さらにショーモナイOTモドキは続く。ただし,以下に示す雑文は前回および前々回の二編から約6年を経た後に記したものである。では早速,リハビリ・リハビリ。
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◆ 人はどのようにして自由生活者になるか (1987.08) ◆
その当時の俺は,連日連夜,数多くのつまらぬ仕事がたてこんでいて,いわゆる「内職」の方はほとんど開店休業の状態だった。ある晩急に,ドゥルーズ・ガタリを理解したいと切実に望んだ。望んで,しかしそれは決して実現され得なかった。その代わり,「個人収入と企業収益の経年変動状況」に関する折れ線グラフなんぞを楓で作成しては我が身の不幸を自ら慰めた。グラフを作ってみて驚いた。そのグラフは何ともタノモシイ曲線を示しておるではござんせんか(まったく,泣けてくる!)。不幸は俺の神であった。
苦しみつつ,なおはたらけ,安住を求めるな,この世は巡礼である。
《 J. Strindberg 》
また某日深更,やっとのことで落手したカートゥームに関するM氏の一次草稿を疲れた身体に鞭打ちながら校正していた。何の得になるわけでもなかろうに。朱入れが必要かどうか再度検討を求めなくちゃならないなぁ,とボケた頭が反芻した。さらに続いてジャック・ブレルに関する拙稿を眠たい眼をこすりながら何とか推敲した。感情むき出しの,全く下手糞な出来だった。ほんとは「サルバトーレ・アダモのロマンチシズムにおける観念的時間のズレ」に関するなんたらかんたらについて書いてみたかったのだが,つまらぬ「世間」が俺をして主題を急遽変更させるはめになってしまったのだった。あはは。
季節は冬だった。その前の週以来,風邪をこじらせて生活のリズムをすっかり乱してしまい,まったく元気を失っていた。いわく,
日曜日には 昼間現場調査のあと飯田橋で夜宴会,そのあげく頭を痛めて深夜帰宅し
月曜日には 朝から晩まで事務所で見積書とお金の計算
火曜日には 熱を出して午前中で早退し
水曜日には 大手町でヤヤコシ会合,その帰路いそいそとYBCに回るも報われず
木曜日には 我孫子でメンドウ会議,その帰りに秋葉原に回るもまたもや報われず
金曜日には 再び熱を出して午後一番で早退し
土曜日には 終日ワープロ打ち,他人の報告書の代作など致してさしあげ
そしてまた日曜日 身体全体が何物かにムシバマレているようで,一日中寝ていた
その間,「コルゲンコーワホワイトカプセル」を計24錠服用した。そして,大杉栄の自叙伝を寝床のなかで毎日少しづつ読んでいた。こんなことをしておって身体に良いのだろうか(もちろん否,断じて否!) 後頭部から首筋にかけての一帯がしきりに痛んだ。何だか寝違えたみたいに,左も向けない下も向けない(Perdu ma route!) そうだ,悪いのは俺自身,誰に迷惑かけるわけにもゆかない,すべては自らが解決してゆくべきことなのだ。それにつけても,あの頃の元気だったオイラは何処だっちゃ? 病は人をして実に多くのことを改めて思い起こさせるものだ。うつろなアタマで考える。この先何をやって暮らしてゆこうか,或いはもう一切何もするまいか。何をこれ以上望むというのか,この脆弱な身体をなだめすかすがごとくに。
Pour l'enfant que j'etais
Pour L'enfant que j'ai fait
《 G. Moustaki 》
少なくともかつては俺にとって唾棄すべき存在であると思っていたジョルジュ・ムスタキの歌が,ふっと心の隅をしずかによぎる。翌朝目覚めた俺は,それでもやはり今の自分と同じだろうか。本当に,俺が演じたものは底抜けの御座興だったのか。
いま僕は あの賢者たちに感謝の気持ちを捧げたい
僕が求めたのはただひとつ 怠ける権利だけだったのだ
《 G. Moustaki 》
....Kさん,長いこと御無沙汰いたしております。お元気でしょうか。私はといえば,過日Kさんからいただいた有り難い御配慮のそのお言葉通りに,今日の今日まで怠惰な日々をズルズルと引きずって参りました。この間自分は果たして一体何を追求し,点検し,理解し,判断したというのでしょうか。あれからもう半年以上にもなろうとしております....
