でワシは「平壌は中国マネーのバブルが始まっている」と書いた」以下の今の北朝鮮事情等々が詳しく記されています。
 これは今後時間をかけて読む必要あり、です。

 ところで、「週刊文春」でこの本を評している中森明夫は「それにしても本書の収録写真の少女らの、なんと美しいことだろう!」と「!」を付けた上「こんな美少女はもう日本にはいない」とまで書いちゃってます。その彼女たちの写真も上記ブログ内を探せば見つかります。

  韓国・北朝鮮ネタその③ 「東京「鍋」最前線」で新大久保の<コリア タッカンマリ>を紹介
 この巻末カラーページで紹介している5店中の1つが新大久保駅のすぐそばにある<コリア タッカンマリ>。
 料理名のタッカンマリ「タク」=鶏、「ハンマリ」は1羽の意味。これが韓国でブームになったのはわりと最近のことなのに、もうとっくにポピュラーなメニューになってる感があります。この店は行ったことありませんが、そのうちに・・・。店の公式サイトは→コチラ

  韓国・北朝鮮ネタその④ 「池上彰のそこからですか!?」は朴槿恵の経歴をてぎわよく紹介
 わずか2ページで韓国初の女性大統領となる朴槿恵の今に至る経歴を、彼女の自伝「絶望は私を鍛え、希望は私を動かす」を参考に要領よくまとめています。
 彼女の名前の中の「槿(ムクゲ)」が韓国の国花であること、西江(ソガン)大学校電子工学科を首席で卒業後フランスのグルノーブル大に留学したこと、1979年アメリカのカーター大統領が訪韓した際、米軍の韓国駐留の必要性を力説してカーター大統領に撤退計画を撤回させたこと等々が記されています。興味深いエピソードをピックアップしてよみやすく書いているところはさすがです。
※[ヌルボ註:西江大学校は日本の上智大学に比定されるミッション系大学です。

 私ヌルボが書く予定でいた朴槿恵の記事は、こんな政治とはぜ~んぜん関係ない方面のネタなんですけどね。朴槿恵のビキニ姿の写真とか・・・って、「見たくない」ですか。そーですか・・・。
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「週刊文春 新年号」を読む(上) 円安に脅えるサムスン ヒュンダイは没落する(?)

2013-01-09 23:07:40 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 ははは、今年も「今井舞の毒舌批評」の紅白歌合戦ブッタ斬りはおもいろいなー。(笑) たしかに、私ヌルボも最初の浜崎あゆみの音のはずっれっぷりには何事かと思って、思わず視線を読んでいた本からTV画面に移したんですよ。

 朴槿恵関係の記事を書こうかなと思いつつ、その前に今日(1月9日)発売の「週刊文春 新春特別号」を読み始めたら、上の記事等々おもしろい記事がいろいろあってついつい読みふけってしまい、急遽予定変更。

 韓国・北朝鮮ネタ以外では、町山智浩の「言霊USA」と宮崎哲弥の「時々砲弾」がともに先月14日のコネティカット州の小学校での銃乱射事件に関連してアメリカの銃規制問題を取り上げていて、興味深く読みました。「なんで即規制をせんのか!?」(怒)のような素人っぽい反応とは無縁の、癖のある人柄(?)を反映した内容です。
 たとえば町山は「アメリカの学校では1980年代からの22年間で137の銃撃事件が起こり、計297人が死んでいる」「ミズーリ州では酔っ払って銃を持ち歩いてもOK。酔っ払い運転は逮捕されるのに!」「筆者が住んでいるオークランドという地域では年間100人以上、つまり3日に1人ずつ銃で殺される等々の具体的事例をあげています。
 また宮崎は「個人の武装という理念は、自立した個人の自由、国家権力の制限、コミュニティの自治など、いずれも近代市民社会が正の価値としてきたものに起源を持っている」という小熊英二の指摘や、丸山眞男が「豊臣秀吉の有名な刀狩り以来、連綿として日本の人民ほど自己武装権を文字通り徹底的に剥奪されて来た国民も珍らしい」と評しつつ「全国の各世帯にせめてピストルを一挺配給して、世帯主の責任において管理すること」を提案していた」ことを紹介しています。

 外交や国際関係の記事に接してしばしば感じる自分の、あるいは日本人の反発や違和感の背景に、その外国の社会意識・価値観を育んだ歴史と現実のほとんど動かしがたい重みがあることを痛感します。もちろん日韓関係の諸問題にも相通ずることです。

 韓国・北朝鮮ネタその① 「円安に脅える韓国サムスン ヒュンダイは没落する」
 12月18日付「朝鮮日報」の記事(日本語)「アベノミックス」による円安、韓国に懸念」(→コチラ。登録会員のみ)等を紹介し、安倍政権誕生による円安で内需も輸出も厳しくなる、と緊張を強めている、とこれは当然の予測。この記事ではさらに、欧米では「現代自動車の購買層も「本当は日本車を買いたいけれど、日本車の中古の値段で新車が買えるから」という移民やヒスパニックが中心」とヒュンダイと移民やヒスパニックをまとめておとしめて(?)「所詮、韓国製は「安かろう悪かろう」の域を脱していないのである」とここにきてにわかに強気な書きっぷり。オマケに今韓国は日本酒ブームということで「見栄っ張りが大吟醸を飲んで自尊心を満足させている」とか「円高メリットを享受してきたKポップの日本進出は激減するでしょうという産経の黒田勝弘特別記者の記事の引用?(出典不明)まで載せて締めくくってます。
※日本酒ブームについての黒田記者の記事(→コチラ)には「見栄っ張りが・・・」等の表現はないんだけどなー・・・。
※こういう日本ファンには「気持ちのいい」記事に即座に反応して私ヌルボより14時間以上も早くブログ記事をupし、<【「アベノミクス」に賛成!】と思われる方はクリックを!>とよびかけている「良識の人」もいらっしゃいます。→コチラ。しかしこの方、アベノミクスに対して期待以上の何か確証があるのかなー?
※この記事とは無関係ですが、韓国語に最も近いカタカナ表記は「サムソン」、「ヒョンデ」です。

 あら、もうけっこう書いてしまいました。まだ半分もいってないのに・・・。
 ということで、以下は<「週刊文春 新年号」を読む(下) 北朝鮮女生徒へのロック指導記録、池上彰による朴槿恵の経歴など>に続きます。
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「パギやんの大阪案内」を携えて、江戸時代大阪で客死した金漢重の墓を訪ねる

2013-01-06 23:54:09 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 一昨日(1月4日)徳島から横浜に戻りました。
 朝徳島駅前から高速バスに乗ると、昼頃大阪駅に着きます。1998年明石海峡大橋が開通するまで、私ヌルボは大阪なんばから南海電車で和歌山を経由し、小松島港まで南海汽船に乗って行くのが定番のコースでした。大阪からだと約4時間かかるので、時間的には首都圏から大阪まで行って「道半ば」でした。
※徳島県内を自在に周遊しよう等の目的がある場合は、東京港からの長距離フェリー。バイク(原付)を載せて夕刻経つと、翌日昼頃徳島に着きます。これは今もたまに利用しています。

 昼頃大阪駅に降り立って、そのまま横浜直行してもとりたてて予定があるわけでなし、数時間大阪で道草することがこの7、8年ほど前から通例になってきました。それも最近はとくに韓国・朝鮮に関係ある所。2010年の記事<大阪のコリアタウン・猪飼野と、統国寺を訪れる>は、その一例です。

 今回行った所は金漢重(キム・ハンジュン)の墓です。下の写真参照。

        
     【説明版がないので、事前に情報を仕入れておかないとわかりにくい。】

 金漢重は1764年に徳川家治就任祝賀のために来日した通信使一行に小童(主君の雑用等を担当)として随行した人ですが、大阪で病に倒れ、竹林寺(現大阪市西区)で養生していましたが、結局22歳の若さで亡くなってしまいました。→コチラのブログ記事によれば、その間「故郷に残してきた二人の子供をしきりに懐かしがっているのを見かねた大坂の町人たちは顔かたちのよく似た少年を選んで看病させました」とのことです。
 また、その時の通信使の一員で、遺失物を巡るトラブルで対馬藩の通詞鈴木伝蔵に殺された崔天淙の供養も竹林寺で行われ、彼の位牌もこの寺の本堂にあるそうです。
 (金漢重、崔天淙の遺体は、塩漬けにされて日本の船で釜山まで送られた。)
 彼ら2人については、詳しく書かれているサイトもあるし、今回の記事の本旨ではないので、説明はここまでにとどめておきます。

 この墓のある竹林寺の最寄駅は、地下鉄だと九条、または西長堀駅。私ヌルボは西長堀から歩きました。木津川の橋を渡ってすぐです。
 この寺には、1945年3月13~14日第1回大阪大空襲で黒焦げになったという「焼け地蔵」でも知られています。

          
             【竹林寺の山門と、「焼け地蔵」。】

 その竹林寺の前が松島公園ですが、野球場から大通りを越えた側にあるのが下の碑です。「九条島と朝鮮通信使」についての説明が記されています。

     
   【松島公園の入口すぐの所にある「九条島と朝鮮通信使」碑。(野球場の側ではないので注意。)】

   
  【説明文を入力する手間がちょっと面倒なので、そのまま写真を乗せます。読みづらくてすみません。】

 ところで、この金漢重の名を知っている人はどれくらいいるのでしょうか? 崔天淙の事件の顛末については、検索すればいろいろヒットしますが、私ヌルボも金漢重同様彼の名前も知りませんでした。

 実は、この竹林寺に行くことを思い立ったのは大阪に到着した直後。昼食を食べながら読んだ「パギやんの大阪案内 ぐるっと一周 [環状線]の旅」(高文研.1890円)に出ていたからです。
 <浪花の歌う巨人・パギやん>こと趙博さんが書き昨年9月に発行された本です。

           
      【昨年11月の新聞書評欄で知り、即購入して正解でした。】

 題名通り大阪環状線の19の駅について、多様な見所を、パギやん自身の思い出、エピソード、いろんなウンチク、歴史等々を交えて紹介しています。
 また、随所にパギやんのメッセージが盛り込まれています。

 「ピースおおさか」を応援してください!(森ノ宮駅)とか「リバティおおさか(大阪人権博物館)」に行ってみてみ(今宮駅)とか・・・。
 「龍王宮」跡地と大阪拘置所(桜ノ宮駅)では、2010年大阪市が「不法占拠」を理由に龍王宮を撤去した「暴挙」や、拘置所近くの差し入れ屋のこと、そして代用監獄制度の問題についても書いています。
韓国・朝鮮、在日にかかわる記述もあります。
 たとえば、コリアタウンへ続く「比売許曽(ひめこそ)神社」(鶴橋駅)では、「古事記」の記事も紹介して「比売許曽神社の神さまは朝鮮半島から来たことがわかります」と記しています。
そして、上述の金漢重の墓等のことは西九条駅の所に写真入りで記されています。

