三 現代詩と俳諧的なるもの― Impersonalityの詩論
もし、詩が作者の個性に根ざす物であり、制作(ポイエーシス)が、個の内面にあるものを外化するという意味での表現であるとするならば、個性は作品として制作される以前に既に存在するということになろう。詩を読解するということは、外からは窺い知れぬ作者の内的な生を読者が感情移入によって理解するということになろう。
ところが、藝術作品の表現は、そのように個の内面から外面への表現と言う方向性ではなく、西田幾多郎がそうしたように「(表現的)一般者の自己限定 即 個と個の相互限定」という方向から見ることができる。俳諧や連歌のような座の文藝に於いては、個の閉ざされた内面を表現することではなく、言葉による制作の働きを相互主体的な場で遂行すること、「作られたものから作るものへ」と創造活動が展開することによって、一巻の作品が巻き上げられる。
藝術作品の制作を作者の個性の表現と見る見方を真っ向から否定した詩論として、T・S エリオットの「伝統と個人の才能」がある。
「詩は情緒の解放ではなくて情緒からの脱却であり、個性の表現ではなく個人性からの脱却である。 当然のことであるが、個性と情緒を持っている人だけが、個人性と情緒から脱却するとはどういう意味か分かるだろう」(「伝統と個人の才能」)
彼は、詩人の役割を科学者になぞらえて「藝術が科學の状態に近づくということは、この個性滅却の過程でいわれるのだ。そこで、私は細くひきのばした白金の一片を酸素と無水亜硫酸のはいった容器にいれるときに起きる反応を考えて貰いたい。この類推によって示唆が得られるだろう」とまで謂っているが、ここには若干の誤解があるように思う。藝術家の「個性滅却」というのは、藝術が科學の状態に近づくということではないであろう。科學は最初から科学者の個性とは関係がないという意味で、「没個性」的であって、そこでは、「感受の主体」は問題にならない。しかし、藝術作品の制作と鑑賞においては、まさしく、作者や鑑賞者の「主体性」が問題となる。
客体の持つ通約可能な「類的普遍性」ではなく、客体的な類種の違いを越えた「主体的な普遍性」こそが、藝術作品の持ちうる普遍性である。藝術作品の批評においては科学者がやるような第三者(傍観者)的な藝術作品への関わりはありえない。
それでは、「個性滅却」の詩論が意味するところは何であるのか。おそらく、それは次のようなエリオットの文に真意を求めるべきであろう。
「芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしていくこと、絶えず自己を滅却していくことにある」
つまり、「非個性的である」ないし「没個性的である」という静的な状態ではなく、自己を犠牲にしていくこと、個性を滅却していくこと、その動的なプロセスが問題である。
エリオットの言うImpersonality の詩論というのは、より内容に即して考えるならば、「人格とか個人とかいうものは、経験に先立つ実体ではない」という立場から為される詩論である。彼は、もともと哲学専攻で、博士論文のテーマは、英国の形而上学者フランシス・ブラドレーに関する研究であった。ブラドレーの哲学は、主客未分の「今此処における直接経験、純粋な感情(feeling)」からはじめて、絶対者(Absolute)に至るという点に特色がある。すなわち「個人よりも経験が先行する」ということ―これがポイントである。個性は経験することによって形成される、だから、そこでつくられた個性は、つねにそれを越えるものに接することによって自己を越えていくものだ、という意味である。詩作も又、他の一切の経験と同じく、直接経験からスタートするのであるが、そこでいう直接経験というのは経験する主体がまず先に(実体として)存在して、それが外界を直に経験するという意味ではなく、通常、我々が、人格なり個性を持った個体として考えているものが、そこにおいては解体されるようなレベル(主客未分の経験)を意味する。だからこの経験を表すのにブラドレーは、感情(feeling)という言葉を使った。この文脈では「感情」 は「物」と化した個人の経験の殻を突き破る働きをする。したがって、エリオットの言わんとするところを「没個性(impersonality)」の詩論というだけでは十分とはいえないであろう。詩の制作に於いて個は否定されることに於いて肯定されるという逆対応的な側面があるからである。すなわち、ひとたび個が滅却された表現的一般者の場においてこそ、掛け替えのない「個」が獲得され、表現されることを伴うものでなければならない。
彼の後年の作品「四重奏」に、
In order to arrive there,
To arrive where you are, to get from where you are not,
you must go by a way wherein there is no ecstasy.
In order to arrive at what you do not know
you must go by a way which is the way of ignorance.
