歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

恨(HAN) と復生

2005-09-11 |  文学 Literature

6月末の京都フォーラムでは、韓国の参加者の「恨(HAN,한)」にかんする発表から大きな示唆を得た。

具正義氏に依れば、「恨」には、①情動的 ②知的 ③倫理的 ④ 社会政治的 ⑤ 宗教的 という五つの次元がある。それはけっして「怨恨(ルサンチマン)」の「恨」と考えるべきではないとのこと。

また金泰昌氏によると、「韓」国とは「恨」の国という意味であり、朱子学の用語で云えば「気」に該当するものであり、恨が閉塞し塞がれた場合にのみ怨恨(ルサンチマン)となるが、元来は、宇宙と人間をあらしめる根源的な大いなる活動を表すものであるとのこと。氏によれば、中国文化は「理」を、韓国文化は「気」を、そして日本文化は「場」を重んじるということで特徴づけられるとのこと。それぞれに本来的なありかたと非本来的なあり方があるが、「気」の非本来的なありかたが「恨」であるという意見であった。

「恨」については、さまざまな捉え方があるであろうが、私は、それを韓国の人々にのみ固有の情念であるとは思わない。受難の民である韓国の民衆が、キリスト教を生んだイスラエルの民と同じように、「恨」の深い経験を積み、それに関する根源的な洞察を持ったと云うことは言えるであろうが、それはすべての人間のありかたにかかわる普遍性を持っている。

個人的ないし民族的な受難・受苦によって生まれた「恨」は、救済への祈りを内在させている人間の根本的な情態性である。意識的な生以前の段階で、我々は「恨」のただなかにいる自己自身を見出すのである。「恨」を客体化して云々する以前に、それを私達自身の「実存の仕方」を表す範疇として捉えたい。

私は、ハンセン病療養所で書き継がれた文藝作品を「復生の文学」と表現したが、この韓国生まれの言葉を使うならば、それは同時に、「恨の文学」でもあると思う。つまり、それは、失われた生、失われた人間関係、安住すべき場所を、回復する物語なのである。

「恨の文学」の主人公は、まず、家郷の喪失という事態を経験する。帰るべき家も故郷もなく、そこから疎外されて生きなければならない。人間として生きるに不可欠な関係性を喪失し、個人の尊厳の喪失、これらの様々な受苦、苦難の過去の経験が、「恨の文学」を生むのである。

私は具正義氏から、韓国の小説家、李清俊(Lee Chongjun 이청준)の「南道の人」および「白衣」という二つの作品-それはまさに「恨の文学」と呼ぶにふさわしい-について教えられた。

「南道の人」は映画化され、日本でも「風の丘を越えて」というタイトルで公開された。この映画は韓国では空前のヒット作であったという。おそらく韓国の人々は、自分たちの文化の根柢にある情念にほかならぬ「恨」に共鳴したからであろう。この映画の御陰で、私達は、「パンソリ」という韓国の民衆藝能に触れることが出来るが、それは、なんと、日本の人形浄瑠璃や、能楽と似ていることだろうか。ある意味では、能も浄瑠璃も、「恨を晴らすことなく」なくなった死者の霊魂を主人公(シテ)として物語らしめ、生者と死者との関係をただし、和解させる宗教劇である。それは、さまざまな苦しみと迫害に耐えてきた民衆の大地的霊性の所産である。

この「恨を晴らす」物語は如何なるものであるのか。それは日本語で言う「うらみをはらす」こと、つまり「復讐する」物語ではなく、「赦し(forgiving)」の物語である。

李清俊は、「南道の人」の第5部の「生まれ変わる言葉」のなかで、次のように語る。
チウギはさっきから言葉の自由というのは何であるかを考えていた。この時代は實に過酷な言葉の復讐にさいなまれている。それはもちろん自分自身への裏切りに対する当然の報いであるが、この時代の殆どすべての言葉が信頼を失い、さまよいながら人々に復讐しているのである。しかし、チウギは復讐を選ばない言葉に出会ったのだ。復讐を選ばず、何度も生まれ変わる苦痛に耐えながら信頼を守り続けている言葉があるのだということを知ったのだ。それらの言葉は人間の生に深く根を下ろしていた。さらに、それらの言葉は、生そのものだといえるほど、生との和解を築いていた。それらの言葉は、復讐を選ばず、自らの信頼を守り抜くために何度も苦しい生まれ変わりに耐えてきた。そのため、その言葉は真の姿を見極めるのが難しいほど多様なのである。しかし、それらの言葉は、形式の変身を経てこそ深い信頼が得られるのであり、苦痛に満ちた和解を通じて最後の自由に到達するのである。生が言葉になり、言葉が生となるとすれば、生に代わる言葉以上に自由な言葉の世界があり得るだろうか。

「復生の文学」の言葉もまたうえで李清俊が述べているのと同じいみでの言葉によって生まれる文学である。私は又、「白衣」のなかで、朝鮮戦争の惨禍の記憶を物語る語り部の老人の次の言葉にも深く共感した。
(過去の恨の)堅い束縛の鎖をほどかなければならない。あの虚しい理念と思想を晴らしていくべきだろう。対立と憎しみと恨みと復讐の鎖、偽りと迷妄の鎖、・・それらをこの子供達が受け継がないようにしなければならない・・・魂のまだ解かれていない恨を晴らすために、そして生者達も自分たちを苦しめる記憶から解かれ、自由に生きることが出来るようにと。」
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