All That Remains - Special extended preview
「長崎の鐘」や「この子等を残して」など永井隆博士の著書は英訳されていますが、それをもとにしてイギリスで制作された映画です。
永井博士を主人公とする映画は、すでに日本でも制作されていますが、英国で制作されたこの映画は、浦上天主堂のうえに投下された原爆、その廃墟に佇むマリア像など、原作にあるキリスト教的メッセージが明確に表現されているように思いました。
永井隆の「長崎の鐘」の最後の二章「壕舎の客」と「原子野の鐘」を読む。廃墟となった天主堂での合同葬で信徒代表として弔辞を述べた永井隆の原稿が収録されている。原爆がなぜ長崎に、それも浦上天主堂の上に落ちたのか、なぜ天主堂で祈りを捧げていた無辜の信徒達、明治維新直後のキリシタン迫害(浦上四番崩れ)を耐えて信仰を守り抜いた浦上のカトリック信徒の末裔が、なぜホロコーストの犠牲となったのか。根源的な問いに直面したキリスト者、永井隆の言葉が記されている。
2008年、永井の生誕百周年に、プロテスタント神学者の大木英夫は、この「原子爆弾合同葬弔辞」について次のように書いている。
「ひとつひとつの言葉まで燔祭の火のように、聖なる垂直次元に燃え昇るような言葉である。..ヨブ記に堪える、いやヨブ記を超えるほどの言葉ではないか。ヨブ記を超えるほどの言葉なしにあの現実に、そして全ての人間の現実に取り組むことは出来ない。ヨブ記に堪えるということは、人生と歴史の究極の悲惨にさえも堪えることができるということ、人生と歴史の不条理をも超えることができるという事である。この言葉が右に或いは左に傾斜した理性には不可解であるとしても、天が裂けてまっすぐ垂直次元に輝く光の下では決して不可解ではない。それは啓示によって可能となる神学的認識なのである」(『人格と人権』上 50頁、教文館)
大木氏は、敗戦を契機として、軍国少年から一転して、キリスト教の洗礼を受けた神学者である。永井隆の言葉を、「弁証学のための<言葉>の獲得、原爆体験から発出した言葉」ととらえて詳しく論じている。それは、右翼や左翼の政治的言説の喧噪を離れて、原子野の虚無と沈黙のただなかから生成する「十字架の学知(scientia crucis)」の始まりを示す言葉に他ならない。
山脇先生の紹介された「デイリー東北紙」のサイトは、「大間原発」の再開か工事中止か、核燃料サイクル政策の撤回か続行か、という日本の原子力政策にとって根本的な選択を考える上で、是非とも参照すべき現地の貴重な資料を纏めている。「大間原発」をこれから建設し稼働させることは、単に電力不足を当面補うという如き消極的な意味だけを有つのではない。それは、原爆製造に直結するプルトニウムをウランと混合して燃料として使用する「新原子炉」を認可し、稼働させるという電力会社・経産省・自民党政権の意思表明である。小選挙区のからくりによって圧勝した自民党であるが、原発政策については大多数の国民の意思とは異なる方向に動いている。
原子力発電維持派ないし推進派は、この原子炉建設によって、高速増殖炉「もんじゅ」の致命的な事故によって挫折中の核燃料サイクル政策の継続を狙っている。すでに北朝鮮の千倍以上のプルトニウムの備蓄をしている日本が、それを民生用に使用していなければ、核拡散防止条約に加盟している手前、日本の核武装疑惑をそらすことができないからである。論者によっては、プルトニウムをこのように多量に所有していること自体が潜在的な核抑止力になるという主張をする者さえもいる。彼らは、「エネルギーの安定確保」だけでなく「国防上の配慮」をその論拠の一つに置いているからである。もっとも、現在の日本のように、数多くの原子炉を一箇所に集中させて立地させていることが国防上いかに危険かという議論は、推進派の面々は無視しているようだ。原子炉が一箇所に集中している場所にテロやミサイルによる攻撃をされたならば、日本の受けるその被害は計り知れないだろう。
