25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

尾鷲市、特区の申請はできないのか

2018年07月17日 | 社会・経済・政治
尾鷲市は大きなイベントがあるとホテルや旅館の数が少なく宿泊の対応ができない。民泊新法ができたものの、これは都市型であり、外国人旅行客が念頭に置かれて作られたものだと思う。
 この民泊新法を尾鷲のような消滅都市として予想される市では、市のやる気が必要である。民泊制度をうまく活用できれば熊野古道客や海水浴客、釣り客、田舎暮らしの別荘へもアプローチができるのであるが、この民泊新法では不可能である。空き家がもったいない。民泊は一業者一家しかできない。一業者が複数家できるとなればこれは事業として成り立つのである。これは空き家活用の話。
 現にぼくが行っている民泊ではみな主婦の店で食料などを調達しているから消費にも少々は貢献しているわけである。これが十も二十も増えれば、大きなイベントにも対応できるだろうし、海外からも巡礼の道として旅行客がくることだろう。現に熊野古道にはスペイン人などヨーロッパからの巡礼客も増えている。

 尾鷲市は極度の高齢化社会になっているからいずれ白タク解禁、タクシー相乗り解禁、巡回ミニバスがくるくると走る交通整備をする時がもう来ている。

 幾つかの優先的な項目を上げて特区申請ができないものか、と思う。バイオマス発電は発電量は小さいからそれを電源として水素による発電所ができるようにするとか、
 浦村のご老人には市街地の便利なところに高層のマンションを建てて集中的に移住してもらうとか、何か策が必要である。魚や林業などでは人口が増えるはずもない。

 マンガ、イラスト、プログラミングができる人材を市役所が雇い、特別チームを作って起業家支援を行うと面白い。このITの時代に起業はいくらでもできるはずだ。
 

 

鰻食べて精をつけて

2018年07月16日 | 日記
暑いので精をつけようと鰻を食べて、待ち遠しかった「人類誕生3」を見て、いざジョコビッチとアンダーソンのウィンブルドンテニス決勝戦を見た。あれ、決勝戦らしくない。5セットすることもなく3セットであっさりとジョコビッチが勝った。錦織はジョコビッチから1セットは取ったのだからたいしたものだ。

 バドミントンも日本が強い。桃田のプレイには感心しまくる。
卓球、バドミントンは世界最高水準だと思う。テニスも選手生命が伸びている。男女とも優勝が30歳を越えている。スポーツ科学の進展も影響しているのだろう。

 大相撲では安美錦が昨日で6勝2敗。39歳である。豪風も元気に取っている。
 さて、わが体と言えば、草刈りをするだけでヘトヘトである。家の裏側の壁におそろしいほどの蔦が生えていたので、それを取り除いた。息子の部屋を見るのも久しぶりだった。去年エアコンが故障していたのを思い出し、早めに買い換えしておかないと思い、彼の部屋をチェックしたのである。すると窓も、網戸も室外機も蔦で被われている。これを取った。引っ張り、チョキチョキ切り、むしりとる。
 次の日は金魚の水槽の掃除、水の入れ替えをした。2槽あるので、約2時間かかった。外で飼っていつので水こけがよくつく。
 この前庭の草刈りをしたばかりなのにもう草は伸びている。
 百合が今回はいっぱい咲いた。これを地植えにしてしまおう、桔梗も、と思いながらやっていない。これをして、藤棚ができるように藤の蔓に糸で誘導したいと思っているが、それもまだしていない。
 暑さは長くなりそうだから、涼しくなるのはいつになるかわからない。東京オリンピックなどできるのだろうか。
 実家の庭木や草が茂っている。母親が元気なころは自分で草刈りや剪定をしていたのだろう。これもやらねばな、と思い、母に鰻重を届けたのだった。
 

大衆というもの

2018年07月15日 | 文学 思想
三十年前の日本は一億総中流社会と言われていた。企業の社長でいまのような報酬をとっていなかった。なんとか持ちこたえてきた90%中流社会が崩れ始めたのは古泉政権からである。この中流層がもっとも消費が活発であった。お金持ちだからと言って消費を活発にするとは思えない。靴にしろ、衣類にしろ、限度がある。この中流社会が崩れてきたとき、生活基準を落とさないために、女性が動員された。それに残業が延長された。帰宅が遅くなり、女性も働くとなれば犠牲になるのは子供である。
 一億総中流社会は続かなかった。中流から下へ落ちてしまう。あるいは突然中流から上へ行く者もいた。

