幼い時の僕は足腰が強く、それで兄弟の誰よりも早く歩き回るようになっていたのですが、ある時に玄関の敷居を跨ごうとして転んでしまいました。これは左股関節脱臼や左手の発達が悪くなるほどの転び方だったので、見ていた母親が驚き駆け寄ろうとして転倒してしまいました。これにより、お腹の中にいた妹が早産で生まれる事になります。僕にとっては、左手を使う楽器を扱えなくなった瞬間であり、あらゆるスポーツにハンデを抱える事になった瞬間でもあったのです。
小学校に入る前の知能試験の成績が良く、父親は大喜びだったのですが、僕からしたらそれも当然です。だって、早生まれのハンデがありながら、一つ上の兄の教科書やら『小学一年生』を自分の物のように読んでいたのですから。そんな僕ですから、人が悪口を言ったのを覚えている事が苦痛な事と、成績の悪い生徒へのコンプレックスなどがあり、神様にお願いして記憶力を半分にして貰いました。今に思うと、自分だけが肉入りのスープを飲むのが嫌で、肉入りスープを飲む事をやめた偉人を真似しただけですけどね。でもそれ以降、僕は東大生並みのIQに落ちてしまったのです。
小学校四年の時は、理科の実験を真似て大怪我をし、お見舞いに来た担任の吉田六太郎先生に「博士になる」と言われました。この先生は宮沢賢治記念館の館長にまでなっています。僕を褒めたり祝福した人は全員恵まれるのです。逆に、僕に嫉妬したり逆らった者は全員、本来の祝福が受けられず平々凡々以下を余儀なくされます。例えば、次の五年の担任です。
僕は理想があり、それで委員長に立候補しました。しかし、「宿題をやらない」という理由で先生から憎まれていました。「やらなくても出来ればいい」と返答して立たされ、おまけに誰も出来ない時に手を挙げて余計に怒られた僕ですから、先生はクラスの全員を焚き付けて反抗させます。そのくせ、クラス会議が長くなると、僕に議長をやらせて早く終わらせようとする姑息さも持ち合わせた嫌な先生でした。僕は議題から外れる発言を許さないので、どんな会議もすぐに終わるのです。
僕は中学でも、ルールを守らない者を注意して煙たがられるという生徒でした。水泳部は不良の集まりで、そんな連中に呼び出された事もあります。手出しはされませんでしたが。僕は相撲が強く、運動会の合間に10人抜きをやって相撲部にスカウトされました。そうしたら、同じクラスで後ろの席の吉田清君も入部してきたのです。彼は水泳部で虐められていた、口数の少ないおとなしい生徒です。喩えるなら、亀顔の縄文土偶のような容貌です。僕は、数学などを成績の良くない彼に教えていました。そんな彼がある日、遺書を残して首吊り自殺をしたのです。進学を期待するお祖母さんの期待が重荷となって。
クラス全員がショックで泣いている中、僕が優しくした事が嬉しかった、と書かれた彼の遺書を先生が読んだ時、僕は彼に感謝されていた事を知りました。そんなに親しくしていた訳でもないのに、僕の事しか書いていなかったのです。それ以来、僕はクラスの中で特別視されるようになりました。盲腸で入院すると、クラスで流行していたのが移ったと言われ、不良グループの藤村君もお見舞いに来てくれたのです。一番ヤクザな仲間を引き連れて、殆ど言葉も交わさず、変なお見舞いでした。その後、藤村君は成績もアップして進学する事になります。クラスの雰囲気は一変し、僕が注意するとみんなは喜んで従い、掃除中に自然に歌声が出るようになりました。たった一人逆らっていた不良仲間の生徒が、「何で俺の事を注意しないんだ…」と泣きながら食い掛かってきた時、僕は彼も仲間になれるという事に気が付いたのです。でも、彼の幸福は卒業までの数ヶ月間でしかなかったのです
卒業の日、担任の女先生が「今までに、こんないいクラスを受け持った事はなかった…」と涙ながらに別れを告げた時、僕は自分が理想とする世界が見えたのです。小学生の時は正義を翳して反発された自分が、力の論理ではなくて徳によって小さな理想世界を実現できた。それは、亡くなった吉田清君が遺書で証ししてくれたお陰であり、僕はそんな彼に今でも感謝し続けているのです。あの時の仲間は、大学に入ってもクラス会をやる仲の良さを保っていました。でも、その時の僕はもう別の十字架を担っていたのですけど、今でも僕の原点として忘れられない思い出です。
僕が節目を迎える時、必ず吉田という人が現れて証しをし、また祝福をしてくれます。益田岩船を守っているのも吉田さん。IBM藤沢事業所で、最も地位の低い僕を特別扱いをしてくれたのも吉田さん。それは、獄中にあったエジプトのヨセフを祝福して娘を嫁がせた、オン(ヘリオポリス)の祭司ポテペラが吉田の先祖だからという必然によるのです。吉田とは、葦(ヨシ)田ということで、オンのあった下ナイルを表している名前です。世界中で最もヨセフに似ている僕が、先祖のようにポテペラ系の祭司に支えられているのです。因縁とは本当に不思議です。