国防上のみならず、地震の多発する地域、活断層の近い場所に「もんじゅ」のような高速増殖炉を建設したということ自体の危険性ははかりしれない。金属ナトリウム冷却剤としてつかう高速増殖炉は、水とナトリウムを分離しておかなければ爆発事故を起こしやすい。まして地震や津波に遭った場合に、その災害に対してどうやって対応するつもりなのか。その危険性は福島の比ではない。またプルトニウムを混合燃料として使う「大間原発」の周辺にも活断層のある疑いが濃厚であり、この発電所の工事再開そのものに問題があることは、原子力規制委員会の指摘の通りである。
大江健三郎がNewYorker に寄稿した記事を読む。
黒沢の黙示録的映の意味については、先日のブログで書いたが、今日は大江の言う「広島・長崎の被災者の視点」で原発を見る、ことの必要性について書きたい。どちらも、科学者や政治家の立場ではなく、芸術家の想像力の世界からのメッセージとして様々なことを考えさせられたのである。
大江健三郎氏の発言の原点は「広島ノート」に遡るであろう。放射能汚染に苦しんできた人々は、広島と長崎の人々であったが、核エネルギーの使用の有つ危険性は、原子爆弾のような兵器だけに限定されるものではなく、原子力発電のような「平和利用」にも付きまとうものである。そして、使用済み核燃料の再処理を通じて獲得されるプルトニウムは、ただちに核兵器に転用できることを思えば、原子力発電所が世界各国に建設されることはただちに核の拡散を意味するのである。冷戦自体の核兵器開発競争の時代は過去のものとなったが、第二次世界大戦の戦勝国だけが核を保有する時代は過ぎ去り、核兵器の製造が容易になった現在、核戦争による「地球の死」はいつでも我々の足下に潜む現実的な可能性である。
放射能が健康に及ぼす被害については、つねに医学や環境科学の知見は現実に追いつくことはなかった。南太平洋で核実験を巨大花火を見るように見物していた米軍兵士達は、それがいかに危険であったかを当時は全く知らされていなかった。大気中の放射能濃度だけを測定して得られた安全基準などがいかに頼りないものであるかということは、原子炉の近傍の植物系にそれらが蓄積されることが発見されるまでは認識されていなかった。科学技術は失敗によってそこから学び、改良を重ねることがその智の本質に含まれているが、一度の過失が取り返しのつかぬ結果を生み出すのが、原子力技術の恐ろしさである。
また、事前に正しい予測をし、対策を講ずべきであることを科学者が警告しても、政治的・経済的利害の絡む現実的な決断の場ではそれが通らないことがあること、そして、ひとたび大事故が起きた後では、そのような適切な対策を講じなかった「不作為責任」が如何に大きなものであっても、肝腎の当事者達(それは決して東電だけではなく保安院や原子力委員会、マスコミ、そして最終的には原子力ロビーのプロパガンダに載せられた我々自身にも及ぶであろう)は、その社会的責任を自覚しないということも分かった。この不作為責任は今後、きちんと検証すべきものであるが、それは一個人の責任だけではなくて、適切な対策を講じることの出来なかったシステムの問題、制度の問題も当然考慮しなければならないだろう。
上に述べたような自然科学者や政治家の果たすべき役割は重大であるが、それとは次元の違った社会的役割を、文学者や芸術家、そして哲学者は果たすことが出来ると思う。政治や科学は、与えられた条件の中で「何が最善であるか、よりましなものであるか」を目指すものであるが、そこでの実践目標は、あくまでも、「暫定的な基準」にのっとって実践すべき相対的な事柄である。ところが、相対的なものだけに囚われていたのでは、我々は事柄を根本から打開する決定的な決断を行うことが出来ない。そこには文字通りラジカルな、我々の実存の根柢から発するメッセージに耳を傾けることが必要になるのである。
そのような根源的なメッセージ、現代という時代において、今の日本人が、過去の世代の犠牲者達に対して負う責任がいかなるものであるかを表現する「言葉」として、私は大江のメッセージを受け止めた。過去の世代に対して責任を負うものにして、初めて現在のみならず未来の世代に対しても責任を負うことが出来るのではないか。「広島と長崎の被災者の目を以て福島の被災を見る」ことはそういう意味で、大江健三郎が我々の時代に与えた「預言者のことば」であり、「世代間倫理」の根柢にあるものを、わかりやすい言葉で想起させてくれたと思う。