いくつかの夜が来て,鐘が時を告げ 日々は過ぎゆき,私は眠る
《 G. Apollinaire 》
ある日,栃木県の栗山村というところに仕事で出かけた。日帰りの,少々あわただしい出張旅行であった。その村は鬼怒川の上流域にあり,村役場の標高が約700m,それはそれはほんとに鄙びた山村だ。バスは1日たったの2往復しかなく,1時半のバスで村へ行くと帰りは夕方の6時までバスがないといった具合。役場の教育長および保健衛生課の職員に対して聞き取り調査をしてきたわけだが,皆さま実につましい日々の生活を過ごしておいでだった。教育長の曰く,『こんな山奥は,今になってみれば,実際のところもう人の住むような場所じゃありませんです。昔でしたら山里の暮らしにもそれなりにささやかな喜びや楽しみがあり,まあ,生活とはこういったものだ,というそれなりに満ち足りた思いがあったのですが,昨今のようにこれだけテレビや電話が普及し,また各家がすべて車を持つようになっては,かえって不便さのみが表にたってしまい,自分たちの置かれた境遇をうらめしく思ったりする者もおります。』 『ただ,少なくとも現在私どもの村では《観光立村》ということで村の経済の活性化を図るべく努力しておる次第です。それでも,こんなビンボウ村にはお金もないし,また,際だった観光名所のほうなものもないし,まあ,何もない静かな山奥の村ということを売りにしてゆくしなないのでしょうが...』
晴れの日じゃなく 雨の日のことを俺に話してくれ
俺にとっちゃ 天気のいい日はムシズが走り おまけに歯が痛くなる
《 G. Brassens 》
また同じ旅にて,同村に行く乗り合いバスのなかで老人たちの会話に曰く。『ああ,おれたちはもう十分すぎるくらい生きてきた。この辺で体のあちこちにガタがくるのは当たり前だな。S旅館のサクジさんもだいぶ悪いらしいが... まあそのうち,冥途でまた会おうや。』
仕事上の旅行にあってはいつも時間に追われ,後ろ髪を引かれる思いでそれぞれの土地を後にすることが毎度の習いとなっていた。窓の外には針葉樹の夕暮がゆっくりと時間を追い越してゆく。セピア色の空気の軋みに枠取られた風景の染み。染のように染みついた染跡。
もし愛について 俺に話しかけたら
アゴに一発お見舞いしますよ
たとえ常日頃あなたを尊敬しているとしても
《 G. Brassens 》
かくのごときバカな経験をこの10年あまりの間に数多く,そう実に数多く積み重ねてきた。それらの成果のひとつひとつは俺の内部に設けられた感性の貯水池のなかに,徐々に,しかし着実に蓄えられていった。そして貯水率の増大は,俺をして自らの存在場所の異質性を次第に明確にさせていった。
そしてある日,また思った。ドゥルーズ・ガタリはもういい。もういいけど,とりあえずココは息苦しいよ,風通しが悪すぎるよ,身の回りがあんまり窮屈だよ,嫌いな唄はこれ以上聴きたくないよ~(我が侭マリオン!)
....Kさん,当方そろそろ限界に近づいております。先月から引き続いての八方ふさがり,めまぐるしい日々の暮らしにあたふたと追いまくられ,大事から小事へ,小事から些事へと袋小路を迷うがごとく身も心も疲れ,物質的および精神的な諸々の借財は等比級数的に増大し続け,夜の闇ははや眠るためのものでしかなく,ああいっそのこと,うっとうしい人付き合いのしがらみなんぞ全て御破算にしてしまいたい! と茅屋の薄汚れた壁をうつろな眼で眺めながら思わず願わずにはいられません。そんなとき,貴兄に以前教わったパテティックなフレーズを思い起こします。そう,私は忘れちゃおりません...