 残業が伸び、女性が働いても消費が上向かない。日銀も諦めた。また消費税が2%上がったら、実質賃金がまた減る。当然生活防衛を国民はする。消費は遅れた生産である。消費が落ちれば生産も落ちる。悪い循環入ってしまった。賃金は上がらないといけないのだ。

 年金カットがささやかれ、働ける老人まで動員してなんとか日本社会を維持させようとしている一方で株で儲ける人もいる。
 医療費負担をあげ、介護保険料も年々上げていく。医学は発展しているように見える。いったいぼくらは幾つまでいきて、どのくらいのお金を貯金しなければならないのか、真面目に生きる人は考えてしまうだろう。

 さて話を変えよう。
 使わなくなった漁船を放りぱなしにして、それが賀田湾の一角にかたまるようにして積んである。無責任そのものである。車も捨ててある。これを税金で撤去することになると、撤去費用は船の持ち主を探しだして、お金儲けを請求するのが筋だろう。
 このように無責任に生きていても、行政の保護があり、廃船が税金で処理される。こういうことには愚かな者と腹が立つ。しかし、まったく知らぬ存ぜぬでやっていけるのでもある。赤信号、みんな渡れば怖くない、だ。
 弱いものは弱いと開き直って、保護を訴える。
 こういう振る舞いと生活の基準を落とさないため必死さで、日本が沈んでいく。 
 
 大衆というのはこのくらいの無責任さはへっちゃらでやり過ごすのだ。大衆と政府インテリ側との闘いは未来永劫に続くのだ。政府側は権力振りかざすこともある。へつらうこともある。大衆が怖いと思うときもある。大衆をなめきる場合もある。

 大衆はどんなことをしてでも生きていく。簡単に虫のように殺されもする。それが大衆だ。
 

 

インターステラー

2018年07月14日 | 映画
 もう相撲についてはあきれて言うことなし。怪我について真剣に考えなければならない時期がきている。今のところ、優勝候補は、御嶽海、遠藤、豪栄道といったところか。
 今年の夏は暑い。尾鷲で30度、せいぜい31度という記憶しかないが、連日不快な暑さが続いている。
 ぼくは室温25度くらいがちょうどよく、26度になると汗がでてくる。以前は27度で汗がでたのだが、今年は26度である。細君は26度がよいらしい。エアコンの温度の取り合いもイヤなので、扇風機を取りだし、夫婦間のバランスを取っている。
 テレビの音もそうで、ぼくは18くらいがちょうどよく、細君は17くらいのボリュームである。ぼくは17で我慢し、一人で見るからにときは18、19にする。
 
 テレビや映画の好みも違っていて、昨日は一人で「インターステラー」という超大作、人類滅亡の危機から始まり、ブラックホールの中に入り込んで銀河系を抜けて、人類が生きられる惑星を探し、人類の受精卵を運ぶ使命をもつラザロ計画に参加する主人公とその娘の壮大で、深遠で、複雑で最後はシンプルな救世主登場で終わる話である。いたるところでキリスト教的発想が出てくる。死んだ男がキリストによって甦った男の名はラザロであった。主人公はヨハネからの名前であった。どうやら誰も解けなかった方程式を解いたのは娘だった。彼女は異次元にいる父からの重力のに関するデータを三次元にいる娘に父が愛を込めて贈った腕時計にモールス信号を認めたおだった。娘は神の子となった。そして人類は土星に移住した。
 最後は愛の力を信じた。
 ああ、こういう風に脚本家や監督にも染み渡っている意識が無意識にでてくる言葉は大和言葉であるはずもない。あるとすれば多くは聖書言葉であり、その反語である。
 人間が宇宙を探索する。物理学、数学を用いる。しかし謎は残る。その謎の向こうに神がいると詭弁する。
 クリストファー・ノーラン監督。1970年生まれ。若い監督である。
 
 