「啓蒙とは何かという問いに対する答え」として、カントは、端的に「啓蒙(Aufklaerung)とは<人間が自分の未成年状態から抜け出ること>」であり、そのためには「自分に本来備わっている理性を敢えて使用する勇気を持つ事」であるという。人が未成年状態に留まっているのは、理性が欠けているからではなく、理性的存在である自分自身に対する自覚が欠けているからである。この場合、「人」というのは、個人に留まるのではなく、国家や民族についても言いうるであろう。(敗戦後の日本などを見ていると、とくに国際政治の場に関しては、嘗ての「大日本帝国」の牙を抜かれたせいか、米国という後見人に守られた「未成年状態」に留まっているようだ。)
この意味での「啓蒙」については、ここで贅言を費やす必要はない。そこには、ホルクハイマーやアドルノのような、ナチス以後のドイツのいうなれば民族の自信喪失世代の哲学者が指摘したような「啓蒙」概念とはちがった批判的かつ積極的なものがある。「啓蒙」が、決して暴力的なものではなく、自由と永遠平和を目指すものであることーこれこそが晩年のカントの実践哲学の根本を為すものである。
そして私が注目したのは、「あえて賢明であれ」(Sapere aude)というカントが、人間の自由の証である「理性」を「公的に使用する」自由を力説している点である。「理性」を私的に使用することは場合によっては制限されることがあるが、理性の公共的使用は全く自由でなければならぬ。
つまり言論の自由というのは、私が、一個人として「公的な」理性を使用する自由だというのである。これに対して、特定の宗教宗派の牧師とか、軍人などが自分の所属する組織の方針に従うために、個人的な意見を述べることは制限される場合がある。しかし、その場合、その特定の団体の規律に従う言論は、カントの基準では、あくまでも理性の「私的な」使用なのである。
これはカントが言う公共的理性の使用が、あくまでも「私が考える」と言うところにあって、決して「私たちが考える」という集団に依拠するところにないことを示している。そういう一個の個人の立場に立って「私はこのように考える」ということを、公的に語ることこそが、真の意味での理性の使用である。なぜなら、各人は、一個の人格として初めて自由な存在なのであり、自己の思想と良心にしたがい、常に「私がその責任を負う」と述べることの出来る主体であるから。
出雲の古里の家に父はなく、大きなさみしさが隆吉を迎えた。近所の人々は集まって、凱旋祝いをするからと言った。隆吉はかたくそれを断った。人々はびっくりして、なぜ祝いしてはいけないのか、となじった。隆吉は、
「今は祝いなんかしておられる時じゃありません。広西省の山のなかで、私の部下はきょうも血と泥にまみれている。わたしひとりが帰還して、どうして祝い酒なんか飲んでおられましょう。それに日本は勝ってはいないのです。また勝つという確信もないのです」
「それでも、我が軍は破竹の勢いで、あれだけ広い地域を占領したではありませんか?」
「無理強引にかなたこなたと押し歩いたのが勝利ですか? どれだけたくさんの墓標があとに残されたか、ご存じですか? あの調子で行けば、この村の青年は一人残らず引き出されますよ。人の口車に乗って景気よくドンチャン騒ぎをしているうちに財布はからになり、あっと青くなるようなことが起こらなければいいですが・・・」
「しかし、我が軍の情報部の発表によれば-」
「ああ、その発表がねえ・・・。正確な記録ではなくて、空想小説のように私には思われるのですが・・・」
隆吉は、国民に真相が知らされていないのを初めて知った。
(中略)
大陸の戦場で多くの庶民が塗炭の苦しみをなめ、両軍の無邪気な青年達が頭を割られ、腹を裂かれ、足をちぎられ、血と泥の中にのたうちまわっている、あの悲惨な姿を知らないから、内地では、どこへ行っても戦争景気で飲めやうたえの馬鹿騒ぎをしているのだ。軍需工場の連中は、戦争はもうかるものだと思いこみ、肩で風を切って街をねりあるき、利権屋どもは大きな折りカバンをふくらませて、大陸への連絡船に乗っている。戦地で毎日のように聞かされた、天皇陛下のためというのは、真実であったろうか?