Tu deviens responsible pour toujours de ce que tu as apprivoise.
《 A. de St. Exupery 》
こうして俺は,遅ればせながらの自由生活者(プータロウ)を目指すべく,1-2-3で作成された工程表をデリートし,二,三の古い背広を廃棄し,チロリアンを軽い靴に替え,そしてもったいぶった深呼吸をしながら,もうすっかり埃をかぶっている古いステレオセットのスイッチをやおらプッツンしちゃったのであります。
どうでもいいけど とんがらし
どうでもいいけど とんがらし
《 M. Nakajima 》
-------------------------------------------------------------
はい,御粗末様でした(それにしても何だかなぁ。。。) なお,この時代になると,ビジネスや理化学の世界ではワープロによる文書作成が徐々に普及・浸透し,やがて広く一般に利用されるようになっていった。むろん私とてそのトレンドの渦中にあった者ゆえ例外ではなく,実はこの元原稿もワープロで書いたものであったが,その後ささいな事からファイルを消失(デリート)してしまったため,ショーガナイので手元に残っていた印刷物を見ながら改めてなぞるようにしてリハビリ・タイピングをおこなったという次第です。
ちなみに,当時私が所属していた小さな組織においては,富士通OASYSや東芝トスワードやシャープ書院や沖電気のレターメイトなどのワープロ専用機ではなく,パソコン+ワープロソフトというシステムスタイルを採用していた。そして,フィールドで野外調査に従事したり室内で顕微鏡による生物分析作業を行っているときなどは別として,基本的な内業としてはPCワープロによる文書作成を連日連夜こなしていた。特に年度末の超繁忙期などは一晩で数10ページの報告書をでっち上げ,もとい鋭意制作したものでした(あぁ,今でもその頃の悪夢には時折ウナサレル。。。) 私のお気に入りのワープロソフトは管理工学研究所の「松」だった。在籍していた弱小コンサル会社にあっては,私がPC本体ならびにアプリケーション・ソフトの選定を任される立場にあったものだから,専門誌やメーカーカタログ,あるいは出入りの事務機器業者から得た情報等々をあれこれ勘案しつつ,結局はコスト・パフォーマンス的に無難なところでパソコン本体はNECのPC-9801を導入することに決めた(もっとも業務によっては,数値解析のためにFORTRANプログラムを組む必要もあり,その場合は大手コンサルないし大学研究室などのIBMコンピュータを内々に利用させていただいた)。そして,自社パソコン用のワープロソフトとして「松」を選んだのであった。確か1984年のことで,まだ8インチフロッピーディスク版の時代だった。このソフトが,実に私にジャスト・システムもといジャスト・フィットしたのである。文書作成ツールとしての完成度,センスや出来栄えの見事さに魅了され,その虜になったのである。パソコンというものがこれからのビジネスやサイエンスをドラスティックに変えてゆく強力な武器となるのは間違いない!と強く実感させるに値する,それは大変優れた製品だったと思う。のみならず,社会の思想動向や歴史観,未来像といったものまでも,これからはワープロによってジワリジワリと変わってゆくだろうという予感すらあった。さらに加えれば,個人的日常というか私的オアソビの世界においても,「松」は我が生活様式を一変させたのだ。寝ても覚めてもワープロ漬けの日々,というのは少々オオゲサであるとしても,ともかく私の30代のジンセイは公私の別なく「松」とともにあったといっても決して過言ではない。