In order to possess what you do not possess
you must go by the way of dispossession.
In order to arrive at what you are not
you must go through the way in which you are not.
(訳)
君がいない場所から、君がいる場所に達するためには
自己陶酔なき道を行かねばならぬ
君の知らぬものに達するためには
無知の道という道を行かねばならぬ
君の持たぬものを持つためには
無所得の道を行かねばならぬ
君でないものに達するためには
君のいない道を通って行かねばならぬ
というくだりがある。エリオットは仏教徒でもなければヒンズー教徒でもなく、あくまでもキリスト者の詩人であるが、これらの詩句には、そういう宗教上の差別を越えて訴えかけるものがある。 それと同時に、「無知」「無所得」の道を歩み通すことを指示するかれの詩作品自体のほうが、個性滅却の詩論のむかうべき方向性を示しているのではないか。
俳句が日本以外の文学に影響を与えた事例として、二〇世紀の英米の詩人たち、とくにイマジズムの詩人のケースがある。エリオットが第一次大戦後に発表した詩「荒地」を制作するに際して、詩人としてアドバイスを与え、原案を添削したエズラ・パウンドは、「イマジズム」の詩人として知られているが、彼の詩論に日本の俳句が大いに影響したことは文学史上の興味ある事実である。イマジズムの詩の作法というのは
(1)瞬間のうちに知的・情緒的な複合体を提示する
(2)余計な説明をせずに、具体的な「事物」それ自体を明確に表現する。
(3)メトロノームのような因習的な韻律を排し、内容に即した自由な韻律で詠む。
の三つであるが、これは英国では、自由詩の運動の延長線上にあった。
説明抜きに二つのイメージを配合する無韻の短詩は、当時の人にとっては、非常に前衛的な「詩の作法」であった。パウンドにとって
The fallen blossom flies back to its branch:A butterfly.
(落花枝にかへるとみれば胡蝶かな)
という守武の句は天啓のようなものであったという。落花という「死のイメージ」と、上に向かって翻る胡蝶の「生のイメージ」の即物的な取り合わせが、イマジズムの詩法の原点となったのである。
俳句は日本では伝統的な定型詩のひとつであるが、それはイマジストの詩人たちには「前衛的な自由詩の作法」として受容されたことに注意したい。もともと俳諧は連歌という第一藝術の余技として生まれたものであったが、連歌とはちがって自由でとらわれない革新性をもっていたから、それはある意味で「自由詩」という性格を持っていた。その俳諧の自由な精神が二〇世紀の英米の前衛的な詩の手法と結びついたのである。
四 連歌における相互主体性
俳句とは元来は俳諧の発句である。そして俳諧を純正連歌にならぶ第一藝術としたのは芭蕉であり、或る意味で、彼は連歌の伝統と俳諧の革新性を統合した人物である。したがって、俳句の起源もまた、連歌まで遡らせることができるであろう。(連歌と俳諧を合わせて連句と呼ぶのは明治以後である)
連歌の正式の形態である百韻は四楽章形式の交響曲になぞらえることができる。連歌の素材は俳句よりも広く、四季折々の花鳥諷詠のみならず、世態人情、恋、述懐、羈旅、藝能、神祇釈教など、およそ詩歌の扱いうるすべてにわたっている。百韻の中にそれらを万華鏡のように詠み込むことが必要である。しかしながら、それらを詠むにあたって、一定の秩序と調和が必要になるので、それを句数と去嫌の式目によって定められる。この連歌式目には日本人の伝統的な美意識が内在するコスモロジーとして興味深い点が多々あるが、それはあくまでも複数の作者が交互にそれぞれが主となり客となって句を詠みあうときの秩序を規制するもので、式目それ自身は良き連歌を制作するための必要条件であるに過ぎない。重要なことは、それぞれの句の間に存する「附合」の美学である。
連歌の美的理想をもっとも体系的に述べたのは中世の芭蕉とも呼ばれる心敬である。彼の主著、『ささめごと』は、多くの点に於いて蕉風俳諧を先取りする議論がなされている。とくに
親句は教、疎句は禅、親句は有相、疎句は無相、親句は不了義、疎句は了義経。
というごとく、仏教哲学の用語を以て連歌の理念を述べている点に特色がある。
心敬の歌論では、「疎句附け」が連歌の醍醐味とされている。それは、禅問答に典型的に表されるような独特の対話的精神の発露であり、連歌の附合の呼吸を表現するものであった。
