旧:鳳凰堂のランダムウォーカー <伏見の光>

2019.4.22以降、新規の主要な記事は新サイト「fusiminohikaru.net」
で書いています。 

あちこちパキパキ状態

2014-01-25 10:48:11 | 特別支援教育
 通常のフルタイムのお仕事で一週間経過しました。

 まあ、フルタイムとはいっても、少し早く帰らせてもらったりしていますし、
今のところ、様々な業務がふりかかってきたりしているということもないので、そんなに大変でもないのですが。

 でも、やはり体がまだ馴染んでないところがあり、あちこちがバキバキとまではいかないパキパキぐらいですが、張ってますね。
 木曜から金曜が張りが強い感じでしたが、今日はそれよりもちょっとましです。多少、体が慣れてきたかも。

 どのあたりが張っているかというと、肩甲骨の周辺、腰というか背筋の下の方、下肢のふくらはぎの下の方とかです。
 まあ、これまで使ってなかったところを使ってるということでしょう。あ、あと、左の上腕部も。

 そんなに激しくということではないですが、まあパタパタとそれなりに走り回っている結果ということでしょうね。

 その影響か、食べる量は別に減っていないのだけど、体重が少し減少傾向です。

 引き続き、子どもも自分も安全第一でいきます。
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体がバキバキ・・・

2014-01-16 21:27:42 | 特別支援教育
 子どもらと走り回ってるのは、いろんな発見やら驚かされることもあって楽しいのですが、
 うーん、体がまだ馴染んでこないので、今日は背中やら腰やらがバキバキです。

 とりあえず、風呂に入ってシップしときましたが、どうかな・・・。
 痛めいたりするとシャレにならんので、あまりとばしさないようにします。
 といっても、子どもらの動きには対応しないといけませんが。

 明日はまた非常勤で時間も短いのですが、来週から3月いっぱいは常勤なので、またバテバテになりそうです。
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成長

2014-01-10 19:06:11 | 特別支援教育
 ということで、去年の3月まで行っていた職場に「復帰」して3日ですが・・・。

 別に職場には特に違和感もなにもないのですが、子どもらの変化とか成長には驚かされることがあります。

 もちろん、体そのものが大きくなっている、体つきの変化といった「成長」もあるのですが、半日ほどつきあっていると、
去年の3月の時とははっきりと質的に違う様子にも気がつきます。

 それは非常に嬉しい驚きです。これは、毎日会っている、接している、見ている、そういうことではないから、余計にこの成長した姿が強く意識される、伝わってくるということかもしれません。

 で、同時に、この変化・成長の原因というのはいったいなんだろうか、この成長の意味とはどういうことなんだろうかとか、
これはすぐに答えが出てどうこうとかいうことではないのだけれど、いろんな方に思いが広がります。

 子どもの方はこんな感じでなかなかいいなと思うのですが、大人の方の事情はやっぱりよくわからないことがあったりもしますけど・・・。
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スーザン・ボイル発達障害 アスペルガー症候群と診断

2013-12-11 11:01:51 | 特別支援教育

「スーザン・ボイル発達障害 アスペルガー症候群と診断」というニュースがありました。
イギリスのオーディション番組で見出された歌手の方ですよね。

報道された中で「「自分のことが分かってほっとした」と話した。」という一文がありました。

うん、やはりこういうこともあるのかなと思います。

人間関係がうまくいかない、コミュニケーションがうまくいかない、どうも自分は苦手なことがいろいろあるようだ、
それはなんでなんだろう・・・云々と色々悩んでいるところに
「あなたは○○です」ときちんと診断してもらい、基本的なその障害の特徴なり対応の仕方なり留意点みたいなのを示して
もらうと、とても安心するというか「ああ、そうなんだ」とか「こうしたらいいんだ」というような地平が開けたように
感じるということはあるかもしれませんね。

だからといって、いろんな難しさ、大変さがすぐに解消するわけではないのだけれど。

でも、文字通り「分かってほっとした」ということだけでも、その意味はとても大きい場合があるかなと思います。
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スペシャリストとゼネラリスト

2013-10-15 20:56:47 | 特別支援教育
 ということで、お仕事の方は、その「肺癌かもしれん」疑惑等々で、結局、今月もゆっくりとさせてもらっております・・・。
 あれこれ「やり残した」感はあって、それを取り戻せるような機会がいずれあったら嬉しいなとは思いますが。

 私自身は障害児教育、特別支援教育の現場にいた期間が長かったわけですが、してきたのは、基本は普通に「クラスの担任」としての仕事を他の方と一緒にしてきただけのことです。

