歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

プロセスの詩学ー座の文藝に関する考察  2

2005-02-24 | 美学 Aesthetics
三 現代詩と俳諧的なるもの― Impersonalityの詩論

 もし、詩が作者の個性に根ざす物であり、制作(ポイエーシス)が、個の内面にあるものを外化するという意味での表現であるとするならば、個性は作品として制作される以前に既に存在するということになろう。詩を読解するということは、外からは窺い知れぬ作者の内的な生を読者が感情移入によって理解するということになろう。

ところが、藝術作品の表現は、そのように個の内面から外面への表現と言う方向性ではなく、西田幾多郎がそうしたように「(表現的)一般者の自己限定 即 個と個の相互限定」という方向から見ることができる。俳諧や連歌のような座の文藝に於いては、個の閉ざされた内面を表現することではなく、言葉による制作の働きを相互主体的な場で遂行すること、「作られたものから作るものへ」と創造活動が展開することによって、一巻の作品が巻き上げられる。

藝術作品の制作を作者の個性の表現と見る見方を真っ向から否定した詩論として、T・S エリオットの「伝統と個人の才能」がある。

「詩は情緒の解放ではなくて情緒からの脱却であり、個性の表現ではなく個人性からの脱却である。 当然のことであるが、個性と情緒を持っている人だけが、個人性と情緒から脱却するとはどういう意味か分かるだろう」(「伝統と個人の才能」)

彼は、詩人の役割を科学者になぞらえて「藝術が科學の状態に近づくということは、この個性滅却の過程でいわれるのだ。そこで、私は細くひきのばした白金の一片を酸素と無水亜硫酸のはいった容器にいれるときに起きる反応を考えて貰いたい。この類推によって示唆が得られるだろう」とまで謂っているが、ここには若干の誤解があるように思う。藝術家の「個性滅却」というのは、藝術が科學の状態に近づくということではないであろう。科學は最初から科学者の個性とは関係がないという意味で、「没個性」的であって、そこでは、「感受の主体」は問題にならない。しかし、藝術作品の制作と鑑賞においては、まさしく、作者や鑑賞者の「主体性」が問題となる。
客体の持つ通約可能な「類的普遍性」ではなく、客体的な類種の違いを越えた「主体的な普遍性」こそが、藝術作品の持ちうる普遍性である。藝術作品の批評においては科学者がやるような第三者(傍観者)的な藝術作品への関わりはありえない。

それでは、「個性滅却」の詩論が意味するところは何であるのか。おそらく、それは次のようなエリオットの文に真意を求めるべきであろう。

「芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしていくこと、絶えず自己を滅却していくことにある」

つまり、「非個性的である」ないし「没個性的である」という静的な状態ではなく、自己を犠牲にしていくこと、個性を滅却していくこと、その動的なプロセスが問題である。 

エリオットの言うImpersonality の詩論というのは、より内容に即して考えるならば、「人格とか個人とかいうものは、経験に先立つ実体ではない」という立場から為される詩論である。彼は、もともと哲学専攻で、博士論文のテーマは、英国の形而上学者フランシス・ブラドレーに関する研究であった。ブラドレーの哲学は、主客未分の「今此処における直接経験、純粋な感情(feeling)」からはじめて、絶対者(Absolute)に至るという点に特色がある。すなわち「個人よりも経験が先行する」ということ―これがポイントである。個性は経験することによって形成される、だから、そこでつくられた個性は、つねにそれを越えるものに接することによって自己を越えていくものだ、という意味である。詩作も又、他の一切の経験と同じく、直接経験からスタートするのであるが、そこでいう直接経験というのは経験する主体がまず先に(実体として)存在して、それが外界を直に経験するという意味ではなく、通常、我々が、人格なり個性を持った個体として考えているものが、そこにおいては解体されるようなレベル(主客未分の経験)を意味する。だからこの経験を表すのにブラドレーは、感情(feeling)という言葉を使った。この文脈では「感情」 は「物」と化した個人の経験の殻を突き破る働きをする。したがって、エリオットの言わんとするところを「没個性(impersonality)」の詩論というだけでは十分とはいえないであろう。詩の制作に於いて個は否定されることに於いて肯定されるという逆対応的な側面があるからである。すなわち、ひとたび個が滅却された表現的一般者の場においてこそ、掛け替えのない「個」が獲得され、表現されることを伴うものでなければならない。

彼の後年の作品「四重奏」に、

In order to arrive there,    
To arrive where you are, to get from where you are not,
you must go by a way wherein there is no ecstasy.
In order to arrive at what you do not know
you must go by a way which is the way of ignorance.
In order to possess what you do not possess
you must go by the way of dispossession.
In order to arrive at what you are not
you must go through the way in which you are not.


(訳)
君がいない場所から、君がいる場所に達するためには
自己陶酔なき道を行かねばならぬ
君の知らぬものに達するためには
無知の道という道を行かねばならぬ
君の持たぬものを持つためには
無所得の道を行かねばならぬ
君でないものに達するためには
君のいない道を通って行かねばならぬ

というくだりがある。エリオットは仏教徒でもなければヒンズー教徒でもなく、あくまでもキリスト者の詩人であるが、これらの詩句には、そういう宗教上の差別を越えて訴えかけるものがある。 それと同時に、「無知」「無所得」の道を歩み通すことを指示するかれの詩作品自体のほうが、個性滅却の詩論のむかうべき方向性を示しているのではないか。

俳句が日本以外の文学に影響を与えた事例として、二〇世紀の英米の詩人たち、とくにイマジズムの詩人のケースがある。エリオットが第一次大戦後に発表した詩「荒地」を制作するに際して、詩人としてアドバイスを与え、原案を添削したエズラ・パウンドは、「イマジズム」の詩人として知られているが、彼の詩論に日本の俳句が大いに影響したことは文学史上の興味ある事実である。イマジズムの詩の作法というのは

(1)瞬間のうちに知的・情緒的な複合体を提示する
(2)余計な説明をせずに、具体的な「事物」それ自体を明確に表現する。
(3)メトロノームのような因習的な韻律を排し、内容に即した自由な韻律で詠む。

の三つであるが、これは英国では、自由詩の運動の延長線上にあった。
説明抜きに二つのイメージを配合する無韻の短詩は、当時の人にとっては、非常に前衛的な「詩の作法」であった。パウンドにとって

The fallen blossom flies back to its branch:A butterfly.
(落花枝にかへるとみれば胡蝶かな)

という守武の句は天啓のようなものであったという。落花という「死のイメージ」と、上に向かって翻る胡蝶の「生のイメージ」の即物的な取り合わせが、イマジズムの詩法の原点となったのである。

俳句は日本では伝統的な定型詩のひとつであるが、それはイマジストの詩人たちには「前衛的な自由詩の作法」として受容されたことに注意したい。もともと俳諧は連歌という第一藝術の余技として生まれたものであったが、連歌とはちがって自由でとらわれない革新性をもっていたから、それはある意味で「自由詩」という性格を持っていた。その俳諧の自由な精神が二〇世紀の英米の前衛的な詩の手法と結びついたのである。 

四 連歌における相互主体性

俳句とは元来は俳諧の発句である。そして俳諧を純正連歌にならぶ第一藝術としたのは芭蕉であり、或る意味で、彼は連歌の伝統と俳諧の革新性を統合した人物である。したがって、俳句の起源もまた、連歌まで遡らせることができるであろう。(連歌と俳諧を合わせて連句と呼ぶのは明治以後である)

連歌の正式の形態である百韻は四楽章形式の交響曲になぞらえることができる。連歌の素材は俳句よりも広く、四季折々の花鳥諷詠のみならず、世態人情、恋、述懐、羈旅、藝能、神祇釈教など、およそ詩歌の扱いうるすべてにわたっている。百韻の中にそれらを万華鏡のように詠み込むことが必要である。しかしながら、それらを詠むにあたって、一定の秩序と調和が必要になるので、それを句数と去嫌の式目によって定められる。この連歌式目には日本人の伝統的な美意識が内在するコスモロジーとして興味深い点が多々あるが、それはあくまでも複数の作者が交互にそれぞれが主となり客となって句を詠みあうときの秩序を規制するもので、式目それ自身は良き連歌を制作するための必要条件であるに過ぎない。重要なことは、それぞれの句の間に存する「附合」の美学である。

  連歌の美的理想をもっとも体系的に述べたのは中世の芭蕉とも呼ばれる心敬である。彼の主著、『ささめごと』は、多くの点に於いて蕉風俳諧を先取りする議論がなされている。とくに

   親句は教、疎句は禅、親句は有相、疎句は無相、親句は不了義、疎句は了義経。

というごとく、仏教哲学の用語を以て連歌の理念を述べている点に特色がある。

心敬の歌論では、「疎句附け」が連歌の醍醐味とされている。それは、禅問答に典型的に表されるような独特の対話的精神の発露であり、連歌の附合の呼吸を表現するものであった。
 親句とは、客人の挨拶として投ぜられた発句に答える主人の脇のように、前句の内容に即して、それを補足しうち添える句を指す。これに対して、疎句とは、連歌の前句と付句との間に「切れ」(非連続性)があり、二つの句が独立自存しながらも深いレベルで響き合うことを意味している。連歌において即興性が重要であることは言うまでもないが、付句が前句に寄りかかり、意味の上で論理的につながるのではなく、また、「寄合」とよばれた語句の連想に頼るのではなく、その都度の作者によって見いだされた新しい世界を古い世界に対比させることを意味する。古い世界の繰り返しにとどまる付句は「付きすぎ」といって退けられる。そして、このような疎句付けを重んじる連歌の作法が、俳諧において芭蕉に受け継がれているのである。

芭蕉の俳諧における重要な特質の一つは、その附合が従来の附物・心附にとどまらず、いわゆる匂附を根本としたところにある。一句の独立性と二句の連関性とは矛盾する要求であるが、この矛盾を創作の原理に転じたところに連歌の疎句付けの妙味があった。

  「附心は薄月夜に梅の匂へるがごとくあるべし」
という芭蕉の言葉がある。彼によると
   「秋よりのちの朝顔のいろ」(短句)
にたいして、

「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」(長句)

と続ける「附心」が、匂づけである。(俳諧芭蕉談)

  まず、「季節遅れの朝顔の花」の余情を尋ねる。その情は、いつか時を過ぎてなお微かに色香をたもっている女性の姿を彷彿とさせる。この余情を形に表して、「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」と続ける。つまり、「朝顔のいろ」は純然たる叙景であるが、それがある人物の姿となって現れる。これは、「風姿」→「風情」への転調と言って良いだろう。朝顔が前句にあるからといって、朝顔にゆかりのある「物」で付けたのでは「物付け」となり、情趣に乏しい。前句の余情に付けるから「匂づけ」であるが、「匂」は、その物ではなく、その「物の影」である。