 文章スタイルもパギやんらしい表現がいっぱいで、たとえば「釜ヶ崎暴動」については次のとおり。

 1986(昭和61)年に起きた大暴動の際に、西成署の屋上から実況中継する某放送局のアナウンサーが「みなさん、ここは本当に日本でしょうか」とホザキよったんですけど、テレビに向かってみんなで「ニッポン国・釜ヶ崎ぢゃ、ぼけ!」て、言うたりました。

 一般の観光ガイドには載っていないような所がたくさん紹介されているこのガイドブック(?)には、大阪を愛し、庶民の側に立ち、平和を希求し、人権を尊重するパギやんの熱い気持ちにあふれています。
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[長崎と韓国・朝鮮④] 軍艦島と、軍艦島ツアーの概要

2012-11-16 23:10:13 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
    

[長崎と韓国・朝鮮①] 岡まさはる記念長崎平和資料館を見学
[長崎と韓国・朝鮮②] 齋藤茂吉と朝鮮(+長崎)
[長崎と韓国・朝鮮③] 日本二十六聖人記念聖堂で、なぜか朝鮮三国時代の弥勒菩薩像が・・・
 ・・・と続いてきたシリーズの最後です、一応。

 前回の記事の末尾で「最後の記事がメインです」と書いてからすでに半月以上、また10月15日に長崎の軍艦島に行ってからは1ヵ月と1日経ってしまいました。

 長崎に行くことになって、中国やオランダではなく、韓国・朝鮮関係のネタで何があるか、と考えて最初に思い浮かんだのが軍艦島でした。といっても、かつてそこの炭鉱で多くの朝鮮人が苛酷な労働に従事していた、という程度のわずかな知識だけで・・・。
 そして長崎最後の半日、他の著名観光地探訪を全部断念して軍艦島ツアーに行ってきました。
 事前学習もせず、予備知識もほとんどなかった状態で行ったこともあって、いろいろ収穫があった上、帰ってからも関係書をあれこれ読んでいたら、きりがなくなって今に至りました。写真集とか証言記録とかいろいろ出ているし、小説では内田康夫「棄霊島」赤川次郎「三毛猫ホームズの無人島」は一気に読了しました。ただ「毎日新聞」で昨年6月~今年8月連載されていた大沢在昌「海と月の迷路」はまだ単行本化されてなくて未読です。韓国作家・韓水山の小説「軍艦島」(原題「까마귀(カラス)」(2009.作品社)も刊行されていますが、これもまだ最初数ページ読んだだけです。
[11月17日の追記]長崎出身の作家・吉田修一の短編「キャンセルされた街の案内」(新潮文庫)も軍艦島のことを書いています。

 軍艦島については、炭鉱を中心とした歴史、そこで暮らした人々の生活、近代化産業遺産関係等々いろんな切り口があるなあと痛感しています。知れば知るほど本ブログで何をどう書くかを考えると、収拾がつかなくなってしまいそうです。

 またそれらのことを全然知らなくても、軍艦島の遠望や、島内の廃墟と化した建築物群の写真を見ただけで人の目をひきつける「異様さ」といったものがあります。
 上記のような推理小説の舞台とされたのもそれゆえでしょう。昨日発売の「週刊文春」11月22日号の「CATCH UP」には、映画「007 スカイフォール」で悪の本拠地として描かれるマカオ沖の島のモデルにもなったとか。昨年7月にスタッフが来てロケハンをし、その写真をもとにロンドン郊外にセットを造って撮影したそうです。

      
    【「007 スカイフォール」より。長崎市としては当然世界に向けての宣伝のチャンスと捉えていますね。】

 軍艦島ツアーのガイドさんの話では、福山雅治B’zもこの島に来たことがあるそうで、船内でもB’zのミュージックビデオを流していました。
 帰ってから探したら、B’zの「MY LONELY TOWN」という歌で、YouTubeにもありました。(→コチラ。)

 福山雅治は歌の方ではなくて、この島を撮った「残響 Photo Exhibition 2008」と題した写真展を開いたことがあり、それについて語った動画(→コチラ)も見つかりました。ただし、福山雅治は長崎出身ということもあって、軍艦島の「異様な」外貌よりも、自身語っているように故郷とか時の流れといったものに撮影の主眼が置かれているようです。

 ・・・というわけで、一体何から書こうかあれこれ考えましたが、とりあえずは島の名称や位置等、地理上の基本事項から。

[軍艦島の名称・位置・広さ等]
 軍艦島の正式名称は端島(はしま)。かつての住民や、長崎の地元では端島といいます。(私ヌルボが長崎に行った時、地元の方に「軍艦島に行こうと思ってるんですよ」と言ったら「ああ、端島は・・・」と言い換えていらっしゃいました。)
 「軍艦島」の名は、戦艦土佐に似ていることからその名がついたと言われています。しかし2004年閉山30周年記念の写真集「端島~軍艦島~」によると「1916年4月7日に大阪朝日新聞が、端島を二本煙突の巨大な軍艦に似ていると報道」したのが最初とか。
 ※戦艦土佐は、三菱重工長崎造船所で建造されたものの、1922年ワシントン軍縮条約の結果完成を見ることなく標的艦として沈められました。(→参考。)

 軍艦島の位置は下の地図参照。
 長崎港からは南西約17.5kmの位置にあります。長崎半島からは約4.5km離れています。
      
  【崎戸・高島とともに、かつて端島は三菱が経営した海底炭鉱で知られた島でした。林えいだい「死者への手紙」(明石書店)所載の地図より。】

 軍艦島は、南北約480m、東西約160mの小さい島です。
 面積は約63,000㎡で、東京ドーム(46,755㎡)の約1.35倍。
 元々は現在の3分の1ほどでしたが、1897~1931年の6度の工事で埋立てと護岸堤防の拡張を繰り返し、現在の大きさになりました。
 ※軍艦島にボタ山がないのは、その埋立てに用いたため。また廃坑を埋める時にも用いたそうです。
 1974年1月の炭鉱閉山後まもなく、4月20日までに残っていた約2千人の住民が全て島を離れ、島は無人化しました。以後現在まで、島の人口はゼロです。
 その後も島は三菱の所有でしたが、2001年当時の高島町に無償譲渡され、2005年1月合併により長崎市に編入されました。

[軍艦島ツアーの概要]
 次に、2009年4月から始まった一般対象の軍艦島上陸ツアーのあらましです。
 島への上陸は長く禁止されていましたが、2009年4月22日から見学通路内からに限って見学ができるようになりました。
 当初年間2万5千人程度と予測していた上陸者数は、初年度の実績が約5万5千人。その後も2010年が8万5千人、11年が8万4千人で、順調という言葉以上の人気をよび、地元に約65億円もの経済波及効果をもたらしたとのことです。
 現在、上陸ツアーを実施している運航会社は以下の通りです。
 長崎港から発着は次の4つ。集合・発着場所等は異なるので要注意!
  やまさ海運
  高島海上交通
        ※伊王島からでも乗船可。高島にも上陸し、石炭資料館(端島模型)・岩崎弥太郎銅像等見学。
        ※やすらぎ伊王島という伊王島宿泊観光とのセットプランもあります。
  軍艦島コンシェルジュ
  シーマン商会
 各社で若干の差はありますが、ツアーのあらましは次の通り。
 ・料金・・・大人でおよそ4000円前後。これに施設見学料として300円がプラスされます。
 ・時間・・・長崎港発~軍艦島~長崎港着 計2時間30分前後。
       軍艦島のすぐ近くまでは約30分で行くが、上陸の前(または後)に島の周囲を20分くらい(?)時間をかけて周る。
       上陸して見学する時間は40~50分程度。
 ・各社とも、午前と午後各1便運航。
 ・天候によって欠航になることもあります。
    ※①のサイトによると、今年4~6月の運航率・上陸率は83.3~96.8%だったが、7月は運航率74.2%、上陸率61.3%。
 ・乗客定員は、①170名 ②200名 ③130名 ④45名
    ※②は客室内座席60程度で、他も定員=客室内座席数ということではないようです。
 ・上陸ツアーはなかなかの人気で、とくに土・日は早くから満席になることもよくあるようです
 上記4社以外に、長崎半島の野母崎の手前の野ノ串港から出航するのが、
  アイランド号・・・15分で軍艦島に到着と、航行時間は長崎港発の半分以下。

 見学地は、下の地図のように非常に限定されています。距離にしてわずか230mで、見学ポイントが3ヵ所あり、ガイドさんの説明があります。

     
    【「廃墟」の中を自由に歩き回れるわけではありませんが、それでも失望する人は少ないと思います。】

 ツアーのようすは各社サイトの画像でおよそ見当をつけてください。③と④のサイトには動画もあります。

 実際に私ヌルボが行った時のことや、撮影した写真については続きで、ということにします。
 島の歴史や、歴史遺産等については、さらにそのあと、かな?

 → <[軍艦島ツアーで考えたこと] 「いつ、どんな立場で見たか」で大きく異なる思い出>
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[長崎と韓国・朝鮮③] 日本二十六聖人記念聖堂で、なぜか朝鮮三国時代の弥勒菩薩像が・・・

2012-10-28 20:20:47 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 10月20日の記事で紹介した岡まさはる平和資料館から坂道を少し下った所に日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会があります。
 この聖堂は二十六聖人の列聖100年を記念して1962年に建てられたもので、自身カトリック信者であり、ガウディを初めて日本に紹介した今井兼次という建築家が建てたものだそうです。見るからにガウディを思わせる外観で、内部にも見るべきものがいろいろありました。(画像は→コチラ。)

 聖フィリッポ教会の道路向かい側に、日本二十六聖人殉教地(西坂公園)日本二十六聖人記念館があります。

    
      【西坂公園内の日本二十六聖人記念碑。日本二十六聖人記念館はこの背後。】

 「二十六聖人」とは、1596年のサン・フェリペ号事件をきっかけに、再び禁教令を公布した秀吉によって京都・大阪で捕縛され、長崎で処刑されたカトリック信者たち26人のことです。

 この1596年という年は、豊臣秀吉による2度にわたる朝鮮出兵の文禄の役(1592~93年)と慶長の役(1597~98年)の間の年で、この頃は日本でのキリスト教史だけでなく、朝鮮へのキリスト教伝来史についても重要な時期です。(この件については、今年7月刊行された浅見雅一・安廷苑「韓国とキリスト教」(中公新書)に記されています。近いうちに記事にします。)
 ・・・とはいっても、私ヌルボがこの二十六聖人記念館に入ったのは、岡まさはる平和資料館のすぐ近くにあったから、という理由で、とくに韓国・朝鮮関係でめあてがあったというわけではありません。

