歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

福音歳時記 一月一日 イエスの奉献の日 

2025-01-01 | 福音歳時記

一月一日 イエスの奉献の日

   嬰児抱くシメオン賛歌あらたしき年始まりぬ主の奉献日

キリスト教歳時記では、降誕の日から八日後は「イエスの奉献」の日である。昔のローマ教会では、この日をクリスマスの期間の最後として「オクターブ」の典礼を行っていた。16世紀以降この日を西暦の新年のはじめの日とするようになったらしい。「初めて生まれた男子は皆、主のために聖別される」という律法に従い、山鳩ひとつがいか家鳩の雛二羽をもって、ヨゼフとマリアはイエスを奉献するために神殿に連れて行った。そこで彼等は、聖霊に導かれたシメオンという老人に出会い、賛美と祝福、そして預言のことばを受ける。ルカによる福音書2:29-35 の「シメオンの賛歌と預言」は、カトリック教会では5世紀頃から「終課」のなかで朗唱され、日本の「教会の祈り」でも「寝る前の祈り」のなかで唱えられている。また、「ロザリオの黙想」の信心行、「喜びの神秘の黙想」の第4番目の主題の一つでもある。

シメオンの賛歌
「主よ、今こそあなたは、お言葉の通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルのほまれです。
シメオンの預言
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。ーあなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

(『キリストの神殿奉献』シモン・ヴーエ ルーブル美術館蔵、1640-1641年頃の作では、聖母マリアとヨセフにシメオン老人が賛歌と預言の言葉を告げているところが描かれている)

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福音歳時記 日本で最初にエルサレムに巡礼した人

2024-12-31 | 福音歳時記
福音歳時記 日本で最初にエルサレムに巡礼した人
 
   十字架の道行く人は活ける水 パウロに倣う殉教の旅
 
 聖地でのクリスマスのメーン・イベントの一つは、聖カテリナ教会の夜の弥撒であろう。例年、世界中から大勢の巡礼者が参加する。今年はイスラエルとハマスとの戦乱のせいで観光客の数こそ激減したが、ヨルダン川西岸地区にあるベツレヘムの信徒のたちの平和への祈りが献げられた。
 聖地のカトリック教会は、古くからフランシスコ会が管理しているが、1619年頃、日本で最初にエルサレムを訪れ、ほぼ半年をかけて聖地巡礼をしたペテロ岐部カスイも、エルサレムのフランシスコ会の修道院長からの紹介状を携えて、次の目的地ローマへと巡礼の旅を続けている。    
 私がペトロ岐部カスイのことを知ったのは、遠藤周作の『銃と十字架』を通じてであった。彼は、西洋の植民地主義を背景としてもつキリスト教の宣教活動の矛盾について指摘した後で、「ペテロ岐部は西欧の基督教のために血を流したのではなかった。イエスの教えと日本人とのために死んだのだ」と述べていた。私は、遠藤のこの言葉に強く動かされた。  
 ぺトロ岐部カスイは長きにわたって「隠れたる日本人司祭」であった。たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」では、不正確な固有名詞と共に数行言及するのみで、彼がいかなる人物であったかは書いていない。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、ペトロ岐部の名前は見当たらない。  
 ドイツ人司祭フルベルト・チースリックの長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになったことであるが、岐部は、難民としてマカオに脱出した後、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、次にローマに行って、司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、潜伏を余儀なくされたキリスト者達のために日本に帰国し、遂に江戸で殉教した。それは、物語り以上に奇跡的な歴史的事実であったといわなければならない。  
 まことのキリスト教に触れるために、エルサレムに巡礼する。当時の聖地はイスラム教徒に支配されていたために、ザビエルも果たせなかったエルサレム巡礼を、彼は、誰からの援助も受けずに単身で敢行した。その逗留地ーマカオ、ゴア、バクダード、エルサレム、ローマ、リスボン、マニラ、アユタヤ・・・の諸都市が、私には、そのままロザリオの数珠に見えたのである。  
 カスイとは「活水」つまり「Aqua Vita(活ける水)」であり、イエスの十字架上の死と深い関わりがある名前である。    
 それにしても岐部はどうして、身の危険をも顧みず、禁教時代の日本に戻ったのであろうか?  
 ここでどうしても思い出されるのは、使徒ペテロが、ローマで迫害されていたクリスチャンの元を離れようとしたときに、キリストが示現したという伝承である。「Quo vadis, Domine? 主よ、どこに行かれるのですか」というペテロの問いに対して、キリストは「ペトロ、あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかろう」と言われた。この示現に接して、使徒ペテロはローマに戻って殉教したという物語である。  
 岐部の洗礼名はペテロであり、没落した武士であった両親のつけた洗礼名であった。くしくも、岐部は使徒ペテロと同じ道を辿り、迫害されていた信徒のために日本に戻り殉教したのであった。  
 ポルトガルやスペインのような大帝国の覇権主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めて単身で陸路を取りエルサレムに巡礼した岐部。  ペテロの殉教の地であるローマに行き、司祭に叙階され、リスボンから再び喜望峰経由の海路をたどって、苦難の旅を続け、日本の信徒のために帰国したペテロ岐部については、五野井隆史をはじめ多くのキリシタン史が考証を重ねている。  
 波頭万里、死を覚悟して帰国し、坊津から長崎、長崎から仙台へと禁制下の日本を旅し、仙台で捕縛されたのちに江戸で穴吊しの拷問をうけて殉教したーその彼の生き様こそ、文字通りの意味で「十字架の道行」を実践した人であったと思う。
 
