25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

あと一日

2017年08月11日 | 日記

 明日で娘の一家が東京に帰る。やれやれくたびれた。なにもかも明日まではあきらめた。なんといっても孫たちが主役であり、姉と弟のいさかいの喧しさも、明日までである。明後日から静かなルーティーンが再開する。

 この二週間、天気のよい日は一日だけだった。佐伯啓思の「さらば、民主主義」を読んでいる。民主主義は絶対の善ではなく、ヒトラーを産み出すのも民主主義の過半数をとる、というルールである。

 日本の民主主義には共和主義の思想が入っていない、と説くがこの人は論理をこねまわしているように見える。世界は複雑で、真理などだれにもわからない、という。政治家たちはソフィスト同然だという。そして、なにを言いたいのか、今夜から最終章に入る。

  孫がみるものを見た。その中に「ビジュチューン」というEテレビ番組があった。美術と音楽を工夫凝らして、子供らみ伝える。わずか5分だがアイデアに富んでいる。いつも思うことだがEテレビはすごい。「英語であそぼ」もついにフォニックスを教えるようになった。この点では今になってかあ、という感がある。フォニックスが広まるまで約30年かかった。

 なんと新しいということは時間がかかるものか。

 


二冊の本を読み終える

2017年08月07日 | 社会・経済・政治

 ようやく村上春樹の「騎士団長殺し」を読み終えて、良かったとも思えず、さりとて悪かったとも思えず、よくある村上の「通り抜けの技」そのものの小説だった。夢物語奇譚であった。と同時に河合雅司の「未来の年表」を読み終えた。このままの愚策が続くと、人口減少に歯止めがかからず、2042年には少子高齢化問題がピークを迎える。政府は2025年問題と位置付けている。それもあるが、2042年が恐ろしい。

 空き家が3軒に1軒。まだらのように老人が散在し、2人に1人が高齢者である。輸血用の血液も不足する事態にそろそろなりつつある。東北に高い堤防など作っている場合ではない。

 日本国家の適正人口を策定し、豊かで、キラリと光る国家を作るのか、このままだらだらと戦後のように経済成長を目指していけば、その先に何が待ち受けているのか、僕らは真剣に「縮小社会」を考えていかなければならない。一億二千万人という人口は日本列島には多すぎるのだと思う。

 外国人単純労働者を雇い入れることよりも、過剰な便利さを止めたほうがいいのではないかと思う。コンビニの照明は明るすぎ、二十四時間営業も必要はない。時間内指定の宅急便も必要がないように思える。過剰な包装も要らない。携帯電話も5000円くらいで済ませることも可能だ。残業は禁止でもよい。教育に力を入れて、付加価値の高い技術開発、ブランド力をつける。

 尾鷲市は2040年ほどで、ほぼ市としての機能が破綻する。これを避けるにはやはり尾鷲市も適正人口を設定し、その維持の方法を模索する。浦村はほぼ限界にきているから、買い物難民となっている浦村は非居住地域に指定し、市街地に居住地域を作るくらいの大胆な発想が必要である。

 災害列島である日本列島。そこに住む我々。具体策はいくらでもある。それを市議、市長が市民からの声をこれまでと違ったやり方で吸い上げるのがよいと思う。考えている人はいるものだ。

 ただしかし現在の国会議員にはさほどいないように思われるが。

 台風が来ている。また今回も尾鷲は難を逃れそうである。大雨が降っているが、雨にも強いのも尾鷲市の強みだ。

  


喧騒から逃げる。

2017年08月04日 | 日記

 息子家族、娘家族が時期を重ねてやってきて、家は喧騒で、ぼくはどうしたらよいかわからず、今日はさすがに逃げて一人マックにきた。マックも子供や中学生たちもいるが、それは気にもならず、一人の世界に入ることができる。関係性の意識が家のものとマックお客とではまったく違う観念の領域が働くのである。

 子供たちがきてから毎日天気が悪く、家の中にいるしかなかった。貝採りにも行く予定だったが、叶わず、今夜も港祭りはどうやらセーフそうである。奄美大島や鹿児島では50年ぶりの大雨ということで、たいへんそうである。紀伊半島は今のところ大丈夫そうだ。

 葬式の仕方を言い残しておいた。ぼくも妻も仏教葬式はしない。家族で自由葬式であるが、棺、火葬場までの車、ちょっとした写真や花などの置き場は業者に頼む。墓は不要で、パソコンにデータを残す。写真、好きだったもの、

