1938年7月、延禧専門学校(現・延世大学校)1年・満20歳の尹東柱(ユン・ドンジュ)は初めての夏休みを迎え、同じ学校に通う同い年の従弟の宋夢奎(ソン・モンギュ)とともに龍井(ヨンチョン)の実家に帰省します。元山(ウォンサン)の漢方医の息子姜處重(カン・チョジュン)も一緒に京城駅を出立します。
1945年2月福岡刑務所で獄死した尹東柱は、戦後に初めて韓国でその詩作品が知られ、今では国民的な、と言っていいほど有名な「詩人」です。日本でも、1990年から筑摩書房の高校用現代文教科書に尹東柱の詩を紹介した茨木のり子さんのエッセイが掲載されているので、知名度はそれなりには高くなっていると思います。
私ヌルボ、安素玲による伝記「詩人/東柱」(韓国語)を読んでこの尹東柱の短い一生が仔細にたどられていることに驚きました。交友関係やノートに記された詩、読んでいた本等々。おそらく詳細な評伝・宋友恵「尹東柱評伝」(藤原書店)等を参考にしたと思われる史実に忠実な伝記で、上記の帰省についても非常に具体的に書かれています。
彼の実家がある龍井は、現在は中国吉林省延辺朝鮮族自治州の龍井市。当時は満洲国間島省延吉県龍井村でした。京城から鉄道を乗り継いで計900㎞の長旅です。距離的には新幹線の東京~博多(1000㎞あまり)には及ばないものの、東京~新青森(700㎞あまり)より長く、乗車時間を単純合計しただけでも20数時間にもなるという当時の列車事情や乗り心地等を考えると、はるかに大変な旅だったでしょう。
東柱と宋夢奎、姜處重の3人が乗った汽車は午後11時京城発。「詩人/東柱」には、以下龍井までの旅程がかなり具体的に書かれています。が、その大部分は現在の北朝鮮で、また満洲との国境を越えて龍井あたりまでの地理も含めて私ヌルボの数多い盲点の1つです。
・・・というところで思い出した本その1が2009年の記事(→コチラ)で書いた「日本鉄道旅行地図帳 朝鮮 台湾」、そしてもう1つが「満洲朝鮮復刻時刻表 附 台湾・樺太復刻時刻表」です。
「満洲朝鮮復刻時刻表」の方は、「朝鮮列車時刻表」(1938)・「満洲支那汽車時間表」(1940)・「(台湾)列車時刻表」(1936)・「樺太國有鐡道列車時刻表」(1935)といった、昭和10年代の日本が支配していた領域の鉄道時刻表の復刻版が箱に入っているものです。どれも原寸大の復刻で、たとえば朝鮮総督府鉄道局(編)「朝鮮列車時刻表」は165㎜×101㎜の小型版です。 ※「樺太國有鐡道列車時刻表」(画像省略)は二つ折りの紙1枚です。
上述のように現在の北朝鮮内、とくに北東方面と、さらに北の中国領内の地理にはほとんどお手上げのヌルボ。延吉、図門には行ったことがあるんですけどねー・・・。「朝鮮列車時刻表」にある路線図(下左)でおよその位置を確認してみました。龍井近くは「満洲支那汽車時間表」(下右)の方がよくわかります。
左図の①は京城、②は元山、③は龍井です。
東柱たち3人は、京城から京元本線で北東に向かいます。夜行列車で景色も見えない中、議政府、鉄原(今は廃駅)を経て現在の北朝鮮内に入り、元山着が朝5時39分。
※京元線については→ウィキペディア参照。
尹東柱と宋夢奎は「僕の家に寄って行け」という姜處重の誘いに応じて元山で途中下車し、彼の家で食事等のもてなしを受けたりもします。彼の父親は元山からの急行券も買ってくれました。
午後3時16分発。満洲の牡丹江(モクタンガン)まで行く列車で、咸鏡本線を北上します。興南(フンナム)から日本海の海岸線に沿って走る・・・ということまでこの小説には書かれています。
上は「朝鮮列車時刻表」の京元線のページ。「日本鉄道旅行地図帳 朝鮮 台湾」にはたしかに京城発牡丹江行きの急行があったと記されていますが、この時刻表にはなぜか見当たらず。1938年(昭和13年)の2月号なのでちょうど東柱が帰省した時の時刻表なのですが・・・。
なお、この時刻表を見て気がつくのは、時刻の表記が24時間制ではなく、たとえば午後11時00分であれば「11.00」と太字にして午前の場合の「11.00」と区別していること。解説によると満洲・中国の鉄道は24時間制でした。また「内地」の鉄道は1942年10月11日から24時間制に移行したということです。
なお、「日本鉄道旅行地図帳 朝鮮 台湾」には各路線のすべての駅名と、始発駅からの距離等の表が掲載されています。
「日本鉄道旅行地図帳 朝鮮 台湾」掲載の詳しい地図で日本海側の朝鮮・満州の国境あたりを見てみました。この小説では、中朝国境の豆満江は川幅が狭い所は「小川と変わりがなかった」と書かれています。別の箇所では「漢江の川幅の広さに驚いた」とも。
