2つ前の記事で、高句麗史をめぐる韓国と中国の対立と、その起点の東北工程等について書きました。
その記事ではとばしてしまったのですが、この争点の背景には、北朝鮮~中国東北部における政治的・経済的なヘゲモニー争い、さらに具体的には北朝鮮の体制崩壊後を視野に入れた(?)中国と韓国とのせめぎ合いといったものがありそうです。
さて、韓国の政府・国民はといえば、先の記事中の「新東亜」の記事を持ち出すまでもなく高句麗は(そして渤海も)「わが韓民族の国」であることは自明の理といった主張がほとんどです。
ところが、それを批判する少数派の1人が林志弦(イム・ジヒョン)漢陽大学校比較歴史文化研究所所長です。
以下、「メディア・オヌル」のサイト掲載の「“高句麗史は韓国史でも中国史でもない”‘国史解体’を主張する林志弦(イム・ジヒョン)漢陽大教授インタビュー」という見出しのつけられた記事を紹介します。
2004年9月とやや古い記事ですが、最近でもいくつかの韓国ブログ等にも転載されています。
彼の考え方が端的に語られていることだけではなく、民族主義的な国史教育を受けてきているインタビュアー(ソウル大学生)のとまどったような反応も読み取れます。
以下、インタビュアーによる地の文と質問は茶色、林志弦教授の返答は青色で表示します。
最近<高句麗史歪曲>をめぐる論争が国民的課題になっている。ところが正確に言えば「論争」ではなく「声討(성토)」=糾弾か? 韓国人のほとんど皆が同じ話をしている。「ウリ(われわれ)の歴史」を奪っていこうとする中国のヤツらは悪い! 正しいのはただ「ウリ」だ!と。この問題について不思議なことに(保守系代表紙の)「朝鮮日報」も(進歩系代表紙の)「ハンギョレ」も区別がない。どこまでも異口同音だ。
韓国の歴史家が皆このような主張をしているのではないのに、マスコミに出る主張はどれも千遍一律だ。
これは相反する立場を扱わなければならないというマスコミの本分に照らしても不合理だといえるが、それ以前にまず退屈だ。
何か違う話ができる人物が必要だ。その内容が挑発的であればさらによい。そこで漢陽大の門を叩いた。「民族主義は反逆だ」、「私たちの中のファシズム」などの著作で史学界の論争を主導しており、数ヵ月前に<国史解体>という「過激」な主張で注目を集めた林志弦教授がいる。酷暑の8月19日、漢陽大研究室で林教授に会った。
《高句麗帰属論争は時代錯誤》
Q.最近中国が東北工程を推進して、高句麗史の帰属をめぐって韓中の論争が浮上していますが、どのように考えますか?
A.一言で言えば、時代錯誤的で非歴史的な争いです。韓国史か中国史かを問うこと自体が話になりません。これは2千年前の話です。当時中国や韓国という実体があったわけでもないのです。あったのはただ高句麗だけです。ところが、その2千年前に存在した高句麗に(近代東アジアの場合)20世紀になって登場した近代国民国家という概念をそのまま投影させてしまうのが今の論争の構図なので、これは時代錯誤です。認識論的に成立しません。最も非歴史的な思考方式に立脚した論理を歴史学者たちが展開している喜劇的な状況と言えるでしょう。
Q.近代国民国家の概念の枠組みで高句麗にアプローチするといけないですか?
A.高句麗史は韓国史だと主張する人たちは、高句麗人が韓民族だからだと言います。しかし、その民族という概念自体が生まれたのはたかだか100余年前なのです。韓半島の場合、民族という言葉が初めて使われたのは20世紀初めだったのです。北朝鮮の歴史学者たちは「朝鮮王朝実録」からも勝手に意訳をして、「民族」という言葉を選び出したりしてますけどね(笑)。 近代になってやっと出てきた概念を古代史にあてはめるというのはお話になりません。
1930年頃にポーランドで実施した国勢調査の記録を見ると、今のベラルーシとの国境地域に住む人々に「あなたはポーランド人ですか、ベラルーシ人ですか?」と尋ねたというくだりが出てきます。その回答が傑作です。ただ、「私たちはここに住む人たちだ」だったということですね。
では、われわれが2千年前にタイムマシンに乗って行ったとして「あなたは韓国人ですか? 中国人ですか?」と聞いてみたら高句麗人は何と言うでしょうか? 当然「何をわけのわからんことを言いなさるのか?」と言うんじゃないですか?
