1月27日(土)、所用のため大宮に行ったついでに、以前から懸案だった鉄道博物館を見学してきました。
いつからの懸案事項かというと2ヵ月近く前からです。というのは、12月初めの韓国旅行でソウル近郊の義王市にある鉄道博物館に行って来たから。
その記事はちょっと長くなりそうなので次に回すとして、その韓国の鉄道博物館で見た鉄道唱歌関係の展示を紹介します。が、その前に・・・。
最初から余談!です。私ヌルボ、以前から疑問に思っていたのが「なぜ新橋ではなく品川の発車メロディーが鉄道唱歌なのか?」ということ。この際と思ってちょっとググってみたら→コチラに理由が記されていました。「品川駅は1872年5月創業した日本最古の鉄道駅で、新橋~横浜間が開業する4ヵ月前に品川~横浜間の工事が完成し、仮営業という形で蒸気機関車が1日2往復走っていた。東海道線のホームの発車ベルが「鉄道唱歌」になっているのは、それにちなんだもの」ということです。
さて本論・・・に入る前に、もう1つちょっとクイズ。
今も日本人の大多数が知っている(ホント?)「鉄道唱歌」が作られた時期はいつ頃?
A.鉄道が開通した明治初期 B.東海道線が開通した1989年頃 C.鉄道が全国的に普及した1900年頃
正解は「 C 」です。正確には1900年に造られました。作詞は大和田建樹、作曲は多梅稚(おおのうめわか)です。なんちゃって、私ヌルボ、なんとなくAだと思ってましたよ、ハハハ。考えてみれば、まだ洋楽は普及してなかったですよね。いずれにせよ、この1900年という時期は歴史的にみて日韓の歴史を理解するためにも重要だと思います。
ついでのついで。いろいろ検索していたら、<鉄道唱歌の碑>というのが新橋駅にあるとか。(汐留口を出てすぐの駅舎壁面。) 西口広場に蒸気機関車が保存展示されているのは知ってましたが、これも知らなかったな。新橋駅なんて今まで100回以上も行ったりしてるのに。トホホ。
※日本でレコードが普及しはじめるのは大正時代で、その最初のヒット曲は1914年の松井須磨子「カチューシャの歌」。ラジオ放送はずっと後の1925年。それ以前の、明治期の流行歌は演歌師等によって歌われ、出版社が歌詞・楽譜を印刷した小冊子を発行した。(「鉄道唱歌」の冊子は→コチラの画像参照。)
※「鉄道唱歌」刊行の経緯やその後のことについては中島幸三郎「汽笛一声新橋を」(佑啓社)に詳しい。宣伝には楽隊も使われたりしたとか。また冒頭の「汽笛一声新橋を」の名文句は1896~97年に流行した演歌師・添田唖蝉坊の弟子・横江鉄石の「汽車の旅」に拠る等々の考証を記しているのは高取武「歌でつづる鉄道百年」(鉄道図書刊行会)という労作。
ようやく、じわっと本論。まずは次の韓国語の歌を聴いてください。
メロディーは「鉄道唱歌」と同じです。しかし韓国では「학도가(学徒歌)」です。
作られたのは1905年。つまり日本で作られてからわずか5年後。当時「鉄道唱歌」がそれだけ大ヒットしたということです。作詞は韓国の洋楽先駆者として知られる金仁湜(キム・インシク)ですが、その後歌詞はいくつかの別バージョンが作られてきました。
<ナムウィキ>(→コチラ.韓国語)によると、1920年代の高雲峰(コ・ウンボン.고운봉)バージョンはドラマ「野人時代」のostとして使われたとか。(歌手高雲峰は1920年生まれなのに、なんで?) そして上のYouTubeは1930年代、韓国最初の職業歌手だった蔡奎燁(チェ・ギュヨプ.채규엽)の作詞。それぞれの歌詞をみると、学生に勉学を督励する点は共通していますが、その時代が反映されているようです。<ナムウィキ>は、日本の侵略に対して(武力闘争よりも)実力養成が肝要という安昌浩が唱えたような独立の意志が盛り込まれているとのことですが、1905年というのはちょっと早いのではないでしょうか? (その後歌う人がそのような抗日の意志を読み取ったことはあったかもしれませんが・・・。)
「鉄道唱歌」のメロディーが借用された例をもうひとつ。これもYouTubeをそのまま貼っておきます。
なんと北朝鮮の「反日革命歌」。ハングルの歌詞はカラオケ版の→コチラ参照。
日本の歌のメロディーに詞をつけた抗日の歌という矛盾をつつくというのは今の日本人の感覚。他にも例があったような気がします。それにしても、Boxso Tsugio(or B・ Tsugio)という人、どこからこういうネタを仕入れてくるのでしょう? 韓国サイトにもこの動画は見当たらないし・・・。
次はやっと韓国の鉄道博物館で見た展示物についてです。それは1908年に作られた韓国の「鉄道唱歌」の歌詞なんですが・・・って、上述のように日本の「鉄道唱歌」のメロディーはすでに別の歌に使われてるし、そこんとこどうなってるの?とか、歌詞の内容とか、いろいろと調べたらまた長くなりそうなので、とりあえずはここで一区切り。
いつからの懸案事項かというと2ヵ月近く前からです。というのは、12月初めの韓国旅行でソウル近郊の義王市にある鉄道博物館に行って来たから。
その記事はちょっと長くなりそうなので次に回すとして、その韓国の鉄道博物館で見た鉄道唱歌関係の展示を紹介します。が、その前に・・・。
最初から余談!です。私ヌルボ、以前から疑問に思っていたのが「なぜ新橋ではなく品川の発車メロディーが鉄道唱歌なのか?」ということ。この際と思ってちょっとググってみたら→コチラに理由が記されていました。「品川駅は1872年5月創業した日本最古の鉄道駅で、新橋~横浜間が開業する4ヵ月前に品川~横浜間の工事が完成し、仮営業という形で蒸気機関車が1日2往復走っていた。東海道線のホームの発車ベルが「鉄道唱歌」になっているのは、それにちなんだもの」ということです。
さて本論・・・に入る前に、もう1つちょっとクイズ。
今も日本人の大多数が知っている(ホント?)「鉄道唱歌」が作られた時期はいつ頃?
