戦後の10年間はクビ切りは日常茶飯事<農村から企業への帰属意識が芽生えた>
松下幸之助は、経営の神様として名高いが、 終身雇用と年功序列という日本的経営を根付かせた経営者ということを忘れてはならない。大正から昭和までのに日本は、クビ切りが簡単で、日本ほど会社の従業員は替わるものはないと言われていた。昭和14年に工場法が改正されるまでは、首切りはしょっちゅう見られたし、それを肯定する理論もできていた。日本の工場労働者は、農村から出稼ぎにくるものと考えられていた。景気が悪くなって解雇になれば、また元の農業を手伝えば、所得は減るが飢え死にはしない。日本人のほとんどは農村を本拠地として、出入りをしていたにすぎないとされていたのである。
そういった状況の中、昭和4・5年の大恐慌が起きたが、松下幸之助は、半日操業、全社員休日を返上してたまっていた商品の販売に取り組み、この不況をくぐり抜けたという。松下は企業が従業員に人生に責任をもつという実践を行い、首切りなしに切り抜けたという。そこで、松下幸之助は、この松下電器産業の成功によって、どの企業でも終身雇用を取り入れることはできると主張するに至った。戦前、そして戦後10年間、ほとんどの経営者は、それでもクビ切りの経営を続けたので、多くの企業で労使紛争が起こったが、その間日本経済は復興して、特に昭和25年の朝鮮戦争を契機に、松下の言う終身雇用が定着したのである。今までの農村に本拠地をおく日本経済は、戦後の高度成長の過程で、卒業後の農村の若者たちが出稼ぎ程度だったのが大量に都市に出てきたので、農山村の地域コニュニティや大家族制度が崩壊したのである。一方で、農村から企業に生活の本拠地を置くといった「企業を中心」とするコニュニティが出来上がっていった。そこでは、従業員側も全人格的に会社に帰属するという環境ができ、従業員を寮や社宅にいれて、福利厚生施設を充実させて、スポーツからお花まで趣味や娯楽までを面倒をみる。買い物は共済組合で、旅行は会社の保養施設を利用できるというような環境が整備された。いいも悪いも、いわゆる「会社人間」となる「職縁型」の社会構造を創ったのである。
終身雇用がうまく動いていく条件は、常に経済が成長し、人口が増加傾向ににあって若年労働者が増えていくことが必要である。これが平成になると賃金の高い高齢者が多くなると難しくなる。日本は平成7年をピークに若者が減少し、終身雇用は限界にきている。松下幸之助が主張して根ずかせた終身雇用・年功序列は、戦後急速な経済発展と共にうまく機能したのであるが・・・。
さて、コロナ禍の中で、リモートワークを余儀なくされて、会社に行って皆で一緒に働くということの必要性の良しあしが議論されるようになった。リモートワークに一部また戻りつつあるとはいえ、これを契機に、会社べったりの働き方はどうなのかという疑問も呈されて、全部が全部ではないが、リモートワークでは必ずしも大都市でなく地方でもどこでも働ける環境が整えられてきている。そういった企業では給料もそれなりに対応した給料ということになるだろう。また、職場で集まっていたので能力評価をうまくできたところ、リモートはこの能力評価を困難にしたといわれるが、フェイスツーフェイスから脱却し新しい人事評価制度が出来上がれば一面おざなりにしてきた評価制度が確立することにもなるだろう。また、コロナ前からではあるが、副業・兼業を認める企業も多く出てきたようだ。これも会社専従からの離脱である。また、だいぶ前からであるが、給料も高齢者になると減少・頭打ちという企業も増えた。また、正規の労働者の中でも、転勤はしないという条件の労働者もでてきた。サービス業や物流業等ではロボットを使った業務も多く出てきたところでもある。(また、最後の問題としては、転職とその際の給与の増減の議論は当然必要になる。)これらは終身雇用や年功序列からの脱却を少しづつ行っていることの証であろう。いずれにしても、終身雇用・年功序列が崩れる中で、日本的経営の良さである「企業へのロイヤリティ」を保ちながら、働き方の多様性等を考える方向になるのだろうが、果たして次世代の「働く姿」のイメージはどんなものとなるのだろうか。