永井が帰還した昭和15年2月は、南京に汪兆銘による「遷都式」が行われる前の月である。日本の「勝利」が喧伝され、上海には利権を求める日本人が大勢中国に渡っていった時期に当たる。永井は従軍医師として日中戦争の現場を体験していたが、上官から広東乗船するときに「軍医は戦争の犠牲について真相を知っているが、これは国民に知らさないように注意しなければならない」と警告され、下関では憲兵から再度おなじ趣旨の警告を受け、広島で招集解除されたときも同じ命令を繰り返させられたという。
zi3 yue1:xue2 er2 shi2 xi2 zhi1,bu2 yi4 yue4 hu1? you3 peng2 zi4 yuan3fang1 lai2,bu2 yi4 le4 hu1? ren2 bu4 zhi1 er2 bu2 yun4,bu2 yi4 jun1zi3 hu1?
「有朋自遠方來,不亦樂乎」の箇所が北京オリンピックの開会式のときにアナウンスされたことは記憶に新しいが、国威発揚を目的としたセレモニーに孔子の言葉が利用されたという印象を拭えなかった。文化大革命の時には、反右派闘争の名の下に孔子批判をやったことなど今の共産党政権は忘れてしまったのだろうか。この後に続く「人不知而不慍,不亦君子乎(他者が自分を認めてくれなくとも、怒ることが無いというのは君子ではないだろうか)」という精神は、夜郎自大的な自己主張とは無縁のものだ。中国が如何に優れた国であるかを諸外国に見せつけようとするあまり、現在の中国政府はずいぶんと背伸びをしているように見える。そんなことをしなくとも、古典時代の中国のすばらしさは知る人ぞ知るのである。
ところで、上の孔子の言葉のなかにある「樂」であるが、これは自他の調和した関係を表現する言葉では無かろうか。単に「喜ばしい」というような主観的な(ややもすれば手前勝手な)意味ではなく、他者の目(他者としての主観)から見ても調和のとれた人間関係を意味するということは、孔子の次の言葉から分かる。
子曰:「知之者不如好之者,好之者不如樂之者」
zi3 yue1: zhi1 zhi1 zhe3 bu4 ru2 hao3 zhi1 zhe3, hao3 zhi1 zhe3 bu4 ru2 le4 zhi1 zhe3
これを知るものはこれを好むもの如かず。これを好むものはこれを楽しむものに如かず。
「知る」という場合は、いまだ全人格的な関係ではなく、単なる知的な関係である。また主観が客観を知るのであって、客観をもうひとつの主観としてみる域には達していない。「好む」という場合は、情意が入ってくるから、知的な「知る」以上の深い関係であるが、強調点は主観の側にあり、「好まれる」客体のもつ主観性への配慮に欠ける。よって主観的には「好んで」いても、相手がそれに応じてくれるとは限らない。客観もまた自分と同じ主観であることが考慮されていないのである。真の意味での相互主観的な関係の理想、それが「樂」という言葉で表されている。樂(楽しむ=le4) は音樂の樂(yue4)でもあり、オーケストラが目指すハルモニアがそこに生まれる。
次の五輪の開催国であるイギリスでは、五輪の花火の中継がCGであったことや、開会式で歌った少女がいわゆる「口パク」で、実際に歌った少女は別人であったことに対する批判が出てきた。そういう演出が個人を全体の道具に供する点において、人権無視であって、「中国政府はその非倫理性に気づいていない」というのが批判の眼目である。聴けば、リハーサルの時の共産党のお偉方の指示で、こういう姑息な演出になったとのこと。
もっとも英米の映画やショー・ビジネスでは、こういった欺瞞は日常茶飯事なのではないか。たとえば、マイフェアレディを映画化するときに美貌のオードリーヘップバーンの歌を別人の歌手とすり替えた先例がある。だから、英国から出た批判は、むしろアマチュア精神を忘れ、市場経済と国威発揚の精神に飲み込まれた五輪の現状への批判でもあったろう。中国が本来の意味での儒教的な「禮」の精神を重んじていたならば、こういう不正直な演出をすることはなかったと思う。
子曰:「人之生也直,罔之生也幸而免。」
zi3 yue1: ren2 zhi1 sheng1 ye3 zhi2, wang3 zhi1 sheng1 ye3 xing4 er2 mian3
人の生くるや直し。罔(あざむ)くものの生くるは、幸にして免る。
