歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

蕉風俳諧の成立 3

2005-11-23 | 美学 Aesthetics
脱談林の動き 漢詩文調の採用による新風を起こす

天和元年(一六八一)「七五〇韻」(百韻七巻、五〇韻一巻)の刊行によって、京都のアマチュアの俳人(遊俳)である、信徳、春澄らから革新の運動の呼びかけが江戸に送られる。これに芭蕉は、同志の才丸、弟子の其角、揚水とともに二五〇韻をつけて、「俳諧次韻」を興行、七五〇韻と併せて千句とした。

鷺の足雉(キジ)脛(はぎ)長く継添えて  桃青
  這句以荘子可見矣       其角
禅骨の力たはゝに成までに     才丸
  しばらく松の風にをかしき      揚水


天和二年(一六八二)「武蔵曲(むさしぶり)」天和三年「虚栗(みなしぐり)」の刊行。
其角(当時二三才)による虚栗序文「此道今人捨如土 凩よ世に拾はれぬ虚栗」

虚栗調の歌仙の例

酒債尋常往処有
人生七十古来稀

詩あきんど年を貪る酒債(さかて)哉 其角
冬湖日暮て駕馬(ノスル ニ)鯉      芭蕉
干(ほこ)鈍き夷(えびす)に関をゆるすらん     同
三線(さみせん)・人の鬼を泣しむ     其角

「宗因用ひられて貞徳すたり、先師の次韻起て信徳が七百韻おとろふ。先師の変風におけるも、虚栗生じて次韻かれ、冬の日出て虚栗落つ」(許六「青根が峯」)
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蕉風俳諧の成立 4

2005-11-22 | 美学 Aesthetics
芭蕉俳諧七部集 冬の日 より
 
「こがらし」の卷

笠は長途の雨にほころび、帋(かみ)衣(こ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖おもひ出て申侍る。

狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉  芭蕉
たそやとばしるかさの山茶花(さんざか)  野水
有明の主水(もんど)に酒屋つくらせて  荷兮
かしらの露をふるふあかむま  重五

 発句 冬―人倫(竹齋・身)―旅<
「狂句こがらしの身」は、風狂の人芭蕉の自画像であろう。「狂」は「ものぐるひ」であるが、世阿弥によれば、それは「第一の面白尽くの藝能」であり、「狂ふ所を花にあてて、心をいれて狂へば、感も面白き見所もさだめてあるべし」とされる。「こがらし」は、「身を焦がす」の含意があるので、和歌の世界では「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露(定家・新古今集)」のような「恋歌」がある。芭蕉はそれを「狂句」に「身を焦がす」という意味の俳諧に転じている。さらに「木枯らし」で冬の季語となるが、同時に、「無用にも思ひしものを薮医者(くすし)花咲く木々を枯らす竹齋」という仮名草紙「竹齋」の狂歌をふまえつつ、名古屋の連衆への挨拶とした。
 脇 冬―人倫(誰)―植物(うゑもの)―旅
「とばしる」は元来、水が「迸(ほとばし)る」の意味で、威勢の良い言葉。芭蕉を迎え新しい俳諧の實驗を行おうとしていた名古屋の若い連衆の心意気を感じる。「旅笠」に山茶花の吹き散る様を客人の芭蕉の「風流」な姿に擬して詠み、「風狂」の人である芭蕉に花を添えたと見たい。
 第三 秋―月(光物)―夜分―居所
第三は、冬から秋へと転じ、有明の月を詠んだ。前句の「とばしる」は水に縁があることばであり、「たそや(誰か)」という問に「主水(元々は宮中の水を司る役人、のちに人名として使われる)」で応じた。俳諧式目では、人倫の句は普通は二句までであるが、役職名は人倫から除外される。なお、この歌仙の詠まれた貞享元年は新しい暦が採用された年であるが、その暦を作った安井算哲の天文書によると、「主水星」とは水星のことである。秋、新酒をつくるために、有明の月の残る黎明、主水星のみえるころに、酒の仕込みをはじめる圖。客人である芭蕉に、まず「一献」というニュアンスもあるかも知れない。
 表四 秋―降物(露)―動物(うごきもの 赤馬)
和歌の世界では、月と露の取り合わせはあるが、そこでは「秋の露や袂にいたく結ぶらむ長き夜飽かず宿る月かな(後鳥羽院)」のように「涙の露」という意味になることが多い。ここでは、そういうしめやかな情念ではなく、おそらく、荷駄に新酒を積んだ赤馬を出したのであろう。露は、おそらく「甘露」の意味をこめて、新酒の香にむせている圖としたほうが俳諧的である。
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蕉風俳諧の成立 5

2005-11-21 | 美学 Aesthetics
晩年の芭蕉の俳風 あらびと軽み

「俳諧あらび可申候事は・・・、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらび仕候事に御座候。」(元禄七年五月十三日、浪化宛去来書簡)

晩年の芭蕉の境涯を示すものとして良く言及される「かるみ」と「あらび」とは如何なる関係にあるか。また、「あらび」と「かるみ」とは何処が違うのか、とくに「あらび」という言葉を芭蕉や去来が如何なる意味で使ったかを正しく捉えるのは難しい。この言葉は古くからあるが、その元来の意味は要するに「荒らび(洗練されていない、粗野である)」ことだろう。元来は悪い意味で使われた言葉ではないか、と思う。「荒びたる句」とは、風雅の精神とは矛盾する句、素人のような句という意味があったにちがいない。それを敢えてプラスの意味に転じて使うところが、俳諧の俳諧たるところではある。
蕉風俳諧が俳諧の初心である世俗にたちかえり、俗語のエネルギーを吸収しつつ、「世俗の直中における風雅」を目指そうとした、そのへんに「あらび」が、蕉風俳諧のキーワードとなる事情が潜んでいる。
一見すると俗っぽい、荒々しい表現の中に、高雅な表現でも及びも付かないような詩情が表現されることがある。

浪化、去来、芭蕉の三吟歌仙を例にとると

    につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉

は俗語の「につと」を冒頭に置く、文字通り「荒っぽい」句だと思う。あえていえば素人臭い措辞。この時期の芭蕉は、どちらかといえば、凝った句作り、格調たかく見える句(しかし、その實は陳腐な句)を避けることをモットーとしていたと思う。

能楽論では、一度名人の位に達したものが、その位置に満足せずに、あえて俗な表現、掟破りの芸風を示すことを「闌位(たけたる位)」という。一度高雅な表現を身につけたものが、それに満足せずに、自己を否定して、もういちど世俗の世界に帰っていくという意味が込められる。

「去来抄」の先師評では、上の三吟歌仙の付句が引かれている。去来は、最初は

   につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
 すつぺりと花見の客をしまいけり 去来

と付けたが、これでは、俗語が重なって煩わしい。つまり、「につと」に「すつぺりと」と続いて品のない句になってしまった。世俗に世俗を続けることは芭蕉の望むつけではないと直観した去来は、

   につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
 陰高き松より花の咲こぼれ    去来

とした。これは一転して連歌風の格調の高いつけにみえる。俗な前句に高雅な景をつけ、しかも、定家の

   春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるるよこぐものそら

の面影付になっている。こういう付句は、たとえば「冬の日」の時代の蕉風俳諧を思わせるものである。しかし、晩年の芭蕉は、こういうつけかたにマンネリズムを感じていたのではないか。「陰高き」という連歌的な凝った表現を嫌って、素人にも分かりやすい俗語を選び、去来の句をひと直しして

    につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
  青みたる松より花の咲こぼれ   去来

これが、この時期の芭蕉の目指した付け方なのである。


     此秋は何で年よる雲に鳥   (病床吟)

宮坂静生氏によると、この句こそが「あらび」の生涯句であるという。たしかに「此秋は何で年よる」という口語的な表現と「雲に鳥」とのあいだの「切れ」のすさまじさは、鬼気迫るものを感じる。 俗語を詩語に転じるとか、おもくれを嫌い、平明な表現を尊ぶという点では「かるみ」と共通しているが、「あらび」には「かるみ」にはないもの、あえていえば鬼神をもおどろかす詩情の冴えがあるようだ。

「荒び」「荒きこと」が、元来、負の評価を表す言葉であることは、北村季吟の次の用例を見ると判る。

「(古今集の俳諧歌について)この俳諧歌はざれ歌といふ。利口したるやうの事なり。又、俳諧といふ事、世間には荒れたるやうなる詞をいふと思へり。この集の心さらにしからず。ただ思ひよらぬ風情をよめるを俳諧といふなりと申されし。されど、荒き事をもまじへたるなり」(埋木)

