真実と虚構
Subj:あの行田“モダン・パスタ”での
小百合さんの食べっぷりを
見ていますからね。。。
\(^_^)/キャハハハ。。。
Date: 02/03/2008 11:33:43 PM Pacific Standard Time
(日本時間: 3月3日午後4時33分)
From: barclay1720@aol.com
To: fuji@adagio.ocn.ne.jp
> 私もそろそろデンマンさんから
> 返信が来ると思っていました。
> 主人が作ったカレーを食べて(今が朝食です)
> その前にコーヒー4杯飲んでるけど
小百合さんはいい身分ですねぇ~?
旦那にカレーを作ってもらって食べるなんて
午前様のようですねぇ~?
\(^_^)/キャハハハ。。。
つまり、真夜中に帰ってきて起きるのが遅くなるのですよね。
そうすると当然、朝ごはんは昼飯頃になりますよね。
それで、午前様は朝飯と昼飯が一緒になるのですよ。
小百合さんは、そのブランチを旦那に作ってもらうのだから、これ以上の幸せは無いですよう。
もちろん、小百合さんが外で男遊びをしてきたとは思いませんが。。。
\(^Д^)/ギャハハハハ。。。。
by デンマン
『食べるの好きです (2008年3月5日)』より
今日は小百合さんの男遊びの事について語り合うのでござ~♪~ますか?
やだなあああぁ~。。。小百合さんは男遊びをするような女性ではありませんよう。僕が“男遊び”と書いたのは、かつて話題になった39歳の真美さんのことを思い出したからですよ。卑弥子さんも覚えているでしょう?
ええ、覚えていますわ。六本木のサルサパーティに行ってボーイフレンドを探すというお話でござ~♪~ましたよね?
旦那に相手してもらえず、真美さんの不満が高(こう)じたのですよ。
それで小百合さんの上のメールを持ち出したのでござ~♪~ますか?
そうですよ。旦那がゆっくりと目覚めた真美さんにカレーでも作ってあげれば、真美さんの気持ちもずいぶんとほぐれただろうと思うのですよね。今日の『小百合物語』を初めて読む人も居るだろうから、真美さんにもう一度登場してもらいますよゥ。
オンナは永遠に「恋」をしたい
2007年11月22日10時30分
ライブドアニュース
六本木のサルサパーティに行ってみると「恋人のいるお金持ちミセス」のオンパレードだ。
聞いてみると「ダンナは社長・・・仕事が忙しいので、帰るといつも疲れて、家で子供とテレビを観ている」とのこと。
昔はオトコが外で遊び、オンナは家庭を守るという図だったのが、
一体いつの頃から逆転したのだろうか?
ご主人が貿易会社の社長で、サルサ歴3年の真美さん(39歳)は
今3人目のパートナーと付き合っている。
「主人(43歳)は私の顔を見ると『疲れた』『疲れた』を連発し、
食事の後はゴロゴロとソファに寝転がってテレビばかり観ています。
私には『疲れてるからキミの夜の相手はできないよ』と
毎日私に向かって言っているように感じます。」
真美さんは、このように話す。
現に、彼女はこの5年間、ご主人との夜の生活は皆無で、
最近ではもっぱら恋人が相手だそうだ。
『でも、憂鬱 (2007年12月11日)』より
旦那は真美さんのことを全くかまわずに仕事から帰ってくると家でゴロゴロと子供とテレビを見ている。これが毎日続いたら真美さんだってパーティーに出てボーイフレンドを探したくなりますよね。その気持ちが分かるような気がします。
やはり年に何度かは小百合さんの旦那様のように奥様にカレーでも作ってあげるべきなのでごさ~♪~ましょうね?
そうですよ。夫婦の絆を大切にする気持ちがあれば、その程度のことは自然にできるものですよ。
そうでござ~♪~ましょうか?日本には昔から根強い封建制、あるいは男尊女卑の精神がござ~♪~ますわア。台所に立ってカレーを作るなど男の沽券(こけん)にかかわると言って、絶対に台所には入らないと言う殿方だっておりますわア。
ほおォ~。。。そのようなメチャ古風な男が居ますか?
あたくしの父などはそうでござ~♪~ましたわ。料理は女の仕事。男にはもと大切な仕事がある。そのように考えておりましたわ。
確かに、日本にはそのような男尊女卑の考え方がありました。台所に入ってカレーを作って妻の機嫌をとる。そういうことは男の恥だと考える風潮がごく最近までありましたよ。。。日本人は“世間”から、どう思われるかということを気にして生きている人が多いですからね。だから、卑弥子さんのお父さんは小百合さんの旦那のようにカレーなど作らなかったのでしょう。
あたくしは父が台所に入ったのを見たことがありませんでしたわ。
ほおォ~。。。博物館モノですねぇ~。。。
。。。んで、デンマンさんは奥様にカレーなどを作って、ご機嫌を取る事があるのでござ~♪~ますか?
僕は世間体など気にしませんからね。別に機嫌をとるわけではないけれど、直美に作ってやる事もありますよ。僕は自分の口に入れるものぐらい自分で作りますからね。だから、卑弥子さんがバンクーバーにやって来た時も僕は散らし寿司を作ってご馳走したでしょう?
