朝ドラ3世代のヒロインの100年ファミリーヒストリー中で課せられた「負い目」は最後は消えるの??
カムカム朝ドラの第2世代の「るい」は、額に大きな傷を負っているため、人生に恋にも前向きにならない。それは、1世代の安子が親から教えてもらった和菓子を販売し生活を支えようとする中で、小型自動車との衝突をさけようとして、リアカーに載せていた「るい」が投げ出されて負った傷であった。安子は戦後の動乱期の中、るいを育てようとして、やむなくそのような生活をしていたのであり、そのことは安子に全く責任はないように思う。しかし、第1世代の安子の思い・生活は、2世代の「るい」の額の傷とともに、「るい」の人生の考え方にも影響を与えた。今の世の中、個人個人で生きていくというのは常識であるが、実際には、どうしても家族と個人とは切り離せないものがある。最近よく言われるその家庭の裕福と子の教育の水準には、正の関係があるというのもそうだ。ともかく、「るい」にとって、額の傷は、生活に前向きにとらえる際に、劣等感となり引け目を感じるものだった。
ここにいる彼にとっての劣等感は、運動音痴であったが、それは社会と全く疎遠となったリタイアーするまで、常に意識し続けなければならないものだった。
それは小学3年生頃の跳び箱事件。今は体育の授業は専門の教師がいるようになったようであるが、そのころは全教科を一人の教師が見ていた。こちらの段を飛べたら次の段というように2種類の跳び箱を同時並行的に行っていた。そして上位ランクに教師は付いていたが、いかんせん彼の場合は下位ランクの跳び箱でもガタンと跳び箱に引っ掛かり跳び箱の下敷きになったのである。それから、教師から彼は跳び箱はもうやらなくていいといわれ、見学となったのである。今思えば、教師が一人、しかもなんでも教えなければならない当時の教育にも問題があるのはわかっているが、うまく技術的にも指導してくだされば、こんな劣等感になることはなかったように思う。また、運動会で、団体競技の際にできなくて団員に迷惑をかけたが、そのこと自体よりも、親子という皆が見ている前でできなかったという劣等感がさらに大きくなったように思う。
中学時代の東京オリンピックの開催では、テレビで体操競技をやっており家族全員で見ていた際に、母からお前はなぜ見ないんだ、だから運動ができないんだと叱られた記憶がある。ここで一言、母も多分口には出さなかったが、母自身運動嫌いの面はあったのかもしれない。彼は、スポーツを見ることとやることとは違うんだとは思っていたが、それでも、運動音痴の劣等感の認識は、その事案からさらに拡大したように思う。
このように、運動音痴の認識は、教師や家族などの言動から、本人たちは認識はないのかもしれないが、より深まるのではないか。教師や家族は、知識や知恵を教える存在であると同時に、「劣等感」の意識をより植え込む存在になり得るものだと彼は実感した。身近な存在が、劣等感をたたきこむ存在になるというのは、これはもうたまらない。要するに、知識・知恵を教わると同時に、そういったプラス面だけではなくて、マイナスの遺産というべきものをも、時には全人格的に受け継ぐこともあるのではないかと思う。
社会に出て行けば運動音痴を自覚する機会はないだろう思った彼だったが、さにあらんや。社会に出てからも、その彼の運動音痴はさらなる影響を与えたのである。最初の職場のときに、課長が言ったことば「君、スポーツは自信ある?」だった。聞けば職場対抗でバレーボールをやるのが習わしで、活躍できるかを聞いたのだった。彼の世代は団塊の世代の終わりごろで「24時間戦えますか」の時代で体力勝負の時代だった。そのこともあってか、スポーツができることは、今以上に、スポーツで培ったリーダーシップを持ち仕事ができるという評価をもらえる時代でもあったように思う。
(できない者はどうするかであるが、飲みケーションを図り、そこでの団結を重視する時代であったように思う。彼は初めは飲みケーションにさかんに参加してしていたが、40代ごろになると体力の限界を感じるようになり、不参加となったのである。)
今、リタイアーした彼は、このことについてどう思っているのだろうか。運動音痴なり「劣等感」は誰しも持っている者であろう。人と付き合う以上、劣等感は常に付きまとう。だから、ウイズ劣等感で一生付き合うしかないのかな、そしてそうである以上、「覚悟」をもって、自分はそんな人間であるというでうまく対応するしかないのだと思う。しかし、リタイアーするまで、その覚悟がなくて、ふらふらしてきたのが、今の人生であったように思う。
リタイアーした今は、人と付き合う必要もなく、本当に劣等感を感じることもなく、劣等感からは解放された生活が送れている。この意味、本当に今は幸せである。
朝ドラのヒロイン「るい」の額の「傷」はいつなくなるのだろうか。また、これらのファミリーに課せられた負い目は、第3世代の「ひなた」まで続いていくのだろうか。また、そのわだかまりみたいなものは、この100年の物語・3世代の中で、解決しているのだろうか。