その後,「松85」,「松86」,「新松」とヴァージョンアップを重ねながらも,ずっと「松」を使い続けた。なお管理工学研究所のソフトウェアでは「松」の他にも「桐」や「楓」なども愛用していた。特に「桐」については,これはまったく個人の偏執的嗜好からではあるが,水生生物の特定分類群別のデータベースなんぞを独りシコシコと構築制作したりしておったので,その際の強い味方,有益なツールとして積極的に利用した。それはちょうど,川喜田二郎さんのKJ法(60年代の遺物!)を自分なりに換骨奪胎させようと試行錯誤していた,今となっては頗るムナシイ作業ではあったのだけれども,ま,そのことはまた別の話になる。
80年代以降のことについては,正直なところ語るのが憂欝だ。やがて,会社を辞めて独立する頃だったか知ら,管理工学の「松」とロータスの「1-2-3」とはついに袂を分かつことになり,それから渋々ながらもマイクロソフトの「WordとExcel」に乗り換えて幾星霜,現在に至っている。すべて世間のトレンドに流れ流された挙句のことだ。今では私にとってワープロなど単なる便利道具,それも昨今はリハビリ道具としての意味を見出すくらいしかないわけで,些かの思い入れもありゃしない。老いるということは上手に諦めることなンだろう。なお,付言しておけば,我がPCソフト変遷史のなかで,途中でジャストシステムの「一太郎と三四郎」なんぞには一切目もくれなかったことが,せめてもの抵抗,というか毅然とした対応であったと思う(それくらいの矜持は持っておりましたヨ)。ただし,官公庁によっては「一太郎」文書ファイルの提出が必須!などという理不尽なことをノタマウ部署もあったので,やむなくソフトだけは所有せざるを得なかった。その点は零細個人自営業者の悲哀である。ああ,今でも思い出すだに口惜しい。
そうして現在,パーソナル・コンピュータの究極の?進化形であるところの「スマートフォン」なる携帯情報機器が,北極から南極まで,絶海の孤島からヒマラヤの高地まで,ヨーロッパからハラッパまで,世界各地の津々浦々にまでくまなく伝播し,拡散し,蔓延し続け,それが全人類の歴史を歪めている真っ最中であることは周知のところだ。この流れはもはや誰にも止められない。みんな流れ流されてゆくのみだ。ほら,今日も今日とて,茅屋の窓から外を眺むれば,道行く人々の少なからずは「歩きスマホ人」だ。それが小・中学生のコドモだろうが,こまっしゃくれた女子高生だろうが,若くてとんがったニーチャン,ネーチャンだろうが,草臥れたオッサンだろうがオバサンだろうが,まったくもって人種,階級,貧富,年齢層の違いを問わず,皆人,背中まるめてスマホを凝視し,俯き加減でノソノソと歩いている。そう,昨日など,すぐ近所に住む華麗な(ケバい)身なり出で立ちのオネーチャンが拙宅前の路上で手に持ったスマホを落とし,それはパシャ―ンという音を立てて「ササ舟のように」滑るがごとく転がり流れてゆき,御本人はアワアアワアワと追いかけていった。あ゛~あ,残念! けど,それも昨今の平常運転なり。また最近は,ついには徘徊老人に近いようなジーサン,バーサンまでもがスマホを弄りながらヨロヨロと右往左往するようにもなってきたので,ったく,いつ何時クルマに轢かれやしないかと,窓外風景を見やりながらそれは気が気でないのだ。とにかく皆さん姿勢最悪,注意散漫,人馬一体,一蓮托生。いつ事故で身罷っても不思議ではないくらいだ。そのような状況を見越してのことか,怪しげな整体師や整形外科の偉そうなセンセイまでが「スマホ首!スマホ首!」なんぞと,それこそ鬼の首でもとったかのごとく嬉しそうに言いはじめる始末だし(商売のネタが増えて満足なのか?)。 然り。これを生物進化の歪んだ一形態と言わずして何と言おう。 嗚呼,遙々遠ク来ツルモノ哉! で,今でも「松」は息してる?