エフライム工房 平御幸
小学校に入る前の知能試験の成績が良く、父親は大喜びだったのですが、僕からしたらそれも当然です。だって、早生まれのハンデがありながら、一つ上の兄の教科書やら『小学一年生』を自分の物のように読んでいたのですから。そんな僕ですから、人が悪口を言ったのを覚えている事が苦痛な事と、成績の悪い生徒へのコンプレックスなどがあり、神様にお願いして記憶力を半分にして貰いました。今に思うと、自分だけが肉入りのスープを飲むのが嫌で、肉入りスープを飲む事をやめた偉人を真似しただけですけどね。でもそれ以降、僕は東大生並みのIQに落ちてしまったのです。
小学校四年の時は、理科の実験を真似て大怪我をし、お見舞いに来た担任の吉田六太郎先生に「博士になる」と言われました。この先生は宮沢賢治記念館の館長にまでなっています。僕を褒めたり祝福した人は全員恵まれるのです。逆に、僕に嫉妬したり逆らった者は全員、本来の祝福が受けられず平々凡々以下を余儀なくされます。例えば、次の五年の担任です。
僕は理想があり、それで委員長に立候補しました。しかし、「宿題をやらない」という理由で先生から憎まれていました。「やらなくても出来ればいい」と返答して立たされ、おまけに誰も出来ない時に手を挙げて余計に怒られた僕ですから、先生はクラスの全員を焚き付けて反抗させます。そのくせ、クラス会議が長くなると、僕に議長をやらせて早く終わらせようとする姑息さも持ち合わせた嫌な先生でした。僕は議題から外れる発言を許さないので、どんな会議もすぐに終わるのです。
僕は中学でも、ルールを守らない者を注意して煙たがられるという生徒でした。水泳部は不良の集まりで、そんな連中に呼び出された事もあります。手出しはされませんでしたが。僕は相撲が強く、運動会の合間に10人抜きをやって相撲部にスカウトされました。そうしたら、同じクラスで後ろの席の吉田清君も入部してきたのです。彼は水泳部で虐められていた、口数の少ないおとなしい生徒です。喩えるなら、亀顔の縄文土偶のような容貌です。僕は、数学などを成績の良くない彼に教えていました。そんな彼がある日、遺書を残して首吊り自殺をしたのです。進学を期待するお祖母さんの期待が重荷となって。
クラス全員がショックで泣いている中、僕が優しくした事が嬉しかった、と書かれた彼の遺書を先生が読んだ時、僕は彼に感謝されていた事を知りました。そんなに親しくしていた訳でもないのに、僕の事しか書いていなかったのです。それ以来、僕はクラスの中で特別視されるようになりました。盲腸で入院すると、クラスで流行していたのが移ったと言われ、不良グループの藤村君もお見舞いに来てくれたのです。一番ヤクザな仲間を引き連れて、殆ど言葉も交わさず、変なお見舞いでした。その後、藤村君は成績もアップして進学する事になります。クラスの雰囲気は一変し、僕が注意するとみんなは喜んで従い、掃除中に自然に歌声が出るようになりました。たった一人逆らっていた不良仲間の生徒が、「何で俺の事を注意しないんだ…」と泣きながら食い掛かってきた時、僕は彼も仲間になれるという事に気が付いたのです。でも、彼の幸福は卒業までの数ヶ月間でしかなかったのです
卒業の日、担任の女先生が「今までに、こんないいクラスを受け持った事はなかった…」と涙ながらに別れを告げた時、僕は自分が理想とする世界が見えたのです。小学生の時は正義を翳して反発された自分が、力の論理ではなくて徳によって小さな理想世界を実現できた。それは、亡くなった吉田清君が遺書で証ししてくれたお陰であり、僕はそんな彼に今でも感謝し続けているのです。あの時の仲間は、大学に入ってもクラス会をやる仲の良さを保っていました。でも、その時の僕はもう別の十字架を担っていたのですけど、今でも僕の原点として忘れられない思い出です。
僕が節目を迎える時、必ず吉田という人が現れて証しをし、また祝福をしてくれます。益田岩船を守っているのも吉田さん。IBM藤沢事業所で、最も地位の低い僕を特別扱いをしてくれたのも吉田さん。それは、獄中にあったエジプトのヨセフを祝福して娘を嫁がせた、オン(ヘリオポリス)の祭司ポテペラが吉田の先祖だからという必然によるのです。吉田とは、葦(ヨシ)田ということで、オンのあった下ナイルを表している名前です。世界中で最もヨセフに似ている僕が、先祖のようにポテペラ系の祭司に支えられているのです。因縁とは本当に不思議です。
エフライム工房 平御幸