宗教

2018年07月13日 | 文学 思想
 また聖書について書かせていただく。
 聖書、および聖書関連の本を読んでいて、旧約聖書はラテン語(古代イタリア語)で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれた。イエスキリストの時代、ラテン語など読める人はほんの少数であり、ギリシャ語を読める人もほとんどいなかっただろう。確か1800年代で識字率は2割ほどではなかったか。(これは確かではなく、記憶に頼っているから間違っているかもしれない)西暦100年や200年の時期に文字が読めた人は特別な貴族か司祭などの人だろう。
 キリスト教を広めるのに布教者は聖書を読んで聞かせた。そしてその布教者は聖書の言葉以外ににも付け足しを言ったことだろう。カトリック教会はラテン語を他の言語に翻訳することを許さなかった。なんだか今のイスラム教と似ている。
 やっとマルチン・ルターがドイツの出て来て、ドイツ語に翻訳され、さらに印刷技術の発明により、聖書は個人でも持てる時代がきた。

 教会の神父から聞いていたことと聖書の内容を自分の目で読んだときとどのくらいの差があったのだろう。

 この話は浄土真宗の話と似ていて、仏教を解体してしまった親鸞の著書は確か蓮如が持っていた。これを隠すように持っていたのではないかと思われる。ここからは想像だが、布教者と同じように、蓮如が親鸞の言葉を持ち、人々に呼び掛ける。そして教団を作っていった。浄土宗から離れ、浄土真宗とした。教祖を親鸞とした。もうすでにこの世にいなかった親鸞は何を言うこともできない。「墓など要らない」と言った言葉はもう使われなかったのではないか。

 キリスト教も浄土真宗も、イエスや親鸞が死んだあとに、パウロや蓮如のように広める人が出て来る。そしてやがて、弱者や病人や困窮者の人々のためであったものが、権力そのものになっていく。信長はそれを嫌った。マルチン・ルターやカルバンも嫌った。宗教戦争が起こった。

 中野京子という作家が「名画の謎」という文庫本を出している。前に「名画で読むイエスキリストの物語」が宗教画の解説本として面白かった。彼女は聖書の解釈をしているのではない。当時に時代背景とあとは想像力でイエスの物語を福音書から膨らませて書いていた。
 「名画の謎」は旧約聖書と新約聖書の有名シーンの解説である。
 旧約の最初の部分は神話だから荒唐無稽である。初めに光が作られ、太陽は四日めだった。そもそも初めから矛盾している。するとこの光とは何だったのか、と思う。
 神は自分に似た人間を作った。と書いていたら、次の章では神は土泥から人間を作り、と書いてある。この人間をミケランジェロは筋肉隆々とした男として描いているが、「臍」があった。ヘソ? 土から作って、ヘソも作ったのか。その男アダマの肋骨から一本取り出し女を作った。

 まあ、いいけど、こんなことに解釈などしたくないと思いながら、ユダヤ教も、キリスト教もイスラム教も旧約聖書は経典のひとつである。
 ぼくらはイクチオステガという小さなネズミのような弱い哺乳類だったのが、生き延び、チインパジーのようになって、さらに突然変異を起こし、ラミダスになったことを知っている。科学による人類発生、生物発生の研究はどんどん進んでいる。すると宗教って一体何だい? よいことなんてないじゃないか。我が宗教が正しいと思い込み、他を排除する。しかし個人の深い悩みや傷はある。それを救うのもまた宗教である。だから宗教を安易に否定できない。ぼくのような信心のないものは、文学として聖書や歎異抄を読むしかないのである。そこには優れた思想も嵌めこまれているのは確かだ。信じるか信じないかの論争などではない。そんな風に思っている。

