信長が部下を信用せず・絶対的な服従と不用な部下の切り捨て・天下布武の展望を共有しなかったことで光秀は疑心暗鬼(ブラック企業化)
明智光秀がどこで会得したかは分からないが(前半世はほぼ不明) 、彼は今でいう文武両道に優れており、この両面の技能をいかんなく発揮して、やや遅咲きながら(明智城没落は29歳・その後全国を放浪)、織田信長に仕えると出世街道を突き進んだ。和歌に優れ、身分の優劣なく参加できた連歌の会で、朝廷・貴族(吉田兼見など)や幕府・将軍足利義昭との接触を図っていった。そこで、光秀は京都周辺の統治を信長より命ぜられ、朝廷や幕府との橋渡し役を行ったのである。いまだ将軍義昭の護衛としての頃、三好氏との本国寺合戦において、織田の兵士の先頭に立って指揮し自慢の鉄砲の腕を発揮したことにより、信長に認められた。朝倉義景の越前攻めにおいては、金ケ崎城で浅井長政の裏切りにより挟み撃ちにあいそうになったが、秀吉とともに殿(しんがり・撤退役)という大役を務めた。織田信長にとっては、京都の朝廷・幕府と繋がりが深く、戦いの場においても、軍略に優れた光秀はまさに使える存在であった。以後、近江坂本城、丹波亀山城の一国一城の主となっていくが、秀吉も同様に長浜に城を築いて出世していくのである。
織田信長は、合理主義で、利用するものはなんでも利用した。海外からのキリスト布教に来た神父たちに布教を認める代わりに、鉄砲などの先進技術を手に入れ、堺の自由な交易を認める代わりにいくらかの対価を上げさせた。戦に必要な物資を得ることに努めたのである。
組織的には、その合理主義から、能力のあるものは、新参であるにも関わらず、秀吉・光秀もどんどん引き上げていった。そして、徹底した合理主義と裏腹のものとして、絶対的な服従を強いるとともに、強い恐怖心も起こさせた。また、手向かう者には女・子供であっても部下に殺害を命じた。荒木村重の謀反にあっては、敵への内通が疑われ、有岡城に立てこもり降伏勧告を受けても、前例のように処刑されたくないということから、1年以上も徹底抗戦を続けさせたのである。合理主義者が究極に達すると「人の心情」が分からなくなるといわれるが、松永弾正の謀反では、人の心を理解せず、家柄のいい筒井順慶の方に、松永と争っていた奈良地方の治安を任せたためといわれる。松永に言わせると、家柄は合理的ではなく従来の考え方であるというが、信長に言わせると地縁を重視する土地柄から筒井の方が適任と思ったのかもしれない。これは、また合理的といえば合理的な考え方であるが、信長は言わないので分からないのである。佐久間信盛に至っては、いかに功績や家柄があっても、過去の栄光がばかりにしがみついては、切り捨てられるという警戒心を部下にいだかせた。信盛は、父の時代から使える筆頭家老で、石山本願寺攻略の大将であったが、攻めあぐんでいたばかりでなく、部下の指導も行き届かった。そのため、光秀の丹波平定、秀吉の播磨・但馬平定に比べられ、その任を解かれ高野山へ追放になったのである。また、あくまでも、本能寺の変の一つの要因であると考えるが、秀吉が中国地方を平定中に援軍を要請したところ、手の空いていた光秀に行けといったことは、秀吉の配下に加わることになる。同じ途中採用の秀吉と光秀のライバル同士の微妙な人間関係にはあまり気に留めなかったのと思われる。
会社に例えると、信長の会社は、まさにブラック企業で、畿内平定を終えると、次は丹波に出陣を命じられ、それが終わると中国地方に手伝いを命じられる。次から次へと息つぐ暇もなく、戦いを強いられる。徹底した合理主義とその裏腹の「情」を認めないと同時に、絶対的な服従をさせられ、能力がないと見るやすぐに切り捨てられる。信長に取り立てられて恩義のある光秀であって、忠誠をつくす光秀であっても、どこかで懐疑的にならざるをえない。彼が背かなくても、疑心暗鬼になり、ほかのだれかが謀反を企てたかもしれない。信長にすれば部下はそれぐらい察せよというような考えで、常に意思の統一を図るようなリーダーではなかったのであろう。筆頭の部下であった光秀に対して基本戦力を伝えていたならばこういうことはなかっただろう。実は機会はあったわけで、武田攻略から本能寺の変が起きるまで信長・光秀は一緒に行動し、特に武田との戦い後1か月以上富士山見物をしたりしたが、その間天下布武のルードマップを信長は光秀と共有しなかったと思われるのである。