 別に学校教育にかぎらず、どの分野にも様々なスペシャリスト、専門家というのがおられます。

 特別支援教育の現場でもそうで、実際に大学や研究機関なとで、専門的な内容の研究をすすめること自体を仕事とされている方もあれば、学校の現場の中で実践と研究を一緒にすすめられている方もあります。

 その内容は様々で、例えば、自閉症スペクトラムの児童生徒の指導方法、コミュニケーションのあり方とその具体的な手法であったり、あるいは、肢体不自由の児童生徒についてのポジジョニングと指導の技法であったり、
あるいはコンピューター機器の活用方法とその内容であったり、まあ、それはいろんな視点でのいろんな内容があるわけです。

 で、そうしたスペシャリストの方はそれぞれの専門的な分野、内容からの視点で、子どもたちや授業を見て、いろんな助言をしてくれたり、あるいは批判をしてくれたりする。
 それは、時に非常に重要な指摘だったりもしますし、それまで気がつかなかった新しい視点な指導内容につながるようなことだったりするかもしれません。

 同時に、クラス担任の感覚からすると「うーん、それはちょっと違うのだけれど・・。」「そうじゃなくてもいいと思うのだけれど」と思う、感じるような場合もあります。実際、私自身の経験でもありましたし。


 よく現場にいた時に思ったこと、感じていたことは

 「方法論のみを優先させるな」ということでした。

 子どもの全体像や課題を見極めることなく、無原則に特定の指導内容や指導方法を子どもに「あてはめる」ようなことがあったとしたら、
 それはたまたまそれがその子の全体像と課題に即したものでピダッと来る場合もあるでしょうが、やはり非常に危険でおかしなことに陥っていく可能性があると言わざるを得ない。
 
 これは一般論としてね。

 だから、現場で直接子どもたちと接する責任があるクラス担任は、やはりゼネラリストとしての視点での判断、行動が重要になると思います。
 「それはそうなんだけど、今はそれはできない、しない。」とか
 「一番大事なことはこれなので、まずこれ。次に、発展的な意味で、そういうことに取り組んで評価してみることもしてみてもいい。」とか
子どもなりクラス全体の実態と課題、現状のハード面、ソフト面の様々な条件を総合的に見渡して判断し実施していく、そこには様々な調整が必要な場合もある、そういう力量、それは特定の分野について突っ込んで学習や研究を深めていくスペシャリストとはまた違った力量が求められるということになると思います。

 これはどっちが上でどっちが下ということではないです。視点が違うということです。

 上から見れば円形のものも、横から見れば一本の線にしか見えないこともあります。
 ゼネラリストとしては、できれば俯瞰的に全体を見渡せるような位置からの視点を持ちたいものだと思います。
 それは、言い換えれば、「全体像と課題」の理解がきちんとできているということでしょう。

 なので、子どものこと、授業のことで、プラス面・マスナス面、両面でいろんな意見をもらった時には、それで一々、一喜一憂するのではなく、
 その中味というのを冷静に一度、現実の子どもの実態とかクラスの教育課程の中にあてはめて「どうなのかな?」と考えてみることが重要あり、
 その時に意味を理解した上でそれが「咀嚼」できたら、実際にどあうするかはいろんな要素を含めての総合的な判断になりそれはまた別のことなので、まずはいいのではないかと思います。

 現実には、いろいろ難しいこともいっぱいありますし、ベストどころかベターな判断すらなかなか難しい、結果論的にしか判断できないような場合もあったりしますけどね・・・・。

 




 






 
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「現場」に戻る

2013-08-31 07:38:16 | 特別支援教育

 8月ももう終わりですか・・・。強烈に暑い夏だった、まだ暑いけど、という印象です。


 9月からですが、不定期で短時間ということになりますが、時々「現場」に出る機会がありそうです。

 4月からは週3日ですが、新しい場所に行かせてもらって、外からではわからない色々な経験をさせてもらいました。結果的には3ヶ月半程度の中途半端な期間になってしまい、申し訳なかったのですが、私にとっては有難い=めったにない、機会となりました。


 今回は、去年の夏にもちょっと経験させてもらったことです。

 去年の経験の中で色々感じることもあったので、そのあたりの課題意識もちょっと持ちつつ、また参加させてもらえればと思っています。

 まあ、単純に、またちょっとギターを弾いて歌う機会もできるかなというのが嬉しいというところもあります。自宅ではガシャガシャとギターを弾いて歌うのはできんしね。

 ということで、抽象的で申し訳ないけど、そんなことですわ。


 私自身の場合は、とりあえず「賃金」ので家計を支えなければならないということはないので、その分、逆に「働く意味・意義」みたいなのが自分の中で問われるようなところがあります。

