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「人文主義者」について (書写:其の弐)

2019年04月04日 | 日々のアブク
 OTモドキの続きであります。ほぼ同じ頃に,以下のような雑文も何処ぞに記していた。当時としては自分なりに多少のメッセージ性も込めていたような気がするけれども(何せ若かったもので。。。),現在となってはあくまでリハビリとしての採録,落穂拾いであるに過ぎない。今更そんなモンを拾って何になる,ですって? ま,世界は数多の無駄で成り立っている,ということで。 或いはこれが何処かの誰かに対する細やかなるメッセージとなるかも知れないし。。。(んなこたないか)。 はいはい,兎にも角にも,お仕事・お仕事,じゃなくって,リハビリ・リハビリ。


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◆ 人はどのようにして人文主義者になるか (1981.09) ◆

 その頃のおれは一種マニアライクな傍観者だった。学校の制度を嫌い,受験教育を憎悪し,教師たちのしたり顔した偽善者ぶりを冷笑的に遠くから眺めていた。そのくせ学校に見切りをつけてさっさと退学することもできずに,遅刻,早退,ズル抜けの日々,ある時は校庭のはずれにある傾きかけた部室の暗がりでミディアムのラケットにガットを通すことに熱中し,またある時は穏やかな小春日和の午前,自転車を走らせて,鋼管から昭電へと続くコンビナートの舗装道路を意味もなく巡回したりしていた。臨海工業地帯の即物的な風景は,当時のおれの屈折した心象には実に似合いの背景を形作っていた。
 学問とは,17才のおれにとって擦り切れた雑巾のようなものでしかなかった。その雑巾は,これまで幾度となく同じ廊下を行き来して,ホコリやアカにまみれ,汚れては洗われ,また同じ廊下を繰り返し往復したが,それは単に薄汚い世間を少しでも見映えのあるものに見せようとするチンケな道具に過ぎず, ― そう,例えてみれば,年増女の半ば草臥れた悲しい身繕いに似ていた。わかったよ。あんたはえらい。あんたの存在自体はおよそ碌でもないものであろうが,その社会的意義とやらに対してはパチパチと拍手をしてあげるよ。けれど,おれはどうもあんたにかかずらうことが出来るようなまっとうな人間ではなさそうだ。わかったよ,もう御免だ!
 そんな状態にあっても何とか落第もせずに学校にへばりついていたのは,畢竟,両親の悲しむ顔を見たくないという半ば時代錯誤的な倫理観に拘っていたからに過ぎなかった。要するに意気地がなかったのだ。
 当時のそんなおれの唯一の拠り所は,歴史の森に足を踏み入れる事だった。遠く奈良・大和の時代,唐衣,霞たなびく春の夕,古の都大路に賑わいし市の開けば,里人の集い来りて,童子の遊び妹子の行き交い,我のみは人知りぬべみ,さねかずら後々の世もかくもありやと,まるで人磨呂の歌うところの使者のような風をして歴史の風景に自らを感情移入することで,現実社会の数知れぬ愚劣さを御破算にしようと, ― いや,今にして思えば単にまっとうな世間から逃げ出そうとしていたのだ。
 不愉快な日雇人に身を委ねることによって蓄えられた小金は,まとまった休みになると,奈良行き夜間急行「紀伊」の乗車券となって消えた。同道者はいつも決まって,ポリエステルの安物シュラフとナショナルの懐中電灯,それにジャン・ニコラの文庫本と少々のパン,それだけあれば十分だった。センチメンタルな心のひとかけらは部屋のヒキダシの奥にしっかりしまって鍵をかけ,決して連れていってはやらなかった。
 けれど,その年の夏の飛鳥路は訪うべきではなかった。10数年ぶりの雨の多い梅雨が明けて夏が来ると,連日30℃を越す猛暑が続き,強い陽射しをさえぎるものもない野の路は,ほこりっぽい白さを執拗に照り返しては道行くおれの脆弱な身体を責め続けた。
 その日のおれは,例によって桜井から宇陀へと続く後期横穴式古墳群を巡り歩いていた。もう何度同じ道を通っただろう。左手に三輪山の形良いスカイラインが,おれと歩調を合わせてゆっくり移動する。その度におれは,日頃住み暮らしている土地から遠く離れた西国の異郷をひとり彷徨する自分の阿保のようなひたむきさが,一体何処から来るのかを自問しては,その上手い答えが見出せずにイライラするのだった。
