寝る前に新約聖書を読んでいる。別に信仰もためではない。西暦30年から60年ぅらいの間に書かれた書き物として読んでいる。旧約聖書は「ヨブ記」を読んでいるだけである。
マタイによる福音書を読み、マルコによる福音書、現在はルかによる福音書の途中である。ルカという作者はマタイやマルコが書いていないところも書き、重複が少ない。
神と病気を治す奇跡をのぞけば、しっかりとした小説のようである、当時の世は戦争が絶えることなく、民は虐げられ、貧しかったのだろう。そんなこと思っていた。興味深いもは、イエスはモーゼだけは信じていたようである。それはまさに親鸞が法然上人だけは全面的に信じていたのとよく似ている。およそ自分の宗派をもとうなどとつゆほどにも思っていない親鸞であった。イエスhより積極的に12使徒を派遣し、普及に努めることを促した。
モーゼとは一体どんな男なのだろうと思っていた。
すると、ちょうど借りたDVDがリドリー・スコット監督作品で「エクソダス」という映画の主人公がモーゼだった。まさかという偶然に喜んだ、有名な奴隷となって虐げられヘブライ人がエジプトを脱出する旧約聖書「出エジプト記(エクソダス)」を映画にしたものである。スコット監督お解釈が当然入っている。旧約聖書でどう書かれているのか知らないので、これは旧約聖書も読まねばと思ったのだった。
BC1300年。300年に渡るヘブライ人の奴隷生活が終わる時。ヘブライ人という呼び名はエジプトの他民族がそう呼び、イエス・キリストはイスラエル人と呼んだ。
同じ神を崇めるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は現代においても人類が解決しなければならない問題として残っている。
聖書を読んでいて思うのは、書き物、いわば文学・思想として以後これに勝るものが出て来なかったことだ。インドではブッダ、中国では孔子がでているが、ヨーロッパではコペルニクスやダーウィンのような科学の登場とその理解を待つまでイエスに代わるものは出なかった。中東地域ではモハメットが戦争の中でイスラム法典の啓示を受けた。
キリスト教は世界の隅々にまで果敢な布教を行った。アフリカ、南アメリカ、アマゾンの奥地にまで、アジアの東果てまで布教に努めた。
生産力が上がり、人間が経済的に豊かになるにつれて宗教色は薄まっていくのも事実であるが、宗教色が薄まった地域でさえ、国民国家という宗教変形が現れ、いまも強固にそれは存在している。
ホモ・サピエンスのみが人類の中で原始宗教を作り出した。集団を大きくして、生物界を生き延びていくためである。この共同幻想にのちの人類は囚われることになった。
AI だ、ロボットだ、IoTだという現代においてなおも、である。
ぼくの観念の中には「信仰」というものがない。人類にとって宗教を放棄する日がくるのだろうか。インドネシアのバリ島では人々は輪廻転生を信じ、日常的に敬虔な宗教に基づいた生活を当たり前のように送っている。それは村落共同体を観光産業から必死に守り抜こうとしているようにも見える。そして宗教そのものがうまく観光地化されているようにも思えるのだ。生活は慎ましい。多くを望めない。ゆったりとして現世を神とともに生きている。
日本人のように働き過ぎない。日本人ほど多くのものをもたないが、完璧さに囚われず、隙間を残しながら生きているようにも見える。
宗教は貧しさの中で生まれ、意識を共有させることで集団を守る。ぼくなどは「死んだら死にっきり」と思っているから、それは人類にとっては不遜なことなのだろうか。自分には本当に信仰心はないのだろうか。今のところいくら考えてもわからないのである。
マタイによる福音書を読み、マルコによる福音書、現在はルかによる福音書の途中である。ルカという作者はマタイやマルコが書いていないところも書き、重複が少ない。
神と病気を治す奇跡をのぞけば、しっかりとした小説のようである、当時の世は戦争が絶えることなく、民は虐げられ、貧しかったのだろう。そんなこと思っていた。興味深いもは、イエスはモーゼだけは信じていたようである。それはまさに親鸞が法然上人だけは全面的に信じていたのとよく似ている。およそ自分の宗派をもとうなどとつゆほどにも思っていない親鸞であった。イエスhより積極的に12使徒を派遣し、普及に努めることを促した。
モーゼとは一体どんな男なのだろうと思っていた。
すると、ちょうど借りたDVDがリドリー・スコット監督作品で「エクソダス」という映画の主人公がモーゼだった。まさかという偶然に喜んだ、有名な奴隷となって虐げられヘブライ人がエジプトを脱出する旧約聖書「出エジプト記(エクソダス)」を映画にしたものである。スコット監督お解釈が当然入っている。旧約聖書でどう書かれているのか知らないので、これは旧約聖書も読まねばと思ったのだった。
BC1300年。300年に渡るヘブライ人の奴隷生活が終わる時。ヘブライ人という呼び名はエジプトの他民族がそう呼び、イエス・キリストはイスラエル人と呼んだ。
同じ神を崇めるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は現代においても人類が解決しなければならない問題として残っている。
聖書を読んでいて思うのは、書き物、いわば文学・思想として以後これに勝るものが出て来なかったことだ。インドではブッダ、中国では孔子がでているが、ヨーロッパではコペルニクスやダーウィンのような科学の登場とその理解を待つまでイエスに代わるものは出なかった。中東地域ではモハメットが戦争の中でイスラム法典の啓示を受けた。
キリスト教は世界の隅々にまで果敢な布教を行った。アフリカ、南アメリカ、アマゾンの奥地にまで、アジアの東果てまで布教に努めた。
生産力が上がり、人間が経済的に豊かになるにつれて宗教色は薄まっていくのも事実であるが、宗教色が薄まった地域でさえ、国民国家という宗教変形が現れ、いまも強固にそれは存在している。
ホモ・サピエンスのみが人類の中で原始宗教を作り出した。集団を大きくして、生物界を生き延びていくためである。この共同幻想にのちの人類は囚われることになった。
AI だ、ロボットだ、IoTだという現代においてなおも、である。
ぼくの観念の中には「信仰」というものがない。人類にとって宗教を放棄する日がくるのだろうか。インドネシアのバリ島では人々は輪廻転生を信じ、日常的に敬虔な宗教に基づいた生活を当たり前のように送っている。それは村落共同体を観光産業から必死に守り抜こうとしているようにも見える。そして宗教そのものがうまく観光地化されているようにも思えるのだ。生活は慎ましい。多くを望めない。ゆったりとして現世を神とともに生きている。
日本人のように働き過ぎない。日本人ほど多くのものをもたないが、完璧さに囚われず、隙間を残しながら生きているようにも見える。
宗教は貧しさの中で生まれ、意識を共有させることで集団を守る。ぼくなどは「死んだら死にっきり」と思っているから、それは人類にとっては不遜なことなのだろうか。自分には本当に信仰心はないのだろうか。今のところいくら考えてもわからないのである。