ところで、「物の影」に付けるのではなくて、これが「物語」の影につける場合は、「面影(俤)づけ」といわれる。芭蕉の俳諧の場合、中国と日本の詩歌の古典―源氏物語、李白・杜甫、白楽天などの漢詩など―が、やはり下敷きになっている。そして、それらが、同時代の生きた俳諧の言葉で語られている。「面影づけ」のばあい、その句は背景を為している古典を知らない人が読んでも、情趣のあるものであることが要求される。つまり、引用であることを知らなければ理解できない句はあまり洗練されていない付け方である。
「冬の日」の「木枯らし」の巻から事例をひくと

     二の尼に近衛の花のさかり聞く   野水
       蝶はむぐらにとばかり鼻かむ  芭蕉
     乗り物に簾すく顔おぼろなる    重五

などは源氏物語の「匂い」につけた面影づけ。この歌仙のフィナーレは
   
     綾ひとへ居湯に志賀の花漉して    杜国  (花の定座)       
       廊下は藤の影つたふなり     重五  (挙句)

であるが、杜国の句は、謡曲「志賀」の「雪ならば幾度袖をはらはまし花の吹雪の志賀の山越」
の歌枕を詠み、絹ごしの湯に散りこむ花片のイメージで「匂の花」を表現したものである。
これらの古典の世界はあくまでも俳諧が成立する場において共有された記憶であり、作品の「地」となるものであるが、それらが、ひとつひとつの句に限りなき陰翳を与えている。 匂附も面影附もその意味で誠の俳諧の独自の美学を形作る。

五 座の文藝における創造性―オリジナリティの尊重

俳句や連歌は、個性滅却という求道的な自己否定のプロセスを経て獲得される詩であるが、そのように一度否定された個性は、歌の制作の場においては、創造的な個として再び肯定される。そのことは、作品の制作の現場におけるオリジナリティの尊重というかたちで現れる。
古くは和歌の時代から、「個の創造性」ないし「創造的な個」を尊重するという考え方が厳然として存在した。近代以降の著作権とは異なるが、模倣を誡め、つねにオリジナルなものを制作することを尊ぶ気風があった。すなわち、作品は決して私物化されず公共的な場で制作されるが、個々の作品のもつオリジナリティは尊重されたのである。

新古今の時代には、「主あることば」または「制詞」ということが云われていた。これは、すでに誰かが使った表現は、二度と繰り返して使ってはならないという作家の心得のようなもので、秀歌を詠んだ原作者のオリジナリティを尊重せよという主旨であった。 古くは、定家の「近代秀歌」に 「年の内に春は来にけり」「そでひちてむすびし水」 「つきやあらぬはるやむかしの」
などの句は、たとえ本歌取りの歌であっても、使ってはならぬという家伝があったとの記述がある。この考え方が、定家の嫡男、為家の「詠歌一体」 のなかで、「主ある詞」を使ってはならぬという「制詞」として明示されている。

連歌や俳諧において等類の句を避けるのは和歌以上に難しいように見える。というのは、連歌俳諧は、一個人の作品ではなく、座において成立する作品であるから、座の参加者は、他者と共有する世界を確認しつつ、連歌の世界に和歌と通底する連想の広がりを与えるために本歌取りの誘惑に常に晒されるからである。 宗祇が古今伝授をうけた古典学者であったことからもわかるように、室町時代に活躍した連歌師は、古今集、新古今集、源氏物語の織りなす世界に通暁していた。したがって、彼らの作品は、そういう古典的世界からの本歌取りになっている事が多い。 しかしながら、そういう状況に飽きたらず、連歌に和歌と同等の厳しいオリジナリティを求めた歌人がいたことに注意したい。

二条良基は、連歌を即興的な「当座の慰みもの」から離脱させ、古典的な和歌に匹敵する新しいジャンルとして確立させたが、彼はまさに、連歌においても等類の句は避けるべきであると強調している。 彼は、「九州問答」という歌論書において

歌の同類を連歌に仕り候ふこと、周阿(同時代の連歌師)なども常に候ひしと覚え候ふ。仮令、周阿が句に

  我に憂き人ぞ水上涙川

是は主(周阿のこと)も自賛し候ひし。

と、当時評判であり、また作者自身が自賛していた句について、 この句が古今集からの借り物であるがゆえに、さほどの評価に値しない、と言っている。 つまり、周阿の句は古今和歌集恋歌一の

     涙川なにみなかみを尋ねけむ物思ふ時のわが身なりけり

の本歌取りであり、「古歌同物」にちかく、「新しき風情」ありとは認められない、という。つまり良基は、安直な本歌取りを 「真実道を執せん人好み用ゐるべからず」 と戒め、 「歌にも連歌にもいまだなからん風情こそ大切に侍れ」と結んでいる。

芭蕉の門下では、一般に「等類の句」「同巣の句」は、 避けるべきことが言われる。

イ.樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉
ロ.桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆

「去来抄」によると、其角はロがイの「等類の句」であると非難したとのこと。
これに対して、凡兆は、言葉遣いは似ているけれども、句の意味内容が全然違うから「等類の句」ではないと反論した。去来の考えでは、句の主題は全然違うけれども、言葉遣いが類似しているのでロはイの「同巣の句」であると評した。 つまり

「等類の句」=同じ趣向、おなじ内容の句
「同巣の句」=同じ言葉遣いの句

である。去来によると、「同巣の句」を作るのは容易安直すぎるのが問題である。 「同巣の句」を詠んだとしても、それは詠み手にとって、すこしも「手柄にはならぬ」と云う。このように蕉門では、「等類の句」や「同巣の句」は、原則として避けるべきであるが、場合によっては、もとの句よりも優れた「等類の句」や、もとの句にない新しい内容を感じさせる「同巣の句」が出きる場合がある――そういうときに限って、例外的に許容された。

 芭蕉自身は、たとえ自分自身の作品であっても、過去の作例と「等類」あるいは「同巣」の句を作ることを極力避けようとしたことが良く知られている。「清滝や浪にちりなき夏の月」 という辞世の句が「白菊の目にたててみる塵もなし」と「等類」の句となるがゆえにこれを案じ変えて 「清滝や波に散り込む青松葉」としたことなど、 「去来抄」にある通りである。

芭蕉の「俳諧の誠」は、過去を乗り越える 「あたらしみ」が生命であるので、自分自身の過去ですら 模倣を許さないのである。

更に芭蕉が、自らの辞世の句が過去の自作と「等類の句」 となることを嫌った理由として、「誠の俳諧」をたしなむものに固有の美意識があったことがあげられる。誠の俳諧は連歌とおなじく、一巻の中に類似した発想が繰り返されることを「輪廻」や「観音開き」と言って最も嫌う。同じ趣向の反復は輪廻から解脱すべき自由なる精神にふさわしくないのである。その自由は過去からの自由であり、つねに「新しみ」をもとめて未来に賭ける創造者の自由であった。

「此みちに古人なし」「我はただ来者を恐る」(三冊子)という芭蕉の言葉はかかる意味に理解されるべきであろう。
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自然ということ 1

2005-02-24 | 美学 Aesthetics

 
或る短歌結社の歌会に出た作品を一つ引用しよう。 

   頑張れと口にはしないが頑張れという話はするカウンセラー

この歌について感想を求められたので、私は、次のようなコメントを書いた。

  挫折し心理的に落ち込んでいる人間に「頑張れ」と言うことは、全く励ましにならぬ場合がある。そういうことはカウンセラーは熟知しているのであろうが、結局の所、カウンセラーの話も「頑張れ」ということを間接的に言っているだけだったということに気付いて、作者は何とも救われない気持ちになった――こういうのが歌の主意であろう。「頑張れ」という言葉が空転し、すこしも生きてこない状況というのは確かにある。そういう言葉が、意気消沈し気力を失った人の魂に届かないこと、あるいは、その人自身のためではなくて、誰かよその人間ないし組織のために、その人を叱咤激励しているに過ぎないことに起因するのであろう。一体どういう言葉が、空転せずに、人を救うことができるのであろうか。そこで、短歌ではなく俳句であるが

     頑張るわなんて言うなよ草の花  坪内稔典

という作品を例にとって考えてみたい。実は、かなり以前のことではあるが、この句によって勇気づけられ「救われた」という感想を寄せられた女性のことを思いだしたからである。彼女は、「頑張るわなんて言うなよ」のあとに「切れ」をいれて読んだという。「頑張るわ」というところは、人為の世界の話である。そして、それとの対比において「草の花」というものそのものが登場する、その「草の花」の現前に撃たれたというのである。

    頑張るわなんて言うなよ/草の花 

 「頑張れよ」とか、「頑張らなくても良い」、とか言うのはあくまでも人間の世界の話なのであって、「草の花」は、かかることに関係なしに、自然体で眼前にある、「その草の花を見よ」、というのがこの句の生命だろう。カウンセラーの歌に欠けていて、草の花の句にあるもの、そして、読者を癒やす力のあるものは、このような人為を越える自然への眼差しなのではないだろうか。

 ところで「人為を越える自然」ということを私は述べたが、これは更に説明を要するかも知れない。「自然」という語は多義的であって、それと対比されるものが何であるかによって、意味が変化するからである。哲学的な論議は後回しにして、もうひとつ、そういう意味での「自然」があたかも啓示の如く登場する俳句を例にとって考察したい。それは、加賀の千代尼の俳句である。

  朝顔や釣瓶とられて貰ひ水

 この句については、鈴木大拙が『禅と日本文化』のなかで、芭蕉の「古池や」の句とならんで、禅の心、「真如」のなんたるかを俳句によって表現したものとして詳論している。

 大拙は、明治以後の俳人の間では、この句があまり高く評価されていないことを知って大いに失望したと言われている。 実際、正岡子規以後、近代俳句の作者達は、江戸時代にすでに人口に膾炙していた千代尼の掲句を「通俗的である」とか「偽善的な自然愛好」の句であると言って、酷評してきたのである。この評価の違いはどこに由来するのか。明治以後の近代の文学者が、宗教性と文学性を峻別し、俳句を文学として独立させようとしたことにその理由の一半を求めることもできるが、それよりも、大拙が引用し、英訳した千代尼の句が、

1.朝顔に釣瓶とられて貰ひ水 (一般に流布しているかたち)ではなく、
2.朝顔や釣瓶とられて貰ひ水 (千代尼自身による晩年の改作)

という句姿であったことに注意したい。
(大拙はOh the morning glory ! The bucket made captive, I beg for water.という英訳で論じた)