(写真は、私が、ザルツブルグで開催されたヨーロッパ学藝アカデミーの研究会で、「旅ゆく人(homo viator)の精神ーペテロ岐部カスイの十字架の道行」という内容の講演をした時のもの。彼のことを日本だけでなく、ヨーロッパの人たちにも知って貰いたいと思ったからである。)

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福音歳時記 日本最初の降誕祭ミサ

2024-12-30 | 福音歳時記
福音歳時記 日本最初の降誕祭ミサ

  隠れたる弥撒の秘曲はいまもなほ大和心の底に流るる
 
日本最初の降誕祭ミサの記録は1552年、大内氏の領国、周防山口の降誕祭のミサである。

「鶏鳴のミサの時、パードレ・コスモ・デ・トルレス、ミサを歌ひ、パードレ・バルテザル・ガゴは福音書および書簡を読みたり。彼は助祭の白衣とストラを着し、我等は応唱せり。キリシタン等甚だ熱心にミサに与りて大いに喜びしは、我等の主に感謝すべきことなり。」(イルマン・ペドロ・デ・アルカソヴァの書簡)

 これはグレゴリオ聖歌が日本で歌われた最初の記録でもあった。当時の日本人がその内容をどのように理解したかについては、よく分からないが、

「イルマン・ペドロ・デ・アルカソヴァの出発後、山口に於いてはたえず日本語にて書きたる本によりミサおよび説教を行えり。説教の時、修院にはキリシタン充満せり。」

というシルヴァ(最初の日本文典を著した修道士)の言葉が伝えられている。ここでいう「日本語にて書きたる本」は残存しないが、山口は琵琶法師ロレンソなど語学と音楽の両方に長じた日本人修道士を輩出した地でもあるので、ポルトガル語やラテン語のミサ用語の翻訳の試みが既になされたものと推察される。
1605年に長崎で印刷された『サクラメンタ提要』には、キリシタン期洋楽の唯一現存する楽譜資料(グレゴリオ聖歌のネウマ譜)が収録されている。皆川達夫『洋楽渡来考再論』は、これについて、詳細な考証を行ったのちに、日本で出版されたものは、「主にスペイン系、多少のイタリア系の類書を参照しつつも日本へにおける布教を意識して独自の見地にたって編輯作成された固有の典礼書である」と述べている。
 尚、皆川氏は、同書で、箏曲<六段>の原曲はグレゴリオ聖歌<クレド>だったという仮説を提唱していることも興味深い。もしそうならば、我々にとっても馴染み深い箏曲の名曲のなかにキリシタンの聖歌が「隠れて」いたことになろう。
(写真はサクラメンタ提要に収録されているグレゴリオ聖歌のネウマ譜)
 
