9月21日の通夜には約350名、22日の告別式には170名の皆様に参列して頂き
本当にありがとうございました。
参列できないからと、通夜が始まる前や終わってから23時頃まで、
告別式には朝7時から来て頂きました。
剣道家としての主人がたくさんの方に慕われているのを見て
私を含めて家族、親族一同が知らなかった主人の一面を知り、嬉しく思いました。
寂しがり屋だった主人は、たいへん喜んでいると思います。
剣道関係の方が多く、少年剣道を教えていた頃の懐かしい方がたくさん来て下さいました。
生徒さんやスタッフさん、ご近所の方
急な事でまだ、連絡できていない所もあり、今も電話も頂いております。
お別れ会の様にしたいと言う私の希望で
通夜の時は地域の友人と主人の少年剣道~職場、そして最後の一ヶ月に大きくかかわって下さった教え子のお二方に弔辞を頂きました。
心のこもった弔辞に、涙を誘いました。
葬儀の時は、地域の問題から始まって深くかかわって下さった長谷川俊英堺市議に私の思いも込めた弔辞を頂きました。
弔 辞
剣道教士八段・坂田良一先生の御霊前に立ち、先生の剣道界における数々のご業績と、弟子の末端にお加えくださった私に賜った過分のご恩を思い返しつつ、謹んで哀悼の辞を捧げます。
先生に初めてお目にかかったのは、平成十二年(二〇〇〇年)も押し詰まった十二月二十一日だったと記憶しております。
ご用件は、お住まいのある当時の美原町木材団地の地区区長による不正を糾すために知恵を貸してほしいとのこと。当時の私は公職を離れ、大学に勤務しながら、地域の剣道クラブを主宰しておりましたが、その剣道クラブの指導者の仲立ちが、先生とのご縁の始まりでした。
その折に頂戴したお名刺には、大阪府警察本部警備部第二機動隊剣道師範とありました。正義感に溢れる先生のお話を伺い、年明け以降、同じ思いで先生と共に地域改革を志す地区住民の方々との交流が始まりました。
そして、当時の区長と地区事業受注企業との不明朗な関係などを追及し、また地区会を再生するための住民の皆さんの活動は成功しました。
奥様の正子さんが新しい区長に選ばれ、活発な住民自治活動が展開されるようになったこともあって、先生や地区の皆様とのご交誼はさらに深まりました。
三年後の平成十五年(二〇〇三年)、私が堺市議会に復帰するにあたっては皆様の大きなご支援をいただき、平成十七年(二〇〇五年)の美原町と堺市との合併により、同じ堺市民としての絆がさらに強まったかと思います。
ご公務を退かれた後の先生には、私の後援組織の要職もお引き受けいただいたほか、家族ぐるみのお付き合いを賜ってまいりました。
何年かして、先生が病を得られたことを知り、ひたすらそのご快復を願ってきたところです。ところが、先生の剣道への情熱と指導者としての責任感はすさまじく、病を押してもその責務を果たそうとされるお姿に圧倒されました。
剣道指導者としての先生のご名声は海外にも及び、中国瀋陽市からのご招聘に応じられ、また、同市から来日した剣道家のお世話をされるなど、剣道を通じての国際親善にも貢献されたことは、「さすが、坂田先生」と各界からの賞賛を集めました。
しかし、病の進行はいかんともしがたく、一昨年の京都大会への出場は、「これが最後」と覚悟を決められてのことと、奥様に伺いました。
その京都大会の出場アルバムを拝見し、品格に満ちた先生の剣士姿とともに、防具装着に手を添える正子さんのひたむきなご表情に感動させられました。
思えば、坂田先生の半生は坂田正子さんの献身によって支えられ、先生の数々のご名声は、奥様と共にお受けになられたものではないかと、思えてなりません。
まさに「九州男児」の「肥後もっこす」であった先生が、奥様に強い口調で接されることに、最初はハラハラしました。しかし、それでもすぐ、先生の行動も奥様を信じて頼る関係にあることを窺い知りました。