 この句が、1の「朝顔に」の形で人々に記憶されたのは理由があると思う。 江戸時代に女性の俳人は例外的存在であった。朝顔に釣瓶を採られて 貰水をするという趣向は、男性俳人には思いつかない。 そういう女性らしい心遣い、優しさを詠んだ句は、それまでにあまりなかったのではないだろうか。 「朝顔に」の句姿のほうが分かりやすいのは、句に物語を感じるからである。 そして、この物語性の故に、また、「とられて」と「貰い」のコントラスト、朝顔の「蔓」と、「釣瓶」との掛詞のような面白さの故に、この句は人々に愛唱された。 しかし、千代尼は、後にこの句を自ら添削し、2の「朝顔や」の形に句を改めたのである-それは なぜだろうか。

 「朝顔や」の句では、句の物語性は背景に退き、朝顔の咲いている景が前面に出る。 千代尼の出逢った朝顔の美そのものが前よりも強調される。 それが、切れ字「や」の働きなのであろう。朝顔との一期一会の出逢い、 その束の間の輝きを千代尼は掛け替えのないものとして、そのまま詠みたかった。 千代尼が貰い水をしようとどうしようと、そのこととは独立に朝顔はそこにある。 朝顔は、いうなれば「聖なるもの」の顕現である。千代尼のほうは、朝の日常の仕事も 続けなければならない。だから「貰い水」に行く。しかし、自分のそういう心遣いを むしろ背景に斥けて、ただ朝顔の咲いている朝の情景を前景に出すために、彼女は「朝顔に」を「朝顔や」に改めたのではないだろうか。「に」を「や」に改めただけであるとはいえ、俳句の伝えるメッセージの質には大きな違いが生じているように思う。その違いは、

1.「朝顔に」の句では、句の主題は、朝顔の自然なる佇まいに撃たれた作者の動きの方に向けられている。作者の自然にたいする心遣い、ないし優しさのほうに力点が置かれている。
2.「朝顔や」の句では、作者の心に生じた事柄は背景に退き、人間の思いや煩いを越えた自然そのものが、切れ字「や」によって直指されている。爽やかな早朝の叙景、作者と朝顔との一期一会の出逢いが句の主題である。

 「朝顔や」という詠嘆に込められたもの、その純一なる感動から俳句が生まれたわけであるが、
このような朝顔のあり方、その自然なる佇まいの意味するところは何か。

 千代尼にとって朝顔との一期一会の出会いは、人為的なるものを超越する自然であって、それ自体が、宗教的な啓示の如く彼女の心を撃つものであった。鈴木大拙は、この朝顔の自然なる佇まいを仏教的な言い方で「真如」と言い表したが、このような経験は決して仏教徒だけに限定されるわけではない。西田幾多郎は福音書の「汝等のうちたれか思ひ煩ひて身の丈一尺を加え得んや」という一節を読み感動したと伝えられるが、その先には、さらに次のような言葉もある。

「野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。されど我、汝等に告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その装ひ、この花の一つにもしかざりき。今日ありて明日、炉にに投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給はば、まして汝等をや。(マタイ伝第六章)」

 そこには、キリスト教と仏教の間の差異をこえて、「自然」なるもののあり方が、「恩寵」の如く人々を救済するという事実が確かにある。そのような「恩寵」と通底する「自然」というものに、哲学的な根拠を与えることが出来るであろうか。以下は、そういう問題をめぐって為される一考察である。
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自然ということ 2

2005-02-24 | 美学 Aesthetics
一 「自然」と「恩寵」

 前節では「野の花」に寄せて、専ら詩的言語において「自然」が「恩寵」の如く働く事例を考察した。しかしながら、自然について哲学的な考察をする場合には、野の花や朝顔のような、(普通の意味でも)美しいと認められている事物だけに限定するわけには行かない。高尚と卑賤、美と醜、価値的なるものと反価値的なるものの差別をこえて働くと言うところが、自然の探求の内には存しているからである。プラトンの対話編「パルメニデス」において、老パルメニデスが、善美のイデアにのみ固執する若き日のソクラテスの理想主義を戒め、善悪の価値的対立を越えて物そのものを捉えることを哲学の道としたことには理由があるかかる考え方は、希臘哲学においてのみならず、東洋の諸思想においても見られる。荘子が「道」を一切の事物に認めて差別せずという立場に徹底したこと、道元が、一切存在(悉有)は仏性において捉えられたことが想起される。 

 「自然」という言葉は、哲学・科學・宗教・文藝の諸領域に於いて、様々な意味で使用されてきた。それは決して一義的な語ではない。そこで、多義的なものを統一性を全く欠いた偶然的な多義性として放置するのではなく、ある基底的・焦点的な意味を定め、そこから、様々なる「自然」の意味を系統的に整序したうえで、それらを批判的に考察することを試みたい。

 まず、さまざまな自然概念に共通して「ものの自体的なあり方」が含意されることに注意したい。列子の張湛の注に「自然とは、外より資らざるなり」とあるが、そこでは「自然とは他の力を借りないで、自ずからそうなること、もしくはそうであること」が含意されている。この意味での「自然」は、ギリシャ語のphysis の用法に近い所がある。アリストテレスは「自己自身の内に運動の原因をもつもの」としてphysisを定義したが、そういう意味での自然概念には、運動ないし変化の原因を、外に求めずに内在化する考え方が現れている。

 しかしながら、こういう哲学的議論は、我々の具体的なる経験の現場を離れて次第に抽象化され、やがては、我々自身の経験の現場を離れて、自然が対象化され、実体化されていく傾向性があることに注意しなければならない。そのように対象化された議論の枠組みにおいて、両立しがたい様々な体系-形而上学的なるものと反形而上学的なる物の双方がある-が構築されるからである。
たとえば、荘子の注釈者として著名な郭象の「無因自然」論をとってみよう。そこでは、「万物には主宰者は存在せず、個々の事物は、それぞれに存在根拠をもち、他者の介入を許さない」という意味での「自然」が強調される。これは、単に、万物の主宰者の存在を否定するという意味での無神論であるだけでなく、そもそも事物には原因なるものは存在しないと言う意味で因果を撥無する議論でもあった。これは形而上学を拒否する自然主義の一事例である。

 それとは対照的に、単なる個物の感覚的認識ではなく、ものの原理と原因の認識を持って学的認識の特徴とするアリストテレスにおいては、いわゆる四原因論こそが自然学の基本となる。因果性を撥無するところには科學は生まれない。そして、自然界の全体的な認識のためには、第一の原因・原理の探求こそが要求されるのであって、かかる原因の’探求は、究極するところでは、形而上学において完結する。それゆえにアリストテレスの伝統を継承する自然学は、最終的には、自己自身を越える根拠としての第一哲学=神学(テオロギケー)を必要とするのである。こちらのほうは形而上学に対して開かれた自然主義の事例である。

 哲学的な思索においては、事物の原因の探求、あるいは事物の本来的なありかた、生成消滅の根拠と言う文脈において「自然」が語られるが、宗教においては、それと同時に、我々の救済の根拠を求めるという文脈で、「自然」という言葉が語られる。

 仏教に於いては、「自然」という語は、良い意味でも悪い意味でも使われると言う点で両義的な用語である。救済の究極的な根拠を表現する場合にも使われるが、救済が実現されるためには否定されるべきものとして語られる場合もある。 中国仏教に於いては、無因自然のごとき考え方は、仏教の基本にある縁起説、因果の理法とは相容れぬものと扱われた。道教のいわゆる「無為自然」は「自然外道」と等値され、から、仏教的な「空」の立場との混同を戒める議論も行われた。他方に於いて、親鸞の晩年の言葉を筆録した『末燈抄』では、「自然法爾」が、絶対他力の信心の究極を表す言葉として使用されている。 

 「自然といふは、自はおのづからと言ふ、行者のはからひにあらず、しからしむといふ言葉なり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。…..すべて、人のはじめてはからざるなり。このゆゑに、他力には義なきを義とす、としるべきなり」


『歎異抄』にも「わがはからはざるを自然とまうすなり。これすなはち他力にまします」ということばがあり、ここでは、自然は、人為のはからいを捨てて絶対他力に帰依信心のありかたを指しているのである。

キリスト教の場合、カトリックとプロテスタントの神学の相違点の一つは、啓示神学にたいする自然神学の位置づけである。バルトに於いて典型的に見られるように、聖書原理を重視するプロテスタントの神学は、基本的な傾向として、自然神学というものの価値を認めない。聖書の啓示こそが神学の与件であり、その与件に基づいて神学体系を組織する啓示神学のみが、本来の意味での神学である。その他に神学なるものはない。あるとすれば、それは神学の装いのもとに展開された世俗の哲学に過ぎない。

これに対し、カトリシズムの伝統に於いては、基本的に、自然神学の価値を承認する。それは、さしあたっては特定の経典に立脚せずに、異教徒にもキリスト者にも共通するもの、いわば両者が共に認める自然なる与件としての世界から議論を組み立てる。それは、古くはプラトンやアリストテレスのこころみた哲学的な神学(テオロギケー)の系譜を引くものであって、キリスト者と非キリスト者とが、ともに共通の場において論議可能な地平をもつ神学である。

 すなわち、自然を重視し、そこから神学的な思索を行うことは、自己と異なる伝統に由来する他宗教との対話のために必要なことがらであり、自己の宗教のもつ特殊性、独自性を越える普遍性を獲得するために、必要な営みなのである。

 自然の概念は、このように、仏教に於いてもキリスト教に於いても両義的である。このような両義性の由来を追尋することは、キリスト教的な創造論や救済論の文脈で自然を語る場合に於いても、あるいは大乗仏教に於ける仏性論との関係で自然を語る場合においても避けて通ることのできぬものであろう。さらに、如何なる宗教的な価値にたいしても中立的な自然科学的な意味での「自然」概念があり、これは宗教的な自然概念と如何に関係するかと言うことも、考察されるべき問題である。
 
 「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」というトマス・アクィナスの言葉がある。 

 歴史的に見れば、この言葉は、キリスト教が自然を学問的に研究するアリストテレスの哲学を受容したあとで、信仰と理性という相反する二つの立場を、信仰の側から統合する立場を表明したものである。これは、カトリシズムに於ける啓示神学と自然神学との根本的な関係を表明したものとして良く引用される。この言葉は、単に西欧のキリスト教の歴史のある段階に於いて発せられた特殊な命題であるにすぎないものではない。およそ、恩寵という言葉が宗教的な救済の出来事を表すものであり、自然という語が、我々の本性に由来する物を表すとするならば、この言葉は、宗教の成立する根幹にかかわる問題を指示している。いいかえれば、それは現在に於いても、我々に対して、思索を促すだけの普遍性をもっているのである。