 さて、うまく課題意識に即したことができるのかどうか・・・。
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運転疲れ・・・

2013-04-18 22:31:11 | 特別支援教育

 ということで、4月から新しい仕事です。

 学校ではなくて、社会福祉法人ということになります。

 まあ、週3日しか仕事は行ってないのですが。でも、仕事ではない日も、時間があったり用事があったりしたら、ちょっと顔を出したりはしています。

 色々と面白いことはあるのですが、疲れるのが車の運転。今週から利用者の送迎等の車の運転をしています。でかいワンボックスなので、慣れてなくて気を遣います。
無論、一人ではなくて、利用者や同乗の職員の人もいるわけですし。

 また、施設の前の駐車場が狭くて、いつも混雑しているので、車がうまく入れられませーん・・・。

 で、送迎だけでなく、日課の中でも車を運転することがあったりします。

 施設での利用者の人らとの関わりよりも、運転で疲れてますなぁ・・・。

 まあ、慣れた頃がまた危ないと思うので、とにかく運転は安全第一で。
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特別支援教育 34 なんでかなぁ? 自閉症の子どもたちとの関わり

2013-03-28 07:06:24 | 特別支援教育
希望でみちびく科学
クリエーター情報なし
クリエイツかもがわ


 また三木先生のお話を聞かせていただく機会がありました。

 たまたまですけど、4月から仕事をする予定の社会福祉法人で、職員対象の研修として話をされるということだったので、聞きに行かせていただきました。

 場所が社会福祉法人で、対象がそこの職員ですから、学校の授業云々ではなくて、自閉症の人たちの特徴とそのとらえ方を具体的にわかりやすく解説されていました。

 私自身は、実は自閉症の子どもたちとの関わりの機会というのはそんなに多くないので、「なるほどー」と思って聞かせてもらうことが多かったです。

 本の内容とも重なる話がいろいろありました。



 で、それで思い出したこと。


 自閉症の特徴は顕著なのだけれど、言葉での指示はよくわかり、それに従って行動することができる子どもさん。

 例えば「教室に行きます」「トイレに行きます」「CDはさわりません。」「ブランコはもうおしまい。」等々、指示したら、あまり表情を変えたりすることなくそれに従える。
 で、いつも大人の様子というのをとても気にしている。

 ここだけ見ると、表面的にはそんなに問題はないわけです。指示はよく入るわけですし、すぐ行動に移って、座り込んで動かないなんていうこともないわけですし。

 で、そうこうして過ごしている中でですが、一見、まったく唐突に、その子から顔面へのパンチがとんでくることがありました。

 別にそんなに表情がイライラしているとか、怒ってバタバタしているとか、そういうことではない時にです。


 で、これはなんだろうなと?。意味がわからんぞと。

 ただ、そのパンチとか蹴りとかいうのは、彼の感情や要求の表現なんだろうなとは思ったわけですね。

 で、思いついたのが、「ああ、これは彼はイライラがたまってたのではないか。」ということ。



 どういうことかというと、彼は1日の日課の中では「これをしなさい」「これはダメ」といった指示とか禁止をされることがどうしても多くなるのです。

 自分が他のこと、例えばもうちょっとカタログを見ていたいなぁと思っても「教室へ行きます。」。まだブランコがしたいなぁと思っていても、「もうおしまい」。

 そういう指示、禁止、指示、禁止、指示、禁止を繰り返される。

 言葉として頭の中で整理されていなくても、普通に考えてこれはイライラがつのってもしかたがないなと。


 その場その場でうまく気持ちを表現できずに、イライラがだんだん重なってくる。それが彼の中で臨界に達した時に
 いわば「うっとおしいんじゃーい!」的な表現としてパンチが出る。


 でも、その時の表情は「普通」で、一発パンチが出たら、あとはまた「普通」に戻る。

 それは自分自身の感覚からすれば、ちょっと不思議な行動ではあります。


 で、一々ノートにつけたりはしていないけど、自分が彼に対して発する言葉なり、様々なコミュニケーションがどういう内容なのかというのをちょっと意識して考えたことがあるのだけれど、やはり「指示」「禁止」が非常に多い。

 反面「称賛」とか「是認」とか「評価」とか、そういう言葉、コミュニケーションは少ない。これらの意識してそれらの言葉、コミュニケーションを使おうとしないと、あまり出てこないのです。

