最近お仕事でまたまたいろいろ調べごとをしてたら
爆笑問題の太田が言う言葉が
なーるほど
と思ったんで、残しときます。
「爆笑問題のニッポンの教養コトバから逃げられないワタクシ」(2008)
言葉とはわずらわしいものである。思考するのに言葉を使わなければならない時
とてももどかしい思いをする。
言葉に比べ、心のなんと自由なことか。
言葉にすることは、心を区切る作業だ。
一つの感情を言葉にしたときに
その言葉におさめきれないどれほどの感情が失われるだろう。
デジタル時計が、1時1分1秒を表示した瞬間
1時1分2秒との間にある無限の時間を我々の認識が失うように
言葉と言葉の間に存在する、無限の心を
我々は失っているのではないかと思う。
「楽しい」という一言で十分な感情などあるだろうか?
「悲しい」という一言で表現できる悲しみなんてあるだろうか
でも、言葉だろうが、文だろうが、手話だろうが、ダンスだろうが、絵だろうが、表情だろうが
何がしかで感情を表現しないと
コミュニケーションって成立しない。
「言葉」が感情を表すのにぴったりな表現であるには間違いないけど
それでも表現しきれないもんですよってこと。
ガツーンと後頭部打ち抜かれたね。これ。
言葉では伝わりきらないし
感情を区切ってしまうリスクがあっても、必要なことだから
人間は諦めずに言葉で感情を表現し続けてるんだよね。
その言葉の表現のもどかしさから芸術が生まれたんじゃないかって思う。
ワタクシも、思ったことを文章化してから人に伝えることが多いのだが
普通にトークしていては
トーク中に自分の瞬時に使える語彙力が限られているような気がするからだ。
文章であれば、少しだけ余裕ができる。
それでも
絶対に誤解の方が多いんだって言うこと
そして、トークには語調や声のトーンや表情という応援団がある。
これは、忘れちゃならんけどね。
言葉のないコミュニケーションが最強の
コミュニケーションだという説もあるが
やっぱり
ある程度形のあるもので伝えることも必要だろうね。
「行間読め!」
とか
「空気読め!」
とか言うけどね
なかなか、うまいこといきませんよ。
まあ、日本人だからこその文化だと思うので、大切にはしたいけどね。
感情をすっきり表現することができないのを当たり前だとし
感情をなるべく網羅した表現ができるように、一言で終わらせない
発信の努力も必要だし
もしかしたら
こんな風に思ってるのかな?っていう受信側の優しさも
すごく大事だと思う。
だから、「話す」だけでもダメだし「聞く」だけでもダメ。
「話しあい」じゃないと、本物の感情に近いものは表現しきれない。
一個人の一感情なんて伝わらなくても
なんとか回るのが社会なんだろうけど
伝わらないとつらいことってない?
もしかしたら
そのやり取りの中で、ケンカになったりするかもしれないけど
予定調和的平和では
結局感情は
押し殺した心の中だけにとどまることになるんだろうね。
押し殺した感情は
いつかあふれるか
抹殺されると思う。抹殺されるとトラウマみたいになって
いつまでも自分の中でこだわりとして残るような気がします。
意味あるケンカならいいんじゃないかな。
自分も周りもいい関係でいるためにコミュニケーションがあるのだとするならば
伝える必要のない感情もあるけれど
でも
そういう感情を知れるって
仲良しの特権かもなあ・・・なんて
思ったりした。
たぶん、自分が思っているよりも
心を開放してくれる人って少ないんだろうなあ。
大人だから仕方ないのかな。
*業務連絡*
うまく伝わらないからって
他人と作戦会議するのはいいけど
欠席裁判はいかんでしょ。ねえ。裁判するなら全員出席で分かち合おうぜ。
再審請求申し立てますよ。
なんて、思いながら
太田光の文を見てました。
太田光 やりますなあ・・・