サトヤマ・サトヤマ (媚惑的な呪文) ナマネコ・ナマネコ

1999年12月10日 | サトヤマ,サトヤマ
 『里山再発見。人と自然との豊かなふれあい。忘れかけていた“ふるさと”の原風景。自然と一体化した暮しへの回帰.... 』 日々新聞を眺めていると,社説・コラム・社会面・家庭欄・地方版・投書欄と場所を問わず,そういった同工異曲の歌声が,何ともまぁ節操もなく紙面のあちこちから聞こえてくる。そして,かくのごときノーテンキな主張の数々を見聞するたびに,私は気が滅入り,苦々しい思いで満たされる。里山とともに暮している人々だって? 一体誰だい,それは? 古来より気候温暖で水と空気と陽光に恵まれ,地形的にも比較的穏やかで開放的かつ地味肥沃な土地に住まっていた,どちらかといえばかなり裕福な部類に属する百姓とその末裔たち。農耕民族の光と影,そのイートコ取り。ちょっと頭をひねって考えただけでも,指を折って単純計算しただけでも判りそうなものだ。ニホン全国1億2千600万人のうち,ロケーションとしての里山依存人口はざっと250万人,全人口の約2%(あ,特に根拠はありませんが)。これを三大都市圏に限ってみれば,1万人に1人くらいの割合,全体の約0.01%に過ぎなかろう(やはり根拠はありませんですが)。さらに,それらのうちでいわゆる里山環境のスバラシサを日々満喫している選ばれし方々,ココロもフトコロもリッチな方々(これを里山ビバリーヒルズの住人と申してもよい),そのような方々は果たして何人程度おられるのだろうか? 改まって答えを出そうという気も起きない。

 ヤギューヒロシ,フジカドヒロシ,しーだぶりゅーにこる,あるいは少々年代が下ってイマモリミツヒコ,けびんしょーと等々(敬称略),そういった内外のユーメージン,いうところの環境貴族の面々がいろんなメディアに登場してサトヤマ・サトヤマと媚惑的な呪文を唱えるものだから(私には彼らの呪文がナマネコ・ナマネコと聞こえる),常日頃,世智辛い世間の風に吹かれている無名人・一般人・凡人としての都市生活者たちは,あるいは西日射す草臥れたアパートの一室などで,ないしは碌々陽も射さない傾きかけた文化住宅の台所などで,もしくは少なくとも外観だけはピッカピカに輝いているコンペイトウ・ハウスのリビングルームなどで,ついつい錯覚してしまうのだ。あー,何だかとっても気持ちよさそうな暮し向きがあるもんだなー。「高原別荘地での瀟洒なログハウス暮らし」などはとても覚束ないが,「里山に囲まれたつつましい田園住宅暮らし」なんてものだったら,自分らにも何とか実現可能かなー,なんてね。

 もっとも,大多数の人々にとっては束の間の夢物語のレベルでとどまるのであろうが,なかには乗せられて本気になって生活基盤ないし生活拠点のリセットを実行するお調子者もきっと出てくるに違いない(全体の0.001%くらいか。当然根拠はないが)。つい最近では,とうとう我が町のような所でも青年会議所なぞが地域の子供らに呼びかけて『里山探検隊』なるものを組織し,エライ先生の御指導のもと,里山の重要性,里山保全の意義を学習するといった結構な催しを開いたそうだ。ったく,ガキンチョはガキンチョ同士で勝手に裏山で遊ばせておけばよかろうに。時代の風潮ってものは,まことに罪作りなもんである。

