歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

論理・数理・歴史 1

2005-05-20 | 哲学 Philosophy
一 懴悔道以後の田辺元の『科学哲学』の独自性 

『懴悔道としての哲学』(1)以後に書かれた、晩年の田辺元の科学哲学上の論文は、前期ならびに中期の著作と一面において連続性を有するとともに、他面においては、全く新しい特徴づけを必要とする不連続性をもっている。まず『科学哲学』という言葉の定義が本質的に変化したのである。 すなわち晩年の田辺が『科学哲学』という語で言おうとした事柄は、伝統的な形而上学や宗教哲学との関係において、実用主義や論理実証主義の流れを汲む現在の欧米で使われている標準的な意味を基準にしたのでは全く理解できないものであることに注意しなければならない。

例えばウィーン学派が『科学哲学(scientific philosophy)』で意味したものは、神学や形而上学の残滓をすべて清算して、哲学を実証的な諸科学の認識論ないし論理学となすところにあった。(2)カントの認識批判を言語批判として継承した彼らにとって、形而上学や神学はいかなる認識的な意味をも否定されるべきものであった。『科学哲学』という用語には、伝統的な哲学の解体、哲学が個別的な科学に解消されることに、歴史の進歩をみる実証主義者の見地が反映されていた。 従って、この意味での『科学哲学』は、宗教哲学や形而上学に根本的な関心をもつ哲学者にとっては、哲学をあたかも『科学の侍女』として扱うごとき態度を含意する点において、伝統的な哲学的知の終焉を告知する厭わしい用語であった。これに対して、カント哲学の批判精神を受け継ぎつつも、それを『絶対批判』の弁証法という独自の仕方で展開した田辺元が『科学哲学』という用語を使うとき、それは科学の探求の現場で科学者の遭遇せざるを得ない逆説ないし二律背反という限界状況を徹底的に考察することを意味しており、彼はその考察を宗教哲学の根本問題へと媒介することを自分の課題と考えていたのである。

『科学と哲学と宗教』という晩年に書いた論文で田辺は『科学は科学哲学にまで自覺を徹底するとき、必然宗教に通ぜざるを得ない』と書き、次のようにその理由を述べている。(TW12:134)(3)
本来、科学と宗教とが矛盾するといふことは、両者がそれぞれ境界を侵すいはゆる越境行為を自由意志によりて敢えてするためにのみ起こるものであるとは限らぬ。若しそうであったならば、また自由意志により各々が自制することによって、両者の闘争は中止せられるはずである。しかるに批判が結論として到達したところの理性の二律背反なるものは、實はいかにするも分析論理の立場において分別し自由意志的に制限することにより解消することのできる矛盾ではないことを示す。それは定立と反定立とが、それぞれ相当の理由をもって主張せらるる不可避の対立であって、それに陥ることは無制約的認識を意圖する理性の免るべからざる運命なのである。理性はこの運命を謙虚に肯定し、一度自己を矛盾の底に壊滅せしめることにより、その死から復活せしめられる挫折即突破の道を行的に信証するより外にゆく道はない。かくして、科学そのもののなかに、認識の徹底的自覚を求める哲学の要求が含蓄せられ、これがその限界状況において、不可避に発現せられることにより、おのづから宗教の立場に通ずることをあらはならしめる。・・・
このような田辺の独自な科学哲学理解は、数理哲学や理論物理学の探求の現場で登場する逆説を実在への通路とする考え方を前提している。彼は、自分の科学哲学をしばしば『科学の公案を解くこと』と表現していた。田辺の宗教哲学が彼の科学哲学における公案修行と不即不離の関係にあることは、基督教信仰をもつ科学者が、自然という書物の中に創造主の言葉を読み取り、存在の比論によって啓示の理解への準備としたことになぞらえることができる。臨済禅の室内で師家の提唱を聞き宗教的なパラドックスと悪戦苦闘した経験こそなくとも、田辺の科学哲学における著作こそ、万人に開かれた書物にほかならぬ自然において現成する逆説的真理の促しによる辧道話として、類比的な意味で彼の公案修行の足跡であったということもできよう。

さらに注目すべきことは、『懴悔道としての哲学』という著作自体が、日本の敗戦という歴史的事実を、田辺が『公案』として受けとめることによって生まれたということである。この文脈では、『公案』という語は倫理的社会的実践において我々の遭遇する二律背反を指すものであり、彼の所謂『倫理的懴悔道』は現実の歴史的構造に由来する『全面的公案』として了解されていた(TW9:125)。それは、決して単に『懴悔を公案とする念佛禅』という折衷的な観点から提示されたものではなく、日本の敗戦とそれに伴う戦争責任という倫理的な問題を全面的に受けとめ、それをみずからの『哲学ならぬ哲学』の起点とすることによって生まれたものであった。 同じ『絶対無』という用語を使用しながらも、歴史と他者にかかわる社会倫理という実践的問題を第一義的に重要なものとみなすことは、京都学派の他の哲学者達のなかでの田辺の位置を独特なものとしているが、彼がこの『全面的な公案』を『過去的限定と未来的形成との矛盾的構造』をもつ歴史的な事実において見いだしたという事自体が、制度化された宗教組織のなかで円環的に固定化された公案修行の体系には収まり切らない問題を開示している。すなわち、円環的な時間構造を突破する『危機断層、革新顛倒をもってなる』歴史過程と、そのなかで提起される実践的な二律背反こそが田辺のいう『全面的公案』の中核をなしているのである。