 
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福音歳時記 12月29日

2024-12-29 | 福音歳時記
福音歳時記 12月29日 聖家族の主日
  
眠れども心目覚めし幼な子を閑かに護る聖家族かな
 
キリシタン時代の東西文化交流のなかで特筆すべきものは、日本のセミナリオの画舎で制作された聖画の質の高さである。若桑みどりは『聖母像の到来』のなかで、キリシタン時代の日本のセミナリオにあった画学舎が、インド以東にイエズス会が布教した地域の中でもっともレベルが高かった理由を二つあげている。(1)安土桃山時代は豪華絢爛たる障壁画の全盛期であり、花鳥の装飾美、都市景観、人物往来の写実性も兼ね備えた美的水準の高いものであったこと。(2)ヴァリニャーノが、西洋の彫刻的、立体的素描法を画学生に押しつけずに、宗教的な図像の象徴的意味を教えるにとどめ、手法、様式、技法材料は日本人画学生の自由に任せたこと。その結果「西洋の図像+日本の手法」という東西文化の融合した芸術が生まれたのである。
  そのようなキリスト教と日本文化の邂逅によって生まれた美術品の実例として、「花鳥蒔絵螺鈿聖龕」が今に伝えられている。これは、「漆に螺鈿」という日本の精妙な工芸手法を用いて、眠るイエスをヨセフとマリアが見守る「聖家族」とヨハネが静かにしているように指で合図をしている図像を表現したものである。
 ヨハネの手にする十字架の幡には「ECCE AGNUS DEI(神の子羊を見よ)」と書かれ、画面の下には、EGO DORMIO ET COR MEUM VIGILAT (我は眠れど心は目覚めて)と書かれている。
 
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福音歳時記 12月28日

2024-12-28 | 福音歳時記

12月28日は幼子殉教者の日

 「ラマで声が聞こえる 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちの故に泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもううないのだから。」ー捕囚の民の受難を嘆くエレミヤの言葉(エレミヤ書31:15)を、マタイによる福音書2:18は、ヘロデ王の幼児虐殺の場面で引用している。

これは決して2000年前の物語りではなく、21世紀の現在、イスラエルの占領したガザ地区でも起こっていることではないだろうか。 シオニストの建国したイスラエルは、パレスチナ難民の幼児を虐殺しても、自国の安寧にとってやむを得ないと考えている。シオニズムをまことのユダヤ教の精神に反する民族主義ーイスラエル国家を排他的に偶像化する罪ーとして批判するユダヤ人自身の声に耳を傾けたい。(『イスラエルとパレスチナーユダヤ教は植民地支配を拒絶する』ーヤコブ・ラプキン著・鵜飼哲訳 岩波ブックレット2024年10月4日刊行)

 泣き叫ぶ幼な児の聲母の聲 瓦礫十字に砕け散るなり

(画像はブリューゲルの「無辜の幼児虐殺」)
カトリック教会も東方教会も、虐殺された幼児たちを「救いの初穂」として二世紀以来、無辜の子供たちの殉教を記念している。




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福音歳時記 12月27日

2024-12-27 | 福音歳時記
福音歳時記 12月27日は福音書記・聖ヨハネの日。
 
   ゴルゴタにとどまりし使徒ただひとり 聖母のこころ共に分かちぬ

 カトリック教会のミサ典礼では入祭唱で「最後の晩餐の席で 主の傍らにいたヨハネは 天の国の神秘を示され、いのちの ことばを全地に伝えた」と歌う。 福音書記者ヨハネは、最後の晩餐で主の傍らにいただけでなく、十字架のそばでイエスの死を看取った唯一の使徒であった。

「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは母とそのそばにいる愛弟子とを見て、母に、「婦人よ、ご覧なさい、あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい、あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(『ヨハネによる福音書』19:25-26)とあるが、他の使徒たちは、その場に登場していない。

 教皇ベネディクト十六世は、2006年エフェソの巡礼所の「聖母マリアの家(メイレム・アナ・エヴィ)」で、聖母マリアのミサをささげた。ヨハネによる福音書19章25-27節が朗読された後で教皇は講話のなかで次のように述べている。
 
「わたしたちは聖ヨハネによる福音書のことばを聞きました。それはわたしたちに、あがないの時を観想するように招いています。そのとき、マリアは、犠牲をささげる御子と一つになって、ご自分が母であることを、すべての人、特にイエスの弟子たちにまで広げました。この出来事をあかしする名誉を与えられたのは、第四福音書の著者であるヨハネでした。ヨハネは、イエスの母と他の婦人たちとともにゴルゴタにとどまった、ただ一人の使徒です。ナザレでの「おことば通り、この身に成りますように」(フィアット)で始まった、マリアが母であることは、十字架のもとで完成しました。」
 
出典:https://www.cbcj.catholic.jp/2006/11/29/313
      
(ファン・デル・ウェイデンが1435年頃描いたと思われる祭壇画「十字架降下図」ープラド美術館所蔵ーでは、聖ヨハネ(赤色の衣装)は悲しむ聖母(青色の衣装)に手をさしのべている。聖母の他には、(左から右へ)異父妹のクロパの妻マリア、マリア・サロメ(緑色の衣装)、マグダラのマリア(右端)の4人の女性、そしてアリマタヤのヨセフ、ニコデモおよびその従者が描かれている。)
 