この「あらび」を正の評価語として使用した例が、去来の浪化宛書簡の次の箇所である。
「俳諧は『さるミの』『ひさご』の風、御考被成候而可被遊候(おかんがへなされてあそばさるべくさうらふ)。其内、『さるミの』三吟ハ、ちとしづミたる俳諧ニて、悪敷いたし候へば、古ビつき可申候まま、さらさらとあらびニてをかしく可被遊候(あそばさるべくさうらふ)。俳諧あらび可申候事(まうすべくさうらふこと)ハ、言葉あらく、道具下品の物取出し申候事ニてハ無御座(ござなく)、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらびて仕候事ニ御座候。尤(もつとも)、あらき言葉、下品の器も用ヒこなし候が、作者の得分ニて御ざ候。嫌申にては無御ざ候(ござなくさうらふ)。」<
去来は『さるみの』と『ひさご』の俳風を学ぶようすすめているが、自分も加わった三吟歌仙を「沈んだ俳諧で出来が悪く古びている」と否定的な評価を述べ、「ひさご」は「はなやかな俳諧」であると評している。「さらさらとあらび」て面白い句作りをすべきだと言う去来のことばが、「さるみの」と「ひさご」を対比して、前者を「しずんだ」悪しき古びた俳諧として、後者を「はなやかな」俳諧として評価する文脈で書かれていることに注意すべきであろう。

ここで言及されている猿蓑の三吟とは、凡兆・芭蕉・去来の歌仙である。

     市中は物のひほひや夏の月    凡兆
       あつしあつしと門かどの聲  芭蕉
     二番草取りも果たさず穂に出て  去来

とつづく優れた歌仙であって俳諧の新古今集といわれた猿蓑に相応しい歌仙である。去来は、じみで古びていると否定的な表現を用いているが、それは裏を返せば、猿蓑には「さび」の美があるということでもある。事実、其角はこの歌仙の芭蕉の恋の付句を評して

 「この句の鈷(サビ)やう作の外をはなれて日々の変にかけ、時の間の人情にうつりて、しかも翁の衰病につかれし境界にかなへる所、誠にをろそかならず」(雑談集)

と言っている。冬の発句、それも時雨を季題とするものを巻頭に置く猿蓑は、その序を書いた其角にとっては「さび」の美を表現した句集である。そして、其角は、去来が「軽み」の俳風とよび、また「はなやかな」俳諧と呼んだ「ひさご」は評価しなかった。

これは、其角と去来の芭蕉没後の俳諧の道のあり方と関連するであろう。

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蕉風俳諧のルーツ 1

2005-11-11 | 美学 Aesthetics
心敬を「中世の芭蕉」と最初に呼んだのが誰であるのかよく分からぬが、「ささめごと」、「ひとりごと」などの歌論書を読み、心敬の一座した連歌を読むにつけ、心敬から宗祇を経由し芭蕉に至る道筋が、はっきりと浮かんで来る。

    幽玄

中世の日本の美学理念の一つは「幽玄」である。この言葉は、論者によって様々に意味が変わるが、心敬の幽玄論を見てみよう。

 心敬の幽玄論は、恋の歌ないし述懐の歌について云われている点に特徴がある。彼はまず白楽天の「琵琶行」から左遷された官吏の真情を揚子江上に弾く琵琶の音色にたとえた詩文
尋陽江にものの音やみ、月入りて後、このとき、声なき、声あるに優れたり
を重視する。つまり耳に聞こえる琵琶の音色も哀れであるが、その音がかき消えて、月も西の山に沈んだ沈黙の瞬間こそが、「声ある」さまにまさる、ということーここに幽玄の詩情の原点を見ることができる。もうひとつは同じ白楽天の恋の詩、長恨歌の一節
春風桃李花開日
秋雨梧桐葉落時
である。これは楊貴妃を追慕する詩だが、この詩の風体を「幽玄躰」とよび、「歌・連歌の恋の句などにも、この風体あらまほしくかな」と結んでいる。ここでは、恋の情念は、直接には詠まれていないが、それらは余情として、詩文の行間の沈黙の中に切々と湛えられている。

 心敬は恋の句と述懐の句をとくに重視し、四季の景物を読む花鳥諷詠の句の上に置いている。恋と述懐の句は、「胸の底より出づべきもの」であって、決して安直に詠むべきものでなく、他の句にまさって沈思しまた推敲することを薦めている。

    さび

語りなばその淋しさやなからまし芭蕉に過ぐる夜の村雨
の一首をしめし「巫山仙女のかたち五湖の煙水の面影はことばにあらはるべからず」と言ったのは心敬である。美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべき事―これが心敬の連歌の「さび」の美学の根本精神である。
 「さび」の美学は、心敬以前にも俊成をはじめ様々な歌人が取り上げた。しかし、それらは、文藝上の最高の理念を表すという位置づけを持っているわけではない。そういう高い位置をもつに至ったのは心敬の連歌論をおいて他にはないようだ。
このみちはひとえに余情・幽玄の心・姿を宗として、言い残しことわり無き所に幽玄・感情は侍るべしとなり。歌にも不明体とて、面影ばかりを詠ずる、いみじき至極のこととなり。
このような余情・幽玄の美の理念を作品に実現するためには、できる限り言葉をすくなくし、言外に深き余情を湛えさせねばならない。このような連歌に於ける至極の境地をさして、心敬は「ひえ・さび・やせ」という語を用いた。
昔、歌仙にある人のこの道をば如何やうに修行し侍るべきぞと尋ね侍れば、「枯野の薄、有明の月」と答え侍りしと也。これは言わぬところに心をかけ、ひえさびたる方を悟り知れと也。境に入りはてたる好士の風雅は、この面影のみなるべし。
ここで心敬の言う「ひえ、さびたる」句を重んじる精神こそは、談林風の派手な俳諧から一転して、「誠の俳諧」を求めた芭蕉の「さび、しをり」の美学の源流にほかならない。      

     孤心

連歌は「連衆心」がなければ巻くことができぬ。しかし、そのような付合のなかで、我々は、それぞれが単独者であるという自覺を持つ場合がある。そういう「孤心」を表明する心敬の付句をあげよう。

  「我が心たれに語らむ秋の空」という句に

   荻にゆふかぜ雲にかりがね    心敬

「荻には夕風」、「雲には雁」がいて、秋の寂しさの中でもたがいにその心をふれあうこともできようが、この私には自らの心を語るべき相手ももうなくなってしまった、という意味が含まれている。

私は、この付け句を見て直ちに芭蕉の最晩年の句

  「この秋は何で年よる雲に鳥」

を思わずにはいられない。後世の芭蕉が「雲に鳥」によって意味したものが、心敬の付句を見ることによってまざまざと蘇り、はじめてその意味が身にしみた次第である。

     時雨の発句

応仁の頃、世のみだれ侍りしとき、あづまに下りてつかうまつりける(新撰菟玖波集)

     雲は猶さだめある世の時雨かな     心敬

おもふ事侍りしころ同じ心を(老葉)

     世にふるもさらに時雨のやどりかな   宗祇

興のうちにして俄に感ずることあり、ふたたび宗祇の時雨ならでも、かりのやどりに袂をうるほして、きづから笠のうちに書きつけ侍る(渋笠銘)

     世にふるはさらに宗祇のやどり哉    芭蕉

宗祇と芭蕉の句はよく知られているが、こう並べてみると、心敬の句がもっともオリジナルであると思う。宗祇の句は明らかに心敬を意識して作っている。そして芭蕉の句が宗祇の時雨の句を借りたことは明かである。心敬の句には応仁の乱を生きた作者の息づかいが聞こえます。雲は定めなきものであるが、その雲でさえ「定めある」と思わせるような乱世を「時雨」によって象徴した作品である。

       ありふれたものの詩情

   「名も知らぬ小草花さく川辺かな」

 といふ発句に

      しばふがくれの秋のさは水      心敬

発句の作者は蜷川親当で、後世の芭蕉の

     「よく見れば薺花さく垣根かな」

を想起させる句である。こういう句を見ると、心敬の一座した百韻で読まれた連歌と芭蕉の俳諧の風雅の精神との近さが実感できるだろう。

心敬の脇は、名もなき小草の花の「かそけき」有様を、秋の沢水の「冷え冷えと清みた」風情をもってつけた句である。「しばふがくれの」水は、その身にしみるような清冽さを表には見せない。しかし、このような発句と脇の呼応の中に、心敬は「月花の名句」に勝る詩情を見いだしていたに違いない。