 なので、それからは、私の場合は頭の上で両手で大きく○をつくったり、拍手をしたりする、そういう「称賛」「是認」「ポジティブな評価」、そういうものをなるべく多くするようにしました。


 それですぐにそうした「問題行動」が変わるかというと、そんなことはない。

 日々の調子によって、すごく荒れているなと感じる日があったり、逆にスッキリしているなと思う日があったり、色々です。


 が、別に自閉症の子に限らないけど、コミュニケーションの時には「称賛」とか「是認」とか「評価」とかを大事にするのをこちらがわの基本的なスタンスにする必要はあると思ったわけですね。


 自閉症に対する様々な研究とか指導方法は近年、ずいぶんと進んできて、蓄積も生まれてきている。
 だから、試行錯誤的な指導方法をとるのではなく、今日的な知見も活用した指導、支援をすすめていくのは必要なことでもあり、それが有効で意味もあることにつながることは当然あります。

 が、「自閉症だからこうしなければいけない」「自閉症だからこうしてはいけな」というような、決め付けがあると「それはどうかな」ということになってしまう場合がある。


 大事なことは、それがその子にとってどれだけ意味のある大事なことなのかを考えるということ。

 また、わからないことがあったら「なんで?」「なんで?」と考えてみること。「なんで?」を2~3回繰り返すと、だいたい問題の本質に行き着くのではないかと思います。



 この「パンチ!」の彼ですが、時々、そんなに強くではなくて、軽~くパンチを出すことがある。それは言ってみたら「なんでやねーん!」的なツッコミとか「ちょっと面白くないんだけどなぁ」みたいな気持ちの表現のように感じることがありました。

 パンチはよくないよ。人も傷めるし、自分も傷めてしまうことがあるしね。

 だけど、その気持ちはいいわけだ。としたら、その感情なり要求を他の形でうまく伝えられるようになってくれたら、社会的にも是認され、わかりやすいような形で、それも周囲を気にしながらビクビクしているのではなくて、自分から伝えられるようになってほしい。

 じゃあ、どうしたらいいか?。その具体的な提案が自分からできないのがもどかしい感じがしました・・・。
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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 7

2013-03-22 10:00:58 | 特別支援教育
希望でみちびく科学
クリエーター情報なし
クリエイツかもがわ


p150
教育目標に「分かる」を位置づける

という内容があります。

 これも、「そうでしょう、そうなんですよ。」という感じ。

 もう15年以上も前になると思いますが、重心児の教育課程の検討をしている中で、このことを考えていました。

 当時いた学校は重心児の授業は「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「からだ」「うた・リズム」という4つの「教科」を設定していました。
「」つきで「教科」としているのは、学習指導要領などで規定された一般的な教科ということではなく、学校としての独自の整理という意味です。

 当時おられたベテランの先生に、この「教科」の意味を聞いたことがあったのですが、その時の答えは「それは重度の子どもたちでも人として発達していく道筋というものにそって授業を設定するのがよいだろうということ」と教えてもらいました。よく覚えてないけど、だいたいこのようなこと。

 どういうことかというと、人が人たる特徴というのは、「言語によるコミュニケーション」「道具の使用」「直立二足歩行」だというわけ。
で、そのそれぞれに対応する学習内容、直接、このことそのものではなくても、それにつながるようなことを系統的に整理したものが、それぞれ「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「からだ」という「教科」なんだと。

 じゃあ、「うた・リズム」はどうなの?。これだけちょっと違いますよね。

 それは「文化」ということに関係するんだと言われました。

 言語に関係することだと文学とかお芝居とか、道具の使用だといろんな物をつくることとか創作的な芸術とか、からだの面ではスポーツ、「うた・リズム」は、言語と関係するけどもそれだけでは区分いきれない独自の文化だから、それは「教科」として整理することができる。

 まあ、ちょっとこじつけという気がしないでもないけど、なるほどなぁと思った記憶があります。

 で、校内でこの「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「からだ」「うた・リズム」の指導のねらいは、障害や発達の段階に沿ってどのように整理していったらいいんだろうかということをいろいろ検討していたのです。

 その中で、どうも、この細分化して整理したねらいの以前、以前というか、どこでも共通するねらいとして「わかる」ということがあるのではないか?、その「わかる」はどんな重度の子にも、その子なりの「わかる」ということがあるだろう。
だったら、「わかる」ということでのねらいの整理ということも可能なのではないか・・、といったことを論議し考えたのです。