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福音歳時記 12月26日

2024-12-26 | 福音歳時記
福音歳時記 12月26日 聖ステファノの日。
 
12月26日は聖ステファノの日。使徒行伝によれば、ステファノは12使徒を補佐する7人の執事の一人であった。
十字架の死と復活のイエスをキリストと信じた初代キリスト者は、神殿の祭儀・奉献を重要視するユダヤ教保守派によって迫害された。
自らの信仰を臆せずに語ったステファノは石撃ちの刑に処せられ最初の殉教者となった。
使徒行伝7:55-60は、ステファノが「亡くなった」とは書かず、「眠りに就いた」と述べ、彼の復活を暗示している。
 
      壮麗な神殿いつか崩れなむ ステファノ祈りて敵を怨まず 
      殉教の若人伏せる傍らに 佇むサウロ何思ふらむ
 
(写真はケルン大聖堂のステンドグラス「聖ステファノの殉教」)
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コルトナ賛歌ー聖フランシスコの衣鉢を継ぐ修道士たちが作曲し、民衆と共にイタリアのお国言葉で歌った13世紀のクリスマス賛歌

2024-12-25 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

Gloria 'n cielo e pace 'n terra "Laudario di Cortona, Italian anonymous, 13th century"

コルトナ賛歌

聖フランシスコの衣鉢を継ぐ修道士たちが作曲し、民衆と共にイタリアのお国言葉で歌った13世紀のクリスマス賛歌です。
 
Gloria 'n cielo e pace 'n terra   栄光は天に、平和は地にあれ
nat'è 'l nostro salvatore!    私たちの救い主がお生まれになった
Nat'è Cristo glorioso,     お生まれになったのは栄光のキリスト
l'alto Dio maravellioso:     気高くも驚くべき神:
fact'è hom desideroso    人となることを望まれた
lo benigno creatore!      慈愛溢れる創造主!
De la vergena sovrana,     至高の乙女から、
lucente stella diana,      輝く明けの星が、
de li erranti tramontana,    迷えるものを導き、
puer nato de la fiore.      嬰児が花から生まれました。
Pace 'n terra sia cantata,    平和が地にあれと歌おう
gloria 'n ciel desiderata;     栄光は天にあれと望もう
la donçella consecrata     聖なる少女が
parturit'à 'l Salvatore!     救い主を生まれたのです!
Nel presepe era beato     飼馬桶に祝福されたかたが
quei ke in celo è contemplato,  天において頌えられ、
dai santi desiderato      諸聖人によって望まれた
reguardando el suo splendore. その輝きをみながら。
Parturito l'à cum canto,    歌と共にお生まれになり
pieno de lo Spiritu santo:   聖霊に満ちています
de li bracia li fe' manto    十字の横木をマントで 
cum grandissimo fervore.   大いなる情熱を以て包む。
Poi la madre gloriosa,     栄光の母は、
stella clara e luminosa,    光り輝く明星、
l'alto sol, desiderosa,     いと高きものを望み
lactava cum gran dolçore.   優しく乳を与え給う
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詩編を祈る-詩編は聖書に於ける祈りのシンフォニー

2024-06-20 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy

詩編を祈る-詩編は聖書に於ける祈りのシンフォニー

 

教皇フランシスコは、6月19日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
 この日、教皇は「聖霊と花嫁。聖霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと導く」を主題とするカテケーシスで、

「聖霊は花嫁に祈ることを教える。詩編、聖書における祈りのシンフォニー」をテーマに話された。
 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

