熊野古道もいよいよ紀伊路の終点を迎えます。
少し前あたりから、車で現地まで行くたびに、
長い距離を走っていると
遠くまで歩いたことを実感するようになりました。
八軒家浜から始まって
ここまで優に160kmは超えているでしょう。
萩往還250キロレースでいうと
鯨墓を折り返して
二回目の仙崎に到着するくらいです。
(最近コースは変わりましたが)
なので必死で走れば約丸一日の距離ですが、
2013年3月から歩き始めて、
ここまで全部日帰りの飛び飛び歩きで
約2年間を費やしました。
書いたブログは全部で116話にもなります。
一話あたり原稿用紙3枚分くらいはありますから、
文字だけで合計350枚くらいの
記事を書いたことになるはずです。
その間にはいろんなことも学びました。
地蔵、神社仏閣、地名の由来などは
かなり詳しくなったと思います。
そしてそれらの知識と経験は
熊野古道以外のコースを歩くときにもにも役に立って、
毎回の歩行をとても楽しいものにしてくれています。
最終目的の熊野まではまだ距離がありますが、
ここでひと区切りを迎えるにあたり、
熊野のお導きに感謝せずにはおれません。
ではその一区切りとなる田辺までの区間について、
紀伊路最後の物語をはじめましょう。
歩いたのは桜もとうに終わったGW直前。
紀伊田辺の駅の
近くのコインPに車を停めて
電車で芳養まで戻り歩きはじめました。
前回の終点である一里塚まで行くと、
前は葉の何もついていない
奇妙な形のエノキが立っていましたが、
ひと月後にはほらこの通り。
絶え間ない命の営みを感じますねえ。
ここから42号に合流して
しばらく歩きますと、
「牛の鼻」
という場所に到着します。
そこには地蔵が祀られていました。
いわれには諸説あります。
牛の形をしたほこらがあったとか
そんな岩があったとか。
案内には「ひとつ目小僧伝説」がある
と書かれてありましたので、
かなり調べてみましたが
詳細はわかりませんでした。
この先の古道の途中で判明するでしょうか。
名前からして、海に突き出た場所のような
感じがしますねえ。
どんな地形がこういう名前になったのか
とキョロキョロ見回してみましたが
この後ろの松林がどうも怪しい気がします。
牛の鼻の先ですから
「牛の舌」?まさかね牛タンじゃあるまいし。
今は、こうして祠に地蔵を祀ってあります。
芳養漁港にも「牛の鼻」の灯台がある
と記載されている地図もあります。
また、昔一揆の際に大勢の死人が出て、
漁港の整備の際に牛の鼻から
大量の人骨が出てきたという記述もありました。
どうも、「牛の鼻」というのは
スポットが定まらず、
なんとなく漠然としています。
もうひとつ、この牛の鼻には
その昔、毎年御坊の熊野(いや)神社から
大渡御がやってきていたそうで、
その史実を示す証しとして
ここに石碑が建てられています。
いずれにしても史跡としては
もう少し歴史的考察や
施設の整備があればいいな
と思う場所でした。
ここからは芳養漁港を進みます。
右奥に見えている灯台があるあたりにも
「牛の鼻」と地名が付けられているようです。
さらに漁港から海沿いに進んでいきますと、
松林に出ます。
沖に見えているのは、
このあと回っていく天神崎の元島です。
この松並木には、残念な記憶があります。
まだ高速道路が通っていないときに、
42号が大渋滞し、
白浜から帰るときに
この松並木のところから
延々と渋滞していたという記憶です。
今なら抜け道もかなりわかるのに
当時はここで超うんざりしたものです。
その頃はナビもなかったのですが、
もしあったとしたらあまりの渋滞に
「到着予想1年後」
とか出てたかもしれません。
まあそれはないでしょうけど・・・
それくらいべったりと渋滞していた記憶と
この松並木の景色がかぶります。
熊野に向かう人は
浜で海水で身を清める
という禊をしたそうです。
それを「水垢離」ならぬ「潮垢離」というそうです。
松並木の中にあった石碑を見ると、
潮垢離場と書かれてありますが、
ここはそんな熊野詣の人の禊場ではなく、
芳養八幡神社の潮垢離場だそうです。
この神社の例祭が毎年11月3日に
行われるのですが
その宵宮にここまで出かけてきて
潮垢離をするそうです。
季節的には寒いよなあ。
どんな潮垢離をするのでしょうか。
ほかにも例祭では流鏑馬(やぶさめ)などが行われ、
県の文化財に指定されているそうです。
渋滞の時にうんざりと眺めていた松林に、
こんないわれが潜んでいたんですねえ。
知っていたら、
渋滞ももう少し楽しく思えたのに
とあの時の記憶がよみがえります。
しみじみと続く。