女優と歌手

2018年07月11日 | 映画
 「ハイ・クライムズ」という2002年(だと思うが確かではない)の映画を観て、Åsheley Judo という女優を見てびっくりし、あまりもの美しさに見入ってしまった。二回目は彼女だけを見ていた。目が生き生きしているのには知性が感じられた。映画そのものも良かったが映画のラストで流れる音楽がまたよくて、DVDを一時停止して、それが何という音楽で誰が歌っているのか知りたかった。CDを買おうと思ったのは Camila 以来の久しぶりだった。挿入音楽が多すぎて、特定できない。それで、ハイ・クライムズ を検索してみたら、いろいろとあって、探していくと、「エンディングに流れる歌が良かったが誰?」という質問が載っていた。すると回答者が Lina という歌手で、アルバムの5曲目にある I am the enemy ではないか、という回答があった。早速 Lina を検索して、そのままアマゾンに飛び、Lina のアルバムを注文した。ついでに The shape of Water のサウンドトラックも注文した。どれも中古品である。
 依然とCDアルバムは買うには危険が伴う。試聴ができるのものは限られている。タイトルとインレイのデザインで選ばなければならない。今はダウンロードもできるので、と思うがやはり、昔ぼくが考えて試みたような試聴用の20時間ほどのCDカタログがほしい。毎月リリースされるCDカタログがあればいいと思う。
 まだ知らない俳優や歌手は世にいるのだろう。緑色した瞳をもつ絶世の女優というのはいないものだろうか。
 Asheley Judo(シェリー・ジャド)は Collector というサスペンス映画にも出ていることを知ったので、それも観た。しかしながら役柄が彼女を生き生きとさせていたのは ハイ・クライムズ だった。弁護士役だった。イタリア人の父とカントリーミュージシャン、ナオミなんとか(ナオミというのだからユダヤ系かもしれない)からこんな美人が生まれるんだと感嘆した。

 昔、ヒッチコックの映画「鳥」で出て来たスザンヌ・プレセット以来の感激であった。
 Lina についてはもうすぐCDが届くはずなので、詳しいことは今わからない。検索もしていない。ジャズのようなロックのような奇妙に聞き入ってしまうのだ。

 自分だけの発見と言える。自分の感覚に合う人に出遭えるのは嬉しい。
 まだ聖書、および聖書関連美術書、聖書関連本(イエスの時代など)を読んでいる。グレートな文学作品である。それが西暦100年~200年くらいの間に書かれている。すごいもんだ。

生き抜く庶民

2018年07月10日 | 社会・経済・政治
 西日本の豪雨災害もひどいものだ。人間の想定範囲を超えている。山のあるところは危ない。川のある所も危ない。海の近くも危ない。埋立地も危ない。平野が少ない日本列島では、どこに住めばよいのかわからなくなるくらいだ。
 海外の経済分析者から日本経済は2019年が危ない、という記事が出始めている。IMFまでも言い始めている。高齢化が最大の原因だという。人口は今後確実に減っていく。一人当たりの生産量が下がり、GDPがマイナスとなっていく。金融政策も限界にまできている。政府は借金を続ける。既得権益者が票田であるから自民党はそこに手を出せない。すると消費税を上げ、年金給付年を延ばしていく。医療費負担を上げていく。介護保険を上げていく。そんな方法しか考えられない。
 政策のツケは全部国民が負わされる。
 独占企業のJRの運賃は高い。移動に躊躇せざるを得ない。高速道路も同じように高い。高齢化社会なのに、白タクは禁止。タクシーの相乗りも禁止。乗り降り自由のミニバスを走らせたいと思ってもできない。反対団体があるからだ。
 キャッシュレスに抵抗を感じる高齢者が並ぶスーパーではレジに時間がかかる。これは高齢者の問題だ。
 パソコンで日本語変換するのにも時間がかかる。これは日本語の問題だ。
 G7の中でイタリアに次いで経済が悪い日本はいよいよ追いつめられてきている。安倍首相が続投し、いっそ責任をとってもらいたい。ハイパーインフレも囁かれている。つまり貯金が政府に吸いとられるという作用をもつ。国民の預金価値は下がるが政府の借金も減るという理屈である。
 国債市場の取引がほとんど停止している。買う銀行や保険会社がないのである。銀行も追いつめられている。銀行員の解雇が始まる。
 実質賃金は上がらない。むしろ下がっている。スーパーの特売日には人が殺到する。消費節約で国民は自己防衛をする。消費力が下がると経済力が下がっていく。
 よいところがないような日本である。
 東京オリンピックなどは必要か。リニアモーターカーは必要か。東北の堤防は必要か。3分診療で3割分の1000円払う。クリニックは7割の、さらに2333円もらえる。これは正しいか。

 不満たらたらである。政治を超越して生きるにはどうすればよいか、とフツフツと考える。庶民に手はない。権力が国民のお金を喰いつくし、それに気づくまでは手がでない。と言っても庶民は生き抜いていくことは確かなことだ。

集団の構造

2018年07月09日 | 文学 思想
 次から次へと起こる出来事に森友や加計問題の真相も遠のいていく。グーグルからのニュースによると、文春砲が安倍昭恵の保育園事業者への補助金問題絡みを報じているが、麻原死刑や西日本の大雨被害があって、テレビ局が追いかけていない。

