イタリアの空の下で

「ふるえる手」から
(ローマの)ゴヴェルノ・ヴェッキオ街から、サンタ・マリア・デル・アニマ街に出る。
この道の突きあたりには魂のサンタ・マリアを意味する名の教会があるのだけれど、ここを通るたびに、私は、ちろちろと赤く燃える火の玉に出会いそうな気分になる。
色とりどりの提灯などを吊るしたディスコやアイスクリーム屋があったりして夜は若者たちで賑う。
そもそもどういう由来でこんな名の教会ができたのだったか。
そこからもう一本、路地をぬけると、二千年まえ、ローマ皇帝の競技場だったという高貴なナヴォーナ広場、それを横切って上院の建物がある広小路に出た。
左手を見るともなく見ると、これまでに何度か来ては、運わるく扉が閉まっていてそのまま通りすぎてしまった、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会の、正面のではない、わきの小さな扉から、旅行者らしいよそおいの人たちが三々五々出入りしている。

サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会
(フランス人たちの聖者ルイ教会)
これもまた長い名の教会だが、フランス人たちの聖者ルイ、すなわち、十字軍をひきいて二度も地中海を渡ったあげく、とうとうチュニジアでペストにかかって死んだ十三世紀のフランス王にささげられている。
そういう名だからここでフランス人が集まるようになったのかどうかは知らないが、この教会はローマにいるフランス人カトリック信者たちの集会所にもなっていて、となりにはフランス語の書籍が買える店もある。
ローマで勉強していたころは、なんどか足を運んだことがあったが、この教会には一度も足を踏み入れたことがなかった。
教会の奥まった祭壇のひとつに、カラヴァッジョの『マッテオの召出し』という有名な絵があることを知ったのも、ごく最近のことだ。
キリストの十二人の使徒のひとりマッテオは、人にいやしまれる収税人だった。
その彼のところに、ある日、イエスがはいってきて、ついてこい、という。
彼はたちどころに「なにもかも」捨ててイエスに従ったと聖書にはある。
その呼びかけの場面をえがいた十六世紀の作品で、一見の価値がありと友人が教えてくれた。

カラヴァッジョという画家の作品をはじめて見たのは、ローマの学生時代から何年もあと、ミラノのアンブロジアーナ美術館で出会った彼の静物画だった。
横長の画布にシンメトリカルな構図で、こぼれるように籠にもられた果実が、黄色の勝った色調で描かれていた。
近代静物画の草分けといってよい作品なのだそうだが、歴史的、あるいは宗教的な画題しか描かれなかった時代に、果実という日常的なものを中央に据えた構図はたしかにめずらしかったのだろう。
でも、当時の私にはごく平凡な静物としか見えなかったし、それ以上の興味をさそわれる絵画というのでもなかった。
彼の本名がミケランジェロ・メリージだというのは、そのとき覚えたし、カラヴァッジョというのは、この画家が生まれた町の名で、ミラノの東、二、三十キロのところにあることも車で走っていてぐうぜん知った。
はてしなく広がるポー河の平野の、なんということはない小さな町だ。
もしもその日、教会の扉がこれまでとおなじように閉ざされていたのだったら、私はそのまま通りすぎていただろう。
二十人ほどの旅行者の群れが出てくるのを見て、気持ちがうごいた。
せっかく開いているのなら、カラヴァッジョを見て行こう、ぐらいの軽い気持ちだった。
入っていくと、『マッテオの召出し』がある左手の祭壇は、窓になっているはずの壁面も二幅の絵でふさがれているために、外光が完全にさえぎられて、まっ暗なものだから、壁にとりつけた鉄製の小箱に二百リラのコインを入れると、ぱっと照明がつく仕掛けになっている。
祭壇を幾重にもとりまいた見学者たちが神妙にガイドの説明に耳を傾けているので、私はうしろで待つことにした。
カラヴァッジョの絵は、祭壇をかこむようにして三点、どれも使徒マッテオの生涯の、とくに劇的な場面を描いたものだ。
三枚の絵をぐるりと見まわしたとき、まるで見えない手にぐいと肩を押されたみたいに、『マッテオの召出し』とよばれる絵だけが、私をひきつけた。

