人生は情報を駆使しても最後に動かせない「運」がある?!<神との対話・生きがいの創造・斎藤一人から>
池井戸潤原作の小説をドラマ化した「アキラとあきら」。大手海運会社東海郵船の創業家の長男である階堂彬(あきら)は一家を背負う期待を一身に受けながら育ち、一方の山崎あきら(「あきら」は「王」編に「英」と漢字で書く)は、倒産した零細企業の元社長の息子として全く違う生まれと育ち方をするが、彼らはメガバンクの産業中央銀行の実務を想定した初任者研修で出会い、そこで伝説ともいえる成績を残した両名である。そして、日々の銀行業務の中で苦労しながらも業績を上げていく2人。銀行の本命ともいえるのは、融資相手の会社の将来性を見抜くことに尽きるのだが、その中でどうしてもその会社の資産や経営能力だけでない、どうしようもないところのもの「運」を取りあげている。彼の作品は、実社会の中で「情報」を十分に見極めていくタイプのものが多いが、それをもってしても動かせないものを、彼はそれを「運」と言っているようなのだ。それもこのドラマでは、よく出てくる言葉なのだ。池井戸氏が実際の世界において、努力だけでない運が作用することを見てきたからなのだろう。
この「運がいい」とか「運が悪い」とかいうが、この「運」って何だろう。「神との対話」(Nウォルッシュ著、主にp69~)における神は言う。あなた方からすれば、出来事等としての「結果」はあなた方が意識的に選んだわけではないと思っているかもしれないが、すべてあなた方の意識の選択の結果として起こっているという。しかし、世界には、どう考えてもあなた方が引き起こしたと言えない事案も起こっているが、これは、人々の意識の総体・集合体(=集合意識)として創造されるものなのだ。あなた方は、集団として、また個人として、魂の発達という目的に向かって、自分たちの人生と時を創造しているのだ。
ここで自分が「悪い」と思える結果(出来事)も、しかりである。あなた方が 間違っているのは、そのことを選んだことではなくて、それを「悪」と呼ぶことであるという。運が悪いとはこのことであろう。そこで、その出来事から生じる苦痛を減らすことは出来るのか。出来事やそれからもたらされるあなたの経験は、どうあがいても結果は同じであり、結果そのものは変えられない。これらから感じる苦痛を減らすには、結果としての出来事の「受け止め方」を変えるしかない、内的な「経験」を変えるしかないという。これが生きることの王道であるとする。
「完全版生きがいの創造」(飯田史彦著、主にp377~p666~)では次のように言う。常識的に分かるのは、人生において「常に、より愛のある、創造的な選択をしていくこと」こそが、最も理想的な選択肢を選ぶ続ける鉄則であろうと説いている。そして、選択の結果、自分の思ったような展開ではなくても、「あせらないで、起きたことを受け入れること」が人生を順調に生きていくうえで、必要なテクニックであるというのだ。実は、事故、病気、又は挫折等(運がないと思えるようなこと)であっても、それは自分を成長させる修業課題としての順調な試練であって、あらゆる出来事や人間関係に深い意味付けをそれに感じて、それを乗り越えていくことが自分(の魂)を成長させることにつながるのだという。しかも、その時々のその人の成長に応じて、試練が生じるため、乗り越えられない壁はないのだともいう。
齋藤一人氏(ツキを呼ぶセラピーp96・97)は、根本的にはその意味は同じであろうが、以上述べたことを簡単に分かりやすいく日常生活に沿った形で述べている。「どんなに実力をつけても、努力しても、運に勝つことはできません。運は天が与えてくれるものだから。天とケンカしても、人は天に勝つことはできないでしょ。」 そして、「人間だれでも平等に今日から明日へとは運ばれているのですから、運がないというのは違います。運ばれているということ自体、運があるんですから。ただ、運に勢いをつけることができるか、できないだけ。運がないと嘆く前に、人の倍ぐらい働いてごらん。いま、やっている勉強でも仕事でも、これまでよりスピードをアップしてみるの。・・・難しいことを考えないで、自分がすぐできることから始めてみればいいんです。」と言う。
注意:「ツキを呼ぶセラピー」(斎藤一人著)は、そのまま引用している。「神との対話1」(Nウォルッシュ著)、「完全版生きがいの創造」(飯田史彦著)においては、私なりの解釈で要約しているため、原文とは違っているかもしれないので悪しからず。(「神との対話」においては、日本語訳が分かりにくいのはわたしだけであろうか?)
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