 ところが、展示物をいろいろ見て回っていると、「あれれ!?」という像が目に入りました。
 あの有名な広隆寺半跏思惟像、あるいは韓国の国立中央博物館にある国宝83号の半跏思惟像と同じような銅造半跏思惟像です。ただしこちらは高さ10数㎝と、ずいぶん小さいものですが。
 「ここになんで仏像が?」と思いつつ説明を見ると、朝鮮三国時代(6~7世紀)頃に造られたもので、隠れキリシタンがイエスの代わり仏として祈りに用いた経歴があり、1980年に子孫が教会に寄進したということだそうです。1982年には長崎県の県文化財に指定されたとか。

 ★この像の写真は二十六聖人記念館のサイト中の「記念館の宝物」のページにあります。(中浦ジュリアン自筆の書状等も。彼につては本ブログの過去記事でちょっと書きました。→コチラ。)

 さて、各地の弥勒菩薩を紹介している→コチラのサイトでは「対馬、壱岐の金銅仏と同様、中世の倭寇の往来によって請来されたと思われ、その後、隠れキリシタンの家で、イエズスを象徴するものとして、守り伝えられてきたものである」という長崎県文化財資料の説明を引用しつつ、「弥勒信仰には仏教では珍しい「メシア」思想があるといわれている。迫害されている隠れ切支丹の人々は、敏感にも、この仏像の温和な微笑のなかに、「メシア(救世主)」を感じ取っていたのであろうか」とコメントを付しています。

 また、→コチラのサイト等には「薬指と親指をくっつける弥勒菩薩の右手の形はキリスト教の壁画等にも同様のものがあって、三位一体を表している」とか、「敦煌にある景教の壁画の大主教の絵に同じポーズがある」とかの記事があります。もしこれがマトモな所説だとすると、隠れキリシタンが祈ったというのもそれなりの根拠があったのかもしれない、と思えないでもない、かな??

 千何百年もの長い年月を経て今に伝わるこの像の来歴を、この像の視点から、監視カメラの保存動画を再生するような形で見ることができたら、いったいどんな人たちの姿が写っているでしょうか? ・・・という発想で物語を書いてみるのもおもしろいと思います。

 このシリーズはあと1回。実はその最後の記事がメインです。

 → [長崎と韓国・朝鮮④] 軍艦島と、軍艦島ツアーの概要
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[長崎と韓国・朝鮮②] 齋藤茂吉と朝鮮(+長崎) 

2012-10-26 23:54:03 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 このシリーズ最初の記事の末尾で「続きはその日本二十六聖人記念館について」などと記しておいて、早々に予定変更です。

 一昨日世田谷文学館に行ってきました。<齋藤茂吉と『楡家の人びと』展>を開催していて、10月24日は昨年亡くなった北杜夫の命日で入場無料になると聞いて友人の誘いに乗ることにしました。

 齋藤茂吉は、戦争と文学との関わりを考える点でも興味深いし、1930年に満鉄の招待で満州各地を旅行した際、帰路に朝鮮を経由している(往路は大連までの航路)ことも少し知っていたので、何か関連の展示物でもあれば、と若干の期待を持って・・・。
 実際行って見てみると、その2つの点については全然といっていいくらい収穫はなかったのですが、細かな字でぎっしり書かれた絵入りのノートや葉書(←これは齋藤茂太・北杜夫も同様)、加藤清正等が描かれた3枚の凧絵等々、興味深い展示物がいろいろありました。

 で、彼の年譜を見ていて目に入ったのが「1917~21年長崎病院精神科部長として長崎に赴任していた」ということ。
 「えーっ、そうだったの!?」と、長崎旅行の事前学習の不足がまたまた露呈。遅ればせながらネット検索してみると、「長崎・斎藤茂吉の歌碑をたずねて」とか<長崎・斎藤茂吉寓居の跡>とかの、写真入りの関係記事が見つかりました。

 また、1930年10~11月の満州旅行については随筆「満洲遊記」に、旅行中に詠んだ歌は「連山」(1950年刊)に収められていることを知り、さっそく横浜市立図書館で借りて目を通してみました。

          

 「連山」には、満洲各地と北平 (北京)を巡り、朝鮮を経て帰国するまでの歌705首が収められています。うち朝鮮での作歌は43首です。(奉天~安東間を除くと36首。)

 11月20日午後奉天を発って安奉線を南下し、車窓から本渓湖製鉄所の煙突から立ち昇る煙を見たりして、午後9時に安東(現・丹東)着。(※安奉線は安東と奉天(現・瀋陽)を結ぶ路線。現在の瀋丹線。)
 「安東にて時を一時間すすめぬ」と詞書。ここで時差を切り替えたのですね。翌朝から朝鮮に入ります。

 朝鮮のあかつきにして吾は見つ時雨のあめの過ぎつつ行くを
 うつせみのわれの一世(ひとよ)に幾たびかかかるしづけさ見むとし思(も)へや


 朝鮮に入って、最初に掲げられている2首です。
 はたして、茂吉は朝鮮が「静かな朝の国」といわれていることを知っていたのでしょうか? 詞書はありませんが、知らなかったとすればなんという偶然!
 その日21日午前京城着。 雨の中、朝鮮総督府や昌慶苑等を回り、講演も行います。
 茂吉は各地で歓待されます。この日の夜は南大門通の朝鮮料理店・食道園へ。
 6人の妓生が「歌舞音曲をほしいままにす」とあります。

 まをとめのうたへる聲はかなしけど寂(さ)びて窒(とどこ)ほることなかりけり
 ともし火のもとに出て來てにほえ少女(をとめ)が劍を舞ひたるそのあわれさよ

  (※「にほえ少女」とは紅顔の美少女のこと。)

 この2首の歌には、2006年の「朝鮮新報」に文芸評論家の卞宰洙(ピョン・ジェス)氏が紹介して解釈を加えています。
 1首目は「これは朝鮮の少女の歌を聞いた時の感懐であるが、茂吉はその歌声に、なぜか悲しみを覚えている。乙女に宿る悲しみが亡国のそれであると解釈できなくもない、後の歌には「舞台はどこであろうか。明かりに映し出されて気品のある少女が剣の舞を踊る可れんな姿が、哀れに思えてならない」と解し「民族舞踊を舞う少女の美しさにひかれながらも、茂吉は哀れの感情にとらわている。それが〝芸人〟という身分に対してなのか、それとも、亡国の民への同情なのかその判定は読む人の受けとり方によるというほかない」とまとめています。
 この解釈に対して、「亡国亡国うるせーよ!!」とブチ切れているブログ記事もあります。
 「朝鮮新報」の記事では、本ブログでも「えっ、金素月の「つつじの花」も抵抗詩!?」と題して記事を書いたことがありました。「乙女に宿る悲しみが亡国のそれであると解釈」するのであれば、せめて1つでも論拠・例証を示してほしいものです。悲しさ・さびしさにもいろいろあって、齋藤茂吉にも万葉の昔から現代に至るまでの用例を基に考察した「『さびし』の伝統」という論稿があります。(→<青空文庫>に収録。) 2首目の歌にも「舞台はどこであろうか」と記していますが、詞書を読み、さらに全集に収められている彼の手帳を確認すればすぐにわかることなのですけどねー。これでは「解釈」というよりも「私はこう読みたい!」という主観的な願望のレベルに止まってしまっています。
 おそらく、妓生としての生活は大変で悲しいことも多かったと思います。私ヌルボはそのことを否定するものでは全然ありませんので誤解なきよう・・・。おっと、ついついムキになりかけたかな?

 茂吉は11月22日は朝鮮神宮・北漢山・冠嶽山・パコタ公園(←ママ)等、23日は東大門・清涼寺・本町通(現・明洞~忠武路)等々を見物し、24日の午前10時京城を出発して帰途につきます。

 以上が歌集「連山」を通して確認した茂吉の朝鮮での旅程の概略です。

 では随筆「満洲遊記」には何が書いてあるかなと「齋藤茂吉全集 第7巻」(岩波書店.1975)をひもといてみると、朝鮮での記述は全然なし
 しかし、満州の叙述がなかなかおもしろいのです。大連から旅順、遼陽、奉天、撫順等を回り、哈爾濱(ハルピン)からさらには満州里まで足を延ばしています。

 撫順の記録が興味深いので、ちょっと紹介します。例の露天掘りの炭鉱等を見学して、その夜は新市街の歓楽園に行きます。炭鉱労働者のための歓楽街で、劇場や飲食店があります。ここで茂吉たちも店をハシゴして飲食したようです。
 まず琴楽書館という店では、王克琴(ワンクーチン)という20歳の「小婦」が接待します。「連山」中に次のような歌があります。

 (詞書)わがそばに克琴といふ小婦居り西瓜の種を舌の上に載す
 わが體(からだ)に觸れむばかりの支那少女巧笑倩兮(こうしょうせんたり)といへど解せず

 元は「詩経」に美女への賛辞なんですか? そりゃあ中国人でもフツーのねーちゃんにはわからんわなー。
 一力という朝鮮料理店では、力彌と称する芸者がいました。茂吉は、丹念にメモを取っています。

 ワタチ、チユ八ゴザイマス。コマスミニダー。アンタサンダンナニモトオモツテヨ。ヌクイヨ。イカンヨ。アンタ、ドコデキタンデスカ。エーチガウ。トマテイラツサエ。さういふたどたどしい日本語を使ふ。さうして、撫順藝者は親切者ヨドツコイチヨ、雨が降らぬにコリヤ、傘かせるヨチヨイナチヨイナ、グンニヤグンニヤなどとうたふ。またアイゴー、ハルモニ、クーマルシー、マーソ。チエビガ、ツヨゴト、カンノンマン、カンダオ。アイゴー、ハルモニ、クーマルシー、マーソ。チヤンセカ、チヨゴト、アルマン、カンダオ。アイゴー、ハルモニ、クーマルシー、マーソ。コツチヨガ、チヨゴト、メキマン、ハンダオ。アイゴー、ハルモニ、クーマルシー、マーソ。ハルモニ、ソンジヤガ、ヅージヨ、カーオなどといふ唄をうたふ。哀調があつて聽くに堪えへる。何う意味であるか私には全く分からぬが、私はその調を愛して聽いた。彼女はまた、シザー、ギンセ、シザー、ギンセ、タンバコ、ターリャンイ、シザー、ギンセ、ヅーエ、グク、オトキエレなどともうたふ。

 ・・・この中の朝鮮語の歌の意味、どなたかわかるでしょうか? 私ヌルボ、見当をつけてハングルで検索などしてみましたが、わからないままです。
 次の店が山陽楼料理店。小藤という酌婦が相手をします。
 「撫順よいとこ、一度はござれ、炭の中にも都ある」、「うちは歌ひきれまつせん」などと長崎縣島原あたりの方言を使ふ。
 ・・・とあります。長崎県の中でも、島原の方言とすぐ聴き分けられるのでしょうか? このあたりは、以前数年間長崎にいた茂吉だからわかったのでしょうか?

