山麓地における自転車徘徊のあいまに (承前)

2012年07月19日 | 自転車ぐらし

 一昨日,関東地方の梅雨が明けた(とみられる),という気象庁発表があった。

 ワタクシ的には,先週末の自転車活動等により その数日前には既に「梅雨明け&夏到来」したものと体感承知していたが,気象庁ってぇ役所組織は いつの頃からか梅雨明け情報の発信に関して殊更慎重というか及び腰になってしまったようで,その発表タイミングならびに発表ステートメントがどうもマダルッコシク感じられる。大多数の人々は梅雨明け宣言に科学的精確さなんぞを求めていないと思う。要は気分の問題,ケジメの問題なわけで,さぁ,夏が来たゾ! というスカッとした気持ちにさせて欲しいわけだ。それを待ち望んでいるわけだ。たまたま梅雨明け宣言がチョットばかり間違ったとしても,それはそれ,別にそのことが重大な自然災害に絡むわけでもなかろうし,日常生活に深刻な影響を及ぼすこともないだろうし,社会経済活動に何らかの停滞をもたらすことも,少なくとも直接的にはありはしない。せいぜい一部のブツブツ小市民の顰蹙を買うくらいだろう。よって,気象庁におかれては,いいかげんに自らの役どころを正しく自覚され,昔のように毅然とした態度で梅雨明け宣言されんことを切に望むものである。

 のっけから余計なことを申した。イカンイカン。ということで山麓地域における自転車走行に関するヨタ話の続きであります。

 当盆地内外の山麓エリアを自転車で走っていて前々から気になっていることがある。それは,第二東名あらため新東名高速道路の建設事業用地(=既に用地買収済みの土地)を仕切り囲っている番線木杭柵の存在である。私のような自転車人のみならず,ウォーキング人にしろランニング人にしろ,この地域の郊外や山麓を日常的に散策・往来している人々の多くがそのことを感じているものと思うが,あれは非常にウットウシイ。それは柵自体の存在のみならず,宅地にしろ農耕地にしろ林地にしろ,土地利用が一時的に凍結されたことによる土地空間の身勝手な私物化ならぬ「死物化」,柵に取り囲まれた土地と隣接地との不自然な共存状態がもたらす景観的荒廃,さらには周辺全体を含めた地域環境の劣化ぶり,といった意味においてである。

 私どもの住まう盆地内では,この柵地が出現しはじめたのは最近1~2年のことだ。特にこの半年ほどは柵の増殖進行度合いが目立っており,たとえば北地区の菩提,横野などでは,旧来の穏やかでノンビリした里地風景の一部一部が日を追って切り崩され,無造作に弄られ変貌してゆく状況がリアルタイムで実感される。恐らく遙か上空からその地を俯瞰すれば,帯状に絨毯爆撃もとい土地買収ローラー作戦が進行しているさまが明瞭に確認できることだろう。

