今日的なミュージック・シーンにおいて若者は大河の本流であり,中年は伏流地下水である

1999年12月24日 | 歌っているのは?
 今日的なミュージック・シーンなるものについての雑感を少々。

 比較的最近のことであるが,東北地方の小都市を所用で歴訪した折,駅前広場のそこここにたむろする高校生とおぼしき集団が,二人に一人はグレイだかラルク・アン・シエルだかダ・パンプだかドラゴン・アッシュだか,あるいはマックスだかモーニング娘だか太陽とシスコムーンだか,要するにそういったユーメージンの身なり風采に限りなく近似していることに驚き,そして改めて「世代」の活力,「文化」の共通一次といったものを実感し,翻ってそのような集団から遙か遠くにおいてけぼりをくっている自らの孤独な存在に多少の戸惑いを隠せなかった。

 確かにそれは「活力」といってよいと思う。よくよく丹念に観察すれば,フィギュアのみならずスピリッツまで正しく受け継がんと不断の努力を重ねているかのように思われた。彼ら彼女らをそのような行動生態に駆り立てるパワーの源は何か。いったいどのような将来を見据えて,繁華な駅前で嬉々として雀躍として,あるいは鬱々として悶々として日々を過ごしているのだろうか。将来なんて知ったことか,単なる一過性のハヤリ病に過ぎぬのだろうか。

 集団の中には,MDだかCDだかをイヤホンで聴きながら鼻歌を唄ったり,全身を揺すって盛んにスウィングしたりしている調子の良い青少年も少なくない。ミュージックに心を委ね,ミュージシャンに生活様式を委ねる帰依者の群れがそこに見てとれる。なかにはホッペの赤い,いかにも健康朴訥そうな地柄を隠せない子なども二,三混じっているわけであり,眺めているこっちの方が思わず涙ぐんでしまうような,それはある意味では切ない情景である。ジャガイモ転じてドラゴンアーッシュ! てな感じであります。

 もっとも,遠く過ぎ去った己が若年期を思い起こせば,多少なりともそんな気持ちを抱いていた時期がワタクシにもあったような気がする。そうさな,例えば未だティーンエージャーであった頃,まるで黄昏劇場とでもいうべき某地方都市の場末の映画館で,少々背伸びをしながら見たオードリー・ヘップバーンの『いつも二人で』のような映画。今にして思えばエエカッコシイイのメロドラマ。そんな耽美的ラブストーリーを,日常からやや遠く離れた異境の地で,いくぶん胸がしめつけられるような気分で眺めながら心ひそかに感じた思い。トキメキ&アコガレ。一方で,時代の奔流というか現実のオトナ社会の閉塞感に対して抱いていた言いようのない苛立ちと異議申し立て。ああ,本当の大人になるってことは,そういうことなのか。いつの日かやがて自分も大人になって,一人前の独立した人生ってやつを営んでゆかねばならないんだろうけれども,「良き人生」を送るのか「不本意な人生」を送るのか,それは神のみぞ知る,ってわけか。しょせん人生は商売のようなもんであり,恐らく成功者というのはごくごく一握りの限られた人間のような気がする。そして自分のメンタリティーからすれば,多分は積極的な負け組に与するに違いあるまい。うん,それで上等じゃないか。

 映画というあらかじめ入念に仕組まれた共同幻想を介して,人の心の機微,人生の機微が見知らぬ風景,見知らぬ生活にリンクする。大人社会に参入することに対する漠たる不安,若年特有の逡巡と憧憬の交錯する迷宮のなかで,そんな愚にもつかないことを考えていた。

 そして,それらの背景にはいつも歌が流れていた。ワタクシの場合,その歌はコニー・フランシスでありデビー・レイノルズでありデル・シャノンでありクリフ・リチャードであり,何ちゅうかバリバリ洋楽'60sであった。何故かフランシス・ルマルクなども聞いたような気がする。時代は確実に「ビートルズ化」「ボブ・ディラン化」していた頃であったが,そちら方面には深入りすることを意図的に避けていた。夜,布団の中にもぐりこんでイヤホンで聴くAMラジオ放送は,一種心の支えであった。どちらかといえば素直に感情移入することが少々困難な異国の別天地,人工天国,それを理性というか理屈でなかば強引に感性に移殖しようと試みる。生活を共有するのではなく生活に癒しをもたらしてくれる(と少なくとも当時は思っていた),私と決して同世代,同時代的ではない歌々。要するに少し背伸びをしながら近未来をシミュレートしていたのだ。

 そのようなミュージック・シーンにニッポンの歌謡曲の入り込む余地は,おあいにく様!まったくなかった。美空ひばりであれ都はるみであれ,北島三郎であれ森進一であれ,あるいは何たら御三家であれ,それらははっきりいって全て唾棄すべき存在であった(ま,生意気盛りでしたから)。しかり,まさに気分は当代の田舎高校生そのものではなかったか。

