さあ、みなさん、お元気ですね。ワタクシ、本日やっとこ温泉につかって、この怒涛の1週間を終えました。おかげさまで、ちょぴっと元気復活です。
昨日はついつい、呑んでしまって、
目の前の人(お仕事場デスクの場所が「目の前」なの!)に
「えりりんさん、もしかして、酒弱いんすか?」
と問われた。
その場にいたほかのだれよりもフラフラ度が高かったらしい。(恥)
はい。ごめんなさい。酒宴は好きだけれど、強いわけじゃないっす。
激しい誤解をされている方が多いようですが、決して強くないっす。
最近大人になったんで、つぶれることは無いけれど
やっぱり強くはないっす。以上!報告でした!というか、飲みすぎなんだって!自分!!
てなわけで、お待たせいたしました。本日一気に大雪の写真公開いたします!
今日のポチリはもうすんだ?
がんばってますわ。弟。
←この辺でシマリス発見!かわゆい!
怪獣弟「あの池は、どうしてこんな山の中にできたの?おかあちゃん!」
ええ!?
怪獣弟、めちゃめちゃアカデミーックな質問だべさ!
あの辺にいる、ボランティアガイドのおっちゃんに聞いててみ!
怪獣弟5歳勇気をふりしぼって、
推定年齢65歳3人の孫アリ風なガイドさんをターゲットに・・・。
怪獣弟「あの、池は、どうしてできたんですか?」
ガイドさん「あ?んー?雪ね、雪は昨日も降って、朝はもっと白く残ってたんだけれどね。」
怪獣弟「雪じゃなーい!」
(当然なリアクションに、母、影で大爆笑)
怪獣弟「あの池!いけはどうしてできたんですか?」
ガイドさん「池?池かぁ・・・、昔、あそこのほれ、白い煙がいっぱい出てるところあるだろ?あそこが煙でなくなったところの穴に水がたまったんだよ。」
怪獣弟「あの、シューシューしてるところの下は熱いんでしょ?水がそこにいっても、あついから温泉みたいになっちゃうよね。」
ガイドさん「・・・。たぶん、もう、ずいぶん大昔の話だからね、心配ないよ。その温泉が旭岳温泉。」
おお!5歳児やるねえ!アカデミーックじゃないか!
シューシューしてるところと池。
シューシュー
シューシュー
シュー・・・
チングルマ
花もかわいらしいけれど、秋の穂の様子もかわゆい。
もうすぐ、本格的な冬になるんですね。
姿見の、石室避難小屋は新しくなって中もイイカンジ。
緊急時以外は宿泊できないのですが、
ここに泊まるシチュエーションに陥ってしまった時は
本当に怖いねえ。
ちなみに、この日は天気が良かったのでよかったけれど
10月入ったら、姿見駅あたりも、かなり冷えます。
なのに、大概「下りの待ち時間」は、午後になるとひどい時は3時間近く並ばされてこともあったっけ・・・
寒いなか、待つのはまじめにきついよ・・・。
なので、しっかりあったかい姿で、遊びに行ってくださいね。
まあ、やっぱり、ここは、
「神の遊ぶ庭」なんでしょうな。人間が荘やすやすと足を踏み入れるのはちょっとね・・・(なんてったって、怪獣弟が急に頭を働かせてましたから。)
++あじくーたー沖縄ショット!++
不思議な、岩がいっぱいです。南風見田の浜。
あるけども、歩けども、
シキナ先生の刻んだ有名な「忘勿石」(わすれないし)
あまりの暑さと、石がどこにあるかわからない事実を踏まえ
パパりんが捜索を断念・・・。灼熱の西表。
時間が波音以外時間がとまったよう。
記念写真をとった。
さあ、仕方が無い・・・引き返すか・・・と言う時に
パパりん、忘勿石の記念碑(コレがまた、スッゴイ巨大・・・)を発見。
怪獣一家走る!!GO!忘勿石!