 麻原はキリスト教者ではないが、死刑となったのはイエスと同じである。これを決定したピラト役は上川法務大臣である。彼女はキリスト教者であったから、複雑な気持ちであったろうと思ったがグーグルニュースでは、死刑執行の前の晩には安倍首相や岸田議員ら自民党議員との飲み会のようなところで笑顔を振りまいていた。ヘロデ王たちの宴会のように思えてくるのも妙な話だ。

 イエスが生きていた頃のイスラエルは生きるに苦しかった。食糧の貧困さに加え、律法の厳しさがあった。律法の厳しさは、彫刻も絵画もゆるさず、自然は疫病を蔓延させ、乾いた大地の砂は眼病も引き起こした。税はユダヤ教最高院とローマ帝国から二重に徴収され、反乱を起こすものはことごとく殺された。精神活動と生産活動の苛酷さの中で、人々は良いことが起こらないかと、待ちわびたことだろう。

 オウム真理教はバブルの時期に起こり、バブルの崩壊でサリン事件を起こした。麻原は坂本弁護士一家にポアを命じたことで、結局これによって追い詰められ、武装化していくことになった。引き金を自分で引いたのである。気を通す奇蹟を起こそうと、空中浮遊しようと、そんなことはイエスの時代にもいくらでもあった。
 少なくとも聖書では、イエスは人を殺す命令を出していない。人々の罪苦を一身に負って死んだ。しかしながら、やがてキリスト教徒はアレキサンドリアの例をみてもわかるように、話にならないほど人殺しをした。
 麻原の罪などとるにたらないほどの数であろう。暗黒の中世が始まった。

 麻原も人間の重要な課題がわかっていなかった。集団は集団の意思をもってしまうこと。集団の意思とその中の個人の思いにズレが生じること。猜疑心が生まれること。裏切りがでてくること。集団か抜けたいと思うものが出てくること。そして麻原であれ、幹部のだれであれ、自分が自分を裏切るということ。それらは関係性から起こること。イエスも、麻原もこのことへの問はなかったと思える。
 現代に生きる者なら、あるいは現代の文明生活(電気や水道やガス、車、新聞、テレビなど)の恩恵を受けているなら麻原はすべてを裁判で話すべきだった。麻原はやがて共同幻想と個人幻想の軋の構造に気がついたかもしれない。

 この問題が解かれない限り、戦前の軍事国家にもなり得るし、オウム真理教のような教団も登場するだろうし、日大フットボール事件のようなことも起こるだろう。 
 

くじのようなもの

2018年07月08日 | 日記
 日本列島はなんと定期的ではあるが突然の天災が多いところだろう。それはいつ我が身に起こるかわからないけれど、必ず来るように思われるところが日本列島に本質である。
 日本列島にたどり着いた原始の人々はそこから東に進んだけれどやがて太平洋と津軽海峡に阻まれた。もう行くところはなかった。自然災害にさえあたらなかったら四季に応じた物があり、四季に合わせるように物作ることも、考えることもできた。人々は日本列島から出ることなく、何万年を過ごした。

 記録的な大雨が、くじで当たるようにして、幾つかの場所を襲った。これだけ土木工事技術も、防災の意識があったとしても免れ得ないというのは、神も仏もあるものか、と思うより、虚脱感や無常感になるのかも知れない。

 もしも自分の家が水に浸かったらと思うと、投げ出したくなるだろうが、コツコツとまた片付けて、修理をしてと時は流れていくのだろう。逆に張り切ってやっていくかもしれない。

 毎日のように地震速報がテレビ画面の上に流れる。すると南海トラフが軋む断面図を想像する。日向沖で地震は南海トラフ大地震の予兆だとする紹介があったので、この前の日向沖地震は不気味さを与えた。津波は「逃げるが勝ち」を肝にいれて、とにかくすぐに逃げることだとはわかっている。