 里山礼賛? ヲイヲイ,羅須地人協会じゃないんだからね。「里山」なるものの存在を生態系のひとつのタイプとして評価することと,環境劣化の著しい都市圏に暮らす市井の人々が現在の生活環境から逃げ出すことにより実生活の改善を目指すこととは,まったく別問題として考えなければいけないよ。きょう日,私なぞは「里山」という言葉(ないし概念)を見聞するたびに,眼前にニンジンをぶらさげられた馬が見果てぬ夢を追いつづけているかのごとき情景をついつい思い浮かべてしまうほどだ。舞台裏でニンジンを繰っているのは誰か。大手デベロッパーの大都市圏マージナルゾーン開発事業に伴う新戦略か。貧乏自治体の国庫補助金獲得に向けての布石か。国際的投機シンジケートの極東進出に際しての都市基盤弱体化を図るための陰謀か,それとも単に地底人(byいしいひさいち)の逆襲への序章に過ぎないのか。(で,誰が馬じゃ?) 何だかよくわからんが,余計な深読みをすればするほど何やら宗教的意味合いすら帯びてくるような気さえする。いずれにしても,表層的に見ればトレンドの尻馬に乗ったメディアが作り上げた里山幻想。Impossible Dream. 砂上の楼閣。ドジョウの触覚,叙情の錯覚,首長の品格。要するに,嘘っぱちってことでしょう。

 それにつけても,「水はやっぱり自然の“本物"でなくちゃ飲めない」とか何とかホザいて,週末のたんびに「丹沢の名水を求めて」はるばる遠方から車に大量のポリタンクを積んでウチの近所までやってくる連中,こ奴らの厚顔無恥ぶりはいいかげん何とかならないだろうか。法治国家における法的取り締りの対象にはならないのだろうか。静かな山里(サトヤマではないぞ)に繰り返し繰り返し「バイ菌」を撒き散らしに来るような行為はいいかげん止めてはくれぬか。そもそも君ら方のやってることは,私どもから見ればそれこそ「枯葉作戦」みたいなもんですぜ。とっとと自分のホーム・タウンさ帰って「南アルプスの天然水」とか「六甲のおいしい水」でも高い金払って飲んでいるがよかろうさ(ヒゲオヤジ仲間の何タラ医師,アナタのことですってば)。

 なお,最後に駄目押し的に余計なことを申し添えれば,「里山」という概念は,当然ながら万人の普遍的な問題としてではなく地域ごとの個別的な問題として捉える必要があろうかと思う。ごく単純化して述べれば,以下のような視点からのアプローチが想定されよう。


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(1) 大都市圏内においては,一部の老人たちに対するノスタルジアとしての,大部分の都会っ子たちに対する新奇なフィールドとしての存在。いずれも,時空間的には日常生活に比較的近接しているが,社会資産の蓄積という点から見ると多分に経済活動のマイナス要素となりうる可能性が大きい。単なるオマケの場所,余分な場所,やがては飽きられ忘れられる気まぐれな遊びのフィールド。これについての行政側の対応としては,現在では尾羽打ち枯らしたかつての里山の残骸を苦労して拾い出して新たに箱庭的な「里山公園」を創出する,って位のことしか出来ないかな。

(2) 大都市圏からさほど遠からぬ農村地域においては,地域活性化の一手法として,観光客誘致地区(客寄せの撒き餌)としての伝統的なフィールドたりうる存在。加えて,自然レクリエーションの場,野外教育の場。行政サイドが出来ることは,アクセス条件,周辺観光要素等を加味して,そこそこに見栄えのよい土地を「里山体験地」として整備する位だろうか。

(3) 大都市との経済的関わりが希薄な本来の“イナカ"においては,荒廃した自然の一部を補修し,自然復元する場所。本多勝一老人が提唱するところのいわゆる“田園の聖域”。行政はそのような場所を「里山遺跡」として保存する。当然ながらそこに住まっている“原住民”と一緒に保存するしかないかな。

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 とまぁ,以上の雑駁なグダグダ論は全く手前勝手な思いつき,一時の酔狂に過ぎないわけであり,本心では,大都市圏に暮らす人々はサトヤマなんぞにうつつを抜かしていないで,他にもっと思いを馳せることが山ほどあるんじゃないかなぁ,って気は正直な所しております。例えば都市生活圏に組み込まれた“自然"の見直し,「カラスとの付き合い方」,「アオマツムシとの付き合い方」あるいは「ブラックバスとの付き合い方」なんてことの方がすこぶる身近な,深刻な問題ではないだろうか?
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