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蕉風俳諧のルーツ 2

2005-11-10 | 美学 Aesthetics
蕉風俳諧の美学


芭蕉の俳諧の根本精神を表す言葉として「匂ひ」を取り上げよう。

「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)

薄月夜とは、雲などに遮られてぼんやりと月が見える様。くまなく見える月ではない。この美学は、心敬のいう幽玄の美学の系譜に属する。あらわなもの、明るすぎるものは、読者の想像力を働かせる余地がないが故に詩情を喚起しない。「薄月夜の梅の匂ひ」のごとく、かすかなるものほど、ほのかなるもののなかに隠れている美を象徴することーここに蕉風美学の出発点がある。「匂ひ」とはそれをあらわす独特の用語。

「匂ひ」という言葉は、風雅の「風」と縁のある言葉である。風は、多くの言語では「霊」的なもの(インスピレーション)と同義であり、それ自体は言語で記しがたいものであるが、藝術や宗教の生命を象徴する。その風が「雅(みやび)」であって「俗」でないことを要求するのが「風雅」という言葉である。芭蕉晩年の弟子の一人である惟然から、風雅とはどういうものかと尋ねられた芭蕉は、「句に残して俤にたつ」ことだといっている。(一葉集遺語)
「句に残す」とは、句のなかで言い残して、却ってその「おもかげ」にたつことが風雅だというのである。

従って、蕉風俳諧では、「言い尽くす」こと「言い畢ほす」ことが嫌われた。たとえば

   下伏につかみわけばや糸桜

という句を去来が「糸桜の十分に咲きたる形容よく言ひ畢ほせたるにあらずや」と賞賛したのに対して、芭蕉は、

  「言ひ畢ほせて何かある」

と答えたという。去来はそのとき初めて肝に銘じて「発句になるべきこととなるまじきこと」を知ったと回想している。

「匂ひ」は、しかしながら、発句のような短詩を成立させる技巧と見るべきではない。技巧のような作為は、こころの風光を漂わせる自然なる「匂ひ」とは正反対のものだからである。
「附といふ筋は匂、ひびき、面影、移り、推量などと形なきより起るところなり、心通ぜざれば及び難き処なり」(三冊子)
それでは、匂附の実例としてどんな附合があるのかを見てみよう。鬼貫が幻住庵の芭蕉のもとを訊ねたときの歌仙、「夏木立」の巻から例を引く。

    うすうすと色を見せたる村もみじ   芭蕉

に対して、どういう付けがよいのか。その場では、次の四句がでたが、どれも芭蕉によって却下された。

一 下手も上手も染屋してゐる
二 田を刈りあげて馬曳いてゆく
三 田を刈りあげてからす鳴くなり
四 よめりの沙汰もありて恥かし

最後に

   御前がよいと松風の吹く   丈草

という付けが出たときに、はじめて芭蕉は印可したという。芭蕉の門弟達が、この附合を「匂ひ」付けと呼んだことは、俳諧芭蕉談のつぎの言葉に明らかである。

「御膳がよいと云う松風は、うすうすと色を見せたる匂ひを受けて句となる。心も転じ、句も転じ、しまこその力をとどめず、これを「にほひ附」といふ。」
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晩年の芭蕉の俳風のことなど

2005-11-09 | 美学 Aesthetics
12月3日は日本科学哲学会のシンポジウムがあるがその一週間後、12月10日は北本市で、連歌と俳諧についての講演の予定が入っている。二年前から、コミュニティカレッジで、若葉の鈴木主宰、国文学の大輪先生と共に「連歌から俳句へ」という公開講演をしているが、今回の北本市での講演もそれと同趣旨のものである。このブログの「藝術の思想」というカテゴリーに関連する記事を書くつもりである。

10年前より桃李歌壇という連歌と俳諧のサイトを運営しているが、そこでは、相互主体性の詩学、ないし「場所の詩学」ということをモットーとしてきた。俳句の句会とか連歌俳諧の座というものに、近代文学や近代の詩を越える可能性を感じたからである。それと同時に、WEBサイトを利用して作品を自由に出版することを考えた。バーチャルな結社ではあるが、これまでに百韻連歌や歌仙も巻き、俳句の合同句集も出版した。これらはすべて、同じ人間が、作者・鑑賞者・批評家を兼ねること、各人が創作の主体であると同時に客体であること、という相互主体性の座の藝術の可能性を企投した結果でもある。WEBという媒体には様々な問題性があるが、俳句や連歌のようなジャンルはもっともそれに適していると云うことは、この10年ほどの経験で確認したところである。

昨日、桃李歌壇の連歌百韻興行に参加して頂いた真奈さんより、10月末に行われた国民文化祭での宮坂静生氏の講演「芭蕉の求めたるものー芭蕉・去来・浪化三吟歌仙をめぐる「あらび」について”についての話を伺い、大いに興味を覚えた。この「あらび」という言葉は、
「俳諧あらび可申候事は・・・、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらび仕候事に御座候。」(元禄七年五月十三日、浪化宛去来書簡)
にあるが、この概念に注目されたのは鋭い着眼であると思う。

晩年の芭蕉の境涯を示すものとして良く言及される「かるみ」と「あらび」とは如何なる関係にあるか。また、「あらび」と「かるみ」とは何処が違うのか、など、この概念については、まだまだ研究すべきことが残っているように思う。

「あらび」という言葉を芭蕉や去来が如何なる意味で使ったかを正しく捉えるのは難しい。この言葉は古くからあるが、その元来の意味は要するに「荒らび(洗練されていない、粗野である)」ことだろう。元来は悪い意味で使われた言葉ではないか、と思う。「荒びたる句」とは、風雅の精神とは矛盾する句、素人のような句という意味があったにちがいない。それを敢えてプラスの意味に転じて使うところが、俳諧の俳諧たるところではないか。

蕉風俳諧が俳諧の初心である世俗にたちかえり、俗語のエネルギーを吸収しつつ、「世俗の直中における風雅」を目指そうとした、そのへんに「あらび」が、蕉風俳諧のキーワードとなる事情が潜んでいるように思う。

一見すると俗っぽい、荒々しい表現の中に、高雅な表現でも及びも付かないような詩情が表現されることがある。

浪化、去来、芭蕉の三吟歌仙を例にとると

    につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉

は俗語の「につと」を冒頭に置く、文字通り「荒っぽい」句だと思う。あえていえば素人臭い措辞。この時期の芭蕉は、どちらかといえば、凝った句作り、格調たかく見える句(しかし、その實は陳腐な句)を避けることをモットーとしていたと思う。

能楽論では、一度名人の位に達したものが、その位置に満足せずに、あえて俗な表現、掟破りの芸風を示すことを「闌位(たけたる位)」という。一度高雅な表現を身につけたものが、それに満足せずに、自己を否定して、もういちど世俗の世界に帰っていくという意味が込められる。

「去来抄」の先師評では、上の三吟歌仙の付句が引かれている。去来は、最初は

   につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
 すつぺりと花見の客をしまいけり 去来

と付けたが、これでは、俗語が重なって煩わしい。つまり、「につと」に「すつぺりと」と続いて品のない句になってしまった。世俗に世俗を続けることは芭蕉の望むつけではないと直観した去来は、

   につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
 陰高き松より花の咲こぼれ    去来

とした。これは一転して連歌風の格調の高いつけにみえる。俗な前句に高雅な景をつけ、しかも、定家の

   春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるるよこぐものそら

の面影付になっている。こういう付句は、たとえば「冬の日」の時代の蕉風俳諧を思わせるものである。しかし、晩年の芭蕉は、こういうつけかたにマンネリズムを感じていたのではないか。「陰高き」という連歌的な凝った表現を嫌って、素人にも分かりやすい俗語を選び、去来の句をひと直しして

    につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
  青みたる松より花の咲こぼれ   去来

これが、この時期の芭蕉の目指した付け方なのである。

真奈さんによると、宮坂氏は、

     此秋は何で年よる雲に鳥   (病床吟)