 ここでヌルボが思い起こしたのは「からゆきさん」のこと。映画化もされた山崎朋子「サンダカン八番娼館」でからゆきさんのことは広く知られるようになりました。そして<からゆきさんの小部屋>というサイトで説明されているように、彼女たちの出身地でとくに多かったのが島原・天草地方でした。また上記の映画を見て、彼女たちのが行った先は東南アジア方面という印象を持たれているようですが、実際は世界各地に及んでいて、旧「満州」にも多くのからゆきさんがいました。
 撫順の小藤さんも、そんな島原出身の「北のからゆきさん」の1人だったのでしょう。
 <からゆきさんの小部屋>には、「シベリア出兵の際は日本軍ともかかわりがあった」という天草出身の「満洲お菊」や、やはり「日本軍に協力しさまざまの功を立てた」という「シベリアお菊」という、名前の残っているからゆきさんの短い説明が載っています。「シベリアお菊」は哈爾浜(ハルピン)の日本人墓地で眠りに就いたということですが、それは茂吉がその墓地を訪ねたこの1930年の後の話なのかどうかわかりません。(茂吉は行く先々で日本人墓地に行っています。シンガポールとかでも・・・。)

 長崎に始まったこの記事が、やっと再び長崎(島原)に戻ってきました。ふー。
 ここでおしまいにしてもいいのですが、ことのついでに茂吉が訪れたロシアとの国境の町・満州里のことをつけ足しておきます。韓国・朝鮮とは直接関係はないのですが、ヌルボより上の世代が(たぶん)歌声喫茶で愛唱した「満州の丘に立ちて」という歌が好きだったもので・・・。今<二木紘三のうた物語>というブログの記事を読むと、日露戦争で戦死した兵士を悼んでロシアの軍楽隊長だったシャトロフという人が作曲したとか・・・。(日露戦争当時の写真入り動画→コチラ、本格的なクラシックの公演はコチラ。他にもいろいろ。
 (あれ? ロシア語のマンチュリアは満州の意で、満州里ということではないのかな? ・・・と、これも今考えたこと・・・。)

 ま、それはそれとして、「満洲遊記」によると、ハルピンには当時日本人が4,778名居留していたが満州里には217名。そしてここの宿にも「島原むすめ二人」がいたと記されています。
 茂吉は、ここの居留民会立満洲里日本尋常小学校、成美幼稚園を訪問します。生徒は小学生14名、幼稚生9名。母がロシア人の混血児が桃太郎の歌を歌います。また「ペチカ」の歌を聴いていると「いつのまにか私の眼から涙が出て来て為方が無い」という茂吉でした。

 國境(さか)ふ小さき町に稺(おさな)等の日本の歌を聞きつつ泣かゆ

 そしてここでも日本人墓地へ。

 いやはての國の境に住みつきてをとめの身さへ此處に終りき
 春になれば日本人墓地のほとりにも雲雀が群れて啼きのぼるとふ


 「わずか」217名と書きかけて消しました。少なくはないです。当時ここにいた日本人たち、とくに子どもたちは、その後どんな人生を送ったのでしょうか・・・?

 それにしても、昔の日本人はよくこんな遥か遠い異国の地まで大勢行ったものです。(何百年も前に東南アジアに行って日本人町を形成した人たちもオドロキですが・・・。)

 続きは日本二十六聖人記念館について書きます。(って、自分でも信じてない!?)
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偶然に見た「1931年の京都府立第一高女の朝鮮修学旅行」の動画に驚く

2012-10-24 23:48:19 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 10月21日(日)は、諸般の事情で韓国文化院に行けず。<コリアン・シネマ・ウイーク 2012>の一環で15 :30から「韓国映画の魅力と韓国映画産業の現況」と題したシンポジウム、18 :30からは今年前半のヒット作「建築学概論」の上映があったんですけどね・・・。

 その代わりに、行った所が横浜・日本大通りの日本新聞博物館
 10月6日(土)~12月16日(日)の日程で「高句麗壁画古墳報道写真展」が開催されています。
 私ヌルボ、考古学には昏く、興味関心も今ひとつという感じで、ただ古墳以外の写真もあるかなと思い行ってみました。
 実際見てみると、いろいろ興味を覚えたこともありましたが、これについて詳細は後日に回します。

 で今回の記事の本題は、この会場で放映されていた動画についてです。2種類中1つは、この写真展の個々の壁画を収録した、ごく当然の内容のもの。
 ところが、もう1つは高句麗古墳壁画とは全然関係のない「1931年の朝鮮」(17分)という動画です。
 説明によると、京都府立第一高等女学校(現鴨沂(おうき)高校)の修学旅行の記録映像とのことです。

 通して見てみると、わずか17分の映像ですが、当時の朝鮮各地のようすをそのまま映し出した、非常に貴重なものだと思いました。
 以下、順を追って旅行団一行の行程を、私ヌルボがわかった範囲で列挙します。

①京都駅での出発の光景

②もう朝鮮。(場所は不明。)
 どこの旅館かな? 釜山? 町を歩く人たちは白衣の韓服の人ばかり。トゥルマギ(上着)にサッカ(삿갓.笠)の正装の人、チゲ(背負子)を背負った人、頭上に物を乗せて歩く女性等々。

③「暗行御史公道」という石碑
 場所はどこなのでしょうか?

④蔚山
(a)「太和楼」という扁額
 コチラの韓国サイトの記事参照。上から6つ目が日本の統治期の太和楼の写真です。この記事によると、太和楼は元は新羅善徳女王の時建てられた楼閣でしたが、壬辰倭乱の時焼失しました。その扁額を、蔚山都護府の客館である鶴城館の鐘楼に移して太和楼と呼んだそうです。後に1940年蔚山公立普通学校の校庭を拡張する際に建物が壊され、個人に売られて移築されましたが、2003年9月に火災によって全焼してしまったとのことです。今年(2012年)6月のニュースによると、蔚山市では2014年の竣工をめざして太和楼の復元工事を進めています。
(b)子守の女の子
(c)鶴城館
 旅行団の宿舎かと思ったら、上述のような歴史建造物か。
(d)蔚山倭城の本丸跡等
 ウィキの説明は→コチラ。慶長の役の戦跡。

⑤田園風景
 牛耕のようすや、天下大将軍の石像等。どこかな?

⑥慶州
(a)石窟庵
 ここの前で記念写真撮影。
(b)仏国寺の多宝塔、釈迦塔等
 ※10日前の「朝鮮日報」(日本版)のコラム<萬物相>に、「釈迦塔の解体」と題した記事がありました。(→コチラ。)
(c)金冠塚
 町中にある円墳。1921年に偶然発見されたそうです。
(d)鮑石亭
 今も慶州の見学ポイントの1つ。(→コチラ参照。)

⑦ソウル
(a)市電 
(b)朝鮮神宮
(c)砧(きぬた)を打つ女性たち

 どこかな? 清渓川?
(d)昌慶苑動物園・植物園
 1909年昌慶宮の殿閣を取り壊して造られ、昌慶宮が復元された1984年までありました。本ブログ関係記事は→コチラと、コチラ
(e)光化門と朝鮮総督府
(f)鍾路の街
(g)景福宮

 慶会楼その他。
(h)京城駅

⑧平壌
(a)箕子陵
 ウィキペディアの説明によると、箕子陵は平壌の牡丹台に存在していた墓。箕子は中国殷王朝の政治家で紂王の叔父で、かつては信仰されていたが、日本統治時代の前後の頃からは「民族主義の高まりにより檀君崇拝が興り、建国の起源を古代中国に求める箕子信仰は次第に廃れていった」とのこと。それでも、平壌府の景勝地として多くの観光客が訪れたが「1959年北朝鮮政府は箕子陵を破壊し、その跡地は牡丹峰青年公園となった」そうです。
 こんなところにも、現在の権力に都合よく歴史が再構成される事例が・・・。
(b)牡丹台
 大同江に接する標高95mの丘・牡丹峰(モランボン)のこと。(※あの焼き肉のたれで知られる食品会社の名はここに由来。) 
(c)浮碧楼
 ウィキペディアの牡丹峰の説明文中にあります。城壁上の楼閣で、もとは高句麗の永明寺の一部。往時の写真絵葉書にもあります。
(d)大同江の川下り
(e)平壌妓生検番
 いやー、こういう所まで見学するとは! 本ブログ関係記事(→コチラ。) 今でいえば芸能事務所という感覚?
(f)楽浪古墳

【全体的な感想等】
 いやー、なんという修学旅行! 新幹線もなく、飛行機利用もできない昭和初期に、よくこのような旅行ができたものです。それも女学校で。朝鮮修学旅行が他にどれほど行われていたのかは未確認ですが、現代同じ行程でも何日もかかるでしょう。(って、ソウルから平壌にはもちろんすんなり行けませんが・・・。)
 また、動画を残していたのも貴重です。今では失われた建物や風俗がいろいろ映っています。YouTubeにはupされていないようですが、鴨沂高校の関係者の皆さんには、ぜひとも広く公開されるようお願い致します。
 この旅行について、あるいは他校の朝鮮修学旅行についての文字資料があれば読んでみたいものです。
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[長崎と韓国・朝鮮①] 岡まさはる記念長崎平和資料館を見学

2012-10-20 23:57:51 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 私ヌルボ、今月12日~15日長崎に行って来ました。ほとんどは公務なので自由時間はあまりなかったのですが、14日(日)午後にふつうのガイドブックには載っていない<岡まさはる記念長崎平和資料館について>というマイナーな資料館に行って来ました。地元の高校の先生の強いお薦めで、また長崎駅から近くて行くのに便利ということもあって行ったというわけです。

 この資料館のサイトにもあるように、ここの展示の趣旨は日本の過去の加害行為と戦後の無責任性を明らかにし、日本政府に真摯な謝罪と補償の実現を求めることを目指していますということで、「朝鮮人被爆者コ-ナ-」、「飯場コ-ナ-(強制連行・強制労働)、「日本の侵略・朝鮮編」、端島コ-ナ-、「慰安婦問題コ-ナ-」などを設けています。
 たぶんこれだけで、「ネトウヨ」の人だけでなく相当数の人たちが拒絶感を持つだろうと思います。

 しかし私ヌルボ、とりあえず虚心にすべての展示物を見、書籍販売コーナーの本もチェックしてきました。上記各コーナーの展示物には、既知の事柄、今まで見たことのある写真や資料も相当数ありましたが、とくに地元長崎については今まで知らなかった具体的な資料がいろいろ展示されていて、新たな知識を得ることができたのは収穫でした。

       
             