一歩話を進めると、当時高句麗の支配が及ぶところに住んでいた人々は、自分たちが高句麗の人間と考えたのでしょうか? そうじゃないでしょう。高句麗という名前さえ知らずにいたでしょうし、「高句麗」という実体も認識できなかったでしょう。
また、19世紀末にフランスの農民たちの社会史的な調査がありました。タイトルは"Peasant being into French man"(「フランス人になった農民たち」)。この調査によると、当時のノルマンディーの農民たちは、ほとんど一生の間、自分が生まれたところから4kmを越えるところを旅行したことがなく、だからフランスという実体を知らないのです。その後義務教育を施し、ドーデーの「最後の授業」のようなものを読ませ、方言を使えなくして標準語を使わせる過程で、彼らが「私はフランス人なんだ」と考えるようになったということなんです。
国民国家が成立し、中央集権的官僚制が作られて100年が過ぎた社会の農民たちの意識がそうだったとすると、2千年前の高句麗に住んでいた人々は、韓国人や中国人や、さらには高句麗人であるという意識もなかったと見るべきです。ただ私は「ここの人」だと思って住んでいたでしょう。ところがそれらを中国史の一部、韓国史の主役として引っぱり出すのは、近代国民国家とそれを支える権力の立場から彼らの人生を専有してしまうものです。彼らの生活をそのまま受け入れるのではなく・・・。
高句麗が韓国史でも中国史でもないと言う彼の論理は非常に単純な一言で要約可能だ。「民族」というもの自体が近代になってようやく登場した概念であるため、古代史に適用可能ではないこと。周知のように、このような観点は、民族を超歴史的実在としてみる主流史学とは根本からまったく異なる。
Q.民族が近代以降になってようやく形成されたという主張は、制度教育で教える内容とは大きく異なっているようです。
A.そうでしょう。学校で教える「国史」では、このようなことを言わないからね。でもこれが常識です。考えてみましょう。民族という概念は「私たちは一つ」という構成員の間の同質感をその前提としていますが、身分制、両班常民制が存在していた近代以前の社会で果たしてそれが形成されることがあったでしょうか? 例えばあなた(記者)は両班であり、私は常民であれば、私はあの人は私たちの同胞・同民族という感覚を持ったのでしょうか?
この問題については面白い史料が残っています。壬辰倭乱の時にある義兵長(呉希文)が残した記録に「瑣尾録(쇄미록)」というのがあるのですが、そこにはこんな嘆きが出てきます。倭軍が攻めてきたのに、私の部下たちが義兵は集まれと言っても1人も集まらないばかりか、日本軍を歓迎して心配だというのですよ。その時の日本軍の占領政策というのが米を配ることだったんですよ。教科書で教えるように「民族意識が透徹した」民衆だったら日本軍に抵抗してゲリラ戦を展開しなければしたはずなのに、その義兵によるとむしろ歓迎したということじゃないですか? 自分たちを人間扱いもせず搾取するばかりの両班たちが引き下がって、急に米を分け与えてくれるというヤツが入ってきたら、あえて拒否する理由がないでしょう。「異民族が攻めて来るたびに、官民が一致団結して戦った」というのは嘘です。壬辰倭乱の時、日本軍が入ってくる前にソウルの宮城を燃やしたのは奴婢たちであるという事実だけ見てもそうですね。このようなことが、守るものがある集団と守るものがない集団の違いです。
★[私ヌルボの付記]
ウィキペディアの<景福宮>の説明文によれば、「朝鮮王朝実録」等々「日韓双方の記録が(民衆あるいは国王の放火により)秀吉軍の入城を前に焼失したとしている」とある。しかし韓国ウィキペディアの<景福宮>には、「奴婢文書と略奪の痕跡をなくすために景福宮等の宮殿を難民たちが火をつけたといわれているが、現在これが嘘であることもあるという議論が出ている」として、2008年文化財庁が刊行した「景福宮の変遷」の所説を基に、景福宮は日本と朝鮮・明の連合軍との戦闘により焼失したと説明づけています。たとえば、「王室や官僚たちは早目に避難し、(日本軍の入城以前に)空っぽになった宮廷に、民が侵入して奴婢文書を燃やして宝物も略奪した」という柳成龍の記録は目撃談ではなく伝聞である、として疑問視、というより否定しています。
これも韓国人として「こうあってほしい」という歴史を必死になって証明しようとする事例の1つでしょう。
A.他の例もたくさんあります。例えば旧韓末、東学農民軍を鎮圧していた官軍の兵たちがその後義兵の下に傭兵として入ったことが実証的に明らかになりました。民族意識があって、風前の灯の状態にあった国を救おうとしたのではないんです。常識的にみて、東学農民軍を鎮圧していた兵たちが義兵になった現象が「民族意識」によって説明されますか?