 この言葉は、トマスの言う意味での「普遍の信仰」の立場を述べたものであるから、それを単に、中世西欧のキリスト教的思惟という歴史的な文脈で理解するだけではなく、時代と思想の風土も異なる現代の日本において、我々の思索を促すものとして採り上げよう。すなわち、我々は、あらためて、次のように問うのである。

 「恩寵は自然を破棄せずに、却って完成させる」という、そのことは、如何にして可能となるのであろうか。

 さしあたっては、我々が事物を経験するときの、そのものの「自然なありかた」、および経験する主体である我々の「自己のありかた」の様態を形容するものとして、すなわち「ものはどのように生成するのか」、「私はどのように生きているのか」を言い表す語としての「自然」に焦点を定めたい。そういう考察に於いては、経験する主体を捨象したうえで対象化された事物の総体としての自然ではなく、対象と経験する主体との間の不可分なる具体的な関係性そのものが問題となろう。

 このような「生成の<如何に>」を表現する「自然」は、「しぜん」というよりも「じねん」と言う、より古い読み仮名で表現する方が適切であるかもしれない。今日、「自然(しぜん)」は、主体抜きの純然たる客体、ないし客体の総体としての世界、即ち近代以後の自然科学の対象世界を指す意味で使われることが多くなったからである。しかし、自然科学が扱う自然の概念を如何に位置づけるかと言うことも我々の議論の射程に入る。現代に於いては、自然科学で言う意味での自然概念が如何にして生まれるかという問題を追尋することなくして、自然一般を論じるだけでは不充分である。自然科学で対象化された自然も又「生成の<如何に>」を表示する基底的な自然概念から派生するものとして議論することが出来るものでなければならない。

 「生成の<如何に>」を表す意味での自然を第一義とする場合、それは、神と世界という二元的な対立図式の片方のみ、すなわち神から区別された世界のあり方のみを指すと固定して考えるべきではない。「自然(じねん)」を専ら神と区別された世界に限定することは、ひとつの先入主である。それは、神と世界をそれぞれ別個の「もの」として実体化した後で、時間的生成という働きを世界の側に帰し、神を自然的世界から峻別された非時間的なる存在として捉える考えを既に前提してしまっているからである。しかるに「生成する神」の概念は受肉と歴史が本質的な意味を持つキリスト教にとって必要不可欠である。

 ここで、現代に於ける自然神学の一つの試みとして、神学に於ける「自然」概念の根柢は、「世界の自然」にではなく、「神の自然」にあるという考え方を提唱したい。

 この提唱は、直接的には、先程提示した「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」いうトマスの言葉の可能根拠を指し示すものである。すなわち、恩寵とは「神の自然」に他ならず、普通言われる意味での「世界の自然」を完成するという意味である。
もちろん、こういったからといって、トマスの命題の意味するところ、その意味の全幅的な射程を覆い尽くしたなどと主張するつもりはない。そうではなくて、トマスの命題を受容し、そこから、形而上的なるもの(神的なるもの)へと開かれた自然主義の、新しい形態を出きる限り明晰に述べること、そのために必要な概念を提示するひとつの試みなのである。

 そういう概念の適合性ないし有効性を判定する基準は、あくまでも我々自身の直接経験の現場以外にはない。各自が、自己自身の宗教的経験が、はたして有効に解釈され照明されるか、それを判定していただかなければならない。

 「神の自然」は、「自然」というそのありかたにおいて「世界の自然」と通底している。そのゆえに、かかる「世界の自然」のありかたを深く捉えることが、「神の自然」を捉えることに繋がり、かかる「神の自然」を捉えることによって、始めて「世界の自然」の捉え方が完成する――これが、「神の自然」という概念の意味するところである。

 もし、このような言い方が許されるとするならば、「恩寵」とは、まさに、かかる「神の自然」の働きに他ならず、この「神の自然」の働きこそが、「世界の自然を破棄せずに、これを完成させる」ことの可能なる所以を与えるのではないか。

 しかしながら、この問題はさらに突き詰めて考察する必要があろう。神と世界の「自然」について論ずることは、両者の区別と関係性を如何に語るかという問題の考察を要求するからである。

 世界の「自然」が、単に「自己自身のうちに生成の根拠を持つ」ことにつきるのであるならば、「恩寵」はそのような自己を否定するという意味を持つはずである。仏教徒の表現を借りるならば、「自力作善」の立場が根柢から否定されると言うことが、「恩寵」には本来含まれる。神の「自然」には、世界の「自然」の自己充足性を突破するものが含まれているのでなければならない。したがって、我々は、神と世界との区別と関係性を、如実に述べるために必要にして適切なる範疇とは何であるか、それを省察することを求められるのである。我々にとっては「世界の自然」の方が先立つものであるが、事柄自体としては、「神の自然」こそが「世界の自然」に先行し、それを可能ならしめるものである。しかし、そのことは、我々にいかに如実に経験されるのか、それが経験される場というのはいかなるものであるのかが指示されなければならない。
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自然ということ 3

2005-02-24 | 美学 Aesthetics
二  自然と歴史

 我々は、第二節に於いて、自然を客体として対象化する以前に、第一義的には「生成の<如何に>」を表現するものとして論じた。客体としての「存在」が何であるかは、この「生成の<如何に>」によって、そこから論じられねばならない。前節において、「神の自然」と「世界の自然」について語ったが、その場合、神の「存在」と世界の「存在」を実体的に区別して、両者の関係を述べるという文脈で、自然について語ったのではない。実体―属性という範疇は、ここで問題にしている自然が、第一義的に語られる場ではないからである。

 西谷啓治は、「自然」について語られる場は、実体という範疇では捉えられぬことを次のように指摘する。(H・ヴァルデンフェルス 『絶対無』180頁、西谷啓治『宗教とは何か』141頁以下参照)

「有の枠」がない「自然」では、aはa自体であり、bはb自体でありながら(a=a, b=b でありながら)同時にaとbとが相入している。いはゆる「自他不二」である。固定してゐなくて、aとbの間が「融通無碍」である。(a=b、むしろa←→bである)。aのうちにもbのうちにも「有の枠」はない。仏教的に言えば、aもbも「無自性」であり「無自性空」である。aがa自身であり、bがb自身であることと、abの不二ということとは、形式論的には矛盾ですが、「自然的」な有では矛盾ではなく、却って同じ事の両面であるといふことにあります。それは有が「有の枠」のない有だからです。仏教で「色即是空、空即是色」といふのが、さういふあり方を指してゐると思ゐます。それが、「おのずから」にして「みずから」に、つまり「ひとりで」にあるというふ有り方、「おのずからしかある有り方」といふことになります。

 ここでは、「自然」は、「有の枠」を越えて、事物が「不一不二」のありかたで、すなわち西谷が外のところで「回互的関係」とよぶありかたで、「おのずからしかある」ことが、「空の場」において考察されている。二つのものが「相入」しつつ、「一つ」ではないという「あり方」、諸事物が互いに妨げあうことなしに調和或る全体を為すというコスモロジーが語られている。華厳の「事事無礙法界」という存在把握を現代化したともいうべき西谷の言葉を手掛かりとして、さらなる考察を続けよう。

 実体的な「有の枠組」を外して、事物を「事事無礙」の相でみることは、それだけでは、まだ、「自然」にとって本質的な、事物の「生成」が言及されていない。「空の場」において、時間や歴史というものが語られ得るためには、かかる回互的な「物の有り方」を述べるだけでは不十分である。ものの「生成」という次元を捨象せずに語ること、言うなれば非時間的な永遠の相において語られる「円環的な限定」においてのみ事事無礙を語るのではなく、同時に時間や歴史という「直線的限定」を語ることが必要である。それは、「無常」の相に於いてある自然なる時間的世界を如実に見るために、万物が一即一切、一切即一であることを語る「即」の論理にとどまることなく、この「即」の一字によって言い表されている事態をさらに具体的に、生成変化するものの位相において語ることである。かつてのキリスト教神学が、父と子と聖霊の内的な三位一体のペリコーレーシス(相互内在)だけではなく、歴史的世界に於てもまた三位一体論的な思索を展開したように、我々は、ひとり神についてだけ語るのではなくて、世界について語るときにも、三位一体論的な思索を必要とするからである。

 「自然」というあり方に歴史性を見ると言うことは、歴史的世界を、人為的なる世界に限定せずに、それを越えて万物のあり方にまで一般化する事を意味する。「自然」は、その根柢に於いて歴史的であり、歴史的生成ということをその中に含む――このことが強調されねばならない。それは、近代の科学で前提されてきたような自然概念―歴史なき必然的法則に支配される世界という概念-から、我々の言う自然を理解すべきではなく、逆に、近代の自然科学が立脚していた自然概念のほうが、我々のいう意味での「自然」把握からの一面的なる抽象の所産であることを意味している。

 万物が歴史的世界においてあると言うことは、20世紀後半の自然科学によって見いだされた新しい自然観でもある。物質には歴史があり、その諸元素は歴史的なプロセスの中で生成した物であって、永遠の昔から存在していた物ではない。宇宙全体が、不可逆的に進化するシステムであり、その進化のプロセスから、生命と意識を持つ人間が登場したこと、人類の歴史は、かかる広大なる宇宙の歴史過程のなかに位置づけられるべき事-これらは、アポステリオリに認識された科学的知見ではあるが、歴史性の欠如した近代科学の自然概念を根本的に修正するものである。存在するものの総体としての宇宙は不可逆的な歴史をもち、未来に向かって開かれている。そのような歴史性が、生物に於いて、そして人間のような高度に進化した有機体に於いて、はじめて自覚されるようになる。ポスト近代的なる自然科学で扱われる自然については、いまここで詳しく論じる余裕はないが、すくなくも、近代科学で前提されていた非歴史的自然という概念は、一面的な抽象に過ぎなかったことは、今日では自然科学自身が明らかにしている。
さて、自然が根柢に於いて歴史的であり、進化するものであると言うことを、自然科學の議論ではなく、一般的なる形而上学の議論として採り上げる場合、それは次の様な提題として定式化できるであろう。
 歴史的世界に於いては、「ものが生成する」と言うことが、そのものの現実的な活動を第一義的に言い表すものであり、それが「対象として存在する」ということは、第二義的なことである。