親句とは、客人の挨拶として投ぜられた発句に答える主人の脇のように、前句の内容に即して、それを補足しうち添える句を指す。これに対して、疎句とは、連歌の前句と付句との間に「切れ」(非連続性)があり、二つの句が独立自存しながらも深いレベルで響き合うことを意味している。連歌において即興性が重要であることは言うまでもないが、付句が前句に寄りかかり、意味の上で論理的につながるのではなく、また、「寄合」とよばれた語句の連想に頼るのではなく、その都度の作者によって見いだされた新しい世界を古い世界に対比させることを意味する。古い世界の繰り返しにとどまる付句は「付きすぎ」といって退けられる。そして、このような疎句付けを重んじる連歌の作法が、俳諧において芭蕉に受け継がれているのである。
芭蕉の俳諧における重要な特質の一つは、その附合が従来の附物・心附にとどまらず、いわゆる匂附を根本としたところにある。一句の独立性と二句の連関性とは矛盾する要求であるが、この矛盾を創作の原理に転じたところに連歌の疎句付けの妙味があった。
「附心は薄月夜に梅の匂へるがごとくあるべし」
という芭蕉の言葉がある。彼によると
「秋よりのちの朝顔のいろ」(短句)
にたいして、
「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」(長句)
と続ける「附心」が、匂づけである。(俳諧芭蕉談)
まず、「季節遅れの朝顔の花」の余情を尋ねる。その情は、いつか時を過ぎてなお微かに色香をたもっている女性の姿を彷彿とさせる。この余情を形に表して、「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」と続ける。つまり、「朝顔のいろ」は純然たる叙景であるが、それがある人物の姿となって現れる。これは、「風姿」→「風情」への転調と言って良いだろう。朝顔が前句にあるからといって、朝顔にゆかりのある「物」で付けたのでは「物付け」となり、情趣に乏しい。前句の余情に付けるから「匂づけ」であるが、「匂」は、その物ではなく、その「物の影」である。
ところで、「物の影」に付けるのではなくて、これが「物語」の影につける場合は、「面影(俤)づけ」といわれる。芭蕉の俳諧の場合、中国と日本の詩歌の古典―源氏物語、李白・杜甫、白楽天などの漢詩など―が、やはり下敷きになっている。そして、それらが、同時代の生きた俳諧の言葉で語られている。「面影づけ」のばあい、その句は背景を為している古典を知らない人が読んでも、情趣のあるものであることが要求される。つまり、引用であることを知らなければ理解できない句はあまり洗練されていない付け方である。
「冬の日」の「木枯らし」の巻から事例をひくと
二の尼に近衛の花のさかり聞く 野水
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉
乗り物に簾すく顔おぼろなる 重五
などは源氏物語の「匂い」につけた面影づけ。この歌仙のフィナーレは
綾ひとへ居湯に志賀の花漉して 杜国 (花の定座)
廊下は藤の影つたふなり 重五 (挙句)
であるが、杜国の句は、謡曲「志賀」の「雪ならば幾度袖をはらはまし花の吹雪の志賀の山越」
の歌枕を詠み、絹ごしの湯に散りこむ花片のイメージで「匂の花」を表現したものである。
これらの古典の世界はあくまでも俳諧が成立する場において共有された記憶であり、作品の「地」となるものであるが、それらが、ひとつひとつの句に限りなき陰翳を与えている。 匂附も面影附もその意味で誠の俳諧の独自の美学を形作る。
五 座の文藝における創造性―オリジナリティの尊重
俳句や連歌は、個性滅却という求道的な自己否定のプロセスを経て獲得される詩であるが、そのように一度否定された個性は、歌の制作の場においては、創造的な個として再び肯定される。そのことは、作品の制作の現場におけるオリジナリティの尊重というかたちで現れる。
古くは和歌の時代から、「個の創造性」ないし「創造的な個」を尊重するという考え方が厳然として存在した。近代以降の著作権とは異なるが、模倣を誡め、つねにオリジナルなものを制作することを尊ぶ気風があった。すなわち、作品は決して私物化されず公共的な場で制作されるが、個々の作品のもつオリジナリティは尊重されたのである。
新古今の時代には、「主あることば」または「制詞」ということが云われていた。これは、すでに誰かが使った表現は、二度と繰り返して使ってはならないという作家の心得のようなもので、秀歌を詠んだ原作者のオリジナリティを尊重せよという主旨であった。 古くは、定家の「近代秀歌」に 「年の内に春は来にけり」「そでひちてむすびし水」 「つきやあらぬはるやむかしの」
などの句は、たとえ本歌取りの歌であっても、使ってはならぬという家伝があったとの記述がある。この考え方が、定家の嫡男、為家の「詠歌一体」 のなかで、「主ある詞」を使ってはならぬという「制詞」として明示されている。