何の話だったか? 前段は「リハビリ」の作業のこと,後段は「松」の回想のこと,すべてはボケが生み出した戯言ゆえ,アシカラズ。
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◆ 人はどのようにして自由生活者になるか (1987.08) ◆
その当時の俺は,連日連夜,数多くのつまらぬ仕事がたてこんでいて,いわゆる「内職」の方はほとんど開店休業の状態だった。ある晩急に,ドゥルーズ・ガタリを理解したいと切実に望んだ。望んで,しかしそれは決して実現され得なかった。その代わり,「個人収入と企業収益の経年変動状況」に関する折れ線グラフなんぞを楓で作成しては我が身の不幸を自ら慰めた。グラフを作ってみて驚いた。そのグラフは何ともタノモシイ曲線を示しておるではござんせんか(まったく,泣けてくる!)。不幸は俺の神であった。
苦しみつつ,なおはたらけ,安住を求めるな,この世は巡礼である。
《 J. Strindberg 》
また某日深更,やっとのことで落手したカートゥームに関するM氏の一次草稿を疲れた身体に鞭打ちながら校正していた。何の得になるわけでもなかろうに。朱入れが必要かどうか再度検討を求めなくちゃならないなぁ,とボケた頭が反芻した。さらに続いてジャック・ブレルに関する拙稿を眠たい眼をこすりながら何とか推敲した。感情むき出しの,全く下手糞な出来だった。ほんとは「サルバトーレ・アダモのロマンチシズムにおける観念的時間のズレ」に関するなんたらかんたらについて書いてみたかったのだが,つまらぬ「世間」が俺をして主題を急遽変更させるはめになってしまったのだった。あはは。
季節は冬だった。その前の週以来,風邪をこじらせて生活のリズムをすっかり乱してしまい,まったく元気を失っていた。いわく,
日曜日には 昼間現場調査のあと飯田橋で夜宴会,そのあげく頭を痛めて深夜帰宅し
月曜日には 朝から晩まで事務所で見積書とお金の計算
火曜日には 熱を出して午前中で早退し
水曜日には 大手町でヤヤコシ会合,その帰路いそいそとYBCに回るも報われず
木曜日には 我孫子でメンドウ会議,その帰りに秋葉原に回るもまたもや報われず
金曜日には 再び熱を出して午後一番で早退し
土曜日には 終日ワープロ打ち,他人の報告書の代作など致してさしあげ
そしてまた日曜日 身体全体が何物かにムシバマレているようで,一日中寝ていた
その間,「コルゲンコーワホワイトカプセル」を計24錠服用した。そして,大杉栄の自叙伝を寝床のなかで毎日少しづつ読んでいた。こんなことをしておって身体に良いのだろうか(もちろん否,断じて否!) 後頭部から首筋にかけての一帯がしきりに痛んだ。何だか寝違えたみたいに,左も向けない下も向けない(Perdu ma route!) そうだ,悪いのは俺自身,誰に迷惑かけるわけにもゆかない,すべては自らが解決してゆくべきことなのだ。それにつけても,あの頃の元気だったオイラは何処だっちゃ? 病は人をして実に多くのことを改めて思い起こさせるものだ。うつろなアタマで考える。この先何をやって暮らしてゆこうか,或いはもう一切何もするまいか。何をこれ以上望むというのか,この脆弱な身体をなだめすかすがごとくに。
Pour l'enfant que j'etais
Pour L'enfant que j'ai fait
《 G. Moustaki 》
少なくともかつては俺にとって唾棄すべき存在であると思っていたジョルジュ・ムスタキの歌が,ふっと心の隅をしずかによぎる。翌朝目覚めた俺は,それでもやはり今の自分と同じだろうか。本当に,俺が演じたものは底抜けの御座興だったのか。
いま僕は あの賢者たちに感謝の気持ちを捧げたい
僕が求めたのはただひとつ 怠ける権利だけだったのだ
《 G. Moustaki 》
....Kさん,長いこと御無沙汰いたしております。お元気でしょうか。私はといえば,過日Kさんからいただいた有り難い御配慮のそのお言葉通りに,今日の今日まで怠惰な日々をズルズルと引きずって参りました。この間自分は果たして一体何を追求し,点検し,理解し,判断したというのでしょうか。あれからもう半年以上にもなろうとしております....