   【炭鉱での朝鮮人労働者や、朝鮮人の原爆被爆者の資料がいろいろあります。】

 資料館を開設した岡まさはるさんの「強い加害者意識」については、私ヌルボも正直なところ100%の共感を覚えるものではありません。首を傾げざるをえない部分もあります。しかし、そのような思いがあればこそ明らかにされた事実があります。また歴史の中で自分の努力・能力等と関わりなく不幸な人生を送ることになってしまった、たとえば朝鮮人徴用者たちのことも、(明治以来の日本人労働者等と同様に)決して記憶や記録から消し去ってはならないと思います。

 この資料館は長崎駅から徒歩10分足らず。日本二十六聖人記念館からほんのすこし坂道を上がった所にあります。
 自身の政治的・思想的立場はいったんおいといて、行って見てみて下さい。

          
   【駅前の大通りから坂道をあがって・・・といっても、そんな長い距離でもありません。】
     
 続きはその日本二十六聖人記念館について。ここが韓国・朝鮮と関連がある(?)とは、ヌルボも思ってもいませんでした。
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竹島問題についての雑感(2) -NHKスペシャル- 櫻井よしこ氏の陰で全然目立たなかった木村幹教授に注目

2012-09-26 13:14:24 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 9月23日(日)夜、実に久しぶりにテレビを見ました。NHKスペシャル「対立を克服できるか~領土で揺れる日中・日韓~」に木村幹神戸大教授がどんなことを言うか興味があったからです。

 本ブログ9月7日の記事で、古田博司・下條正男・重村智計等の韓国を専門とする大学の先生方が雑誌で最近の韓国に対して感情もあらわに政治的主張を展開していることに、私ヌルボ、少し驚きあきれるようなニュアンスの文章を書きました。感情に流れている部分を捨象すれば、相当程度(?)納得できる内容ではあるんですけどね・・・。

 その先生方と対照的な研究者が木村幹先生です。
 木村先生のtwitterは有用な知見だけでなく、軽いユーモアにもあふれていて、以前から愛読しています。
※木村先生、書店でKSJ先生の新書の上に自分の新書を置いたりしてるのを店員さんに見つかって注意されたりもしてます(笑)。→コチラ参照

 木村先生の持ち味は、領土問題や歴史認識問題等について、たとえば「~だから竹島は日本の領土だ」とか、「~だから日本は謝罪し補償すべきだ」等の意見を述べ立てないこと。
 日韓がそれぞれの主張を相手方にぶつけ合っても不毛な議論が続くばかりであり、それ以前に、なぜどんな背景の下にそれらの問題が問題化してきたのか、あるいはなぜ両国の認識が食い違うのかを探るというのが基本姿勢です。

 木村先生らしいtweetを8月以降の中から拾ってみると・・・

▶「8月15日 またぞろ、お前は日本と韓国のどちらの味方か、みたいなツイートがわらわらと。でもね、本来、研究者にはそんなのないんだよ。
だって、分析の前から結論が決まっている、というのは、あり得ないし、あっては駄目なんだよね。フラットな分析をしてこそ、統治エリートや世論が正確な判断ができるんだし、結果としてより実務にも役に立つ。少なくとも、自分はそう考えている。」


(「‏@takammmmm 木村幹氏という大学教員には失望した。学会では実績を重ねている人なのかもしれないが、韓国を研究している知識人として、従軍慰安婦問題について、いま「こう見るべき」と言う発言しないとダメだろう。言説研究の手順なんかを解説している場合ではないと思う」というtweetに対して・・・)
▶「9月1日 運動や啓蒙活動のために研究している訳じゃあないんだけどなぁ。」

 ・・・とまあこんな感じ。上掲の先生方と比べると、木村先生の方がナショナル・アイデンティティに浸りきってなくて、学問的にも信頼がおけるような気がします。(※「信頼がおけます」≠「信頼がおけるような気がします」) 

 さて、そのNHKスペシャルを見て、おそらく大多数の視聴者もそう思ったでしょうが、私ヌルボの感想も櫻井よしこの一人勝ち

※およその内容は、相当に詳しく書かれている他のブログを参照されたし。→コチラとか、コチラとか、コチラ等々。

 木村先生、事前のtweetでは、
▶「どうも役回りは交通整理らしい。が、問題は爆走する車に乗っている人よりも、その車を整理する為に、身一つで交差点の真ん中で交通整理をする人間の方が、遥かに死亡率が高そうだ、ということだ。」
 ・・・と呟いてましたが、結局は櫻井氏が経験にモノを言わせて巧みに突っ走った、というところでしょうか。

 番組終了後の木村先生も、
▶「終わった。桜井さんに、完全に食われた。」
 ・・・と率直な感想。 そして、
▶「ホテルの部屋に戻った所。いろいろと反省中。役回りもあったのだけど、下手に抑えちゃったかなぁ。日本国内の保守派の議論と、韓国側の議論との間で、割り込むのが難しかった。その点、議論に慣れている人は、割り込んで行くタイミングが絶妙。そこは素直に感心。」
 ・・・と振り返り、反省しつつも、翌朝からは番組内で言えなかったこと等のtweetが続きます。
 以下、いかにも木村先生らしいもの及び私ヌルボが共感を覚えたものを拾ってみます。(全体的に、ちょっと負け犬の遠吠えっぽい感じもしないではない?)

▶「9月24日 昨日のNスペ補逸。討論では、田中さんが日本政府の立場を、桜井さんが日本の保守派の意見を、韓国からの先生方が一致して韓国の公式見解を語った(ちょっと驚いた)のだけど、自分は過去の経験から、この手の「自らの意見の言いっ放し」が意味のある事だと思っていないので、引いた対応になりました。」

▶「ステレオタイプな見解の応酬で相手側を「論破」して、問題が解決するならいろいろな問題は既に解決している筈。また、日韓の大半の問題は資料や証言等々の「解釈」の問題なので、結局、平行線の議論にしかならない。という事で、「論破」は一見「痛快」だけど、余り意味がない。」
 ・・・櫻井よしこさんの鋭い弁舌に、大方の視聴者は溜飲を下げたでしょうけど、韓国の人たちにはほとんど通じないんだろうなー、きっと。

▶「補逸。更に続き。因みに見ていた人には、誤解した人もいるようだけど、桜井さんは中国との対立を念頭に「日韓関係は重要」と言う立場で議論をしていて、「にも拘らず韓国が反日的な姿勢を取っているのが良くない」というポジションでの議論。ある意味、自分よりも日韓関係重視論者だったりする。」

▶「Nスペこぼれ話。桜井さんは番組が終った後も、韓国からの先生方を捕まえて、彼等を「説得」しようとしていた。その意味では、確かに「熱い」人であり、また真剣に韓国側にメッセージを伝えようとしていた。どうしても分析者として、間をおいて日韓関係を見たい自分とは、全く違う。

▶「相手を「論破」した先に「日韓友好」がある、と考えていることにおいては、実は桜井さんと韓国の人々の考え方は大きな類似点があったりする(ある意味波長があっている)。で、「そんなことする必要ないじゃん」と思っている自分としては、その考え方こそが日韓関係を阻害している、と思ったり。」 

▶「「正しい」歴史がある、それを自分はわかる、だから他国に押しつけてもいい。そうやっておこる問題を歴史認識問題と呼ぶ。」

 ・・・「さりげなく」表される韓国に対する批判。日本側にもそういう傾向の人はいるが・・・。

※togetterでこの番組関連の木村教授のtweetをまとめて見ることができます。→コチラ。(慰安婦問題関係のtweetも多い。)

 ところで、最近の領土問題に関しての、主にマスコミを通じての学者先生の言説を見聞きしながら、私ヌルボが抱いた疑問があります。
 それは、「学者たるものは、自分が日本人(or韓国人)であれば日本(or韓国)のために研究すべきなのか? それとも、逆にそうした雑念(?)を排して学問的な正しさを求めるべきなのか?」ということ。大雑把に見ると、韓国人学者は前者が比較的多く、日本人学者は後者の人が多いように思えます。
 しかし、意識的に前者の道を択ぶとすると、それは<御用学者>に他ならないでしょう。敗戦後の学界はその否定からスタートしたのではないですか?
 おそらく、今日本の国益・国策に沿った線で意見を述べている学者・専門家諸氏は、「公正な研究・考察の結果である」と仰るかも・・・。しかし、日韓両国の学者・専門家の所論に接すると、自分の民族意識や思想性、政治理念等に研究の方向性や結論が左右されるのはむしろふつうのように見えます。

 かつて、朝鮮戦争で先に攻撃したのは、左翼の立場に立つ人たちはそのほとんどが韓国の側だと考え、反共の立場の人たちは北朝鮮の側だと考えていて、それは学者の場合もほぼ同じだったと言えるようです。

 野球でアウト・セーフの判定が微妙な場合、一方のファンは「アウト!」と叫び、他方のファンは「セーフだ!」と主張する。学者・専門家がそれとほとんど同レベルだとまずいでしょう。

 その点、先の引用のように「分析の前から結論が決まっている、というのは、あり得ないし、あっては駄目」という木村先生、9月10日のtwitterで次のように記しています。
▶「「研究者」が一般社会に発言する事に対して批判的な人は実際多い。自らの専門性を踏み外さずに、発言する事は容易ではない。でも、敢えて「踏み外している」ことを承知で、時に発言しなければならないと思う時もある思う。そのリスクを敢えて取ろうとするのは簡単ではない。率直に、自分には出来ない。」

 このように、一方の立場での発言については「控えめ」でありながら、論点の整理役・説明役としてはけっこうベラベラと(?)しゃべる。このあたりがマスメディアの側からは重宝がられるのでしょうか? (木村先生がtweetしているように、小此木政夫先生が慶應大を停年退任し、九州大学特任教授となったため需要が増したということもあるかも・・・。)

 あーあ、今回も自分の考えを述べる前の段階で終わってしまった・・・。(続く)
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竹島問題についての雑感(1) 西原理恵子サンのぶち切れ方に共感!

2012-09-07 21:01:15 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 8月10日の李明博大統領の竹島/独島上陸とそれに続く日韓両国政府間の応酬。
 あるいはロンドン五輪サッカー3位決定戦後の朴種佑(パク・ジョンウ)選手による(韓国でいうところの)「独島セレモニー」。
 そして8月22日には、KARAがミニアルバム発売記念ショーケースの場で、独島問題について質問され返事しなかったことで非難された。
・・・等々。

 その間竹島/独島問題についていろいろと情報を集め、本を読み、ない知恵を絞って考えてきた自他ともに認めるヒヨリミストの私ヌルボが、意を決して竹島/独島問題について書きます!