 私はこれを、どんな授業でも共通して成立するねらいという意味で「『わかる』ベース論」と勝手に呼んでおりました。

 この考え方そのものは今でも有効だろうと思っています。

 三木先生の本のコメントを書くつもりが、どうも、本の内容から色々思い出したことや関連したことを勝手に書くようなことになってしまいました。

 また先生にメールしておきたいと思います。
 
 あ、面白そうだな思ったら、本、買ってください。アフェリエイトになってますので(^_^;)。
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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 6

2013-03-21 23:33:52 | 特別支援教育


「楽しさを味わう」という授業の目標について、本書では以下のように書かれていました。

P143
「本来、「楽しさを味わう」という授業の目標は決して不適切なものではない。

授業における「楽しさ」の感情体験は何かが「分かる」という知的活動と結びついているはずであり、
知的活動と情意的活動の統合的な目標として正当に位置づけられるべきである。

その際、「楽しさ」という言葉がスローガン的に無限定に使用されたり、情緒的であいまいな印象を残すことがないように、
授業の何が分かり、なにを楽しいと感じるのか、それは子どもの発達的力量とどのように関連するのかについて精細な検討を経る必要があろう。

 「楽しさ」という教育目標については、その内実を深め、題材との関連を正しく位置づけることによって、授業の豊かさをもたらすものである。

子どもの内面的世界を表現する用語を、まるで言葉狩りのように排斥することは、教育研究への熱意を枯渇させるものでしかない。」


 実にそうですね、そうでしょう。

 以下の文章は5月にこのブログに書いた内容です。問題意識としてかなり重なる部分が多いと思いました。長いけどもう一度。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 個別の指導計画で詳細の指導のねらいや手立てを記載するようになって、そこに「楽しむ」というねらいを書くと、
「楽しむ」というのはねらいとしては適切ではないからということで、書き直しの指導や指示がされる場合があったと聞きます。

 私自身のことではなく伝聞で、現状がどのようになっているかはわかりませんが。

 どうなんでしょうね。「楽しむ」というのは、ねらいとしては適切ではないのでしょうか。

 結論から言えば「楽しむ」というのはねらいとして適切ではないどころか、特別支援学校における極めて重要なねらいの中心の一つなのではないでしょうか。

 学校が楽しくなくてどうする?、学校生活が楽しいものでなくてどうするのでしょうか?。

 学校というのは、何か厳しい訓練だか練習だかを黙々とやって、その取り組んでいることができるようになったらそれでいいのでしょうか?。それがねらいの中心なのか?。

 じゃあ、毎日、何か楽しいことばかりをして、ニコニコ笑って過ごせたら、それでいいの?。それで「楽しむ」ということが達成されていたらいいの?。

 と、まあ、わざと極論というか、単純化させて書きましたが。

 つまりは「楽しむ」というのは、基本的にとても大切なねらいであり、視点であり、大事にしなければいけないことである。だから、ねらいとして極めて重要である。

 だけど、個々の子どもたちにとって、ただ「楽しむ」というねらいを達成して、評価が「楽しめた」、これでは中味、意味が全然わからない。

 じゃあ、どうするかというと、個々の子ども、その子どもにとって「楽しむ」というのはどういうことなのか?。その中味、内容はなんなのかということをまず考え、
次の、ある授業で「楽しむ」というねらいを設定するのであれば、その授業の中でその子にとって「楽しむ」というのはどんなことなのかを具体的にし、
当然、それにそった具体的な内容が設定されていなければなない。

 そうじゃなかったら「楽しむ」というねらいは、ねらいとしては適切ではなくなってしまいます。

 例えば、まず、強い緊張が入ったり、泣くことが続いたり、深く寝てしまったりして、なかなかいろいろなはたらきかけをゆったりと受け止められないことか多い子どもさんだったら、まず適度に覚醒し落ち着いた状態で様々なはたらきかけをうけとめてほしいわけですね。

 それが、この子どもにとっての「楽しむ」ということ。

 だったら、それは「楽しむ」ではなくて、その授業の中で、あるいは日課の中で取り組んでいることそのものをねらいとして記述したらいいやん。

 いや、それでもいいのですけど、というか、、その授業では具体的にはそうなるのですけど、そうして落ち着いてはたらきかけを受け止めるところから、
この子に「これが心地いい」「これが緊張せずに受け止められる。」「これが面白い。」「これが好き。」っていうところに広げていきたい、そういうふうに進めていきたいわけです。

