大地の崩壊,水辺の蹂躙,そして原風景の喪失

2011年05月03日 | 日々のアブク
 さてと,現在ゴールデン・ウィークのマッタダナカである。 って,んなこと例によってワタクシには全く関係ないことなのでアリマスが。。。 では一体,このGWというのは誰に関係あるのだろう? それは恐らく,園児・児童・生徒・学生の良い子たち,それからこの現代ニッポン社会の主たる構成員(マジョリティ)であるところの大部分のお気楽極楽月給取り(サラリーマン),すなわち基本的に「時間割」に従って日々の生活を暮らしている人々,せいぜいそんな所じゃアルマイカ。皆さん,浮き世の煩悩をつかのま忘れてセイイッパイ連休を楽しんで下さい。

 ま,そんな御託はドーデモイイ。それよりも何よりも,東北地方一帯を襲った巨大地震の発生以来はや二ヶ月近くが過ぎようしている。福島第一原子力発電所の事故など,被害の全貌がいまだに不明で,また将来的な見通しもまったく読めないなか,それでも東北沿岸各地の被災地の復興に向けた営みは少しずつ進んでいるようだ。被害に遭われた皆さん,憂き世の風は辛く厳しいでしょうが,どうか心くじけずに強い気持ちを持ち続けて頑張って下さい! と,遠く離れた地から切に願わずにはいられない。 Faut vivre!

 以下,今回の東北大震災についての私的覚書なぞをほんの少しだけ,記しておくことにする。後出しジャンケン的なところは何卒御寛恕願いたく存じます。

 去る3月11日に発生した宮城県沖を震源地とするマグニチュード9.0の大地震およびそれによって引き起こされた大津波は,この現世においては所詮虫けらのような取るに足らぬ存在であるところの私ごときにも大きく深い悲しみをもたらした。さまざまな自然災害の有する蓋然性・唐突性・非情性,とりわけ津波の恐ろしさについてはこれまでにも理屈では重々判っていたツモリであった。けれどもまさか,あれほどまでに突如として多くの町や村,田畑や樹林,家並みや商店や工場や学校や,それからクルマやらバイクやらフネやらが一瞬のうちに脆くも打ち砕かれ,そして老若男女さまざまな人々のジンセイが凶悪な波間に木の葉のように藻屑のように翻弄されてしまったとは,まさに悪夢としか言いようがない禍々しい出来事だった。ハズカシナガラ,私の内部においてもボンクラ官邸におけると同様まったくの「想定外」のカタストロフだったのである。

 実は,今から20年以上も前のことになるが,某官庁の外郭団体により密かに行われた東京直下大地震を想定した防災シミュレーション研究,すなわち首都圏巨大地震の発生時における所管行政による指揮管理系統の初動体制ならびに報道機関による緊急避難情報伝達の発信等にかんするフローの事前検証,そういったヤヤコシ業務を少しだけ手伝ったことがあった。災害直後に想定されるさまざまな事故破壊,インフラ障害,社会経済活動の機能麻痺等々の個別発生事案をピックアップし,各事象の規模・重要度・緊急性を評価し,それらを踏まえた行政機関および報道機関による情報伝達の即時性・妥当性・万全性などを予測したわけである。私が関わったのはそのうちのごく一部で,テレビ・ラジオ等の電波報道メディアにおける緊急時の情報発信の仕方と,その裏付けとなる危機対応マニュアル等の整備状況をあらかじめ確認することであった。しかしながら,実際にいくつかのメディア担当に直接取材をおこなった結果,どの組織も巨大災害に対して事前にしっかりとした危機管理対応準備を講じているとは到底思われないオソマツな状態だった。電波メディアを代表する機関である天下のNHKにしたところが,こちらのアプローチがいわば非公式取材であったこともあってか,表向きは情報の秘匿性を理由に(実際のところは自らの不備発覚を恐れて?)ごく当たり障りのない曖昧かつ一般論的な回答でお茶を濁されてしまった。何よりも第一に担当者自身における巨大地震災害に対する基本的理解が不足していた。ライフラインの重要性については十分承知していたようだったが,個々の災害事象に対する認識はかなり甘く,例えば,地盤の液状化現象? それって,そんなに重要視すべき被害なのでしょうか? ってなモンであった(千葉県浦安市民は改めて怒って下さい)。