連歌や俳諧において等類の句を避けるのは和歌以上に難しいように見える。というのは、連歌俳諧は、一個人の作品ではなく、座において成立する作品であるから、座の参加者は、他者と共有する世界を確認しつつ、連歌の世界に和歌と通底する連想の広がりを与えるために本歌取りの誘惑に常に晒されるからである。 宗祇が古今伝授をうけた古典学者であったことからもわかるように、室町時代に活躍した連歌師は、古今集、新古今集、源氏物語の織りなす世界に通暁していた。したがって、彼らの作品は、そういう古典的世界からの本歌取りになっている事が多い。 しかしながら、そういう状況に飽きたらず、連歌に和歌と同等の厳しいオリジナリティを求めた歌人がいたことに注意したい。
二条良基は、連歌を即興的な「当座の慰みもの」から離脱させ、古典的な和歌に匹敵する新しいジャンルとして確立させたが、彼はまさに、連歌においても等類の句は避けるべきであると強調している。 彼は、「九州問答」という歌論書において
歌の同類を連歌に仕り候ふこと、周阿(同時代の連歌師)なども常に候ひしと覚え候ふ。仮令、周阿が句に
我に憂き人ぞ水上涙川
是は主(周阿のこと)も自賛し候ひし。
と、当時評判であり、また作者自身が自賛していた句について、 この句が古今集からの借り物であるがゆえに、さほどの評価に値しない、と言っている。 つまり、周阿の句は古今和歌集恋歌一の
涙川なにみなかみを尋ねけむ物思ふ時のわが身なりけり
の本歌取りであり、「古歌同物」にちかく、「新しき風情」ありとは認められない、という。つまり良基は、安直な本歌取りを 「真実道を執せん人好み用ゐるべからず」 と戒め、 「歌にも連歌にもいまだなからん風情こそ大切に侍れ」と結んでいる。
芭蕉の門下では、一般に「等類の句」「同巣の句」は、 避けるべきことが言われる。
イ.樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉
ロ.桐の木の風にかまはぬ落葉かな 凡兆
「去来抄」によると、其角はロがイの「等類の句」であると非難したとのこと。
これに対して、凡兆は、言葉遣いは似ているけれども、句の意味内容が全然違うから「等類の句」ではないと反論した。去来の考えでは、句の主題は全然違うけれども、言葉遣いが類似しているのでロはイの「同巣の句」であると評した。 つまり
「等類の句」=同じ趣向、おなじ内容の句
「同巣の句」=同じ言葉遣いの句
である。去来によると、「同巣の句」を作るのは容易安直すぎるのが問題である。 「同巣の句」を詠んだとしても、それは詠み手にとって、すこしも「手柄にはならぬ」と云う。このように蕉門では、「等類の句」や「同巣の句」は、原則として避けるべきであるが、場合によっては、もとの句よりも優れた「等類の句」や、もとの句にない新しい内容を感じさせる「同巣の句」が出きる場合がある――そういうときに限って、例外的に許容された。
芭蕉自身は、たとえ自分自身の作品であっても、過去の作例と「等類」あるいは「同巣」の句を作ることを極力避けようとしたことが良く知られている。「清滝や浪にちりなき夏の月」 という辞世の句が「白菊の目にたててみる塵もなし」と「等類」の句となるがゆえにこれを案じ変えて 「清滝や波に散り込む青松葉」としたことなど、 「去来抄」にある通りである。
芭蕉の「俳諧の誠」は、過去を乗り越える 「あたらしみ」が生命であるので、自分自身の過去ですら 模倣を許さないのである。
更に芭蕉が、自らの辞世の句が過去の自作と「等類の句」 となることを嫌った理由として、「誠の俳諧」をたしなむものに固有の美意識があったことがあげられる。誠の俳諧は連歌とおなじく、一巻の中に類似した発想が繰り返されることを「輪廻」や「観音開き」と言って最も嫌う。同じ趣向の反復は輪廻から解脱すべき自由なる精神にふさわしくないのである。その自由は過去からの自由であり、つねに「新しみ」をもとめて未来に賭ける創造者の自由であった。
「此みちに古人なし」「我はただ来者を恐る」(三冊子)という芭蕉の言葉はかかる意味に理解されるべきであろう。
もし、詩が作者の個性に根ざす物であり、制作(ポイエーシス)が、個の内面にあるものを外化するという意味での表現であるとするならば、個性は作品として制作される以前に既に存在するということになろう。詩を読解するということは、外からは窺い知れぬ作者の内的な生を読者が感情移入によって理解するということになろう。