 さしあたって、専門家の皆さんが最近の竹島問題についてどんなことを書いてるのかと思って書店の雑誌コーナーを眺めると、「正論」10月号には古田博司筑波大学教授の「韓国よ、いいかげんにせんか! 韓国が滅ぶまで私は彼の地を踏まない」と題した記事が・・・。アーラ古田先生、ついにぶち切れてしまわれたのですか・・・。
 次に「WiLL」10月号に目を移すと、<総力特集>のタイトルが「ツケ上げるな韓国!」。そして渡部昇一の後に「韓国こそ過去を猛省せよ」という一文を寄せている人が「竹島は日韓どちらのものか」(文春新書)の著者の下條正男拓殖大学教授。コチラもかなりヒートアップしてるような書きぶり。「WiLL」には重村智計早大教授の「李明博「逮捕」へのカウントダウン」という記事も載っています。
 下條先生といい重村先生といい、こんな感じになっちゃってるんですねー。焦げてる部分をそぎ落としてみると、それなりにベンキョーになるところもあるんですけど・・・。タイトルは編集者がつけてるのかなー。とはいってもねー、やれやれ。
 ネットでの情報によると、「暴走する韓国」という特集を組んだ「Newsweek 日本版」9月5日号はAmazonでは完売とか。ちょっと読んでみたかったなー。
 ・・・と言いつつ私ヌルボ、「正論」も「WiLL」も立ち読み止まりで、結局買ったのは(韓国と関係ないけど)「創」9・10月号なんですけどね。

 さて、いつもの通り長~い前書きはこのあたりでおいといて、何から書くかなと思案しつつ、至福の風呂場読書は「週刊新潮」9月13日号。例によって裏表紙から開いたら「週刊鳥頭ニュース」の<今週の御題>が「竹島問題提訴」、とうことで、目に飛び込んできたのがコレ。

            
           【この指先は本誌=「週刊新潮」に向けられてんですよ。】

 おおーっ、さすが西原理恵子サン、よー言うてくれました! ぶち切れるんなら、こうでなくっちゃ。

 あ、本論に入る前に字数がいっぱいになっちゃった。(続く)
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「北朝鮮の著作物の保護義務はない」という最高裁判決に首をかしげる

2011-12-10 16:13:32 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 映画ファンで、とくに韓国・北朝鮮映画ファンの間でカナリオ企画という会社はどれだけ知られているのでしょうか?
 朝鮮映画輸出入社から日本国内における北朝鮮映画の独占的な上映、複製、頒布を許諾されている有限会社です。
 最近では、韓国のドキュメンタリー映画「天安艦沈没」の配給・日本語製作に携わったのがこのカナリオ企画でした。
※朝鮮映画輸出入社は、北朝鮮国内の行政機関であり、北朝鮮映画の著作権等を行使する国家映画会社です。

 諸メディアの報道によると、この朝鮮映画輸出入社とカナリオ企画が日本テレビとフジテレビを相手取って北朝鮮映画の著作権侵害に対する損害補償を求めて起こした訴訟で、一昨日(12月8日)最高裁は「国家として承認していない北朝鮮の著作物の保護義務はない」として上告を棄却しました。

 この案件の具体的な内容は次の通りです。

 日本テレビは、2003年6月30日放送の「ニュースプラス1」の番組中で、北朝鮮映画「密令027」の映像の一部を事前の許諾を得ることなく放送しました。
 またフジテレビは、2003年12月15日の「スーパーニュース」の中で、北朝鮮の映画による国民に対する洗脳教育の状況を報ずる目的で、映画の主演を務めた女優が映画の製作状況等についての思い出を語る場面と映画の一部とを組み合わせた内容の約6分間の企画を放送しましたが、そこで合計2分8秒間映画の映像を許諾を得ずに放送しました。
 そこで、朝鮮映画輸出入社とカナリオ企画は、著作権の侵害を根拠として、本件映画を含む北朝鮮映画の放送の差し止めと、著作権ないし著作物利用許諾権の侵害に基づく損害賠償金550万円の支払いを求めて、2006年東京地方裁判所へ訴訟を提起いたしました。
 2007年12月の東京地裁の判決は、北朝鮮はベルヌ条約に加盟してはいるものの、わが国は北朝鮮を国家承認していないことから、北朝鮮映画は著作権法の規定には該当しないとして請求を棄却しました。
 原告側は2008年に知的財産高等裁判所に控訴をしましたが、同年12月控訴棄却の判決が下されました。
 しかし、「著作権のある著作物と同様の損害を認めることは相当ではない」としながらも、映画を営利目的で無許諾放映をしたことは社会的相当性を欠き、カナリオ企画の利益を違法に侵害する行為であり、著作権法の保護がなくても、民法709条の保護を得る利益があるとして、上記放送局2社に損害額10万円、弁護士費用2万円の支払いを命じました

※以上の参考サイト→コチラ

 ところが今回の上告審の判決では、最高裁は原告側の請求をすべて棄却し、控訴審判決で示された12万円の支払いも否定しました。

 このニュースに接して、私ヌルボが最初に感じたのは「ホントにこれでいいの?」という疑問です。

 この問題については、ウィキの<無断放映>の項目であらましを知ることができます。

 この問題の背景として、2003年に文化庁が示した次のような見解があることがわかります。
 北朝鮮がベルヌ条約を締結したとしても、我が国は北朝鮮を国家として承認していないことから、条約上の権利義務関係は生じず、我が国において法的な効果は一切生じない。したがって、我が国は、北朝鮮の著作物についてベルヌ条約に基づき保護すべき義務を負うものではなく、北朝鮮がベルヌ条約を締結することによる我が国への影響はない。

 またウィキの説明文にはテレビ朝日とTBSは引き続き、北朝鮮作品放映時にはカナリオ企画の著作権表示を画面に明示し、無断放映をしない姿勢を明確にしている」とあります。
 このようなところにも、各メディアの<(左右の)立ち位置の違い>が反映されているんですね。
※後述のブログ記事によると、NHKは政府見解とは別に独自に北朝鮮著作物の取り扱いに関する協議を行っている旨を伝えているそうです。

 今回の判決に対するネット内の反応を見ると、2ch等々では案の定喜んでいる書き込みが目立ちます。が、わずかとはいえ懸念する人もいないではありません。

 法律の文章も法律自体も、私ヌルボの数多い苦手分野のひとつですが、この件について専門家はどう考えるのだろう、と探してみたら、<企業法務戦士の雑感>という、会社で企業法務を担当している方のブログに「将軍様の高笑いが聞こえる」「たかが12万、されど12万。」と題する2つの関係記事を見つけました。それぞれ1審・2審の判決後に書かれた記事です。
 そこでは<本件に対する疑義>として次のように記されています。

 国家承認していないことをもって、ベルヌ条約による保護が適用されない、とするのは、いわば「両刃の剣」的な結論といえる。

 原告自身も、次のように主張しているそうです。

 北朝鮮の著作物が我が国において保護されないということになると、北朝鮮映画を我が国において無断で上映しても良いという結果を招くことになると同時に、北朝鮮において日本の映画が無断で上映されたり、インターネットを通じて直接日本国民に販売されたりといった事態も生じ得る。(←これを<脅し>ととる人もいるかも・・・。)

 つまり、今回の判決の裏返しで「北朝鮮には、日本の著作物の保護義務はない」ということになってしまう、ということです。

 そして<企業法務戦士>さんの意見は・・・。

 「コンテンツ大国」を目指すわが日本国にとって、国内のみならず全世界で自国の著作物が保護される、というのは当然の前提になっていなければならないはずであり、近年の保護期間延長を目指す議論の中でも、その点はかなり強調されているはずなのに、文化庁の見解といい、テレビ局の抗弁といい、そういった流れに反しているように思えてならないのは筆者だけだろうか。
 我が国において北朝鮮の著作物を保護する必要性が生じたとしても、報道目的等の利用を除けば、アタリがでることはそんなにはないはず。
 その一方で、我が国のコンテンツがかの国で保護されない、となったとすれば、潜在的に何らかの損害が出ることは覚悟せねばなるまい。


 ヌルボも<企業法務戦士>さんに同感です。
 北朝鮮が日本の、とくに日テレやフジTVのコンテンツを大量にコピーして商売に乗り出す可能性はないでしょうか? もしそうなったら、それを否定する論理があるでしょうか?
 また利害得失以前に、日本も当然含まれる(?)人権先進国(!)が、非承認国・権先進国も含めて、他国間との商業等の場で、自らその価値ある権利を否定してはいけないでしょう。

 <企業法務戦士>さんは地裁判決後、「知財高裁で、このような憂いを払拭してくれるだけの、心地よい結論が出されることを切に願うのみである」と書いていましたが、結局こうなってしまいましたね。
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「柳宗悦展」の感想いろいろ

2011-11-12 23:59:30 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 11月9日、私ヌルボの地元でやっているからには行かずばなるまい(←老人語か?)と思い、そごう横浜店に行ってきました。
 柳宗悦(やなぎむねよし)展のことです。

  

 柳宗悦民藝運動を始めた人で、そもそも今ふつうにいろんな所でみられる「民芸」という言葉を作ったのは彼なんですね。1925年に「民衆的な工芸品」という意味で用いたのが最初ということです。

 また、とくに韓国・朝鮮に興味を持っている人にとって、柳宗悦は日本の朝鮮統治時代、光化門を破壊から守った人として知られていることと思います。

 三一独立運動の翌年(1920年)に発表された「朝鮮の友に贈る書」、そして1922年に雑誌「改造」で発表された「失われんとする一朝鮮建築のために」で、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判したり、「光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕に迫ろうとしている」というような強い感情表現で朝鮮総督府により企図されていた光化門の取り壊しを批判しました。
 彼の主張は国内外で大きな反響をよび、ついには朝鮮総督府も光化門の破壊を取りやめ、移設されることになったというわけです。
 これらの文は「民藝四十年」(岩波文庫)に収載されています。韓国・朝鮮に興味をお持ちの方、未読であればぜひご一読を!(立ち読みでも読めるほどの長さ)

 柳宗悦が朝鮮に持つようになったのは、1914年浅川兄弟の兄・伯教が我孫子に住んでいた柳宗悦を初めて訪問した時、手土産とした白磁染付秋草文面取壺に心を奪われたことがきっかけとなったそうです。
 上のチラシ(裏)右下隅の写真がこの壺です。私ヌルボ、昨年6月日本民藝館で「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」をやっていた時に初めて現物を見ました。今回の「柳宗悦展」でも展示されています。
 1916年、27歳の時に彼は初めて朝鮮を旅し、とくに李朝の陶芸を中心とする朝鮮芸術に深く心を奪われて、以後朝鮮の陶磁器や古美術を収集し、1924年には浅川伯教・巧兄弟等と景福宮内に朝鮮民族美術館を設立します。