また、文献を見ると、1910年に日韓合邦になった時、地方の両班たちが「恥ずかしくて外に出歩けない」と閉じこもったという記録があります。その理由というのが、倭人たちに国を奪われたからというものではありません。「外に出ると常民たちが兄弟よばわりするのが恥ずかしい」というのです。甲午更張(1894)で身分制が廃止されましたが、それは法的な面だけであって、慣行はそのままだったのです。ところが日韓合邦というのは両班たちにとって世界がひっくり返ったようなものだったのです。これが彼らが嘆いた本当の理由なのです。
ところが国史教科書では、まるで「是日也放聲大哭」(「皇城新聞」張志淵社長の社説)なので、閔泳煥の自殺だけが韓国の全体的な反応であるかのように描写しています。これについては問題提起が必要だと思います。日韓合邦がよかったということではなく、身分制・両班常民制の社会で民族という概念は成立し得ないという話です。
これらの例をみただけでも、民族(nation)とは、法の前ではすべての市民は平等であるという宣言があり、身分制が廃止され、近代国民国家と近代市民権が確立された後に初めて現れるということがわかります。常識的な話ですよ、これは。
文字通り「おもしろい」記録だった。彼は同じ事実(fact)について別の解釈を提示する程度ではなく、最初から新しい事実を出していた。既存の理論とは対照的な結論を導き出して、他の解釈の余地もあまりないような見慣れないものを・・・。
《国史の出自自体が「作られた歴史」》
Q.そうして見ると、国史自体を民族と結びつけて叙述する今の国史教科書はほとんど最初から最後まで間違っているという話になります。これは、ほとんど"歪曲"レベルになることでしょう。ところが、現実ではその"歪曲"された歴史叙述こそ主流であり、依然として公的に信頼のある"事実"として通用しているのですが・・・。
A.そうなった理由はいろいろと考えられます。史学界の慣習とか閉鎖的な雰囲気とか・・・。ところが、より根本的な理由は、「国史」というもの自体の性質によるのです。国史というものが過去についてのイメージを神話化させて作り出すという属性があるのです。国史自体が韓国や日本といった国家に正統性を付与して、それを正当化する手段なのです。
国史つまりナショナル・ヒストリーの一般的な特徴は、今の国民国家を頂点にして、そこに至る発展過程として過去の歴史を見るということです。そのように見る上で、不必要だったり、矛盾していたり、混乱を招く事実はすべて除去されるのです。
これは他の国の「国史」も同様です。
ポーランドの例だけとってみましょう。韓国の義兵のように、ポーランドでも1830年「両班」であるシュラフタ(szlachta)が蜂起しました。ところが当時の農民たちは、「両班」の指導者を捕らえてオーストリア占領軍に引き渡してしまったのですよ。
私たちの場合にあてはめれば、日本官憲が鎮圧する前に、農民が先に鎮圧してしまったのです。ポーランド農民たちは独立を恐れたんですよ。なぜかというと、ロシアの皇帝が農奴解放をしてくれたのに、その「両班」たちが支配していた時代に戻ると農奴制も復活するじゃないですか。
当時ポーランド農民運動の指導者だった人の回顧録には「農民たちは独立を恐れていた」とあります。ところが私たちが聞いていた話はというと、キュリー夫人がどうのショパンがどうの等々じゃないですか。そんなことはすべて神話化された話ということです。実際とは違います。
わが国でも翻訳されたベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」では近代の歴史叙述の特徴を「伝道されていること」と規定しています。私たちがいつも因果論的に第1次世界大戦が第2次世界大戦を生み、第2次世界大戦が冷戦を生んで・・・と話しますが、実は逆になっているのです。
実際の論理クロノロジー(年代記)は、第2次大戦が第1次大戦を生み、第1次大戦が帝国主義戦争を生むということです。なぜなら、現在を正当化する観点から出発するから。今日のすべての歴史的過程を、今の国を作ってきた過程で見なければならないんですよ。
国民国家が目的とした目的論的記述ですね。ランケは、実証主義に基づく科学的な歴史を確立して実証史学の父といわれますが、実はプロイセン国家を正当化した「御用歴史家」だったという事実が、今日の研究を通して明らかにされているじゃないですか。これはわが国の歴史家たちを別にしては常識的な話です。
単純に「御用歴史家」が教科書を作ったために生じた結果ではなく、発生論的に見た時、国史というもの自体が体制の正当化のために作られた道具だからという話だ。問題の本質が「胎生的限界」にあると、解決策は国史自体を否定することに帰結せざるを得ないという意味になるから。