ところが、藝術作品の表現は、そのように個の内面から外面への表現と言う方向性ではなく、西田幾多郎がそうしたように「(表現的)一般者の自己限定 即 個と個の相互限定」という方向から見ることができる。俳諧や連歌のような座の文藝に於いては、個の閉ざされた内面を表現することではなく、言葉による制作の働きを相互主体的な場で遂行すること、「作られたものから作るものへ」と創造活動が展開することによって、一巻の作品が巻き上げられる。
藝術作品の制作を作者の個性の表現と見る見方を真っ向から否定した詩論として、T・S エリオットの「伝統と個人の才能」がある。
「詩は情緒の解放ではなくて情緒からの脱却であり、個性の表現ではなく個人性からの脱却である。 当然のことであるが、個性と情緒を持っている人だけが、個人性と情緒から脱却するとはどういう意味か分かるだろう」(「伝統と個人の才能」)
彼は、詩人の役割を科学者になぞらえて「藝術が科學の状態に近づくということは、この個性滅却の過程でいわれるのだ。そこで、私は細くひきのばした白金の一片を酸素と無水亜硫酸のはいった容器にいれるときに起きる反応を考えて貰いたい。この類推によって示唆が得られるだろう」とまで謂っているが、ここには若干の誤解があるように思う。藝術家の「個性滅却」というのは、藝術が科學の状態に近づくということではないであろう。科學は最初から科学者の個性とは関係がないという意味で、「没個性」的であって、そこでは、「感受の主体」は問題にならない。しかし、藝術作品の制作と鑑賞においては、まさしく、作者や鑑賞者の「主体性」が問題となる。
客体の持つ通約可能な「類的普遍性」ではなく、客体的な類種の違いを越えた「主体的な普遍性」こそが、藝術作品の持ちうる普遍性である。藝術作品の批評においては科学者がやるような第三者(傍観者)的な藝術作品への関わりはありえない。
それでは、「個性滅却」の詩論が意味するところは何であるのか。おそらく、それは次のようなエリオットの文に真意を求めるべきであろう。
「芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしていくこと、絶えず自己を滅却していくことにある」
つまり、「非個性的である」ないし「没個性的である」という静的な状態ではなく、自己を犠牲にしていくこと、個性を滅却していくこと、その動的なプロセスが問題である。
エリオットの言うImpersonality の詩論というのは、より内容に即して考えるならば、「人格とか個人とかいうものは、経験に先立つ実体ではない」という立場から為される詩論である。彼は、もともと哲学専攻で、博士論文のテーマは、英国の形而上学者フランシス・ブラドレーに関する研究であった。ブラドレーの哲学は、主客未分の「今此処における直接経験、純粋な感情(feeling)」からはじめて、絶対者(Absolute)に至るという点に特色がある。すなわち「個人よりも経験が先行する」ということ―これがポイントである。個性は経験することによって形成される、だから、そこでつくられた個性は、つねにそれを越えるものに接することによって自己を越えていくものだ、という意味である。詩作も又、他の一切の経験と同じく、直接経験からスタートするのであるが、そこでいう直接経験というのは経験する主体がまず先に(実体として)存在して、それが外界を直に経験するという意味ではなく、通常、我々が、人格なり個性を持った個体として考えているものが、そこにおいては解体されるようなレベル(主客未分の経験)を意味する。だからこの経験を表すのにブラドレーは、感情(feeling)という言葉を使った。この文脈では「感情」 は「物」と化した個人の経験の殻を突き破る働きをする。したがって、エリオットの言わんとするところを「没個性(impersonality)」の詩論というだけでは十分とはいえないであろう。詩の制作に於いて個は否定されることに於いて肯定されるという逆対応的な側面があるからである。すなわち、ひとたび個が滅却された表現的一般者の場においてこそ、掛け替えのない「個」が獲得され、表現されることを伴うものでなければならない。
彼の後年の作品「四重奏」に、
In order to arrive there,
To arrive where you are, to get from where you are not,
you must go by a way wherein there is no ecstasy.
In order to arrive at what you do not know
you must go by a way which is the way of ignorance.
In order to possess what you do not possess
you must go by the way of dispossession.