 ○○古墳の石室の入口は,一面を丈の高い緑の夏草でおおわれ,その奥の桟道の暗さと良いコントラストをなしていた。おれはムッとする草いきれを分け,いつものように壊れかけた柵を当然のようにして跨いで中に入った。ひんやりする冷気が奥の玄室からじわりと近寄ってきた。桟道に立つと,その冷気の中でサーチライトを点灯し,周囲のぐるりをひとわたりライトで巡視した。何にもあろうはずもない。ただ存在するのは巨岩に囲まれたひんやりとする空間だけだった。そのかみ,豪奢を極めた天上人が死出の旅路の伴侶とした宝剣,宝鏡,勾玉,金銀等の数々の財も,幾時代かの墓盗人によって今ではすっかり跡形もない(石棺すらとうの昔に失せてしまっている!)。いわゆる世の学者共にとっては古代史の科学的検証資料としての価値あるモニュマン(歴史)であろうこの石室も,しょせん無知無学なおれにとっては現実空間としてのドキュマン(事実)でしかなかったが,しかし,それでもおれはこの奇妙に呪術的なドキュマンと一体化している現実存在に十分満足していた。おれは玄室のすみに座りこんで巨岩に背をもたれかけ,目を閉じて身体全体に冷気を感じながら,その中をゆっくりと流れてゆく時間の流れに満足気に身をまかせた...
 ― と,誰かが石室の中へ入ってくる気配がした。とっさの事におれはあわてて身構え,サーチライトを探って不意の侵入者へ向けて光を投げつけた。ライトを当てられた相手の方も,こんなところに人が居るとは思わなかったのだろう,ずい分驚いた様子だった。
 出会いの沈黙は相手が破った。彼は進んで自己紹介をし,そしてMと名乗って曰く,上智大学の大学院で社会学を専攻しており,奈良へ来たのは室生の里のさらに奥にある或る特殊な共同体を訪ねるためである,云々。おれは,ああ学者さんの卵なんだな,と思い,まずこのおれには今後とも無縁な別世界の人種である,ととりあえず断定した。それでも二人は玄室のすみに腰をおろし,しばし話を交わした。彼は決して雄弁というわけではなかったが,この地やそれを取り巻く歴史に関して実に豊富な知識を持っていた。まだ,高松塚古墳なぞ発掘されてはいなかったし,もち論「ノンノ」や「るるぶ」も無かった頃のことだ。おれは,古墳について,古寺・古道について,大和の文化について,自ら蓄えている貧弱な知識を総動員させて,インテリゲンチャとの対話の防戦にこれつとめた。彼の語り口には何のてらいもまやかしもなく,まるで背伸びしたガキのたわ言でしかないおれの稚拙で不器用な話に対しても実に気持ちのよい,そう例えていえばプロ野球の選手が試合開始前に行なうウォームアップのキャッチボールのような素直で心地良い返球で答えてくれた。
 長い対話に終止符を打ち二人で石室を出ると,陽はすでに西に傾きかけていた。彼方を見ると,二上山の山の端が夕陽を受けて橙色ににじんで夢のように霞み,その日一日は静かに暮れ閉じようとしていた。恐らくはこの同じ風景を眺めてひとり悲しんだいにしえの娘があった。おれは大来皇女の嘆き歌を心の隅に思い出しながら,同時に旅に出る前にしっかり置いてきたはずの例のセンチメンタルな心がどこからともなく沸き上がってくるのをどうにも禁じ得ず,そしてまた,今まさしくおれの裡でモニュマンとドキュマンが一体化しようとして混沌とした発酵をはじめかけているのではないか,という予感に心を揺らせた....

          * * * * * *  * * * * * *

 ところで,つい先日,某雑誌でM氏の名を見出した。曰く,現在,合衆国東部のカレッジにて比較社会学を講じている気鋭の学者で,特に古代社会の家族制度に関する構造主義的なアプローチによる新しい視点が,云々。おれは,思わずその雑誌を引き寄せて目をこらした。瞬時,昔の記憶のディテールが鮮やかによみがえった。嗚呼,いかにも遠く来つるものかな!
 ― 思えばあの時以来,おれはユマニストの仲間入りをしたに相違ない。


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