そこへ、信長の本能寺とその鼻の先である子・信忠の妙覚寺の取り巻きの少ない滞在である。2人同時に打ち取るこれほどの機会はない。疑心暗鬼の光秀に対し、<※> 一方の信長は光秀の謀反など全く考えていなかったようである。「是非に及ばず」(光秀なら「仕方がない」と解釈)は、その証左と考える。とにかく、主君を打ち取る機会を光秀に与えたのである。すなわち、信長のブラック企業した会社をどうにかしたいと思っていたところ、光秀は乗っ取りの機会を与えられたのである。
※光秀は京都の治安を預かる守護の立場にいた。信長にとって京都滞在するのは、安心だと考えていたのではないか。しかも、信長は、後継のことを考えて信忠とは一緒に行動しないのが原則だったのだが、それが同じ京都に滞在とは、よほど光秀を信頼していたのではないか。
もちろん、NHK麒麟が来るに流れる主題のように、将来の展望も必要で、太平の世は、信長のようなブラックな企業ではなく、もっと国民に寄り添ったものではならないといったものがあったように思われる。その証拠として、とにかく天皇に信長の後継者としても詔をもらうことを第一と考えたこと(政権交代をちゃんとした形で天皇に認めてもらうことによりブラックではないことにしたい。)、安土城に入ったとき信長の蓄財の金銀財宝を家来に惜しげもなく分け与えたこと、光秀の治めた地方では領民から慕われていたこと などから、信長の世でないもっと親しまれる世の中を作ろうとしていたとも思われる。
乗っ取った後の「自分を守る」青写真があったかといえば、天皇から信長後継者の詔を得ることが最重要課題であった。信長後継者の詔を得た光秀は打たれないだろうと考えたふしがある。ところが、秀吉の方がその考えより上回っていたのである。中国地方備中高松城からまたたく間に引き返しことにより、光秀は態勢を整える間もなく「山崎の戦い」に敗れた。後方の勝竜寺城に退却。このとき秀吉はわざと抜け道をこしらえ、自らは首をとらず土民たちの竹やりに殺されるよう仕向けたとされる。というのも、天皇から詔を得た「信長の後継者」光秀を殺せば天皇に背くことになるので、秀吉は、故意に土民たちに首を取らせたとされるのである。
光秀にとって、秀吉の中国大返しは予想外のことであった。2人のライバルが両者競い合いながら信長に認められ出世していったが、その企業は、今でいうブラック企業であって、いつ吐き捨てられても仕方のないものであった。それは、<※1>ライバルの秀吉にしても危うい状況は、同様であったのではないか。光秀は、自分にもチャンスがあれば取って代わるようにして準備しておいたとしても不思議はない。そこへきて、この本能寺の信長宿泊である。まさに「敵は本能寺にあり」である。文化人であり戦人でもあった光秀が、もっと別の信長と違った世の中を夢みたとしても当然であろう。<※2> 天皇の詔を得たのは、光秀にとって、信長のブラック化した会社の象徴でもなく、天皇から正式に認められた安定的な政権に移行したかったのであろう。光秀はたんなる精神錯乱状態とか黒幕がいたとか<※3>ではなくて、本当に、<※4>彼の器量により、天下を取りに行ったとみるのが正当な解釈ではないか。
※1 ライバル秀吉は、謀反どうこうではないが、どうも光秀の動向を探っていたふしがある。というのは、本能寺と中国地方の備中高松城の距離は200㌔、一日に動く距離50キロとすると通報が通常4日かかるのであるが、実際は信長訃報の知らせは、翌日に秀吉に伝えられた。前もって、伝令・早馬等通報の方法を準備していないとできるものではない。秀吉とて、中央の情勢に耳を欹てて、謀反うんむんとは限らないが、何らかの行動を行う対策を立てていたのは事実のようである。特に軍師黒田官兵衛が控えており官兵衛から訃報は挙げられたとされるが、その時の「殿 運が向いてきましたな」の有名な官兵衛のセリフ。