A.鉄道が開通した明治初期 B.東海道線が開通した1989年頃 C.鉄道が全国的に普及した1900年頃
正解は「 C 」です。正確には1900年に造られました。作詞は大和田建樹、作曲は多梅稚(おおのうめわか)です。なんちゃって、私ヌルボ、なんとなくAだと思ってましたよ、ハハハ。考えてみれば、まだ洋楽は普及してなかったですよね。いずれにせよ、この1900年という時期は歴史的にみて日韓の歴史を理解するためにも重要だと思います。
ついでのついで。いろいろ検索していたら、<鉄道唱歌の碑>というのが新橋駅にあるとか。(汐留口を出てすぐの駅舎壁面。) 西口広場に蒸気機関車が保存展示されているのは知ってましたが、これも知らなかったな。新橋駅なんて今まで100回以上も行ったりしてるのに。トホホ。
※日本でレコードが普及しはじめるのは大正時代で、その最初のヒット曲は1914年の松井須磨子「カチューシャの歌」。ラジオ放送はずっと後の1925年。それ以前の、明治期の流行歌は演歌師等によって歌われ、出版社が歌詞・楽譜を印刷した小冊子を発行した。(「鉄道唱歌」の冊子は→コチラの画像参照。)
※「鉄道唱歌」刊行の経緯やその後のことについては中島幸三郎「汽笛一声新橋を」(佑啓社)に詳しい。宣伝には楽隊も使われたりしたとか。また冒頭の「汽笛一声新橋を」の名文句は1896~97年に流行した演歌師・添田唖蝉坊の弟子・横江鉄石の「汽車の旅」に拠る等々の考証を記しているのは高取武「歌でつづる鉄道百年」(鉄道図書刊行会)という労作。
ようやく、じわっと本論。まずは次の韓国語の歌を聴いてください。
メロディーは「鉄道唱歌」と同じです。しかし韓国では「학도가(学徒歌)」です。
作られたのは1905年。つまり日本で作られてからわずか5年後。当時「鉄道唱歌」がそれだけ大ヒットしたということです。作詞は韓国の洋楽先駆者として知られる金仁湜(キム・インシク)ですが、その後歌詞はいくつかの別バージョンが作られてきました。
<ナムウィキ>(→コチラ.韓国語)によると、1920年代の高雲峰(コ・ウンボン.고운봉)バージョンはドラマ「野人時代」のostとして使われたとか。(歌手高雲峰は1920年生まれなのに、なんで?) そして上のYouTubeは1930年代、韓国最初の職業歌手だった蔡奎燁(チェ・ギュヨプ.채규엽)の作詞。それぞれの歌詞をみると、学生に勉学を督励する点は共通していますが、その時代が反映されているようです。<ナムウィキ>は、日本の侵略に対して(武力闘争よりも)実力養成が肝要という安昌浩が唱えたような独立の意志が盛り込まれているとのことですが、1905年というのはちょっと早いのではないでしょうか? (その後歌う人がそのような抗日の意志を読み取ったことはあったかもしれませんが・・・。)
「鉄道唱歌」のメロディーが借用された例をもうひとつ。これもYouTubeをそのまま貼っておきます。
なんと北朝鮮の「反日革命歌」。ハングルの歌詞はカラオケ版の→コチラ参照。
日本の歌のメロディーに詞をつけた抗日の歌という矛盾をつつくというのは今の日本人の感覚。他にも例があったような気がします。それにしても、Boxso Tsugio(or B・ Tsugio)という人、どこからこういうネタを仕入れてくるのでしょう? 韓国サイトにもこの動画は見当たらないし・・・。
次はやっと韓国の鉄道博物館で見た展示物についてです。それは1908年に作られた韓国の「鉄道唱歌」の歌詞なんですが・・・って、上述のように日本の「鉄道唱歌」のメロディーはすでに別の歌に使われてるし、そこんとこどうなってるの?とか、歌詞の内容とか、いろいろと調べたらまた長くなりそうなので、とりあえずはここで一区切り。