福音歳時記 3月7日 聖ペルペトゥア 聖フェリチタス殉教者の日
獄中の夢は信實ペルペトゥア竜も剣(つるぎ)もおそれぬ自由
西暦203年3月7日にローマ皇帝セプティミウス・セウェルス下の迫害により殉教した二人の女性ペルペトゥアとフェリチタスについては、殉教者自身の筆録も含め、「ペルペトゥアとフェリチタスの殉教」と呼ばれる詳細な文書が残されている。ローマ皇帝によるキリスト教迫害と豊臣秀吉の伴天連追放という時代背景の違いはあっても、「勇敢な女性」の「殉教=信仰の証し」と言う点では、ペルペトゥアと細川ガラシャには共通点がある。それは、彼女たち自身の言葉が遺されており、またその殉教時の状況がさまざまな人によって記録されているからである。
ペルペトゥアの殉教録のなかには、棄教を促す父親と彼女との対話が含まれている。老境に入った父親は、家族や親戚、彼女の赤子への配慮を引き合いに出し、棄教を促す。ペルペトゥアはそのたびごとに大きく心を揺り動かされるが、「被告の席の上でも、神の思し召し通りのことが起こるでしょう。私たちが自分の力の中にではなく、神の力の中にいることを知って下さい(scito enim nos non in nostra esse potestate constitutos, sed in Dei) 」と父親に答え、信仰を捨てないことを告げる。
ローマ帝国の時代の殉教録に特徴的なのは、コロッセウムでの野獣刑である。これはおそらく異教の神々への人身御供という意味があったと思われるが、ペルペトゥアもまた、入場門のところで、サトゥルヌス神とケレス神の神官の祭服を着用するように言われるが、彼女は断固としてそれを拒否して次のように言う。
「私たちが自らこのようなことに進み来ているのは、自分の自由が奪われないためでした。私たちが自分の生命を献げるのも、こんなことをしたくなかったからでした。その点についてはあなた方も私たちと意見が一致して居るはずです」
結局、彼女の主張が認められ、異教の祭服の着用が免除されたので、彼女は詩編を歌い、行進して総督ヒラリアヌスの前に来ると、
「あなたは私たちを(裁くが)、しかし神があなたを(裁くでしょう)」と堂々と述べたために鞭打たれ、牝牛の角に突かれたあとで、剣闘士の剣によって最期を迎えたと書かれている。
ペルペトゥアの殉教録には、彼女の弟が、殉教が神意にかなうものであるのかどうか夢にて尋ねるように懇願したことも書かれている。当時は、夢の中で神意が告げられるという考えがあった。ペルペトゥアが獄中で見た夢は、梯子の乗り天上に赴くと、梯子の周りには刃の突いた武器、麓には竜がいたので、この夢によって彼女は自分がコロッセウムで殉教することが摂理なのだと知ったのであろう。