 で、そういうものが確立とまではいかなくても、そうした芽が見えてきたら、それはやはりその子にとっての「楽しむ」ということになるだろうと。

 だから、大きな意味で「楽しむ」というのはねらいとしては、はずせないというか、、基本的に大事にする点なのですよ、となるわけです。

後略
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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 5

2013-03-21 23:07:19 | 特別支援教育
「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 5

 第四章では、京都市の養護学校の事例も取り上げられています。

 京都市の養護学校の研究発表については私自身も聞きに行かせてもらいました。

 その率直な感想を言えば「なんと、まあ、わかりにくくて、ややこしい」ということでした。

 「右回りスパイラル構造仮説」と、まあ、この言葉がもうわからんのだけれど、教育課程そのものが非常に複雑になっているなぁと感じるところがありました。

 まず、クラスは学年制です。学年制そのものがいいかわるいかは一概には言えません。

 相当の児童・生徒数があり、学年制にしても、それなりに障害や発達の状況に即した基礎集団の編成というのが可能であれば、これは別に日常的な教育課程の編成にそんなに「悪影響」は及ぼさないかもしれません。

 また、小学部段階でも、生活年齢への配慮は必要な部分があり、できれば、いくら発達・障害の実態が似通っているとしても、小学部に入学したばかりの児童と卒業をひかえた6年の児童はできれば基礎集団は違っていた方がいいとも思います。

 が、クラスを学年制にすることを画一的にすすめるとどういうことになるか。

 重度の肢体不自由の児童・生徒と自閉性障害の児童・生徒の教育目標や具体的な教育内容は当然異なります。

 となると、実際の授業は、授業ごとに比較的課題か近い児童・生徒の集団をつくってすすめるということにならざるをえない。

 あるいは、教員がつけるのであれば、個別の指導形態をとるかです。

 となると、それぞれの授業ごとでそこの指導を担当する教員というのは当然固定しなければいけません。

 ということは、そのクラスの担任であっても、その子の様子を直接見られない、指導にあたれない時間が多くなるということにもなります。

 なにも、必ずベターッと1日、特定の教員が特定の児童・生徒の担当をしなければならないということはありません(ある時期にはそうしたことが必要というか、した方がいいと思われる場合、あるいはそうした児童・生徒もあるとは思いますが)>

しかし、とりわけ「重度」の子どもたちの場合は、相当程度、クラス担任か直接指導にあたる時間というのが中心になっていた方が、様々な意味で適切だろうと思います。

 いわば、中学校の教科のように、授業ごとに教員が異なるような教育課程のあり方というのは、時間割がどうこうということも含めて、ちょっと様々な意味で大変さがあるだろう、もっと率直に言ってしまえばよくないだろうと私自身は思います。

 

 さて、本書の中で、「重度」の子どもらの授業具体的な一週間の授業についての説明があります。

 本書の中でふれられている事例は曜日によって取り組む内容が異なる形になっています。

 なかなか一般化して言うことは難しいなと思うのですが、ザックリした言い方で言えば「乳児期前半」あるいは「乳児期前半から後半」の発達課題を持つ子どもたちについては、
私はこうした曜日により取り組む内容が異なる授業の設定よりは、一週間の中で例えば4回などの回数、基本的に同じ展開の授業を繰り返す、そして、それを相当程度、例えば3週間とか4週間とか、繰り返す形というのもある、そのメリットというのもあると思っています。

 どちらかといえば、この方がいいのではないかとも思います。

 これが乳児期後半から1歳半となると、曜日によって異なった授業を行う形でもいいと思うのですが。

 ただ、曜日ごとに授業が違っているとしても、その各曜日の授業そのものは、毎回毎回違った中味ではなく一定の定まった内容(無論、実際に授業をしながらその内容は少しずつよいと思う方へ改善していくのですが)を繰り返す形となっているのが普通でしょう。
 これは「縦に帯」状の授業の設定。一定期間、連続して同じ授業を継続していくのは「横に帯」の設定。このあたりは、子どもの実態に即して、どういう形がいいのか、検討、工夫がいると思います。

 また、授業をどういうものとして整理するかというのもなかなか難しい。

 本書では「からだ」「しぜん」「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「小学部全体音楽」という具体例が示されています。
 月から金、3時間目の授業として設定されているものです。

 こうした整理のしかたというのは各学校によりいろんな違いがあります。それは、それぞれの学校のハード面、ソフト面等の様々な教育条件によって規定されているところもありますし、また、それぞれの学校での検討、研究の経過の中で整理がされてきたところもあります。