参考:日本を創った12人・後編(堺屋太一) PHP新書
松下幸之助は、経営の神様として名高いが、 終身雇用と年功序列という日本的経営を根付かせた経営者ということを忘れてはならない。大正から昭和までのに日本は、クビ切りが簡単で、日本ほど会社の従業員は替わるものはないと言われていた。昭和14年に工場法が改正されるまでは、首切りはしょっちゅう見られたし、それを肯定する理論もできていた。日本の工場労働者は、農村から出稼ぎにくるものと考えられていた。景気が悪くなって解雇になれば、また元の農業を手伝えば、所得は減るが飢え死にはしない。日本人のほとんどは農村を本拠地として、出入りをしていたにすぎないとされていたのである。
そういった状況の中、昭和4・5年の大恐慌が起きたが、松下幸之助は、半日操業、全社員休日を返上してたまっていた商品の販売に取り組み、この不況をくぐり抜けたという。松下は企業が従業員に人生に責任をもつという実践を行い、首切りなしに切り抜けたという。そこで、松下幸之助は、この松下電器産業の成功によって、どの企業でも終身雇用を取り入れることはできると主張するに至った。戦前、そして戦後10年間、ほとんどの経営者は、それでもクビ切りの経営を続けたので、多くの企業で労使紛争が起こったが、その間日本経済は復興して、特に昭和25年の朝鮮戦争を契機に、松下の言う終身雇用が定着したのである。今までの農村に本拠地をおく日本経済は、戦後の高度成長の過程で、卒業後の農村の若者たちが出稼ぎ程度だったのが大量に都市に出てきたので、農山村の地域コニュニティや大家族制度が崩壊したのである。一方で、農村から企業に生活の本拠地を置くといった「企業を中心」とするコニュニティが出来上がっていった。そこでは、従業員側も全人格的に会社に帰属するという環境ができ、従業員を寮や社宅にいれて、福利厚生施設を充実させて、スポーツからお花まで趣味や娯楽までを面倒をみる。買い物は共済組合で、旅行は会社の保養施設を利用できるというような環境が整備された。いいも悪いも、いわゆる「会社人間」となる「職縁型」の社会構造を創ったのである。
終身雇用がうまく動いていく条件は、常に経済が成長し、人口が増加傾向ににあって若年労働者が増えていくことが必要である。これが平成になると賃金の高い高齢者が多くなると難しくなる。日本は平成7年をピークに若者が減少し、終身雇用は限界にきている。松下幸之助が主張して根ずかせた終身雇用・年功序列は、戦後急速な経済発展と共にうまく機能したのであるが・・・。
さて、コロナ禍の中で、リモートワークを余儀なくされて、会社に行って皆で一緒に働くということの必要性の良しあしが議論されるようになった。リモートワークに一部また戻りつつあるとはいえ、これを契機に、会社べったりの働き方はどうなのかという疑問も呈されて、全部が全部ではないが、リモートワークでは必ずしも大都市でなく地方でもどこでも働ける環境が整えられてきている。そういった企業では給料もそれなりに対応した給料ということになるだろう。また、職場で集まっていたので能力評価をうまくできたところ、リモートはこの能力評価を困難にしたといわれるが、フェイスツーフェイスから脱却し新しい人事評価制度が出来上がれば一面おざなりにしてきた評価制度が確立することにもなるだろう。また、コロナ前からではあるが、副業・兼業を認める企業も多く出てきたようだ。これも会社専従からの離脱である。また、だいぶ前からであるが、給料も高齢者になると減少・頭打ちという企業も増えた。また、正規の労働者の中でも、転勤はしないという条件の労働者もでてきた。サービス業や物流業等ではロボットを使った業務も多く出てきたところでもある。(また、最後の問題としては、転職とその際の給与の増減の議論は当然必要になる。)これらは終身雇用や年功序列からの脱却を少しづつ行っていることの証であろう。いずれにしても、終身雇用・年功序列が崩れる中で、日本的経営の良さである「企業へのロイヤリティ」を保ちながら、働き方の多様性等を考える方向になるのだろうが、果たして次世代の「働く姿」のイメージはどんなものとなるのだろうか。
参考:日本を創った12人・後編(堺屋太一) PHP新書