レンブラントを思わせる暗い画面の右手から一条の光が射していて、ほぼ中央にえがかれた少年の顔を照らしている。
一瞬、その少年がマッテオかと思ったほど、光に曝された顔の白さが印象的だった。
もっと近くから見たい。
そう思った途端、照明が消えた。
二百リラ分の観覧が終わったのだ。
観光客がざわめいて、だれかがもう一回コインを小箱に入れる音がした。
そういうことがなんどか繰り返されて、そのたびに、見物人がざわざわと入れかわった。
こんどこそ前に出ようと思うのだが、団体客の壁にはばまれて、私はいつもうしろにとりのこされる。
数回、そういう具合だったので、それ以上そこにとどまるのをあきらめた。
ホテルから遠くないのだから、と私は思った。
ローマを発つまでに、もういちど来ればいい。
できることなら、だれもいない時間に、ひとりで絵のまえに立ちたかった。
教会を出ると、雨はほとんどやんでいた。
ぽっと明るみのもどった歩道に下りたときはじめて、私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。
(pp.205-208)
『トリエステの坂道』 著者・須賀敦子(すが あつこ) みすず書房
1996年5月20日 第4刷発行
【デンマン注】
読み易いように改行をたくさん加えました。
また、小百合さんに注意を促すために赤字で強調した箇所があります。
しかし、文章自体には手を加えていません。
上の写真は本の中にはありません。僕が加えたものです。

デンマンさん!。。。これは。。。これは。。。須賀敦子さんのエッセーの一部でござ~♪~ますわね?

そうですよう。でも、あまり興奮しないでくださいよう。卑弥子さんが『ロマンポルノ第5部』を読ませて欲しいと涙を流して頼むので、僕も書かない訳にはゆかなくなってしまったのですよう。
じゃあ。。。もしかして。。。あのォ~。。。エロい事まで書くのでござ~♪~ますか?
やだなあああぁ~。。。卑弥子さんは、すぐにエロい事と結び付けてしまうのですね。今日はエロい事には、まったく触れないのですよう。
あのォ~。。。全然。。。まったく触れないのでござ~♪~ますか?
そのように急につまらなそうな表情を浮かべないでくださいよう。んも~~
。。。んで、どういう事について書くのでござ~♪~ますか?
卑弥子さんにも僕の感じた衝撃的な感動が理解できるだろうか?。。。僕はそう思って須賀敦子さんの本の中から上の部分を引用したのですよう。
つまり、小百合さんにも同じようにして『ロマンポルノ第5部』の中で、ご説明なさるのでござ~♪~ますか?
そうですよう。
。。。んで、上の引用の中に、その感動の部分があるのでござ~♪~ますか?
あるのですよう。
どこでござ~♪~ますか?
やだなあああぁ~。。。とぼけないでくださいよう。卑弥子さんは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している准教授なのですよう。僕が何も言わなくても上のエッセーを読めば、どこに感動の部分があるか判るでしょう?
いいえ、判ったようで判りませんわ。赤字にした部分をデンマンさんは強調していますけれど、それだけで感動しろ!とおっしゃっても感動できるものではござ~♪~ませんわ。
分かりました。じゃあ、卑弥子さんも感動できるように分かりやすく説明しますよう。そもそも、僕がどうして須賀敦子さんが書いた本を手に取ることになたのか?そこから説明する必要があるようです。
。。。んで、どうして須賀敦子さんの本を読みたくなったのでござ~♪~ますか?
そこですよう。。。上のエッセーの中にも次のように書いてある。
三枚の絵をぐるりと見まわしたとき、
まるで見えない手にぐいと肩を押されたみたいに、
『マッテオの召出し』とよばれる絵だけが、
私をひきつけた。
僕が須賀敦子さんの本を読みたくなったのは、まさに「見えない手にぐいと肩を押された」からですよう。
その「見えない手」というのは、一体どなたの手だったのでござ~♪~ますか?
小百合さんの手ですよう。
[491] Re:小百合さんのために作った『夢とロマンの軽井沢』のサイトに、たくさん記事を書いて、もっと読み応えのあるサイトにしますからね。 \(^_^)/キャハハハ。。。
Name: さゆり E-MAIL
Date: 2009/01/20 22:54
(バンクーバー時間: 1月20日 午前5時54分)