※2会社経営に例えると・・・創始者の先代が退き会長におさまり、息子が後を継いだが、先代の消費者に寄り添った経営ではなく、極端な生産合理主義に陥り、なんでも切り捨てブラック化していた経営をしていたところ、そこへ先代の認めた専務が先代の意向を察し、経営改革をおこしたというところか。成功するかどうかは、まさに時の運的なところもある。事の大小はあれ、よく聞く話でもある。
※3 特に有力な説は、信長は四国の有力な大名長曾我部元親と同盟を結んでいたが、畿内を統治するためかってそこを勢力圏としていた三好一族を取り込むため、元親に対し占領した四国の三好領の返還を促し、元親と同盟を解消しようとした。光秀にとっても、元親は部下の斎藤利三を通じて縁戚関係にあったため、光秀は板挟みにあったといわれる。これが、本能寺の変の原因となって元親と共謀したといわれるゆえんである。しかし元親の件これ一つが原因ではなく、これらのことが積み重なりブラック企業化したのがその原因ではないか。また「麒麟がくる」(月へ上がる者)では正親町天皇が光秀に「信長が道をたがえぬよう、しかと見届けよ」とおっしゃったとしても、それは一因であっても黒幕とはいえない。本文でも触れたが、信長では平和な世はこないという、光秀の文化人としての根本的な主義主張の違いがあったと思われる。
※4 徳川3代のブレーンであった天海は光秀だったとのトンデモ論てきなものは排除して、できるだけ通説的・史実に近い形で、現代の企業に置き換えて説明するとこうなるのでは思われる。
参考 NHK麒麟がくる(放映内容)
なんだこりゃミステリー<明智光秀>
明智光秀の生涯・外川淳著・三笠書房
明智光秀と本能寺の変・小和田哲男・PHP文庫
太字
明智光秀がどこで会得したかは分からないが(前半世はほぼ不明) 、彼は今でいう文武両道に優れており、この両面の技能をいかんなく発揮して、やや遅咲きながら(明智城没落は29歳・その後全国を放浪)、織田信長に仕えると出世街道を突き進んだ。和歌に優れ、身分の優劣なく参加できた連歌の会で、朝廷・貴族(吉田兼見など)や幕府・将軍足利義昭との接触を図っていった。そこで、光秀は京都周辺の統治を信長より命ぜられ、朝廷や幕府との橋渡し役を行ったのである。いまだ将軍義昭の護衛としての頃、三好氏との本国寺合戦において、織田の兵士の先頭に立って指揮し自慢の鉄砲の腕を発揮したことにより、信長に認められた。朝倉義景の越前攻めにおいては、金ケ崎城で浅井長政の裏切りにより挟み撃ちにあいそうになったが、秀吉とともに殿(しんがり・撤退役)という大役を務めた。織田信長にとっては、京都の朝廷・幕府と繋がりが深く、戦いの場においても、軍略に優れた光秀はまさに使える存在であった。以後、近江坂本城、丹波亀山城の一国一城の主となっていくが、秀吉も同様に長浜に城を築いて出世していくのである。
織田信長は、合理主義で、利用するものはなんでも利用した。海外からのキリスト布教に来た神父たちに布教を認める代わりに、鉄砲などの先進技術を手に入れ、堺の自由な交易を認める代わりにいくらかの対価を上げさせた。戦に必要な物資を得ることに努めたのである。