アブラのない魚

2018年07月07日 | 日記
 各地で大雨による被害が出ている。気候変動のせいなのか。それにしても、過去には大雨のあった尾鷲はここ十年をみても大雨地域から外れている。台風もよくきたものだが、これも外れている。
 気候変動のことで言えば、尾鷲の海の水温が上がっていると思う。実際に測ったことはないが、
2月、3月の片口イワシには脂がうっすらあったものだが、これがまったくなくなってから久しい。
 先日新鮮な大きな鯖をもらった。塩焼きにして食べた。美味しかったがこれも脂がなかった。ちょっとでも脂があればなお美味しいと思う。処方箋をもって母の薬をもらいにいくとき、若い薬剤師と時に話をする。鯖をもらったのはその薬局の隣のぼくら夫婦の友人で、それがおすそ分けとしてぼくの家にもまわってきたのである。
 たぶん彼が釣ったのだろう。翌日の夜11時頃、偶然にその若い薬剤師が仲間とワイワイと路上を歩いていくのに、気づき「○○先生」と呼びかけた。彼は客一人だと気づいたらしかった。「最近サバ釣った?」と訊くと、「はい、釣りました。彼と」と言って仲間のうち一人を指差した。「やっぱり釣れたてのサバは旨いな。それにしても大きかったなあ。どこで釣ったん?」と言うと、「古里付近です。船で行ったんです」「もうちょっと脂があったらなあ」と言うと、「そうですね」とこれは相槌かもしれない。
それだけの会話で、すれ違った縁での会話だった。「失礼します」と青年たちは深い礼を二度ほどした。これには戸惑ったが、悪い気がしなかった。仕事から離れた青年が楽しそうに仲間と戯れるように歩いて行った。アルコールが入っているのだろう。

 三日に一回、カレイの干物を買いに行っていた店が閉じた。交通事故で、仕事ができなくなったのである。斜め向かいにあったからぼくには便利だったのである。カレイのつなぎがもう食えなくなるのか思うと、残念である。片口イワシとカレイのつなぎはよい酒の友だった。それで、駅前の干物店まで車でいく。ヤナギカレイがある。高価である。福島の妻の実家から毎年ヤナギカレイとウニを送ってもらっていた。このヤナギカレイ上品な旨さはやはり薄い脂があるかどうかである。残念ながら尾鷲産のヤナギカレイは全く脂がなかった。

 若い頃ぼくが東京に移り住むことをためらわせたもののひとつにほどよい脂のあるイワシ、アジ、カレイのような魚であった。

絞首刑

2018年07月06日 | 文学 思想
 原始キリスト教が聖書をもつに至るまで100年から200年という年月がかかっているように思われる。十二使徒はヨハネを除き、悲惨な殉教をしている。ぺテロは逆磔刑、バルトロマイは生きたまま皮をはがれて殉教した。迫害され、追いつめられていくなかで、経験し、考えたことは、現在の多くの世界での道徳にまでもなっている。ローマ帝国がキリスト教を国教としたのは300年代のことでる。

 今日、麻原彰晃こと松本智津夫ら七人のオウム真理教幹部が処刑されるというニュースを聞いた。麻原は何も言うことなく絞首刑となり死んだ。
 オウム真理教はその後「アレフ」と「ひかりの輪」に分かれ、さらに少人数による分派もできている。
 強固な共同幻想の中では個人幻想としての猜疑心が高まり、自分が自分を裏切ることもあり得る。仲間同士での憎悪とて起きる。連合赤軍のリンチ事件はそのことを露にした。

 オウム真理教も追い詰められていた。最後は武装化をすすめ、無関係な人を殺した地下鉄サリン事件を起こした。過激で反逆的な宗教集団はこれで終わったかと思ったが、まだ今でも入信する人がいるのである。

 宗教として持続していくためには聖書に似た何かをつくり、何百年と持ちこたえるものにしていくのだろう。次世代、次次世代、やがて初期オウム真理教も変質していくのだろう。

 自分たちが絶対だという閉じた共同幻想を開かれた共同幻想に転化できるかどうかが集団や共同体、ひいては国家の解かれなければならない人類の課題である。俺たちが絶対だという党派性はもう克服されなければならない。

 殺された人側から見ても、このくらいのものが絞首刑になったとしても溜飲が下がるということはないだろう。なぜ、いまだ、アレフに入信し、麻原に絶対帰依するのか。その苛立ちに生涯つきまとわれ、苦しまなければならないのか。人間の関係による普遍的な問いかけである。

