【墓を訪れる三人のマリア】バルトロメオ・スケドーニ
今年の復活祭は、4/1でした♪
キリスト教にあまり興味のない方でも、今から二千年くらい昔にイエス・キリストという人がいて、なんか十字架にかかって死んだあと、三日後に復活したらしい……それがほんとかどうかは知らんけどwwといった噂(?)は聞いたことがあるのではないでしょうか(^^;)
そして、毎年大体四月くらいになると、イースターがどうのとか、イースターエッグ、イースターバニーがどうこう、え?不思議の国のアリス?みたいな話を、日本でもなんとなく聞きますよね。
わたしも詳しく調べてないのでアレなのですが(ドレ?笑)、イースター(復活祭)はクリスマス同様、異教的な教えが混ざってるところがあると思うので、守り方としてどうなんだろう……って思ったりもするんですけど、今回はそうした細かい事柄について論じようということではなく。。。
そういえば、結構ずっとイエスさまの血の贖い、イエスさまが十字架で血を流されたのが自分のためであったと告白するなら、その人の罪は赦される……的なことを書いていながら、イエスさまが十字架にかかって三日のちに甦られたという、復活のことについてはあまり書いてこなかったような……と思ったもので、ノーマン・ジュイソン監督の「ジーザス・クライスト・スーパースター」について、ちょっと取り上げてみようと思いました♪(^^)
これも、映画やミュージカルなどを見たことなかったとしても、「ジーザス・クライスト・スーパースター」っていうタイトルだけは知ってる方、とても多いと思います。
わたしが見たことあるのは映画だけなんですけど、ジーザス・クライストっていうのはイエス・キリストの英語読みで、カエサルのことをシーザー(サラダ?殴☆)って言ったりするのと同じ感じですよね、たぶん。。。
そんで、映画の「ジーザス・クライスト・スーパースター」は、最後にイエスさまのことを裏切ったユダ視点で語られていたと思うんですけど、イエスさまがなんというか、救世主(メシア)というよりも、ただの詐欺師というか、宗教的ペテン師っぽく感じられるような作りだったように記憶してます(^^;)
音楽のほうも素晴らしく、映画やミュージカルとしては出色の出来映えと思うのですけれども(わたしも大好きです)、ただ、映画のお話として、イエスさまが十字架にかかったところで終わってしまうんですよね†
つまり、もしその後イエスさまが三日後に甦らないなら――聖書のもっとも大切なメッセージが抜かれるということになってしまうので、自分的にちょっとどうなんだろう……と思ったというか
いえ、欧米の方にとっては信仰を持っている・持っていないに関わらず、イエスさまの生涯についてなど、知っているのが当たり前っていう前提があるのでいいのかもしれませんが、日本でミュージカルなどを見た場合……何か誤解が生じるんじゃないかなって、なんとなく心配になりました(^^;)
わたしが自分がクリスチャンになる前に、よく知らないながらもキリスト教に持っていたイメージとして、十字架にかかって三日後に甦ったとかいうのは、半分嘘みたいなものだろうということと、あと、このイエス・キリストが世界の終末の時には雲に乗って自分の信徒だけを助けにくる……という、なんとなく噂で聞いた事柄があり、ここだけ取ってみてもキリスト教の神が真実の神だとか、結構なところ「笑わせんなww」みたいに思ってたところがあると思います。。。
いえ、一番気に入らなかったのは「自分を信じてる人だけを救う」という、神とは思えぬ心の狭さ、そこだけ取ってみてもキリスト教の神は本当の神などではありえないと信じるに足る証拠みたいにすら感じていたと思います(あと、「嫌いなのよねー、そーゆー選民思想☆」みたいにも思ってたと思う)。
前にもどこかで同じこと書いた気がするんですけど、アメリカであるアンケートを取ったところ「イエス・キリストの再臨」、つまり、「イエス・キリストが世界の終わりの日に雲に乗ってやってくる」と信じている人は、60%を越えていたそうです。
いえ、普通に考えて、死んだ三日後にイエスは甦っただの、イエス・キリストは世界の終わりの日に雲に乗ってやって来るだの……「嘘くせー☆」とか「馬鹿じゃね?」って感じるのが普通のような気がしてなりませんよね。。。
>>もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
(コリント人への手紙第一、第15章19~26節)
また、イエスさまが来たるべき終末の日に雲に乗ってやって来られることについては、
>>だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が太陽と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