デンマンさん!
そこに 座っていたら ダメです。
もっと外を歩いて下さい。
どこかの なんとか老人になってしまいますよ。
『Re:「夢とロマンの軽井沢」のサイト (2009年1月20日)』より
これは小百合さんが今年の1月20日に書いたメールですよう。僕は同じように小百合さんの用事で去年の12月30日にTD銀行に歩いて行ったのです。
つまり、小百合さんがデンマンさんに、できるだけ歩くようにとおっしゃっていたからでござ~♪~ますか?
そうですよう。TD 銀行に歩いて行ったあとでバンクーバー市立図書館に、更に歩いて行きました。

そこで日本語の本を10冊借りてきたのでした。

僕が借りた日は、当然のことですが、12月30日。TD銀行まで歩いて行った日です。
。。。んで、どうして須賀敦子さんの本を読もうと思ったのでござ~♪~ますか?
日本語図書の本棚で、まず目に付いたのが青枠で囲んだ「須賀敦子のミラノ」だったのですよう。小百合さんの見えない手が僕の肩をぐいと押して、その本の前に立たせたとしか言いようがないのです。

実は、須賀さんの本と言えば赤枠で囲んだ「トリエステの坂道」しか僕は知らなかった。「須賀敦子のミラノ」という本は読んだことが無い。須賀さんが書いたのだと思ったら大竹昭子さんと言う人が書いている。
それで興味を持って借りる事にしたのでござ~♪~ますか?
そうです。写真がたくさん貼ってある。久しぶりに「トリエステの坂道」も読もうと思って、それも借りた。そうしたら、須賀さんが共著で書いた「ヴェネツィア案内」という本も目に付いたので、それも借りてきたのです。
「トリエステの坂道」は何度も読んだのでござ~♪~ますか?
初めて僕がこの本を読んだのは2003年でした。それから3度か4度読んだでしょうか。。。去年の1月に短い書評を書きました。
■ 『「トリエステの坂道」 読後感』
(2008年1月11日)

この写真の中の人物は須賀さんとイタリア人の夫・ぺッピ-ノさんですよう。1967(昭和42)年に御主人は41歳で亡くなりました。
まだ若いのに。。。須賀さんは力を落としたことでしょうね?
そうですよう。その時、須賀さんは、まだ38歳でした。僕が日本で暮らしていた時には、もちろん、須賀さんを知りませんでした。須賀さんが日本語で書いた自分の本を出版したのは1990(平成2)年です。『ミラノ 霧の風景』と言う本でした。その年、須賀さんは61歳でした。
デンマンさんは、現在でも須賀さんが生きていると信じていたのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。「須賀敦子のミラノ」の本に略年譜があって、それを読んで須賀さんが1998年3月20日に心不全で亡くなっていた事を知ったのです。69歳でした。つまり、2003年に僕が初めて須賀さんの『トリエステの坂道』を読んだ時には、須賀さんはすでにあの世の人だったのですよう。生きていると思い込んでいた人が、すでに長い間あの世の人だった、と言う事実を知るのは奇妙なものです。小百合さんの用事が無かったら、今でも僕は須賀さんが生きていると思い込んでいたでしょう。
それで、須賀さんの冥福を祈るようにして『トリエステの坂道』を再度読んでみたのでござ~♪~ますか?
そうです。しみじみと読み直しました。それまで、それ程印象が強くなかった章が、衝撃的な意味を持って僕の目の前に現れたのですよう。
それが、このページの冒頭に引用した「ふるえる手」というエッセーなのでござ~♪~ますか?
そうですよう。あっ。。。これだ!僕は、そう思いました。小百合さんのために『ロマンポルノ第5部』の中で、もう一つエピソードを書こう!
でも。。。デンマンさんは衝撃的な感動とおっしゃいますけれど、上のエッセーを読んでもあたくしには、それ程の感動は感じられないのでござ~♪~ますわ。
そういう事って良くあることですよう。須賀さんは次のように書いている。
ぽっと明るみのもどった歩道に下りたときはじめて、私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。
著者の須賀さんにとっては、メチャすっご~い感動だったのですよう。
でも、あたくしには、その感動が伝わってこないのですわ。それは、なぜなのでござ~♪~ましょうか?
須賀さんが味わった感動を理解するには、実は、次の部分も読む必要があるのです。同じエッセーの後半部です。