上の地図にも会寧炭礦線がありますが、これ以外にもこの方面(半島北部)には利原鉄山線等々、鉱物資源採掘・運搬のための鉄道が多かったことがわかります。
国境の手前の上三峰(サンサムボン)駅で尹東柱と宋夢奎は汽車を降り、朝開線に乗り換えますが、その前に・・・。
「朝鮮列車時刻表」の巻末にあるように(上図)、国境の手前の上三峰駅では税関検査を受けなければなりません。(※小説では「해관검사실(海関検査室)」となっている。)
上三峰駅の他、満洲側の東西の国境の駅である図們と安東(現・丹東)、また関釜連絡船でも税関検査を売れることが定められていました。(※元山・雄基・清津・羅津という東海岸の要地4ヵ所は撮影禁止、ということも記されています。
小説によると、すでに列車が国境に近づくにつれ検問が厳重になり、停車駅ごとに新しく乗り込んできた眼光鋭い日本人刑事が乗客に出発地と目的地、旅行目的等を事細かに問い質したりしていたのが、上三峰駅でも乗客たちは列を作って海関検査室に入り、また住所・職業・行く先・旅行目的等について質問に答えなければなりませんでした。そして荷物だけでなくボディチェック(몸수색)も。
検査を終えて停車場に出ると、上三峰から龍井方面に向かう朝開線の「おもちゃのように小さな狭軌の列車」が待っています。しかし乗客のほとんどは北部咸鏡道の方言を話すアバイ(아바이.お父さん)・オマイ(어마이.お母さん)たちで、東柱はやっと故郷が近いことを実感します。
約1時間30~40分で龍井に到着。駅周辺には満洲国の国旗・五色旗がここかしこにはためいています。そんな時代でした。
駅には、東柱の弟の一柱と妹の恵媛、夢奎の父親の宋昌羲が迎えに来ていました。
・・・というわけで、この長い道のりを関心の赴くまま書いていたらやっぱり長い記事になってしまいました。
ところで、韓国では2月18日からおりしも尹東柱と宋夢奎の<未完の青春>を描いた映画「東柱」が公開されます。時代の雰囲気を感じさせるモノクロの画面で、すでに予告編もYouTubeにアップされています。(→コチラ。)
下の画像はその一場面です。もしかして、上に書いた東柱(左)と宋夢奎の汽車の旅かな?
おまけ。「朝鮮列車時刻表」の巻末に朝鮮の温泉が19ヵ所も紹介されていました(下左はその一部)。それぞれ、交通・運賃割引・旅館について簡単に書かれています。また最後の2ページには京城や平壌等の旅館の広告(下右)、裏表紙には京城の三中井(みなかい)百貨店の広告があります。尹東柱の帰省には直接関係はありませんが、ちょっと興味を持ちました。
1945年2月福岡刑務所で獄死した尹東柱は、戦後に初めて韓国でその詩作品が知られ、今では国民的な、と言っていいほど有名な「詩人」です。日本でも、1990年から筑摩書房の高校用現代文教科書に尹東柱の詩を紹介した茨木のり子さんのエッセイが掲載されているので、知名度はそれなりには高くなっていると思います。
私ヌルボ、安素玲による伝記「詩人/東柱」(韓国語)を読んでこの尹東柱の短い一生が仔細にたどられていることに驚きました。交友関係やノートに記された詩、読んでいた本等々。おそらく詳細な評伝・宋友恵「尹東柱評伝」(藤原書店)等を参考にしたと思われる史実に忠実な伝記で、上記の帰省についても非常に具体的に書かれています。
彼の実家がある龍井は、現在は中国吉林省延辺朝鮮族自治州の龍井市。当時は満洲国間島省延吉県龍井村でした。京城から鉄道を乗り継いで計900㎞の長旅です。距離的には新幹線の東京~博多(1000㎞あまり)には及ばないものの、東京~新青森(700㎞あまり)より長く、乗車時間を単純合計しただけでも20数時間にもなるという当時の列車事情や乗り心地等を考えると、はるかに大変な旅だったでしょう。
東柱と宋夢奎、姜處重の3人が乗った汽車は午後11時京城発。「詩人/東柱」には、以下龍井までの旅程がかなり具体的に書かれています。が、その大部分は現在の北朝鮮で、また満洲との国境を越えて龍井あたりまでの地理も含めて私ヌルボの数多い盲点の1つです。
・・・というところで思い出した本その1が2009年の記事(→コチラ)で書いた「日本鉄道旅行地図帳 朝鮮 台湾」、そしてもう1つが「満洲朝鮮復刻時刻表 附 台湾・樺太復刻時刻表」です。
「満洲朝鮮復刻時刻表」の方は、「朝鮮列車時刻表」(1938)・「満洲支那汽車時間表」(1940)・「(台湾)列車時刻表」(1936)・「樺太國有鐡道列車時刻表」(1935)といった、昭和10年代の日本が支配していた領域の鉄道時刻表の復刻版が箱に入っているものです。どれも原寸大の復刻で、たとえば朝鮮総督府鉄道局(編)「朝鮮列車時刻表」は165㎜×101㎜の小型版です。 ※「樺太國有鐡道列車時刻表」(画像省略)は二つ折りの紙1枚です。