を「あらび」の生涯句であるといったとのこと。たしかに「此秋は何で年よる」という口語的な表現と「雲に鳥」とのあいだの「切れ」のすさまじさは、鬼気迫るものを感じる。 俗語を詩語に転じるとか、おもくれを嫌い、平明な表現を尊ぶという点では「かるみ」と共通しているが、「あらび」には「かるみ」にはないもの、あえていえば鬼神をもおどろかす詩情の冴えがあるようだ。

追記(11月11日)

「荒び」「荒きこと」が、元来、負の評価を表す言葉であることは、北村季吟の次の用例を見ると判る。
「(古今集の俳諧歌について)この俳諧歌はざれ歌といふ。利口したるやうの事なり。又、俳諧といふ事、世間には荒れたるやうなる詞をいふと思へり。この集の心さらにしからず。ただ思ひよらぬ風情をよめるを俳諧といふなりと申されし。されど、荒き事をもまじへたるなり」
この「あらび」を正の評価語として使用した例が、去来の浪化宛書簡の次の箇所である。
「俳諧は『さるミの』『ひさご』の風、御考被成候而可被遊候(おかんがへなされてあそばさるべくさうらふ)。其内、『さるミの』三吟ハ、ちとしづミたる俳諧ニて、悪敷いたし候へば、古ビつき可申候まま、さらさらとあらびニてをかしく可被遊候(あそばさるべくさうらふ)。俳諧あらび可申候事(まうすべくさうらふこと)ハ、言葉あらく、道具下品の物取出し申候事ニてハ無御座(ござなく)、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらびて仕候事ニ御座候。尤(もつとも)、あらき言葉、下品の器も用ヒこなし候が、作者の得分ニて御ざ候。嫌申にては無御ざ候(ござなくさうらふ)。」
去来は『さるみの』と『ひさご』の俳風を学ぶようすすめているが、自分も加わった三吟歌仙を「沈んだ俳諧で出来が悪く古びている」と否定的な評価を述べ、「ひさご」は「はなやかな俳諧」であると評している。「さらさらとあらび」て面白い句作りをすべきだと言う去来のことばが、「さるみの」と「ひさご」を対比して、前者を「しずんだ」悪しき古びた俳諧として、後者を「はなやかな」俳諧として評価する文脈で書かれていることに注意すべきであろう。
ここで言及されている猿蓑の三吟とは、凡兆・芭蕉・去来の歌仙である。

     市中は物のひほひや夏の月    凡兆
       あつしあつしと門かどの聲  芭蕉
     二番草取りも果たさず穂に出て  去来

とつづく優れた歌仙であって俳諧の新古今集といわれた猿蓑に相応しい歌仙である。去来は、じみで古びていると否定的な表現を穿いているが、それは裏を返せば、猿蓑には「さび」の美があるということでもある。事実、其角はこの歌仙の芭蕉の恋の付句を評して
 「この句の鈷(サビ)やう作の外をはなれて日々の変にかけ、時の間の人情にうつりて、しかも翁の衰病につかれし境界にかなへる所、誠にをろそかならず」(雑談集)
と言っている。冬の発句、それも時雨を季題とするものを巻頭に置く猿蓑は、その序を書いた其角にとっては「さび」の美を表現した句集である。そして、其角は、去来が「軽み」の俳風とよび、また「はなやかな」俳諧と呼んだ「ひさご」は評価しなかった。
これは、其角と去来の芭蕉没後の俳諧の道のあり方と関連するであろう。
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芭蕉の「旅懐」の句

2005-11-08 | 美学 Aesthetics
先日、ある学生から、

この秋は何で年よる雲に鳥

という芭蕉の句のどこがよいのか判らないと言う質問を受けた。私には有無を言わせぬほど身に迫る句であるが、人によっては実感できないのだなと思った。

俳句は、「言い畢せて何かある」省略の文藝であるから、その鑑賞は読者の想像力に委ねている部分が多い。句の内容に無条件で共感できるような場合もあるが、そうでないこともある。それは年齢の問題もあるだろうし、作者と読者の境涯の差ということもある。何処がよいのか判らい、といわれたときの難しさがそこにある。こういう質問をされた場合、自分に出来ることは、たとえ質問者にとって今は実感できなくとも、将来いつか理解してもらえるような普遍的な言葉を探しながら、自分自身の鑑賞を述べることだけである。

この句の理解は、下五の「雲に鳥」の鳥のもつ象徴的な性格にかかっている。この鳥はどんな鳥だと思うか、と聞いてみた。その学生は暫く考えたあとで、「やはり渡り鳥でしょうね、留鳥ではまずいですね」といって、そのとき何かを自得したような感じであった。

もっとも、「鳥雲にいる」といえば俳句では春の季語である。この句は秋に詠まれているから「雲に鳥」となっているが、渡鳥であることは間違いない。(単に「渡り鳥」といえば、俳諧では秋を指す)芭蕉には

日にかかる雲やしばしのわたり鳥

の句もある。そして、この渡り鳥に向けられた感慨は、当然、旅を栖とした芭蕉自身の姿と重なるのである。何処から来て何処へゆくのか分からぬものの、雲の彼方に消えていく鳥の姿が、束の間、夢幻のごとく、この世に生存する作者自身の境涯の象徴になっている。

この句は、笈日記・追善之日記・三冊子などの俳書にあるが、いずれも「旅懐」の句として扱っている。旅先で病を得て、老衰がとみにすすんだことに驚き、旅を続けることができるかどうか不安を覚えたときの句である。「何で年よる」は「どうしてこんなに年老いたことを感じるのだろうか」という意味であるが、俗語的な表現であるだけに直接的な哀切の響きが感じられる。

笈日記や三冊子に

「下の五文字に寸々の腸(はらわた)をさかれるなり」

とあるように、この句の下五「雲に鳥」は、実際に眼前に見た光景を写生したものではなく、「この秋は何で年よる」で一端、句を「切った」あとで、もっともそれに相応しい附けを苦吟した挙句に、芭蕉の詩的構想力によって、象徴的に付けた句である。したがって、この鳥に、私は、あくまでも芭蕉の「孤心」の反映として、雲の彼方に消えていく「孤影」を感じます。沢山の鳥が飛んでいる様を叙したとは思えない。「寸々の腸をさかれるなり」とは凄まじい、鬼気迫るいいかたである。老衰を嘆く芭蕉の他に、生死の境にいる自己を詠むもう一人の芭蕉がいる。

芭蕉の門人達の書き残している「芭蕉終焉の記」などを読むと、表現する者、創造者としての芭蕉は最後の最後まで句作にあくなき情熱を傾けていたことがわかる。「旅する人間」「旅において生死する人間」を句に表現しようとする情熱、創作にかける執念が死の直前まで旺盛で止むことがなかったのである。
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花の美学 その1

2005-06-18 | 美学 Aesthetics
一 連歌に於ける「花」の句の扱い

(定座)

連歌では百韻で「四花七月」、歌仙では「二花三月」といい百韻では「花の句」を四句、「月の句」を七句、歌仙では「花の句」を二句、「月の句」を三句詠みこむ。

月、花の句の詠まれるべき場所を「定座」という。この「定座」も最初からきまっていたのではなく、元来は花の句を一巻で適当な箇所配分するということのみが定められていた。しかし、俗に言う「花を持たせる」礼儀を尊重する余り、連衆が互いに譲り合い、折端の短句までいってしまうと、それでは一巻の飾りであり賞翫の花として尊重するという本意が薄れてしまう。したがって、歌仙ならば、折端の前の長句である初裏の十一句目、名残の裏の五句目に必然的に詠まれる場所が定まっていったと思われる。百韻は四折であり「月の句」はそれぞれの折の表と裏に一句ずつ詠まれ、名残の折ではあっさりと終わらせるべき所であるから、そこに月と花の句があるのは煩わしいために「月の句」は詠まないことになっている。歌仙もこれに準じており、「花の句」はそれぞれの折の裏に詠まれることになっている。

(正花)

和歌では「花」といえば「桜」であるが、連歌では「花」といっても「桜」とは限らない。逆に「桜」といっても、それは「花の句」の扱いを受けないということである。四季折々の花には「桜」「牡丹」「木槿」とそれぞれであるが、それらの名を出して句作したときにはあくまでもその個有な植物に限定された花の印象だけになってしまうであろう。それでは、連歌で意図する「花の句」としての意味が失われる。連歌での「花の句」は連歌的美の象徴としての「正花」として詠まれなければならない。