 諸々の対象的存在とは常に既成の存在であり、新たなる個々の生成を制約する諸条件を形作る。ものの相互内在と言うことは、生成という次元を考慮して始めて抽象性を免れ、現実的な意味を獲得するのである。すなわち、どのものも既成の存在として、あらたなる個々の生成のための歴史的な条件として機能する、という意味で、そのものは一切の生成する事物の中に内在している。しかしながら、将来の生成が如何なるものであるかは、既成の過去の存在によって制約されはしても、決定されているわけではない。その意味での未来の開放性は、歴史的世界の存立のための不可欠の条件である。

 しかしながら、過去の既定性と未来の開放性がそこに於いてある現在の活動そのものは、歴史のただ中にあって歴史を越えるものに直結している。現在は、過去とは違って未来の生成のための条件なのではなく、それ自身が常に完結し、充実した活動である。それは、我々自身の自己と切り離された対象的事物の生成変化ではなく、一切の対象的事物の変化が、そこにおいて語られる場所である。このような活動そのものを、対象的事物の単なる生成変化から区別して、「現成」と呼ぶことにしよう。

 この語は、日本仏教の中で独自の時間論を展開した道元の用いたキーワードでもあった。道元の《正法眼蔵》の要語索引によれば、『現成』は単に『現成公案』の卷だけでなく、全体にわたって実に262箇所にわたる用例があり、すべてが絶対に肯定的意味で使用されている。これに対して、『無』はたかだか30の用例を、『空』は虚空という日常的な意味を含めても51の用例を数えるのみで、それらは肯定的な文脈で使用されることもあれば、『無にあらず、有にあらず』『空を破し有を破す』というごとく否定的な文脈でも使用されている。これは、道元にとっては、有と無との相対的対立を越えるものを指す根源語は『(絶対)無』や『(真)空』ではなくて、寧ろ『現成』であったことを示唆している。

「現成」がたんなる対象的事物の「生成」から区別される点は、それが時間に於いて生じる出来事ではなくて、時間そのものを可能ならしめる出来事であるということである。しかし、それは単なる「有」と「無」という二つの相反する範疇を統合する「生成」の現実態であるがゆえに、「現成」を「有」というも「無」というも、ともに一面的な抽象となる。

 かかる意味での「現成」においては、無限に生成と消滅を繰り返す直線的な時間的限定そのものが、その都度の「今此処」において統合され、現実化される。その意味で、世界の自然に於ける「生成の如何に」は、かかる円環的な生成にほかならぬ「現成」によって、一切の潜在性をもたぬ完全現実態となる。そのいみではそれぞれの「今―此処」は完結しており、その都度、歴史に一つの区切りをつける非連続性であるが、このような区切りが入ること、そのことによって、過去は破棄されるわけではなく、反復・継承というかたちで復活する。すなわち、歴史的世界に於ける直線的なる限定そのものが、「現成」という円環的限定によって可能となるのである。

 「生死即涅槃」あるいは「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成させる」ということは、仏教的に言うならば「生死」の世界、すなわち生成と消滅によって特徴付けられる世界、キリスト教的に言うならば、福音のめぐみに与る以前の自然的世界を、実在性を欠いた単なる仮象として破棄しないということである。そのような世界の「自然」というあり方が、世界の内部において自己充足するものではなく、「神の自然」によって根拠付けられており、それによって可能となるものであること-それことは、まさに時間の中において生きている我々の直接経験から、すなわち「真理がそこに住まう内なる人」に還り(アウグスチヌス)、自己そのものの現成に他ならぬ時間性に徹底することによって知られるべき事柄であろう。
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連歌の美学:疎句付け

2005-02-23 | 美学 Aesthetics
「親句は教、疎句は禅」とは心敬の言葉であるが、この言葉のあとに、教と禅の一致という思想を付け加えるならば、それこそが連歌の付合の根本精神を要約したものとなろう。教とは、仏の教えを誰にでもわかるように説いたものだが、禅は、私達の固定された発想、日常性のなかに埋没した仏の本質を目覚めさせる。

 心敬の時代に流行していた連歌の特徴は、投句するものが前の句のことを考えずにそれぞれ身勝手な自己主張を展開するものであった。各人が派手な素材を好み、技巧を凝らして付け句をするが、前句を投じた人の心を無視している。そのために、連歌の技法のみが発達して、付合の心が無視される結果となった。
 「昔の人の言葉をみるに、前句に心をつくして、五音相通・五音連聲などまで心を通はし侍り。中つ比よりは、ひとへに前句の心をば忘れて、たゞ我が言の葉にのみ花紅葉をこきまずると見えたり。されば、つきなき所にも月花雪をのみ並べおけり。さながら前句に心の通はざれば、たゞむなしき人の、いつくしくさうぞきて、並びゐたるなるべし。」
 前句の人の心に通い合うものがなければならない-この考え方は、後世の人によって「心付け」とよばれるようになったが、心敬の場合には、それは必ずしも「意味が通う」ということだけではなく、内容的にも言葉の上でも「響き合う」ものがなければならないということを意味していた。

 五音相通・五音連聲とは「竹園抄」という歌論書によると、和歌や連歌の音韻的なつなぎ方の親和性を表現する用語である。「響き」の親句のうち、子音が響き合うものを五音相通、母音が響き合うものを五音連声と呼ぶ。たとえば、「やまふかき霞の...」はK音が響き合うので五音相通、「そらになき日陰の山...」はI音が響き合うので五音連声である。

 前句の人の心につけるという場合、心敬が念頭に置いていたのは、新古今集の和歌の上の句と下の句のような一体性であったと思われる。ただし、ただの三句切れの和歌を合作するというのでは、付け句の独立性は失われ、前句の解説をするような従属的な関係になるから、付け句は独自性と独立性を保ちながら、前句と親和しなければならない。

 心敬が理想とする連歌は、疎句付けでありながら、前句と響き合う付句である。新古今集の秀歌は、定家に典型的に見られるように、疎句表現のものが圧倒的に多いという特徴を持っている。それゆえに、疎句付けとは何か、どのような疎句付けが連歌に生命を与えるかということが心敬の議論のなかで重要な意味を持ってくる。

 前句の心を承けることと並んで、前句の何を捨てるか、ということも連歌にとっては大切である。

   「つくるよりは捨つるは大事なりといへり」

 「捨て所」という言葉があるが、付け句は、前句のすべてを承けてはならない。(すべてを承けるのは四手といって、連歌の流れをとめてしまう危険がある)かならず、前句の中のあるものを捨てて、新しい風情を付け加えなければならない。そうすることによって、前句から離れることによって、かえって前句の心を生かすことができる、というのが心敬の議論のポイントである。

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連歌の美学:宗祇

2005-02-23 | 美学 Aesthetics
宗祇独吟百韻より

発句  限りさへ似たる花なき桜哉     春 花 
脇   静かに暮るる春風の庭       春 居所(庭)
第三  ほの霞む軒端の嶺に月出でて    春 月 聳物(霞) 
四   思ひもわかぬかりふしの空     旅(かりふし)
五   こし方をいづくと夢の帰るらん   旅(こし・帰る)    
六   行く人見えぬ野辺のはるけさ    旅(行く人)
七   霜迷ふ道は幽かに顕れて      冬 降物(霜)
八   枯るるもしるき草むらの陰     冬

発句  限りさへ似たる花なき桜哉

 明応八年(一四三九)三月二〇日の発句、宗祇七九歳の作。挙句は七月二〇日だから完成に四ヶ月を要した独吟です。連歌の興行ならば、連衆とともに巻くので、一日で満尾ということが多かったと思われますが、この連歌がかくも日数を要したということは、ある意味で、作品として完成されたものを後世に残したいという宗祇の個人的な思いがあったものと思われます。

 この発句、「限りさへ」の「さへ」に万感がこめられていると思います。作者は老齢であって、この作品を遺作として後世に残すつもりです。「限り」とは、「花の散り際」という意味で、老いの花を表さんとしている宗祇自身の姿を重ねたものと観ることが出来ましょう。桜の「花」をもって「正花」とし、「花」によって藝道の理想を象徴する美意識は、まさに連歌や能楽を支えていたものです。たんなる植物としての桜ではなく、それが象徴している「花」の本質(世阿弥はそれを「性花」と呼び、我々が目で見る現象としての花々を「用花」と呼んで区別しています)が問題です。そういう意味での「花」を求めることが、宗祇の連歌の根本精神であって、芭蕉もまたその精神を受け継ぎ、俳諧という新しいジャンルでそれを追求したのです。

   限りさへ似たる花なき桜哉
 脇   静かに暮るる春風の庭

 発句は「花」の理想としての、桜の花を読みました。脇は、その理想を具体的な景物の中においています。ここでは「静かに」と「春風」との組み合わせに注目すべきでしょう。この春風は微風でなければなりません。花が散っているといっても、それは、風によって強制されているのではなく、瞬間の生を充実させそれを潔く全うする「花」の本性の発露。春風はその花に風情を添えるものです。

      静かに暮るる春風の庭
  第三 ほの霞む軒端の嶺に月出でて

「霞む」により春の月となります。初折表では通常は7句目が月の定座ですが、ここでは春の月として引き上げられました。前句の「庭」を「軒端」でうけつつ景を広げ、夕暮れどきに東の空から昇り行く月を出しました。連歌の進め方は「序破急」というのが原則ですが、この第三は、いかにも悠揚とした大きな詠みぶり。俳諧では、第三に於ける「転じ」を重視しますが、連歌では、このように序破急の「序」のゆったりとした調子が好まれ、あまりに急激な変化は、品の悪いものとされます。

    ほの霞む軒端の嶺に月出でて
初表四  思ひもわかぬかりふしの空

 ここは、春の句を転じて雑の「旅体」の句としました。「かりふし」とは「仮に伏す」で、旅寝のことです。月が出れば、どちらが東であるかが分かりますが、それまでは、夕暮れ時の旅先は、方向すらわからず心細いもの。

        思ひもわかぬかりふしの空
  初表五 こし方をいづくと夢の帰るらん

 これも「旅体」の句。旅先で心細いので、夢で故郷に帰っているだろう、との意。あるいは、夢は、何処から来て、何処へ行くのか分からない、という意味もあるかもしれません。

      こし方をいづくと夢の帰るらん
  初表六  行く人見えぬ野辺のはるけさ

 初折のなかで秀逸のつけ句。夢から覚めたときの旅人の気持ちを詠んだ句。夢の中では人に出逢ったのでしょう。醒めてみると、行く人も見えぬ野辺が遙か遠くまで続くのみであるという意味。「のべのはるけさ」こそ圧巻。

       行く人見えぬ野辺のはるけさ
  初表七 霜迷ふ道は幽かに顕れて

 ここで、季節は冬に転じます。前句の「はるけさ」を「幽かに顕れて」で受けました。
軽いつけですが、「幽玄」をもって本質とし、それが言葉に「顕れる」ことをもって奥義とする宗祇の藝道をさりげなく示すものでもあります。