(マタイの福音書、第24章29~31節)
>>また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人のような方(イエス・キリスト)が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。
「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから」
そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
(ヨハネの黙示録、第14章14~16節)
とあるわけですが、「時」が来て、刈り入れの時が訪れると……それまでの間に地上には麦と毒麦とが混合して生えている状態であったにしても、神さまは御自身が大切にされる者(麦)を刈り取り、恵みによって天国へと連れていってくださいます。
それは、地をふるいにかけて、良い者と悪い者を分けるようなもので、イエスさまは御自身の名を信じる者だけを「確かにこの者はわたしの者である」として、そのようなしるしある者だけを御自身の天の都へと連れていってくださるという約束でした。
そして、この約束を信じる者、つまりはイエスさまが神の御子であることを告白し、聖書を通してイエスさまの教えられたことを最後まで忠実に守る者、イエスさまが十字架にかかった時に流された血が自分の罪の赦しであることを信じる者、またイエスさまが十字架におかかりになって三日後に復活されたことを信じる者だけが――神さまにあって「しるしある者」と見なされるのです。
もちろん、「何故それが神の教えなのだ」といったように思われる方のほうが多いかもしれません、もしかしたら。けれども、この方を信じていさえしたら救われるというのは……物凄く苦行を積んだら天国へ行けるとか、善行を山のように積んだら天国へ行けるということでなしに、それこそが神さまのお定めになった「もっとも簡単な、誰もが天国へ行ける恵み」ということなのです。
どうか、この福音の真理にすべての人が耳を傾け、天国への魂の切符を手に入れられるようにと願います
それではまた~!!
今年の復活祭は、4/1でした♪
キリスト教にあまり興味のない方でも、今から二千年くらい昔にイエス・キリストという人がいて、なんか十字架にかかって死んだあと、三日後に復活したらしい……それがほんとかどうかは知らんけどwwといった噂(?)は聞いたことがあるのではないでしょうか(^^;)
そして、毎年大体四月くらいになると、イースターがどうのとか、イースターエッグ、イースターバニーがどうこう、え?不思議の国のアリス?みたいな話を、日本でもなんとなく聞きますよね。
わたしも詳しく調べてないのでアレなのですが(ドレ?笑)、イースター(復活祭)はクリスマス同様、異教的な教えが混ざってるところがあると思うので、守り方としてどうなんだろう……って思ったりもするんですけど、今回はそうした細かい事柄について論じようということではなく。。。
そういえば、結構ずっとイエスさまの血の贖い、イエスさまが十字架で血を流されたのが自分のためであったと告白するなら、その人の罪は赦される……的なことを書いていながら、イエスさまが十字架にかかって三日のちに甦られたという、復活のことについてはあまり書いてこなかったような……と思ったもので、ノーマン・ジュイソン監督の「ジーザス・クライスト・スーパースター」について、ちょっと取り上げてみようと思いました♪(^^)
これも、映画やミュージカルなどを見たことなかったとしても、「ジーザス・クライスト・スーパースター」っていうタイトルだけは知ってる方、とても多いと思います。
わたしが見たことあるのは映画だけなんですけど、ジーザス・クライストっていうのはイエス・キリストの英語読みで、カエサルのことをシーザー(サラダ?殴☆)って言ったりするのと同じ感じですよね、たぶん。。。
そんで、映画の「ジーザス・クライスト・スーパースター」は、最後にイエスさまのことを裏切ったユダ視点で語られていたと思うんですけど、イエスさまがなんというか、救世主(メシア)というよりも、ただの詐欺師というか、宗教的ペテン師っぽく感じられるような作りだったように記憶してます(^^;)
音楽のほうも素晴らしく、映画やミュージカルとしては出色の出来映えと思うのですけれども(わたしも大好きです)、ただ、映画のお話として、イエスさまが十字架にかかったところで終わってしまうんですよね†