これは「花の句」が一巻全体の「花」であり、「賞翫の惣名」であるとの考えからきている。つまり、定座に「花の句」として詠むことのできる「正花」には、賞美の意が込められていなければならないのである。「花」は、普通は春季としての扱いを受けるが、句の転じ方によっては「花の定座」が春だけではないこともある。そのようなときに用いられるのが「他季の正花」である。俳諧の連歌を例にとると、夏には「余花」秋には「花相撲」「花燈籠」、冬には「帰り花」「餅花」などがある。その他に「雑の花」としては「花嫁」「花婿」などが、正花として扱われた事例がある。

(花の句)

連歌では、ただ単に「桜」といってもそれは「花の句」としての扱いを受けないといったが、その理由は「花」といえば春の句とされるが、「花の句」は四季に咲く花々の美しさを含めての賞翫の総称を意味するものであり、「桜」といっただけでは植物個有の特性を表すだけで賞翫の意はないと考えられるからである。

以上、連歌における花の句の扱いに関する先人の所説を纏めてみたが、これらはあくまでも大体の標準的見解であり、絶対的なものではない。

たとえば、「桜」が「花の句」としての扱いを受けた例もある。『猿蓑』に入集の凡兆・芭蕉・野水・去来四吟「灰汁桶の」歌仙では、名残の折の裏五句目に

  糸桜腹いっぱいに咲にけり

とあり、「花の定座」に「花」の詞がなく、代わりに「糸桜」が詠まれている。このことについて『去来抄』では、
卯七日、猿蓑に、花を桜にかへらるるはいかに。去来日、此時、予花を桜に替んと乞。先師日、故はいかに。去来日、凡花はさくらにあらずといへる、一通りはさる事にして、花婿・茶の出花なども花やかなるによる。花やかなりといふも、よる所あり。畢竟花はさくらをのがるまじとおもひ侍る也。先師日、さればよ、いにしへは四本の内一本は桜也。汝がいふ所も故なきにあらず。ともかくも作すべし。されど尋常の桜にて替たるは詮なからんと也。予、糸桜はら一ぱいに咲にけり、と吟じければ、句我儘也、と笑ひ玉ひけり。

という記述がある。
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花の美学 その2

2005-06-17 | 美学 Aesthetics
住するところなき心―無常のなかに花を求める

まさに住するところ無くしてその心を生ず(金剛般若経)

人の心にめづらしきとみるところ、すなはちおもしろき心なり。花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは、同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあれば、めづらしきなり。能も、住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風躰に移ればめづらしきなり。(世阿弥「花伝」)

めづらしきといへばとて、世になき風躰をし出すにはあるべからず。(同)

時・をりふしの当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風躰を取り出だす。これ、時の花の咲くを観んがごとし。花と申すも、去年咲きし種なり。能ももと観し風躰なれども、物数を究めぬれば、その数をつくすほど久しし。久しくて観れば、まためづらしきなり。(同)

抑、花とは、咲くによりて面白く、散るによりてめづらしき也。有人問云、「如何無常心」。答、「飛花落葉」。又問、「如何常住不滅」。答、「飛花落葉」云々。
面白と見る即心に定意なし。さて、面白きを諸藝にも上手と云、此面白さの長久なるを、名を得る達人と云り。然者、面白き所を成功まで持ちたる爲手は、飛花落葉を常住と見んがごとし。(世阿弥「拾玉得花」)

ここで引用されている禅的なる問答の典拠は不明であるが、その内容は、対立規定の一致をとく大乗仏教の「矛盾的相即」の論理を、「飛花落葉」というイメージのかもしだす情意の空性のうちに感性的・美的に表現したものである。謡曲「箙」にも

飛花落葉の無常はまた、常住不滅の栄をなし

とある。世阿弥にとって「美の本質」は「時間において」存続しないことによってその永遠性を現す。もし桜の花に散るということが無く、いつまでも咲き続けたとすれば、その花を愛でるということがあるだろうか。それは、まさに「散る花」であり「存続」に執着しないが故に、「美しい」。「飛花落葉」が無常であり同時に常住不滅であるとは、生は死によってあり、死は生に依ってあること、ゆえに生死一如の現実の生成流転のただ中にこそ「永遠の美」を現成すべし、という教えである。それは、時間と存在に関する独特の新しい見方であり、生死の根本問題に対して答える大乗仏教の空觀ー矛盾的相即の論理-を我々の美的構想力の情意の地平に射影し、観想と言語行為、身体的な芸術表現として現成せしめた物なのである。
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花の美学 その3

2005-06-16 | 美学 Aesthetics
 美のイデア(実相)

爰に私のあてがいあり。性花・用花の兩條を立たり。性花と者、上三花、櫻木なるべし。是、上士の見風にかなふ位也。中三位の上花を、既に正花とあらはす上は、櫻木なれ共、此位の花は、櫻木にも限るべからず。櫻・梅・桃・梨なんどの、色々の花木にもわたるべし。ことに梅花の紅白の氣色、是又みやびたる見風也。然者、天神も御やうかんあり。又云、當道の感用は、諸人見風の哀見を以て道とす。さるほどに、此面白しと見る事、上士の證見〔な〕り。然共、見所にも甲乙あり。縱ば、兒姿遊風なんどの、初花ざくらの一重にて、めづらしく見えたるは、是、用花也。これのみ面白しと哀見するは、中子・下子等の目位也。上士も一たんめづらしき心たて、是に愛づれ共、誠の性花とは見ず。老木・名木、又は吉野・志賀・地主・嵐山なんどの花は、既に、當道に縱へば、出世の花なるべし。かやうなるを知るは上士也。上下・萬民、一同に諸花褒美の見風なるべし。上士は、廣大の眼なるほどに、又餘花をも嫌ふ事あるまじき也。爲手も又如此。九位いづれをも殘さゞらんを以て、廣覺の爲手とは申べし。「萬法一に歸す。一いづれの所にか歸す。萬法に歸す」と、云々。如此、その分+ に依て、自然〔自然〕に、面白き一體のあらんをば、諸花と心得べし。然れ共、兒姿の面白さと、成功の達人の面白さも、同心かとの不審をひらかんがため、性花・用花の差別を申分る也。(世阿弥、「拾玉得花」)
世阿弥は「九位」という述作に於いて、藝道の位を九つに分類しているが、そのうちの上三位をもって「性花」といっている。この場合、「性花」という言葉は、世阿弥にとっての「永遠なる美のイデア」を、「桜の花」という具体的なイメージによって暗喩的に表現したものと言ってよかろう。禅門で云う「見性成仏」の「性」は仏性であり、我々自身の内なる仏性を直観することが成仏であり、我々自身の外に仏を求めないと云う徹底した立場が貫徹されるが、世阿弥は能という藝道に於いて、美の本性を桜の花によってイメージ的に表現したのである。九位のなかで最高の位は、「妙花風」と呼ばれるが、世阿弥が禅門における「妙」の用法を念頭においていたのは間違いはない。

上位
妙花風―「新羅、夜半日頭明らかなり」
寵深花風―「雪、千山を覆ひて、孤峯如何か白からざる」
閑花風―「銀椀裏に雪を積む」
中位
正花風―「霞明らかに、日落ちて、万山紅なり」
広精風―「語り尽す山雲海月の心」
浅文風―「道の道たる常の道にあらず」
下位
強細風―「金槌影動きて、宝剣光寒し」
強麁風―「虎生まれて三日、牛を食ふ気あり」
麁鉛風―「木鼠は五の能あり。木に登ること・水に入ること・穴を掘ること・飛ぶこと・走ること。いずれもその分際に過ぎず」

修道次第
―中初・上中・下後―

下三位からはじめてはならず、中位の「浅文風」から初める。広精風が藝の分かれ目で、そこを突き抜けると、「正花風」から上三位へと上れるが、正花風へいけない役者は下三位に落ちる。上三位の藝に達しないものが下三位を演じてはならない。
しかし、上三位に達したものが、元の高さを失わずに下三位の藝を演じることは可能であり、場合によっては藝が高き位に停滞することを潔しとせず、変化をもたらすために、名人にのみ許されるものとする。このことを世阿弥は、 却来、向却来といい、そういう位を「闌位(たけたる位)」ともいう。