      霜迷ふ道は幽かに顕れて
  初表八  枯るるもしるき草むらの陰

折端の句。 「しるき」はひとつには顕著と言う意味で、霜枯れが甚だしいといういみですが、もうひとつ、枯れることによって、何の草であるかが「知られる」という意味を秘めています。草花の枯れる様を、自らの迫り来る終焉の時にさりげなく重ね、枯れることによって、「知られる」野の草の命を詠みました。
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芭蕉俳諧七部集より「冬の日」評釈

2005-02-23 | 美学 Aesthetics
芭蕉俳諧七部集 冬の日 より 「こがらし」の卷

笠は長途の雨にほころび、帋衣はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖おもひ出て申侍る。

狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉    芭蕉
発句 冬―人倫(竹齋・身)―旅
「狂句こがらしの身」は、風狂の人芭蕉の自画像であろう。「狂」は「ものぐるひ」であるが、世阿弥によれば、それは「第一の面白尽くの藝能」であり、「狂ふ所を花にあてて、心をいれて狂へば、感も面白き見所もさだめてあるべし」とされる。「こがらし」は、「身を焦がす」の含意があるので、和歌の世界では「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露(定家・新古今集)」のような「恋歌」がある。芭蕉はそれを「狂句」に「身を焦がす」という意味の俳諧に転じている。さらに「木枯らし」で冬の季語となるが、同時に、「無用にも思ひしものを薮医者(くすし)花咲く木々を枯らす竹齋」という仮名草紙「竹齋」の狂歌をふまえつつ、名古屋の連衆への挨拶とした。

たそやとばしるかさの山茶花(さんざか)    野水
脇 冬―人倫(誰)―植物(うゑもの)―旅
「とばしる」は元来、水が「迸(ほとばし)る」の意味で、威勢の良い言葉。芭蕉を迎え新しい俳諧の實驗を行おうとしていた名古屋の若い連衆の心意気を感じる。「旅笠」に山茶花の吹き散る様を客人の芭蕉の「風流」な姿に擬して詠み、「風狂」の人である芭蕉に花を添えたと見たい。
有明の主水(もんど)に酒屋つくらせて  荷兮
第三 秋―月(光物)―夜分―居所
第三は、冬から秋へと転じ、有明の月を詠んだ。前句の「とばしる」は水に縁があることばであり、「たそや(誰か)」という問に「主水(元々は宮中の水を司る役人、のちに人名として使われる)」で応じた。俳諧式目では、人倫の句は普通は二句までであるが、役職名は人倫から除外される。なお、この歌仙の詠まれた貞享元年は新しい暦が採用された年であるが、その暦を作った安井算哲の天文書によると、「主水星」とは水星のことである。秋、新酒をつくるために、有明の月の残る黎明、主水星のみえるころに、酒の仕込みをはじめる圖。客人である芭蕉に、まず「一献」というニュアンスもあるかも知れない。

かしらの露をふるふあかむま    重五
表四 秋―降物(露)―動物(うごきもの 赤馬)
和歌の世界では、月と露の取り合わせはあるが、そこでは「秋の露や袂にいたく結ぶらむ長き夜飽かず宿る月かな(後鳥羽院)」のように「涙の露」という意味になることが多い。ここでは、そういうしめやかな情念ではなく、おそらく、荷駄に新酒を積んだ赤馬を出したのであろう。露は、おそらく「甘露」の意味をこめて、新酒の香にむせている圖としたほうが俳諧的である。
朝鮮のほそりすゝきのにほひなき  杜國
表五 秋―植物
前句の露は赤馬(朝鮮馬)にかかるが、ここではそれを「朝鮮のほそりすすき」に転換し、(酒の)匂いを消すと同時に、時刻を早朝から昼へ転じている。
日のちりちりに野に米を苅    正平
表六 秋―光物(日)―植物
作者の正平は執筆(書記係)で、この句のみ詠んでいる。
日の「ちりちり」は夕刻を表す。前句の侘びしい感じを受けているので、豊かな収穫を連想させる「稲を苅る」ではなく、僅かに残った作物を求めて「米を苅る」としたか。
わがいほは鷺にやどかすあたりにて    野水
初裏一 雑―居所(庵)―人倫(我)―動物
「わが庵は」はおそらく、「わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人は云ふなり」のパロディーであろう。「しかぞ(然ぞ)」→「鹿ぞ」の誤読をもういちど転じて、「鷺」という異生類をだしたか。辺鄙なところにある仮庵を表す。発句で亭主役を脇を勤めた野水が初裏の初句を詠み、それに客人の芭蕉が続けるという趣向になっている。
髮はやすまをしのぶ身のほど    芭蕉
初裏二 雑―恋(しのぶ)―人倫(身)
鷺(尼鷺)から、恋に転じた付句。
なにか恋愛事件が原因で還俗した人の世を忍ぶ仮庵住まいを思わせる。 それと同時に、野ざらし紀行の旅を終えて、尾張の野水の家に逗留している芭蕉が、自分を還俗の修行者になぞらえて詠んだともとれる。
いつはりのつらしと乳をしぼりすて    重五
初裏三 雑―恋
前句の「人」を、不実な相手に捨てられ、子供も奪われた女性と見定めて付けた句。「いつはり」や「つらし」は、連歌の恋の句に頻出する常套句であるが、「乳をしぼりすて」は俳諧でないとあり得ない即物的表現。
きえぬそとばにすごすごとなく    荷兮
初裏四 雑―釈教(卒塔婆)
前句の「いつはり」を恋人の不実ではなく、この世の儚さ、虚仮の世間の意味にとりなして、子供の死を悼んで嘆く母親として付けた句。「きえぬ卒塔婆」とは、卒塔婆の文字も墨跡がきえていないこと。
影法のあかつきさむく火を燒(たき)て    芭蕉
初裏五 冬―夜分(暁)
卒塔婆を死者の影法師ととりなして付けた。
あるじはひんにたえし虚家(からいへ)    杜國
初裏六 雑―居所―人倫(あるじ)
前句の場を、貧しさ故に断絶し、一家離散したあき家と定めた。
田中なるこまんが柳落るころ    荷兮
初裏七 秋(柳落つ)―植物―人倫
「小万が柳」は、はっきりとした典拠があると言うよりは、「小万」という名前の遊女にちなんだ物語を漠然と詠みこんだものらしい。月をそろそろ出さねばならぬので、「散る柳」で秋としつつ、「散る」を「落る」に替えて、落魄の気分を出した。
霧にふね引人はちんばか    野水
初裏八 秋―降物―水辺―人倫
八句は月の定座であるが、ここは杜国に遠慮して杜国に月を譲り、月前の
月前の句とした。初めの月が、「引き上げられた下弦の月(有明の月)」であるので、次の月の句を、「引き下げられた上弦の月(夕月)」として詠んで欲しいという要請。舟をひくのは、「上り」へとむかう運動である。この辺のやりとりには、どんな種類の月を詠むか、誰に月を詠ませるかという遊びの要素がある。
たそがれを横にながむる月ほそし    杜國
初裏九 秋―月(光物)―夜分
黄昏時の細い三日月(上弦の月)で前句に応じたもの。川の流れに逆らって舟を曳く人の身体の屈伸を表しながら、その眼に三日月が映じたとしたもの。
となりさかしき町に下り居る    重五
初裏十 雑―居所
「隣りさかしき」は近所の口がうるさいの意であるから、この町は下町。前句の人を、宿下がりして実家に戻っている御殿女中などとみさだめたもの。夕暮れになってもすることもなく無聊をかこつ人のようである。
二の尼に近衞の花のさかりきく    野水
初裏十一(花の定座)春―花―人倫―釈教
平清盛の妻は剃髪して「二位の尼」とよばれたことから、おそらく「二の尼」とは身分の高い人が剃髪して尼となったのであろう。そのひとに、近衛公の邸宅の枝垂れ桜の様子を聴くという趣向。
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ    芭蕉
初裏十二(綴目) 春―植物―動物
むぐらは八重むぐらで雑草。「鼻かむ」は涙を流すこと。宮中はすっかり荒れ果てて雑草が生い茂っていると云いつつさめざめと泣いたという意味。
のり物に簾透顏おぼろなる    重五
名残一(折立) 春(おぼろ)
前句の「八重むぐら」に花の面影を見て、簾越しにみる貴人の顔として付けた。、「朧月夜の君」との密会が露見して別離を余儀なくされた光源氏の面影付けか。
いまぞ恨の矢をはなつ声    荷兮
名残二 雑
前句まで女房文学的な情感が続いているので、戦記物のような男性的な調子に転換した付句。簾越しにおぼろに顔の見える人を仇敵とみて矢を放つとの意。
ぬす人の記念(かたみ)の松の吹おれて    芭蕉
名残表三 雑―植物―人倫
大盗賊にゆかりの松の木(美濃の国青野村の熊坂長範「物見の松」)の吹きおれている様を以て前句の戦闘が行われている場の書き割りとした。
しばし宗祇の名を付し水    杜國
名残裏四 雑―水辺―人倫
前句と同じく美濃の国郡上八幡にある「宗祇の忘れ水」という名の泉。名所旧跡を尋ねる旅人の心で付けた。「しばし」、は西行の「道の辺に清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ」も思わせる。露伴は「しばし、の一語はなはだ巧みなり。一切は仮現なり、大盗の松も山風に吹き折られ、詩僧の泉も田夫には打忘らる、此は世間の常態なり。ここに水に対し、かしこなる松を憶ふ、山深き美濃路の風情は言外に聞こゆ」と云っている。
笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨    荷兮
名残裏五 冬―降物―旅
宗祇の「世にふるはさらに時雨のやどりかな」という発句をふまえたもの。宗祇の後を慕い、風狂を演じて時雨に濡れていく人物の心意気を詠む。芭蕉の前書「笠は長途の雨にほころび」も承ける。
冬がれわけてひとり唐苣(たうちさ)    野水
名残裏六 冬―植物
前句の時雨に濡れることを厭わぬ風流人は、実は冬枯れの野に青菜を捜していたというパロディーに転換した句。目に見えるものはただ「たうちさ」ばかり。
しらじらと碎けしは人の骨か何    杜國
名残裏七 雑―人倫
この句自体は雑であるが、前句との繋がりでは、夏の間は生い茂る草によって隠されていた野ざらしの人骨のような白い物が、冬枯れの野に見えるという意味になる。「骨か何」はあえて断定せずに、次の人にそれが何であるかを決めて貰うという含みがある。
烏賊はゑびすの國のうらかた    重五
名残表八 雑―動物
前句の人骨のような白い物を「烏賊の甲」だといかにもありそうな話を捏造して、謎解き問答のように続けた。ここも、虚実とりまぜて、烏賊の甲は、ゑびすの国(未開の国)では占いに使う物だと詠んだ。
あはれさの謎にもとけし郭公    野水
名残表九 夏―動物
前句の謎を、当時読まれていた王昭君の物語を本説として解いた句。彼女は漢の光武帝の後宮で、戎(ゑびす)にもらわれる。その昭君を取り返すために,史実に名高い人物が、時代を超えて協力し活躍する,なかでも清貧の道者子良が,占星術や祈祷の呪術、知略によって,戎を屈服させるために中心的な役割を果たしている。和漢朗詠集に「王昭君」の題詠がありそこに、「あしびきの山がくれなるほととぎす聴く人もなき音のみぞ啼く(実方中将)」というように、郭公(ほととぎす)の歌があることをふまえる。郭公は、望郷の念を象徴している。
秋水一斗もりつくす夜ぞ    芭蕉
名残表十 秋―夜分―水辺
ここの「水」は水時計(漏刻)の意味。水時計の水が一斗も漏り尽くすほど長い秋の夜を、謎解きで過ごしてしまった、という意味。野水の付けを賞賛しつつ、王昭君の涙を、水時計から漏れる水になぞらえた。
日東の李白が坊に月を見て    重五
名残表十一(月の定座) 秋―月(光物)―夜分―人倫
日東は日本。日本の李白とも云うべき詩才を持った僧侶(石川丈山)を念頭においている。京都の詩仙堂には丈山が工夫を凝らした添水があったので、前句の秋水を承ける。また「一斗」からは当然、杜甫の飲中八仙歌「李白一斗詩百篇」を承ける。中国の李白は春夜桃李宴で酒盛りをし、日本の李白は秋の夜に月見をしながら酒を飲むという趣向。
巾(きん)に木槿をはさむ琵琶打    荷兮
名残裏十二 秋―植物―人倫
中国の故事に、飲中八仙の一人で鞨鼓の名手李爐が、紅い木槿を帽子に挟んで、鞨鼓を打っても、その花が下に落ちなかったとある。その鞨鼓を琵琶にかえおそらく平家物語を奏する琵琶法師のイメージをだしたのであろう。
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに    芭蕉
名残裏一 雑―動物―植物
前句の琵琶法師が、その背にいつものっていた牛の菩提をとむらうために草を手向けたとの意。連歌師の肖柏のような風流人がまた牛に乗っていたという繪が多く記されている。
箕(み)に鮗(このしろ)の魚をいたゞき    杜國
名残裏二 雑―動物
「とぶらふ人」を琵琶法師から、漁村の女性に読み替えた句。この女性は、竹籠に、安産祈願の神撰魚である鮗を入れて頭上に載せている女性。
わがいのりあけがたの星孕むべく    荷兮
名残裏三 雑―光物―夜分―人倫―恋(孕む)―神祇
西日本では、箕は不思議な重力を持つとされた農具で、嫁入りの当日に箕を嫁の頭上に置いたり、まだ子宝に恵まれぬ嫁に箕を送るという風習があった。また、越人が著した「俳諧冬日集木槿翁解」という古注では、当時流行していた説教節のなかの弘法大師の母の面影があるという。
けふはいもとのまゆかきにゆき    野水
名残裏四 雑―恋―人倫
嫁いだ妹がめでたく妊娠したので、眉掻き(眉を剃り落とす)の祝いにでかける姉を詠む。(結婚するとお歯黒をつけ、子供が授かると眉掻きをするのが当時の風習)
綾ひとへ居湯に志賀の花漉して    杜國
名残裏五(花の定座=匂いの花)春―花―衣類
居湯は、他の場所で沸かした湯を風呂桶に入れてはいるもの。志賀は山桜で名高い近江の歌枕。その桜の花が散り込まれた湯を綾絹で漉すという華やかなイメージ。前句の「いもと」がそのように大事にされているという心。
廊下は藤のかげつたふ也    重五
挙句  春―植物―居所
廊下に藤の花の影が伸びている晩春の気分をだして締めくくった。
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愛宕百韻について 1