補足;波照間島あれこれにくわしいので、参考にどうぞ・・・。
西表島南風見田(はえみた)浜の東端の岩場、通称「ヌギリヌパ」(鋸の歯)の一角に「忘勿石」はある。現在では立派な「忘勿石之碑」が建てられているが、その右脇の岩盤にひっそりと、「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が刻まれている。これが「忘勿石」(わすれないし)である。(見難いが、上写真赤印のところに文字が刻まれている。)
文字が刻まれた岩盤は、疎開中のほんの一時期、波照間国民学校の校長であった識名信升氏によって国民学校の青空教室として入学式と授業が行われた場所だ。疎開地でも教育を続けようとした試みに対し、強制疎開の命令者山下軍曹はそれを中止させた。間もなくマラリアの伝染が始まり、子供達も多くがその命を落とした。
この10文字は、識名校長が、自らの直訴により疎開を解除し、島に帰る際にひっそりと刻んだもので、ほとんどの者はその存在すら知らなかったという。1954年、波照間島出身の保久盛長正氏により偶然発見されたが、その後も多くが語られることはなく、1982年の沖縄国際大学・石原ゼミによる調査と、その成果をまとめ翌年刊行された「もうひとつの沖縄戦」によってようやく、世間に知られることとなった。
識名校長は、軍命とはいえ教え子を多数犠牲にしてしまったことを悔やみ、「忘勿石」に関して生涯殆ど口にすることはなく、家族ですらほとんどこのことは知らなかったという。
識名校長は石原ゼミの調査の際、この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め帰島前に刻んたものだと答えている。
1992年に「歴史を語り継ぎ、病没した人々の霊を慰め、平和創造への礎」とするため、有志により現在の碑が建立された。近年では「忘勿石」をテーマにした絵本や演劇が上梓され、「忘勿石」の伝える悲劇が語り継がれている。
*今日の怪獣語録*
スーパーで、栗を見かけることが多くなった。。。
怪獣兄「桃栗8年柿何年だっけ?」
「もも くり 8ねんで・・・すでに・・・あ・・・バタン(気絶)」
■□■今日のオマケ■□■□■□■□■
徒歩暴走族(冬にバイクに乗れない時は・・・)
ああ・・・札幌北部の徒歩暴走族ね・・・
なんとなくわかりますわ。
解散して、どうなるのかな?徒歩暴走族。
しかし、どうも、このネーミング気になります。
「徒歩」なのに、「暴走」ですから。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■
おおお!ぽちりしてくれてる人がいるぞ!!おかげさまで、本日とうとう・・・
昨日はついつい、呑んでしまって、
目の前の人(お仕事場デスクの場所が「目の前」なの!)に
「えりりんさん、もしかして、酒弱いんすか?」
と問われた。
その場にいたほかのだれよりもフラフラ度が高かったらしい。(恥)
はい。ごめんなさい。酒宴は好きだけれど、強いわけじゃないっす。
激しい誤解をされている方が多いようですが、決して強くないっす。
最近大人になったんで、つぶれることは無いけれど
やっぱり強くはないっす。以上!報告でした!というか、飲みすぎなんだって!自分!!
てなわけで、お待たせいたしました。本日一気に大雪の写真公開いたします!
今日のポチリはもうすんだ?
がんばってますわ。弟。
←この辺でシマリス発見!かわゆい!
怪獣弟「あの池は、どうしてこんな山の中にできたの?おかあちゃん!」
ええ!?
怪獣弟、めちゃめちゃアカデミーックな質問だべさ!
あの辺にいる、ボランティアガイドのおっちゃんに聞いててみ!
怪獣弟5歳勇気をふりしぼって、
推定年齢65歳3人の孫アリ風なガイドさんをターゲットに・・・。
怪獣弟「あの、池は、どうしてできたんですか?」
ガイドさん「あ?んー?雪ね、雪は昨日も降って、朝はもっと白く残ってたんだけれどね。」
怪獣弟「雪じゃなーい!」
(当然なリアクションに、母、影で大爆笑)
怪獣弟「あの池!いけはどうしてできたんですか?」
ガイドさん「池?池かぁ・・・、昔、あそこのほれ、白い煙がいっぱい出てるところあるだろ?あそこが煙でなくなったところの穴に水がたまったんだよ。」
怪獣弟「あの、シューシューしてるところの下は熱いんでしょ?水がそこにいっても、あついから温泉みたいになっちゃうよね。」
ガイドさん「・・・。たぶん、もう、ずいぶん大昔の話だからね、心配ないよ。その温泉が旭岳温泉。」
おお!5歳児やるねえ!アカデミーックじゃないか!