「萬法一に歸す。一いづれの所にか歸す。萬法に歸す」という言葉は、多くの美しいものから一なる「美のイデア(妙花)」への帰還と共に、一なる美のイデアから多様なる美しきものどもへの発出という往還の運動を表現するものである。したがって、世阿弥は九位に分けた位を単純なる上下関係に捉えるのではない。一度、上三位に達した後に、下位の美しきものに下降するのは意味のあることなのであり、また下品なるものも上品なるものに劣らぬ価値を有するが故に、能楽の「美」はあらゆる人に「愛敬」されるべきものでなければならず、決して一部のエリートのみの専有物ではないというのが世阿弥の能楽論の特徴である。
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連歌の美学的考察 1

2005-04-20 | 美学 Aesthetics
連歌の付合の根本精神

「親句は教、疎句は禅」とは心敬の言葉ですが、この言葉のあとに、教と禅の一致という思想を付け加えるならば、それこそが連歌の付合の根本精神を要約したものとなるでしょう。心敬の時代に流行していた連歌の特徴は、投句するものが前の句のことを考えずにそれぞれ身勝手な自己主張を展開するものであったと思われます。各人が派手な素材を好み、技巧を凝らして付け句をするが、前句を投じた人の心を無視している。そのために、連歌の技法のみが発達して、付合の心が無視される結果となりました。

「昔の人の言葉をみるに、前句に心をつくして、五音相通・五音連聲などまで心を通はし侍り。中つ比よりは、ひとへに前句の心をば忘れて、たゞ我が言の葉にのみ花紅葉をこきまずると見えたり。されば、つきなき所にも月花雪をのみ並べおけり。さながら前句に心の通はざれば、たゞむなしき人の、いつくしくさうぞきて、並びゐたるなるべし。」

前句の人の心に通い合うものがなければならない-この考え方は、後世の人によって「心付け」とよばれるようになりますが、心敬の場合には、それは必ずしも「意味が通う」ということだけではなく、内容的にも言葉の上でも「響き合う」ものがなければならないということを意味していました。

五音相通・五音連聲とは「竹園抄」という歌論書によると、和歌や連歌の音韻的なつなぎ方の親和性を表現する用語です。「響き」の親句のうち、子音が響き合うものを五音相通、母音が響き合うものを五音連声と呼んだようです。たとえば、「やまふかき霞の...」はK音が響き合うので五音相通、「そらになき日陰の山...」はI音が響き合うので五音連声です。

前句の人の心につけるという場合、心敬が念頭に置いていたのは、新古今集の和歌の上の句と下の句のような一体性であったと思われます。ただし、ただの三句切れの和歌を合作するというのでは、付け句の独立性は失われ、前句の解説をするような従属的な関係になりますから、付け句は独自性と独立性を保ちながら、前句と親和しなければなりません。

心敬が理想とする連歌は、疎句付けでありながら、前句と響き合う付句です。新古今集の秀歌は、定家に典型的に見られるように、疎句表現のものが圧倒的に多いという特徴を持っています。それゆえに、疎句付けとは何か、どのような疎句付けが連歌に生命を与えるかということが心敬の議論のなかで重要な意味を持ってきます。

前句の心を承けることと並んで、前句の何を捨てるか、ということも連歌にとっては大切です。

「つくるよりは捨つるは大事なりといへり」

「捨て所」という言葉がありますが、付け句は、前句のすべてを承けてはならない、のです。(すべてを承けるのは四手といって、連歌の流れをとめてしまう危険がある)かならず、前句の中のあるものを捨てて、新しい風情を付け加えなければならない。そうすることによって、前句から離れることによって、かえって前句の心を生かすことができる、というのが心敬の議論のポイントでしょう。

 心敬がもっとも重んじた歌人は定家とその影響下にあった正徹でした。疎句表現を内在させた和歌が、優れた連歌の規範となっていたということをお話ししましたが、それを裏付けるために「ささめごと」の本文から離れて、藤原定家の和歌を考察しましょう。

若き日の定家は和歌に様々な革命的手法を持ち込んだために、当時の人々にはなかなか理解されず、彼の歌は「達磨歌」(禅問答のような歌)だといって非難されました。一首の上句と下句が一見するところ直接的関係を持たずに別のことを述べているようでありながら、その実、両者の対比のなかで、独特の新しい詩情が成立するごとき歌をかれはたくさん残しています。形式的には、575+77の三句切れであったこれらの歌に内在する対話性が、のちに連歌の付合として生かされていくようになります。いくつかの事例をあげましょう。

仁和寺宮50首から

  春の夜の夢のうきはしとだえして
       峰にわかるるよこぐもの空

  今よりは我月影と契りおかむ
       野はらのいほのゆくすゑの秋

  わたのはら浪と空とはひとつにて
       入日をうくる山のはもなし

  木のもとは日数ばかりをにほひにて
       花も残らぬ春の古里

 これらは、定家の同時代の歌人にはなかなか理解されませんでしたが、連歌が成立したあとの時代を知っている我々からすれば、定家のこういう作品は、まさしく連歌の上句と下句の付合を一首のなかに内在させている歌だということが分かります。それは歴史の順序にそって考えるならば、定家の歌の持っていた対話性、問答性が、後に連歌という形で顕在化したのだといっても良いでしょう。

 定家といえば百人一首の選者でもありますが、この百人一首に選ばれた歌の多くは、上句と下句の間に対話性があることに気づかれるでしょう。そのゆえに多くの人に愛唱され、また歌歌留多のゲームとして愛好されました。上句を聞いて下句の札をとるというゲームには、どこか連歌の付合ににた呼吸が感じられます。

 新古今集は、それ以前の歌集と比べて三句切れの歌が多いのが特徴です。そして疎句表現の歌に秀歌が多く、それらは連歌のなかで本歌として引用されるようになります。

たとえば、式子内親王の

  時鳥そのかみやまの旅枕
    ほの語らひし空ぞ忘れぬ

とか、藤原良経の「祈恋」の名吟

  幾夜われ波にしをれて貴船川
    袖に玉散るもの思ふらむ

などの和歌こそが後の連歌の背景をなす世界であったといえましょう。

三句切れ疎句表現の和歌は決して新古今集のような王朝時代の作品に限ったことではありません。現代短歌でも、たとえば斎藤茂吉の次のような作品はどうでしょうか。

  のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて
    たらちねの母は死に給ふなり

  死に近き母に添寝のしんしんと
    遠田のかはづ天に聞ゆる

  めん鶏ら砂あび居たれひつそりと
    剃刀研人は過ぎゆきにけり

これらはすべて上句と下句が疎句付けになっている短歌です。
最後に、寺山修司の若いときの短歌

  マッチするつかの間海に霧ふかし
     身捨つるほどの祖国はありや

をあげましょう。これは寺山の代表作ですが、上句はある雑誌に出ていた俳句を寺山が借用したというので問題になりました。私の見るところでは、この短歌はもとの俳句とは別のものとして鑑賞されねばなりません。この短歌の詩情は、上句だけにあるのでも下句だけにあるのでもなく、両者がある緊張をはらんで対峙している疎句付の関係にあります。 こういう種類の詩情こそ、連歌が追い求めているところのものに他ならないのです。 


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連歌の美学的考察 2

2005-04-19 | 美学 Aesthetics
連歌の十体

連歌の付句の分類は様々な観点から行うこととができます。

心敬の分類は、定家の十体論を連歌に適用したものですが、後世の付け句の分類が言葉のつながりだけに着目した技術的なものが多いのに比べると、句の「心」を重視している点に特徴があります。付句の分類といっても、たとえば二条良基の分類もまた後世に大きな影響を与えましたが、それは様式の上の分類であって、価値評価の基準が明示されていません。(平付けや四手、余情、本説など、その後の連歌論や俳論にも引き継がれましたが)どのような付けが理想とされるかという問題が歌学の根本であるとすると、単なる付句の分類だけでは連歌の美学としては物足りない物があります。それに比べると、心敬の分類は、明確に価値基準にコミットしている点でより自覚的な物であるといえましょう。

幽玄体(ゆうげんてい)

     「わかれ思へば涙なりけり」に対して
     松風の誰がいにしへを残すらむ     救済

幽玄体は疎句づけでなければなりません。前句は、将来の別れのつらさを詠んだものであるが、それを付句では、「いにしへ」即ち過去の物語(源氏物語「松風」の別れか)を面影にしてつけています。松風の音が過ぎゆくように、すべては跡形もなく消えてしまうであろう、という意味。この述懐は、将来と過去とを現在において同時に見るような視座に移ることによって、「時の無常」そのものを詠んでいると解釈できましょう。