 このような部分的,段階的な土地囲い込みは,善波峠を越えたお隣の伊勢原市においては更にヒドイ状況である。上粕屋,西富岡,下糟屋などの地区,あの辺りはインターチェンジないしジャンクション予定地なのだろうか,もう5~6年以上も前から ずっとそのような木柵囲い込み状態がジワリジワリと進行しているようだ。その付近一帯を自転車で往来することの多い外来者たる私の目から見ると,それはいかにもアカラサマな風景の蹂躙violatation,生活領域の暴力的なまでの荒漠化desertificationと映じ,ずっと以前から好んで山麓里地徘徊をおこなっている者として,まさに「無惨やな」としか言いようがない(住民はキリギリスか!)。原風景を急激に消滅させるのは決して自然災害の猛威ばかりではないのである。こういった物言いは少々オオゲサに過ぎるだろうか? 当の地域住民,自治会,さらには行政担当を含め,関係諸氏はそのことを諒としているのだろうか? 当該事業に対する県の環境アセスメントは既に10数年前に評価書が提出されているようだが,それで一件落着となったのだろうか? 当時,アセス評価書案に対する住民意見ならびに事業者見解書,それは総頁数2,000ページにも及ぶ膨大なものであったと記憶しているが,私もそれを一応は閲覧した。ただし,大部分はいわゆる「プロ市民」による饒舌かつ紋切り型のコメントで埋め尽くされており,肝心の地域住民の生の声はほとんど聞こえてこなかったように思う。いずれにしても,環境アセスや補償関連が既に完了した?現在となってみれば,住民にとっては,もう済んだこと,と言わざるを得ないのかも知れないが,それでもなお,私個人的な思いとしては見捨てられた風景ならびに放置された環境の現状を看過するに忍び難いものがあり,今でもあれら木柵風景に出会うたんびに,その居心地の悪さに眉を顰め,天を仰いで嘆息し,それから思わずあたりを見回したのちに やおら柵に向かって立ち小便でもしたくなるのデス。。。 そしてこれは,私どもの住まう秦野盆地内においても これから先さらに深刻化するであろう問題なのだ。

 事業者側に言わせれば,それは輝かしき将来に向けての一時的過渡的な状態でありますゆえ,皆様どうか今暫くのあいだ御辛抱・御容赦願いたい,といったところなのだろう。だからといって,あのような土地荒廃を何年にもわたって人々の生活領域のなかで晒し放置し続けてよいことには決してならないと思う。それは例えば,着工より百年以上を経ていまだ未完成のスペイン・バルセローナのサグラダ・ファミリア教会などとは比べようもないダラシナサである。賢治先生の信条であったところの《永遠の未完成これ完成である》という今を生きるダイナミズムの欠片もないナサケナサである。要は,あの木柵囲い地には理念や理想がまったく感じられないのだ。「不幸な現在」を克服せずして「明るい未来」なんかやって来るわけがないダロウガ!

 さらに根源的なことを申せば,そもそもですネ,「クルマ社会における輝かしき将来」なんて,実のところ今後永遠にやってこないかも知れないのだ。これは個人的な僻み・妬み・嫉みと受け取られても結構だが,巨大自動車産業が いかにタクミニ大衆を懐柔すべくクルマにまつわるバラ色の未来を描いてみせようが(それにしても実にボーダイな広告量である),枝野幸男経済産業大臣が いかにエラソウニ自動車交通ならびに基幹産業としての自動車産業の重要性を早口で捲し立てようが(それにしても実にウットウシイ男である),現実にはそのような彼らのオメデタイ言動こそが「未来のクルマ社会」なるものの一縷の可能性,その望ましかるべき方向性を歪め,曲解させ,貶めていることは間違いない。そう,間違いない。

 かつて,加藤周一は,ある酒の席で概略次のようなことを述べていたという。いわく。自動車交通は世界の病気であり,クルマは麻薬である。アメリカ合衆国という広大荒漠とした地理的風土のなかで現代機械文明を背景に急速に発展したクルマというものは,歴史的かつ汎世界的にみると非常に馬鹿げた交通機関であることは明らかだ。しかしながら,いかなる国,いかなる社会といえども自動車の麻薬的魅力に抵抗しえたところはない。クルマのない国は確かにある。それは金のない国だ。ひとたび金を手に入れると,人はクルマという麻薬を求める。人類の愚かさの一面がそこにみてとれる。。。

 偉大なる先達の御高説はひとまずおくとしても,我々の身近な周囲をちょっと見渡しただけでも,ヤンキー少年少女からオッサン,オバサン,ジジババにいたるまで,とにかく手っ取り早くラクをしたい,イイキモチになりたい,という下心のもとに大枚はたいて麻薬に手を出している中毒者のいかに多いことか。そして不幸なことに,彼らの大部分は麻薬を手に入れるのと引き換えに自らの魂を悪魔に売り渡しているということに気付いていないのだ。悪魔とは誰か,それは言わずもがなのことであるが,ま,脳天気といえば脳天気な唯物論的エピキュリアン,そのようなサイレント・マジョリティが現代クルマ社会を下支えしているわけだ。まことに悲しむべきことである。