歴史的世界を主題とすること、またこの現実の世界における二律背反を現成公案としてそこから哲学の問題を捕らえ直すこと、そのためには通常の意味での哲学が否定されるような場所で哲学しなければならないこと、これらは後期西田哲学の中心課題でもあった。しかしながら、この課題の同一性は、西田と田辺の哲学的対立を決して解消することはなかった。田辺は、アリストテレスに帰せられている『プラトンは愛すべし。されど、真理は更に愛すべきものなり(amicus Plato, sed magis amica veritas)』という古語をひいて、彼がいかに曾ての師であった西田に負うことが大きいかを率直に認めるとともに、それにもかかわらず西田哲学批判を執拗なまでに続行しなければならなかった彼の心情を吐露している(TW12:333)。 田辺の西田批判は、ちょうどアリストテレスのプラトン批判がそうであったのと同じように常に正当であったとは言い難いにしても、そのような批判を通して田辺が問題としている事柄自体は、西田と田辺に共通する課題を我々自身が問題とするうえで無視しえぬ重要性をもつものである。新プラトン主義の哲学者達が、執拗なまでのプラトン批判を含むアリストテレスの著作を寧ろ積極的に読み、それを否定的に媒介することによって純化された意味でのプラトン哲学の継承者たらんとしたことは哲学史では周知の事実であるが、それと同じようなテキスト解釈と批判的再構成の方法が、西田哲学と田辺哲学の継承を志すものに対して要求されるのである。

田辺の西田批判については、これまでに数多くの研究文献があるが、その多くは、狭い意味での宗教哲学の見地からのものであって、彼の科学哲学の著作に着目してそれを取り上げたものは決して多いとは言えない。このことは、田辺の言う意味での科学哲学がもっている重みが正当に考慮されなかったということを意味している。そのために、田辺と西田の宗教哲学を支えている個人的な宗教的経験の質の違いが一面的に強調され、ややもすれば、既成宗教ないし宗派の内部でのみ通用する固有の尺度を暗黙のうちに前提した上で、両者の宗教哲学の差異や深浅などが評価されることが多かったのではなかろうか。 『哲学ならぬ哲学』としての田辺哲学は、『哲学ならぬ』面において、確かに宗教的経験に根差しており、このような宗学的ないし神学的尺度と共約可能な側面をもっているが、同時に『哲学』である面において、特定の宗教宗派に拘束されぬ『論理』に貫かれている。そしてこの論理の何たるかを理解するうえで、彼の科学哲学上の著作が重要な手掛かりを与えているのである。

田辺の最晩年の著作の校訂にも携わった西谷啓治は、彼の科学哲学上の著作のもつ意味について次のように言っている。(NW9:259)(4)
(田辺)先生には『数理の歴史主義展開』といふ昭和二九年に出版された著作がありまして、これは先生の著作のうちでは、比較的に読まれることの少ない本ではないかと思ひますが、しかし私の感じでは、先生の思想を、一番良くと言ってよいかどうかは分かりませんが、すくなくとも論理の側面では非常にはっきり打ち出してゐるものではないかと思ゐます。そのなかで先生は、この書を一つの覺書と呼んで、『この覺書は私の哲学思想の総決算的告白に外ならないつもりである』と言はれてゐて、事実またさういふ感じのするものであります。
『数理の歴史主義展開』の構想は、すでに『懴悔道としての哲学』のなかで予告されていたことに注意しなければならない。懴悔道には、メタノイア(悔い改め)という意味とともにメタノエーシス(理性の立場を越える)という意味があり、それらが理性に還元されぬ歴史の試練を真正面から受けとめることにおいて収斂している。この試練によって突破される理性とは、理論理性と実践理性の統一を志向したフィヒテ以後のドイツ観念論でいう意味での理性(Vernunft)の立場を含むにとどまらず、ヘーゲルの絶対的観念論の没落以後の自然科学の歴史の中で展開された数学的理性、すなわちカントールの積極的な無限論の提唱に始まり、ラッセル・ホワイトヘッドによる集合論の逆説の発見とゲーデルの不完全性定理によって挫折した数学の哲学的基礎づけのなかで前提されていた理性の立場をも含む射程をもつものであった。そのことは、内容的には徹底した歴史主義にほかならない懴悔道が、『一見極めて縁遠い数理哲学の問題として久しく私の頭を悩ました無限集合論に対する態度などが、他力哲学の行信証によって新しい方向に決定する』ものであったという田辺の述懐に現れている(TW9:7)。懴悔道以後の田辺の科学哲学上の著作は、彼の徹底的な歴史主義の論理が何であるかを理解するうえで重要な手掛かりを含むものでありながら、数理哲学や相対性理論と量子力学との統合という現代物理学の課題の哲学的考察を中心とするものであるがゆえに、狭い意味で宗教哲学にのみ関心をもつ読者に無視された嫌いがある。しかし、西谷が指摘したように、田辺哲学のすくなくも論理的な側面における『総決算』ともいうべきこれらの著作群を読み解くことは、西田哲学のいかなる側面を田辺が問題にしたかを理解するうえで必要不可欠であろう。我々は、科学哲学の根本問題(二律背反の克服)を科学史の展開の現場において考察する彼の思索のあとを辿ることによって科学哲学が宗教哲学に通底するという田辺のテーゼを確認するとともに、歴史を捨象する理観において成立つと田辺が考えた『場所の論理』を、彼が根源的に時間的な行信證のうえに成り立つ『懴悔道(理観超越)の徹底的歴史主義』によって置き換えようとしたことの意味を了解することができるであろう。 
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