**********
 来たる2025年の聖年の準備において、わたしは2024年を「大きな祈りのシンフォニー」とするように招いた。今日のカテケーシスを通し、教会がすでにもっている祈りの交響曲を思い出そう。聖霊によって編まれたこのシンフォニー、それは「詩編」の書である。
 それぞれの交響曲には様々な「動き」があるように、詩編には様々な種類の祈りがある。それらは、個人の、あるいは民の合唱の形をとった、賛美、感謝、嘆願、嘆き、語り、叡智に満ちた考察などである。
 詩編は新約聖書において特別な位置を占めている。実際、新約聖書と詩編を一緒に掲載したものがかつてあり、今も存在する。全詩編が、また各詩編の全体が、キリスト者によって繰り返し唱えられたわけではない。従って現代の人々にはなおさらである。今日の人々は、ある歴史的状況やある種の宗教的メンタリティーを、もう自分たちのものではないと考えている。しかし、それは彼らが詩編からインスピレーションを受けていないことを意味しない。古い掟の多くの部分のように、啓示のある期間・段階において、人々は詩編と結ばれていると言える。
 わたしたちに最も受け入れられている詩編は、かつてイエスや、マリア、使徒たち、またすべての時代のキリスト者たちが祈っていたものである。わたしたちがこれらの詩編を唱えるとき、神は諸聖人の交わりという偉大な「オーケストラ」によってそれを聴かれる。「ヘブライ人への手紙」によれば、イエスは「御覧ください。わたしは来ました[…]神よ、御心を行うために」という詩編の一節を胸に世に来られ(参照 ヘブライ10,7、詩編40,9)、「ルカ福音書」によれば、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という詩編の言葉と共にこの世を去られた(参照 ルカ23,46、詩編31,6)。
 新約聖書において詩編が使われたことに、教父たちや全教会も倣った。それによって、詩編はミサと教会の祈りにおいて定着した要素となった。
 しかし、わたしたちは過去の遺産だけで生きてはいけない。詩編を「わたしたちの」祈りとする必要がある。ある意味、詩編は、それを祈りながら自分のものとし、わたしたち自身が「詩編作者」となるために書かれたといえる。
 もし、自分の心に語りかける詩編が、あるいはその一節があるならば、それを一日の中で繰り返し、祈るのは素晴らしいことである。詩編は「オールシーズン」の祈りである。あらゆる気持ちや必要が、詩編の言葉を祈りに変える。他の祈りと異なり、詩編は繰り返すことで効力を失わず、むしろそれを強める。なぜなら、それは神の霊から来るものであり、信仰をもって読むたびに神に「刺激を与える」ものだからである。
 わたしたちが良心の呵責や罪に苦しめられているならば、ダビデと共にこう繰り返そう。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐みをもって」(詩編51,3)。また、わたしたちが神との強い絆を表したいときは、こう言おう。「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは、乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」(詩編63,2)。そして、恐れや不安に襲われたときは、この素晴らしい言葉がわたしたちを救いに来てくれる。「主は羊飼い、[…]死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23,1.4)。
 詩編は、わたしたちの祈りが、「わたしにください、わたしたちにください」という単なる要求の繰り返しにならないように助けてくれる。「日ごとの糧」を願う前に、「み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と言う「主の祈り」から学ぼう。詩編は、賛美、祝福、感謝の祈りといったように、自分だけを中心にすることのない祈りに心を開かせてくれる。そして、賛歌の中に被造物を関わらせることで、わたしたちに全被造物の声を代弁させてくれる。
 聖霊は、花嫁である教会に、神なる花婿に祈るための言葉を贈ってくださった。さらに、聖霊は、それを今日の教会に響かせるように、また、聖年を準備するこの年を祈りのシンフォニーとするように助けてくださる。

Pope at Audience: The Psalms, 'the prayer of Jesus,' are for all seasons
During his Wednesday General Audience, Pope Francis encourages the faithful to engage in a 'symphony of prayer' by praying the Psalms, as Jesus did.

By Deborah Castellano Lubov
"It is necessary to make the Psalms our prayer, making them ours and praying with them," urged Pope Francis during his Wednesday General Audience in the Vatican.
As the Holy Father continued his catechesis series on the Holy Spirit, this week he reflected in a special way on the Psalms.
The Pope had begun by recalling that in preparation for the 2025 Jubilee, he had proclaimed 2024 a Year of Prayer.