 何だか話が例によってワンパターンになってきたゾ。いくらヨタ話とはいえ,老人性妄言の袋小路に迷い込んでクダを巻き続けるのはホドホドにして,老い枯れた智慧を絞って少しは真面目な意見も述べておこうか。すなわち,件の木柵で囲い込まれた買収済みの「死物化」された土地の望ましきありようについて,それを少しでも「生物化」ないし「活性化」させるための建設的方策を,事業者ならびに行政に対して一寸提案しておこう。 

 で,いきなりで何ですが,取りあえずは「お花畑」にでもしてみたらどうだろうか。菜の花でも向日葵でも尾花でも,あるいはコスモスでもセイタカアワダチソウでもエルサレムアーティチョークでも何でもいい。ただし高級な園芸品種などは絶対に避けること。自然な野生の草花で十分だ。在来種・外来種の別については,特に厳密に考える必要もないだろう。それらの草花を,柵内の空き地に,わんさか植えるのだ。ブロックごとに花をまとめてもいいし,あるいは混生させたって構わない。基本的には「見栄え」を優先すればよろしい。草花は勝手に育ち,四季折々に人々の目を和ませ,そして勝手に枯れてゆくでしょう。あるいはまた,地形条件や環境によっては,ヤギの放牧場にしてもいい。ふれあい動物園にしてもいい。昆虫採集フィールドにしてもいい。昨今流行りのドッグ・ランのグランドにしてもいい(ただし,これらの場合は柵の構造を少しばかり変える必要があるだろう)。

 そのようにして一時的に変更された土地の再利用が,この先幾度の季節にわたって繰り返されるか,それはわからない。エリアによってさまざまだろう。当地の場合,高速道路の開通は今から8年後の予定と聞いている。ただ,たとえ土地の一時的再利用が実際の工事着工までの数年間限定であっても,あるいは1年限りであったとしても,それはそれで結構ではないか。見えない明日よりも,目の前の今日を どげんかせんといかん。 維持管理は誰が行うかって? そりゃ,地元自治会のジジババ,子供会,酪農家,あるいはペット好事家などが喜んで参加すると思う(希望的観測かも知れないが)。そのため必要経費は事業者や行政の負担となることは当然であります。

 以上は,いわゆる遊休地の有効活用といった不動産屋的「商売っ気」とは別次元の話であって,何よりも第一に持続可能な地域環境の保全ということを根底に据えたアイデアである。私自身の本音を申せば,ホントは新東名高速道路なんかいらないと思っている。ただ,事業がこれだけ進展している現状を考えると,やみくもにイラナイと言っているだけでは始まらない。当方寡聞にして詳しくは承知しないが,都心部の旧市街などにおける地域再開発事業(スクラップ・アンド・ビルド)においては,その過渡期における土地利用形態として,類似の例が多々あるのではないかと思う。私が横浜・関内に住まっていた今から四半世紀以上も昔のこと,国鉄・桜木町駅前に広がるMM21事業計画地はほとんど「原っぱ状態」であったが,その一部にコスモスが植えられていて,駅の乗降客の目をつかのま和ませていたように記憶している(あれは誰が植えていたんだろう?) あるいは,都心のビルの谷間の狭小遊休地が,行政的配慮によりポケットパークとして一時利用されている事例などもあると聞いている。