 ・・・と、以上が柳宗悦の、主に朝鮮との関係についての概観。

 で、今回「柳宗悦展」で知ったこと、考えたことを以下列挙します。
 端的に言って、彼は本当にいろんな点で恵まれていたなあ、ということです。

①柳宗悦は生まれ・育ちに恵まれた。つまりは「いいとこのぼっちゃん」だった。
 父親の柳楢悦は海軍少将で貴族院議員。軍人とはいっても海軍水路部で沿岸の測量を指揮していた科学者で、和算の大家でもあり、ウィキによると「日本水路測量の父」、「海の伊能忠敬」と称されるとのことで、<ASIA WAVE>というサイトの記事には「宗悦は二歳になる前に父と死別しているが、柳の開拓者精神、分析能力と蒐集癖は父親譲りと思われる」とあります。
 母は、かの有名な柔道家、講道館を創立した嘉納治五郎の姉です。
 物心がつく前に父を亡くした宗悦自身の気持ちはわかりませんが、学習院高等科から東京帝国大学と、いかにもという道を進み、写真を見ても(堀口大學や萩原朔太郎と違って)まじめそうな風貌の少年で、少なくと経済的には恵まれた環境で育った上流階級のぼっちゃんだったといっていいでしょう。
 実際、「柳宗悦」と「ぼっちゃん」の2語でネット検索すると相当数のヒットがあって、ずっと以前から露骨に「ぼっちゃん」というだけで彼を貶めるような見方もあるようです。中にはやっかみが透けて見えるようなものも・・・。
 しかし、私ヌルボは「ぼっちゃん」だからといって彼を否定するものではありません。逆に、であるがゆえにふつうの人だと当たり前すぎてとりたてて注目することのなかった民具の「美」に「気づいた」わけだし・・・。

②柳宗悦は奥さんに恵まれた。
 妻の柳兼子は優れた声楽家です。宗悦の熱心な求愛で結婚しました。「柳宗悦展」で、「宗悦を物心両面で支えた」という意味の説明文がありました。「物」については、朝鮮民族美術館の設立資金集め等で、ずいぶん多くを兼子のコンサート収益に頼っていたようです。「心」については、「柳宗悦を支えて 声楽と民藝の母・柳兼子の生涯」(現代書館)を読んだ方の感想によると、宗悦は「兼子の民藝運動への協力にも素直に感謝というふうにはならずに、却って家庭の中で兼子に対してわがままに振る舞うことでバランスをとっていたふしがある」ということだし・・・。
「白樺文学館」のサイト中の記事によると、「兼子さんは、日本の戦争政策に反対し軍歌を歌うことを拒否したために、第二次大戦中は活躍の場を奪われた」とか・・・。そごう美術館のショップでも「柳宗悦を支えて 声楽と民藝の母・柳兼子の生涯」を売っていて、10ページ分ほど立ち読みしましたが、興味がもてそうな内容の本でした。(買わなかったけど・・・。)

③柳宗悦は、友人等、周囲の人々に恵まれた。
 1914年に柳宗悦は新妻の兼子と我孫子(手賀沼のほとり)の嘉納治五郎の別荘地前に移住します。その後彼の誘いで志賀直哉夫妻や武者小路実篤夫妻等の白樺派の仲間も住むようになります。(人間としての実体験を積む場として、あえて冬の寒さや夏の虫の多さなどを受け入れ、「水道よりも井戸水、電灯よりもランプ」の生活を選んだのだそうです。) そのような白樺派の仲間、バーナード・リーチ浅川伯教・巧兄弟、宗悦によって見出された棟方志功など、類が友を呼んだ結果かもしれませんが、宗悦の生涯をみると実に多くの優れた人たちがいたことがわかります。

④柳宗悦は、時代に恵まれた。
 主に民芸についてですが、①に書いたように、(ヌルボ思うに)宗悦は「ぼっちゃん」なるがゆえに民衆が日常用いている工芸品に「美」を見出し得ました。また産業の発展から考えると、手作りの時代から徐々に工場で規格品が大量生産される時代へと移っていく。ちょうど江戸時代あるいはそれ以前のさまざまな習俗が失われ始めた明治後期~大正時代に、柳田国男が日本民俗学を創始したことと、柳宗悦が民芸に着目したことは軌を一にしているのではないでしょうか?

 ④に関連して、私ヌルボが感じたこと。
 展示されていた民芸品についての印象ですが、それが「美しい物」として掲げられると、どうもキレイな結晶を抽出したという感じで、民衆的な泥臭さといったものが失われてしまっているように思われました。
 宗悦自身は<「用」を離れて「美」は存在しません>というようなことを述べているようですが、「美」のカテゴリーに入った時点で「用」のそれからは抜けてしまったような・・・。
 今の時代となると、明らかに<手作り>は「ふつう」どころか、専門の職人が手間暇かけてこしらえた高級品の部類でしょう。
 そごう美術館のショップには、長男の柳宗理さんデザイン研究所による食器類が売られていましたが、ミルクパンが4千円(!)等々、ヌルボのような庶民にはちょっと、というお値段がついていること自体、「手作り」の「民芸品」の「美しさ」の歴史的・市場的価値の推移を示しているといえるのではないでしょうか?

 以上が感想。
 その他この「柳宗悦展」では、宗悦が若い頃バーナード・リーチを通じて知り、大きな影響を受けたウィリアム・ブレイクのこととか、彼が木喰の再発見に果たした役割等々についても知りました。

 ・・・ということで、いろいろ収穫のあった催しでした。
 本当は、知識よりも感動を求めたいところなんですけどねー。
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金沢&石川県と、韓国・朝鮮についてのいろいろ

2011-10-10 23:57:50 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 私ヌルボ、昨日からゆえあって金沢に来ています。金沢は20数年ぶり、かも・・・。
 金沢在住の学生時代の友人がいたので連絡をとって会うことにしました。案内してくれるという彼に「どこに行きたいか?」と訊かれて「泉野図書館に行きたい」などと答えるヘンな人はまずいないでしょう。
 私ヌルボはヘンな人です。

 なぜそう答えたかというと、金沢の観光ポイント等について全然事前に調べていなかったことと、たまたま前日に<高麗書林>のサイト中の「韓国書が借りられる全国図書館」のリストを見ていたら、石川県で唯一名前があったのがこの図書館だったから。偶然彼の住まいのごく近所だったので、現地で落ち合うことにして、金沢駅前からバスで行ってみました。

     
           【金沢市立泉野図書館】

 すると思っていたよりも外観も中も立派な図書館で、祝日ということもあってか多くの利用者がいました。ここの図書館に韓国書がある理由は、地域性ということではなく、ジモティーの友人が説明したくれたように、この図書館が「国際連合寄託図書館」になっているからだそうです。
 全国でもわずか14館、それも国会図書館のほかは大学図書館が大半を占める中で、こんなフツーの町の図書館が国連寄託図書館になった経緯まではわかりません。
 ともあれ、そういうわけで、韓国書があるというよりも、諸外国の本がいろいろたくさんある中に韓国書もある、というわけです。

 韓国書についていえば、5段の書架1つ分、それも隙間が目立つくらいで冊数はさほど多くはありません。ざっと数えてみましたが160~170冊程度。これに韓国語の絵本約30冊を合わせて約200冊といったところ。あとは「주간조선(週刊朝鮮)」があるくらいで、中国語の本が書架3つ分あるのに比べると寂しい感じ。
 韓国書の品ぞろえも基本中の基本に止まっているなー・・・と見ていった中で、あっと驚いたのが李朝語辞典。たいていの本がそろっている横浜市立図書館にもないのに・・・。高麗書林の通販サイトでは5250円で出てるからベラボーに高いというわけではないにしても、うーむ・・・・・・。

 この図書館、郷土資料もたくさんそろっていました。
 その中の歴史関係資料はとくに興味深いものがいろいろ。
 図書館の次に見学に行った県立歴史博物館にも展示&説明がありましたが、古代から大陸、とくに朝鮮半島と北陸との関係の深さを物語る事例は実にたくさんあるんですね。
 渤海との交流等についてはなんとなくは知っていましたが、「蝦夷穴古墳出土の枘穴(ほぞあな)石斧は朝鮮半島に類例が多い」というような考古学関係のことや、「570年に高句麗の使人が越(こし)に漂着した」という「日本書紀」の記録、民俗関係では、「七尾市の<お熊甲祭(くまかぶとまつり)>という祭も朝鮮が起源といわれている」等々については初めて知りました。

 また、友人は「小松という地名は明らかに高麗(こま)+津だよ」と言っていましたが、実際郷土史家の岸豊則さんという方による「小松は高麗津だった」という本もあります。

 江戸時代の伯耆~蝦夷に及ぶ漂流民の記録等々も(詳細はあえて割愛しますが)興味深いものがあります。
 そこで思い出したのがつい最近の脱北者のニュース。先月(9月)13日木造船に乗った9人が発見されたのが石川県輪島沖でした。

 別に韓国・朝鮮ネタを求めて金沢に行ったわけでもないのに、思いのほかいろんなネタに遭遇してしまって、とりあえずメモ的にこの記事をでっちあげたような次第です。

 そういえば、3年前私ヌルボが仲間たちと一緒に全州に行った時、歓待して下さった日本語の堪能な全州市の国際交流担当の潘さん(女性)から、「金沢は姉妹都市なのでしばしば行っています」ということを聞きました。
 なるほど、金沢の博物館等でも全州や全羅北道を紹介したり、贈られた物を展示しているコーナーがありました。しかしわが友人も含め金沢市民の何人かの方と話したかぎりでは全州の認知度はまだまだのようで、全州の魅力をアピールしたいヌルボとしてはちょっと残念。全州は人口65万人で金沢(46万人)を上回り、歴史的・文化的にも見どころの多い都市です。有名なピビンパをはじめ食べ物も美味しいです。市民レベルの交流をもっと深めるといいと思うんですけどねー・・・。
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鈴木清順監督「春婦傳」と、田村泰次郎の原作小説  ・・・・慰安婦のことなど

2011-08-22 20:17:32 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 昨日(8月21日)、神保町シアターで鈴木清順監督「春婦傳」(1965)を観ました。最初に観たのは90年代だったと思います。
 中国山西省盂県の県城に配置されていた大隊の、副官の当番兵三上上等兵(川地民夫)と、慰安婦の春美(野川由美子)との心中の物語(と言っていいかどうか??)で、具体的な内容はいろんなサイトにあるので、一切省きます。

 私ヌルボは、最初に観てから10年以上経つ間に、詳しい筋はほとんど忘れていましたが、主人公の春美をはじめ「ピー」という蔑称で呼ばれた彼女たち慰安婦の多くは朝鮮人女性だったと思い込んでいました。