昨年秋にクレアモントに滞在したときは、食事は自炊か外食であったが、今回は、管理人の奥さんが毎晩、米飯を用意してくれるので大いに助かった。
クレアモント大學では、最近の傾向として、台湾や中国本土からの留学生も増えてきたとのこと。もっとも、皆、英語でしゃべっているので、良く聴いてみないと相手が韓国出身なのか中国出身なのかは解らない。さらにヒスパニック系の人、ヴェトナムやアフリカ出身のひとと話すことが多い。クレアモントの町のひとは、当地の大学を University と呼ばずに Multiversity とよんでいますが、その理由は、おそらく様々な国籍・文化の人がここに集まっているからだろうか。
今日は大學で韓国の若い學者による Minjung Theology にかんする講演を聞き、おおいに教えられた。
Minjungとは漢字で書けば「民衆」だから、「民衆神学」といって良いのだが、日本語の民衆とはちがって、「受難の民」という含意があるようだ。つまり、日本の帝国主義的統治と朝鮮戦争による受難を被った民衆、故郷も家も、およそ頼るべきものをすべて喪失した「受難の民」の立場から、主体的にキリスト(救世主)を語るというのが、韓国のキリスト者が云う「民衆神学」とのこと。
それと同時に、民衆神学では、圧政に苦しむ韓国の民衆の心を「恨(Han)」という言葉で表現する。したがって、民衆神学は「恨の神学」として語られることもある。「恨」は、抑圧され、暴政に苦しむ民衆の心情の根柢にある情念を表現するものだが、それが否定的に表現されるばあいは、「怨恨(Won-Han)」と呼ばれ、創造的・積極的に表現される場合には「情恨(Chong-Han)」と呼ばれる。情恨は韓国の文化、藝術、宗教を根本的に特徴づけるものであって、その立場に立つキリスト教神学が「恨の神学」である。
この日の講演者は、ホワイトヘッドの哲学にも影響を受けた人であり、「歴程神学と民衆神学との対話」を主題とするものであった。その内容は、私自身の関心とも重なるが、いずれにしても、日本とくらべれば圧倒的にキリスト者の数がおおいい韓国の神学者から、韓国独自のキリスト教神学の話を聞き、おおいに啓発された。
民衆という言葉は日本語では抑圧された地の民という含意がつたわらない。民衆神学の創始者である安炳茂(アン・ビョン・ム)氏は新約聖書のマルコ伝に出てくる民衆(オキュロス)を念頭におきつつ、そこに韓国の「受難の民」のイメージを重ねているようだ。しかし、民衆の「衆」という概念には曖昧さが有る。民衆こそキリストであるというそのメッセージは、決して群集がキリストであると言うことではなかろう。群集はキリストを十字架に付けることに同意する存在でもあったし、民主主義の担い手であると共に、独裁者に自己の自由を譲り渡すのも群集であるから。つまり、民衆とは、けっして多数の「群集」を意味するものであってはならず、むしろ場合によっては抑圧された少数者、さらには一個の人格に代表される声なき「民」であることもあるのではないか。
そしてキリスト教というのは、たしかに「民の声」を地盤とするけれども、その民は数の多さを頼みとする群集にではなくて、むしろ、民の中に埋もれてしまう一人一人の人格に直接に「我-汝」の関係において訴えかけるものではないか--こういう疑念も民衆神学についての説明を聞きながら同時にもったことも事実である。
ヒントは、中華民国の「方東美」研究所の所長であるSuncrates氏が、ホワイトヘッドの著作に言及するときに「歴程」の語を使っていたのに示唆されたのである。さすがに、中国人は文字について良いセンスをもっているなと実感した。
「歴程」とは、日本語ではさらに別の含意がある。それは特に戦前と戦後を通じて日本の現代詩をになってきた詩誌の名前でもある。草野心平、中原中也、高橋新吉、逸見猶吉等が昭和10年に刊行したこの詩誌は、イデオロギーの拘束抜きで、個々の詩人の個性を重んじた詩的サークルを形成し、現在に至っている。そこで「歴程」ということばは、なによりも個々の人が経過した人生の軌跡、個人史を表すものであり、それぞれの詩人の実存の歴史にほかならない。
「過程」という日本語には、「歴程」と違って、そのような個的実存の歴史を表すという含意がない。また、「過程」には、過ぎゆくもの、途上にあるものという意味が強すぎて、その都度完結し、作品として結実する生の航跡という意味が表されない。つまり「過程」は、その過程によって生み出された「作品」も、また「過程」において自己形成する作者自身を表現することが出来ないのである。