韓国の歴史家が皆このような主張をしているのではないのに、マスコミに出る主張はどれも千遍一律だ。
これは相反する立場を扱わなければならないというマスコミの本分に照らしても不合理だといえるが、それ以前にまず退屈だ。
何か違う話ができる人物が必要だ。その内容が挑発的であればさらによい。そこで漢陽大の門を叩いた。「民族主義は反逆だ」、「私たちの中のファシズム」などの著作で史学界の論争を主導しており、数ヵ月前に<国史解体>という「過激」な主張で注目を集めた林志弦教授がいる。酷暑の8月19日、漢陽大研究室で林教授に会った。
《高句麗帰属論争は時代錯誤》
Q.最近中国が東北工程を推進して、高句麗史の帰属をめぐって韓中の論争が浮上していますが、どのように考えますか?
A.一言で言えば、時代錯誤的で非歴史的な争いです。韓国史か中国史かを問うこと自体が話になりません。これは2千年前の話です。当時中国や韓国という実体があったわけでもないのです。あったのはただ高句麗だけです。ところが、その2千年前に存在した高句麗に(近代東アジアの場合)20世紀になって登場した近代国民国家という概念をそのまま投影させてしまうのが今の論争の構図なので、これは時代錯誤です。認識論的に成立しません。最も非歴史的な思考方式に立脚した論理を歴史学者たちが展開している喜劇的な状況と言えるでしょう。
Q.近代国民国家の概念の枠組みで高句麗にアプローチするといけないですか?
A.高句麗史は韓国史だと主張する人たちは、高句麗人が韓民族だからだと言います。しかし、その民族という概念自体が生まれたのはたかだか100余年前なのです。韓半島の場合、民族という言葉が初めて使われたのは20世紀初めだったのです。北朝鮮の歴史学者たちは「朝鮮王朝実録」からも勝手に意訳をして、「民族」という言葉を選び出したりしてますけどね(笑)。 近代になってやっと出てきた概念を古代史にあてはめるというのはお話になりません。
1930年頃にポーランドで実施した国勢調査の記録を見ると、今のベラルーシとの国境地域に住む人々に「あなたはポーランド人ですか、ベラルーシ人ですか?」と尋ねたというくだりが出てきます。その回答が傑作です。ただ、「私たちはここに住む人たちだ」だったということですね。
では、われわれが2千年前にタイムマシンに乗って行ったとして「あなたは韓国人ですか? 中国人ですか?」と聞いてみたら高句麗人は何と言うでしょうか? 当然「何をわけのわからんことを言いなさるのか?」と言うんじゃないですか?
一歩話を進めると、当時高句麗の支配が及ぶところに住んでいた人々は、自分たちが高句麗の人間と考えたのでしょうか? そうじゃないでしょう。高句麗という名前さえ知らずにいたでしょうし、「高句麗」という実体も認識できなかったでしょう。
また、19世紀末にフランスの農民たちの社会史的な調査がありました。タイトルは"Peasant being into French man"(「フランス人になった農民たち」)。この調査によると、当時のノルマンディーの農民たちは、ほとんど一生の間、自分が生まれたところから4kmを越えるところを旅行したことがなく、だからフランスという実体を知らないのです。その後義務教育を施し、ドーデーの「最後の授業」のようなものを読ませ、方言を使えなくして標準語を使わせる過程で、彼らが「私はフランス人なんだ」と考えるようになったということなんです。
国民国家が成立し、中央集権的官僚制が作られて100年が過ぎた社会の農民たちの意識がそうだったとすると、2千年前の高句麗に住んでいた人々は、韓国人や中国人や、さらには高句麗人であるという意識もなかったと見るべきです。ただ私は「ここの人」だと思って住んでいたでしょう。ところがそれらを中国史の一部、韓国史の主役として引っぱり出すのは、近代国民国家とそれを支える権力の立場から彼らの人生を専有してしまうものです。彼らの生活をそのまま受け入れるのではなく・・・。
高句麗が韓国史でも中国史でもないと言う彼の論理は非常に単純な一言で要約可能だ。「民族」というもの自体が近代になってようやく登場した概念であるため、古代史に適用可能ではないこと。周知のように、このような観点は、民族を超歴史的実在としてみる主流史学とは根本からまったく異なる。
Q.民族が近代以降になってようやく形成されたという主張は、制度教育で教える内容とは大きく異なっているようです。
A.そうでしょう。学校で教える「国史」では、このようなことを言わないからね。でもこれが常識です。考えてみましょう。民族という概念は「私たちは一つ」という構成員の間の同質感をその前提としていますが、身分制、両班常民制が存在していた近代以前の社会で果たしてそれが形成されることがあったでしょうか? 例えばあなた(記者)は両班であり、私は常民であれば、私はあの人は私たちの同胞・同民族という感覚を持ったのでしょうか?