 以上のような話は,何分にもフタムカシ以上も前のエピソードである。阪神淡路大震災よりも10年近く前,商用インターネットが成立するよりもずっとずっと以前の話である。誰にだって未熟な時期はありましょう。あれから幾星霜,現在では電波メディアの皆さんもシッカリした認識,シッカリしたマニュアルをお持ちのことでしょう。そもそもテレビ局なる高度情報発信企業は優れて高学歴の人材を豊富に抱えた組織なわけですから。。。 などと思いたかったのだケレドモ,少し前にインターネットのニコニコ動画で,今回の大地震発生時における在京テレビ局各社の緊急地震速報の報道状況をリアルタイムで並列的に(マルチ画面で)流している映像を見る機会があったが,何とそれによれば,NHKを除く民放各社の報道体制はナサケナイくらいにダメダメであった。即時性ゼロ,的確性皆無,場当たり的対応の醜態暴露,まさに報道機関の中枢自体が巨大地震により壊滅状態になってしまったかのごとしであった。要するに,ボクは原子力に詳しいんだ!と宣っていたスッカラカン宰相と同レベルだったのであり,彼らメディアが現政権を真正面から批判できないのもムベナルカナ,ということを改めて納得した次第である。それにしても,この20数年のあいだ君ら方は一体何をしておったのか!身過ぎ世過ぎでその場限りの視聴率抗争に日々明け暮れていただけなのか。もし私がカタヤマヨシヒロであったなら民放全局の放送免許を即刻取り上げたいくらいである,フントニモウ! ま,そったらことは兎も角として。

 大地震・大津波が発生した当初は,茅屋に蟄居して絶えずテレビ,インターネット,新聞等のニュース動向を注視しながら,今の私に何が出来るだろう?どのような支援が可能だろうか?と自問する日々であった。それは大変に辛く重い日々であった。ただ祈るだけでいいのか? 義援金を供するだけでいいのか? 節電・節約に努めるだけでいいのか?

 限りなくオロカなる現政権は,初動対策の不備をその後もずっと引きずったまま,被災された人々に対する誠実な対応を碌すっぽ講じることも出来ずに,ただひたすら自己保身に精を出し,相も変わらぬ醜態をさらし続けながら現在に至っている。実にクソッタレ政権と言うべきである。レンホーだとかツジモトだとか,カイエダだとかエダノだとか,キタザワだとかタカギだとか,最近ではホソノだとかモナオだとか,ありゃ一体何なんだ。廃棄資材置き場に山積された不良品の土管か,無縁墓地の隅に捨てられた朽ちた卒塔婆の束か。あるいはバークレイ・レコードの廊下にたむろすヤル気のない掃除夫たちか(意味不明)。実にミットモナイ存在として映じるのみである。

 また,被災地から遠く離れた地に暮らす多くの国民,一般市民においては,被災者への思いをさまざまな支援,応援,激励というかたちで示しつつも,その一方で,とりあえずは日本全体の「経済を回す」ために出来るだけ早く「普通の生活」に戻ろうなんてことをぬかしておる者も少なくない。それは特にサラリーマン・マインド(=月給取り的根性)において顕著である。本当は今般の大震災を契機として改めて根底から考えるべきは現代文明の見直し,すなわちこれまで盲目的に容認し享受し隷属してきた現代サラリーマン社会および現代クルマ社会への異議申し立て(懐疑から否定へ!)なのだが,そのこと自体には目を塞ぎつつ,当面は「良きサラリーマン」「良き社会人」でありたいと願っているようなのだ。そのサラリーマン社会の頂点には例えば東京電力社長がいるわけなのだが,それを言っちゃオシマイだヨ!と皆さん暗黙に了解しているかのごときである。まことに《その真っ暗な巨きなもの》を動かすことはいつの時代にあっても頗る困難な所業である。