In order to arrive at what you are not
you must go through the way in which you are not.
(訳)
君がいない場所から、君がいる場所に達するためには
自己陶酔なき道を行かねばならぬ
君の知らぬものに達するためには
無知の道という道を行かねばならぬ
君の持たぬものを持つためには
無所得の道を行かねばならぬ
君でないものに達するためには
君のいない道を通って行かねばならぬ
というくだりがある。エリオットは仏教徒でもなければヒンズー教徒でもなく、あくまでもキリスト者の詩人であるが、これらの詩句には、そういう宗教上の差別を越えて訴えかけるものがある。 それと同時に、「無知」「無所得」の道を歩み通すことを指示するかれの詩作品自体のほうが、個性滅却の詩論のむかうべき方向性を示しているのではないか。
俳句が日本以外の文学に影響を与えた事例として、二〇世紀の英米の詩人たち、とくにイマジズムの詩人のケースがある。エリオットが第一次大戦後に発表した詩「荒地」を制作するに際して、詩人としてアドバイスを与え、原案を添削したエズラ・パウンドは、「イマジズム」の詩人として知られているが、彼の詩論に日本の俳句が大いに影響したことは文学史上の興味ある事実である。イマジズムの詩の作法というのは
(1)瞬間のうちに知的・情緒的な複合体を提示する
(2)余計な説明をせずに、具体的な「事物」それ自体を明確に表現する。
(3)メトロノームのような因習的な韻律を排し、内容に即した自由な韻律で詠む。
の三つであるが、これは英国では、自由詩の運動の延長線上にあった。
説明抜きに二つのイメージを配合する無韻の短詩は、当時の人にとっては、非常に前衛的な「詩の作法」であった。パウンドにとって
The fallen blossom flies back to its branch:A butterfly.
(落花枝にかへるとみれば胡蝶かな)
という守武の句は天啓のようなものであったという。落花という「死のイメージ」と、上に向かって翻る胡蝶の「生のイメージ」の即物的な取り合わせが、イマジズムの詩法の原点となったのである。
俳句は日本では伝統的な定型詩のひとつであるが、それはイマジストの詩人たちには「前衛的な自由詩の作法」として受容されたことに注意したい。もともと俳諧は連歌という第一藝術の余技として生まれたものであったが、連歌とはちがって自由でとらわれない革新性をもっていたから、それはある意味で「自由詩」という性格を持っていた。その俳諧の自由な精神が二〇世紀の英米の前衛的な詩の手法と結びついたのである。
四 連歌における相互主体性
俳句とは元来は俳諧の発句である。そして俳諧を純正連歌にならぶ第一藝術としたのは芭蕉であり、或る意味で、彼は連歌の伝統と俳諧の革新性を統合した人物である。したがって、俳句の起源もまた、連歌まで遡らせることができるであろう。(連歌と俳諧を合わせて連句と呼ぶのは明治以後である)
連歌の正式の形態である百韻は四楽章形式の交響曲になぞらえることができる。連歌の素材は俳句よりも広く、四季折々の花鳥諷詠のみならず、世態人情、恋、述懐、羈旅、藝能、神祇釈教など、およそ詩歌の扱いうるすべてにわたっている。百韻の中にそれらを万華鏡のように詠み込むことが必要である。しかしながら、それらを詠むにあたって、一定の秩序と調和が必要になるので、それを句数と去嫌の式目によって定められる。この連歌式目には日本人の伝統的な美意識が内在するコスモロジーとして興味深い点が多々あるが、それはあくまでも複数の作者が交互にそれぞれが主となり客となって句を詠みあうときの秩序を規制するもので、式目それ自身は良き連歌を制作するための必要条件であるに過ぎない。重要なことは、それぞれの句の間に存する「附合」の美学である。
連歌の美的理想をもっとも体系的に述べたのは中世の芭蕉とも呼ばれる心敬である。彼の主著、『ささめごと』は、多くの点に於いて蕉風俳諧を先取りする議論がなされている。とくに
親句は教、疎句は禅、親句は有相、疎句は無相、親句は不了義、疎句は了義経。
というごとく、仏教哲学の用語を以て連歌の理念を述べている点に特色がある。
心敬の歌論では、「疎句附け」が連歌の醍醐味とされている。それは、禅問答に典型的に表されるような独特の対話的精神の発露であり、連歌の附合の呼吸を表現するものであった。