自由に生きられる社会

2018年07月05日 | 文学 思想
 西洋の真似からはじまった日本の明治新政府はとにかく真似る。真似ること知る西洋を見た人達が外国をしらない国民を牽引した。明治、大正、昭和の12年日中戦争までの約72年で日本政府はアメリカ連合軍の統治下になった。戦後昭和20年8月から今年の8月で74年になろうとしている。すでに戦前、明治より長くなってきている。
 戦後の経済成長はまた真似ばかりぢていればよかった。荒れ地が復興させるのだから、どんなチャンスもあった。そういうなかで世界的に優れた物を作り出す企業も出てきた。そのうち、アメリカでIT革命が起こった。日本はおこぼれを頂戴した。
 すでに2018年。日本は停滞したままである。世界史が動きつつある。アメリカがその覇権をみずから放り出そうとしている。アメリカが作った冷戦後の体制であったのが、ことごとくやめようとしている。TTP.WTO.イラン核合意、もしかしたらG7までやめようとするかも知れない。
 2022年。アメリカは空飛ぶ車のサービスが始まる。中国はチューブのなかを走るリニアモーターカーでヨーロッパとつながり、北京~上海をつなげようとしている。
 中国とインドが過去例がないほどの巨大市場になっている。中国が経済失速すれば現在の共産党政権も危ないだろう。
 日本はどうなっていくのか。

 現実の政治の流れよりも、人間の意識の流れの方が気になる。人間は重要な点で克服できていないことがある。強固に内に結束する観念とそれにあわないものは憎み、排除する意識だ。また人を裏切り、自分も自分を裏切るという意識だ。また、権威という本当にあるものかどうかもわからないものを好むみ、他者と自己に優劣をつけることだ。まだある。保育園のある子がタコの絵をかいたら、瞬く間に園児が真似するように、大人とて瞬く間に伝染するということだ。そしてその同調に気がつかないことである。
 このような何千年来の人間の心理、観念の問題がなんら解き明かされないことがぼくには大きなことのように思える。
 空飛ぶ車や超高速リニアがチューブを走っても、攻撃の対象にもなりえる。新しい科学は武器にもなり得る。

 昨日ポータルサイトを運営している会社のスタッフと電話で話をしたのだが、彼らまたは彼女らは外国に本社があるコンピューターシステムでことごとく処理されていくことから起こるトラブルの処理を行っている。まるでコンピューターに使われる人だという印象を持った。すでにAIによる支配のミニ版を見ているようだった。最後は彼ら彼女らの声も人工合成音化されるのだろう。
 どれだけ科学が発達しようと、その先に神の領域があるのだ、と現在のキリスト教者は言うだろうし、人間はいつになったら、人間の課題を共通の課題ととらえ、共通の解決方法を持ち得るのか。自分は日本の、戦後の昭和に生まれて幸運だった、とつくづく思う。
 娘や息子、その子供たちも、自由に生きられる社会であってほしい。
 

2018年07月04日 | 日記
 去年の倍の紫色桔梗が咲き、その後ろに黄色のカラーが咲いている。その近くにはダリアが一輪咲き始め、幾つかの種類の百合がも咲きそうである。カラー以外は鉢植えだった。今年は地植えにしてしまおうか、と思っている。鉢植えは移動できるのがよい。地植えは株を(というのだろうか)増やせるのがいいし、ダイナミックに生け花のように色との兼ね合いも固定してしまうから、ややセンスも問われるというものだ。
 桔梗のあるところから右方向の木蓮の下には黄色と赤のハイビスカスが大輪を付けている。
 紫陽花が過ぎた時期に花がなかったから、草花手を出した。今年で二年目なので、芍薬も石楠花っも、藤やレンギョウもどうなっていくのかわかる。自信がつきつつある。花を見ると目が和む。ぼくは相変わらず、旧約聖書の執拗さと格闘している。そしてそれは多くのことを考えさせる。新約聖書の4つの福音書も同様である。2000年も経った作家たちの思想の経緯と深みを探るのは面白い。
 毎日が刺激的であるが、外目にはのんびりとしている。至宝の時間空間とも言える。
 ギリシャ、ローマ、ヨーロッパの中世にも興味の範囲が広がってきた。
 
 
 

