唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
討論?
事前に提出された主張や質疑と、それに対する官僚が書いた模範解答(のつもり)の原稿を読み上げるのは、討論ではないと思う。討論のテーマはもちろん予め設定されているわけで、参加者はそれぞれ自分が主張する意見とその根拠になるデータを用意することだろう。しかし議論が白熱すれば論点があらぬ方向に行ってしまうこともあるだろうから、そのときにはファシリテーターの手腕が問われることになる。
しかし、昨日行われた我が国の政権与党の党首と某野党党首の討論を見聞きする限り、まったく論点が噛み合っておらず、つまりは民主主義の基本であるはずの議論・討論がこの国ではまったく根付いていない(あるいはそのような資質に欠ける党首である)事を今更ながらのように広く知らしめる結果となった。これは党首討論に限ったことではなく、普段からの記者会見や○︎○委員会における質疑もまったく同じである。
例えば小学校のあるクラスにおいて同じ事が行われたとすれば、まともな学級担任であれば「○○君の今の発言は、○○君の意見ではあったとしても、△△さんの質問の答えにはなっていないよ(論点がずれている)。△△さんの質問の趣旨をよく思い出して、その質問に対する君の意見を言ってごらん」と指導するに違いない。そう云う意味では、我が国の国政レベルの議論・討論は小学校のレベルを未だに脱していないと云える。
「一億総教育評論家」と云われたのはもうふた昔以上のことだと思うけえど、郷秋<Gauche>もその評論家の一人であると自認しているので云わせてもらえば、真の教育に必要なものは、英語教育とかプログラミング教育と云った目先のテクニックではなく、自ら考え自ら主張する事ができる唯一無二の人格を育むことなのではないか。昨今の教育改革の議論を見聞きするにつけ思うのは、議論の多くがテクニックの習得についてであり、真の人間性の純化・深化についての議論に欠けているのではないかと云うことである。
そう云う意味では、今の政治を牛耳っている年寄りどもは、戦後のどさくさの中で民主主義の形だけを見てきた人達だ。1964年の東京オリンピックは、時の日本にとっては確かにエポックではあったけれど、2021年に「行われるかもしれない」オリンピックは1964年のそれとは何もかもがまったく異なるものである。過去の幻影に惑わさることなく、現実を数値化して正しく理解し、すべての国民が納得のできる言葉で説明のできる宰相であって欲しいものだが、彼にそれを期待するのは無理ということなのだな。残念。
昨今の政局の混迷ぶりを見聞きし腹に据えかね久しぶりに毒を吐いた後の今日の一枚は、我が家の庭でもようやく咲き始めた捩花(ねじばな)。
横浜の住宅地の中に残された小さな里山の四季の移ろいを毎週撮影しているblog「恩田の森Now」に、ただいまは5月29日に撮影した写真を5点掲載いたしております。初夏の装いの森の様子をご覧いただけたら嬉しいです。
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