親句とは、客人の挨拶として投ぜられた発句に答える主人の脇のように、前句の内容に即して、それを補足しうち添える句を指す。これに対して、疎句とは、連歌の前句と付句との間に「切れ」(非連続性)があり、二つの句が独立自存しながらも深いレベルで響き合うことを意味している。連歌において即興性が重要であることは言うまでもないが、付句が前句に寄りかかり、意味の上で論理的につながるのではなく、また、「寄合」とよばれた語句の連想に頼るのではなく、その都度の作者によって見いだされた新しい世界を古い世界に対比させることを意味する。古い世界の繰り返しにとどまる付句は「付きすぎ」といって退けられる。そして、このような疎句付けを重んじる連歌の作法が、俳諧において芭蕉に受け継がれているのである。
芭蕉の俳諧における重要な特質の一つは、その附合が従来の附物・心附にとどまらず、いわゆる匂附を根本としたところにある。一句の独立性と二句の連関性とは矛盾する要求であるが、この矛盾を創作の原理に転じたところに連歌の疎句付けの妙味があった。
「附心は薄月夜に梅の匂へるがごとくあるべし」
という芭蕉の言葉がある。彼によると
「秋よりのちの朝顔のいろ」(短句)
にたいして、
「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」(長句)
と続ける「附心」が、匂づけである。(俳諧芭蕉談)
まず、「季節遅れの朝顔の花」の余情を尋ねる。その情は、いつか時を過ぎてなお微かに色香をたもっている女性の姿を彷彿とさせる。この余情を形に表して、「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」と続ける。つまり、「朝顔のいろ」は純然たる叙景であるが、それがある人物の姿となって現れる。これは、「風姿」→「風情」への転調と言って良いだろう。朝顔が前句にあるからといって、朝顔にゆかりのある「物」で付けたのでは「物付け」となり、情趣に乏しい。前句の余情に付けるから「匂づけ」であるが、「匂」は、その物ではなく、その「物の影」である。
ところで、「物の影」に付けるのではなくて、これが「物語」の影につける場合は、「面影(俤)づけ」といわれる。芭蕉の俳諧の場合、中国と日本の詩歌の古典―源氏物語、李白・杜甫、白楽天などの漢詩など―が、やはり下敷きになっている。そして、それらが、同時代の生きた俳諧の言葉で語られている。「面影づけ」のばあい、その句は背景を為している古典を知らない人が読んでも、情趣のあるものであることが要求される。つまり、引用であることを知らなければ理解できない句はあまり洗練されていない付け方である。
「冬の日」の「木枯らし」の巻から事例をひくと
二の尼に近衛の花のさかり聞く 野水
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉
乗り物に簾すく顔おぼろなる 重五
などは源氏物語の「匂い」につけた面影づけ。この歌仙のフィナーレは
綾ひとへ居湯に志賀の花漉して 杜国 (花の定座)
廊下は藤の影つたふなり 重五 (挙句)
であるが、杜国の句は、謡曲「志賀」の「雪ならば幾度袖をはらはまし花の吹雪の志賀の山越」
の歌枕を詠み、絹ごしの湯に散りこむ花片のイメージで「匂の花」を表現したものである。
これらの古典の世界はあくまでも俳諧が成立する場において共有された記憶であり、作品の「地」となるものであるが、それらが、ひとつひとつの句に限りなき陰翳を与えている。 匂附も面影附もその意味で誠の俳諧の独自の美学を形作る。
五 座の文藝における創造性―オリジナリティの尊重
俳句や連歌は、個性滅却という求道的な自己否定のプロセスを経て獲得される詩であるが、そのように一度否定された個性は、歌の制作の場においては、創造的な個として再び肯定される。そのことは、作品の制作の現場におけるオリジナリティの尊重というかたちで現れる。
古くは和歌の時代から、「個の創造性」ないし「創造的な個」を尊重するという考え方が厳然として存在した。近代以降の著作権とは異なるが、模倣を誡め、つねにオリジナルなものを制作することを尊ぶ気風があった。すなわち、作品は決して私物化されず公共的な場で制作されるが、個々の作品のもつオリジナリティは尊重されたのである。
新古今の時代には、「主あることば」または「制詞」ということが云われていた。これは、すでに誰かが使った表現は、二度と繰り返して使ってはならないという作家の心得のようなもので、秀歌を詠んだ原作者のオリジナリティを尊重せよという主旨であった。 古くは、定家の「近代秀歌」に 「年の内に春は来にけり」「そでひちてむすびし水」 「つきやあらぬはるやむかしの」