Symphony of prayer
"With today’s catechesis," he therefore explained, "I would like to recall that the Church already possesses a symphony of prayer, whose composer is the Holy Spirit, and it is the Book of Psalms."
The Book of Psalms, like any symphony, he observed, "contains various “movements,” that is, various genres of prayer: praise, thanksgiving, supplication, lamentation, narration, sapiential reflection, and others, both in the personal form and in the choral form of the whole people".
These, he said, "are the songs that the Spirit Himself has placed on the Bride’s lips."
All the Books of the Bible, the Pope reiterated, are inspired by the Holy Spirit, but the Book of Psalms, he added, is especially "full of poetic inspiration" and have had a special place in the New Testament. 
"What most commends the Psalms to our attention is that they were the prayer of Jesus, Mary, the Apostles and all the Christian generations that have preceded us."
When we recite Psalms
When we recite them, the Holy Father explained, "God listens to them with that grandiose “orchestration” that is the community of saints."
He recalled that Jesus, according to the Letter to the Hebrews, entered into the world with a verse from a Psalm in His heart: 'Lo, I have come to do thy will, O God' (cf. Heb 10:7; Ps 40:9), and He left the world, according to the Gospel of Luke, with another verse on His lips: 'Father, into thy hands I commit my spirit' (Lk 23:46, cf. Ps 31:6).
The use of psalms in the New Testament, the Pope added, is certainly followed by that of the Fathers and the entire Church, but has an important role in our world today.
"We cannot only live on the legacy of the past," he argued, saying, "it is necessary to make the Psalms our prayer. It was written that, in a certain sense, we must ourselves become the “scribes” of the Psalms, making them ours and praying with them."
For all seasons
When Psalms, or verses, "speak to our heart," he said, "it is good to repeat them and pray them during the day."
Since they are prayers “for all seasons,” he said, "there is no state of mind or need that does not find in them the best words to be transformed into prayer." Unlike other prayers, the Pope stated, they do not lose their effectiveness by being repeated, but, "on the contrary, they increase it."
This is so, he said, because "they are inspired by God and 'breathe' God, every time they are read with faith."
Always a Psalm to accompany us
The Pope insisted that if we feel oppressed or fearful, or loving and joyful, there is a Psalm that can help accompany us, and enrich our prayer by not reducing it merely to requests.
They help us, he said, open ourselves to a prayer that is less focused on ourselves, and rather on praise, blessing, and thanksgiving.
Pope Francis concluded by praying that the Holy Spirit "make this year of preparation for the Jubilee a symphony of prayer."

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バロックオペラ「Mulier fortis (勇敢な婦人ー-細川ガラシャ)」の公演の案内

2023-11-07 | 日誌 Diary

バロックオペラ「Mulier fortis (勇敢な婦人ー-細川ガラシャ)」の公演の案内

1698年にウイーンで神聖ローマ帝国皇帝レオポルド一世とその家族の前で上演されたバロックオペラ「勇敢な婦人(細川ガラシャ)(Mulier fortis)」の楽譜の校訂版をもとに11月17日午後7時より上野の奏楽堂にてコンサート形式で蘇演します。私も公演実行委員の一人として「台本にみられるガラシャ像」の解説を担当しましたので、公演に先立つ座談会に出席します。

東西宗教研究に寄稿した拙稿 細川ガラシャ考を参考資料としてご覧下さい。

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Mulier fortis (勇敢な婦人ー細川ガラシャ)上演のお知らせ 

2023-09-30 | 美学 Aesthetics
バロック・オペラ コンチェルタンテ Mulier fortis (勇敢な婦人ー細川ガラシャ)上演のお知らせ 
2023年11月17日(金)19時開演 旧東京音楽学校奏楽堂
 
1698年にウイーンで初演された楽劇Mulier fortis(勇敢な婦人 細川ガラシャ)が、2023年11月17日(金)に旧東京音楽学校奏楽堂でコンサート形式で蘇演されることになりました。
 
主催は オペラMulier fortis 公演実行委員会
代表 澤和樹・豊田喜代美
委員:北側央・佐久間龍也・田中裕・西脇純
これは、もともと2年前に東京文化会館小ホールで上演の予定でしたが、コロナ禍のために中止になっていたものです。今回は、あらたに東京芸術大学前学長の澤和樹先生に共同代表になっていただきました。私と西脇純先生は、ラテン語の歌詞の翻訳、注釈、解説の作成などで協力しています。
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ヨハネパウロ二世によるペテロとパウロの祝祭ミサーモーツアルト戴冠ミサ曲(カラヤン指揮)