     有心体 (うしんてい)  

   「主こそ知らね舟のさほ川」に対して
  奈良路ゆく木津のわたりに日は暮れて    救済

有心とは、広い意味では優れた連歌のすべてについて云われますが、十体のひとつとしては、前句の心を良く汲んでつける親句をさします。掲句では、佐保川→奈良路 と場所の一致を重んじ、自分も前句に最もふさわしい夕暮れ時を配することによて、捨て舟にふさわしい情趣をかもしだしています。

     長高体(ちゃうかうてい)

    「かぞふばかりに露結ぶなり」に対して
   春雨にもゆる蕨の手を折りて    順覺

長高体は基本的に疎句付けです。前句の露(秋)を、春の蕨の新芽に結ぶ露に取りなした句。転換の妙と共に、前句の「かぞふ」に「手を折る」によって応じた句。連歌の第三に要求される「たけの高い」句の体です。

      麗体(うるはしきてい)

    「月こそ室の氷なりけれ」に対して
    三熊野の山の木枯吹きさえて      良阿

ここで云う種類の「麗体」とは、冬の「寒く痩せた風体」のもつ美のことです。これはむしろ心敬自身の「さび、ひえ、こほりたる」風情の美学とも関係します。
ここでは、通俗的な「春の花」、「秋の月」の美しさではなく、冬の月、山の木枯のもつ「麗しさ(詩情)」が、心敬によって発見されたということに注意したい。

    濃体(こまやかなるてい)

   「水やのぼりて露となるらむ」に対して
   玉だれの小瓶にさせる花の枝   信昭

 濃体は親句付けで、前句とともに繊細にして典雅な風情を与えるものを指します。

     面白体(おもしろきてい)

     「心たけくも世を逃れぬる」に対して
   みどりごの慕ふをだにもふりすてて    良阿

 これは、物語的な面白さを本説とする句を指すようです。
掲句の場合は、西行の出家に関する説話をふまえているのでしょう。

   一節体(ひとふしのてい)

    「心よりただ憂きことに塩じみて」に対して
  入り江の穂蓼からき世の中

は「ひねり」の利いた句をさします。機知ないし頓知の働いた付句。

     事可然体(ことしかるべきてい)

    「人に問はれむ道だにもなし」に対して
   花の後木のもと深き春の草    良阿

「なるほどもっともである」と納得させる付句。
前句との関係が云われてみれば、非常に筋道が通り説得力がある付句です。幽玄体や麗体とはちがって、情趣よりも理性に多く訴える付句です。

    写古体(しゃこてい)

  「上下をさだむる君がまつりごと」に対して
   絶えず流るる賀茂川の水    善阿

これは、伝統を尊ぶ内容を持つ句です。かならずしも言葉遣いが古風である句に限定されません。掲句は、前句の上下を賀茂川の上下の神社に取りなして、伝統の重さを詠んでいます。

    強力体(がうりきてい)

「ふしおがむより見ゆる瑞垣」に対して
 これぞこの神代ひさしき宮柱

これは麗体が女性的なのに対して、男性的な力強い付句です。
掲句はさらに荘厳なイメージが伴いますね。

心敬の独自性は、これらの十体のすべてに通じていなければならないということを強調している点です。どれか一つの体を特別視するのではなく、様々な前句に対して、融通無碍に対応できる柔軟な心を重視したことの現れといえるでしょう。

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連歌の美学的考察 3

2005-04-18 | 美学 Aesthetics
五型説

連歌にとって重要な歌学上の分類は五型説です。これは、もともとは和歌の五七五七七の五つの部分の果たす役割を論じた三五記(定家に擬せられた歌論書)に由来しますが、心敬によって連歌の付句のありかたと関連させて論じられるようになりました。心敬の説明は、用件のある来客が案内を請い、用件を果たし、訪問先を辞するまでの五段階になぞらえて、連歌の五型を説明しています。

   篇:「訪問する家の軒先に佇んでいる」
   序:「取り次ぎをする人に案内を頼む」
   題:「訪問の理由を述べる」
   曲:「訪問の趣旨を説明する」
   流:「暇乞いをしてその家を退出する」

連歌の上句と下句は一体となってこれらの五型を兼備すべきことが要請されています。

たとえば、上句が曲を中心とするものであれば、下句は、曲以外の型をもってつけなければなりません。連歌にとって重要なことは、上の句も下の句も単独ですべての体を備えないように配慮すべきだと云うのです。つまり、一句がすべての型を備えたのでは、付句の必要がなくなりますから、かならず「云われていない部分」を残しておかねばならないという考え方を明確に述べたのが連歌五型論です。

ここから心敬独特の「痩せ」の美学が出ます。これは後世の芭蕉の「細み」の先駆とも言えますが、一句の中に欲張って多くのことを詠み込む句をよしとせずに、かならず言い残された余情のあることを強調します。具体例を挙げましょう。

   「罪も報いもさもあらばあれ」という前句に対して

  月残る狩場の雪の朝ぼらけ  救済

は、前の句には曲(理)のみがあり、それだけでは歌になりません。付句が「篇序題」を言い表しているので、両者が一体となって、はじめて歌になります。前句は「罪も報いもかまうことはない」という享楽的・直情的な発言に過ぎず、意味内容ははっきりしていますが、それだけでは全く詩情のない散文にすぎません。これに対して救済の付句は、疎句付けです。前句に対して、一見関係のない月と雪の景色を出していますが、前句と共に詠むと、「このような風情ある自然の美を前にすると、自分の罪も報いも消え去り、心が洗われるような気持ちがする」という、深い詩情を湛えた歌に変貌します。そして、この救済の句は、「曲」の部分を欠いているが故に、新しい付句によって、前句とは全く異なる世界を拓くことが可能になる。これこそ、すべてを言い尽くさぬことによって、かえって、新しい世界に対する「開け」をもたせるという連歌の美学の基本といえるでしょう。
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連歌の美学的考察 4

2005-04-17 | 美学 Aesthetics
二条良基について

「俳句」という用語が「発句」にとって代わったのは、明治以後で 「連俳は文学に非ず」として、発句を連歌から切り離して「俳句」 として独立させた正岡子規とその後継者達の影響によるものです。

私は、子規の連歌や俳諧に関する見方は狭量で間違っていると思っていますが、過去の権威に囚われずに思ったことをずばずばと言った歌の世界の「革命家」としての気概に満ちた青年子規の文章には今でも惹かれます。

 子規は、実作者としてよりも、理論家として、新しい時代の短歌や俳句のあり方を方向付けました。大事なのは、彼が自分の理論に基づいて俳句の結社や句会のありかたを決めたことでしょう。

 たとえば、無署名で投句された句を参加者が全員対等の資格で互選し、その後で講評・披講するという現在普通に行われている句会の形式は、子規とその後継者達が始めたことです。これが作品の創作を活性化する場を提供し、江戸時代の俳諧の「座」にかわる俳句の新しい「座」となりました。

 ところで、今日は、室町時代の連歌の世界に颯爽と登場した若き論客、二条良基 (一三二〇―一三八八) を紹介したいと思います。遙か後世に 正岡子規が明治以後の短歌や俳句の世界を方向付けたのとおなじように,その後の連歌のあり方を定める理論を明快に提示した良基もなかなか魅力的な人物です。

「僻連抄」は良基二六歳のときの著作で、連歌に手を染めてから十年くらいしかたっていない青年の手になるものですが、実に堂々たる気概に満ちた文章で、彼が後に師の救済の校閲を経て著した「連理秘抄」の草案とみられています。

 連歌を共同で製作するひとは何を心得ておかなければならないか、連衆の従うべきルールを定めたものが、「式目」ですが、良基以前の連歌では宗匠格の人がそれぞれの座で勝手に定めた規則に従っていたわけで、全国共通のルールというものは無かったのです。いわば、それぞれの地方で、「方言」を語っていた連歌の世界に「標準語」を導入するということを良基はやったわけです。
「式目」の制定者としての良基については、またあとで語るとして、今日は「僻連抄」のもうひとつの大事な側面と私が考えているもの---彼の発句論についてお話ししたいと思います。 
 良基は、まず発句は表現効果のはっきりとしたものが望ましいといいます。彼が、発句の良き実例として挙げている句は