この問題については面白い史料が残っています。壬辰倭乱の時にある義兵長(呉希文)が残した記録に「瑣尾録(쇄미록)」というのがあるのですが、そこにはこんな嘆きが出てきます。倭軍が攻めてきたのに、私の部下たちが義兵は集まれと言っても1人も集まらないばかりか、日本軍を歓迎して心配だというのですよ。その時の日本軍の占領政策というのが米を配ることだったんですよ。教科書で教えるように「民族意識が透徹した」民衆だったら日本軍に抵抗してゲリラ戦を展開しなければしたはずなのに、その義兵によるとむしろ歓迎したということじゃないですか? 自分たちを人間扱いもせず搾取するばかりの両班たちが引き下がって、急に米を分け与えてくれるというヤツが入ってきたら、あえて拒否する理由がないでしょう。「異民族が攻めて来るたびに、官民が一致団結して戦った」というのは嘘です。壬辰倭乱の時、日本軍が入ってくる前にソウルの宮城を燃やしたのは奴婢たちであるという事実だけ見てもそうですね。このようなことが、守るものがある集団と守るものがない集団の違いです。
★[私ヌルボの付記]
ウィキペディアの<景福宮>の説明文によれば、「朝鮮王朝実録」等々「日韓双方の記録が(民衆あるいは国王の放火により)秀吉軍の入城を前に焼失したとしている」とある。しかし韓国ウィキペディアの<景福宮>には、「奴婢文書と略奪の痕跡をなくすために景福宮等の宮殿を難民たちが火をつけたといわれているが、現在これが嘘であることもあるという議論が出ている」として、2008年文化財庁が刊行した「景福宮の変遷」の所説を基に、景福宮は日本と朝鮮・明の連合軍との戦闘により焼失したと説明づけています。たとえば、「王室や官僚たちは早目に避難し、(日本軍の入城以前に)空っぽになった宮廷に、民が侵入して奴婢文書を燃やして宝物も略奪した」という柳成龍の記録は目撃談ではなく伝聞である、として疑問視、というより否定しています。
これも韓国人として「こうあってほしい」という歴史を必死になって証明しようとする事例の1つでしょう。
A.他の例もたくさんあります。例えば旧韓末、東学農民軍を鎮圧していた官軍の兵たちがその後義兵の下に傭兵として入ったことが実証的に明らかになりました。民族意識があって、風前の灯の状態にあった国を救おうとしたのではないんです。常識的にみて、東学農民軍を鎮圧していた兵たちが義兵になった現象が「民族意識」によって説明されますか?