 なので、そのような条件の違いや研究の背景の違いがある、またそれらを学習指導要領上どう位置づけるかというのにも違いがある中で、うまく噛み合った実りのある議論というのをするというのはなかなか難しいです。

 というか、私自身がうまく整理ができなかったので、研究会などでは、こうした議論は「それはちょっとおいといて」と避けていました。

 まあ、こうした授業の位置づけは異なっていても、実際の授業そのものは(少なくとも一見は)似通ったものになる場合が多いようには思うのですが。


 

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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 4

2013-03-21 22:25:20 | 特別支援教育
「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 4

 「重症心身障害児」の子どもたちとつきあってきて感じることは、以下のような本書の指摘と重なります。

 これは実は「重心」に限らないでしょう。

P120
「これらの事実が指し示すものは、人間の感情、知的活動は「だれでもが客観的に観察しうる外的活動」に限られるものではないということである。
 重症児に関わる多くの実践家が実感するように、「私たちが『分かっている』以上に、この子たちは『わかっている』のである。」

P121
「子どもの感情、知的活動を、あらかじめ行動的用語として評価基準に設定することは、自ずから限界がある。
 障害があることによって、内的欲求と外的行動の間に矛盾が生じやすく、迷い、ためらい、あきらめなど、行動生起を阻害する要因が発生する。
 常にそれと向き合っている子ども。この姿を理解することこそが、教育評価の基礎となるものだ。」

P127
「障害児教育における教育目標、教育評価を問題とする場合、何よりも大切なことは、この「伝えたいもの」の切実さである。
 授業における教育目標=「伝えたいもの」は学習指導要領においてその大綱が示されているが、
 障害児の場合は、日々の授業のねらいが学習指導要領から演繹的にみちびきだされるわけではない。
 子どもたちを目の前にして、教師たちが自らの言葉で語りきる「伝えたいもの」の切実さこそが、授業を支えるのである。」

とても重要な指摘だと思います。









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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 3

2013-03-21 19:14:21 | 特別支援教育
「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 3

 一応、通読しました。

 その上でもう一度読み返しています。

 第四章 教育目標、教育評価論
 1 重症心身障害児の教育をどうとらえるか

 ここのところは、自分自身が長く「重症心身障害児」と言われる子どもたち(言葉としてはあまり好きではないけど)と関わってきたので、感覚としてはよくわかります。

 集団指導体制への批判、教育目標の「客観化」、教育形態の個別化などについては、京都で、もう随分以前からあちこちで言われてきています。

 25年ぐらい前には「集団指導体制への批判」はもういっぱいありましたから。

 集団指導体制について。

 集団指導体制については、その批判の基本は、いわば「無責任」体制だというわけです。

 そうだろうか?。クラスの指導を教師集団でしていたら、それはその形をとることで、子どもに対する責任が拡散してしまうでしょうか。

 そんな馬鹿なことはないわけでね。

 むしろ、集団指導体制を生かすことが求められているわけです。

 個々の児童・生徒の指導について、誰が責任を持つのかということは明確にしておく必要があります。
 多くは個別の指導計画を中心になって作成する担任がそれにあたるでしょう。

 同じクラスの中でも、A君とB君はC先生が、D君とEさんはF先生が中心的な担当になるというのは普通です。

 ですが、その中心的な担当になる先生に、なにもかもまかせるような形ではなく、集団指導体制の中で、それぞれの子どもたちのの実態や課題、評価について複数の目で意見を出し合い、事実に近づくようにしていくことが適当です。

 一人の担任だけがなんでもするよりも、対等の立場で様々な意見、見方が出される方がいいに決まっていると私は経験的にも思います。

 個々の教員の経験や力量には当然、差があります。そうした場合、集団指導体制をとっている中で、特定の「できる」教員に負担が集中するような傾向になる場合があります。これが極端になると、なかなかしんどい状況が生じたりすることも現実としてあります。

 が、個々の教員のキャラクター、得意なこと、苦手なこと、様々な条件などを考慮しつつ生かし、その中でよりベターな形を追求していくことの方が、単純な「個人責任」的な役割分担よりも優れた教育実践をつくっていくことにつながると思います。

 このことは、極端に「誤った」教育実践を避けることができるというメリットもあります。

 その形は可能な様々な条件の中での具体的な「人」によって決まるので、あらかじめ、「こうするのがよい」と画一的に規定することは適当ではありません。

 逆に、あらかじめ、同じクラスの子どもたちとを指導するのに「担任」と「副担」を決めて、主たる仕事、責任は「担任」が担い、「副担」は周辺の補助的な仕事をするような役割分担は、一見、明快でわかりやすいようでいて、「担任」「副担」双方にとって教員としての幅広い経験や成長を阻害することにつながる場合があると思います。
 (同時に場合によっては集団指導体制の中でも前述したような問題点が生じることはあります)。