ヒュパティー

2018年07月03日 | 映画
 4世紀や5世紀あたりのオリエントやヨーロッパの地図を見てみると、部族集団とも言うべき国家の体をなしていないような民族の集まりが割拠するとい状態である。ローマが西と東に分裂して、北アジアのフン族だの西ゴートや東ゴートなど様々な部族というか民族がゲルマン民族の大移動に繋がっているようである。凄惨な領土の取り合いは恐るべき野蛮と欲望のように見える。騎馬民族は特に定住しないものだから、ローマやアレキサンドリアのような都市を作ることはなかった。
 アレキサンドリアにヒュパティアという哲学者であり、天文学者だった女性がいた。彼女はローマ帝国が支配するこの都市の図書館で生徒たちに幾何学や天文学を教えていた。西暦415年にキリスト教徒によって虐殺されている。信仰を拒否したからである。キリスト教では女は男よりでしゃばってはいけないし、女が男に教えることもいけないとされていた。ヒュパティアは独身を通し、生涯を天文学、哲学に捧げた。太陽を回る軌道は放物線であることを証明したとされているが、その資料はどこにもない。地球は自転しながら公転しているという考えまでもう一歩である。彼女の見識がキリスト教徒やローマの長官や兵士にわかるはずもなかった。ギリシャ哲学は受け継がれていたのである。フン族やヨーロッパの諸部族にわかるはずもなかった。闘うこと、人間狩り、財産の奪取が生きていることであるようだった。キリスト教徒も彼らと変わらなかった。迫害にめげず、広まったものの、領地の奪い合いは同じであった。
 親鸞が墓も要らぬ、寺も要らない、宗派をつくることなど毛頭考えていなかったにもかかわらず、彼の血筋の蓮如が浄土真宗開く。おかしな話だ。聖書の主人公なら、ヒュパディアを殺すはずもなかったのに。
 人間の大衆というものの愚かさや希望のようなもにがほんの少しずつ歴史を歩んでいく。時にでてくるのが早すぎる人が出てくる。

 さてさて、サッカーへの熱狂。まるでコロシアウムで、人間同士が殺し合ったり、闘牛場で牛と人間が闘ったり、部族間で闘ったりしている様を思い起こしてしまう。なぜ、これほどまでに熱狂するのか。俄サッカーファンまで興奮している。日本が負けるなどとテレビの前で予想でもしようなら何されるかわからないと思えるほどだ。さすが現在はスポーツゲームにはなっているが。
 

奇蹟の意味

2018年07月02日 | 文学 思想
 学生時代にも、社会人になってからも、同じ本を読んだはずなのに、実感的に理解することなく、わかってないまま読書してしまうということがある。
 例えば「喩」ということ。喩には「雪のように白い肌」というように、「~のように、~のようだ」という「明喩」と「君の肌は雪だ」と異なる言葉で印象を強化する「暗喩」という言語表現がある
 「八雲立つ」という古事記ででてくる歌は「なにか不穏なことが起こりそうな」という暗喩になっている、と考えればよいと思う。

 言語の歴史は思いもよらぬものだ。「暗喩」が先に登場している。「明喩」が後に登場する。聖書の言葉を言語の側面から解釈すると、主人公の数々の奇蹟は、異なる言葉がつながることによって意味を強化するその極限の表現方法であることがわかる。つまり異なる言葉が極限まで引っ張らた暗喩が「奇蹟」にまで至っている。

 処女懐胎の奇蹟も、海を静かにさせるのも、病気を治すのも「奇蹟」であるが、言葉の面から言えば、暗喩の極限であると言える。

 若い頃、新約聖書をかじったとき、文字そのものを読み、よくこういうことを信じるものだと思っていたのだった。

 信仰の中にいる人は信じる、とにかく信じるということが至上命題であったろう。
 ところが、聖書の主人公がゲッセマネで祈るときに、死を予感し、怯える場面がある。
また磔刑での死の間際に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、神を信じきれていないような言葉を吐く。人々には確信をもったことを言い、律法学者を攻め立て、ののしるほどの自信のある主人公だった。それは「人間とはそんなものだ。ある場面では強くて、ある場面では裏切り、ある場面では善を成し、ある場面では悪もする」という暗喩であるかのように見える。

 ぼくの読書、旧約聖書は遅々とすすまず、くどい上に、殺し合いの話ばかりである。新約聖書の主人公は言葉の面から言えば、この旧約聖書にも縛られている。旧約でも預言が新約で成就されることを新約の作者が思っているからだ。ユダヤ教からの正統性を得たかったという時代の背景があったのだろう。まだ天が動くと考えられていた時代の話である。