また、文献を見ると、1910年に日韓合邦になった時、地方の両班たちが「恥ずかしくて外に出歩けない」と閉じこもったという記録があります。その理由というのが、倭人たちに国を奪われたからというものではありません。「外に出ると常民たちが兄弟よばわりするのが恥ずかしい」というのです。甲午更張(1894)で身分制が廃止されましたが、それは法的な面だけであって、慣行はそのままだったのです。ところが日韓合邦というのは両班たちにとって世界がひっくり返ったようなものだったのです。これが彼らが嘆いた本当の理由なのです。
ところが国史教科書では、まるで「是日也放聲大哭」(「皇城新聞」張志淵社長の社説)なので、閔泳煥の自殺だけが韓国の全体的な反応であるかのように描写しています。これについては問題提起が必要だと思います。日韓合邦がよかったということではなく、身分制・両班常民制の社会で民族という概念は成立し得ないという話です。
これらの例をみただけでも、民族(nation)とは、法の前ではすべての市民は平等であるという宣言があり、身分制が廃止され、近代国民国家と近代市民権が確立された後に初めて現れるということがわかります。常識的な話ですよ、これは。
文字通り「おもしろい」記録だった。彼は同じ事実(fact)について別の解釈を提示する程度ではなく、最初から新しい事実を出していた。既存の理論とは対照的な結論を導き出して、他の解釈の余地もあまりないような見慣れないものを・・・。
《国史の出自自体が「作られた歴史」》
Q.そうして見ると、国史自体を民族と結びつけて叙述する今の国史教科書はほとんど最初から最後まで間違っているという話になります。これは、ほとんど"歪曲"レベルになることでしょう。ところが、現実ではその"歪曲"された歴史叙述こそ主流であり、依然として公的に信頼のある"事実"として通用しているのですが・・・。
A.そうなった理由はいろいろと考えられます。史学界の慣習とか閉鎖的な雰囲気とか・・・。ところが、より根本的な理由は、「国史」というもの自体の性質によるのです。国史というものが過去についてのイメージを神話化させて作り出すという属性があるのです。国史自体が韓国や日本といった国家に正統性を付与して、それを正当化する手段なのです。
国史つまりナショナル・ヒストリーの一般的な特徴は、今の国民国家を頂点にして、そこに至る発展過程として過去の歴史を見るということです。そのように見る上で、不必要だったり、矛盾していたり、混乱を招く事実はすべて除去されるのです。
これは他の国の「国史」も同様です。
ポーランドの例だけとってみましょう。韓国の義兵のように、ポーランドでも1830年「両班」であるシュラフタ(szlachta)が蜂起しました。ところが当時の農民たちは、「両班」の指導者を捕らえてオーストリア占領軍に引き渡してしまったのですよ。
私たちの場合にあてはめれば、日本官憲が鎮圧する前に、農民が先に鎮圧してしまったのです。ポーランド農民たちは独立を恐れたんですよ。なぜかというと、ロシアの皇帝が農奴解放をしてくれたのに、その「両班」たちが支配していた時代に戻ると農奴制も復活するじゃないですか。
当時ポーランド農民運動の指導者だった人の回顧録には「農民たちは独立を恐れていた」とあります。ところが私たちが聞いていた話はというと、キュリー夫人がどうのショパンがどうの等々じゃないですか。そんなことはすべて神話化された話ということです。実際とは違います。
わが国でも翻訳されたベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」では近代の歴史叙述の特徴を「伝道されていること」と規定しています。私たちがいつも因果論的に第1次世界大戦が第2次世界大戦を生み、第2次世界大戦が冷戦を生んで・・・と話しますが、実は逆になっているのです。
実際の論理クロノロジー(年代記)は、第2次大戦が第1次大戦を生み、第1次大戦が帝国主義戦争を生むということです。なぜなら、現在を正当化する観点から出発するから。今日のすべての歴史的過程を、今の国を作ってきた過程で見なければならないんですよ。
国民国家が目的とした目的論的記述ですね。ランケは、実証主義に基づく科学的な歴史を確立して実証史学の父といわれますが、実はプロイセン国家を正当化した「御用歴史家」だったという事実が、今日の研究を通して明らかにされているじゃないですか。これはわが国の歴史家たちを別にしては常識的な話です。
単純に「御用歴史家」が教科書を作ったために生じた結果ではなく、発生論的に見た時、国史というもの自体が体制の正当化のために作られた道具だからという話だ。問題の本質が「胎生的限界」にあると、解決策は国史自体を否定することに帰結せざるを得ないという意味になるから。
今の日本の歴史学界には、まさか昔の平泉澄東大教授のような筋金入りの皇国史観の持ち主はほとんど(?)いないし、民族主義の色濃い学者もそんなに多くはないでしょうが、「国益」を重視して韓国や中国に対してマスコミで強硬な主張を繰り返している人はふつうに見受けられますね。
※1950~60年代の日共系の間には「反米民族主義」が漂っていて、当時よく目にした日共系全学連の機関紙のタイトルも「祖国と学問のために」だった。
この続きで、林志弦教授はナショナリズムに代わる歴史観や、領土論を展開しています。