2005-02-23 | 美学 Aesthetics
愛宕百韻について

宗祇以後の連歌の考察の一環として、戦国の武将、特に細川幽齋と明智光秀をとりあげよう。光秀の場合、特に、天正十年五月二十八日、連歌師紹巴を宗匠として巻いた「愛宕百韻」の発句が最もよく知られている。同年六月二日が本能寺の変であるから、まさに主君信長に代わって天下人たらんとした光秀その人の心中を伺うことが出来る。発句

    ときは今天が下しる五月哉   光秀

は、「土岐一族の流れを汲む光秀が天下を治める五月になった」 という意味にとれるから、謀反を起こす直前の光秀の心境を詠んだものと解されている。後世の注釈書によると、連歌師紹巴は、本能寺の変の前に光秀の決意を知らされていたのではないかという嫌疑で取り調べを承けたときに、この発句の原型は

   ときは今天が下なる五月哉  光秀

と五月雨の情景を詠んだものであったものを、あとで光秀が書き換えたと弁明したとのこと。脇は

    水上まさる庭の夏山 行祐

であるから、実際の連歌の席では、五月雨の句であったものと思われる。
 おそらく、毛利征伐の戦勝祈願の為の百韻連歌の興行を、ひそかに本能寺の信長を謀殺するための決意表明の場に変えることは、光秀その人の意図であったのだろう。 初折裏では光秀は実に緊張感溢れる月の句を詠んでいる。

    しばし只嵐の音もしづまりて    兼如
      ただよふ雲はいづちなるらん  行祐
    月は秋秋はもなかの夜はの月    光秀


「もなか」は最中で十五夜の月。拾遺集、源順の

「水の面にてる月なみを数ふれば今宵ぞ秋のも中なりける」

を踏まえた句。 これは、大事を前にした光秀の漲る気迫が感じられる。
 愛宕百韻から伺える光秀像は、細川幽齋と同じく、王朝の雅を受け継ぎ、古き伝統の守護者たらんとした教養人である。
 細川幽斎は光秀とは昵懇の間柄であったので、多くの武将は、本能寺の変に対して幽斎がどのように対応するかを見守っていた。幽斎は髪を下ろして僧形となり、信長公の追善供養をする意志を表明し、旗幟鮮明に、反逆には一切荷担しないと宣言した。この幽斎の対応を知らされて光秀は非常に動揺したらしく、卑屈とも言える協力要請の書状を再度幽斎に送り、それが今も細川家に残っている。
 信長の追善供養の為に、細川幽斎は本能寺の焼け跡に仮屋を作り、百韻連歌の興行をした。幽斎の発句に、聖護院門跡の道澄が脇を付け、連歌師の里村紹巴が第三を付けた。

  墨染めの夕べや名残り袖の露  幽斎
    玉まつる野の月の秋風   道澄
  分け帰る道の松虫音になきて  紹巴


 細川幽斎は武将には珍しく、古今伝授の秘伝をうけた歌人で、王朝の歌の伝統を後世に伝え

  冬枯れの野島が崎に雪ふれば尾花吹きこす浦の夕かぜ

のような雅やかな歌と共に

  西にうつり東の国にさすらふもひまゆく駒の足柄の山

と武人として東奔西走した生活も詠んでいる。

資料一 信長公記 「明智日向西国出陣の事」
五月廿五日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参籠致し、惟任日向守心持御座侯や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで鬮を取りたる由、申侯。廿八日、西坊にて連歌興行、
発句惟任日向守。

ときは今天が下知る五月哉    光秀
水上まさる庭のまつ山      西坊
花落つる流れの末をせきとめて  紹巴


か様に、百韻仕り、神前に籠おき、五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。

資料二 常山紀談 「光秀愛宕山にて連歌のこと」

ときは今あめが下しる五月哉   光秀
水上まさる庭のなつ山      西坊
花落つるながれの末をせきとめて 紹巴


天正十年五月廿八日、光秀愛宕山の西坊にて百韻の連歌しける。明智本姓土岐氏なれば、時と土岐とよみを通はして、天下を取の意を含めり。秀吉既に光秀を討て後、連歌を聞き大に怒て紹巴は呼、天が下しるといふ時は天下を奪ふの心あらはれたり。汝しらざるや、と責らる。紹巴、其發句は天が下なると候、と申。しからば懐紙を見よ、とて、愛宕山より取來て見るに、天か下しると書たり。紹巴涙を流して、是を見給へ。懐紙を削て天が下しると書換たる迹分明なり、と申す。みなげにも書きかねへぬ、とて秀吉罪をゆるされけり。江村鶴松筆把にてあめが下しると書きたれども、光秀討れて後紹巴密に西坊に心を合せて、削て又始のごとくあめが下しると書きたりけり。

年表  天正十年(一五八二)光秀五五歳

三月五日   信長の甲斐出陣に従い筒井・細川らと出発。
三月十一日  武田勝頼自刃  
四月二十一日 信長、甲斐より安土に凱旋
五月七日   信長、信孝に四国征伐を命ず。秀吉、備中高松城を囲む
五月十四日  信長より家康の饗応役を命じられる。
五月十七日  中国出陣を命じられ坂本に帰城。 
五月二十六日 坂本を発し丹波亀山に向かう。
五月二十八日 愛宕山に参詣し連歌会を催す。
六月二日   早暁、信長を本能寺に襲い、信忠を二条御所に囲む。夕刻、坂本に帰城。
六月四日   秀吉、毛利輝元と和議を結ぶ。
六月五日   光秀、安土城に入り、財宝を奪う。
六月九日   光秀、上京し銀子を禁中・諸寺に献上。鳥羽出陣
六月十三日  秀吉の軍勢と山崎で闘い惨敗。坂本に向かう途中、小栗栖で襲撃され討死。
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愛宕百韻について 2

2005-02-23 | 美学 Aesthetics
愛宕百韻 賦何人連歌

 天正十年五月廿八日  於愛宕山威徳院
                         
(初表) 
                     
ときは今天が下しる五月哉    光秀  夏 「五月」 
  水上まさる庭の夏山     行祐  夏 「水辺」「居所」  
花落つる池の流れをせきとめて  紹巴  春 「花」 「水辺」
  風に霞を吹き送る暮れ    宥源  春 「聳物(霞)」
春も猶鐘のひびきや冴えぬらん  昌叱  春 「鐘」
  かたしく袖は有明の霜    心前  冬 「有明」「降物」「夜分」  
うらがれになりぬる草の枕して  兼如  秋 「うら枯れ」「旅」
  聞きなれにたる野辺の松虫  行澄  秋 「松虫」「旅」