 で、今回再び観てみると、チマチョゴリを着て、いかにも朝鮮ふうの日本語を話す慰安婦は初井言栄演じるつゆ子だけ。春美は天津から流れてきた中国人のようで・・・。言葉も朝鮮人風ではないし、負傷した八路軍に三上とともに捕虜となった時、八路軍の兵たちと一緒に中国語の歌も歌っていたし・・・。(「松花江上」? ちゃんとメロディーを覚えてなかったので不明。)
 他にも確認したいことがあったので、原作を見てみようと思ったら、アマゾンで5000円くらいもするんですね。横浜市立図書館で探すと、幸い田村泰次郎選集」(全5巻)というのがあって、その第2巻に収載されていました。40ページほどのあまり長くない作品なので、すぐに読了。この原作でも朝鮮人云々とは書かれていないし、つゆ子も登場していません。
 しかし、この作品解題を見ると、あれれっ、ということが記されていました。以下の通りです。

 本作品は「日本小説」創刊号(一九四七年四月一日発行、大地書房)に掲載予定であったが、GHQの検閲によって削除されたものである。その理由として、ゲラ刷りに添付されていた検閲調書には‘Criticism of Koreans’(韓国人への批判)があげられている。 
 なお「日本小説」創刊号は「春婦伝」のみを削除して・・・・発刊されている。
 その後、本作品は朝鮮人への批判的な箇所等を削除して、銀座出版社の『春婦伝』(一九四七年五月二五日発行)に収録された。それ以来、「春婦伝」は、この銀座出版社版を底本として作品集に収められてきた。
(※この選集収録も銀座出版社版)  しかし、原文の冒頭にあった「この一編を、戦争間大陸奥地に配置せられた日本軍下級兵士たちの慰安のため、日本女性が恐怖と軽侮で近づかうとしなかつた、あらゆる最前線に挺身し、その青春と肉体とを亡ぼし去つた数万の朝鮮娘子軍にささぐ」という作者の言葉も伝えられることなく読み続けられてきたのであった。検閲調書には、「朝鮮娘子軍」は‘Koreans Prostitues(←ママ)’(朝鮮人売春婦)と記されている。今日の人権意識からすれば、植民地支配を受けていた人々に対する不当な差別表現は許されるものではない。本巻末に資料としてGHQの検閲資料を転載しておく。

 ・・・ということで、本書には[資料]として(当然英文の)<「春婦伝」に関するGHQ検閲資料>が収録されています。
 それによると、オリジナルの本文では、春美を含め慰安婦は「みんな本当の朝鮮の名前があるのだつたが、いづれも故郷の家の生活の苦しさのために、天津の曙町へ前借で買はれてきてから、日本名をつけてゐた」と、朝鮮人であったことが明確に書かれています。また銀座出版社版では、副官・成田中尉が春美に対して「馬鹿野郎、ピイの分際でなにをいふか」と暴言を吐くと春美は「ピイ、ピイつて馬鹿にするか、天皇陛下がそれいふか、同じぞ」と返します。
 ところが原文では成田中尉の言葉は「馬鹿野郎、たかがチョウセン・ピイの分際で、なにをいふか」であり、春美は“How dare you call me a Korean! We have the some(←ママ) Emperor!”(※この部分は本書で訳されていません。)と反撃しています。

 なお、同じ田村泰次郎の「春婦傳」の映画化作品の谷口千吉「暁の脱走」(1950)に比べると、この鈴木清順監督作品は原作に忠実だといわれます。たしかに、「暁の脱走」では春美(山口淑子)は日本人の慰安歌手という設定になっています。これは大きな違いといわざるをえません。
 (鈴木清順の「春婦傳」でも、つゆ子の部屋で「哲学断想」の文庫本を読んだりしていて後に脱走し、八路軍に入ったインテリ兵・宇野一等兵は原作にはない人物ということがわかりました。)

 今、上記のようなこの小説及び2つの映画が世に出た経緯を見ると、いかにその時々の政治権力や風潮、価値観といったものに作品の中身が翻弄されてきたかがわかります。
 現在の立場で言えば、どこが‘Criticism of Koreans’(韓国人への批判)にあたるのですか?と訊きたくなります。「慰安婦のほとんどが朝鮮人だった」という記述が韓国・朝鮮人を貶めるということなら、それは慰安婦に対する差別ではないですか? 
 ※2008年、ソウルの西大門独立公園に、慰安婦ハルモニたちとその支援団体が<戦争と女性人権博物館>の建設を推進すると、光復会等の独立有功諸団体が「聖地毀損」として、強く反対している、ということが伝えられました。なぜ「毀損」になるのか??  →関連記事
 あるいは<チョウセン・ピイ>という言葉自体が差別語だから? 上っ面だけの<差別語狩り>は正しい歴史認識・社会認識を遠ざけてしまいます。

 もしかして、原本のこの一編を、戦争間大陸奥地に配置せられた日本軍下級兵士たちの慰安のため、日本女性が恐怖と軽侮で近づかうとしなかつた、あらゆる最前線に挺身し、その青春と肉体とを亡ぼし去つた数万の朝鮮娘子軍にささぐという田村泰次郎の言葉も、現代のモノサシで見ると「侵略軍の買春男のいい気な文句」と批判する人もいるかもしれません。
 しかし、私ヌルボとしては、当時(戦中&終戦直後)の状況下で、朝鮮人慰安婦たちを (朝鮮人としても慰安婦としても)人間として見る目をちゃんと持っていたことがうかがえる小説だと思いました。

※田村泰次郎選集の編集者・尾西康充さんによる関連記事「田村泰次郎『春婦伝』と谷口千吉『暁の脱走』」は→コチラ

※実際に山西省盂県に行った兵士の従軍体験→コチラ

※[もしかしたら言わずもがなの付言]
 慰安婦だった人たちを、人間としてちゃんと見ることと、彼女たちの証言や主張をそのまま受け入れること、肯定することとは必ずしもイコールではありません。誤解なきよう・・・。
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ソウルで人気を集めた「近代日本が見た西洋」展

2011-06-06 23:51:16 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 今回は、6月2~3日新宿K’s cimemaで観た<真!韓国映画祭2011>中の「小さな池-1950年・ノグンリ虐殺事件-」「坡州 パジュ」「ささやきの夏」「ソウルのバングラデシュ人」の4本について感想を書こうと思っていたのですが、一番厄介な(?)「小さな池」だけで悪戦苦闘。
 先に風呂に入ることにして、湯船に浸かりながら「毎日新聞」夕刊を読んでいたら、1つの記事が目に飛び込んできました。
 見出しは「日本の近代化を韓国で紹介」。記事は→コチラです。
 内容は、18~19世紀、つまり江戸後期の蘭学者や絵師たちがどのように西洋文化を取り入れていったかを示す、神戸市立博物館の所蔵品80点を紹介する「近代日本が見た西洋(근대 일본이 본 서양)」展がソウル大学美術館で4月20日(水)~6月5日(日)開かれた、というもの。
 「毎日」の記事は「5月29日まで」となってますが、これは誤報。好評につき1週間延長されたんですよ。神戸市立博物館のサイトを見ればすぐわかるのに・・・。

 この記事で私ヌルボが注目したのは、同展のため訪韓した神戸市立博物館の展示企画担当部長・岡泰正さんがソウル大での特別講義で、「日本の近代化は、幕府ではなく学者や町民など民間から起きたことを紹介したかった」と展示の趣旨を説明した、という点。
 ヌルボとしても「わが意を得たり」といったところです。しばしば韓国人は(日本人も?)、「武士道が日本の近代化を推進した」と語ったりしていますが、イギリス等と同様やはり成長した商工業者の力ですよ。金の前には身分なんて関係ないし、交通は自由にしてほしいし、通貨や税制等は全国統一にしてほしいし、また金儲けのためには国内外の情報には通じていなくてはならないし等々、これらすべてが近代的な体制の動因となるわけですね。

 この「近代日本が見た西洋」展。韓国KBS1テレビでも金曜の夜(正確には土曜)0:10~1:00にNHKの「日曜美術館」のような「TV美術館」という番組があって、そこでも紹介されたそうです。
     
 【「近代日本が見た西洋」展のポスターは、司馬江漢「異国風景人物図」。】

 見に行った人の反応を韓国サイトでいくつか見てみました。
 その中で注目したのは、<九龍樵夫(구룡초부)>さんという60歳過ぎの男性のブログ。(※日本語自動翻訳→コチラ。)

 「絵はよくわからない」という筆者が感銘を受けたのは、図よりも歴史。開港を前にした日本社会のダイナミズムと日本人の知的好奇心 だった、とのことです。
 彼が40年前に大学に入った時、ある先生は、われわれが(そして中国が)日本より近代化すなわち西欧化が遅れた理由を次のように説明したそうです。
 私たちは、伝統的な文化が優れていて体制が安定していた。それに比べて日本は文化の程度が低く、また、当時体制が崩壊していた。社会が大きく変動し始めた時、ちょうど開港の圧力が来て、変化=西欧化が相対的に容易だったのだ。
 その時はそんなもんかと思った筆者も、よく考えると、日本がわれわれに先んじたのは、せいぜい偶然か僥倖のように聞こえるが、はたしてそうか、という疑問が起こってきたとのことです。
 そして、「そんな重要なことがはたして偶然だったか? どんなに機会に恵まれても、内在的能力がなければ活用できないのでは? われわれは、優れているからそうなって、他人は偶然にそうなったとするなら、それが公平な態度で、合理的な推論か?」と問いかけています。 

 そんな疑問を抱いて展示会を訪れた九龍樵夫さん、「いまさらながら感じたことは、日本の能力は結局並大抵のものではなかったという点だ」と感想を記しています。
 いろんな知識教養をお持ちの方で、以下の具体的な記述も興味深く読みましたが、中でも「日本の実学の伝統は非常に根が深く、広かった」と記しているのは当然の帰結というべきですね。
 「わが国でも実学者が自然科学の研究をしたが、政権から追い出された何人かがしていた研究があるだけで国家的な関心事でもなく、政府の支援は夢見ることもできなかったでしょう」と書かれてますが、これは、たとえば本ブログ2010年8月28日の記事<日韓を分ける24年差の歴史の淵源>で書いたように、1801年の辛酉教難と、その後の丁若鏞(チョン・ヤギョン)の生涯(ドラマ「牧民心書」に描かれた実学者)等を思い浮かべれば、韓国のふつうの高校生にもわかるはず(?)です。

 近年、韓国では民族主義的なイデオロギーに捉われず、歴史をありのままに見ようという動きがさまざまな場面で目立ってきているようです。
 上記の九龍樵夫さんのような感想も、その1つといえるかもしれません。それだけ余裕が出てきたというか、国際的地位も高まったりして自信がついてきたということでしょうか?

 さて、この九龍樵夫さんのブログ記事に、おなじみの「解体新書」の扉絵や写楽の浮世絵の他、精緻な動植物の写生図もあります。
 美術情報専門の<KOREANART21>というサイト内の記事(→日本語自動翻訳)にも平賀源内や司馬江漢などの興味深い絵が掲載されています。
 この美術展、もし近くでやっていればヌルボも行ってみたかったですねー。
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