つまり、もしその後イエスさまが三日後に甦らないなら――聖書のもっとも大切なメッセージが抜かれるということになってしまうので、自分的にちょっとどうなんだろう……と思ったというか
いえ、欧米の方にとっては信仰を持っている・持っていないに関わらず、イエスさまの生涯についてなど、知っているのが当たり前っていう前提があるのでいいのかもしれませんが、日本でミュージカルなどを見た場合……何か誤解が生じるんじゃないかなって、なんとなく心配になりました(^^;)
わたしが自分がクリスチャンになる前に、よく知らないながらもキリスト教に持っていたイメージとして、十字架にかかって三日後に甦ったとかいうのは、半分嘘みたいなものだろうということと、あと、このイエス・キリストが世界の終末の時には雲に乗って自分の信徒だけを助けにくる……という、なんとなく噂で聞いた事柄があり、ここだけ取ってみてもキリスト教の神が真実の神だとか、結構なところ「笑わせんなww」みたいに思ってたところがあると思います。。。
いえ、一番気に入らなかったのは「自分を信じてる人だけを救う」という、神とは思えぬ心の狭さ、そこだけ取ってみてもキリスト教の神は本当の神などではありえないと信じるに足る証拠みたいにすら感じていたと思います(あと、「嫌いなのよねー、そーゆー選民思想☆」みたいにも思ってたと思う)。
前にもどこかで同じこと書いた気がするんですけど、アメリカであるアンケートを取ったところ「イエス・キリストの再臨」、つまり、「イエス・キリストが世界の終わりの日に雲に乗ってやってくる」と信じている人は、60%を越えていたそうです。
いえ、普通に考えて、死んだ三日後にイエスは甦っただの、イエス・キリストは世界の終わりの日に雲に乗ってやって来るだの……「嘘くせー☆」とか「馬鹿じゃね?」って感じるのが普通のような気がしてなりませんよね。。。
>>もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
(コリント人への手紙第一、第15章19~26節)
また、イエスさまが来たるべき終末の日に雲に乗ってやって来られることについては、
>>だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が太陽と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
(マタイの福音書、第24章29~31節)
>>また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人のような方(イエス・キリスト)が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。
「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから」
そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
(ヨハネの黙示録、第14章14~16節)
とあるわけですが、「時」が来て、刈り入れの時が訪れると……それまでの間に地上には麦と毒麦とが混合して生えている状態であったにしても、神さまは御自身が大切にされる者(麦)を刈り取り、恵みによって天国へと連れていってくださいます。
それは、地をふるいにかけて、良い者と悪い者を分けるようなもので、イエスさまは御自身の名を信じる者だけを「確かにこの者はわたしの者である」として、そのようなしるしある者だけを御自身の天の都へと連れていってくださるという約束でした。
そして、この約束を信じる者、つまりはイエスさまが神の御子であることを告白し、聖書を通してイエスさまの教えられたことを最後まで忠実に守る者、イエスさまが十字架にかかった時に流された血が自分の罪の赦しであることを信じる者、またイエスさまが十字架におかかりになって三日後に復活されたことを信じる者だけが――神さまにあって「しるしある者」と見なされるのです。
もちろん、「何故それが神の教えなのだ」といったように思われる方のほうが多いかもしれません、もしかしたら。けれども、この方を信じていさえしたら救われるというのは……物凄く苦行を積んだら天国へ行けるとか、善行を山のように積んだら天国へ行けるということでなしに、それこそが神さまのお定めになった「もっとも簡単な、誰もが天国へ行ける恵み」ということなのです。
どうか、この福音の真理にすべての人が耳を傾け、天国への魂の切符を手に入れられるようにと願います
それではまた~!!
予言書を発見しました、
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