いくつかの夜が来て,鐘が時を告げ 日々は過ぎゆき,私は眠る
《 G. Apollinaire 》
ある日,栃木県の栗山村というところに仕事で出かけた。日帰りの,少々あわただしい出張旅行であった。その村は鬼怒川の上流域にあり,村役場の標高が約700m,それはそれはほんとに鄙びた山村だ。バスは1日たったの2往復しかなく,1時半のバスで村へ行くと帰りは夕方の6時までバスがないといった具合。役場の教育長および保健衛生課の職員に対して聞き取り調査をしてきたわけだが,皆さま実につましい日々の生活を過ごしておいでだった。教育長の曰く,『こんな山奥は,今になってみれば,実際のところもう人の住むような場所じゃありませんです。昔でしたら山里の暮らしにもそれなりにささやかな喜びや楽しみがあり,まあ,生活とはこういったものだ,というそれなりに満ち足りた思いがあったのですが,昨今のようにこれだけテレビや電話が普及し,また各家がすべて車を持つようになっては,かえって不便さのみが表にたってしまい,自分たちの置かれた境遇をうらめしく思ったりする者もおります。』 『ただ,少なくとも現在私どもの村では《観光立村》ということで村の経済の活性化を図るべく努力しておる次第です。それでも,こんなビンボウ村にはお金もないし,また,際だった観光名所のほうなものもないし,まあ,何もない静かな山奥の村ということを売りにしてゆくしなないのでしょうが...』
晴れの日じゃなく 雨の日のことを俺に話してくれ
俺にとっちゃ 天気のいい日はムシズが走り おまけに歯が痛くなる
《 G. Brassens 》
また同じ旅にて,同村に行く乗り合いバスのなかで老人たちの会話に曰く。『ああ,おれたちはもう十分すぎるくらい生きてきた。この辺で体のあちこちにガタがくるのは当たり前だな。S旅館のサクジさんもだいぶ悪いらしいが... まあそのうち,冥途でまた会おうや。』
仕事上の旅行にあってはいつも時間に追われ,後ろ髪を引かれる思いでそれぞれの土地を後にすることが毎度の習いとなっていた。窓の外には針葉樹の夕暮がゆっくりと時間を追い越してゆく。セピア色の空気の軋みに枠取られた風景の染み。染のように染みついた染跡。
もし愛について 俺に話しかけたら
アゴに一発お見舞いしますよ
たとえ常日頃あなたを尊敬しているとしても
《 G. Brassens 》
かくのごときバカな経験をこの10年あまりの間に数多く,そう実に数多く積み重ねてきた。それらの成果のひとつひとつは俺の内部に設けられた感性の貯水池のなかに,徐々に,しかし着実に蓄えられていった。そして貯水率の増大は,俺をして自らの存在場所の異質性を次第に明確にさせていった。
そしてある日,また思った。ドゥルーズ・ガタリはもういい。もういいけど,とりあえずココは息苦しいよ,風通しが悪すぎるよ,身の回りがあんまり窮屈だよ,嫌いな唄はこれ以上聴きたくないよ~(我が侭マリオン!)
....Kさん,当方そろそろ限界に近づいております。先月から引き続いての八方ふさがり,めまぐるしい日々の暮らしにあたふたと追いまくられ,大事から小事へ,小事から些事へと袋小路を迷うがごとく身も心も疲れ,物質的および精神的な諸々の借財は等比級数的に増大し続け,夜の闇ははや眠るためのものでしかなく,ああいっそのこと,うっとうしい人付き合いのしがらみなんぞ全て御破算にしてしまいたい! と茅屋の薄汚れた壁をうつろな眼で眺めながら思わず願わずにはいられません。そんなとき,貴兄に以前教わったパテティックなフレーズを思い起こします。そう,私は忘れちゃおりません...