病床にあってご不安が増す時期であったにもかかわらず、奥様が堺市美原区の選挙管理委員という公職に就くことをお認めになったことなど、しばしば、先生の奥様への敬愛ぶりを拝見することもありました。
また、そのような先生の広いお心と他者への思いやりは、ご家族はもちろん、数多くの弟子やご友人にも及び、昨日も今日も、これほど大勢の方々がお別れを惜しんで集うことになったかと思います。
ともあれ、病院や施設ではなく、できる限りご自宅での闘病生活を選ばれ、ここ数年にわたる奥様の懸命の介護ぶりは誰もが認めるところです。
過日の弔問の際、ずっとそばで手を握り続けてご臨終を迎えたと伺い、その深い愛に包まれた坂田先生の人生は、とてもお幸せだったのだと思い至らされました。
奥様からは、「つい先日も、主人は竹刀を両手で持って素振りしていたのです」との話も伺いました。どのように体力が衰えようと、剣の道を極めようとされる坂田先生の強いご意志が伝わってきます。
と同時に、剣道家としての坂田先生への敬慕の念に満ちた奥様の思いも強く感じさせられたところです。
その奥様、そしてお子様や、おじいちゃん大好きだった八人のお孫様たちに見守られ、どうか安らかにお眠りください。
そして、黄泉の国にいらっしゃっても、よりいっそう、先生を慕う弟子たちに剣の道を教え伝え続けてくださることを切にお願い申し上げ、お別れの言葉の結びといたします。
二〇一九年(令和元年)九月二十二日
不肖の弟子
堺市議会議員 長谷川俊英
葬儀委員長をして下さった不知火会の右田先生
快く弔辞を引き受けて下さった3人の皆様、とても感謝しております。
又、葬儀のお手伝いをして下さった各種団体の皆様
そして、わざわざお越し頂き、お心のこもった言葉や献花を頂いた皆様に厚く御礼申し上げます。
行き届かないことばかりでございましたことをお詫び申し上げます。
娘たちに手伝ってもらい、四十九日を行う11月9日まで
お参りしてして頂けるように部屋も片付ける事が出来ました。
歩けなくなって1年半、ずっと居間に置いていたベットもお返しして
部屋が広くなり、ビックリしました。
昨日は、自宅介護でお世話になった看護師さんたちがお参りに来て下さり、感謝の気持ちを伝えることが出来ました。
主人が亡くなってから2週間、最初はバタバタしていましたが
告別式の時は孫3人が泊まってくれて、
月、火と交代で来てくれて
先週で手続きもほぼ出来ました。
次女は金、土日と泊まってくれて、
日曜日は長女も来て、
ちょっと寂しくなった頃に、昨日は娘2人が来てくれました。
娘2人に孫8人、私が淋しくないようにしてくれた主人に感謝です。
やっとブログにも手を付ける気になれました。
もしやと思っていましたが
ご主人様のご冥福をお祈りいたします。
長い間、ご苦労様でした。
そして、うまっちさんも長い間ご苦労様でした。
暫くは何かとお忙しいでしょうが、ご自愛ください。
すっかりご無沙汰していたのに、嬉しいコメントありがとうございます。
元気な時は、うるさかった主人ですが、右の前頭葉の腫瘍だったので、別人の様に穏和になって
家での看護はし易かったです。
車椅子とベットの移乗だけは、たいへんでしたが・・・
怒っていた主人が懐かしいと言うのも変ですが
お陰で孫たちは、よく来て、懐いていました。
今日も元気な時のジイジと遊びたかったと言っていました。
色々な手続きで、探し物が多く大変でしたが少し落ち着きました。
34年前に家出をして2週間ほど住まわしていただきました
岡本です。
またまたネットで見つけていてもたっても居れなくなり
メールしました
御愁傷様です。
先生の愛のある鋭い御指導は今実業にいる私にも
響いています。
天国でも愛のある厳しい稽古をなさっているでしょう。
コメントありがとうございます。
亡くなる1週間前、このまま元気になるのではと思わせる様に竹刀を振っていたので
きっと天国でも
剣道を志す人が大好きで
日々自分の剣道についても一喜一憂していましたから
稽古していると思います。