 爾来,年を経ること幾星霜,その間には何度も何度も反省の日々が訪れ,そしていろんなミュージックいろんなミュージシャンが近づいてはまた遠ざかっていった。サイモン&ガーファンクルとかギルバート・オサリバンとか,キャロル・キングとかベッチ・カルバーリョとか,小椋佳とか井上陽水とか,尾崎亜美とか倉橋ルイ子とか。それらの歌々は,ちったあ我が精神のコヤシにでもなったんだろうかなどと改めて考えると,恥かしながらすこぶる心許ない。

 今,街角で耳を澄ますと,聞こえてくるのは宇多田ヒカル,浜崎あゆみ,鈴木あみ,ミーシャ,広瀬香美などなど,元気のいい娘たちの歌ばかりだ。声の質や曲調に違いはあれ,いずれも近未来をまったく透視できない,まるで「輝ける現在」の諸断面を切り抜いたかのような,要するに刹那的な歌声だ。それらは極めて無国籍的である。といって,グローバリズムともローカリズムとも無縁である。なるほど時代は変わる。デモシカシ,いつの世も人の心は変わらない,とか思っていると,いやいや,ニンゲンのココロなんて生活水準が変わり,力関係が変わり,道徳規範が変わり,価値観が変わってゆくとともにコロコロ変わっちまう。さればこそ,そのような歌々は現代の若年層には相応しいのかも知れない。

 それでは一方で,オジサン達は今,どんな歌を聴きどんな歌を口ずさんでいるのだろうか? カラオケ対策として必死こいて若向けの歌を覚えるなんてのは論外として,昨今の中年男どもは概して詩心に欠け,生活が散文化しているのではなかろうかと思う。無論ワタクシとて同様で,歳を経るごとに散文的な性格がより深く身に染み付いてくるようだ。若年の頃にそれなりに思いを込めて縋った歌,それらを満足に辿ることができない。TVで時々「70年代想い出のフォークソング」とかいう企画物があるが,今の私には正直なところまったく正視に耐えず,「出涸らしネタでそこまで引っぱるか,軽薄音楽産業!」なぞと思わず毒づいてしまうのがオチだ。

 少しだけ小声で言わせてもらえれば,歌が世に連れなくなって久しい昨今,歌が「我らの時代」から不幸にも乖離してしまったように思われる世相のなかで,プランクトンのように日々を浮遊する私ごときには,それこそほんの僅かばかりの心地よい歌がありさえすればいい。心に沁みる物語の輪郭を軽くなぞるような鼻歌が二,三あればそれで十分だ。例えばマルセル・ムルージ Marcel Mouloudjiが多分は三十才の頃,まだ大して売れない映画俳優であった時代にトラック運転手の役で唄っていたという歌。


   いつの日か 君にもわかるだろう
   何処でもいい場所で 偶然にみちびかれて
   二人が出会うことを
   お互いを見つめ 微笑みあって
   手に手を取って どこかの道を歩いてゆく

   時は何と足早に過ぎてゆくことか 
   夜は私たちの心を隠す
   それは幸せを掠め取る盗人のようだ

   それから二人は灰色の広場に辿り着くだろう
   舗道の石畳は私たちの沈んだ気持ちを優しくしてくれるだろう

   そこでは貧相でありふれた舞踏会が開かれており
   濃霧のたちこめたメランコリックな空の下
   盲目の男が手回しオルガンを奏でている
   けれどその曲は 二人にとってかけがえもなく美しく愛おしい

   復活祭には君を招いて 二人身を寄せて静かに踊ろう
   街の人々からは遠く離れ じっと見つめ合って踊ろう
   世界の果てへと 夜の底へと.....

   いつの日か 君にもわかるだろう
   何処でもいい場所で 偶然にみちびかれて
   二人が出会うことを
   お互いを見つめ 微笑みあって
   手に手を取って どこかの道を歩いてゆく


 何の解説も必要としない。それは三十男のセンチメンタルな抒情(おっと,また抒情か)。自らをスクリーンの配役に擬して,決して叶うことのない人生をなぞろうとしている。恐らく私を含めた現在の散文的中年世代は,多かれ少なかれこういった「我が心の歌」をひとりひとりが密かに抱えているのではないかと思う。それらは決して表舞台には出ることのない歌。いわゆる音楽産業とは無縁の歌だ。

 つまり,今日的なミュージック・シーンにおいて,若者は共感する,中年は反発する。若者は収斂する,中年は拡散する。若者は中心的であり,中年は辺境的である。若者は大河の本流であり,中年は伏流地下水である。私はそこにキャピタリズムに覆い尽くされたこの国の現代歌謡の悲しみを見る。

 あー,何やら論旨がムチャクチャになってしまった(しかし誰が書き直したりなどするものか!)
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« サトヤマ・サトヤマ (媚惑... | トップ | PTAおよび子供会における... »
最新の画像もっと見る

歌っているのは?」カテゴリの最新記事