2023-06-29 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
1985年6月29日(使徒聖ペトロ・使徒聖パウロの祝日)にバチカンのサン・ピエトロ大聖堂で教皇ヨハネ・パウロ二世によって挙行された荘厳ミサの記録が、CDおよびYoutubeで視聴可能です。
ミサの間に演奏されたのは、カラヤン指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウイーン楽友協会合唱団による「モーツアルトのミサ曲ハ長調K.317(戴冠ミサ)」でした。この記録は、日本でもCDを購入ことが出来ますが、Youtube版もCDもどちらも完全収録ではありません。
CD版では、ミサの奉献文が省略されていますし、Youtube版は(FULL)と書いてありますが、使徒書の朗読や共同祈願など多くの箇所が省略されています。またどちらも教皇の説教(ホミリア)の原文が掲載されていません。幸い、この日のヨハネ・パウロ二世の説教は、https://www.vatican.va/.../hf_jp-ii_hom_19850629_ss...
で読むことが可能です。モーツアルトのミサ曲を演奏会場ではなく実際のミサ曲の中で聴くという貴重な記録であるだけに、完全収録でないことが惜しまれます。Youtube版には、欠落している箇所のラテン語歌詞と式文およびその英訳を補って、私が(complementaという名で)コメント欄に投稿しておきました。
サン・ピエトロ大聖堂を観光客としてではなく、カトリックの信徒として巡礼することの意味がこの説教を読むと良くわかります。また、モールアルトの「戴冠式ミサ」は、演奏会場で聴くだけでもその優れた音楽性によって感銘深いものですが、聖堂で挙行される祝祭ミサの場で聴くと、その宗教性をも深く感じることが出来るでしょう。
この日のミサの式次第は次のようになっています。
(Youtube版の時間表記をつかう)

開祭の儀 0:00
 使徒言行録12:11 Ritus Initiales Antiphona ad introitum (ACT 12,11)
挨拶および回心の祈り2:00 Formula salutationis et actus paenitentialis
キリエ(あわれみの賛歌)kyrie (W.A.Mozart) 3:13
グローリア(栄光の賛歌)Gloria (W.A.Mozart) 6:43
集会祈願 10:57 Oratio
 
言葉の典礼 Liturgia Verbi
第一朗読 使徒言行録12:1-11 Lectio prima (Act 12,1-11) (ビデオでは省略)
答唱詩篇Responsum graduale(D.Bartolucci) (Ps 34[33],5b.2-3) (ビデオでは省略)
第二朗読 テモテへの第二の手紙 Lectio secunda (2 Tim 4,6-8.17-18) (ビデオでは省略)
アレルヤ唱 システィナ礼拝堂合唱団 Alleluia (Cappella Sistin) (ビデオでは省略)
福音朗読(マタイ16:13-19) 11:55 Evangelium (Mt 16,13-19)
 
ヨハネパウロ二世の説教 (ビデオでは省略)
感謝の典礼  Liturgia Eucharistica
共同祈願 Oratio fidelium (ビデオでは省略)
奉納の歌23:09 Cantus ad offertorium (D.Bartolucci)
Schola
Mundi Magister, atque caeli Janitor, Romae parentes, arbitrique gentium, Per ensis ille, hic per crucis victor necem, Vitae senatum laureati possident.
24:05 Cappella Sistina
O Roma felix, quae duorum Principum Es consecrata glorioso sanguine: Horum cruore purpurata ceteras Excellis orbis una pulchritudines.
Schola Mundi Magister....
Capella Sistina: Amen
祈りへの招きと奉納礼願
et oratio super oblata (ビデオでは省略)
序唱 25:48 Predation
サンクトス(感謝の賛歌)Sanctus (W.A.Mozart) 29:18
ベネディクトス     Benedictus (W.A.Mozart) 31:26
奉献文(CD解説でも欠落しているのでラテン語原文を補う)
34:46 Prex eucharistica
Summus Pontifex
Vere Sanctus es, Domine, et merito te laudat omnis a te condita creatura, quia per Filium tuum, Dominum nostrum Iesum Christum, Spiritus Sancti operante virtute, vivificas et sanctificas universa, et populum tibi congregare non desinis, ut a solis ortu usque ad occasum oblatio munda offeratur nomini tuo. Supplices ergo te, Domine, deprecamur, ut haec munera, quae tibi sacranda detulimus, eodem Spiritu sanctificare digneris, ut Corpus et Sanguis fiant Filii tui Domini nostri Iesu Christi, cuius mandato haec mysteria celebramus. Ipse enim in qua nocte tradebatur accepit panem et tibi gratias agens benedixit, fregit, deditque discipulis suis, dicens:
"ACCIPITE ET MANDUCATE EX HOC OMNES: HOC EST ENIM CORPUS MEUM, QUOD PRO VOBIS TRADETUR."
Simili modo, postquam cenatum est, accipiens calicem, et tibi gratias agens benedixit, deditque discipulis suis, dicens:
"ACCIPITE ET BIBITE EX EO OMNES, HIC EST ENIM CALIX SANGUINIS MEI NOVI ET AETERNI TESTAMENTI, QUI PRO VIBIS ET PRO MULTIS EFFUNDETUR IN REMISSIONEM PECCATORIUM. HOC FACITE IN MEAM COMMEMORATIONEM."
Mysterium fidei
R: Mortem tuam annuntiamus, Domine, et tuam resurrectionem confitemur, donec venias.
交わりの儀 Ritus Communionis
主の祈り 38:12 Oratio dominica
平和の挨拶 Ritius pacis (ビデオでは省略)
アニュス・デイ(平和の賛歌)Agnus Dei (W.A.Mozart) 40:15
47:41 Invitatio ad convivium
 