 とりわけ、若い教員の場合は、あまり年齢だけで云々するのもどうかというところもありますが、組織の中で細分化された特定の分野の専門的な役割を担うというよりは、幅広い仕事を(できれば、障害種別についても異なった実態の子どもたちの教育を担当することも含めて)経験してほしいと思います。

 それがその後に生きるところはかなりある。その上で、個々の教員の専門性なり興味・関心なり、志向性によって、より適切な仕事内容を担当するようにしていくのがいいと思います。







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新しいスタート

2013-03-20 19:14:42 | 特別支援教育
 ということで、今年度のお仕事は終了~。

 しばらく春休みです。あまり借りは返せませんでした・・・。

 さて、もうちょっとしたら桜の写真でも撮りに行こうかな。

 4月からまた新しいスタートです。なにができるのか、できないのか、よくわかりませんが。

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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 2

2013-03-13 20:54:55 | 特別支援教育
希望でみちびく科学
クリエーター情報なし
クリエイツかもがわ


第三章 自閉症児の教育
 全体としての主旨はよくわかります。

 私自身は自閉症の子どもらの実践に直接携わった経験が乏しく、基本的な知識も指導方法についての理解も極めて不十分なものしかないて゜す・。

 が、肢体不自由の子どもであろうが、自閉症の子どもであろうが、基本的な考え方の部分は共通しているでしょう。
 つまりは、「全体像と課題」を大きな誤りなくしっかりとらえ、それに沿った形で教育活動を展開し、教育課程を組織することが重要だということです。

 しかし、印象として、肢体不自由の子どもたちの教育よりも自閉症の子どもたちの教育の方が、その考え方や具体的内容、指導方法についての見解の違いが「先鋭化」しやすいという印象があります。

 なんでかね?。

 体調面の不安定さが状態である医療的ケア対応を含む重度重複障害の子どもたちにとって、体調の安定が様々な活動の前提になるのと同様に、自閉症の子どもたちにとっては適切な環境の整理が様々な活動の前提となる場合というのはあると思います。
 ただ、その「前提」のところでとどまっていて、そこからの課題というのがなんなのかがうまく整理できず、取り組み自体も組織化されにくいという場合がないでしょうか。
 ちょっとこのあたりは実感としてはよくわからないところ。

 本書の94ページ。
 『「社会性の学習」の名の下に、「社会性の発達」ではなく、「社会的適応行動の習得」が自閉症教育に持ちこまれている。能力主義的な生存競争が激しくなればなるほど、「社会適応」の価値は高く見積もられる。「自閉症の特性の尊重」が「社会適応」をめざすだけで、しかも急いで結果を出すことに努力が傾注されるようでは、教育実践は砂を噛むような味気ないものに変質していくだろう。」

とあります。

 著者の問題意識はよくわかります。

 ただ、本来、「社会性の発達」と「社会的適応行動の習得」は対立することではない。一方が重視されて一方がなおざりれにされるというような関係ではないはずです。

 個々の子どもにとっての現実の課題として、様々な、あるいは非常に困難な「問題行動」があり、それが日常生活の上で大きな支障がある場合、そこへの対応をまず第一の優先して対処すべき課題として考えるのは当然のこととも言えます。

 ただ、そのことのみを追求する、しかも、それが子どもらの実態をしっかりととらえ、個々の子どもに合った取り組み方が検討される以前に、特定の考え方や特定の方法論を優先して持ち込むようなことがあったとすれば、それは誤りであると言わざるを得ないし、
そのことのみで事足れりとするうようなことがあれば、それは教育の価値をわい小化してしまうことにならないかなと思います。

 自閉症の子どもらとしばらく付き合っていると、その実態や課題というのは私のような不十分な経験なり理解の不十分さがあったとしても、次第に明らかに見えてくるところがあります。

 が、私自身は「じゃあ、どうする?」という、その次の具体的な取り組みやその方法については、まともな提案がなかなかできません。
 
 なので、感じとしては、なかなかものが言いにくいなぁというところがあります。


 前回、ブログでコメントしたことを著者にメールしましたら(鳥取大学のサイトにメールアドレスがあったので)、すぐに返信をいただき、恐縮しました。
 
 また続きを書きます。


  




 
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