などの句は、たとえ本歌取りの歌であっても、使ってはならぬという家伝があったとの記述がある。この考え方が、定家の嫡男、為家の「詠歌一体」 のなかで、「主ある詞」を使ってはならぬという「制詞」として明示されている。
連歌や俳諧において等類の句を避けるのは和歌以上に難しいように見える。というのは、連歌俳諧は、一個人の作品ではなく、座において成立する作品であるから、座の参加者は、他者と共有する世界を確認しつつ、連歌の世界に和歌と通底する連想の広がりを与えるために本歌取りの誘惑に常に晒されるからである。 宗祇が古今伝授をうけた古典学者であったことからもわかるように、室町時代に活躍した連歌師は、古今集、新古今集、源氏物語の織りなす世界に通暁していた。したがって、彼らの作品は、そういう古典的世界からの本歌取りになっている事が多い。 しかしながら、そういう状況に飽きたらず、連歌に和歌と同等の厳しいオリジナリティを求めた歌人がいたことに注意したい。
二条良基は、連歌を即興的な「当座の慰みもの」から離脱させ、古典的な和歌に匹敵する新しいジャンルとして確立させたが、彼はまさに、連歌においても等類の句は避けるべきであると強調している。 彼は、「九州問答」という歌論書において
歌の同類を連歌に仕り候ふこと、周阿(同時代の連歌師)なども常に候ひしと覚え候ふ。仮令、周阿が句に
我に憂き人ぞ水上涙川
是は主(周阿のこと)も自賛し候ひし。
と、当時評判であり、また作者自身が自賛していた句について、 この句が古今集からの借り物であるがゆえに、さほどの評価に値しない、と言っている。 つまり、周阿の句は古今和歌集恋歌一の
涙川なにみなかみを尋ねけむ物思ふ時のわが身なりけり
の本歌取りであり、「古歌同物」にちかく、「新しき風情」ありとは認められない、という。つまり良基は、安直な本歌取りを 「真実道を執せん人好み用ゐるべからず」 と戒め、 「歌にも連歌にもいまだなからん風情こそ大切に侍れ」と結んでいる。
芭蕉の門下では、一般に「等類の句」「同巣の句」は、 避けるべきことが言われる。
イ.樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉
ロ.桐の木の風にかまはぬ落葉かな 凡兆
「去来抄」によると、其角はロがイの「等類の句」であると非難したとのこと。
これに対して、凡兆は、言葉遣いは似ているけれども、句の意味内容が全然違うから「等類の句」ではないと反論した。去来の考えでは、句の主題は全然違うけれども、言葉遣いが類似しているのでロはイの「同巣の句」であると評した。 つまり
「等類の句」=同じ趣向、おなじ内容の句
「同巣の句」=同じ言葉遣いの句
である。去来によると、「同巣の句」を作るのは容易安直すぎるのが問題である。 「同巣の句」を詠んだとしても、それは詠み手にとって、すこしも「手柄にはならぬ」と云う。このように蕉門では、「等類の句」や「同巣の句」は、原則として避けるべきであるが、場合によっては、もとの句よりも優れた「等類の句」や、もとの句にない新しい内容を感じさせる「同巣の句」が出きる場合がある――そういうときに限って、例外的に許容された。
芭蕉自身は、たとえ自分自身の作品であっても、過去の作例と「等類」あるいは「同巣」の句を作ることを極力避けようとしたことが良く知られている。「清滝や浪にちりなき夏の月」 という辞世の句が「白菊の目にたててみる塵もなし」と「等類」の句となるがゆえにこれを案じ変えて 「清滝や波に散り込む青松葉」としたことなど、 「去来抄」にある通りである。
芭蕉の「俳諧の誠」は、過去を乗り越える 「あたらしみ」が生命であるので、自分自身の過去ですら 模倣を許さないのである。
更に芭蕉が、自らの辞世の句が過去の自作と「等類の句」 となることを嫌った理由として、「誠の俳諧」をたしなむものに固有の美意識があったことがあげられる。誠の俳諧は連歌とおなじく、一巻の中に類似した発想が繰り返されることを「輪廻」や「観音開き」と言って最も嫌う。同じ趣向の反復は輪廻から解脱すべき自由なる精神にふさわしくないのである。その自由は過去からの自由であり、つねに「新しみ」をもとめて未来に賭ける創造者の自由であった。
「此みちに古人なし」「我はただ来者を恐る」(三冊子)という芭蕉の言葉はかかる意味に理解されるべきであろう。