組織的には、その合理主義から、能力のあるものは、新参であるにも関わらず、秀吉・光秀もどんどん引き上げていった。そして、徹底した合理主義と裏腹のものとして、絶対的な服従を強いるとともに、強い恐怖心も起こさせた。また、手向かう者には女・子供であっても部下に殺害を命じた。荒木村重の謀反にあっては、敵への内通が疑われ、有岡城に立てこもり降伏勧告を受けても、前例のように処刑されたくないということから、1年以上も徹底抗戦を続けさせたのである。合理主義者が究極に達すると「人の心情」が分からなくなるといわれるが、松永弾正の謀反では、人の心を理解せず、家柄のいい筒井順慶の方に、松永と争っていた奈良地方の治安を任せたためといわれる。松永に言わせると、家柄は合理的ではなく従来の考え方であるというが、信長に言わせると地縁を重視する土地柄から筒井の方が適任と思ったのかもしれない。これは、また合理的といえば合理的な考え方であるが、信長は言わないので分からないのである。佐久間信盛に至っては、いかに功績や家柄があっても、過去の栄光がばかりにしがみついては、切り捨てられるという警戒心を部下にいだかせた。信盛は、父の時代から使える筆頭家老で、石山本願寺攻略の大将であったが、攻めあぐんでいたばかりでなく、部下の指導も行き届かった。そのため、光秀の丹波平定、秀吉の播磨・但馬平定に比べられ、その任を解かれ高野山へ追放になったのである。また、あくまでも、本能寺の変の一つの要因であると考えるが、秀吉が中国地方を平定中に援軍を要請したところ、手の空いていた光秀に行けといったことは、秀吉の配下に加わることになる。同じ途中採用の秀吉と光秀のライバル同士の微妙な人間関係にはあまり気に留めなかったのと思われる。
会社に例えると、信長の会社は、まさにブラック企業で、畿内平定を終えると、次は丹波に出陣を命じられ、それが終わると中国地方に手伝いを命じられる。次から次へと息つぐ暇もなく、戦いを強いられる。徹底した合理主義とその裏腹の「情」を認めないと同時に、絶対的な服従をさせられ、能力がないと見るやすぐに切り捨てられる。信長に取り立てられて恩義のある光秀であって、忠誠をつくす光秀であっても、どこかで懐疑的にならざるをえない。彼が背かなくても、疑心暗鬼になり、ほかのだれかが謀反を企てたかもしれない。信長にすれば部下はそれぐらい察せよというような考えで、常に意思の統一を図るようなリーダーではなかったのであろう。筆頭の部下であった光秀に対して基本戦力を伝えていたならばこういうことはなかっただろう。実は機会はあったわけで、武田攻略から本能寺の変が起きるまで信長・光秀は一緒に行動し、特に武田との戦い後1か月以上富士山見物をしたりしたが、その間天下布武のルードマップを信長は光秀と共有しなかったと思われるのである。
そこへ、信長の本能寺とその鼻の先である子・信忠の妙覚寺の取り巻きの少ない滞在である。2人同時に打ち取るこれほどの機会はない。疑心暗鬼の光秀に対し、<※> 一方の信長は光秀の謀反など全く考えていなかったようである。「是非に及ばず」(光秀なら「仕方がない」と解釈)は、その証左と考える。とにかく、主君を打ち取る機会を光秀に与えたのである。すなわち、信長のブラック企業した会社をどうにかしたいと思っていたところ、光秀は乗っ取りの機会を与えられたのである。
※光秀は京都の治安を預かる守護の立場にいた。信長にとって京都滞在するのは、安心だと考えていたのではないか。しかも、信長は、後継のことを考えて信忠とは一緒に行動しないのが原則だったのだが、それが同じ京都に滞在とは、よほど光秀を信頼していたのではないか。
もちろん、NHK麒麟が来るに流れる主題のように、将来の展望も必要で、太平の世は、信長のようなブラックな企業ではなく、もっと国民に寄り添ったものではならないといったものがあったように思われる。その証拠として、とにかく天皇に信長の後継者としても詔をもらうことを第一と考えたこと(政権交代をちゃんとした形で天皇に認めてもらうことによりブラックではないことにしたい。)、安土城に入ったとき信長の蓄財の金銀財宝を家来に惜しげもなく分け与えたこと、光秀の治めた地方では領民から慕われていたこと などから、信長の世でないもっと親しまれる世の中を作ろうとしていたとも思われる。