 そのような環境創造の試みが,なぜ,山麓地,里地においても適用・実施されないのだろうか,というのがここ数年来の個人的な疑問でありました。行政の側からすれば,山麓地ごときに そこまでの細かい環境的配慮を行うには及ばないとでも考えているのか? 政権交代後には高速道路はすべて無料化する(キリッ!)とのたまっていたオロカナル現政権は,新東名高速道路建設事業に現在どのようなスタンスで向き合っているのか? 今春の4月に一部区間が開通したようだが,御殿場から浜松までの約140km,料金は普通車で3,400円であるという。ヲイヲイ,タダじゃないのか~ぃ! 私にとっては料金がいくらだろうと基本的に他人事ではあるが,地域のことを考えれば,そのような露骨なマニフェスト違反により不当に徴収されたテラ銭の一部を ぜひとも未開通地区におけるお花畑等の周辺環境整備費に回して欲しいものである。それが「国民の生活が第一」ってもんではないか。ああ,何だか「お花畑的思考」かなぁ。。。

 毎度毎度のことながら,もともとの「自転車ぐらし」のテーマから少々脱輪してしまったようだ。軌道修正の意味で最後にもうひとことだけ,自転車がらみの話をしておこう。

 今春の新東名高速道路一部開通に先立つこと数ヵ月前の昨年暮れ,開通前の「まっさらな高速道路」を自転車で走るというイベントというかフェスティバルというかセレモニーというか,まぁ何でもよろしいが,そんな催しがあったとのことだ。参加者数も数千人規模で,有名人,一般人を問わず,老若男女多くの自転車乗りが嬉嬉として参戦,ルンルンと参加したらしい。実は今回のエントリーを記すにあたって,そのイベントに参加した自転車ブロガー達による報告記事をネット検索し,そのうちいくつかを読んでイベントの実情を知った次第である。皆さんそれぞれ,楽しげに面白可笑しく,夏休み絵日記のように報告していたが,これまた私にとっては全くのドーデモイイ他人事である。結果として彼らは,事業者である中日本高速道路株式会社(NEXCO)の差し出したオイシイ餌につられ,うまうまと丸め込まれて敵の術中に嵌ったわけだ。その裏には当然ながら国土交通省を主体とする国家行政による道路交通政策ならびに現代クルマ社会に対する陋習に満ちた基本理念,旧態依然とした基本制度が厳として存在しているのであって,それ実現するための一施策として巨額の国家予算(総事業費7兆円?)を費やして自動車専用道路を建設しているわけなのであるが,イベントに参加したお気楽自転車乗りの大多数は,恐らくそんなこと考えもしない。ま,とりあえず楽しけりゃイージャナイカ,それとこれとは別問題,なんてスタンスなのだろう。昨今の自転車ブームなるものの底の浅さをつぶさに見る思いである。もちろん,そんなイベント下らねぇ!と鼻から否定する漢な自転車乗りも決して少なくはなかろうが,彼らの声は,少なくとも電波メディアや新聞・雑誌等のマスコミに表立って現れることはない。当然,最近では百花繚乱のニギニギシイ自転車雑誌各誌に載ることだって決してない。それが現実だ。それにしても,開通前に一度だけ走らせてやるから,コッチおいで! なんて言い草は 実にイヤラシイ性根だと思わないのか。

 さはさりながら,そりゃ私とて例えば月に一度は高速道路を全面的に車両通行止めにして(全国一律というのは無理だろうから,地域別,区間別にローテーションを設定するなりして),自転車およびランナー,ウォーカーに全面開放する,といった道路行政施策が新たに検討されるというのであれば,現在の高速道路(自動車専用道路)というものの存在をちっとは認めることヤブサカではない(かも知れない)。しかし,断言できるが,どこまでもどこまでも限りなくオロカナル現政権のみならず,自公政権が近い将来復活したとしても,そんなことはとてもとてもの夢物語だろうと思う。のみならず,みんなの党でも社民党でも,その他の泡沫政党(国民新党,とか)でも,あるいは日本共産党が政権をとったとしても,やはり絶対無理だろうな,と観念している。 ゆいいつ可能性があるのは,幸福実現党くらいかナ?

 言いたいことはまだまだあるのですが,とりあえずここらで一息。(性懲りもなく,つづく?)
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