そうでしたわ。あたくしは感激してしまいましたわあああぁ~。。。あたくしは本当にビックリしたのでござ~♪~ますう。デンマンさんにそのような特技があろうとは全く予想もしていませんでござ~♪~ましたから。。。
あのねぇ~。。。僕は、どちらかと言えば、“男は台所に入るべきではない”なんて言われると、逆に入りたくなる性分なんですよう。かつて中学生の頃だって“18禁の映画を見てはダメだよ”と言われると見たくなった性分なんですよ。だから、僕はこうして現在カナダで生活しているのですよ。
どうして。。。、どうして、“18禁”とカナダで生活する事が関係あるのでござ~♪~ますか?
関係ありますよ。日本のぬるま湯のような自由な社会で生活していると、かえって何もしなくなってしまうものなんですよ。経済大国などとおだてられて、日本が世界でも生活水準がトップに近いと思い込んでいる人が日本には実に多いものですよ。この事で僕は、かつて記事を書いた事がありますよ。
■ 『東京が世界で一番生活費が高い都市になると
佐世保で小学生女児が殺人事件を起こす。
日本は本当に住みよい国なのでしょうか?』
(2005年8月25日)
上の記事を読めばねぇ、まだ海外で生活したことの無い人は“目からウロコ”のような印象を持つと思うのですよ。
つまり、デンマンさんは日本には“井の中の蛙”が実に多いとおっしゃりたいのでござ~♪~ますわね?
そうですよ。
それと“18禁”が関係あるのでござ~♪~ますか?
そうですよ。あるのですよう!
どのように。。。?
昔、江戸時代には“鎖国令”と言う厳しい法律がありましたよね。つまり、“海外渡航禁止令”ですよ。海外に行ってはダメだ!そういう馬鹿げた法律ですよ。現在、そのような愚かな法律ができたら、大変な事になりますよ。それこそ『平成維新』を目指して多くの若者が立ち上がって、そのような愚かな政府を倒そうとするでしょうね。ちょうど『明治維新』の時のように。。。僕がその当時生きていたら、必ず国禁を犯して海外に出てゆきましたよ。
吉田松陰のようにでござ~♪~ますか?
そうですよ。吉田松陰は国禁を犯してアメリカ船に乗り込んでアメリカに行こうとした。それで国禁を犯したという理由で死刑なってしまったのですよ。その吉田松陰の教え子たちが明治維新を起こしたのですよ。
。。。んで、デンマンさんも“18禁”を破って、未成年が見てはいけない映画を見たのでござ~♪~ますか?
そうですよ。つまらない映画だったですよう。なぜ、“18禁”なのか?僕は理解に苦しんだほどつまらない映画でしたよ。でも、僕の言おうとしている事が卑弥子さんにも分かりますよね?
まだ、良~♪~く分かりませんわア。
つまりねぇ、人間の自由を制限しようとして法律などを作って江戸時代の時のようにがんじがらめにしてしまうと、人間は、かえって極端に走るものなんですよう。
そのようなものなのでござ~♪~ますか?
とにかく、江戸時代には、髪型から着る物まで法律で定められていた。
髪型から着る物まででござ~♪~ますか?
そうですよ。下着にいたるまで贅沢が制限されたのですよ。今で言うならば、“冬はおばさんパンツを穿け!”と言うような喜劇的な法律を政府が作ったと言う事ですよ。
奢侈禁止令(しゃしきんしれい)
江戸幕府が士農工商を問わずに発令した贅沢を禁じる法令及び命令の一群を指す。
衣装の制限
寛永5年(1628年)には、農民に対しては布・木綿に制限(ただし、名主及び農民の妻に対しては紬の使用を許された)された。
下級武士に対しても紬・絹までとされ贅沢な装飾は禁じられた。
農民に対しては続いて寛永19年(1642年)には襟や帯に絹を用いる事を禁じられ、更に脇百姓の男女ともに布・木綿に制限され、更に紬が許されたが、その長さが制限された。
更に翌年の「土民仕置覚」では紫や紅梅色を用いる事が禁じられた。
その後も寛文7年(1667年)、天明8年(1788年)、天保13年(1842年)にも繰り返し同様の命令が出されている。
一方、武士や町人に対しても農民ほどの厳格さは無くても同様の規制が行われた。
寛文3年(1663年)には「女中衣類直段之定」が定められ、当時の明正上皇(女帝、銀500目)や御台所(将軍正室、銀400目)の衣装代にまで制約をかける徹底的なものであった。
天和3年(1683年)には、呉服屋に対しては小袖の表は銀200目を上限とし、金紗・縫(刺繍)・惣鹿子(絞り)の販売は禁じられ、町人に対しては一般町人は絹以下、下女・端女は布か木綿の着用を命じた。
貞享3年(1686年)には縫に限り銀250目までの販売を許したが、元禄2年(1689年)には銀250目以上の衣服を一切売ってはならない事、絹地に蝋などを塗って光沢を帯びさせる事を禁じる事が命じられた。
正徳3年(1713年)には先の「女中衣類直段之定」の制限(朝廷500目・幕府及び大名400目・それ以下300目)の再確認と贅沢な品物の生産と新商品・技術の開発の厳禁が生産・染色業者に命じられる。
享保3年(1718年)の「町触」の公布にあわせて奉行所に町人の下着まで贅沢な振る舞いがないか監視するようにという指示が出されている。
延享2年(1745年)にも「町人が絹・紬・木綿・麻布以外の物を着てはならず、熨斗目などの衣装を着ているものがいれば、同心は捕えてその場で衣装を没収すべきである」と言う指示が出されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
髪型もですか?