ところがホワイトヘッドがProcess という言葉を使うとき、それは、単に「途上にある」もの、初めと終わりの中間にある「過ぎゆくもの」のみを表しているのではない。Process は、實は、自己を形成し、創造し、自己の作品のなかにその都度、自己の存在の航跡を表現していく我々自身の生の歩みを一般化した語なのである。
我々は、みな、自己の生に於いては、脚本家であり、演出家であり、主役なのである。各人は、自己の歴程の主人公であるが、その主人公自身が、歴程において、他者と出会い、他者の世界を自己の世界へと内面化しつつ(抱握しつつ)、自らを他者に対して作品として与える存在なのである。そういう自己創造のプロセスとその成果を現すのに「歴程」という日本語が最も相応しいのではないだろうか。
我々の世界の根柢を「ポイエーシスの世界」と呼び、作られたものから作るものへと動いていく創造的世界と捉えたのは西田幾多郎であるが、ホワイトヘッドの歴程の哲学の趣旨も、まさしく創造的世界とその創造的要素である個物(それをホワイトヘッドは活動的存在actual entityと呼ぶ)にほかならない。
それでは、かかるポイエーシス世界の構造は、のようにして哲学的に表現されるのか。単に藝術作品の創造という意味での狭い意味でのポイエーシスにとどまらず、実践(プラクシス)も理論(テオーリア)もすべて、そこにおいて表現されるべきポイエーシスの世界とは如何なるものであるのか。これが歴程の哲学の一つの主題である。
2 「創造」とは何か
「無からの創造」はキリスト教の世界観の根柢にあるものであるが、これに対して「無からは何も生まれない」とはアリストテレスに代表される希臘哲学の根本原理である。どちら正しいか、答えは簡単な二者択一では与えられない。なぜなら、答えるものが如何なる立場に立っているか、この問そのものが如何なる文脈でたてられたものであるか、と云うことが、ここで問題になるからである。
近代科学に創造と云うことがあるであろうか。實は、ガリレオやニュートンに代表される近代科学のボキャブラリーには、決定的に不足している概念がある。それは、「創造」である。
たとえば、近代自然科学の基礎をなす物理学の基本法則は保存則である。これは時間の経過によって影響を受けない普遍性を表すものであるが、保存則は、物理法則が時間座標と空間座標の座標変換によって不変であるべきであるという要請からアプリオリに同室できるものなのである。したがって、物理法則は時間軸の未来と過去の反転に関して対称性を保持すべきと言う大前提のもとに法則が書かれているのであるから、もともと時間に対して非対称な構造を持つ「創造」という出来事を表現することは出来ないのである。言い換えれば、近代物理学の世界には、時間座標はあっても時間はないと言っても良い。
しかしながら、20世紀の宇宙論はビッグバーン宇宙論の観測的検証によって、宇宙の進化をを主題とせざるを得なくなり、インフレーション理論以後、「無からの創造」は物理学ではむしろ正統説となってきたといえるであろう。
無からはなにも生じないのではなく、無からの創造が語れるのは、無そのものが創造的であるからである。
「創造的無」ないし「能造的無」という概念は、京都学派の久松真一が「東洋的無」という論文の中で提示した概念であるが、いまや、それは現代物理学の最先端の課題であるに他ならない。
1931年は、らい予防法が改正され、絶対的な終生隔離の医療政策が日本国家の基本政策として定められた年ですが、その前年に、隔離撲滅政策に異議を唱えた少数派の医師の一人が青木大勇です。
彼の論文「癩の豫防撲滅法に関する改善意見」(一)(二)(三)とそれに対する林文雄の反論「官立癩療養所の為に弁ず」(一)(二)は、小笠原登と早田皓が後に中外日報でおこなった論争を多くの点で髣髴させるものでした。
醫海時報には、国際連盟の「癩委員会幹事ビュルネ博士の報告」の日本語訳も連載されており、林文雄の反論と合わせ読みつつ、いろいろと考えさせられました。
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総合司会:遠藤 隆久氏(予定)
13:00 開会
主催者挨拶:ハンセン病市民学会共同代表 神 美知宏氏
歓迎挨拶:多磨全生園自治会会長 平沢保治氏