このデータをクラウドに残す。

 これが一番すっきりだろうと思う。まだ生きるであろうが、そんなことを話すチャンスがあった。

 孫たちが50歳になるにはまだ45年ある。未来の年表をみていると、この間に相当な混乱がありそうである。遠い、遠い未来のことだが、振り返ってみれば45年などすぐである。

 コーヒーを飲んで、漸く、鎮まったような気がする。子育て中の娘たちもたいへんだが、この子ものんびりしたいだろうから、僕ら親ががんばらないといけないのだが、やっぱり耐え切れないのである。

 


日本の一番長い日

2017年08月03日 | 映画

 1967年に制作された「日本の一番長い日」を息子がDVDで持ってきて、それを見た。ひと昔前見たことがある。二時間半もある長いドラマだった。

 今の歳になって映画を再びみると、見方も違ってくる。前に見たときはきっと「昭和史」もおぼろげにしか知らなかったのだと思う。

 阿南陸軍大臣の苦悩と若手陸軍将校のクーデター決行が主な物語となっている。閣議はポツダム宣言受諾も決められず、結局天皇陛下に聖断を仰ぐ。情けない話である。

 僕はこの8月15日に「明治という時代」が終わったのだと思った。外国からの侵略を阻止するべく江戸幕府を倒し、中央集権により西洋式近代化を図った。天皇に大権を与えた。統帥権なるものもあった。軍は文民統制ではなかった。軍部は肥大化、強権化した。軍部の大臣が辞任すると内閣が解散せざるをえなくなった。この制度が昭和20年の8月15日で終わった。この馬鹿らしい制度を連合軍が解体してくれた。日本人であるならできなかったであろう農地解放、財閥解体も行った。戦犯も特定された。

 本土決戦を叫ぶ青年将校の気分はおそらく今の極右の思想に流れ込んでいるにちがいない。天皇を元首として大権を与え、国民は臣下となる。明治憲法に戻そうと唱える元生長の家原理主義の人たちは一度アメリカが押し付けた憲法を否定して、いったん明治憲法に戻し、新たな憲法を作ると考えているようだ。生長の家の創始者谷口雅春の思想はウィキペディアでもわかる。この谷口正春に心酔した人たちによる「生長の家本流運動」の人物たちは学生運動で左翼から学生自治会を取り戻すことに成功した長崎大学、それに影響された若者たちが今も運動をコツコツとこまめに戦略的に行っている。安倍昭恵のような何もわからない不勉強な女性が籠池の小学校の名誉園長などに名を連ねたのである。籠池夫妻もこの生長の家本流運動家である。

 僕に言わせれば、谷口は戦犯である。戦争を煽り、戦争協力に邁進し、多くの人を死なせ、データの分析もできず、精神論だけで太平洋戦争に突入してしまった陰の重要人物である。

 もうひとつ思ったことはこの8月15日以降、近衛文麿の自殺によって実質的に藤原氏が終わったことである。脈々と天皇のそばで生きてきた藤原氏は終わったと言える。2015年版の「日本の一番長い日」はどんな風に作られているのだろう。コツコトと運動を重ねる生長の家本流運動の影響がなければよいが、と思う。

 稲田朋美の辞任の様はなんだ、と思う。これでは極右も天下はとれない。安倍を担いで、今が精一杯ということだろう。

 日本は憲法問題などが喫緊の課題なのではない。「未来の年表を見ればわかる。そこには戦後の大衆の流れ(動き)がはっきりと示されている。

 


便秘

2017年08月01日 | 社会・経済・政治

 このまま、森友問題も加計問題も、防衛省隠蔽問題もヤモリも尻切れのようになってしまうのだろうか。

 田原総一朗がなにやら安倍首相に提案したらしい。要らぬ節介するなよ、と言いたくなる。ぼくは「日本会議」や「日本政策研究センター」、「日本青年協議会」には未来を託すわけにはいかないのだ。

 便秘になったような感じですっきり感がない。籠池氏の復古主義にはうんざりするし、元生長の家原理主義にもうんざrりする。これらを代表するような稲田議員の辞任後の態度にもぼくは相当違和感を感じる。日本の伝統文化というのはこれほど潔さがないものか。閉鎖中審査も拒否。あったのは勇ましい言説だけである。

 首相の人脈を忖度、斟酌しなければならない政治とは一種の独裁でもある。

 この国の精神とは何なのか。明治の近代化は昭和の戦争で崩壊した。戦後の精神とは何であるか。右派は平和ボケと勇ましく言う。勇ましいほど浅ましいことも僕らは知っている。

 北朝鮮電撃訪問で点でも稼ごうとするのか。それで支持率が上昇したら、今度は憲法改正ということか。