Tu deviens responsible pour toujours de ce que tu as apprivoise.
《 A. de St. Exupery 》
こうして俺は,遅ればせながらの自由生活者(プータロウ)を目指すべく,1-2-3で作成された工程表をデリートし,二,三の古い背広を廃棄し,チロリアンを軽い靴に替え,そしてもったいぶった深呼吸をしながら,もうすっかり埃をかぶっている古いステレオセットのスイッチをやおらプッツンしちゃったのであります。
どうでもいいけど とんがらし
どうでもいいけど とんがらし
《 M. Nakajima 》
-------------------------------------------------------------
はい,御粗末様でした(それにしても何だかなぁ。。。) なお,この時代になると,ビジネスや理化学の世界ではワープロによる文書作成が徐々に普及・浸透し,やがて広く一般に利用されるようになっていった。むろん私とてそのトレンドの渦中にあった者ゆえ例外ではなく,実はこの元原稿もワープロで書いたものであったが,その後ささいな事からファイルを消失(デリート)してしまったため,ショーガナイので手元に残っていた印刷物を見ながら改めてなぞるようにしてリハビリ・タイピングをおこなったという次第です。
ちなみに,当時私が所属していた小さな組織においては,富士通OASYSや東芝トスワードやシャープ書院や沖電気のレターメイトなどのワープロ専用機ではなく,パソコン+ワープロソフトというシステムスタイルを採用していた。そして,フィールドで野外調査に従事したり室内で顕微鏡による生物分析作業を行っているときなどは別として,基本的な内業としてはPCワープロによる文書作成を連日連夜こなしていた。特に年度末の超繁忙期などは一晩で数10ページの報告書をでっち上げ,もとい鋭意制作したものでした(あぁ,今でもその頃の悪夢には時折ウナサレル。。。) 私のお気に入りのワープロソフトは管理工学研究所の「松」だった。在籍していた弱小コンサル会社にあっては,私がPC本体ならびにアプリケーション・ソフトの選定を任される立場にあったものだから,専門誌やメーカーカタログ,あるいは出入りの事務機器業者から得た情報等々をあれこれ勘案しつつ,結局はコスト・パフォーマンス的に無難なところでパソコン本体はNECのPC-9801を導入することに決めた(もっとも業務によっては,数値解析のためにFORTRANプログラムを組む必要もあり,その場合は大手コンサルないし大学研究室などのIBMコンピュータを内々に利用させていただいた)。そして,自社パソコン用のワープロソフトとして「松」を選んだのであった。確か1984年のことで,まだ8インチフロッピーディスク版の時代だった。このソフトが,実に私にジャスト・システムもといジャスト・フィットしたのである。文書作成ツールとしての完成度,センスや出来栄えの見事さに魅了され,その虜になったのである。パソコンというものがこれからのビジネスやサイエンスをドラスティックに変えてゆく強力な武器となるのは間違いない!と強く実感させるに値する,それは大変優れた製品だったと思う。のみならず,社会の思想動向や歴史観,未来像といったものまでも,これからはワープロによってジワリジワリと変わってゆくだろうという予感すらあった。さらに加えれば,個人的日常というか私的オアソビの世界においても,「松」は我が生活様式を一変させたのだ。寝ても覚めてもワープロ漬けの日々,というのは少々オオゲサであるとしても,ともかく私の30代のジンセイは公私の別なく「松」とともにあったといっても決して過言ではない。