13:15
問題提起……検証会議元座長 金平輝子氏
13:40
基調報告1 ソロクト・楽生院訴訟の現状と国の対応
…… 小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団
赤沼康弘氏
14:00
基調報告2 日本の旧植民地・旧占領地のハンセン病政策
…… 検証会議元委員・市民学会事務局長 藤野 豊氏
14:30 休憩
14:40
ディスカッション
コーディネータ
…… 検証会議元委員・真宗大谷派推進本部
訓覇 浩氏
参加者
…… 検証会議元委員・全療協事務局長 神 美知宏氏
検証会議元委員・全原協会長 谺 雄二氏
検証会議元委員・朝日新聞編集委員 藤森 研氏
検証会議元委員・毎日新聞論説委員 三木賢治氏
(ディスカッションの予定)
三木さんよりソロクト訪の際の報告20分
藤森さんより楽生院訪問の際の報告20分
谺さんより発言 10分
神さんより発言 10分
この後4人でデスカッション 16:40 閉会
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小鹿島裁判の不当性については、昨年10月に、このブログの小鹿島裁判の不当なる判決で書きました。21日のシンポジウムで、この問題に関する認識が深められることを希望します。
参考文献としては、
「朝鮮ハンセン病史-日本植民地化の小鹿島」(滝尾英二著 未来社、2001)に詳細な歴史的記述があります。
WEBでは、小鹿島の半世紀という「韓国のハンセン病啓発刊行誌「セピッ」(新しい光・vision)《1979年廃刊》の1971年1月号から掲載された記事」を読むことができます。これは小鹿島の療養者だった沈田黄氏の書かれたもので、日本語訳は山口進一郎氏によります。
昨年のクリスマスには、愛徳会のBさんから拙宅に電話を頂き、クリスマスパーティに招待されました。パーティには秋津教会のかたも多く来られ、楽しい交わりの時を過ごさせて頂きました。この教会に来るようになってから一年半になりますが、これからも、戦前と戦後のもっとも困難な時代に信徒の方々の書かれたものを蒐集・編集して散逸しないように保存しておきたいと思っています。
昨日の新年礼拝では、ミサの終わりの故人への祈りのなかで、昭和17年の1月13日になくなられた東條文子さんのお名前が、「今週の永眠者」の一人として読み上げられました。ご本名で呼ばれたので、直ぐには気づきませんでしたが、後になってから確認した次第です。帰宅してから、愛徳会からガリ版刷りで出された冊子「いづみ」に掲載された渡辺立子さんのエッセイや、東條耿一の遺稿(書簡)などを改めて読みました。
ところで、アインシュタインの相対性理論について、私が研究論文を幾つか発表したのは、20年以上以前のことである。米国の学会で、アインシュタインとホワイトヘッドの重力理論の比較をテーマとして話したが、私の関心は、時間・空間・物質・出来事というようなもっとも基礎的な物理学のカテゴリーに対し相対性理論が与えた影響を哲学的に考察することであった。それと同時に、パラダイムのことなる二つの理論の比較と実験的検証が如何に行われるかという問題を、アインシュタインとホワイトヘッドの重力理論の比較という見地から行うものであった。当然の事ながら、それは科学史や科学哲学の研究と重なるところの多いものであった。
20年を経過したあとで、現在の私は、科学哲学から宗教哲学へ、そして医療倫理や生命倫理のような実践哲学へと関心がシフトしている。そういう状況ではあるが、現在の私が、アインシュタインの理論について言いうることは何であろうか。それは、歴史的な研究でも、狭い意味での科学哲学でもなく、アウグスチヌスやアリストテレス以来の哲学的な背景の中で、我々自身によって生きられた時間と、時計によって計測された時間との関わりを問うことであろう。時間ほど我々にとって身近なものはないが、それと同時に、我々にとってもっとも理解の困難なものは無いからである。
プロセス日誌では、適当な時期に様々なカテゴリーに記事を分類することにしているが、これらの様々な主題がどのような形で収斂するかは、今のところはっきりとした見通しがあるわけではない。すべてがわたし自身が思索した様々な事柄、行動した様々なことの雑多なる記録にとどまっている。諸々のカテゴリーを越える普遍性ないし統一性は、これからあとの課題である。