気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

けいおん!の聖地をゆく8 その10 糺の森から祇園四条へ

2017年06月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 叡山電車の出町柳駅を出て、高野川に架かる河合橋を渡りました。南には、劇中オープニングでもおなじみの鴨川デルタの飛び石が見えました。相変わらず観光客で賑わっていました。


 この日のけいおん聖地巡礼は完了しましたが、まだ時間があったので、久しぶりに下鴨神社に参拝しようと思い立ち、河合橋の西から北に折れて糺の森へと進みました。


 参道筋に、最近に復元工事が成ったばかりの「秀穂舎」が公開されていたので、立ち寄って見学しました。「秀穂舎」は「しゅうすいしゃ」と読みます。
 下鴨神社の運営主体である鴨の氏人組織の後継者養成機関に「鴨社公文所・学問所」があり、その一つの役職として「鴨社画工司」がありました。いわゆる神社専属の絵師であり、平安時代以来の歴史と伝統を持っています。
 「秀穂舎」は、その「鴨社画工司」を担った氏人の浅田氏の屋敷を修理復元したもので、現存する唯一の下鴨神社社家建築遺構として貴重な存在です。その復元は第34回式年遷宮事業の一環として行われ、春秋には「鴨社資料館」として一般公開されます。

 こうした主要神社の社家建築というのは、京都でも現存例が稀になっており、奈良でも春日大社の社家建築遺構が一軒のみかろうじて残存、これを修理保存のうえ歴史資料として活用しようとする動きが始まったばかりです。神社に代々仕える職能集団の屋敷であるので、建物内には神棚がまつられ、担当職に応じた専用の部屋が設けられており、通常の屋敷とは造りが異なっています。それを一般公開している事例は、京都ではここだけなので、一見の価値があります。


 続いて下鴨神社の摂末社のひとつ河合神社に行き、境内に復元展示されている鴨長明の方丈を見ました。日本三大随筆である「方丈記」はこうした方丈にて書かれたためにこの名があります。

 一見して、組み立て式の簡易な小屋、といった風情ですが、平安時代から鎌倉時代にかけての典型的な民家というのはこの程度以下でした。古代以来の掘立小屋を改良し、すぐに解体出来る移動可能な小屋に変更していたわけですが、簡易組み立て式であるだけに耐久性はまるでなく、自然災害には弱かったそうです。
 戦国時代末期に再び柱を地面に固定する頑丈な民家建築が普及するまでは、こうした建物に日本人の大半が住んでいたわけですが、そのために中世期までの都市というのは街区がこぢんまりとしていて、建物自体が幾らでも移動出来るために痕跡が錯綜し、発掘調査で街区を検出してもまとまった町の景観が想定しづらかったりするケースが多いです。

 平安時代や鎌倉時代の絵巻物などに描かれた建物を見ますと、社寺建築や公家や武家の屋敷は例外として、大多数の民家はみんな粗末な小屋の姿で表現されています。台風でも来たら吹き飛ばされそうな、火事が発生すれば瞬時に焼け落ちてしまいそうな、頼りない姿です。現代風にいえば簡易プレハブであり、律令制度以来の規則にのっとって標準的な面積を一丈(約三メ-トル)四方としたために「方丈」と呼ばれます。この「方丈」を基本単位として連結することで建物の大型化をはかり、屋敷として整備する形です。

 なので、こういう復元展示を見ることで、日本の古代中世の一般的な住居のありようがよく理解出来ます。現在でも日本人の住まいは狭いと言われますが、昔はもっと狭かったのです。


 河合神社に参拝しました。祭神が女性の守護神である玉依姫命なので、古くから女性の美の神様として信仰されており、安産・育児・縁結び・学業・長寿の神様ともされます。模型サークルにて交流のあるモケジョさん達も、時々参拝しているそうです。そのうちの誰かが、境内にある鴨長明の方丈をペーパークラフトで作っていましたね・・・。

 鴨長明は、この河合神社の神職の家系に生まれましたが、兄弟眷属が多かったために神社の要職に就けませんでした。後に後鳥羽院から河合神社の禰宜に推挙されますが、一族筆頭の賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼の反対により叶わず、世を嘆いて出家し、隠遁生活に入りました。
 が、鴨長明の和歌の才を惜しんだ飛鳥井雅経の推挙により、鎌倉幕府三代将軍源実朝の和歌の師として鎌倉へ下向し、日本最初の武家政権における京文化の普及に努めました。「方丈記」を著したのは、鎌倉下向の翌年に京都へ戻ってからのことでした。


 下鴨神社、正式名称は賀茂御祖神社です。世界文化遺産に登録されているため、外国人観光客の姿も多く見かけました。


 参拝は、十年振りぐらいでした。幣殿前の言社に向かい、自身の干支の午の一言社顕国魂神にお参りしました。顕国魂神は「うつしくにたまのかみ」と読みます。社殿は国の重要文化財に指定されています。

 一言社に限らず、下鴨神社の建物の多くは文化財指定を受けており、本殿のうちの2棟は国宝、付属建築の31棟が重要文化財であるほか、さらに17棟が重要文化財の附(つけたり)指定を受けます。附というのは、追加指定によって範囲が広がった部分を指しますので、文化財としての重要性は重要文化財と同格です。


 参拝を終えて河合橋まで戻り、高野川と賀茂川の合流点を眺めました。


 京阪電車の出町柳駅から祇園四条駅に移動しました。


 祇園四条駅を出る際にみるお馴染みの建物、南座です。


 この日は模型サークルの定期会合があるので、それまで八坂神社界隈をぶらついて過ごしました。


 西楼門前のコンビニで買い物をしていると携帯電話が鳴り、模型サークルの当番幹事F氏の声が響いてきました。
「今日の会合は川床でやるか、って決まったんやけど星野さんはどう?」
「ええですねえ、賛成です」
「今どこに居るん?」
「八坂の西門前ですが」
「そうか。とりあえず6時から「佐曽羅」でやるんで」
「先斗町の古民家バーでしたね」
「そう」


 まだ一時間余りの余裕があったので、四条通を西へ散歩していると、後ろから肩をつつかれました。振り向くと、模型サークルの先輩N氏の笑顔がありました。「ジョナサン」のあだ名で親しまれる、トラックマニアの方です。ミリタリートラックのプラモデルも数多く作っておられます。

「今日は「佐曽羅」やってよ」
「ええ、さっきFさんから連絡ありまして」
「まだ時間あんねんから、プラモ見に行こう」
 ということで、いつもの模型店「B's Hobby京都店」に行きました。その際に、N氏にガルパン戦車プラモデルに関する重大な知見を教わったのですが、それに関しては改めての機会に述べます。

 以上で、「けいおん!の聖地をゆく8」のレポートを終わります。

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