 私事ながら,岩手から宮城にかけての三陸沿岸地方は古くから大変に馴染みのある,というか個人的に思い入れの強い地域だ。今から40年以上も昔の学生時代,岩手県久慈市から釜石市にかけてのリアス式海岸に沿って友人と二人でリュック背負って1週間近くかけて貧乏徒歩旅行をしたことがあった。巨大防潮堤のあった田老町では長内川の河原にテントを張って一晩を過ごした。恐らくは不審者?と訝しく思われたのだろう,夕方,地元の老人がテントにやってきてキュウリの差し入れを受け,それとなくいろいろ話を聞かれた。また,陸中船越海岸のキャンプ地では,地元の不良青少年と意気投合して夜の酒盛り異文化交流を行ったりもした。ああ,そんなことも今では遠い記憶の彼方の出来事となってしまった。

 その後,1980年代初頭から20数年間にわたり,東北地方・太平洋沿岸の河川や内湾においてたびたび生物調査,環境調査を行ってきた。今回の被災地のなかでも釜石市(釜石湾),大船渡市(盛川下流域),陸前高田市(気仙川),南三陸町(志津川湾),石巻市(旧北上川河口部),名取市(名取川下流域),いわき市(鮫川)などは何度も繰り返し足を運んだ土地であり,あの川にも,この川にも,そしてあの海辺にも,この海辺にも様々な思い出が刻み込まれている。各地の漁協,役場,小中学校,民宿旅館など現地で世話になった方々も少なからずおられた。もし私にトルバドゥール(語り部)としての才がヒトカケラでも備わっているのであれば,そこから百千の魅力的で波乱に満ちた物語を紡ぐことも出来ただろう。大地震の発生以来,津波により被災・壊滅した市街地の変わり果てた姿をTV映像やネット配信された写真などで見るにつけ,涙が溢れるのを止めることができなかった。けれどもされども,ただ泣いているばかりでは始まらない。老体に鞭打ってでも自分に出来得る限りの支援をしたい,と,ここ暫くは微力ながら活動するように努めていた次第だ。

 ある夜の夢の中で,背負子に救援物資を積んでボッカをしている自分がいた。クルマの通行もままならない崩壊し寸断し瓦礫に埋もれた道路を慎重に一歩一歩踏みしめて歩きながら,スイマセン,何分にも非力な者ですから,食料とか水とかは背負えないんです。持ってきたのはクスリだけですけど,スイマセン,どうかこれで許して下さい。。。 などと心中弁明しながら被災地で作業をしている自分がいた。ミゾレ舞う薄暗い道をオロオロ歩いている自分がいた。この負い目は何だろうか。この贖罪感は何だろうか。それはすなわち,この高度に進化をとげ成熟・爛熟した物質文明のなかで,いまだハズカシゲもなく生き永らえている自らの存在に対する負い目,贖罪に他ならない。

 いま,宮澤賢治が生きていたら,今回の大震災に際してどのように対応しただろうか? その東北の地で,賢治先生は咄嗟にどのような行動をとっていただろうか? 最近ではそんなことをしばしば考える。されどもしかれども,羅須地人協会に弟子入りするには老いたる私の体躯はあまりにも脆弱であり,私の脳髄はあまりにも暗愚である。ゆえに我が悲しみはとどまるところを知らない。今そしてこれから先も,少しでも多くのシアワセが被災された一人一人のもとに届きますように!と,ただただ祈るばかりである。


   もしもおまへが
   よくきいてくれ
   ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
   おまへに無数の影と光の像があらはれる
   おまへはそれを音にするのだ
   みんなが町で暮らしたり
   一日あそんでゐるときに
   おまへはひとりであの石原の草を刈る
   そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
   多くの侮辱や窮乏の
   それらを噛んで歌ふのだ

   もしも楽器がなかったら
   いゝかおまへはおれの弟子なのだ
   ちからのかぎり
   そらいっぱいの
   光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ...

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