カムカム朝ドラの第2世代の「るい」は、額に大きな傷を負っているため、人生に恋にも前向きにならない。それは、1世代の安子が親から教えてもらった和菓子を販売し生活を支えようとする中で、小型自動車との衝突をさけようとして、リアカーに載せていた「るい」が投げ出されて負った傷であった。安子は戦後の動乱期の中、るいを育てようとして、やむなくそのような生活をしていたのであり、そのことは安子に全く責任はないように思う。しかし、第1世代の安子の思い・生活は、2世代の「るい」の額の傷とともに、「るい」の人生の考え方にも影響を与えた。今の世の中、個人個人で生きていくというのは常識であるが、実際には、どうしても家族と個人とは切り離せないものがある。最近よく言われるその家庭の裕福と子の教育の水準には、正の関係があるというのもそうだ。ともかく、「るい」にとって、額の傷は、生活に前向きにとらえる際に、劣等感となり引け目を感じるものだった。
ここにいる彼にとっての劣等感は、運動音痴であったが、それは社会と全く疎遠となったリタイアーするまで、常に意識し続けなければならないものだった。
それは小学3年生頃の跳び箱事件。今は体育の授業は専門の教師がいるようになったようであるが、そのころは全教科を一人の教師が見ていた。こちらの段を飛べたら次の段というように2種類の跳び箱を同時並行的に行っていた。そして上位ランクに教師は付いていたが、いかんせん彼の場合は下位ランクの跳び箱でもガタンと跳び箱に引っ掛かり跳び箱の下敷きになったのである。それから、教師から彼は跳び箱はもうやらなくていいといわれ、見学となったのである。今思えば、教師が一人、しかもなんでも教えなければならない当時の教育にも問題があるのはわかっているが、うまく技術的にも指導してくだされば、こんな劣等感になることはなかったように思う。また、運動会で、団体競技の際にできなくて団員に迷惑をかけたが、そのこと自体よりも、親子という皆が見ている前でできなかったという劣等感がさらに大きくなったように思う。
中学時代の東京オリンピックの開催では、テレビで体操競技をやっており家族全員で見ていた際に、母からお前はなぜ見ないんだ、だから運動ができないんだと叱られた記憶がある。ここで一言、母も多分口には出さなかったが、母自身運動嫌いの面はあったのかもしれない。彼は、スポーツを見ることとやることとは違うんだとは思っていたが、それでも、運動音痴の劣等感の認識は、その事案からさらに拡大したように思う。
このように、運動音痴の認識は、教師や家族などの言動から、本人たちは認識はないのかもしれないが、より深まるのではないか。教師や家族は、知識や知恵を教える存在であると同時に、「劣等感」の意識をより植え込む存在になり得るものだと彼は実感した。身近な存在が、劣等感をたたきこむ存在になるというのは、これはもうたまらない。要するに、知識・知恵を教わると同時に、そういったプラス面だけではなくて、マイナスの遺産というべきものをも、時には全人格的に受け継ぐこともあるのではないかと思う。
社会に出て行けば運動音痴を自覚する機会はないだろう思った彼だったが、さにあらんや。社会に出てからも、その彼の運動音痴はさらなる影響を与えたのである。最初の職場のときに、課長が言ったことば「君、スポーツは自信ある?」だった。聞けば職場対抗でバレーボールをやるのが習わしで、活躍できるかを聞いたのだった。彼の世代は団塊の世代の終わりごろで「24時間戦えますか」の時代で体力勝負の時代だった。そのこともあってか、スポーツができることは、今以上に、スポーツで培ったリーダーシップを持ち仕事ができるという評価をもらえる時代でもあったように思う。
(できない者はどうするかであるが、飲みケーションを図り、そこでの団結を重視する時代であったように思う。彼は初めは飲みケーションにさかんに参加してしていたが、40代ごろになると体力の限界を感じるようになり、不参加となったのである。)
今、リタイアーした彼は、このことについてどう思っているのだろうか。運動音痴なり「劣等感」は誰しも持っている者であろう。人と付き合う以上、劣等感は常に付きまとう。だから、ウイズ劣等感で一生付き合うしかないのかな、そしてそうである以上、「覚悟」をもって、自分はそんな人間であるというでうまく対応するしかないのだと思う。しかし、リタイアーするまで、その覚悟がなくて、ふらふらしてきたのが、今の人生であったように思う。
リタイアーした今は、人と付き合う必要もなく、本当に劣等感を感じることもなく、劣等感からは解放された生活が送れている。この意味、本当に今は幸せである。
朝ドラのヒロイン「るい」の額の「傷」はいつなくなるのだろうか。また、これらのファミリーに課せられた負い目は、第3世代の「ひなた」まで続いていくのだろうか。また、そのわだかまりみたいなものは、この100年の物語・3世代の中で、解決しているのだろうか。
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