霜消えて日影にぬるる落葉かな

です。日影にぬれる落葉によって「霜の消えた」様を表現したこの句を良基は「発句の体」であるとのべています。ところで、時代は遙かに下りますが、「切字なくしては発句の姿にあらず」とは芭蕉の言葉です。ところが、その芭蕉が、別のところで、「切字をもちふるときは、四十八字みな切字なり」とも言っています。つまり「かな」とか「や」とか「けり」というような言葉をつかわなくても句の「切れ」は表現されるわけですから、句に「切れ」があるかないかはどうやって見分けるのか、という問題が当然生まれます。

さて、良基は、連歌論の嚆矢とも言うべき「僻連抄」の中で、

  「所詮、発句には、まず切るべきなり。切れぬは用ゆべからず」

と切れの重要性を強調した後で、句に「切れ」があるかないかを見分けるじつに明快な方法を教えています。具体的には 

   梢より上には降らず花の雪

という句には切れがあるが

   梢より上には降らぬ花の雪

には切れがない。その理由は、 「上には降らぬ花の雪かな」とは言えても「上には降らず花の雪かな」とは言えないからだと言っています。これなどは、実に分かりやすい説明ですね。 俳句に季語は必要不可欠ですが、そのルーツを辿っていくと連歌の発句に「折節の景物」を詠むべきであるという良基の主張に出逢います。

発句の成否は連歌の出来を左右するということを述べた後で、良基は、

発句に折節の景物背きたるは返す返す口惜しきことなり

と述べていますが、これは、その当時の連歌師に発句に季題を詠まぬものがいたことを示しています。

連歌の「折節の景物」は、和歌の世界の伝統を受けたもので、後世の俳諧の季題のように多彩ではありませんが、良基は次のものを挙げています。
 
正月には 余寒  残雪  梅 鶯
二月には 梅 待つ花より次第に
三月までは ただ花をのみすべし。落花まで毎度、大切なり。
四月には 郭公 卯花  新樹 深草
五月には 時鳥 五月雨 五日の菖蒲
六月には 夕立 扇 夏草 蝉 蛍 納涼
七月には 初秋の体 萩 七夕 月
八月には 月 草花色々 雁
九月には 月 紅葉 暮秋
十月には 霜(十二月まで) 時雨 落葉 待雪 寒草(十一月まで)寒風(十二月まで)
十一月には 雪 霰
十二月には 雪 歳暮 早梅
 
 これらの景物を詠むべきであるとは、発句が嘱目の句でなければならないことを意味していました。従って、都にいて野山の句を詠んだり、昼の席で夜の句を詠むこと、「ゆめゆめすべからず」と注意しています。

発句の良きともうすは、深き心のこもり、詞やさしく、気高く、新しく当座の儀にかなひたるを上品とは申すなり

とは、後に「筑波問答」のなかで述べた良基の言葉です。
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プロセスの詩学ー座の文藝に関する考察  1

2005-02-24 | 美学 Aesthetics
プロセスの詩学ー座の文藝に関する考察



連歌の附合においては、一句一句が独自性・独創性をもちつつ他の句と調和し響き合うことが求められる。連歌の創作と鑑賞を通じて、我々は、個我の内面に閉ざされた近代文芸の自己意識を越える「無私」の場の開放性を経験し、そこにおいて日本の伝統的な和歌の心にふれ、「作られたものから作るものへ」と相互主体的に動きゆく創造活動のただなかにおいてあらたに伝統に生かされた自己を見いだすのである。
(朝日新聞文芸欄「うたの出会い」より)

一 相互主体性の場とプロセス

「我々の自己の自覺と云ふのは、單に閉ぢられた自己自身の内に於て起るのではない。自覺は自己が自己を越えて他に對することによってのみ起るのである。我々が自覺すると云ふ時、自己は既に自己を越えて居るのである」
(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」より)

自覚にとって「他者に対する」ことは必要不可欠である。場所的自覚―相互主体的な場における「自覚」―は本来的に関係的性格を持っている。それは近代人の個の内面に閉ざされた「自己意識」としての「自覚」から、「私と汝」という場への開けをもつ場所的「自覚」へという後期西田哲学の発展の相を示すものでもある。このような相互主体的な場に開かれた「場所的自覚」の実例として、俳諧(俳句と連句)の座というもののもつ性格を捉え、そこから「場所の詩学」なるものを考察する手がかりとしたい。

二 俳句の座―句会

(1) 桑原武夫の第二藝術論再考

桑原の主張:

「近代芸術ならば、その作品は作者の個性が明確に刻印されていなければならない。しかるに俳句の場合、作者を伏せて、一句だけを孤立して鑑賞させるならば、そこには作者の個性を認めがたい。したがって、そのような没個性的な作品の生まれるジャンルを近代藝術と呼ぶことはできない。古典的な俳諧の発句とは違って、現代俳句の場合、作者名を伏せて、五七五の一句のみを単独で取り出した場合は、どれが優れた作品であるかを判定するのは困難である。」
このことを証明するために、桑原は、英国の文学者リチャーズに倣ったという實驗を試みた。彼は、大家といわれているプロの俳人の句と素人の句を集めて句集を作成し、作者名を伏せて、多数の人に評価させたのである。結果は、とくにプロと素人の間に顕著な差は認められないということであった。このことを以て、桑原は俳句を藝術と呼ぶことを拒否し、一種の芸事ないし習い事として、第二藝術という名前を冠したのである。

桑原が見落としたこと:

桑原がリチャーズにならって行った文藝上の實驗は、じつは俳句結社では、子規以来「句会」としてすでに行われていた。したがって、彼の文学的實驗は、俳人にとっては全く目新しいものではなかった。それは、明治の初期に、俳句を月並俳句の宗匠の権威から解放し、参加者が平等の資格で互選する句会形式を創始した子規とその後継者のやりかたによってすでに先取りされていたのである。桑原は、俳句の制作が句会という相互主体的な場を不可欠の契機としていることを見落としていた。

(2)句会とは何か

俳句の制作は句会を抜きにしては考えられない。すでに江戸時代に於いて、発句のみを詠みあうことが行われていたが、明治以後は、俳諧の座を受け継ぐ形で句会が普及した。ここでいう句会とは投句、選句、披講という三段階を持つ相互主体的な俳句制作の場を意味する。

投句:それぞれの作者が他者(連衆)のまえに自作を匿名で発表する。
選句:句会の参加者の投じた匿名の作品の一覧を作成し、作者と作品を切り離した上で、他者の作品を各人が選び、優劣をつけ、それを批評する。句会の参加者は、作者であると同時に選者であり、その点においては、宗匠も新参者も対等の資格で参加する。
披講:選句された句の作者名を公開する。場合によっては、作者自身の解題が付け加わることもある。

句会には点を競い合うゲームの側面もあるが、それよりも、俳句の制作における相互主体性の場を提供していることに注意したい。つまり、句会においては、作者は一度姿を消して、作品として連衆の前に登場する。 連衆は、その作品を各人の批評の基準に照らして評価する。その基準は参加者一人一人によって異なっているのが普通であるが、句会の参加者の個性は、各人がいかなる句を投じたかということだけでなく、いかなる句を選んだか、ということによって、明らかになるのが普通である。それゆえに、継続して句会に参加し、相互主体的な交わりを続けていくうちに、俳句作者は、相互の批評に晒されつつ、自己の制作者としての「自覚」を深めることができるのである。いいかえれば、俳句作者の個性は、他者による批評の荒波をくぐったあとで確立されるのであって、宗匠も新参者も差別しない平等無差別なる場に、ひとたび立った後で、自己を確立するといってよかろう。

桑原の議論は、俳句の中には近代芸術の概念では説明しがたい部分があることを示しているが、そのことは俳句が特殊な日本的藝術のジャンルであるということを意味するのであろうか。
季語と切れ字を持つ定型短詩として俳句を捉えるならば、それが日本に固有のものであるという意見が出るのは当然であろう。しかし、このような見解は、俳句が日本という国境を越えて現在では地球上の多くの人に享受されているという事態を適切に説明することができない。現在では、俳句はHaikuとして国際化した文藝ジャンルとして認められており、俳句とは何かという問題には国境を越えた広がりがある。俳句には日本語と日本の風土に限局された特殊性だけでなく、詩の本質に通底する普遍性もまた秘められているからであろう。文藝作品に於いては、特殊に徹することが普遍に通じる道でもある。日本の風土に立脚し日本語という特殊性の中で生まれた俳句や連句のような座の文藝に内在する普遍性を次に問題としたい。

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