(②からの続き)
2007年に、ミャンマーで大規模な民主化デモが起きた時、取材を行っていた日本人カメラマンが、デモの鎮圧に巻き込まれて命を落とす、という事件が発生した。
それを報じたある新聞は、「最悪の事態が起きてしまった」と書いていた。
悲惨な事件ではある。しかし、なぜ「最悪」なのか。
これ以前に、既にミャンマー人が何人も死んでいた。事件当日も、もっと多くの人が死ぬことだってありえた。
もっと悲惨な事態は起こりえたのに、なぜこれが「最悪」なのか。ミャンマー人は何人死んでも最悪とはならないが、日本人が一人でも死ねば最悪になるということか。
「この文脈での最悪とは、悲劇を強調するために用いているだけで、言葉通りの意味ではないのだ」
そんな説明も成り立つかも知れない。
だが、マスコミが言葉をそのように運用するというのは、「私達は、言葉を正しく使おうとはしていません。私達の言葉は、信用ならない言葉です」と、自ら宣言しているようなものである。
これをこのまま放置しておけば、マスコミに対する国民の信頼は、少しずつ失われ、誰もその言葉に耳を貸さなくなるだろう。
これは、「マスゴミ」という罵倒語を用いて、溜飲を下げることだけを目的として行われる、安易なマスコミ批判ではない。
「このままでは、そういう存在に成り下がってしまいますよ」という呼びかけである。
しかし、ここで「言葉を道具としてきちんと使いこなさねば」と思うのは間違いである。言葉は、道具ではない。
では、言葉とはなんなのか。言葉をめぐる物語から説き起こしてみよう。
デカルトは、自身の思索の出発点となる、確かな足がかりを探していた。思索を出発させるには、起点が必要だ。確かなものを、起点に据えなければならない。
何が確固としたものと言えるか、それを確認するために、デカルトは、ありとあらゆるものを疑ってかかった。目に見えるすべての事物、親しい友人知人や自分自身、果ては神の存在まで。
「これは、確かに“ある”と言えるのか」と。
結局、明確に「ある」と断言できるものはなかった。疑おうと思えば、どんなものでも疑うことができた。
しかし、デカルトは気付く。今、自分はありとあらゆるものを疑っている。この「疑う」という思考の働き、これ自体は疑いようがない。確かに、今、思考は行われている。この思考は、明確に存在する。
「我思う、ゆえに我あり」
ルネ・デカルトは、思索の足がかりを得た。哲学者として出発することができたのだ。
しかし、この余りにも有名なデカルトのアフォリズムは、のちにルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによって、完全に退けられることになる。なぜか。
デカルトは、「我思う」を始点にした。だが、「私は思っている」という事実が成り立つためには、「私は思っている」という言葉が不可欠である。「私は思っている」という言葉なしに、「私は思っている」という事実を立証することはできない。
ここでいう言葉とは、話し言葉でも、心の中のつぶやきでも、文字であっても同じことだ。我々は、言葉なしに思考することはできない。
だから、デカルトは「私が思っている」状態が一番最初にあると考えていたけれども、実際にはその前に、「私は思っている」という言葉があったのだ。
さらに言えば、「私は思っている」という言葉が成り立つためには、「私」「は」「思って」「いる」という、ひとつひとつの単語を前提とするし、その単語が成り立つには、それら単語を含む言語体系を前提としなくてはならない。また、その言語体系を成り立たせるには、それを共通語とする、少なくとも二人以上の話者が必要である。
畢竟、「私は思っている」という状態が成り立つには、これだけ多くのものを前提とせざるを得ないわけだ。
ウィトゲンシュタインに倣って言い直せば、
「言葉あり、ゆえに我思う」
となるだろう。
(④に続く)
オススメ関連本・土屋賢二『ツチヤ教授の哲学講義――哲学で何がわかるか?』文春文庫
2007年に、ミャンマーで大規模な民主化デモが起きた時、取材を行っていた日本人カメラマンが、デモの鎮圧に巻き込まれて命を落とす、という事件が発生した。
それを報じたある新聞は、「最悪の事態が起きてしまった」と書いていた。
悲惨な事件ではある。しかし、なぜ「最悪」なのか。
これ以前に、既にミャンマー人が何人も死んでいた。事件当日も、もっと多くの人が死ぬことだってありえた。
もっと悲惨な事態は起こりえたのに、なぜこれが「最悪」なのか。ミャンマー人は何人死んでも最悪とはならないが、日本人が一人でも死ねば最悪になるということか。
「この文脈での最悪とは、悲劇を強調するために用いているだけで、言葉通りの意味ではないのだ」
そんな説明も成り立つかも知れない。
だが、マスコミが言葉をそのように運用するというのは、「私達は、言葉を正しく使おうとはしていません。私達の言葉は、信用ならない言葉です」と、自ら宣言しているようなものである。
これをこのまま放置しておけば、マスコミに対する国民の信頼は、少しずつ失われ、誰もその言葉に耳を貸さなくなるだろう。
これは、「マスゴミ」という罵倒語を用いて、溜飲を下げることだけを目的として行われる、安易なマスコミ批判ではない。
「このままでは、そういう存在に成り下がってしまいますよ」という呼びかけである。
しかし、ここで「言葉を道具としてきちんと使いこなさねば」と思うのは間違いである。言葉は、道具ではない。
では、言葉とはなんなのか。言葉をめぐる物語から説き起こしてみよう。
デカルトは、自身の思索の出発点となる、確かな足がかりを探していた。思索を出発させるには、起点が必要だ。確かなものを、起点に据えなければならない。
何が確固としたものと言えるか、それを確認するために、デカルトは、ありとあらゆるものを疑ってかかった。目に見えるすべての事物、親しい友人知人や自分自身、果ては神の存在まで。
「これは、確かに“ある”と言えるのか」と。
結局、明確に「ある」と断言できるものはなかった。疑おうと思えば、どんなものでも疑うことができた。
しかし、デカルトは気付く。今、自分はありとあらゆるものを疑っている。この「疑う」という思考の働き、これ自体は疑いようがない。確かに、今、思考は行われている。この思考は、明確に存在する。
「我思う、ゆえに我あり」
ルネ・デカルトは、思索の足がかりを得た。哲学者として出発することができたのだ。
しかし、この余りにも有名なデカルトのアフォリズムは、のちにルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによって、完全に退けられることになる。なぜか。
デカルトは、「我思う」を始点にした。だが、「私は思っている」という事実が成り立つためには、「私は思っている」という言葉が不可欠である。「私は思っている」という言葉なしに、「私は思っている」という事実を立証することはできない。
ここでいう言葉とは、話し言葉でも、心の中のつぶやきでも、文字であっても同じことだ。我々は、言葉なしに思考することはできない。
だから、デカルトは「私が思っている」状態が一番最初にあると考えていたけれども、実際にはその前に、「私は思っている」という言葉があったのだ。
さらに言えば、「私は思っている」という言葉が成り立つためには、「私」「は」「思って」「いる」という、ひとつひとつの単語を前提とするし、その単語が成り立つには、それら単語を含む言語体系を前提としなくてはならない。また、その言語体系を成り立たせるには、それを共通語とする、少なくとも二人以上の話者が必要である。
畢竟、「私は思っている」という状態が成り立つには、これだけ多くのものを前提とせざるを得ないわけだ。
ウィトゲンシュタインに倣って言い直せば、
「言葉あり、ゆえに我思う」
となるだろう。
(④に続く)
オススメ関連本・土屋賢二『ツチヤ教授の哲学講義――哲学で何がわかるか?』文春文庫