(初裏)

秋は只涼しき方に行きかへり   行祐  秋 
  尾上の朝け夕ぐれの空    光秀  雑     
立ちつづく松の梢やふかからん  宥源  雑         
  波のまがひの入海の里    紹巴  雑 「水辺」
漕ぎかへる蜑の小舟の跡遠み   心前  雑 「水辺」
  隔たりぬるも友千鳥啼く   昌叱  冬 「友千鳥」跡→千鳥
しばし只嵐の音もしづまりて   兼如  雑 「嵐」「鳴く」→「しづまる」 
  ただよふ雲はいづちなるらん 行祐  雑 「雲」
月は秋秋はもなかの夜はの月   光秀  秋 「月」
  それとばかりの声ほのかなり 宥源  秋 「雁」
たたく戸の答へ程ふる袖の露   紹巴  秋 「降物」(恋呼出)
  我よりさきに誰ちぎるらん  心前  雑 「恋」
いとけなきけはひならぬは妬まれて 昌叱 雑 「恋」
  といひかくいひそむくくるしさ 兼如 雑 「恋」
  
(二表)

度々の化の情はなにかせん     行祐  雑 「恋」       
  たのみがたきは猶後の親    紹巴  雑  「人倫」(恋離)
泊瀬路やおもはぬ方にいざなわれ  心前  雑 「名所」「旅」    
  深く尋ぬる山ほととぎす    光秀  夏 「時鳥」
谷の戸に草の庵をしめ置きて    宥源  雑 「居所」
  薪も水も絶えやらぬ陰     昌叱  雑
松が枝の朽ちそひにたる岩伝い   兼如  雑
  あらためかこふ奥の古寺    心前  雑 「釈教」
春日野やあたりも広き道にして   紹巴  雑 「名所」春日野
  うらめづらしき衣手の月    行祐  秋 「月」「夜分」「衣装」
葛の葉のみだるる露や玉ならん   光秀  秋 「降物」「草」
  たわわになびく糸萩の色    紹巴  秋 「いと萩」
秋風もしらぬ夕や寝る胡蝶     昌叱  秋 「胡蝶」の夢
  砌も深く霧をこめたる     兼如  秋 「聳物」

(二裏)

呉竹の泡雪ながら片よりて     紹巴  冬 「泡雪」
  岩ねをひたす波の薄氷     昌叱  冬 「薄氷」
鴛鴨や下りゐて羽をかはすらん   心前  冬 「鴛・鴨」
  みだれふしたる菖蒲菅原    光秀  夏 「菖蒲」冬→夏 季移
山風の吹きそふ音はたえやらで   紹巴  雑 「みだれふす」→「山風」
  閉ぢはてにたる住ゐ寂しも   宥源  雑
訪ふ人もくれぬるままに立ちかへり 兼如  雑 「住ゐ」→「訪ふ」
  心のうちに合ふや占らなひ   紹巴  雑 「とふ」→「うらなひ」
はかなきも頼みかけたる夢語り   昌叱  雑 「恋」「うらなひ」→「夢」
  おもひに永き夜は明石がた   光秀  秋 「永き夜」「恋」  
舟は只月にぞ浮かぶ波の上     宥源  秋 「月」
  所々に散る柳陰        心前  秋 「散る柳」(初秋)
秋の色を花の春迄移しきて     光秀  春 「花」 秋→春 季移 
  山は水無瀬の霞たつくれ    昌叱  春 「聳物」

(三表)

下解くる雪の雫の音すなり     心前  春 「解くる雪」
  猶も折りたく柴の屋の内    兼如  雑
しほれしを重ね侘びたる小夜衣   紹巴  雑 「恋」「衣装」  
  おもひなれたる妻もへだつる  光秀  雑 「恋」「人倫」
浅からぬ文の数々よみぬらし    行祐  雑 「恋」
  とけるも法は聞きうるにこそ  昌叱  雑 「釈教」恋文→経文
賢きは時を待ちつつ出づる世に   兼如  雑
  心ありけり釣のいとなみ    光秀  雑 
行く行くも浜辺づたひの霧晴れて  宥源  秋 「聳物」釣→浜辺
  一筋白し月の川水       紹巴  秋 「月」
紅葉ばを分くる龍田の峰颪     昌叱  秋 「紅葉」「名所」
  夕さびしき小雄鹿の声     心前  秋 「小牡鹿」
里遠き庵も哀に住み馴れて     紹巴  雑
  捨てしうき身もほだしこそあれ 行祐  雑 「述懐」
 
(三裏)

みどり子の生い立つ末を思ひやり  心前  雑 「述懐」
  猶永かれの命ならずや     昌叱  雑 「述懐」
契り只かけつつ酌める盃に     宥源  雑 
  わかれてこそはあふ坂の関   紹巴  雑
旅なるをけふはあすはの神もしれ  光秀  雑 「神祇」「旅」
  ひとりながむる浅茅生の月   兼如  秋 「月」  
爰かしこ流るる水の冷やかに    行祐  秋 「冷やか」(初秋)
  秋の螢やくれいそぐらん    心前  秋  流水→蛍
急雨の跡よりも猶霧降りて     紹巴  秋 「降物(霧)」
  露はらひつつ人のかへるさ   宥源  秋 「降物(露)」 
宿とする木陰も花の散り尽くし   昌叱  春 「花」秋→春の季移
  山より山にうつる鶯      紹巴  春 「鶯」
朝霞薄きがうへに重なりて     光秀  春 「聳物」
  引きすてられし横雲の空    心前  雑

(名残表)

出でぬれど波風かはるとまり船   兼如  雑 「旅」「水辺」
  めぐる時雨の遠き浦々     昌叱  冬 「時雨」「水辺」
むら蘆の葉隠れ寒き入日影     心前  冬 「寒き」
  たちさわぎては鴫の羽がき   光秀  秋 「鴫」
行く人もあらぬ田の面の秋過ぎて  紹巴  秋 
  かたぶくままの笘茨の露    宥源  秋 「降物」
月みつつうちもやあかす麻衣    昌叱  秋 「月」
  寝もせぬ袖の夜半の休らい   行祐  雑 「恋」
しづまらば更けてこんとの契りにて 光秀  雑 「恋」
  あまたの門を中の通ひ路    兼如  雑 「恋」
埋みつる竹はかけ樋の水の音    紹巴  雑 「水辺」(恋離)
  石間の苔はいづくなるらん   心前  雑  
みず垣は千代も経ぬべきとばかりに 行祐  雑 「神祇」
  翁さびたる袖の白木綿     昌叱  雑 「神祇」

(名残裏)

明くる迄霜よの神楽さやかにて   兼如  冬 「神祇」
  とりどりにしもうたふ声添ふ  紹巴  雑 神楽→うたふ声   
はるばると里の前田の植ゑわたし  宥源  夏 うたふ→田植え
  縄手の行衛ただちとは知れ   光秀  雑 縄手(あぜ道) 
諌むればいさむるままの馬の上   昌叱  雑 
  うちみえつつも連るる伴ひ   行祐  雑 「人倫」 
色も香も酔をすすむる花の本    心前  春 「花」
  国々は猶のどかなるころ    光慶  春 「のどか」


連衆

光秀 十五句 明智光秀
行祐 十一句 愛宕西之坊威徳院住職
紹巴 十八句 里村紹巴、連歌師
宥源 十一句 愛宕上之坊大善院住
昌叱 十六句 里村紹巴門の連歌師
心前 十五句 里村紹巴門の連歌師
兼如 十二句 猪名代家の連歌師
行澄 一句 東六郎兵衛行澄、光秀の家臣
光慶 一句 明智十兵衛光慶、光秀の長子


補注

「新潮日本古典集成」(島津忠夫篇)では、愛宕百韻の日付を五月二十四日とする写本を底本としているが、諸資料の多くは二十八日であるので、こちらに従った。


水上まさる庭の夏山     行祐
脇は、客人である光秀の発句に亭主である威徳院住職行祐が付けた。この脇は、五月雨が降りしきるその場の情景をもって付けた。五月↓夏山と付ける。眼前にある庭の築山であったろう。

花落つる池の流れをせきとめて  紹巴
第三は、夏→春の「季移り」によって、発句の夏のイメージを春の「花」の光景に転換する。「花」は前句との関係では夏花であるが付句との関係では桜の花である。「花」は一座四句物。

風に霞を吹き送る暮れ    宥源
 四句は、「花落つる」→「風」と付ける。「吹き送る」霞が花の薫りを伝えるという意があるのであろう。「吹きおくる嵐を花のにほひにて霞にかほる山桜かな(續拾遺集 如円)」

春も猶鐘のひびきや冴えぬらん  昌叱
  五句は、暮れ→鐘 晩鐘として付ける。「冴え」は、鐘の音の澄みわたること。


かたしく袖は有明の霜    心前
 六句は、鐘の「響きが冴える」というのを、「寒える」ととり冬に転じる。「かたしく」とは、一人寝をあらわす。有明の月の出る頃。


うらがれになりぬる草の枕して  兼如
  「うら」は「末」。末の秋で晩秋。袖→枕と付ける。草枕で旅の句

聞きなれにたる野辺の松虫  行澄
  「旅寝」の句で続ける。

秋は只涼しき方に行きかへり   行祐
「夏と秋と行きかふ空の通ひ路はかたへすずしき風や吹くらむ」(古今集 夏 凡河内躬恒)の本歌あり。

尾上の朝け夕ぐれの空    光秀
 「朝け」は「夜明け」前句の場を「尾上(山頂)」として付ける。

立ちつづく松の梢やふかからん  宥源
  「尾上」→「松」で付ける。

波のまがひの入海の里    紹巴 
  「まがひ」は「見分けがつかぬ事」

おもひに永き夜は明石がた   光秀
「夢語り」→「明石」は、故桐壺帝のお告げによって須磨から明石へ源氏がおもむいたという、源氏物語の本説をふまえる。「明石」を「夜明かし」にかけているが、光秀の謀反という大事を決行する前の夜の心境ともとれる。

山は水無瀬の霞たつくれ    昌叱  
  本歌「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ」(新古今、後鳥羽院)

下解くる雪の雫の音すなり     心前
  本歌「事にいでていはぬばかりぞ水瀬川したにかよひて恋しきものを」(古今集、紀友則)

心ありけり釣のいとなみ    光秀  
 本説 前句の賢人を、周の文王に仕えた太公望とする。

石間の苔はいづくなるらん   心前
 本歌 「岩まとぢし氷もけさはとけそめて苔の下道道もとむらむ」(新古今集 春上 西行)

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