上述のように現在の北朝鮮内、とくに北東方面と、さらに北の中国領内の地理にはほとんどお手上げのヌルボ。延吉、図門には行ったことがあるんですけどねー・・・。「朝鮮列車時刻表」にある路線図(下左)でおよその位置を確認してみました。龍井近くは「満洲支那汽車時間表」(下右)の方がよくわかります。
左図の①は京城、②は元山、③は龍井です。
東柱たち3人は、京城から京元本線で北東に向かいます。夜行列車で景色も見えない中、議政府、鉄原(今は廃駅)を経て現在の北朝鮮内に入り、元山着が朝5時39分。
※京元線については→ウィキペディア参照。
尹東柱と宋夢奎は「僕の家に寄って行け」という姜處重の誘いに応じて元山で途中下車し、彼の家で食事等のもてなしを受けたりもします。彼の父親は元山からの急行券も買ってくれました。
午後3時16分発。満洲の牡丹江(モクタンガン)まで行く列車で、咸鏡本線を北上します。興南(フンナム)から日本海の海岸線に沿って走る・・・ということまでこの小説には書かれています。
上は「朝鮮列車時刻表」の京元線のページ。「日本鉄道旅行地図帳 朝鮮 台湾」にはたしかに京城発牡丹江行きの急行があったと記されていますが、この時刻表にはなぜか見当たらず。1938年(昭和13年)の2月号なのでちょうど東柱が帰省した時の時刻表なのですが・・・。
なお、この時刻表を見て気がつくのは、時刻の表記が24時間制ではなく、たとえば午後11時00分であれば「11.00」と太字にして午前の場合の「11.00」と区別していること。解説によると満洲・中国の鉄道は24時間制でした。また「内地」の鉄道は1942年10月11日から24時間制に移行したということです。
なお、「日本鉄道旅行地図帳 朝鮮 台湾」には各路線のすべての駅名と、始発駅からの距離等の表が掲載されています。
「日本鉄道旅行地図帳 朝鮮 台湾」掲載の詳しい地図で日本海側の朝鮮・満州の国境あたりを見てみました。この小説では、中朝国境の豆満江は川幅が狭い所は「小川と変わりがなかった」と書かれています。別の箇所では「漢江の川幅の広さに驚いた」とも。
上の地図にも会寧炭礦線がありますが、これ以外にもこの方面(半島北部)には利原鉄山線等々、鉱物資源採掘・運搬のための鉄道が多かったことがわかります。
国境の手前の上三峰(サンサムボン)駅で尹東柱と宋夢奎は汽車を降り、朝開線に乗り換えますが、その前に・・・。
「朝鮮列車時刻表」の巻末にあるように(上図)、国境の手前の上三峰駅では税関検査を受けなければなりません。(※小説では「해관검사실(海関検査室)」となっている。)
上三峰駅の他、満洲側の東西の国境の駅である図們と安東(現・丹東)、また関釜連絡船でも税関検査を売れることが定められていました。(※元山・雄基・清津・羅津という東海岸の要地4ヵ所は撮影禁止、ということも記されています。
小説によると、すでに列車が国境に近づくにつれ検問が厳重になり、停車駅ごとに新しく乗り込んできた眼光鋭い日本人刑事が乗客に出発地と目的地、旅行目的等を事細かに問い質したりしていたのが、上三峰駅でも乗客たちは列を作って海関検査室に入り、また住所・職業・行く先・旅行目的等について質問に答えなければなりませんでした。そして荷物だけでなくボディチェック(몸수색)も。
検査を終えて停車場に出ると、上三峰から龍井方面に向かう朝開線の「おもちゃのように小さな狭軌の列車」が待っています。しかし乗客のほとんどは北部咸鏡道の方言を話すアバイ(아바이.お父さん)・オマイ(어마이.お母さん)たちで、東柱はやっと故郷が近いことを実感します。
約1時間30~40分で龍井に到着。駅周辺には満洲国の国旗・五色旗がここかしこにはためいています。そんな時代でした。
駅には、東柱の弟の一柱と妹の恵媛、夢奎の父親の宋昌羲が迎えに来ていました。
・・・というわけで、この長い道のりを関心の赴くまま書いていたらやっぱり長い記事になってしまいました。
ところで、韓国では2月18日からおりしも尹東柱と宋夢奎の<未完の青春>を描いた映画「東柱」が公開されます。時代の雰囲気を感じさせるモノクロの画面で、すでに予告編もYouTubeにアップされています。(→コチラ。)
下の画像はその一場面です。もしかして、上に書いた東柱(左)と宋夢奎の汽車の旅かな?
おまけ。「朝鮮列車時刻表」の巻末に朝鮮の温泉が19ヵ所も紹介されていました(下左はその一部)。それぞれ、交通・運賃割引・旅館について簡単に書かれています。また最後の2ページには京城や平壌等の旅館の広告(下右)、裏表紙には京城の三中井(みなかい)百貨店の広告があります。尹東柱の帰省には直接関係はありませんが、ちょっと興味を持ちました。