その後,「松85」,「松86」,「新松」とヴァージョンアップを重ねながらも,ずっと「松」を使い続けた。なお管理工学研究所のソフトウェアでは「松」の他にも「桐」や「楓」なども愛用していた。特に「桐」については,これはまったく個人の偏執的嗜好からではあるが,水生生物の特定分類群別のデータベースなんぞを独りシコシコと構築制作したりしておったので,その際の強い味方,有益なツールとして積極的に利用した。それはちょうど,川喜田二郎さんのKJ法(60年代の遺物!)を自分なりに換骨奪胎させようと試行錯誤していた,今となっては頗るムナシイ作業ではあったのだけれども,ま,そのことはまた別の話になる。
80年代以降のことについては,正直なところ語るのが憂欝だ。やがて,会社を辞めて独立する頃だったか知ら,管理工学の「松」とロータスの「1-2-3」とはついに袂を分かつことになり,それから渋々ながらもマイクロソフトの「WordとExcel」に乗り換えて幾星霜,現在に至っている。すべて世間のトレンドに流れ流された挙句のことだ。今では私にとってワープロなど単なる便利道具,それも昨今はリハビリ道具としての意味を見出すくらいしかないわけで,些かの思い入れもありゃしない。老いるということは上手に諦めることなンだろう。なお,付言しておけば,我がPCソフト変遷史のなかで,途中でジャストシステムの「一太郎と三四郎」なんぞには一切目もくれなかったことが,せめてもの抵抗,というか毅然とした対応であったと思う(それくらいの矜持は持っておりましたヨ)。ただし,官公庁によっては「一太郎」文書ファイルの提出が必須!などという理不尽なことをノタマウ部署もあったので,やむなくソフトだけは所有せざるを得なかった。その点は零細個人自営業者の悲哀である。ああ,今でも思い出すだに口惜しい。
そうして現在,パーソナル・コンピュータの究極の?進化形であるところの「スマートフォン」なる携帯情報機器が,北極から南極まで,絶海の孤島からヒマラヤの高地まで,ヨーロッパからハラッパまで,世界各地の津々浦々にまでくまなく伝播し,拡散し,蔓延し続け,それが全人類の歴史を歪めている真っ最中であることは周知のところだ。この流れはもはや誰にも止められない。みんな流れ流されてゆくのみだ。ほら,今日も今日とて,茅屋の窓から外を眺むれば,道行く人々の少なからずは「歩きスマホ人」だ。それが小・中学生のコドモだろうが,こまっしゃくれた女子高生だろうが,若くてとんがったニーチャン,ネーチャンだろうが,草臥れたオッサンだろうがオバサンだろうが,まったくもって人種,階級,貧富,年齢層の違いを問わず,皆人,背中まるめてスマホを凝視し,俯き加減でノソノソと歩いている。そう,昨日など,すぐ近所に住む華麗な(ケバい)身なり出で立ちのオネーチャンが拙宅前の路上で手に持ったスマホを落とし,それはパシャ―ンという音を立てて「ササ舟のように」滑るがごとく転がり流れてゆき,御本人はアワアアワアワと追いかけていった。あ゛~あ,残念! けど,それも昨今の平常運転なり。また最近は,ついには徘徊老人に近いようなジーサン,バーサンまでもがスマホを弄りながらヨロヨロと右往左往するようにもなってきたので,ったく,いつ何時クルマに轢かれやしないかと,窓外風景を見やりながらそれは気が気でないのだ。とにかく皆さん姿勢最悪,注意散漫,人馬一体,一蓮托生。いつ事故で身罷っても不思議ではないくらいだ。そのような状況を見越してのことか,怪しげな整体師や整形外科の偉そうなセンセイまでが「スマホ首!スマホ首!」なんぞと,それこそ鬼の首でもとったかのごとく嬉しそうに言いはじめる始末だし(商売のネタが増えて満足なのか?)。 然り。これを生物進化の歪んだ一形態と言わずして何と言おう。 嗚呼,遙々遠ク来ツルモノ哉! で,今でも「松」は息してる?
何の話だったか? 前段は「リハビリ」の作業のこと,後段は「松」の回想のこと,すべてはボケが生み出した戯言ゆえ,アシカラズ。