乗っ取った後の「自分を守る」青写真があったかといえば、天皇から信長後継者の詔を得ることが最重要課題であった。信長後継者の詔を得た光秀は打たれないだろうと考えたふしがある。ところが、秀吉の方がその考えより上回っていたのである。中国地方備中高松城からまたたく間に引き返しことにより、光秀は態勢を整える間もなく「山崎の戦い」に敗れた。後方の勝竜寺城に退却。このとき秀吉はわざと抜け道をこしらえ、自らは首をとらず土民たちの竹やりに殺されるよう仕向けたとされる。というのも、天皇から詔を得た「信長の後継者」光秀を殺せば天皇に背くことになるので、秀吉は、故意に土民たちに首を取らせたとされるのである。
光秀にとって、秀吉の中国大返しは予想外のことであった。2人のライバルが両者競い合いながら信長に認められ出世していったが、その企業は、今でいうブラック企業であって、いつ吐き捨てられても仕方のないものであった。それは、<※1>ライバルの秀吉にしても危うい状況は、同様であったのではないか。光秀は、自分にもチャンスがあれば取って代わるようにして準備しておいたとしても不思議はない。そこへきて、この本能寺の信長宿泊である。まさに「敵は本能寺にあり」である。文化人であり戦人でもあった光秀が、もっと別の信長と違った世の中を夢みたとしても当然であろう。<※2> 天皇の詔を得たのは、光秀にとって、信長のブラック化した会社の象徴でもなく、天皇から正式に認められた安定的な政権に移行したかったのであろう。光秀はたんなる精神錯乱状態とか黒幕がいたとか<※3>ではなくて、本当に、<※4>彼の器量により、天下を取りに行ったとみるのが正当な解釈ではないか。
※1 ライバル秀吉は、謀反どうこうではないが、どうも光秀の動向を探っていたふしがある。というのは、本能寺と中国地方の備中高松城の距離は200㌔、一日に動く距離50キロとすると通報が通常4日かかるのであるが、実際は信長訃報の知らせは、翌日に秀吉に伝えられた。前もって、伝令・早馬等通報の方法を準備していないとできるものではない。秀吉とて、中央の情勢に耳を欹てて、謀反うんむんとは限らないが、何らかの行動を行う対策を立てていたのは事実のようである。特に軍師黒田官兵衛が控えており官兵衛から訃報は挙げられたとされるが、その時の「殿 運が向いてきましたな」の有名な官兵衛のセリフ。
※2会社経営に例えると・・・創始者の先代が退き会長におさまり、息子が後を継いだが、先代の消費者に寄り添った経営ではなく、極端な生産合理主義に陥り、なんでも切り捨てブラック化していた経営をしていたところ、そこへ先代の認めた専務が先代の意向を察し、経営改革をおこしたというところか。成功するかどうかは、まさに時の運的なところもある。事の大小はあれ、よく聞く話でもある。
※3 特に有力な説は、信長は四国の有力な大名長曾我部元親と同盟を結んでいたが、畿内を統治するためかってそこを勢力圏としていた三好一族を取り込むため、元親に対し占領した四国の三好領の返還を促し、元親と同盟を解消しようとした。光秀にとっても、元親は部下の斎藤利三を通じて縁戚関係にあったため、光秀は板挟みにあったといわれる。これが、本能寺の変の原因となって元親と共謀したといわれるゆえんである。しかし元親の件これ一つが原因ではなく、これらのことが積み重なりブラック企業化したのがその原因ではないか。また「麒麟がくる」(月へ上がる者)では正親町天皇が光秀に「信長が道をたがえぬよう、しかと見届けよ」とおっしゃったとしても、それは一因であっても黒幕とはいえない。本文でも触れたが、信長では平和な世はこないという、光秀の文化人としての根本的な主義主張の違いがあったと思われる。
※4 徳川3代のブレーンであった天海は光秀だったとのトンデモ論てきなものは排除して、できるだけ通説的・史実に近い形で、現代の企業に置き換えて説明するとこうなるのでは思われる。
参考 NHK麒麟がくる(放映内容)
なんだこりゃミステリー<明智光秀>
明智光秀の生涯・外川淳著・三笠書房
明智光秀と本能寺の変・小和田哲男・PHP文庫
太字