シューシューしてるところと池。
シューシュー
シューシュー
シュー・・・
チングルマ
花もかわいらしいけれど、秋の穂の様子もかわゆい。
もうすぐ、本格的な冬になるんですね。
姿見の、石室避難小屋は新しくなって中もイイカンジ。
緊急時以外は宿泊できないのですが、
ここに泊まるシチュエーションに陥ってしまった時は
本当に怖いねえ。
ちなみに、この日は天気が良かったのでよかったけれど
10月入ったら、姿見駅あたりも、かなり冷えます。
なのに、大概「下りの待ち時間」は、午後になるとひどい時は3時間近く並ばされてこともあったっけ・・・
寒いなか、待つのはまじめにきついよ・・・。
なので、しっかりあったかい姿で、遊びに行ってくださいね。
まあ、やっぱり、ここは、
「神の遊ぶ庭」なんでしょうな。人間が荘やすやすと足を踏み入れるのはちょっとね・・・(なんてったって、怪獣弟が急に頭を働かせてましたから。)
++あじくーたー沖縄ショット!++
不思議な、岩がいっぱいです。南風見田の浜。
あるけども、歩けども、
シキナ先生の刻んだ有名な「忘勿石」(わすれないし)
あまりの暑さと、石がどこにあるかわからない事実を踏まえ
パパりんが捜索を断念・・・。灼熱の西表。
時間が波音以外時間がとまったよう。
記念写真をとった。
さあ、仕方が無い・・・引き返すか・・・と言う時に
パパりん、忘勿石の記念碑(コレがまた、スッゴイ巨大・・・)を発見。
怪獣一家走る!!GO!忘勿石!
補足;波照間島あれこれにくわしいので、参考にどうぞ・・・。
西表島南風見田(はえみた)浜の東端の岩場、通称「ヌギリヌパ」(鋸の歯)の一角に「忘勿石」はある。現在では立派な「忘勿石之碑」が建てられているが、その右脇の岩盤にひっそりと、「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が刻まれている。これが「忘勿石」(わすれないし)である。(見難いが、上写真赤印のところに文字が刻まれている。)
文字が刻まれた岩盤は、疎開中のほんの一時期、波照間国民学校の校長であった識名信升氏によって国民学校の青空教室として入学式と授業が行われた場所だ。疎開地でも教育を続けようとした試みに対し、強制疎開の命令者山下軍曹はそれを中止させた。間もなくマラリアの伝染が始まり、子供達も多くがその命を落とした。
この10文字は、識名校長が、自らの直訴により疎開を解除し、島に帰る際にひっそりと刻んだもので、ほとんどの者はその存在すら知らなかったという。1954年、波照間島出身の保久盛長正氏により偶然発見されたが、その後も多くが語られることはなく、1982年の沖縄国際大学・石原ゼミによる調査と、その成果をまとめ翌年刊行された「もうひとつの沖縄戦」によってようやく、世間に知られることとなった。
識名校長は、軍命とはいえ教え子を多数犠牲にしてしまったことを悔やみ、「忘勿石」に関して生涯殆ど口にすることはなく、家族ですらほとんどこのことは知らなかったという。
識名校長は石原ゼミの調査の際、この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め帰島前に刻んたものだと答えている。
1992年に「歴史を語り継ぎ、病没した人々の霊を慰め、平和創造への礎」とするため、有志により現在の碑が建立された。近年では「忘勿石」をテーマにした絵本や演劇が上梓され、「忘勿石」の伝える悲劇が語り継がれている。
*今日の怪獣語録*
スーパーで、栗を見かけることが多くなった。。。
怪獣兄「桃栗8年柿何年だっけ?」
「もも くり 8ねんで・・・すでに・・・あ・・・バタン(気絶)」
■□■今日のオマケ■□■□■□■□■
徒歩暴走族(冬にバイクに乗れない時は・・・)
ああ・・・札幌北部の徒歩暴走族ね・・・
なんとなくわかりますわ。
解散して、どうなるのかな?徒歩暴走族。
しかし、どうも、このネーミング気になります。
「徒歩」なのに、「暴走」ですから。
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おおお!ぽちりしてくれてる人がいるぞ!!おかげさまで、本日とうとう・・・