おさむのブログ

日常考えていることや、感じた事を書いています!!

思風塾10月例会

2012年10月06日 18時13分35秒 | 自分のこと
思風塾10月例会
このメモは、思風塾で学んでいるエッセンスをまとめたものですが、往々にしてぼくの主観が入っておりますので、先生の言葉そのものではないことをご了承ください。

≪根源的統一の論理学≫
弁証法との決別→古い哲学(マルクス・唯物論的弁証法 ヘーゲル・観念論的弁証法)等は、物欲金欲至上主義、競争こそ成長発展の原理であることを論理的に解明した。これらが現実に応用されることによって、現代の社会が成立していった。・・・・・・んんんん、弁証法と一口に言っても歴史的に様々な展開があって、おっしゃっていることがわしにはさっぱりわからん。というか、歴史的学問的な背景はぼくにとってどうでもよく、わかろうとも思ってないかぁ(笑)

理性的になることを原理とした社会によって、或いは合理化を良しとする社会を進めていくことによって近代文明は成立した。がしかし、精神的な病気が、自然破壊が、あらゆる問題が、深刻化した。癌でさえも、心因性によるものだと言われ始めている。理性社会による弊害が顕著となった。

現代人の心の叫び 『理屈じゃないこころがほしい。』

理性的にいくら満たされても、(モノがあっても、カネがあっても)心が満たされない。『こころの渇き』に、多くの人が気づき始めている。

『理性』とは、真理はひとつであるとする。矛盾を排除する。画一性を追求する。・・・・・ここはわかるぞー。(笑)だから戦争が起こる。だから争いが起こる。対外的にも、対内的にも。現代社会の問題の根源だわ。家づくりもまるでそう。不揃いなものはダメ、合理的でなければダメ、職人の技術のばらつきもダメ。(笑)

写真は、右側が『ヘーゲルの弁証法』による対立のしくみ。不完全な人間である以上、果てしない対立を繰り返さなければならない。左側が『根源的統一の論理』。無駄はない。不要なものはない。対立ではなく、相互補完関係・共存共生関係が明確に示されている。



≪対存在≫
光には影 男には女 右には左 北には南 高には低 善には悪・・・・・現象世界は相対立する関係性によって成り立っているのだから『必要』な存在である。
人間は『肉体』と『精神』という対立する関係性として、二元論的に考えられてきた。理性としての私と本能としての私という、対立した構造をつくってきた。弁証法的な自己分裂の人間観。人間とは有機的な存在であるのに、理性としての私と本能としての私という対立した考え方によって、いのちにゆがみが生じ、いのちが抑圧され、それがやがて病気の発症という結果にもなる。理性によって欲求や本能を作為的にコントロールするのが現代社会といえる。

理性と本能とはそもそも、『根源的統一の論理』からすれば相互補完関係であり有機的な関係性でなければならない。対立する関係性であってはならない。西洋的思想(価値観)から東洋的思想(価値観)へ。共存的互敬的心情による社会の実現。

現代は、理性だけでは解決できない問題に直面している。理性社会は感情や欲求や心というものを無視してきたのだから、感情や欲求や心を中心とした哲学、論理が必要。相異なるものを『対立関係』と考えるのではなく、『相互補完関係・共存共生』として考えるということが、これからの論理の基礎となる。

例えば、離婚の激増について。
価値観が違う、性格が違う、考え方が違うという価値観に立つ『対立』によって、離婚を選択する。これは理性の奴隷となった人間の姿である。『違う』ということは、自分にないものを相手が持っているということだから、そこに『相互補完・共存共生』として相手に学ぶことによってお互いが成長することができる。この考え方以外に離婚の激増は止められない。社会のあらゆる対立がその関係性の中にある。

相互補完・共存共生とは、受け身で控えめで消極的な姿勢を示すのではなく、より積極的で対等な関係・姿勢を示すもの。

≪宇宙の摂理≫
宇宙は、プラスとマイナスという関係性の中で対立をすることなく『ゆらぎながら』存在している。だから、宇宙に存在する万物は、宇宙の摂理から逃れることはできない。対存在が対立することは、宇宙の摂理に反することである。
長所と短所も然り。長所はいいけれど短所はダメというのは、宇宙の摂理に反する。長所を生かし、短所も生かしてこそ宇宙の摂理に従うのである。両方とも生かすのである。

人間として人間らしく生きるということは宇宙の摂理に従うことであるから、起こるすべての事象に意味と価値を見い出して生きてこそ、人間らしく生きるということなんだ。犯罪にも事故にも悪にもあらゆるネガティブな体験にも、意味と価値を見い出すんだ。『起こるすべての事象に』意味と価値があるんだ。これを真に腑に落として生きていくんだ。

・・・・・『いじめ』について先生のお話し。いじめる子も、いじめられる子も親の愛情の欠如・間違いによる被害者だ。いまの対策は、『いじめはあってはならない』として、いじめる子をなくそうとする・・・云々。いじめる子やいじめられる子がわるいのではなく、その親にすべて問題がある。いじめる子もいじめられる子も、被害者なんだ・・・と。でも考えてみたら、その親も被害者なんだよねー、そのまた親からの。どうしようもない悲しみや苦しみの体験を背負って生きているんだよねー。だからその連鎖を断ち切らない限り、いじめはなくならないよなー。
『いじめ』はあってはならないという考え方ではなく、いじめはあるんだ、あって当然なんだ、という視点に立つことによって早期発見・早期対策ができるようになる。『いじめ』に意味と価値があるんだ。これはほんとにそうだと思う。

『客観的』であるというものの見方は、『客観的』に物事をゆがめている、という事実。客観的に真理であるはずの科学が自然破壊・環境破壊を起こすという矛盾。リーマンショックを起こすという事実。『理性的』であるということは、『理性的』に物事をゆがめているという事実。間違いではない。偏っているのだ。・・・・・・んんん、、深い。

真実に近づく→主観的・客体的・客観的に統合して見つめてこそ、真実に近づく。

『恒常普遍』と『諸行無常』こそ、西洋と東洋の価値観の違いを如実に表す。西洋は普遍的唯一無二の真理を。東洋は変化し続ける真実を。

ヘーゲルは矛盾をなくそうとした。感性論哲学は『矛盾を生きる』。矛盾のない現実はない。→不完全を生きるということ。



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