ケシ山の急坂を下ると、道はやや緩やかな下り坂となり、両側に民家が連なります。もとは鞍馬街道沿いに家が並ぶだけであったのが、近年に宅地化が進んで谷間や丘裾にも民家が連立しています。多くは新しい建物で、古い昔ながらの建物は道に面して点在します。
同じアングルでの劇中シーンです。元々運動が苦手な平沢唯が、上賀茂深泥地区の坂道にてヘロヘロになっています。その後に落伍して行方不明になるわけですが、両側の民家の様子などがほぼ一致します。
同地点から北にはケシ山の急坂が控えているのですから、平沢唯が体力だけでなく気力も尽きかけるのは無理もありません。
上賀茂深泥地区の中心部で、道はようやく平坦になります。このあたりは古い民家も見られて、鞍馬街道の風情が僅かながらも残されています。そのためか、この景色が劇中にも登場しています。
このシーンです。山中さわ子先生の愛車、スズキのワゴンR(二代目)が走り抜けてゆく場面です。路上のマンホール、側溝の網蓋も忠実に再現されています。
西側の丘裾の段上に深泥貴船神社が鎮座します。周知のように鞍馬街道は貴船神社への参詣路でしたから、貴船神社の分社がまつられて参詣の目印になっています。
さらに南に行くと、西側に深泥地蔵堂があります。街道筋の惣堂として付近住民の信仰を集めたとされる地蔵菩薩像をおまつりしています。江戸期までは、惣堂というのは大体は村の集会所としても機能していましたから、現在も同地区の公民館がお堂の背後にあります。
地蔵堂です。
境内にある石仏です。風化磨滅で形姿がはっきりしませんが、弥勒菩薩であるようです。以前は他にも石仏数体があったそうですが、盗まれたりして行方が分からなくなったそうです。
扁額によれば、深泥を「みどろ」と読むのは間違いで、正しくは「みぞろ」であることが分かります。中世期の日本語で「みぞろ」は「山の中の谷に流れてくる水流が溜まる」という意味ですが、東に広がる深泥ケ池がまさにその通りの「みぞろ」の地であります。
正面扉の小窓から内陣の地蔵菩薩像を拝みました。明治期に移坐されたもので、由来や製作年代等はよく分かっていません。一見したところ、南北朝期の作のようにみえます。
さらに南下して、俗に「深泥分かれ」と呼ばれる、府道40号線と103号線との結節店の交差点に続くカーブ地点に着きました。この景色が劇中に登場します。
このシーンですね。秋山澪が民家前にたたずんでいます。景色の再現度の高さは相変わらずです。
同地点で、少し民家に寄って北側の道を見た景色です。
これも劇中に出ています。既に相当の距離を走ってきたにもかかわらず、息切れどころか余裕の表情をみせる秋山澪です。ヘロヘロになってしまう平沢唯と違って、体力も気力も充分に備えていることが分かります。 (続く)