天路讃仰
東條耿一
ゆっくり遠くまで
―原田嘉悦兄へー
ゆつくり
遠くまで行かうよ
息を切らさないやうに
行路病者にならないやうに
足下の覚束ない夜があれば
一望千里、輝く朝もあるであらう
焦らず、迫らず
恒に、等分の力を出して
扨て、ゆつくり
遠くまで行かうよ
愛は惜しみなく奪ふ
あますなく欲りし給へば
惜しみなく捧げざらめや
我が最も小さなる
喜びや
悲しみや
はた苦しみもまた・・・
君ゆゑにわれは生き
君ゆゑにわがいのち
永久(とこしへ)に馨よき匂ひ放てり
郷愁
君が面輪つねにはつきりとわが裡に住まひ
君がみ聲絶えず凛々とわが裡にひびかひ
君がみ心限りなくわれをつゝめば
ああ故郷(ふるさと)は讃むべきかな
こよひ、晩鐘の彼方
夕映えの空を拜して
心しみじみ思ふかな
嗚呼君がみ心に生きばやとこそ・・・
死
そんなに私が可愛いと云ふなら
さあお前の腕に力をこめて
もつと、しつかり、私を抱擁しておくれ
お前は善良なる同居人、親愛なる友
さうして私の忠實なる僕よ
お前が、恒に、傍に居てくれるゆゑ
愚かな私も、どうやら怠け者にならずにすんでゐる
噫、やがて私の生涯が終る時
私はお前の媒介で
み父の前に、輝く花婿になるのです
(昭和十六年「山桜」一月号)
この連作詩編のうち、第一詩編「ゆっくり遠くまで」は比較的わかりやすい。年長の友人で同じキリスト者である原田嘉悦に宛てて、地上での生活を巡礼の旅になぞらえたものであることは直ぐに了解されるだろう。しかし、第二詩編から第四詩編までは、ややわかりにくいところがある。とくに言葉が難しいというわけではないが、そこに盛られている思想が詩の中で充分に昇華されていないような印象さえ与えるかも知れない。
「天路讃仰」という詩の成立は、「聲」誌が東條耿一の手記を掲載していた時期とほぼおなじだから、「詩」と晩年の「手記」との間に照応関係がある。手記を手がかりにするとこの詩の背景となっている宗教思想を理解する鍵が与えられるかも知れない。
たとえば、「死」を人格化して「お前」と呼びかけ、それを
「お前は善良なる同居人、親愛なる友、さうして私の忠實なる僕」
と呼び、
「お前が、恒に、傍に居てくれるゆゑ 愚かな私も、どうやら怠け者にならずにすんでゐる」
というところは、晩年の手記「子羊日記」の最後の言葉
「死は何と親切な同居人、善良な友であろう。日々の慰めの力、爽やかなその蔭の憩ひよ。死の裡にのみ恒に、眞の安息は在る」
と照応している。手記にはまた
「人は死をもって生まれ、死を棄ててとこしへの生命に至る」
「死とは産湯のようなものだ。これに浴して始めて人は御父天主の御手に抱れる」
とある。
しかし、手記はある一般的な宗教的思想を述べたものであるが、「天路讃仰」は詩である。両者の違いは、何処にあるのか。私は、キリスト教の宗教思想には還元されない独特の感受性が詩の中には潜んでいる様に感じた。
たとえば、第二詩編「愛は惜しみなく奪う」に登場する「君」は、思想の文脈の上では「神なる主」を表すが、詩に於いては、もっと具体的な対象、いや具体的な人格と結びついている様に感じる。あえていえば、その「君」は東條の妻であった文子と不可分なのではないか。
妻という具体的なる「君」を抱きながら、その「君」によって、その「君」を通して「神なる主」に呼びかけているー私には、そういう風にこの詩は読める。東條の妻がなくなったのはこの詩が掲載されてから1年後の昭和17年の1月、東條自身も後を追う様に9月に亡くなっている。
君ゆゑにわれは生き
君ゆゑにわがいのち
の「君」というのも、直接には「私の裡に住み給ふ天主」に呼びかけたものだが、同時に、やはり「同伴者である妻」への、あるいは母なるものの永遠の象徴である聖母への呼びかけと一つになっているように感じる。
こうしてみると、もっとも難解な第四詩編「死」の読み方も変わってくる。ここでは、死することによって新たな生を獲得するという宗教思想にとどまることなく、それが現に自分の側にいる妻への呼びかけと微妙に交差している。「お前は善良なる同居人、親愛なる友 さうして私の忠實なる僕よ 」と東條が呼びかけている相手は、「死」を擬人化して呼びかけていると同時に、具体的には自分の文字通りの同居人である妻への呼びかけに聞こえる。このように読んでこそ、最終行の「輝く花婿」という言葉が自然に了解されるのではないだろうか。
このように、「死」を不吉なもの、忌むべき怖ろしいものと見るのではなく、祝福として捉えること、地上で自分と同じ病に苦しんだ妻と共に祝福される「輝く朝」のくるまで、「ゆつくりと遠くまで行こう」というのがこの詩編の意味するものであろう。