拝領の歌 Cantus ad communionem:
アヴェ・ヴェルム・コルプスK.618 Ave verum (W.A.Mozart) 48:05
拝領祈願51:00 Oratio post communionem
 
閉祭 51:50 Ritus Conclusionis
 
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反対の一致の射程ー『西田幾多郎記念講演集』を読む

2023-04-29 | 哲学 Philosophy
西田幾多郎記念哲学館でおこなった第77回寸心忌を記念した私の講演<反対の一致の射程ー『西田幾多郎講演集』を読む>が『点から線へ』72号(2023/3/30)に収録されました。
にこの講演の記録のファイルがあります。
 
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茶道とキリスト教シンポジウム(上智大学キリスト教文化研究所)

2022-03-19 | Essays in English 英文記事

キリスト教文化研究所主催(2021年度)連続講演会紀要から

茶道とキリスト教シンポジウム

司会:竹内修 パネリスト:椿巌三・田中裕・スムットニー祐美

 

キリスト教文化研究所紀要39 の目次

テーマ 執筆者
はじめに 川中 仁
ミサと茶の湯に見る天地人の調和―侘茶とキリスト教の本質的一致についての一考察― 椿 巌三
キリスト教と茶道との出会い―禅の修道精神とキリスト教伝道― 田中 裕
「適応主義にみる安土・桃山時代の茶の湯」
―ヴァリニャーノの茶の湯の規則と信長・秀吉・利休の茶の湯―
スムットニー 祐美
〈シンポジウム〉二〇二一年度(第 48 回)連続講演会シンポジウム
「茶道とキリスト教」
椿 巌三
田中 裕
スムットニー 祐美
竹内 修一

 

 

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2022/01/09

2022-01-09 | 美学 Aesthetics
上智大学の中世思想研究所の江藤信暁さんから、ケーベル博士来日百周年を記念して設立された「ケーベル会」の会誌(1993−1996)を贈っていただきました。
 島尻政長先生(ケーベル会会長)の「日本美学史とケーベル先生」、上智大学中世思想研究所にケーベル会誌を寄贈された榎本昌弘先生の「岩下壮一の神父の遺品」、アウグスチヌスの神国論に関する卒業論文をめぐる記事など、多彩なその内容に興味を惹かれました。
 ケーベル博士の信じていたキリスト教は、ギリシャ正教なのか、プロテスタントなのか、ローマン・カトリックなのか、カトリックに歸正したのはいつであったのか、榎本昌弘先生の「ケーベル先生改宗日の謎」や、巽豊彦先生の「ケーベル的キリスト教について」を読むと、周辺にいた人の間で、実にさまざまな議論があったことがわかります。
 ケーベル博士の影響は、無教会の内村鑑三、プロテスタントの波多野精一、ローマン・カトリックの岩下壮一というように、宗派を超えて、キリスト教のすべてに及んでいるのですから、私に言わせれば、彼の立場は、古典の伝統を重んじる「無教会」のカトリックと呼ぶのが適切ではないでしょうか。その立場を音楽の創作と上演活動によって表現し、その活動を美学的に反省しつつ生きたところに、ケーベル博士の独自性があったと思っています。
 私は、一昨年以来、沖縄音楽大学の皆様とともにバロック・オペラ「勇敢な婦人(細川ガラシャ)」の日本での蘇演を計画し、キリシタン時代の東西文化交渉の歴史を継承する試みをしてきました。ケーベル会の創設者とも言うべき島尻政長先生が、沖縄を本拠地として活動されていたこと、またその御命日が、今日の1月9日であることを知りました。偶然といえばそれまででですが、ケーベル博士の日本での音楽活動を継承された島尻先生に倣いつつ、ケーベル博士のご業績を偲びたいと想います。

   ケーベル博士の肖像ーケーベル会誌創刊号(1993)から転載
(和服姿のケーベルと家人たち<駿河台邸>写真提供/久保いと)は来日してからまだあまり時を経ていないころの写真とのことです。




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